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文・絵・題字 宇野マサシ

1948年、豊田市宮口町生まれ。松坂屋、そごう、三越等の各地の百貨店で個展。現代画廊(洲之内徹)、東京梅田画廊(土井弘二)、羽黒洞(木村東介)、アート紀元(伊藤幸和)で個展を続ける。東京都江戸川区在住、日本の下町を描く画家として知られる。

彼女に降る慈雨 130      2018.10.19

13.少年 マコト君.psd 妻の自伝本『なくした「手」を探して』がいよいよ出来上がってきた。そしてその出版記念展が十月二十九日から、銀座のギャラリーセンタービル六階の、洋画商協同組合が持っている全フロアーを使って開催される。

 この本の帯を、妻の出身高校の後輩で脚本家の井上由美子が書いている。そのお礼に「花」の一字を書いて額装し、共催画廊のアート紀元から送ってもらったところ、その礼状が井上さんからFAXで届いた。

 当日の会場当番には沢山の人手が要るので、そちらの手配や案内状の配達、贈呈本のリスト作りとその発送など、ともかく後から後から作業は続く。まだ夏の疲れの残る体をはげましながら、妻は「疲れた。疲れた。」を連発し、それでも夜中には起きだして一つ一つ仕事をこなしている。やはり、本の出版という事業は体力が必要だと痛感する。展覧会をこなすこととは別な気使いがいるのだとつくづく思う。

 ましてや今年は、秋の入口にも暑さがぶり返したようで、すっきりとした秋のさわやかさが続かないのだ。

 出版社のオーナーの言うところによれば、この本が彼の最後の本作りになるということである。彼はハンセン病文学全集の刊行という、尊敬できる出版をし、種々の珍しい本を作った。そしてその最後に『なくした「手」を探して』という、妻の本を出版してくれるのだ。僕たちにとっては貴重な有難い人である。このところ手術をしたり病気を抱えていたり、という事情を僕たちは知っているので、なおさらに今回のことは僕たちの人生の中の慈雨のような出来事なのである。

 そして、それを記念した大々的な展覧会が関西大手の梅田画廊の計らいによって広い会場で開催されることは、共催画廊のアート紀元の伊藤幸和によれば「延子さんの最後の大展覧会になるね。きっと。」ということである。であれば、七十六歳にま近い小畑延子、妻の最後の花道といって良い、かもしれない。

 その為の大きな作品を色々な所蔵者から借り受けもするが、伊藤幸和の「是非新しい作品を用意して!」という意向で、延子は懸命にモチーフを考え作品を書いた。轍(わだち)などという言葉をどこで思いついたのかは分からないが、その作品をふくめて新しい大作の表具代だけでも馬鹿にならない金額を、伊藤幸和は負担する。そのこともふくめて、小幡延子に降ってきた慈雨なのだ。
 絵・「少年 マコト君」19×10・5㎝ 紙 (2013年)

本の出版と展覧会 129      2018.10.05

12.夕焼け.psd  一雨降って雲一つない青空が広がった。そしてもう涼しいというより風が吹くと寒いほどだ。暑かった陽射しがもう心地良い。木々の緑はいよいよ深くなり紅葉をしのばせる。ヒガン花があちこちで赤く咲き、そして金木犀の香りが風に乗ってくる。一気に秋の気配の中に季節は突入した。

 妻の本「なくした『手』を探して」の出版準備が終わり、発刊日は十月二十九日と決まったが、もちろん本はその前に出来上がってくる。

 贈呈本のリストやら中に入れるしおりの準備に、妻は忙しい。そして本の出版記念展の為の妻の書作品を、あちこちの所蔵企業や所蔵家から借り受ける交渉を画廊の人たちがしていて、それはそれでなかなか大変な作業になっている。

 それらの費用については妻の個展を共催する京橋の画廊「アート・紀元」と「梅田画廊」の画廊主が持つ。それはそれで大変なことなので、出来る限り作品を販売して迷惑をかけないようにと、そちらにも妻も僕も頭を使うのだが、せちがらい昨今の経済事情ではなかなか思うにまかせぬ。ある意味出たとこ勝負のギャンブルのようだ。

 そして又出来上がってくる本もどれだけ販売部数が上がるのか、見通しは明るくない。それも又ギャンブルで、ただ本が出版されるから喜ばしい、などとは言っていられないのである。

 あちこちの人の好意を頼んで本の出版もその記念展も成される。

 といっても、このところ幾年か一生懸命に書き溜めてきた妻の作業を僕は傍らで見てきたので、その成果が実現されるのは共に嬉しい。そしてその成果を手助けしてくれる出版社にも、画廊の人にも感謝の念で頭を下げるばかりである。もちろんそれだけではなく、その展覧会は来年神戸でも愛知県豊田市の画廊でも開かれる予定なので、そちら方々、又協力をしてくださる幾多の方々にも心から感謝するばかりだ。

 僕たちの生活、つまり絵描きの僕と書道家の妻の生活は、常にそうした展覧会や本の出版、あるいは画集の出版となって続いて生きている。妻に言わせれば、人間関係を大切にすること、そのことを忘れては成り立たないのだといつも言う。それは五歳で両手を失った彼女の人生訓、人間観であると僕は思う。わがままな生き様の僕には耳の痛い認識であるが、それはきっと正しい。
 絵・「屋根の上の鳥」26×18・9㎝ 板 (2011年)

移りゆく時間 128      2018.09.28

11.屋根の上の鳥.psd 今年の夏はとにかく暑かった。午前二時からの朝歩きも下着から半ズボンまでぐっしょりと汗をかき、家にたどり着いてすぐにシャワーを浴びなければとても立っていられない。髪の毛をシャンプーして机に座っても又次から次に汗はふき出してきた。

 洗濯物は次から次に留り、妻は毎日忙しく下着を干すのが日課だった。僕は絵を描きに出掛けてもなかなか制作にむすびつかない。この暑さが止むまでは仕方がない、などと自分に言い訳をしては公園の陽陰で休んだ。幸い描き溜まった絵は沢山あり、、画廊から以前の絵が返ってきたりして、個展のための作品は充分ある。制作の焦りはなかったが、やはり新作の進み具合は気になって、キャンバスを張り次の準備だけはおこたりなくしておく。そんな作業が続いたが、さていつから制作を始めなければならないか。暑さとのかねあいをしきりに計算した。

 とりあえずは十二月のグループ展に新作を出品したい。となるとその二ヶ月前には制作を開始しなければ間に合わず、タイミングを計って描き出すのにそのモチーフを決めておかなければ、と場所の選定の為に走り廻る。そんな毎日が二日、三日、四日と重なって胸算用だけは続けられた。

 描き出すタイミングは、暑さの止む目途の立ったその時、と僕は自分の中で決めていた。妻は「いつ絵を描き出すの?」と心配をし、僕はそんな言葉にも神経質になった。

 雨が降った。公園の木々の緑も深くなり、落ち葉が舞う。蝉の鳴き声もまばらになって、空の青さも幾分高さを増した。汗も流れるのが少なくなって、風の冷たさが心地良い。そんな日が一日、二日と続くようになると、やっと気持ちの張りが引きしめられはじめる。

 もう暑さが戻らないよう祈るような気持で自転車を走らせ、距離を伸ばして浅草当たりまで出掛けて様子を見る。次の日は北千住あたりまで走って風景を探す。昔よく歩いた町並を通り、そこに住んでいた人の家にたどり着くが、すっかり景色は変わっていて面影はない。北千住は見知らぬ町になっている。

 千住大橋を渡って南千住、山谷に廻っても以前の風景はもう無い。もちろん店もなく探す人ももう居ない。時代が移ったのだ、としみじみ考えながら帰路をたどる。

 新しいキャンバスに描くべき風景は、はっきりと時代と時間を刻んで印されなければならない、と思う。

「夕焼け」25×19㎝ 紙 (1992年)

時計と約束 127      2018.09.07

10.西新井大師.psd 僕の中に腕時計に対する執着があるのは、中学生になったばかりの時、兄にはじめて買ってもらったオリエントの時計を、余りに嬉しすぎて無くしてしまったことにあるのではないかと思う。

 兄はすぐ代わりにシチズンの腕時計を送ってくれ、それはずっと大切にしていた。それから僕はインターナショナルやらオメガやらを手にしたが、それらは次々に質屋行きになった。

 今の生活に、とりわけ朝歩きに必要なのが時計だ。山谷のとある店で見つけ、貧しい家計の中から三千五百円で中国製の時計を買ったが、必需品である。

 そんな折も折、僕は妻が書き進めている本の打合せに訪れる出版社のオーナーと食事をしていた。彼の腕時計を見て僕はぶしつけに「それいただけませんか?」とねだってしまった。彼はためらわずに腕から外すと「どうぞ」と、僕の前に差し出した。唐突な申し出にもかかわらず目の前に置かれた時計を、僕はさっと引き取った。ドイツ製の立派なもので、獲物を手にした時の獣のような気持で僕はそれを手にした。

 そんな言葉を発した自分にも驚き、ためらわずに差し出した彼にも僕は内心驚いた。だがこれも又一つの運命なのだ、と僕は勝手に考えた。物にも運命はある。こんな手に入れ方をしたこの時計を、僕は大切にしなければいけない。僕はそう心に誓って、朝歩き以外の時はこの時計を腕にはめて出る。そうしてあらためて、僕の腕時計への偏執を考え思ってみるのだ。

 そうだ、あれは兄からの贈り物の時計から始まったのだ、と。

 もちろん時計の必要性は時間、そして日、月、曜日を知ることにある。何月何日の何曜日に僕はどこで何をしているか、そのことの確かめを時計でする。それは又、人との約束などにも使われて、人はその約束を果たす。しいて言えば、生きていることを確認する一手段でもある。人は誰でもその約束に遅れたり、約束を破ったことの一つ二つの記憶はあるだろう。ついうっかり失念したり忘れてしまって、悔いの残る思い出が僕にもある。

 一度ある美術雑誌の対談で、劇作家の唐十郎を半日待たせてしまったことがあった。連絡ミスだったのかあるいは約束を忘れていたのかもう今では思い出せない。気付いて僕は青くなり、慌ててかけつけると唐十郎はやさしく笑っていた。苦い思い出の一つだ。

 絵・「西新井大師」22×18・5㎝ 紙 (1991年)

苦闘 126      2018.08.31

9.ゲートボール(江北の公園).psd 今年の夏はとにもかくにも暑かった。ゆで上がるような日曜日、いつものことで朝僕と妻は行きつけのスーパーに、一週間分の食料の買い付けに出かけた。

 スーパーに着く寸前のことだった。自転車の後輪が音を立ててパンクした。僕の自転車は後に絵の道具を積んでいるのでとても重たい。だから後輪のいたみがともかく激しいのだ。こうなるとその日は買い物どころではなく、パンクを直すことが先ず大切なことで、近くの自転車店まで押していった。日曜なので自転車店は休業だったし、どうやらその店の人は皆出掛けているらしい。

 さて、と考えて又そこから十五分ほどの次の自転車店まで引いていったが、その店は工事中のようで店そのものが無かった。僕は少し途方にくれた。そこから考えられる自転車店は2㎞以上はある。仕方がない。オリンピックという大型スーパーの店内にある次の自転車店まで、汗が玉のようにふき出すのを我慢して、長い時間をかけてそこまでゆくと、まだ開店まで三十分以上時間があった。

 やっと店の人がきて後輪を見てもらうと、「これは、うちでは無理ですね」という。「直すことのできる店はどこですか?」とたずねると、「亀戸の駅の向こうの京葉道路に大きな自転車店がありますよ」という。僕は気が遠くなった。そこまでの距離はかなりではなくずっと遠い。しかし考えている余裕はない。そこまで行くしか修理の方法はない。僕は又自転車を押して歩き出した。

 今から考え思い出しても、そこまでの道のりはうんざりを通り越すほどの道程だった。途中、タイヤのチューブが飛び出して後輪の軸にからみつき自転車は動かなくなった。汗が目に入るのを我慢してナイフでチューブを切り刻み、タイヤの皮だけになった車体を押して亀戸の駅を越えると町は夏祭りの最中だった。その人たちをつかまえて自転車店の場所を聞くと、駅をはさんで反対の方角にあるという。

 僕は又必死で自転車を引きずった。

 苦戦の果てに、自転車店にたどりつくとそこは大きな自転車専門の店で、いとも安々と修理はされたが修理代が五千五百円ということだった。僕のサイフの中には五千円札が一枚きりで、家まで残金を取りにゆくことになった。

 日曜日のスーパーの買い出しがそうしてその日は出来なかった。冷蔵庫は空のままその週は過ぎたのだ。 

 絵・「ゲートボール(江北の公園)」SMボード (1988年)

さようなら辻孝彦 125      2018.08.03

8.白シャツ.psd 辻孝彦が五十二才で逝った。彼が五十二才だったことを僕は葬儀に出席してはじめて知った。彼はまだ若かったのだ。

 劇団唐組のユニークで怪優だった彼は、素顔はとても真面目で心優しい、本当に愛すべき人柄だった。劇団の幹部だった人たちが一人二人と消えて、久保井研をはじめとして残った数少ない古参だった。

 劇中でのその怪優ぶりは誰の目にもユニークで、彼が登場するとあちこちから〝辻!!〟と声がかかった。彼の登場は観客の楽しみの一つで、おどろおどろしい役を見事に演じてあますところがなかった。葬儀の場でこれほどの人が彼の死をいたむのか、と驚くほどにたくさんの会葬者であふれ、僕はビックリした。演劇の世界で名だたる人がたくさんの花輪を出し、そして集まっていた。これほど彼は演劇会で知られていたのか、と僕はあらためて認識をした。彼は素顔では決して自分を誇示する人ではなかった。地味な目立たない性格で、主宰者の唐十郎の運転手を黙々としていた。

 葬儀の式場は浜町二丁目の浜町メモリアルで、僕と妻は平井から電車に乗って錦糸町までゆき、そこから築地行きのバスで浜町二丁目までいった。隅田川を渡ってすぐのバス停でおり、歩いて二、三分のところに浜町メモリアルはあった。二階で受付をし式場は三階でとり行われた。仏式の葬儀で親族席の中央に彼の父親とおぼしき八十代の人がいた。その顔は辻孝彦にソックリで品の良い老人だった。その横に彼の姉とその子供たちが座っていた。

 供養の宴で僕たちはビールを飲み寿司をつまんで帰ろうとすると、会葬者は延々と一階の階段まで続いて、その会葬者の多さに驚かされた。いわゆる有名な俳優たちがあちこちに散見された。きっと辻孝彦自身が驚いただろうほどの会葬者の数だった。僕はあらためて演劇の世界の特殊性を知らされた気がした。劇団唐組の辻孝彦が、人々の間でよく知られた存在であったことを目の当たりにして僕は嬉しかった。そしてあらためで残念だった。本当に彼はまだ若かったのだ。

 僕が出席したのは通夜の席で本葬儀にはゆかなかった。本葬儀ではもっと沢山の人たちが集ったにちがいない。劇団の主宰者唐十郎の姿は見えなかった。本葬儀に来たのかどうか、辻の思い出の写真が沢山飾られた中に、病気見舞いに訪れた唐と辻孝彦の仲の良い写真が数枚置かれていた。

 絵・「白シャツ」22.5×13㎝ 板 (1996年)

雨雨降れ降れ 124      2018.07.20

7.赤い服.psd 痛いほどの暑さである。例年にない早い梅雨明けとともに、このすごい太陽の熱に身も心も焼けそうだ。ましてや梅雨の時期なのにさして雨が降った気がしないので、今年の東京の水源も気にかかる。水不足という不安が頭を横切る。どこかでタップリと雨が降ってくれないと、何年かぶりの水制限になるのではないかと心配になる。そんなことだから妻もつい水を使うのにうるさくなる。

 先日も水談義になった。昔、中国に旅行した際かの国の水は質が悪く、同行の人たちがウィスキーの水割りを飲んだらたちまち下痢になったという話をした。日本のように水道の水がまともに飲めるのは有難いことなのだという。

 それにしても人間の生活はあやういもので、雨が降らないだけでたちまちパニックになる。雨が多すぎて水害になるのは困りものだけれど、雨が少なくて「八大龍王雨降らせ給え」と天に向かって祈り、なげくのも又切ないことだ。今日の空は真青く晴れて雲一片もなく、それはそれで心地良い。けれどそういう日ばかりが続いて水不足となれば、良い天気だから良い日だと喜んでばかりはいられない。

 そうした折、空は一転たちまちかきくもって、どうやら台風が近づいているらしい。東京よりも水源のあたりに幾日か雨が降る予想だ。テレビにうつされた幾つかの水源はそれでもまだ水はたっぷりとあって、さらに台風によって雨がもたらされるとなると、どうやら今年の水不足は解消されるかもしれない。やれやれと、雨量の少なかった梅雨のかわりに、ここ数日は続く雨や曇りの予報が胸のうれいを解いてゆく。

 曇り日だから割合涼しく、一日だけつけたクーラーもしばらくは使わなくて済む。僕の仕事も室内でできるように用意はしてあるので、かえって雨が続いてくれる方が有難い。

 昨日久しぶりに舞踏家の仙葉由季から電話がかかってきた。又新大久保近く戸山公園の野外劇場で公演をするから来ないか、と言う誘いだ。先だっての無言の予定のない舞踏とは違って、今回はセリフのある筋のある芝居だよ、という。もちろん彼女のそうした活動は僕たち夫婦の楽しみだから必ずゆく、と返事をした。何やかやといって彼女は積極的に生きていて、僕はもう一度彼女を描いてみたくなった。機会を見つけてもう一度彼女の現在を描きたい気持ちがわいてきたが、さて実現するかどうか。彼女の公演を見て頼んでみよう、そんなことを考えている。

「赤い服」18×14㎝ 板 (2014年)

公園の住人たち 123      2018.07.06

6.立花風景.psd
  蛇と雀の出来事に遭遇して以来、今まで何気なく通り過ぎていた道が変わった。何処かで蛇に出会うのではないか、と亀戸中央公園の薄明かりのその道が魔物的空間となって感じられるようになった。

 いつも何事も思わないまま、時として男女のカップルの抱擁姿に驚くくらいの自然な闇が、恐怖心のふくまれた魔的なものに変化した。人間の、というより僕の気持の小ささはそんなものだ。小さな心に芽生えた恐怖心がいつもの自然な心に戻るまでに数日が要る。僕はその道の空間にくると、ことさらにゆっくり異物のないことを確かめて歩き、いつもの空間感を取り戻すように闇の空気を吸った。というのは、僕の午前二時からの朝歩きはその場所がいわばラストコースの一歩手前で、そこを過ぎて次のベンチに座ればその日の朝歩きは終わった気がするのである。亀戸中央公園はそこで終わるのである。後は平井の町の夜の店々や交番などを通り過ぎ、僕は自分の部屋に戻るのである。

 ところで亀戸中央公園にはいつもベンチで寝ているいわばホームレスが三人居て、三人は一つところの三脚の長椅子に別々に寝ている。以前はもう一つ別の場所にもう一人居たが、いつのまにかその人の姿は消えて今現在は三人である。

 この三人が昼間はどうしているのかということが気になって、明るくなった頃に自転車でその場所を見に行ったことがある。まだ暗さの少し残る時刻だったが、嘘のように見事に三つの姿はかき消えていた。跡形も全くないのである。夜の闇とともに消えてなくなった如くだった。それでいて毎夜午前三時の一ヶ所のベンチには、決まって三人は各自の場所をあたかも指定席のように塒にしているのである。だから僕は彼らがどんな顔をしているのか毎夜毎夜会いながらも知らない。昼間外で見かけたり出会っていたとしても、僕には三人の顔は分からないのである。

 別の場所のベンチにいつも寝ていたもう一人のほうは、今年の冬までは居て僕は顔を見たことがあった。僕が通りかかる時刻に時々起きていて、タバコを喫ったり近くのコンビニに何かを買いにゆくのを見かけることがあったからである。

 その人は長身でなかなか風格のある顔つきをしていた。もちろん声をかけるなどといったことはなかったが、知らぬ間に消えて今何処でどうしているのか、時として気にかかるのだ。

 絵・「立花風景」18×14㎝ 板 (2013年)

梅雨の日の光景 122       2018.06.29

6.5白い猫.psd 小さな蛇が雀を頭から呑みこんでいた。午前三時の暗い公園の路上での出来事だった。薄明かりの街灯の下で、僕は足をふと止めた。初めは何が起きているのか分からず通り過ぎようとした。暗い朝歩きではその分眼を凝らして歩く。その眼にいつもとは違う何かが感じられたのである。

 蛇を見かけることなど子供の頃以来数十年ない。東京に来て五十年になるけれど、路上で蛇を見たことなど一度もない。幼い頃の体験から、今でも草むらを歩く時などは本能的に蛇の存在を気にする。それは何とない小さな恐怖感である。幼い頃僕の育った田舎では、夏など道をさえぎるように大きな青大将が長々と横たわっていた。あるいは天井から青大将がぶら下がりギョッとした。それはもう六十年も昔のことだ。

 その蛇は三十㎝にも足るか足らない小さな蛇だった。それが雀を頭から呑みこむ様は、果たして最後まで呑みこむことができるのか疑わしいほどだったが、蛇は果敢に挑戦していた。雨もようだったので僕は傘を持っていて、その傘の先ですこしその蛇をつついてみた。雀を呑みこむのに夢中の蛇は何の反応もしなかった。僕は通り過ぎ、近くのベンチに腰をかけてしばらく闇を見ていた。信じられない気がした光景を反芻しながら、そしてもう一度僕はその光景を見る為に戻った。蛇は動きもせずに雀の頭にくらいついていた。

 それから二日ほどして僕はふたたびその場所に出掛けていった。その間雨で朝歩きを休んでいたが、どうしてもその後のことが気にかかり様子を見てみたかったのである。空は梅雨の雲でおおわれてどんよりとし、肌寒い一日だった。昼食を終え自転車で訪れると、公園では土曜日の小学生の少年野球の自転車で一杯だった。あちこちと草むらを探してみても小さな蛇の姿はどこにもなかった。あの夜のことが夢の中の出来事のようにも思われたが、まだ僕の眼の奥にはあの姿がありありと焼き残っていた。それは生涯の内でもザラにある出来事ではない。時として僕はあの光景を思い出すに違いない、と思いながらその場所を去った。

 その数日前、僕は友人の展覧会を見るために浅草に行った。そしてその足で久しぶりに山谷にまわった。町はすっかり変わり、立ち呑みの酒屋に人はまばらで「いろは通り商店街」のアーケードも取り払われ、沢山居た労働者も一人も居なかった。寂しい町の姿を後にして僕は平井に帰った。

 絵・「白い猫」18×11.5㎝ 板 (2014年)

阿佐ヶ谷の小劇場 121       2018.06.15

4.日暮里の家.psd 阿佐谷に久しぶりに行った。阿佐谷へは僕の住む平井駅からは一直線で、途中お茶の水で快速電車に乗りかえると四谷、新宿、中野、高円寺そして阿佐谷となる。

 阿佐谷のアーケードのある商店街を徒歩七分と案内状には書かれていたが、それどころではなく十分以上も歩いた気がする。長いアーケード街を抜けて、その外れに目的の小劇場はあった。

 四十人も入れば一杯になりそうな客席に六十人以上をつめこんた。司会の劇作家山﨑哲が入ってくると、その日の出演者が次々にあらわれた。メインの李麗仙は、俳優の佐野史郎に手を引かれて入って来た。足元がおぼつかない様子で、体調を崩したのか或いはそういう年令の精か、こころもとない加減で中央に着席した。大久保鷹、立花義遼が登壇して初期状況劇場の成り立ちのことなどから話は始まった。しきりにノートを用意し資料を持ち込んでいてメモを取る幾人かの人が見受けられた。

 話が韓国公演当時の裏話に及ぶと、流石に李麗仙は明晰で戒厳令下のあわただしかった様子などを興味深く語っていった。韓国の詩人キム・ジ・ハとの出会いや合同公演のことなど、何となく知っていたことどもが今更のように説明され、その裏話は面白い。

 その当時は不破万作や小林薫、四谷シモンなどの個性豊かなクセのあるメンバーが揃って、梁山泊的様相を劇団は持っていたらしい。アングラ芝居と世間から呼ばれたことなども本人たちにその意識はなく、地下で演じられるアングラと外にテントを張るテント芝居とは本質的に違う、と李麗仙は冷笑した。

 テント芝居の成り立ちもはじめは小ぶりなものだったが、ある時来ていたマンガ家の赤塚不二夫が酔ったついでに俺が買ってやるといい、大きな赤テントになった。しかし酔いがさめると本人にはその記憶がなく、まわりが泡を食ったなどのエピソードがゆかいだった。

 今でも赤テントには若い人たちがつめかけて満員だが、初期状況劇場の頃は物珍しさと興味本位の観客だった。受付の前では大小の石が売られていて、芝居が面白くなければそれらを投げる、といった乱暴な企画もあったようだ。あるいは、根津甚八などがテレビドラマに出演するようになって、若い女性ファンが黄色い声を上げるようになると、座長の唐十郎はそれらを追っ払った。それは唐の嫉妬だったのよね、と李麗仙はその内幕を少し揶揄するようにぶちまけた。

 絵・「日暮里の家」F4号 (2016年)

天才 120         2018.06.01

3.歌舞伎町の女.psd このところ外に出なければならない用事がつづく。新宿花園神社の唐組赤テント公演「吸血姫」、墨田区での桟敷童子の公演、向島百花園近くの落語会、友人の楽器製作の発表会、そして阿佐谷で「状況劇場」の討論会。この討論会は李麗仙、大久保鷹、山﨑哲、佐野史郎、立花義遼といったメンバーが唐十郎の初期を語るということで、本来なら当然唐十郎自身が参加をしなければならないところだが今はそれは実現すべくもない。一体どんな話が聞けるのか興味深い。参加人数は五十名と限られているので、それなりに初期赤テントをよく知る人たちが集うのだろう。僕は武蔵野美大で心理学の教鞭をとった立花義遼との付き合いが長く、彼からの誘いだった。

 今こうした催しが企画されるのは、唐十郎が立ち上げた〝野外テント芝居〟といった独特の芝居形式が一区切りをつけて、改めてその存在意義を見つめ直す、そういう時期に来たからであろうかと思う。あの燃えたぎった時代、新宿にヒッピーがあふれ、町が若者の熱気で包まれていた。そんな沸騰した時はもう昔のことになったのだという証左が、こんな形で見つめ直される時期になったということかもしれない。当時のメンバー、小林薫や根津甚八、麿赤兒、四谷シモンといった人たちもいなくなり、現在の赤テントの中で見かけることはない。

 先日の赤テント芝居の「吸血姫」も主役は唐十郎の娘、大鶴美仁音と息子の佐助だった。ベテラン俳優も稲荷卓央や辻孝彦、赤松由美は居なくり、現在は久保井研と藤井由紀の二人だけが中心である。当然観客も顔見知りの姿はなく若い人たちが多く、それでもテントは一杯であった。

 テントの中身は様変わりしたが、その中で初期赤テントについて何事かを語りあう。例えば佐野史郎などは、マザーコンプレックスの役で当たりをとり、今や映画、テレビドラマの中ではベテラン俳優である。李麗仙などは大御所の部類に入る。そしてその人たちが唐十郎の初期について語りあうが、本尊の本人はそのことを認識すべくもない。いやその方が本人にとっては良いのかもしれない。彼はもはや伝説の彼方にその身を移し、その過去の自分の中で自由に遊んでいる。それも幸福。

 元気な頃に突然僕を訪ねてきた彼のあの童顔を、僕はよく覚えている。あの頃から唐十郎は自分の一人遊びの夢の中をさ迷っていた。天才の孤独をかみしめて。

 絵・「歌舞伎町の女」F4号 (1996年)

ひらい円蔵亭 119       2018.05.18

2.西新井の太陽.psd 友人から竹の子ともぎたての夏ミカンが届いた。竹の子は、出たての物をスーパーで買ってきて御飯と煮物にして楽しんだところだが、まだ値段は安くならない。わが家にしては一寸したゼイタクだ。折からフキも出ていたので、春の味を共に楽しんで少しの満足を味わった。

 その後に、大きな竹の子が二本も届いたので、今年はタップリと春を味わうことが出来る。話では猪が竹の子を食い荒らしてしまうと聞いていたので内心は届くのをあきらめていた。

 竹の子や農作物などを猪や鹿が食い荒らすという話を、先日も山梨に畑を持つ友人としたばかりだった。その友人は食い荒らされた農作物をモチーフにして絵を描いていた。

 季節の作物を炊き込んだ新米ほどおいしいものはない。そして又、海の恵みも炊き込む。マーケットで鯛の頭を買ってきて焼き、それを炊き上げる鯛御飯もわが家の馳走の一つだ。割合安価な値段で食卓は豊かになる。二百円料理である。

 ところで、僕が毎日廻ってゆく公園の一つに平井三丁目の小じんまりとした広場がある。その前に八代目橘家圓蔵という落語家の住居がある。平井の名所の一つで観光客が連日訪れる。本名は大山武雄といい本所で生まれて平井育ち。以前は今僕が住んでいる七丁目に家があったが、途中町中の三丁目に引越してそこで八十一才で天寿をまっとうした。生前には時々出会うことがあった。後継がなかったのか住居は江戸川区の所有となり平成二十九年七月から(ひらい円蔵亭)として一般公開されるようになった。

 公園からながめていると訪なう人が多数出入りしているが僕は一度も入ったことがない。平井には他にも講談師や相撲取りなどが住んでいて商店街で見かける。

 田辺一鶴というヒゲを生やした名物講談師は気さくな人で、僕はコーヒーをご馳走になり長い話を聞いたこともある。弟子の鶴遊とは今でも話をする。この人の講談も名調子でその公演は楽しみの一つでもある。口調は流れるようにすべらかだが普段は無口な人である。

 平井という下町はそんな人たちが住み暮らしている下町文化がどことなく臭う場所柄。一口にいって住みやすい場所なのだ。

 荒川と旧中川に囲まれて僕の住む七丁目は江戸川区の端。少し歩くと墨田区となってそちらに大きなスーパーがある。買い物はそちらにゆく。便利なところだ。

 絵・「西新井の太陽」F4号 (1990年)

日々にこそ 118       2018.04.20 

1.西新井の家 もうすっかり葉桜となったのにまだ鴨たちが旧中川に残っている。十羽足らずではある。と思って公園に入るとほんの少し桜の花が散り残っていた。ほんの少しの為にかえって目に入って春の深まりを感じさせ、あたりの新緑が水々しく思える。体にもすがすがしい季節がどこまでも広がる。

 妻は四、五日前神戸に行って義姉の最後の法事をし、その折かねて念願だった書道の師と対面してきた。師はもう九十才になって体調を崩し、娘のいる関西の老人入院施設に住居を移していた。新大阪からすぐ近くの町の立派な部屋だった、と報告した。中学生の頃からの因縁であるからもうそんなに会う機会もないだろう。心残りのない面会だったろうと思う。

 そして妻は関西からの帰りがけに、西成区飛田本通りのなじみの店「第六足立酒店」に寄って友人たちと会い長い時間を楽しんだ。店から東京に電話をしてきて、僕も友人たちと久しぶりに近況を語りあった。話しているとまぎれもないあの飛田本通りの風景が僕の目に浮かぶ。そして合変わらず飛田本通りは少しさびれて人通りは少ないらしい。往年のにぎやかさを知っている僕としては一寸やりきれない。だからその店も毎日ではなく週に何日かの営業となり、常連の親しい人たちだけが特に日曜日の昼間から集う。近くなら僕も飛んでゆきたいが…。

 さて今日僕は浅草に出掛ける。友人の展覧会を見る為だ。その友人の音頭で、星野鐵之を見送る会が今月横浜でひらかれる。見送る会ではあるが「星野鐵之を囲む会」と称してひらかれる。今でも彼がそこに居る会というのはとても自然なことのように思う。彼の体はもうこの世に無いが僕たちの心の中には彼はまだはっきりと生きていて、今年の「シェルシェル展」には彼の作品が並ぶだろう。

 僕も今からその展覧会の作品作りをしている。僕が唯一他人とのグループ展に参加する会であるが、星野鐵之と僕の作品が並べられるのはこれが最後になる。

 一人又一人と人が去ってゆき、僕も又そんなに遠くなくその内の一人になる。仕方のないことだ。誰かが〝日々の絶筆〟と言った。考えてみれば、これからは日々の絶筆を心して描いてゆかねばならないだろう。

 生活との格闘や絵との格闘は日々の絶筆にこそなければならないかもしれない。人の死はそんなことを教えそして方向を示している。

 絵・「西新井の家」F4号(2016年)

予定のない舞踏 117       2018.04.06

25.少女8×8cm.jpg その日はまず練馬の区立美術館にゆき「池袋モンパルナス」の時代の絵を見て、次に池袋で映画を見る予定にしていた。が、朝から妻ともめ事になり映画はとりやめることにした。夜は高田の馬場で舞踏家の仙葉由季の公演を見ることにしていた。映画がとりやめになったので、午後二時に家を出ることにした。

 練馬区立美術館は初めてゆく場所だったので、西高島平の駅から迷いながら随分と歩いた。思ったより小じんまりとした建物で美術館というイメージではなかった。それでも佐伯佑三や松本俊介、麻生三郎、靉光、長谷川利行などが並んでいてそれらの絵をゆっくり楽しむことが出来た。それと沖縄の美術運動の一群の絵が並んでいた。それなりに楽しむことの出来る作品展だった。

 美術館の横手から出ている成増行きのバスに乗り、そして成増の駅から急行で池袋に出た。驚いたことに成増から池袋までは急行で一駅だった。沢山の駅を飛ばして一駅で池袋に到着することに僕は少しビックリした。どんどんと過ぎてゆく風景を新鮮な心持ちでながめた。

 合変わらずの池袋の駅の混雑に閉口しながらJRに乗り換えて、高田馬場駅に着くと雨が降っていた。仙葉由季から届いた公演の案内状を広げると、会場までは距離がある様子なので僕たちは食事をとることにした。十八時を過ぎていてすっかり空腹だった。日常生活ではもう飲酒の時間で、僕の喉はもうアルコールを欲していた。手頃の中華料理店を見つけるとまずホッピービアーを注文した。そして出てきた中華料理は値段の割りに味が良かった。少し嬉しくなった。

 料理店から公演の会場までしばらく歩き、人に聞きながら会場を訪ね当てると、まだ公演までには時間が余っていた。

 すっかり暗くなった道を会場から下ってゆくと、神田川が流れていて川岸に桜が咲いていた。思わぬ花見をすることになって何か不思議な時間だった。

 公演は想像をしていたような、いつも見る演劇ではなく又舞踏の劇でもなく、いわばパフォーマンスのようなものだった。数人の人が色々な物を置いたり散らかしたり又片付けたりをくり返した。ある人は天井のハリにぶら下がったりした。仙葉由季は衣服をとって下着一枚になり、背中の刺青を存分に見せて踊りのようなものをしていた。一時間半ほどの公演の後聞くと、それぞれが勝手に行動をする予定の無いショーなのだ、と不思議な事を言った。

 絵・「少女」8×8cm (2016年)

無為な時間 116       2018.03.30

24椅子の人8×8.jpg 河津桜が散って花ビラが川面を埋めると、その川に北国に飛び立ったと思っていた水鳥がまだ数羽残っていた。置き残されたというには多い数の水鳥たちがしきりに遊泳している。今年は旅立ちがおそいのか、それともまだ寒さが続いて旅立ちが遅れているのか分からないが、鴨たちは群れて泳ぎ続けている。そう思って見ると、桜の花はまだ固く閉じていて咲く気配はない。が、二、三日前から気付いたことだが沈丁花の良い香りが闇の中にきつく漂っている。とても心地良い匂いが闇の空間を伝わって立止まらせる。あちこちでその香りに出会って、その度に僕はその所在を確かめる。春の訪れを確かめている気がする。

 妻の本作りの作業は、原稿が全て活字になってきたのでその点検に毎日忙しそうだ。生き生きとして老眼と格闘している。夏過ぎまでにはめどが立って秋には出版の予定だ。今のところ作業は順調のようだ。

 その記念の大規模な展覧会の作品集めや作品づくりはまだ五里霧中だ。近い内に妻は神戸に行く用事があって、そちらにも資料が沢山あるのでその資料探しの計画も立て、神戸行きにも意気込んでいる。

 さて、僕の方は個展も終わって次の制作に取り組まなければならないが、なかなかエンジン全開とはならない。まず町を走り廻りいつものコースを確かめてモチーフを決めなければならないが、焦点が定まらない。何か新しい世界が見えそうで見えないのである。外の世界と自分の中の内側の世界とがまだ重なってこない。こうした時に思考するべきものは一体何なのか。ジッと自己の内側の奥の奥を探ってゆくしかないのだが、それが定まらない。

 こうした心持ちは人には見えないので、ただボンヤリヒマを持て余している風にしか見えないのだろう。妻は「早く外を走ってきなさいよ!」とイライラした声で言うが、そう言われても僕には返す言葉がないのである。そう急かされなくても僕は外に出て自転車を走らせるが、走ったからといって創作意欲にすぐ火が付くという風にはならない。ボンヤリ鳩が歩き廻るのをながめていたり、風のないよく晴れた青空を見上げたりしながら、時の移りゆく様子を感じて待つしか方法はないのである。

 だが画家にとってそんな時間が不幸かというと決してそうではなく、そんな時間も又大切な制作の機会なのだ、と僕は思っている。

 絵・「椅子の人」8×8cm (2016年)

さて、大変だ。 115      2018.03.16

23.川添いの兄弟8×8cm.jpg 豊田市小坂町の坂の中ほどに十四階建のマンションが建っている。その最上階から毘森公園がすぐ下に見え、その反対側にも小さな森がある。確かそこに中学生の頃交際をした女友だちの嫁ぎ先の家があったはずだが、その家は見当たらず切りひらかれて小さなアパートが建てられている。

 そういえば風の噂に、その人がもうこの世にはいない、と聞いた気がする。何年か前の個展の際、その人は車椅子で来ていて片手と足が不自由だった。そうか、彼女はもういなくなったのだな、と僕は思った。一家はどこかに引越をしたのだ。物悲しくそう思われた。

 僕と妻は、今度の個展で五日間豊田市に滞在した。その間の宿は、先輩の病院長の持ち家である十四階の小坂町のマンションの一室を、好意で借りた。そのマンションからは六所山や猿投山が見え、豊田の町が一望できた。快適な住まいだった。

 ところが、妻は足の小指を強打し会場ではスリッパですごした。東京に戻ると、今度は僕がヴェランダから室内に入る際に左足を引っかけ薬指を痛めた。僕も又スリッパを引きずって歩くことになった。何という不幸だろう、そして不便だろう。夫婦そろって朝夕足の治療をし部屋を歩き廻る。

 それでも近くのマーケットに買い物にでかけてゆくが、ふと気付くと近くを流れる旧中川に冬の水鳥、鴨の姿が無い。どうやら水鳥たちは北の国に向かって飛び去っていったようだ。そう思って見ると川岸の河津桜が今満開の様子で、もう春の入口だ。もう少しすると桜の季節が来ると言うことを風の中にも感ずる。

 今、妻は長年書き溜めていた自伝の原稿がある出版社から本になるということで、活字になってきたその原稿の手直しに夢中である。

 夏から秋までには出版のみこみで、その記念の展覧会も近しい画廊の計らいで計画が進められている。会場も仮予約され、先日二人でその会場を見学にいった。相当に広い会場を歩き廻り、さて、この会場を埋める作品の数と大きさを想像すると余程の準備が要る。これは仲々大変なことになった、と内心思った。

 大きな作品を所蔵先から借り出したり、又それでは足りないだろうから新しく大作の作品づくりも考えなければならない。主催をする画廊からは、「ここが勝負時だよ」とハッパをかけられ、夫婦揃ってこの夏から秋は汗を流そう、と思う。

 絵・「川沿いの兄弟」8×8cm (2016年)

横浜の絵 114       2018.03.02

22.自転車の人10×11.5.jpg 先回「権現崎の絵」で書いた先輩の画家が、その絵を見る為に出掛けた鎌倉行きの日から五日後に遂に逝ってしまった。七十九才の旅立ちだった。

 去年のグループ展の時、僕は彼のかむっていた黒いソフト帽がとてもかっこう良かったので、欲しいと言った。僕が居なくなったらやるよ、と彼は答えたがその約束は今ではどうでもいい。彼が元気でいてくれた方が何より僕には大切だった。

 日本の油絵画家の中で一番敬愛する人だった。縁があって一緒に修善寺旅行に行ったこともあった。東京芸大の林武教室の出身だが、絵は芸大風ではなく重厚で、絵の具を厚く重ねて暗く重いのが特徴だ。晩年は色がカラフルで明るくなったが、厚ぬりの絵の具は変わらなかった。重さのある画家人生だったのだろう。言うに言えない悲しみが僕の心をおおう。

 さようなら、とは言いたくない。又会えるのを楽しみにしています、と僕はつぶやきたい。星野鐵之さん又会いましょう。きっとどこかで。かならずきっと。

 彼の絵は鎌倉ドローイングギャラリーと友人の画家の二ヶ所に分けて相当数が預けられ、又その内に何らかの遺作の展覧会がされるだろう。その時にゆっくりとその絵の中で出会うことも出来るだろう。それを楽しみにして待っていよう。

 もう一つ気になることがある。彼が若い頃に一緒に絵を学んでいた四谷十三雄の絵が彼の元に残されていたはずだが、その絵は一体今どこにあるのだろう? 瓶を沢山描いて独自の世界を描いた四谷の絵は、そういえば星野鐵之の初期にも同じ図柄の絵があって、何らかの影響のあったことが見てとれる。不慮の事故死をとげた四谷の絵の展覧会が、星野の企画で浅草橋の画廊でひらかれ、僕もそのうちの一点を求めたことがある。星野の元にはまだ多くの絵があったはずだが、それらがどうなったのか、気にかかることではある。きっと彼のことだからきちんと処理されてあるはずだが、それらの絵にも僕はもう一度会いたい。

 横浜という町で磨きあった画家たちの青春の姿を、いま一度目のあたりにしてみたいと思うのだ。

 星野の描いた横浜の町の風景は、さながら今の横浜の原風景とでもいうべきものだ。現代のビルが林立する町のその奥に、いわばなつかしい横浜の町の顔が星野の絵によって蘇る。彼は横浜にとって貴重な証言者であったと思う。

 絵・「自転車の人」10×10.5cm (2015年)

権現崎の絵 113       2018.02.16

21.少女16×16.5cm紙.jpg 降った雪が十日たっても残雪となって凍り、日陰ではアイスバーンとなってうっかりその上を歩けない。今年の寒さは特別なようで町全体が冷蔵庫状態になったようだ。体が芯から冷え込む。とても外での仕事ができない。

 そんな中のふと寒さの緩んだ一日、久しぶりに鎌倉に出掛けた。先輩の画家の個展を見る為で、その画家は僕が唯一出展をしているグループ展の一員である。僕は彼の画業とその絵を高く評価し、大好きだ。絵の具を厚く盛り上げる手法のマチエールは初期から一貫していて、特に今回の個展では初期の絵が並べられその資質がよくあらわれていた。暗くて重いが重厚な存在感が得心できた。中でも、百二十号の権現崎を描いた暗い青一色の絵は圧巻で名作であった。鎌倉に出掛けて良かった、と思った。

 ところが、作者は不在でまだ一日も会場に来ていないという話だった。久しぶりに出会って絵の話をするのが楽しみだったので少しガッカリした。と同時に、昨年出会った時体調がもう一つすぐれない様子だったことを思い出した。まだそれが続いているのだろうか? 僕より九才上のもうすぐ傘寿ではあるが、決して老いた様子はなく精神の若々しさは特別の人だが、とその体調が気にかかった。

 画廊に置いてあった画家のリーフレット二種類をもらい、鎌倉でも人の沢山いる小町通り方面ではなく、割合間バラな御成小学校方面の道を、鎌倉にくると必ず立ち寄る立呑み酒屋に向かうと、店は休日だった。昼を過ぎていたから食事をしよう、と店を探したが適当な店が見当たらない。安くて美味い店がなかなか無いのだ。結局は家まで戻り、ラーメンをすすったのは十五時を少し過ぎていた。そしてあらためて百二十号の「権現崎」の絵をリーフレットの中に見乍らその日の鎌倉行をかみしめた。

 鎌倉行からしばらくして今度は銀座に出掛けた。友人からもらった券の映画を見るためで、銀座の映画館に入るなど数十年ない。このところもっぱら映画は池袋と錦糸町で見る。

 映画は豊田市で全ロケーション、撮影をした「星めぐりの町」だった。主演は小林稔侍。意外なことに映画の主演は初めてで、テレビなどでみつけているからそのことが一寸不思議だった。

 その映画の中に咲く桜の花が何より故郷豊田市を偲ばせる美しい風景だった。

 絵・「少女」16×16.5cm (2016年)

雪が降ってきた 112      2018.02.02

20.紙F0号少年.jpg七十才、古稀になり、自分の顔を見る。白髪頭のしかも頭髪も薄いもう若くない老人の顔が鏡に映る。とりたてて皺はないが頭の後のあたりがとても薄い。

 僕の父が五十才をすぎて髪がもう薄かったことを思い出し、僕もやっぱり同じように頭のてっぺんが薄くなってゆくのだな、と思いつく。血はつながってゆくのだ。

 僕の顔はもちろん自分だけのものだけれども、はっきり母に似ている。だけど父には全然似ていない。別にあえて僕が父に似ている必要もないしそれがどういうことでもない。そんなことだってあるだろう。

 だが、父が死ぬ前に「お前は俺の子供ではない」と言った言葉は、気にならない訳がない。

 「え?」と僕は思ったのだ。

 ということになると、僕は一体誰の子供なんだろうか? それを唯一知っているのは母だけだが、母はついにそのことを言い残してはいかなかった。

 だから今でも、僕は一体誰の子供なのか分からないままなのである。

 七十才になって、そのことをあえて知りたい、とは思わなくなった。一体、自分は誰の元に生まれ、何物であるかなどということを、七十才になって知る必要などあるだろうか。知ったとしてそれが何の意味を必要とするだろうか。

 鴨が五羽十羽とゆっくり水の上を泳いでいる。川は波もなくとても静かだ

 僕は思う。何故鴨たちはいつもこの時季にこの川にやってくるのだろう? 不思議なことだ。何故この川なんだろう?

 鳥の専門家だったら鳥の習慣についていとも合理的な説明をするのだろうが、僕には不思議なことに思える瞬間がある。そんなことを考えて外を見ると雪が降っている。気付かぬ間に向かい家の屋根はすっかり白くなっていて、雪は斜めに太く降っている。

 そういえば昨日、川の横の道を歩いていて鴨の姿を探していると、川の葦の群れがすっかり刈り取られて短くなってしまった。鴨たちの塒が無くなってしまったのでないかと心配になった。ましてや今日のこの激しい雪降りで、鴨たちはどうしているのだろうか。

 時間がたつごとに雪はどんどん激しく降ってくる。そして暗くなってくる。音がすっかり無くなった風景を見つめながら、そうだ、妻が神戸に出掛けて今日で二日目になったんだと気付く。ご購読はコチラ.pdf

 絵・「少年」F0号 (2016年)

旅の途中 111      2018.01.19

19.F0号小松川の家.jpg 年が明けて僕は古稀を迎えた。辞書で見ると「人生七十古来稀…」とあり、杜甫の「曲江詩」の一節からとある。千二、三百年前の話である。この盛唐の詩人の言葉が、年新たな僕の頭の上に孫悟空の金輪のようにかぶさってきた。

 金輪がしまれば頭が痛むように今までの来歴が思い浮かんでくる。

 僕が故郷を飛び出したのが十六才の時だった。書道家を目指して大阪に行ったが、一年ももたずに挫折をした。故郷に帰るわけにはいかず、僕の放浪がそこから始まった。故郷とは正反対の山陰地方への汽車に乗った。最初に下りた松江で飛び込みで就職をし、そこで出会った女性と恋愛をし馳け落ちをした。二人で大阪のキャバレーに住み込み、ボーイと事務員として働いた。

 そこもそこそこでやめ、少しの間故郷に寄りそして名古屋で船に乗り、次にコックの見習いをした。十代の終わりになっていた。夢を失ったその時代僕の心は荒れていたと思う。

 それまで全く興味もなく知識もなかった油絵と出会ったのは偶然だ。何かにすがらなければ生きる張り合いのなさが、僕の目の前に絵画という宿題を置いたのだと思う。ただ一冊の画集によって、天から降りたクモの糸にすがりつくように僕は絵画の道に入り込んだ。

 東京という場所が僕に縁があるとは想像もしていなかった。油絵を勉強するなら東京だよ、という先輩の言葉によって僕は見たことも、思ったこともなかった新宿にたどりついた。十九才の終わりだった。

 人よりは遅い出発だったがその道の恐さも知らずにのめりこんだのは、人生の道がもうそこ以外行く術がなかったからだと、今も思う。退路が断たれた状況の中で、何とか生き残る道を探るしか僕にはなかった。僕が油絵をデッサンから学びはじめたのは二十才になった一月からだった。

 木炭紙の裏表も分からないところから僕はおそるおそる絵の道に入っていった。

 ここで僕は油絵のイロハを一人の人から教えられた。銀座の画廊に連れて行かれて生の油絵を味わうことになるのだが、その方法は一種の我流であり、いわゆる学校で教えられるアカデミズムとは違う学習方法であった。このことは、やはり僕の人生の運命のようなものである、と思う。

 手さぐりで自身に合う感性の絵を見定め方向を探る。それは古稀になった今も相変わらず続いている。いまだ旅の途中に僕はいる。ご購読はコチラ.pdf
 絵・「小松川の家」F0号 (2016年)

花群(はなむれ)の前 110      2017.12.15

18.板0号路上の人.jpg 旧中川で泳ぐ冬の水鳥たちは、五羽であったのがもう数十羽になって、すっかり冬の風情になった。

 夏に刈り込まれていた葦の茂みも背高くなった。どこに水鳥たちは塒を探すのだろうかと心配をしていたが、茂みもうれいなく整った。川は冬の光景をまっとうしている。寒い季節は寒い季節なりの、自然の形を僕たちに与えてくれる。ピュー、ピューと水鳥たちは元気な声で鳴きあう。その声は真っ暗なしじまの中でも聞こえる。人影の見えない闇の中のその声は、自然の営みのやさしみや豊かさを僕に伝えてくる。

 今年の十一人のグループ展が終わった。僕より年令の下の人は四人で、年長は僕より十才ほど上。やはり東京芸大の出身者が多い。一人二点づつの出品で、僕は十五号と0号とを出した。ともかく今年はこれで予定の展覧会が終わった。少し肩の荷がおりた。発会のパーティーに全員が揃わなかったが、来年は又全員が揃うだろうか。お互いそういう年令でもある。僕はもう古稀をむかえる。

 個展だけで作品発表をしてきた僕の唯一の他人とのグループ展なので、それなりの緊張感がこの展覧会にはある。それは良い刺激薬でもありこれからも出品を続けてゆこうと考えている。それでいてこのグループの面々と普段深い交流があるかというと、そうでもない。淡々とした一年に一度の集いといった感じだ。もちろん互いに個展などすれば出掛けてゆく、といったことはある。だが文通などはほとんどない。

 そういえばこの頃、しきりに手紙の来ていた人から便りが届かなくなった。何故だろう?思いたって元気かどうか電話をしてみようと思うのだが、やはり止めてしまう。受話器を取ろうとしてふと考えると、さして話すことがないことに気付いて電話番号を押すのをためらうのだ。確か彼は僕より十四、五才上だからもう八十半ばのはずだ。どんな生活をしているのか、そう考えた段階で近況を確かめるのをためらう。それでいて訃報などが少し気になる。親しかった人どもからすっかり便りが届かなくなったことに、あらためて気付かされるのだ。

 今、毎日出掛けてゆく亀戸中央公園の木々は落葉寸前。黄金色の葉を風が流れるたびにまき散らして、ただ椿の花だけが赤や白の茂みをにぎやかにしている。その花群を絵に描こうかどうか、立ち止まって考え見ている。見られる花は、そんな僕の思いを知らなげに風に揺らされている。ご購読はコチラ.pdf
 絵・「路上の人」F0号 (2014年)

まだ見ぬ人へ 109       2017.12.01

17.F0号八広の家.jpg 友人からハガキがきた。「七転八転、でももうちょっと頑張る」成程、と僕はうなずく。何事も七転八転そして九起きでけっこう。何度でもころべば良い。そして立ち上がる。人生最後まで立ち上がる心構えさえあれば何とかなる。友人の柔和な顔を思い浮かべながら僕はうなずく。

 走ってゆく川岸の桜並木はすっかり葉を落として裸木になり、川には鴨や冬の鳥たちがゆっくり泳ぎ、時には潜って魚をあさっている。川には大きなボラが幾尾もいるがそんな大きな魚はとれないので、水鳥たちはどんな魚を狙っているのか。冬の自然の営みを僕は考えながら見ている。

 空は晴れ渡って青く、人は皆厚い上着を身にまとって歩いている。もうじき町は師走の準備を始める。昨日神戸の友人から電話があり、毎年の暮れに訪れて泊まってゆく習慣も、今年は遂に来られないとのこと。「今年はもう誰も来る人はいないね」と妻に言う。「それでも正月料理の支度はいつも通りやりましょうね」と彼女は答える。

 毎年元旦には必ず来ていた絵描き仲間は、あっという間に逝った。年賀状も今年からは随分と減らそう。初冬の空気の冷たさが何やら身に沁みる。後頭部の髪の薄くなってきたせいばかりではないだろう。

 先日先輩画家からの招待状がきて、都美術館にそのグループの展覧会を見に出掛けた。今の日本の具象絵画の中では最もレベルの高いグループ展だと思う。その中で大和修治という人の絵に惹かれて、その写真を二枚買ってきた。このところずっとその人の絵に興味をそそられていて、僕はいつも注目をしている。どこかの港の絵を例年描いていて、今年はその港の小さな小屋を描いていた。舟は描かれてはいない。曇天の風景で、やはり全面がポエジーに包まれた良い絵だった。もう一点は静物で、今年は花が描かれていた。

 僕は一度その人に会ってみたいと思っているが、それよりもその人の画集があれば是非見てみたいし、出来れば手に入れたい。機会を見つけて探してみようと思う。年令は確か僕より十才上のはずだが、何だか奥床しい人柄のように見受けられる。出会いなどというものは無理をしても仕方がないものだ。望んでいればその機会があるだろうし、又出会いがないままであっても絵は確実にあるのだから、それで充分とも言える。

 まだ見ぬ人のことを想像し乍ら、机の上の絵の写真を僕はゆっくり楽しんで味わっている。ご購読はコチラ.pdf
 絵・「八広の家」F0号 (2016年)

笑いとばされる世界 108      2017.11.17

16.F0号箱の上のほおずき.jpg ほんの一日の差で、もう川に冬の水鳥がきている。五羽六羽と風に吹かれてゆらゆらと浮かんでいる。そして木枯一号が吹く。冬がやって来るんだな、と思う。

 午前二時からの朝歩きの公園のベンチに座ると、桜並木に木の葉が雨のようにふってくる。ほの暗い街灯に照らされた道のむこうに、公衆便所の明かりがついている。夕べ激しくふった雨の水溜まりにその灯が映えて、人影はどこにもない。

 昨日ゆくはずだった映画と赤テントの芝居も、雨のせいでとりやめにした。又来週あたりに出掛けてゆこうかとも考えるが、映画の方は期限切れになって見ることができなくなった。

 ともかくもう冬の季節になる。

 今年は雨の日が多かったので外で仕事ができず、池波正太郎の小説ばかりを読んでいて、妻に小言をいわれっぱなしだった。僕なりに絵の方の算段はしているので、小言をいわれるのは心外だ。しかし、妻から見ると仕事をなまけさぼっているようで、僕が家の中にいると何かイラつくのだろう。その気持ちはよくわかるが、僕は予定通りに絵は描き進んでいるので、妻の小言は時にうるさく邪魔である。天気によって絵の描けない日のイライラする心は、僕自身が一番わかっている。来年の個展にむけてきちんと仕事は進めている。僕の悩みはそんなことではない。何かどこからか死亡通知が届くのではないか、そんな気分が僕を不安な心持ちにさせる。具体的に誰かというのではないが、気にかかるのである。

 そういえば、例年訪れる友人が一人減り二人減りしていることに思い当たる。そうだ彼ももういないし、あの彼もすっかり外に出なくなったようだ、と一人一人の顔が浮かんでくる。確実に友人たちが鬼籍に入り、体を痛めて現役引退といった様子だ。又ある人からは生前葬をしたという通知も届いている。

 友人たちも年を取り、僕も又老いの坂道を登っているのか下っているのか、もう少しで古稀になる。まわりを含めて、何となく淋しい季節が来ていることを感じざるをえない年令なのだ。

 だからといって焦っても慌てても仕方がない。老いの青春とでも開き直って、晴れの日雨の日風の日を楽しんで過ごす方法をあみだす、それも大切だ。

 思えば絵には年令はなく上限もない。いわば無限の天国と地獄。老いなどというものなど、笑い飛ばされる世界ではある。ご購読はコチラ.pdf
 絵・「箱の上のほおずき」F0号 (2015年)

天才と悪魔 107      2017.10.27

15.F0号みかん.jpg 先回ここで書いた大鶴美仁音の「父のこと」には、唐十郎が脳挫傷を負う一年前のことが書かれている。 それによると、その頃唐十郎は毎日深酒をし、医師からはいくつもの薬を処方されていた。酒と薬に頼らなければ、文字どおり生きていけないような悲壮感を漂わせていた。

 医師から「心臓に負担がかかるので水に浸ってはいけない」と強く言われていた。しかし、いざ舞台に立つと設置された水槽を獲物のようににらみつけ、後悔は何もないと勢いをつけてダイブした。そして客席を挑発するかのように水の中から笑って見栄を切った。

 生きている。命を賭けて舞台に臨み演じきること、それが役者、唐十郎の肉体であり、それまで走り続けてきた矜持だった、と美仁音は書く。この人は舞台の上で死ねたら本望なんだな。

 そして豪快に見えるその性格は実は恐がりで繊細。舞台では汚物や刃物をよく使うが、ふだんは潔癖で先端恐怖病、臭いにもとても敏感だという。

 新しく生み出す新作こそが最高傑作になるんだ、と常に思いこんで芝居を生み出さなければならなかった彼の宿命。それは老いて衰えてゆく肉体と少年のままの精神に追い打ちをかけ、脳挫傷を負うまでの四、五年はひどく酒を飲むようになった。味わうのではなく、ひたすら呑む。食物を口にすることなく焼酎を鯨飲した。酒は闘いの為のガソリンのようだった、と美仁音はいう。

 酒を呑むと決まって歌う劇中歌をかけ、昭和の熱い時代を回顧し、やがてトイレの便器を胸にかかえて倒れこむ。トイレの神様に何事かを相談しているようにも見える。

 そして劇団員が帰り一人になると、一人稽古場に残り迫り来る敵をめがけて怒鳴り散らし怒り狂った。悪魔に取りつかれて老いに抗う姿に見えた、と美仁音はいう。

 そして嵐のような夜が明けると、ひどい二日酔いに苦しみ小さくなって一人で遅い朝食をとる。その姿はとても寂しそうだった。それこそ生身の大鶴義英がそこに居た。

 天才とは何か、と美仁音は問う。悪魔から授かった何ものか。それに追いつき格闘して過剰を越す。制御が困難になり、酒と薬と激情とによってそれに打ち克とうとした天才劇作家は、遂に自分の稽古場の前の道に激しく頭を打ちつけた。これも又悪魔のしわざだったというべきだろうか?ご購読はコチラ.pdf
 絵・「みかん」F0号 (2015年)

大鶴美仁音の「父のこと」 106      2017.10.20

14.銀杏18×13.5cm.jpg 前回(百五回)の末尾にひいた芋銭が書いた荘子秋水篇第十七にはその後があって、「无以得殉名、謹守而勿失、是謂反其眞」となっている。「本来の徳を名声のために犠牲にしてはならぬ。ただ慎んで(自然の本来生を)守ってそれからはずれないようにする。それこそ、真実の道にたちかえるということである」。

 小川芋銭はこの荘子の言を一匹のカッパの絵の中に書いているのだが、僕の家にあるのはその下書きのようで秋水篇第十七だけが書いてあり、書としては絵に書いてあるものより僕の家のものの方が独立してしっかりしている。

 それだけで立派な芋銭の作品である。僕はこれを買い求めた訳ではなく、僕の芋銭好きを知っている美術商の人が僕のところにとどけてくれたのである。流石に目の利いた人で、かえって絵のない方が芋銭の面目躍如という風情がある。この作品は今年さるチャリティの展覧会に貸出展示されることになっている。

 話は変わるが、最近、幻戯書房という出版社から出た唐十郎の「ダイバダッタ」という本を読んだ。二〇一五年五月出版だからそう古い本でもない。

 この後書きを唐十郎の一人娘、大鶴美仁音が書いている。「父のこと」という題で、書き出しがゲーテの『ヴイルヘルム・マイスターの修業時代』を引用し美仁音という名前はそこに登場する「ミニヨン」から名づけられた、と書いてある。唐十郎の本名は大鶴義英である。

 その名前の紹介の後に、二〇一二年五月二十六日の朝の衝撃的な事故の様子が書かれている。唐十郎が自宅とすぐ向かいの稽古場の玄関先で倒れた。側溝に尾を引く血が頭から流れ、彼女が唐十郎の重い頭を持ち上げ後頭部を押さえた。その時唐十郎の息は止まっていた。このまま死んでしまうのか、美仁音は絶望的な気持ちになった、という。

 見ひらいたままの目を無理やり閉じさせると、その時唐十郎は息を吹き返した。そして立ち上がろうとした。「動かないでっ!」そう叫んだように思う、と美仁音はいう。血をしたたらせて立とうとした唐十郎は、その時父ではなくすでに唐十郎だった、と彼女はいう。

 救急車にのせられ、それから八ヶ月後に唐十郎は家に帰った。だが、「たぶん、唐十郎が何かを生み出すことは、もうない」と美仁音はいう。「父がくれた沢山の感動に、私が恩返ししたい」と彼女はいう。ご購読はコチラ.pdf
 絵・「銀杏」18cm×13.5cm (2016年)

牛馬四足と人と 105      2017.10.06

13.人と木17×13.5cm.jpg このところ外国のあちこちで地震災害のニュースが報じられたせいか、地震の夢を見た。

 見知らぬ日本家屋の中で家具は散乱し、何をどうしていいか分からずに呆然としている中、思いがけない人が僕のガラスの器(買った覚えもない)を集めて「これは大切でしょ」と、一個所にまとめてくれるのである。僕は返事のしようもなくただ見つめている。訳のわからない不思議な光景なのである。

 そんな夢を見たせいか、朝歩きの暗い道でも今地震がきたらどうしようか、とそんなことを考えて歩いた。

 そういえば神戸の大地震の時は僕たちは東京にいて直接は体験しなかったし、東北の大津波の時は逆に神戸にいてその揺れを経験しなかった。幸か不幸か日本が体験した二度の大地震に直接は僕は巡り合わなかった。それでいて今になって地震の予感に夢を見たりするのである。つまりは、日本は常に富士山の噴火や東海大地震の可能性におびやかされて生活をする状態におかれている、ということだ。僕の今住んでいる建物は割合堅固なようだが地盤は元々沼地で、本当に大地震におそわれたらどんなことになるのか保証はない。ただこの建物が壊れるほどの地震なら東京中のビルは全滅だ、などと勝手に思いこんでいるだけである。

 もう一つはこのところしきりに報道される北朝鮮の金正恩のミサイルと水爆実験で、こちらは天災ではなく人災である。もし本当に東京に水爆が飛来し襲ったら、大部分は死滅する。ゾッとするような想像である。何故こんなにも不安な中に僕たちは生きているのか、理不尽この上もない状況はどこに、何に原因があるのか、一国の政治の不安定、貧困が全世界を揺らす。彼の国の国民は今一体どうしているのか。

 手の届かぬことながら、やはり彼の国に無理無体恐怖のどん底で連れ去られた少女や人々のことを報道で見、考えれば心の底から怒りがわいてくる。

 僕の部屋に掛けられている小川芋銭の文言をいつも読みかえす。それは古代中国の思想家、荘子の外篇、秋水篇の第十七、河伯と北海若の問答である。「牛馬四足、是謂天、落馬首、穿牛鼻、是謂人。故曰、无以人滅天、无以故滅命…」

 これは人のさかしらさによって自然を失うなという教えだが、本質はもっと人を戒めるリアルな言葉だ。ご購読はコチラ.pdf
 絵・「人と木」17.5cm×13.5cm (2016年)

下手な考え 104      2017.09.29

12.F3号平井の店.jpg 今年の夏の終わりに不思議なことがあって、僕の割と大きめの絵が無くなる、という一つの事故のようなことが起こった。買い手がついて額装も新しくなった十五号の絵が忽然と消えたのである。誰に責任があるということではなく、それはまあ絵の運命ともいうべきもので、僕にとりたてた感想はない。

 その絵の所在を探す段階で、思ってもみなかった大量の絵がこれ又不思議なことに出てきたのである。かえってそれで、僕は忘れていた沢山の絵たちに巡り合うことになった。これは思いがけない嬉しいことであった。

 思ってもみなかった過去の作品にとり囲まれることは、何だか幸福な瞬間で沢山の子供たちが帰ってきた気がする。ああ、この絵もあの絵も元気に何処かで暮らしていてくれたのかと、一点一点を見るにつけなつかしい。又あっ、こんな絵を僕は描いていたのか、と新鮮な驚きに出会える絵もある。いうならば皆んなが愛しく抱きしめたくなる気がするのである。絵描きの幸福な一瞬とも思える。

 少し傷ついた絵もあるのでゆっくりと修復をする。その作業も絵の愛おしさの内で、もうこの絵は人に渡すまい、と思う。

 帰ってきた絵は数百点あって、我が部屋は又狭くなったが気にすることはない。ただ、まだ人の目に触れていないこの絵たちの晴れ舞台をどうやって用意するか。そのことが気にかかる。

 プロ画家の中には色々なタイプがある。売れることを目標に描く人、あるいは自分の目的の為だけに、ひたすら外を気にせず山登りのように絵を追求する者、外国に留学をしてそれを日本化する道をゆく人、様々である。僕はといえば、外国にゆくことを拒否をして日本の風土を歩くことによって自分の中の何かを探すという方法論をとっているが、それは途上も途上。これといって確信をし満足をする絵にはほど遠く、毎日が五里霧中といっていい。

 それでも今回のように思いがけなく以前描いていた沢山の絵に囲まれてみると、あらためてその中にハッとするような発見もあって、かえって自分の絵から教えられる気がする機会もある。ということはやはり、我武者羅にキャンバスに絵の具をぬり筆を走らせておくことが、何よりも絵描きの勉強する方法なのだ、と痛感する。

 以前誰かに言われた。下手な考え休むに似たり、と。結論はそういうことかもしれない。きっとそうだ。ご購読はコチラ.pdf
 絵・「平井の店」F3号 (2016年)

自分の絵の方法を 103      2017.09.15

11.F3号平井の赤い家.jpg 酷暑になるはずであった今年はいつまでも曇り日の多いしめった日が続いて、なかなか太陽が姿をあらわさなかった。しめったむし暑い日が続いた。その内に蝉の声が盛りになり、心配をしていた東京の水源も何とかなり安心となった。その代わりに九州の方では、水害のニュースが連日テレビで報告されて、無惨な大雨の傷跡が僕たちの目をおおわせた。ほど良い自然の恵みとはほど遠い、無慈悲な節理をおもい知らなければならなかった。

 人間をふくめて自然というものはそれ自体で動いてゆき、人間だけの幸せなぞという都合の良いものはどこにもない。それなのに、人間は自らを滅ぼす道具をこれみよがしに作り続け、世界中でてんやわんやと騒ぎ続ける。暑いのは気象ではなく、人間同士のおろかないがみあいである。北朝鮮の若いおろかな指導者が薄ら笑いを見せるたびに、僕たちは不快な暑い夏を見せつけられる。理不尽とはまさしくこのことで、現代という時代は、平和とはおよそ遠いところで不条理という現実を味わい続けている。日本の現実が平和だなどとは、決して人々は信じていない。この不条理をいかに理解し、出口を探してもがけばいいのか、不安の中で今人々は生きている。

 今年の数年ぶりの吾妻橋の画廊での個展の終わりは、一つの区切りになった気がする。新しい方向に向けて仕事を進めなければならない。それは風景からその内に住む人間を描くという方向だ、と僕は今考えている。だから町を走りまわり歩いていても、人間を見ることに意識は移っている。

 問題は描くべき人間像だが、僕が描きたい人間像が何なのか、それを探すのが僕の新しい旅ということになる。それは白いキャンバスの中に埋められている。その形をジッと見つめて慎重にとり出してゆく。そのことを僕は今ゆっくりと、そして正確にしてゆかなければならない。

 働く人、休む人、作業する人、遊ぶ子供たち、悲しむ人、笑う人、怒る人。幸福な顔も苦しむ顔も、人間の中に自然がうつし出され、籠められて描きだされなければならない。

 僕は今一度、原点になった日本の風景を描き出した二十代後半の、あの僕の出発を見つめ直す作業を真剣に考える。京都から始まった僕の絵の方法は、今からこそキャンバスにうつされてゆかなければ。ご購読はコチラ.pdf
絵・「平井の赤い家」F3号 (2016年)

一期一会のことなど 102      2017.08.25

10.F3号平井の家並.jpg 吾妻橋の「アビアント」での個展が終わり、軽井沢に滞在中の友人夫妻が久しぶりに我が家を訪ねてきた。気心の最も知れた友人の来訪に僕と妻は心をはずませて迎え歓迎をしたが、友の夫の方は二度にわたる食道の手術で大好きだったアルコールが飲めなくなっており、ノンアルコールのビールを用意した。夫人の方はまずビールを、そしてこの夏先輩画家の夫人から届いた新潟の酒〝鄙願〟の大吟醸〝打水〟を用意して出した。
 この一年の報告や病気のその後のことなどを聞き、話はあちこちに飛んで愉しい歓談になった。次の日は夫人の方は青森のねぶた祭りに行く予定があり、東京駅で待ち合わせとのこと。夫の方は神戸に帰っていった。二人が去った後は少し淋しいものの、歓談の余韻がさわやかに残った。
 二人の訪れは毎年のことだが、僕より十才年上の友人と僕の年齢の事を考えれば、今年の訪れが一期一会と思っても不思議はないと、今年は特に感慨深い気がした。又来年も会えるとは限らない。僕の髪の毛も薄くなってきたが、友人の髪も随分淋しくなっている。あながち病気のせいではなくお互いに年をとっているのだ。そう思って飲む酒はよく効いた。二人が去った後ふと一人になると何となく目頭が熱くなって涙が溜まる。
 例年夏には一ヶ月を軽井沢の別荘で過ごす二人に甘えて、僕の妻は軽井沢に四、五日は泊まりにゆき、時には僕もついゆく。四人で酒を飲みかわし林道を歩いて追分まで出て、古道具の店で古い皿や茶碗などを買うのが楽しみだった。そして長野の果菜を土産に東京に戻る。それが楽しみだった。今年はそれもなく、来年からも軽井沢を訪れる機会はもう無い、という気がする。
 今年の出会いの一期一会は実に大切な一日であった。
 もう一人の飲み友だち「劇団かっぱ倶楽部」を主宰する友人も、下半身の病気の手術をしてアルコールは禁止。それはいいのだが、僕の展覧会に顔を見せなかった。六日間の入院の後だから体を動かし外出をすることができないのだろうと思うと、これも又心配になる。
 大切な友と出会う機会が段々と少なくなり限られてくる。そう考えると、展覧会初日に顔を見せ豪華な昼食を馳走してくれた二十代はじめからの画友、刑部祐三の訪れは本当に嬉しいことだった。同じ世代の友人とは、ともかく出来るだけ会える時間を見付けたい。ご購読はコチラ.pdf
絵・「平井の家並」F3号 (2016年)

展覧会の絵 101      2017.08.04

9.F4号秋の立花風景.jpg 酷暑の夏である。吾妻橋を浅草方面から渡ってスカイツリーにゆく途中にある画廊「アビアント」で、五年ぶりの個展がこの酷暑の最中に開かれることになった。その二日目、今までに体験したことのないような凄まじい昼の一瞬の嵐が、画廊の前の小公園を吹き荒れた。ま横なぐりの雹が混じった凄まじい雨と風で、三米先の木が見えないほどの、白いカーテンのような真昼の闇が突然に出現した。

 鉄製の重い画廊の案内板がいとも簡単にすっ飛んで、地面にたたきつけられ壊れた。二、三十分の間の出来事だったが、その時はあまりに突然であっという間に黒雲が去って元の晴天に戻ったので、僕には五分間くらいの感覚しかなかった。つまり夢の中の出来事のような体験だったのだ。

 夢のようではあったがそれが現実であった証拠に、オートバイの荷台の固いプラスチックの箱が無惨に穴だらけになっていた。おもい切り近くから小石をぶつけてたたき壊したような残忍な傷跡が、あちこちの乗り物を襲っていた。

 それにしても目を疑うような一瞬のま昼の嵐のように、世界中で山火事や洪水やの異変がテレビで映し出され、何となく気味が悪い。地球の環境が大きく変わり始めているように思え、不安の穴が口をあけるようだ。

 二日目早々のこの出来事で、どうやら今回の展覧会は忘れられないことになりそうだ。何回してもやはり展覧会は生きもので、何が起こりどういう結果になるか分からない。何年かかけて描き上げられた絵たちは、いわば舞台に上げられこの時こそ精一杯の自己主張をするのだ。様々な視線にさらされ見つめられあるいは無視をされて、だが暗いアトリエの片隅の場所からスポットライトに照らされたその期間だけ輝かしい空間におさまって、そして作者の僕を見ている。その時僕はやっぱり幸福なのだ。絵たちも幸せな表情に見える。そして時には何かを語りだしそうにも思えるのだ。

 その語りかけが僕以外の誰かにも伝わって、その声を拾った人の元にもらわれてゆく。いったいどんな語らいがされたのかは分からないが、そうした時人は色々な感想を言う。だがその感覚は、語らいが終わった後のと息にすぎない。

 そうした訳で絵を見るには時間をかけたほうが良い。さっと見で会場を出てゆく人に絵は話をしないのだ。そしてゆっくり語り合える人を待っている。絵の物語は、聞いてもらえる人に静かに話す。そんな風に。ご購読はコチラ.pdf
絵・「秋の立花風景」F4号 (2016年)

酒飲み友だち 100      2017.07.21

8.F4号紅葉.jpg しばらくぶりに友人を訪ねた。時間があれば軽く一杯飲もうと思っていた。だが友人が言うには、六日間入院をしていて退院をしてきたばかりだという。膀胱に腫瘍ができて、その摘出手術をしたので当分飲酒は禁止とのことだ。少し当てが外れた。良性か悪性かはまだ分からないが、といいながらさして心配はしていない様子だった。

 僕より五才年上の友人は、「この年になれば体のどこかが悪くなるものさ」と明るい声を響かせた。そう割り切れているのなら妙な心配をすることはない。そう思いながら、同じような病気であっという間にこの世から逝った十才年上の先輩画家のことを思い出していた。その人も豪快な酒を飲む人であったが、作画については真摯な人で、その世代のリーダーであった。

 病気をした後、大きな体で僕の個展に足を運んでくれたが、画廊の扉を開けるのに苦労するほど体力は衰えていた。今でもその時のことを僕は思い出すのである。久しぶりに手ごたえのある画家の先輩であった。

 もう一人神戸に十才年上の友人がいて、その人との酒は色々な意味で楽しかった。〝かった〟というのは、昨年のどに腫瘍が見つかり二度の手術をして酒が飲めなくなったのである。本人が一番残念だろうが、僕もその人との楽しい酒が飲めなくなってガッカリしたのである。

 夏にはいつも軽井沢の別荘に一ヶ月ばかり行くのが予定になっていて、元々は妻、延子の親友夫婦なので延子は必ず四、五日は軽井沢に行き僕も泊まりに行った。その軽井沢で傾ける酒杯は又格別楽しかったが、それが遂にできなくなった。今年は軽井沢の滞在も短く、帰りには東京の僕の部屋に泊まって、神戸に帰る予定もないようだ。今年は妻も軽井沢に行く予定はない。

 一人二人と飲み友だちが減ってゆき一人で飲む酒ばかり多くなった。つい飲んでこぼす愚痴に妻は嫌味を言い、僕は黙念と一人酒をノドに流しこむ。そして友人たちの現在の状況を想う。七十才八十才になって手術をし、酒も飲まずにただ黙々と読書などをして日を過ごしている姿が思い浮かぶ。聞くところによると、神戸の友はそれでも酒場に時々出掛けて行き、酒は飲まずに話だけに花を咲かせて帰ってくるらしい。

 そして外に出る機会が減って部屋に居る時間が多い。その妻はかえって外に出なさいとはげます。酒飲みの晩年は何となくうら淋しい姿をしている。ご購読はコチラ.pdf
絵・「紅葉」F4号 (2016年)

様々なドラマを 99      2017.07.07

7.F6号亀戸の学校.jpg 空梅雨のような季節が過ぎ、東京の水源の心配を今年もするのだろうか。そんな事を考えながら自転車を走らせる。それほど雨の日が少なく僕の午前二時からの朝歩きは順調である。

 朝歩き始める前に必ずする事は血圧を測る事で、少し前の検査の結果が順調なので、今は血圧の薬を飲んでいない。主治医の判断で薬をやめる事になったので僕は一安心なのだが、毎朝の血圧計は気になる。それが一向に血圧の上がる気配はなく、このところ僕は一人胸をなで下ろしている。糖尿の値も、基準から少し高いくらいでさして心配はない。それはひとえに二時間の朝歩きにあるのではないかと素人判断をしていて、朝歩きが何よりの妙薬ではないか、と僕は思っている。

 あと一種類血流を良くする薬〝シロスダゾール〟という薬を服用している。もしかしたらその薬が血圧を下げる効果もあるのではないかと素人考えをしているのだが、さてどんなものだろうか。

 朝歩きの途中、亀戸中央公園のA地点に来ると、何やら派手に声を上げているカップルがいた。いつもそこの公園中央の、屋根のついた丸舞台で一休みするのだが、そこから数十米の繁みのベンチで女性がしきりに声を上げている。何をしているのか中身は容易に想像されるが、あたりは夜の静寂に包まれているのでその声はよく透って聞こえてくる。いつも一人で物想いふけるはずの空間に、そのつややかなあえぎと、時折高く響く声は一種のハプニング、一場の闇の中のドラマであった。

 又二、三日してB公園のベンチでは、声は上げないもののしきりにからみ合う男女の姿があった。僕は、猫の盛りではないがそうした時期が今年もやってきたのだと思った。紫陽花も盛りを過ぎて色が少しあせ、木々の緑は深くなってきた。その木陰の中で夜中に営まれる若者たちの交歓は、しごく自然のことだろう。

 その二回のドラマはその後出会う機会はない。今までにも滅多になかったことだから、今年は特別なことだったのかもしれない。

 いつも朝歩きを始めると気になる風景がある。歩き出して最初に中平井橋を渡って墨田区に入るのだが、この中平井橋の中央が江戸川区と墨田区の中間で、そこに大きなマンションが三戸建っている。そこにともる窓の灯、その数を僕は曜日によって数える。その数のドラマを想像しながら。ご購読はコチラ.pdf
絵・「亀戸の学校」F20号 (2016年)

僕の見る夢 98       2017.06.30

6.F6号八広の古い家.jpg立花義遼先生から電話があった。「唐組公演見たかい?」という電話で、「先日巣鴨に行ってきました」と僕は答えた。
 立花先生は、以前武蔵野美術大学で心理学を教えていて、大学では人気の名物教授であった。そして唐十郎と大変親しく、唐十郎を横浜大学の教授に世話をしたのも立花先生だった。何故唐十郎が大学の教授になったのかの裏事情を僕は知らないが、唐はそこでも独自のユニークな授業をして、その教え子たちが今では「劇団唐ゼミ」をつくり活発に公演を繰り返している。主催は中野敦之である。彼等は彼等なりの唐演劇を展開している。
 ところで現在の唐十郎であるが、体調を崩したままリハビリにはげんでいるとのことだ。それほど親しかった立花義遼のことももう忘れてしまった様子で、意識が正常に戻る時とすっかり忘れてしまう時とが交互にあるらしい。今年の春の唐組公演にはまだ来ていないとのことだった。
 数年前、突然朝僕の家に電話があり、「宇野さん、今平井の駅に来ています。一杯飲みに出てきませんか」と、唐さんから誘いがかかった。僕は驚いたが、「僕の家でやりましょう」と答え、唐さんはタクシーで僕の部屋に着いた。その時帰り際に、「僕はね、この頃しきりにデェジャブ(既視感)を見るんですよ」と言っていた。唐さんらしい物言いだと思ったが、後からそのことが何か気にかかった。今思えばあの頃すでに唐さんの中に予感があって、この世の事を忘れてしまうのではないか、と考えていたのではないだろうか。文学や演劇の名うての賞を芥川賞をはじめ総取りし、最後に朝日賞という大きな賞を受賞したときには、唐さんはその受賞の認識をもう失っていた。
 唐さんが倒れてから、先行き不安を抱え込んだのは唐組の劇団員、俳優たちだろう。様々な問題が大波小波となって襲ってきたことは、外野席の僕の耳にも届いた。その都度僕は立花義遼に電話をし、経過や問題点をたずねた。そして確かに直接なり間接なりに、立花先生の元にはその時の事情が届いていた。リハビリ中の唐十郎を別荘に引き受けたりもし、その手当はあたたかかった。しかしやがて、その立花義遼への認識も唐十郎は失っていった。
 僕は夢見ている。又あの幼児のような澄んだ目をした唐十郎が、はっきり立ち直った姿で現れる事を。ご購読はコチラ.pdf
絵・「八広の古い家」F6号 (2016年)

池袋東口から 97       2017.06.16

5.F6号桜公園の夏.jpg 久しぶりに池袋に行った。故郷の友人の楽器制作の発表会を見る為と、その後映画を見て夜は巣鴨の鬼子母神の境内で赤テントを張る唐組の演劇を見る為だった。それで池袋の東口に降りたのである。

 池袋といえばもう三十年以上前のことになるが、西口方面には時々来たことがある。その頃西口の駅の近くに安い酒を飲ませる大衆居酒屋があって、僕もそして友人の画家のMもその居酒屋目当てに池袋に通った。友人のMには事情があって、彼はその頃二つの家庭を持っていた。池袋の近くにその一軒があり、そこに来る一つの言い訳としてその大衆居酒屋が必要であった。深い詮索はしたことがないが薄々に僕はそのことに気付いていて、彼のそれまでの人生が案外複雑で無頼な一面を持っていることに、見て見ぬふりをしていた。大なり小なり画家に限らず創作をする者には、人に言うに言われぬややこしい心理が存在する。Mの複雑できっと苦しかったろうそうした生活も、そう長くは続かなかったのではないだろうか。いつか彼の池袋西口の居酒屋通いも足が遠のいて、そして僕も西口に行かなくなった。僕の場合どういう事情で足が遠のいたのか今では記憶がない。引っ越しをして距離が遠くなってしまったということかもしれない。

友人の楽器制作の発表会で久しぶりに訪れるようになった池袋は、西口の居酒屋で飲んでいた頃とは全く別の街になったような変わり様だ。今の僕の目に写る池袋は若者にあふれた大都会で、人ごみに押されて歩くと田舎から出てきた地方人の気持ちになる。

 池袋に比べれば新宿の方がはるかに街の様子が変わっていない。ビルの建ち方も少ないし新宿ゴールデン街もそのままだ。歌舞伎町も店の内容は目まぐるしく変わるけれども、建物はさして変わっていないのである。新宿をはさんで池袋、そして渋谷も今年から大変わりをしそうである。渋谷の街も僕は久しくゆっくり歩いていない。

 さて、久しぶりの池袋の最後のスケジュールは鬼子母神の赤テント・唐組公演で、その日は珍しく満員ではなく八割の入りであった。演目は「ビンローの封印」で、演出の久保井研は座長の唐十郎が体調を崩している現在、唐十郎とは又違った芝居のあり方を僕たちに見せてくれる。セリフの一つ一つが観客に分かり易く伝わり優しい唐劇で、そのことの良さも欠点も彼等の人生の課題となってゆくだろうご購読はコチラ.pdf
絵・「桜公園の夏」F20号 (2013年)

三千五百円の腕時計 96      2017.06.02

4.F6号平井の古い工場.jpg 永らく使った腕時計が動きを止めた。この腕時計は妻、延子の兄が生前使用していたもので、腕の振りによってゼンマイが巻かれる式のものだ。この一、二年二十四時間の内二分ほど遅れるようになっていたが、それなり重宝をして、朝歩きの時など必ず腕にはめて僕は歩いていた。いわば体の一部分になっていたので、動かないとなると大変困ったことになった。

 それで、妻にそのことを言って「新らしい時計が欲しい」と僕は頼み込んだ。さして高級な時計が必要な訳ではなく、安価でよいから正確な時間が刻まれてくれればそれで良い。

 「一体どの位の値段で買えるのか?」と聞かれて「五千円以内で質流れなどの中にあるのではないか」と僕は答えた。しっかりした知識があるのではないからいわばあてずっぽうな答えだった。ふと頭に浮かんだのは山谷の泥棒市にその位の値の時計があったように記憶していたからだ。

 妻は五千円札を一枚取り出して、「この値段で買えるなら…」と言った。もちろん僕はそれで了承をし、札を懐にしまうと早速目当ての京島の質店に向って走り出した。記憶の中の質店の前に行ってみると店は無かった。いぶかしいまま近くの和菓子屋の主人に聞いてみると、「随分前に質店は店をたたんで引っ越しをした」と和菓子屋の主人の答えだった。

 あてが外れた僕は山谷を目指して自転車のペタルをこいだ。途中時計屋を探したがなかなか見つからない。押上のスカイツリーの前に一軒の時計がウインドーに並ぶ店を見つけたが、やはり四千円以上はしていて買う決心がつかない。

 やはり山谷まで足を伸ばすことにして途中、昔初めて中学生の時に兄に買ってもらった腕時計のことをしきりに思い出した。オリエントの時計だったと思うが、その時僕は嬉しすぎてはしゃいでいて、その大切な時計を失ってしまった。その悲しさは今だに忘れられない。落ち込む僕に兄は又新しい時計を買ってくれた。

 それから今までに僕はインターナショナルやらセイコーやらシチズンやらの時計を買ったりしたが、時には質屋に入れて流したり何処かに置き忘れたりして、今まで何個の時計の世話になっただろうか。

 そして今回、山谷に行ったが時計を売る泥棒市は消失をしていてそこにはなかった。が、山谷のいろは通りに一軒の時計店を見つけた。そこに三千五百円の新品の時計があった。神の恩寵の三千五百円だった。ご購読はコチラ.pdf
絵・「平井の古い工場」F6号 (2016年)

雪の暗い美しさ 95       2017.05.19

3.F6号太陽の皿.jpg 桜の花も河津桜、染井吉野、ぼたん桜となって咲き、終わりの藤の花が咲き下り花みずきに咲き移った。

 今年はなぜか浅草から隅田川沿いに咲きほこる桜並木を歩く機会のないままになったが、それでもあちこちの場所で一人花見に酔う時間はたくさんあった。特に朝の二時から毎日歩く朝歩きの中で、いわば夜桜を一人満喫する時間は日々の楽しみだった。それと旧中川の水鳥の姿を探す楽しみは格別の僕の一人時だった。そんな時間が終わった。

 そんなときに吾妻橋の画廊〝アビアント〟の女主人、礒貝延子から電話がかかってきた。「北海道、苫小牧で絵を描いて才能豊かな仕事を見せながら、五十代半ばで逝った畠山直樹にゆかりの画家が個展をしているので、是非見てほしいし、作家本人も合いたい意向だ」という話だった。畠山直樹のことはこの〝僕の旅〟にも書いたことがあり、僕の画家の友人の中でも縁の深い一人だった。突然のまだ五十代半ばでの死はいまだ記憶の中に新しい。

 その畠山の北海道での画家仲間だったという女性、女流画家という人に僕も会ってみたかった。そして僕の知らない畠山の話をきっと聞けるに違いない、という興味もわいた。 開店早々の画廊で待っていると、姿を現したその女性は女流画家といったイメージとは遠く、やさし気なメガネを掛けたいわばごく普通の美しい人だった。僕の中で畠山直樹の姿が彼女を通して少し変化した気がした。

 苫小牧と札幌がどれ程距離がはなれているかよくつかめないが、話によると教わった絵の師は一緒だった。合評会などで会っていたとすると、苫小牧の畠山が遠い札幌まで行って合評会に参加していた、ということだろう。

 ただ彼女はこうも言った。「お互い独身であったから深くつきあうと言うことはさけて(意識的に)いました」そういう彼女の言い分はすぐに納得がいった。ということはやはり彼女はすぐれた画家であり、純度の高かった者同志がやけどをすることを本能的に回避したのだろう。理性的で知的な面を持った女性であることがそれでよく分かった。

 確かに見かけとは違って、彼女の作品は才気走った才能に恵まれた人の魅力的な作品群だった。途中作品にひきつけられた人が二人三人と画廊に入ってきて、その作品の魅力を口を揃えてほめたたえていた。「流石に北海道の人ですね。明るくはないが、雪のような白さと暗さが良い。」僕の目にもそのように絵は見えた。ご購読はコチラ.pdf
絵・「太陽の皿」F6号 (2016年)

水鳥の旅立った日 94      2017.04.21

1.F6号平井の店.jpg いつもの公園にゆくと目当てのしだれ桜はすっかり散ってしまっていた。そのかわりに染井吉野は満開の花盛りであった。

 そういえば今日の朝歩きの亀戸中央公園の夜桜は満開で、道には桜の花ビラが一面に散り敷いて夢幻のようであった。そして旧中川の川面にも花は散り敷き、水鳥たちの姿は一羽もなかった。鳥たちは北の国に向って飛び去り、川は寒い季節の様相を変えた。もうこれからは若葉の季節となって春爛漫の短かい一時が来る。

 昼日中の桜の道には新入学の子供たちが新しい制服をきて、父母の自転車に乗せられて入園式にゆく。僕も又今年も近くの小学校の入学式に呼ばれて短かい挨拶をした。丁度その日は折からの強風で案内のボードが風に飛ばされそうになった。学校の先生たちが必死に押さえつけ、春の嵐と格闘をしていた。

 何となく心が揺すられる気がする頃、妻は大学の同窓会が奈良で開かれることになった。いそいそと久しぶりの関西行きに気もそぞろのようだ。僕はこの夏の中学校の同年会の案内が来たけれども、浅草の画廊での個展と重なって出席はむつかしい。随分前の同年会の時は東京在住の同級生が五人ほどいたけれども、今は二人だけになってしまった。僕が出席出来ないとなると、もう一人の友人はどうするのだろうか。そんなことが気にかかる。

 四日前のことだった。八広の道を走ってゆき赤信号で止まると、道路の反対側に二羽の鳥がもつれていた。よく見ると鴉が鳩を襲って大きなクチバシで噛みつき、その足で鳩の体を押さえ付けていた。無残な光景にしばらく目が釘付けになった。後の自動車修理工場の人もそれを見付けて、「鳩がやられているぞ!」と大きな声を上げた。瞬時のことなので判断がつかなかった。

 これは、と思い至ると僕は道を突っ切って走った。近くにゆくまで鴉は襲撃をやめなかった。僕は無言のまま鴉を蹴った。が、素早く飛び上がった鴉は近くの木の枝に逃げてとまり、下を見下していた。

 鳩は首を上げ体を動かしたがもう立ち上がる力はなかった。目をしばたかせたが、序々に動かなくなっていった。囲りには一面むしられた羽毛が散乱して、襲撃の激しさが一目瞭然だ。そして鳩は全く動かなくなり呼吸を止めた。僕にはなすすべもなかった。立ち去るしか方法がなかった。というより早く立ち去りたかった。無残な自然の営みをつきつけられ、非日常の出来事に出会い、その日一日心は波立ったままだった。ご購読はコチラ.pdf

絵・「平井の店」F6号 (2016年)

長谷川利行を巡った日 93      2017.04.07

2.F6号八広の家.jpg 長谷川利行の四十九年の生涯は凄絶であった。その生涯を数少ない友人の矢野文夫は「放水路落日」やその他の本に書き残し作品の鑑定などもした。

 その矢野文夫に案内をされて利行の足跡をたどって歩いたことがあった。西日暮里の食堂に行くと、矢野文夫は「あっ、ここは昔のままだ」と言った。入ってカレーライスを注文すると、「昔のままの味だ」と言い、その店の女主人に「僕のこと覚えているかい?」などとたずねた。むろん数十年前のことなど記憶の中にはなく、「分かりません」と返事をしたが、矢野文夫は何となく嬉しそうであった。

 そして晩年に利行が行き着き宿泊していた山谷のドヤ(簡易宿泊所)街にゆき、まず浄閑寺をたずねた。この寺の墓地の中に〝生きては苦界、死して浄閑寺〟という碑が建てられている。その碑を読むと矢野文夫は「この場所は何となく寒気がする」といい、早々に立ち去った。そこから数百米のところが泪橋交差点で、白髭橋寄りに四、五軒いった辺りに来ると「そうだ、ここに利行が泊まっていた秋葉館があった」と言った。

 利行はこのドヤから昼間あちこち知人を訪ねて絵を売りつけにゆき、夜は浅草の神谷バーを中心にして飲み歩いた。そして又酒場の絵を描いて人生を生きていたのだ。名作〝ガスタンク〟や荒川放水路はここから近い。

 ドヤの住人は皆その日暮らしの日雇い人夫だった。まさしく日本の底辺の場所で、利行は日本の油絵史の名作傑作を生みだしていった。 矢野文夫は昔懐かしい場所をめぐって、感慨を新たに深くした。タクシーでその日のスポンサー木村東介の居る画廊〝羽黒洞〟に帰りつくと、木村東介と昔話に花を咲かせた。僕は僕で利行の生前の場所を確かめた感慨と、利行の生前を知る矢野、そしてその作品に画商として人生を賭けた木村東介とを前にし「もうこういう機会は二度とないのだ」ということをかみしめていた。

 矢野が画廊を去った後、僕はあらためて不忍池の中に建つ長谷川利行碑の前にゆき、熊谷守一の書になるその碑の前に立って両手を合わせた。生前の利行に会ってきたような、言うに言われぬ心で胸が満たされるようだった。

 長谷川利行の四号の油絵「浴女」が僕の部屋にやってきたのはそれからずっと後のことだったが、その絵は画家の寺田政明が所有していた、と裏に記されていた。その絵も僕の部屋から去っていったが、僕の中で生き続けている。ご購読はコチラ.pdf

絵・「八広の家」F6号 (2016年)

二つの日曜美術館 92        2017.03.31

39旧中川風景F25号キャンバス.jpg このところ僕はNHK教育テレビ「日曜美術館」を二回見た。一回は〝魂の画譜、戸嶋靖昌〟でスペインで絵を描いた画家である。

 この戸嶋靖昌という僕より十四才年上の画家に、二十代のはじめ頃会ったことがある。彼がスペインから帰国して銀座の画廊で個展をしていた時だ。僕の師の山口長男からその名前を聞いていた。そのスケールの大きな画風を山口長男はとてもほめていた。そんな興味と人づてに聞いた彼の言葉が耳に残っていて、その作品を見てみたかったのである。

 僕の記憶では、青一色の暗い画面が独特の重さを持って広がっていた気がする。その会場にやってきた戸嶋本人のいでたちと、大きなオートバイで会場に乗り付けた姿が印象深く僕の心に刻みつけられた。人の噂では、戸嶋は日本に居た時にも子供を柱にしばりつけて絵を描き「俺は十回結婚するんだ!」と豪語する、何やら型破りの人柄だった。

 会場に大型のオートバイで乗り付け降り立った姿はその端正な風貌とあいまって、確かに尋常でない迫力があった。その印象がはっきりと胸にしまわれていたので、今回放映された日曜美術館は興味以上の僕の記憶の倉庫を揺り動かした。

 僕の中で何やら一人の画家の像が鮮明になった。戸嶋とは又別の場所で間接的出会いもしていた。それは平成十九年十一月号の月間美術という雑誌で〝魂を掴むような絵はないか〟という特集で僕の作品も取り上げられたが、その冒頭の画家が戸嶋靖昌だった。二重にも僕の絵の旅の途中で彼に出会った気がする。言葉を交わしたこともない人ながら人生で出会った気のする印象の濃い画家だった。

 僕が見たもう一週の日曜美術館は「長谷川利行」の放映だ。僕は長谷川利行こそ日本の油絵の歴史の中で、高橋由一に繫がるリアリズムの本流の画家だと見定め思っている。中には日本的フォービズムの画家などと、里見勝三などの流れの内に入れこむ人もいるようだが、全く本質が違う…と思う。西洋から学ぶことを目的のようにする日本の油絵の中で、長谷川利行こそが日本の風土の現実と向かいあった稀有な画家なのだ。そういう意味で長谷川利行は僕の絵の師だ。

 日曜美術館の中で利行の絵の解説をしていたコレクターの一人H氏は僕と会った時「絵などは燃えるゴミだよ。陶器は燃えないゴミだ!」と言った。未だに彼の言った言葉の意味を僕はとらえ考えあぐねている。ご購読はコチラ.pdf

絵・「旧中川風景」F15号 (2014年)

藤沢行 91        2017.03.17

40芙蓉花F20号キャンバス.jpg 先だって僕は生まれてはじめて藤沢の町に行った。前々から是非一度は訪ねなければならない、と考えていたから良い機会だった。というのは、数週間前から藤沢で井上有一にまつわる展覧会がひらかれていて、僕と妻の書の作品もそこに並べられている、と案内状が届いていたからである。

 想像をしていた町と違って藤沢はビル群の多いおしゃれな町で、駅に降り立って僕は少し戸惑った。少し鄙びた田園の中の風景を勝手に思い描いていた。その僕の目に飛びこんできた藤沢の駅前は、ビルの林立するそれこそ僕が今暮らしている平井(江戸川区)と比べてはるかに都会の風景だった。駅からの階段を下りたところに立派な古書店があった。

 目的の展覧会場にゆく前に僕はその古書店を見学した。書道に関する専門書がずらりと揃い、文人の生原稿や直筆の色紙なども店に飾られていた。すぐには立ち去りがたい店の内容である。そしてその古書店から歩いてゆくと又別の立派な古書店があった。もう僕の中の藤沢の町のイメージはすっかりくずれ、文化の香りのするモダンな都会が現前していた。展覧会場に着くまでの町の風景を新鮮な驚きのまま見乍ら僕は歩いた。

 昼日中はさりながら、夜になると町はもっとことなる姿を見せるのではないか、と思わせる酒場なども見受けられた。夜の藤沢の町を訪ねる楽しさも想像された。町は魅力に輝いている気がした。

 目的地の展覧会場はにぎやかな通りを過ぎて住宅街に入った所にあった。さして広くはないが天井を高くしたおしゃれな空間の建物だった。井上有一の作品と資料を中心にして、それにまつわる幾人かの作家の書作品が集められていた。数週間をかけて作品の並べ替えがされ、その総量は相当な数になる。

 その中心は同じ藤沢に住むGさんのコレクションで、長い年月をかけて蒐集されていた。Gさんと井上有一との繋がりについては、幾度か聞いたはずだが、僕の記憶の中に整理して入っていない。井上有一という現代書道史の中でひときわ輝く作家の存在が、あちこちで照明をあてられているにもかかわらず、まだ僕の中でまとまっていないからだ。それと僕の怠慢。それでいてその書作品の魅力はいつも気になっているのである。

 折につけてその全体像を知ってみようという思いが今回の藤沢行となったが、まだ時間がかかりそうだ。 彼の履歴を見ると六十九年の生涯だった。三十二年前没。そして僕は今六十九歳だ。有一の没年になる。ご購読はコチラ.pdf

絵・「芙蓉花」F20号 (2013年)

陰影のある人 90       2017.03.03

バイオリニスト.jpg 高輪の崖の中ほどにある一寸変わった演奏会場でのコンサートは豊田出身の姉がピアノ、妹がバイオリンのデュエットと、一人づつの単独の演奏との組み合わせだった。大きなオーケストラの長い演奏会などでは時々眠くなる、という悪い聴衆の僕でも、二時間足らずの二人の演奏会は聞き耳を一生懸命立てている内に終わってしまった。

 その演奏が良いのかどうかも分からない。聞き分ける力のない僕には、二人の演奏者の健康的な溌剌とした清々しさだけが印象的だった。この人たちはきっと健康的な人生を生きてこの場所に居るのだろうな、と勝手に想像した。僕の目と耳では、その人たちからはどこにも陰のようなものが感じとれなかったからである。

 少し前に鬼籍に入った俳優の原田芳雄宅で出会ったピアニストのフジコ・ヘミングという人がいる。波風荒い人生を送ってきた僕からみても、複雑な一筋縄ではゆかない深い陰のようなものが体全体に漂って、人を近づけさせない鎧のようなものを明らかに感じさせた。人の何倍も深い人生の陰影を身に付けて、そこを頼りに生を得ている。そんな感じを僕は受けた。フジコ・ヘミングと演奏をした新日本フィルの友人はとても演奏がしにくかった(し易くなかった)、といった。僕が原田芳雄宅で見かけた印象も、とても人好きな付き合い易いという人柄ではなかった。どういう関係で沢山の人の集まるあの場所に居たのかも不思議なそんな人だった。家が近くだったので、気のおけない親しい間柄だったのかもしれない。原田芳雄夫妻がそんな懐深いものを持っていた、ということだろうか。

 今この原稿を書いているのは四日ほどの旅、豊田市から帰ったばかりだ。この四日間は妻延子の書の展覧会のために豊田市月見町の旅館に泊まっていた。去年の四月も同じ旅館に泊まった。五階建ての旅館の二人用の部屋は広くて清潔で風呂場が気に入っていた。何より三階の僕たちの部屋の窓から見える風景は高いビルのような建物がほとんどなくて、平家や二階家の家並みが遠くまで見えた。東京で僕たちの住んだ家はビルばかり建ち並ぶ殺風景な景色が多かった。

 そんな風景ばかり見なれた目に月見町の旅館からのながめは心休ませてくれるものがある。強いていえば、懐かしい風景が見える場所である。 泊まった一日めと二日めは廊下に出ると煙草の臭いがした。三日めは学生たちが泊まっていたようだったが、どの日も人に会わなかった。旅館はとても静かだった。落ち着いた。
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絵・「バイオリニスト」17・5×12・5㎝ (2017年)

品川、高輪の演奏会 89      2017.02.17

38和服の人F50号キャンバス.jpg 本当に久しぶりに品川駅におりた。随分昔この駅でおり、すぐ前のプリンスホテルを左折して、一軒の家を探したことがあった。それは大きな屋敷で、持ち主は杉田という家であっ
た。

 杉田敏一というその家の主は、美術ブーム華やかな頃、日本で一番の売上をほこった「柊美術店」の店主だった。洋画(油絵)では日動画廊が当時日本一といわれたが、柊美術店はその三倍を売り上げているといわれていた。

 もちろん扱う絵は日本画が主だったが、油絵も一部の画家をコレクションしていた。鳥海青児、中川一政などの沢山の絵を僕は画廊で見せられたことがある。

 当時の画壇の王者東山魁夷が画廊を訪れた時、若い頃玄関払いをされたという理由で杉田は東山をエレベーター入口で追い返し、「ここはあなたの来る所ではない」と言った、という話は其の世界で知られた話である。反骨の画商でもあった。そのかわりそこまでの美術商に成るまでには散々苦労をした話は一部でよく知られていた。

 僕は柊美術店で唯一個展をした画家であった。「であった」と書くのはそれがもう随分昔のことで柊美術店も今はもうそこに無い。美術ブームが去った後、見切りの確かだった杉田敏一は、銀座の店をいち早くたたみ高輪の自宅に拠点を移したからである。そしてその自宅を探して品川プリンスホテル近くの屋敷を外から見たのである。それ以来品川駅をおりることはなかった。

 久しぶりに品川駅でおりて外にでると、昔の街の面影はなく、杉田家がどこであるかも見当がつかなかった。今回の品川行の目的は、駅から十分足らずの場所でひらかれるピアノとバイオリンの演奏会を聞く為であった。

 演奏会の場所は高輪プリンセスガルテン内のアンビエンテというところ。坂道を少し上がって、いわゆる崖に面した一寸不思議な建物の中であった。

 教会やコンサートホールでのコンサートには時々出掛けてゆくが、こうした演奏会場は初めての体験であった。演奏の始まるまでの時間、建物の観察をするのが興味津々だった。切られている窓の外は崖面になっていて、大雨の時などどうなるか、などと考えた。

 待ち控えている場所から階段を下ってゆくと演奏会場になっていた。五十人も入れば一杯になる、そんな会場だった。だからこそ演者と観客の距離は近く、演奏の呼吸などが手にとるように伝わり、音に体を包まれ、そして浸った。ご購読はコチラ.pdf
絵・「和服の人」F50号 (2014年)

七十才手前の目出度さ 88      2017.02.03

37川に行く道SMキャンバス.jpg 年が明けて早々に体に少し異変が起こった。両腕が突然下に落ちて、力が入らなくなった。午後の十四時と十七時の二回だ。一週間前にも一度そうなった。原因がつかめぬまま妻の方が不安になり、近くの病院にいった。

 かかりつけのその女医は病名を特定することもなく、二駅むこうの都立の大病院へすぐに紹介状を書き、そこにゆくようにと言った。脳の検査をする為だった。 都立の大きな病院にいってみると、流石に沢山の人間が院内を行き交っている。こんな大きな病院を自分の為に訪れたことはない。大きな病院なので手続きもややこしい。付き添いの妻と二人であちこち歩かされた。MRIの予約も混んでいて、すぐというわけにはゆかない。だが偶然キャンセルが出たのであなたは運が良いと、まだ若い医師にいわれて数日後の予約をとった。

 朝早く予約の部屋にゆくと下着だけの上に医療衣をつけて入れ歯を外した。そして予約のMRIの機械の中に頭を入れた。沢山の様々な音がして、耳に当てられたヘッドホーンからはかすかな音楽が鳴っていた。時間の感覚はわからなかったが、三十分はかからなかった。

 はじめての経験で結果が出るのが不安だった。次の日内科に結果を聞きにゆくと、首すじから脳にゆく血管が細くなっていてその処置をどうするかは脳外科の専門医が判断をするということだった。そして僕の病状の判断は神経内科から脳外科に移ることになった。そこで最終判断がされる。もし手術ということにでもなると一体どの位入院になるのか、そんな予測が頭の中を横切った。

 僕は不安なまま脳神経外科を受診した。まず五十代前半の医師はいかにも落ち着いた風貌でその人柄に好感がもてた。MRIの画像を幾枚か見ながら、所見の説明を患者によく分かる言葉で話していった。

 まず狭くなった血管と脳全体を見て、手術は必要が無いこと、投薬治療で充分な状態なので一年に一度の割合でMRIの検査をする必要があるとの説明があった。「では何なら来年の一月の検査を予約しますか?」僕は「もちろん予約をして下さい」と答えて内心ホッとしていた。

 予測していたより大袈裟な病状ではなかった、ということが何より安心だった。年齢相応の体の故障は自分でいたわりながら治療してゆくしかない。この際投薬の不自由さ位は納得しなければならない範囲の内だ。七十才手前の年明けは、自分の体の自覚と生活の自覚の始まりとなり、それも又目出度い事の内だと。ご購読はコチラ.pdf
絵・「川に行く道」SM (2015年)

命脈とは 87       2017.01.20

36椿の実とセミF6号キャンバス.jpg 元日がきて僕は六十九才になった。一月一日が誕生日だから、これで六十代の最後の誕生日をむかえたことになる。僕の幼い頃の感覚からいえば立派な〝おじいさん〟である。

 かと言って自分がそんな年老いたという気持ちは正直いって無い。人それぞれだとは思うが、僕のまわりの同級生も僕と同じような気持ちではないかと思う。ただ知人の死の報せがこのところ多くなったのは事実で、親しい仲間が二人三人と消えている。そして賀状でも訃報が届くことが多くなった。気付いてみるとあの人もかの人ももうこの世に居ない。そして大きな手術をして三途の川から帰ったという知人も幾人かいる。確かにもう僕のこの年令が死に近づいていることには、目をそむける訳にはいかないだろう。

 それでも僕の身に限っていえば、体力のおとろえを痛切に実感するというところまでは感じない。ものを読むのに老眼鏡は手放せないし、歯も随分抜け落ちている。体質的に若い頃から僕の歯質は悪くて歯医者の世話にはなりっぱなしだ。

 だが絵を描く意欲は益々盛んで、自分の未熟さだけが、夢み見る程不満である。そのことに関してはまだ時間がいくらあっても足らない。自転車で町を巡るたびに描きたいもの、描きたい絵が無限にある。ただ、東京には美術館が増え美術展がどんどん開かれるが、わざわざ出掛けてゆこうということはほとんどない。友人知人の発表には出掛けてゆくが、それはそれなりに気にはなる。自分の仕事を確かめる基準になるからだ。

 それと幾点かの欲しい絵や書などには興味がある。身のまわりに置いてながめているのは心地良い。先回長谷川利行のことを書いたが、その長谷川利行の絵も一時期僕の居間に掛かっていたことがある。思いがけない事情から偶然手に入れたものだが、それもしばらくのことだった。

 絵には絵の運命があり「浴女」というその四号の絵は僕の居間から去った。今僕の手元には小川芋銭の絵と書が数点あり、それはもう長い間僕の部屋の住人として住んでいる。幸いなことに美術商の間では芋銭作品の評価は現在そう高くないので、当分僕の部屋から居なくなることはないだろう。

 僕は近代日本画の中で芋銭を高く評価しているが、人はそれぞれである。小川芋銭の作品は僕に色々なものを与えてくれる。 江戸時代の良寛から小川芋銭に流れている命脈を一人で楽しみ考えるのが僕の美術の方法でもある。ご購読はコチラ.pdf
絵・「椿の実とセミ」F6号 (2013年)

絵の運命 86       2017.01.06

35閉まった店(八紘)F6号キャンバス.jpg 僕は今まで公募展とか団体展といったものに絵を出品したことはない。個展だけで二十代から作品の発表をしてきたのだが、唯一「シェルシェル展」というグループ展にこの幾年か絵を出してきた。

 今年も十一月の末にその展覧会があった。十人ほどのグループ展だが一人二点を並べるその展覧会が終わり、年内の作品発表会はそれでしまいである。「シェルシェル展」の出品者はほとんどが東京芸術大学の出身者でしめられていて、いわゆる学歴の無い画家は僕一人である。そういう目で見るせいか僕の絵はどこか他の人と色合いが違う。いいにしろわるいにしろ少し異色のように思える。このことは生き方、生き様の違いであって、その生き様描き様を僕は通してゆくしかない。

 僕の絵画修行は美術館の名画を見て歩くことから始まった。銀座の画廊の様々な絵、外国の作家や大手画廊の大家の絵を見て廻りながら生の油絵を取得していった。そしてある年令になって日本の風土を自分の目で見、確かめて自分の画風を作ろう、と思った。

 それはより日本的なものと思い決めた。それを京都というより日本的と思われる町に的を決めて、その町に住んだ。そして京都の表通りではなく、生活の臭いのする裏通りをもっぱらに歩いたのである。京都という町の生の暮らしを描こう、と思ったのだ。

 それはとりとめのない犬のようにうろつき、棒にぶち当たる、といったやり方だった。だから毎日何が描けるのか分からなかった。感動する瞬間だけが頼りだった。そうして千枚以上のスケッチが描き上がった。

 描き上げられた絵は誰かに認められなければどうなったろうか。これは絵の運命といったものだが、運良く目利きといわれた画商の目に止まった。それも一人ではなく、名うての大物画商といわれる三人の目に入ったのである。画商の目に止まるというのは当然の如く絵が買い上げられるということで、そのことによって僕の運命も又画家としての入口に立つことになった。

 画商によって買われた絵は必然値が付けられ、その人たちの画廊に並び売られてゆく。僕がはじめて人の手によって企画された最初の展覧会(新宿の紀伊國屋画廊)では一点の絵も売れなかった。しかし画商に買い上げられた絵によってはじめて絵に値段がついた。このことは画家として立つには大変大きな差、違いであった。 僕の画家としての一歩、入口は銀座の〝現代画廊〟という名の画廊だった。ご購読はコチラ.pdf
絵・「閉まった店(八広)」F6号 (2013年)

ある日の公園では 85       2016.12.016

34川添いの家並太陽F0号.jpg 犬は歩きたいのだ。だから一生懸命に鳴く。その犬を乳母車に乗せて老女が公園にやってくる。犬には前と後ろを支える帯がついていて、それを二本の紐でつり、犬を地面におろしてやる。上で紐を支えてやらないと犬の頭は地面に衝突をする。だから飼い主は紐を支えて、そっと犬を足の着く位置まで降ろしてやる。もちろん足を一歩でも前に進めることはできないが、それで犬の鳴き声はやみ満足気な表情になる。

 しばらくそうして、又ゆっくりと犬を乳母車に戻してやる。犬はゆっくりと目をつむり眠りに入ってゆく。その姿を傍らで二人の老婦人たちが見ている。 銀杏の葉が降りしきる小さな公園のそんな出来事を見ながら、僕は落葉の公園の絵を描いている。いかにもありふれた下町の一角の風景は瞬間僕の心の中をうるおした。ただそんな感情は、何処か絵の中に落ちこみしまわれて一日の作業の中に反映されるのだろう、と僕は思う。もう仕上がり直近なその絵の中に、僕は一人の人物を描き入れた。その人物が公園の情景を見ているように。

 もう一つ、公園での出来事である。ある日絵を描いている時だったが、幼稚園の子供達の一団がやってきた。ついその光景に目が向いて、僕はポケットからカメラを出してその一団を写した。すると、保母の一人が近づいてきて、写真をとらないでくれ、と言った。理由を聞くと、子供の親たちが心配をするから写真をとるのはやめて欲しい、と言う。

 そのことに僕は驚いた。そして今の世情の乾いた空気に何か心寒さを覚えた。何というさみし気な世の中であるか、と。これは都会というものの風潮であろうか、それとも日本の国は素朴な地方に行っても、おしなべて同じ様子なのか。以前旅をした新潟の山奥、鵜川村折居という村落の汚れない顔をした子供たちのことをあらためて思い出した。もうあの時代のあの子供たちは日本に残っていないのだろうか。雪深い山里で町の埃立つ空気をあびることなく育ち、黒姫山の山麓の深い雪に包まれて育った少年も少女も、そして村の大人たちまでが見事に素朴だったあの折居の村も、今では廃村となって村人は町に出た、と幾年も前に聞いた。

 何か大切なものが、確かに大切なものを今僕たちは失っているのではないだろうか。都会の早い時間の生活空間の中で、ゆとりなく過ぎ去る人々の生活に時々僕は心をせかされる。小さな公園の中に閉じこめられる人間の、その先の未来について、結果について。ご購読はコチラ.pdf

寒い季節のことなど 84      2016.12.02

33秋の天祖神社F0号キャンバス.jpg 長谷川利行のことが気にかかって辞書を引いてみると、生年1891年、没年は1940年だから四十九年の人生である。

 彼の人生は悲惨であり、死した後も縁者はその遺骨を受け取らなかった。彼は板橋の行路病者の収容所である東京市養育院で死んだ。彼の作品が世に出たのは去ってずっと後のことである。今では大家の作品が値くずれをする世の流れの中で、その評価は安定し、その人生と裏腹の高値で取引されている。かえってその人生の悲惨さが伝説となり〝日本のゴッホ〟と例えた人もいる。

 ゴッホも又生前売れた絵は一点だけだといわれるが、今では数十億あるいは百億の値がつくこともある。芸術が生きているうちは認められずに、死して後評価を得る典型例である。

 長谷川利行についていえば、現在でも画家たちの中でその作品を認めない人は多い。大家といわれる人たちの口から「あんな絵は誰にでも描ける」という言葉を僕は幾度か聞いた。それは以前銀座にあった現代画廊でのことだった。その時画廊主の洲之内徹は、その大家が去った後「彼は長谷川利行の絵が全然判っていないね」と微笑を浮かべて言った。

 僕は日本洋画史の中で、東京美術学校(現東京芸大)出身の佐伯と我流で油絵を学んだ利行と比べるのが持論だ。佐伯は遂に日本の風景を描くことが出来ずパリで客死した。佐伯が描いたのは油絵を西洋から輸入せざるをえなかったままの日本。日本の風土と格闘し、洲之内徹の言葉を借りれば〝斬り死に〟した長谷川利行の残した仕事は、見事に日本の風土の上に油絵を植え付けた本流の日本のリアリズムの体現だ、と思っている。長谷川こそが独力でただ詩心のみを頼りとして、風土に油絵を生やしたのだと考えている。僕が決して外国に絵を学びにゆきたくないのは、そういう考えの上でのことである。

 僕のこの持論はある高名な美術評論家と論争となり、激しく議論を戦わせたことがある。高名な美術評論家は今でも絵は西洋に学ぶべきものである、と固く信じていた。僕にはどうしてもその考えがお寒いものに思え、暗然としたのである。これが日本のアカデミズムの考えであるのかと。

 この季節は公孫樹の落ち葉が道路や公園に散り敷いている。銀杏の実を一生懸命拾う老人たちはそれを袋に詰め込んでいる。沢山の量の銀杏は自宅用ではなくどこかに売るらしい。それも一つの晩秋の実りだご購読はコチラ.pdf

夢の空、夢の道 83       2016.11.18

32バラの咲く家F4号ボード.jpg 秋の名残というより一気に冬の到来を思わせる寒さで、木々の葉が雨のように振られ落ちる公園の闇の中を一人歩いてくる人がいる。小さな老婦人、おばあさんのようである。
 暗い午前三時の公園を散歩といった風情ではさらさらなく、目的も覚つかなさ気の姿は徘徊のようにも見受けられる。がどうもそういった様子でもない。不思議な気持ちで、僕はその人がゆっくり闇の中に消えてゆくのを見ていた。日々の習慣で朝歩きをする老人を時々見かけることはある。しかしそういう種の人とは異なる老婆の出現は、その人の目的を想像させることを拒んでいるようだ。物珍しい一瞬の出来事だった。

 その後姿を見送ってから暗い川のさざ波の立つ川面に出ると、鳥の鳴き声が響いた。水鳥たちが幾羽も泳いでいて、しきりに潜り又浮かんでくる。川魚をとっているように見えるが、この暗い川で鳥たちは目が見えるのだろうか、と考える。

 鳥たちの上げる高い鳴き音は夜の闇の中によく通る。

 昨日一通のハガキが届いた。中学生以来の同級生からのハガキだった。連絡先が書いてあって「一度電話をかけてほしい」と書かれていたのですぐに電話をした。もう何十年も前のことだから声だけで見当はつかないが、何となく中学生の頃の顔を思い出しそうな気がした。

 「時々故郷に帰っているよ」というので豊田の話をすると、彼の生家は僕の思い出と違っていて、又頭の中の整理がつかなくなった。

 彼のハガキによると、美術品を扱う仕事をしているようで、僕の現在と重なる部分もありそうだ。機会があれば会ってみたい気がした。

 このごろ僕はよく見る夢がある。一つは空中に浮かぶ夢だ。両手を羽ばたくとふわりと空中に浮かび、家の屋根よりは高くふわりふわりと進んでゆけるのである。もう一つは街道を行く夢。池があったり、時々谷のそばを通り、猿投山の横の道らしい道を通って瀬戸の方に行く。瀬戸の町は今の瀬戸ではなく昔の古い町である。その道は目を覚ましてもありありとした現実感がある。確かに僕は昔その道を行った記憶があるが、どんな乗り物に乗っていったのかははっきりしない。そう考えるとそれは夢の中のことであり、現実には無かったことのようにも思われる。中学生の頃の同級生の声も存在もそんな夢のことであってほしくはない。ご購読はコチラ.pdf

水鳥たちの来る季節 82      2016.11.04

31線路添いの家F4号キャンバス.jpg 午前二時からの朝歩きの途中、旧中川の川の面を見ると水鳥が一羽浮いていた。もう渡り鳥が来る季節になったのだな、と季節の到来をしみじみ思った。

 昼又その川の辺りを通ると鴨が二羽だった。一羽だけの姿を何となく寂しく感じた夜の川だった。しかし、つがいになった昼の水鳥の姿は元気があった。しきりに二羽がかわるがわる水の中に潜っている。僕は嬉しくなった。もうすぐ新たな鳥たちが飛来して、この川が冬のにぎやかさを見せるのも遠くない。鳥たちが沢山川に浮かぶ風情はこの川の冬の楽しみの一つでもある。川岸で釣りをする人たちがあちこちに見える旧中川の何となく閑散とした景色。それが水鳥が行き交う冬の風景になると、川の中の魚の数までが急に増したように錯覚する。つまり川がにぎやかになるのだ。

 そういえば一週間ほど前のことだったが、川岸に大きな魚が横たわって浮いていた。あの大きさからだと多分鯉に違いないが、そんな魚の姿を見たのは初めてだった。特別川に異変があるようにも思えないので、あの鯉の死の原因は何だったのだろうか。

 妻の執筆は続いていて、その為の資料が神戸にある。又彼女の勤めていた機関の現状は彼女の勤務していた頃とは内容が随分と変わっているらしい。そのことを調べる為もあって三日間ほど彼女は神戸に行った。資料を揃えて今年中には何とか脱稿する予定のようだ。彼女が実はどんな原稿を書き上げるつもりなのか僕は知らないし、又今知ろうとも思っていない。人生の節目をまとめておきたいのだろう位しか僕は想像していない。

 以前に「手はいつ生えてくるの」という本をある出版社から出した。それでは物足りない何かが彼女の中で醗酵したのだろう。その醗酵に耐え切れなくなった何かを自分の満足のゆく形にしてしまいたい、のではないかと僕は思っている。何かを生み落としたいと彼女の精神が要求したのだろう。それは大切なことだ。

 以前の本は外からし向けられ自分の人生を振り向くきっかけになった。自発的に自分の中で人生をとりまとめておこうとすることは精神の浄化になるだろう。その内発性が大切だ。

 彼女が留守の間、僕は又南千住に出かけてゆき、「淀屋」で焼酎のレモン割りを飲んだ。日本堤の方向には足をむけずに帰ってきた。やはり淀屋で飲む酒の味は僕にはそれこそ精神の浄化作用になる。良い時間だ。ご購読はコチラ.pdf

不思議な夜 81      2016.10.21

30ひまわりF4号キャンバス.jpg 朝二時に目をさますと強い風であった。雨もようではないので用意をととのえて歩くことにした。しばらく歩くと、道路に人が倒れていた。ひどく酔っているらしい。うつぶせで息はしているらしい。免許証やサイフが投げ出され、おまけに一万円札が散らばっている。声をかけても反応が無い。見過ごして通り過ぎてもよいが、それも気が引ける。ともかく服の中に免許証とサイフと金を押し込み僕は歩きはじめた。

 少し気にかかったが、しばらく歩くといつもの風景が目に入って酒酔人のことを忘れていった。亀戸中央公園の森の中にゆくと、木々のざわめきが森の怪人がほえているように思えた。亀戸中央公園は二つに分かれていて、表は国道に面し裏は旧中川に面している。日によって僕は旧中川方面から入ってゆくこともあり、又日によっては国道側から公園に入ってゆく。

 その二つの公園の真ん中を道路が横切っている。そして二つの公園にはどちらも一人づつベンチで眠っている人がいる。一人は自転車を持っていて、もう一人はいつも大きな荷物をベンチに置いている。二人ともホームレスの様だが昼間彼らがどういう生活をしているのか一度として昼間の彼らの姿を見たことがない。

 真夜中に必ず亀戸中央公園のベンチで眠る彼らの人生がどういうものであるのか、あったのか、僕は近くを歩き過ぎるたびに考える。年令は僕とさして違わないその人たちの人生の来歴は一体どうしたものだったのだろうか。

 亀戸中央公園を過ぎて亀戸駅前まで続く商店街は夜中ほどんど出会う人はいないが、日中にゆくと多くの商店が賑わう活気に満ちた下町である。名の知られた餃子の専門店やマーケット、パン屋、八百屋、銀行など人通りは絶えることがない。そして商店街から一歩横道に入れば静かな住宅地がどこまでも続いている。

 その夜そうして亀戸までの町を歩いて我が家まで帰り着いて、やはりあの道路の酒酔人が気になった。僕は又彼の眠っているのか倒れているのか分からないその場所に行ってみた。するともう何処にもその姿は見えなかった。何か不思議な夢を見たような気分であった。雨がもう降ってきそうな、そして少し濡れたように光る道路には二、三匹の猫が行ったり来たりしていた。

 何か不思議な出来事があったようなその真夜中のことは一生に一度のことであるように僕には思えた。
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見守ること 80        2016.10.07

29雪の日F10号キャンバス.jpg 近くまでいったらきっと金木犀はにおうだろう。その向こうに高層マンションが立ち、空は秋の青空。風が涼やかに吹いてくる。

 安い卵も買いそろえ、食卓にはおでんが煮えて、大根もおいしくなった。が、気候の変調で高くなった野菜の値段に妻はしきりにぼやく。

 公園では黒い揚羽蝶がしきりに花の蜜を吸い、それは二羽だから夫婦の蝶なのかと、とりとめない考えをする。その下では鳩と雀が何かを土の中でしきりにつつき啄んでいる。他の雀を見ていると、砂場で砂浴びをして体を洗っている。ぼんやりとした時間が過ぎてゆく。

 公園で他愛なく時間をすごしているのは、絵を描きに外に出ても意欲の湧かない時だ。そんな日は一日があてもなく町を走り廻ることと、公園で何の考えもなく風景を見ている時間だけで過ぎる。弛緩した時間の中で頭脳が働かない。

 今年は雨の日が多く、又いつまでも不快な蒸し暑さで夏の後半は仕事にならなかった。家に居る時間がつい多くなるのだが、丁度、あるきっかけで妻が自伝を書き始め、大手の出版社の編集長に原稿を読んでもらうことになった。結局出版するに至らなかったが、流石に大手出版社である。そんな原稿でもわざわざ我が家に足を運んで返却に来たのである。

 人品骨柄さすがに物静かで穏やか、決して相手の心を傷つけないように、そして丁寧に原稿が読まれたことがよく分かる説明で返却がなされた。 さて話はそれからである。原稿を返却され説明をうけた我が妻どのは、かえってそれで執筆意欲に火が付いたのである。彼女の内の何かの闘争心が燃え上がった。

 それから毎日頭に鉢巻きをまいた如く次々に資料を調べ、遠くまで電話をした。彼女が二十二年間勤め上げた里親探しの仕事が今はどうなっているのか、現在の状況を掴むのに全力をかけはじめた。

 彼女の勤めていたのは神戸の機関で、関西には大阪にも同様の組織体がある。そこで長く勤めたIさんは能力がすぐれ行動力も理論もしっかり持っていて、妻とは違い現在でも現役である。こうした問題が扱われるテレビ番組には必ずといってよいほど登場する。 さて妻どのの目ざす本にとってこの人の知識は何より参考になる。そこで近々上京する彼女に会い、色々教えを乞うことになった。僕も上々の首尾を祈り、陰ながら見守ることにする。ご購読はコチラ.pdf

名残りの山谷 79       2016.09.30

28青面金剛神F6号板.jpg十間橋の袂に将棋の木村名人が住んでいた、と人に聞いたことがある。阪田三吉と名勝負をした人が住んでいたというその家は、長屋の二階建ての一軒で、いわゆる〝しもた家〟である。今の家が昔のままの家なのか新しく建てられたものなのかは分からない。

 以前僕が住んでいた大阪西成の隣りの新世界(通天閣のある)は道一本へだてて浪速区で、その通り道に〝ジャンジャン横丁〟がある。その通りには将棋を指す店が沢山あって、どの店にも阪田三吉の肖像が掛けられている。阪田三吉はこの界隈の神様である。又この辺りは芸能の「ふるさと」でもある。売れない頃のみやこ蝶々やなんと雄二などが住み暮らした長屋が、僕が住んでいた頃には残っていた。そして今でも友人の店、第六足立酒店には著名な芸人がよく飲みにくる。

 ジャンジャン横丁にあった劇場で観客を笑わせることができない芸人はまずそこで失格、落第となる。底辺の庶民の町で笑いのとれない者は芸人にはまずなれないのである。

 大衆演劇の劇場もこの町には多い。第六足立酒店の隣りにも大衆演芸場があって、その役者たちがいつも第六足立酒店に飲みにくる。 ある時第六足立酒店の主人夫婦が東京に来ることがあった。浅草の演芸場を案内すると、そこに出ていた役者たちが夫婦の友だちだった。役者と夫婦は思いがけない場所でのめぐり会いに声を上げて喜びあった。

 さて先日僕は久しぶりに山谷に行った。以前マンモス交番のあたりにあった安いそして美味い寿司屋で寿司と酒を飲もうと思ったのである。だが寿司はもう置いてなかった。主人はいたが、もう寿司は握っていないと言った。代わりに一杯出すから飲んでゆけという。料金は要らないという。僕は素直に酎ハイを馳走になった。

 するとそこで飲んでいた数人が又一杯を出すという。そうこうして飲んでいる内に、仲間のリーダー格から、店を変えて飲もう、という話が出た。中の一人が五枚の一万円の新札を見せたのだ。四、五人が次の店に付いてきた。僕にも声がかかって、ついていった。

 野田屋という山谷で一番大きな酒屋の近くにある大衆居酒場だった。昔、南千住には〝大利根〟というマンモス酒場があり山谷のサロンだった。今は無いその大利根を小型にしたようなまぎれもないサロンがそこにあった。もう昔の面影のない山谷という町の名残りがその店には満ちて、往時を偲ばせていた。絵・「青面金剛神」F6号 (2013年)ご購読はコチラ.pdf

秋風を待って 78       2016.09.16

27公園の木々(亀戸)F6号板.jpg 残暑の陽射しの強さはともかくとして、肌に纏わり付く湿度のしつこさはやり切れない。

 残暑というのは夏が最後の力をふりしぼり、これでもかといわんばかりに人にみせつける強力のように思える。絵を描くどころではないその仕打ちに僕はギブアップする。どこかの公園の木陰で本でも読んでおこう、そんなことをしていると蟻が足をはいのぼってきて、それにも何かイラつく。全く僕は人間が出来ていない。それで又少し違うことを考える。

 神戸の年長の友人が先日食道の病気の手術をした。病状は思ったより重く、手術は午前中から始まって十時間を要した、と連絡があった。何より酒の好きな良い飲み友だちでもあったから、まずそのことをたずねた。もう酒は一切飲んではならない、との執刀医のお達しがあったそうだ。

 何よりの楽しみを無くしたが、居酒屋好きは直る訳はないので、相変わらずそこには行く。だがアルコールでない飲み物にして、その場の雰囲気を楽しむことにする、とのこと。流石にそれも名人のやり方と僕は妙に納得をした。

 僕の部屋には色々な〝書〟が掛けてあって小川芋銭の色紙、村上翠亭の書(これはわざわざ自宅までお邪魔をして強引に頼みこんで書いていただいたもの)、深山竜洞、熊谷守一、そして神戸で十時間の手術をした年長の友人、長沢毅の色紙。文句は「鄙願酒到来。師走筆起、大宇宙」。これは先輩の画家、橋本博英から届いた「鄙願」という酒を二人で師走に味わった時、即興で長沢毅が書き上げたもの。なかなか味わい深くいつまでも飽きないので、もう何年も僕の部屋の座をしめている。もう再びこの色紙が書き改められる機会があるのか? と考えてみると、書というものも一期一会の贈物なのだと感慨深い。そう思えるのだ。

 近頃ふと過去にあった苦い体験が心に浮かんでくることがある。「心に蓋をして忘れようとしていたことが突然あざやかに浮かんで、のっぴきならぬ心のやり場に」というのではない。「思い出させられる」といった按配で、自分の心の整理を持て余すより仕方がないのだ。悪業というものはそんな風にしまわれているのだろう。

 思い出されたといって今更どう処理できるものではないのだが、生き様の中にはそうした負の領域も又積み重ねられ、僕という人間は出来ている。早く秋風にまみれてこの暑さを忘れたい、と今日思う。絵・公園の木々(亀戸)」F6号 (2013年)ご購読はコチラ.pdf

故郷からの贈り物 77       2016.09.02

26旧中川の花々F6号板.jpg ゴミを拾う少年がいる。少年といってももう青年に近い十七才か十八才位に見える。公園といっても普通の公園の五倍以上の広さだ。その広い公園の隅から隅まで走り廻り、一つのゴミも見落とすまいと、一生懸命に探し拾いまくるのである。

 空缶は拾わずに足でけり、ゴミ集積場に運んでゆく。何か彼なりの法則がそこにはあるらしい。少し年をとった父親がそれを見ている。暑い真夏の陽射しの下でそれは何かおごそかな儀式のようにさえ見えてくる。大きな公園の上の青空には大きな大きな雲が流れている。

 それにしても今年の炎暑は度を越していて、油蝉の数の多さに驚いている。夜中の街灯にまつろいつき、あちこちで腹を上にして道にひっくり返っている。そして飛びまわる。その鳴音は昼夜おかまいなしに頭の芯にまで響いてくる。暑ささをこと更あおるようである。いつもは自分の頭の中で鳴る高い金属音が、今年は蝉の声で消されてしまっている。

 いつもは白く見える夏の風景が今年は白くならずにくすんだ緑色と灰色になって、その上に青空が見える。その青空の下を老人たちが歩いている。又はベンチに腰掛けている。公園でよく球技をしている老人たちもこの炎暑の中では見かけない。

 そんなある日、朝歩きの暗がりの中で突然吹いてきて体の横を過ぎてゆく風が、もう秋の近づいている気配を知らせ、僕は立ち止まる。暑かった夏ももうすぐ過ぎてゆく。僕は一息ゆっくりと風を吸い込む。

 暑かったある日、友人の新城彰からの電話で彼の家にゆき、絵を描く仕事を休みにして二人で酒宴をした。とりとめのない二人の話は様々な話題を拾って尽きることなく楽しい。そして酔う。夕方マンションに帰りつくと、自転車置き場が混んでいてなかなか自転車が入らない。そこで僕はかんしゃくを起こしたようだ。マンションの住民とトラブルを起こした。

 次の日妻からそのトラブルについて叱責された。「マンションの管理人を一時間も引き止め、管理人の迷惑は一方ならぬ。あなたは分かっているのか」妻は冷静にそして怒りをふくんで僕を問いつめた。楽しかった新城彰との語り合いの一日が苦く情けない思い出に変わった。


 次の日僕は外に出掛けてゆかなかった。

 何とも苦い思いのそんな日、故郷から甘いブドウと野菜が届いた。少し僕の胸の中に明るい火が点いた。絵・「旧中川の花々」F6号 (2014年)ご購読はコチラ.pdf

人生という戦いに 76       2016.08.05

25白い猫F6号板.jpg今年の東京の梅雨はさして雨量のないまま過ぎた気がする。だから東京の水源が心配のまま梅雨があけた。

 東京都知事選の泥仕合の情報より僕たちにとっては水不足の不安の方が気にかかる。そしてこのところ小さな地震が幾度となく続いている。そんな不安も重なって懐中電灯の電池の点検やペットボトルの水の確認に追われる。

 熊本の惨状もさることながら、東京にマグニチュード7以上の地震が来る確率は決して小さくない、とテレビでも報道された。朝二時からのいつもの僕の朝歩きの暗闇の途中、川の水面を見つめながら「今この時にも大地震に襲われたらどう行動するか」などと考えるのである。

 以前聞いた関東大震災の時に人家の屋根が大きく波打ってせまってくる話や、神戸の震災で道路が蛇のようにのたうちまわり液状化の水が道路から壁のように立ち上がった話などがリアルに想像されるのだ。それが遠い何処かのことではなく、もういつ来てもおかしくない目の前のこととして考えられる。今年の夏はそんな夏として蝉しぐれを聞いている。

 向島百花園近くのギャラリー喫茶〝みづき〟で第二回目の三遊亭円左衞門の落語と講談師鶴遊の講談を聞きにいった。流石に上手なもので四十名以上入った観客も始めから終わりまでやんやの喝采であった。これからも年四回この催し物は続けられるということで、それはそれで楽しみなことではある。円左衛門よると日本中の百ヵ所でこうした催しを続けたい意向。だが現実的にはまだ三ヵ所しか決まっておらず中々厳しい、というところが本音のようだ。五十代半ばになる円左衛門をふくめて落語家の生活もなかなかにきつそうだ。我が身をかえりみて、芸人や画家、音楽家など、あるいは演劇の役者などは生活との戦いにもまれもまれて流れてゆくのが実情だろう。

 知り合いの役者をこの頃テレビで見かけるようになると他人事ではなく、ついテレビの前でエールをおくる。又ある若手の俳優もブームになって、よく見かけるようになるとやはり嬉しい。一方でそうしたチャンスにいまだ恵まれず四苦八苦している多くの俳優たちの名前が劇団から届く知らせの中から消えていると、胸のつまるおもいがする。彼らが長い間努力する必死な姿を見ているだけに、おもいかなわず舞台を去る淋しげな顔が身に沁み入る。これからも続く人生の戦いに身をひきしめてゆけ、と僕は小さな声でつぶやく。絵・「白い猫」F6号 (2014年)ご購読はコチラ.pdf

生きることの交差点 75       2016.07.29

24川添いのカンナF6号板.jpg 鎌倉の展覧会のあと僕はしばらくして又鎌倉へ出掛けていった。鎌倉ドローイングギャラリーで友人の画家、木下晋の展覧会を見る為である。

 木下晋は二十代の頃銀座にあった現代画廊の画家仲間で、年令もほぼ同年である。だが現代画廊から出発をして二人のコースは別れた。木下晋は東京大学に教えにゆき、その後武蔵野美術大学で教鞭をとった。更に金沢美術大学の教授になり、今でもその金沢美術大学で教えている。

 僕はといえば大阪の西成で日雇いをしながら絵を描き、そこで偶然に知った梅田画廊の土井憲治に絵を買ってもらった。しかしある事情から東京に戻り、山谷で再び日雇い労働をし絵を描き続けた。そしてこれも又偶然に知った湯島の美術商〝羽黒洞〟の木村東介と専属契約をしてプロ画家になった。木村東介との契約は木村東介が世を去るまで十一年間続いた。絵を描くことを職業とする生活の基礎はこの時出来た。

 木村東介が世を去って僕はフリーになった。といってもそれは十一年間の安定から不安定な生活に戻されたということであり、生活の戦いが始まったのはそれからである。

 思えば僕が現代画廊で展覧会をしたのが1976年、28才の時である。それから四十年がたった。様々な道程をへて鎌倉で展覧会をすることになったが、図らずも木下晋と同じ場所で前後して展覧会をする、そのことに感慨がある。その感慨をもって僕は鎌倉に足を運んだ。道は又交差したのだ。その後の一人の画家の歩みを僕はゆっくりと見た。

 交差した道は又ゆっくり離れてゆくだろう。70才を前にして僕の歩む方向もその交差点から眺めることができる。そして又彼方に歩む友人の姿を見送ろう。もうすぐ七十才となれば晩年のスパートととも言える。自分なりに心を引きしめて、悔いのないように、目を見開いて歩まねばならぬ。 何が目的であったか、何を目指して歩いたかを見失わないように。

 妻が結婚した姪の子の新居に祝いの絵を届けたいと言った。アトリエの中から三、四点の絵をとり出して選定する。こうした時にふさわしい絵となると、と考えて夏ミカンを二つ描いた小品を二人して選ぶ。 この絵が又どんな運命をたどるかはその絵の運命に任せるしかない。良い人生であれと願い祈りながら。絵・「川添いのカンナF6号 (2014年)ご購読はコチラ.pdf

夏の予感 74        2016.07.15

22親子猫F6号板.jpg さすがに鎌倉はおしゃれな町で、僕の住む平井とは随分趣がことなる。さり気ない細道の商店街でもとてもシャレている。そんな町に立ち呑みの酒屋が複数ある。そして我が江戸川区の下町平井にはないのである。

 それにしても小町通りの人の群れは驚くばかりの凄まじさで、肩と肩がぶつかりあい、歩いてゆくのも困難なほどだ。日本の中でこれほど混みあう場所は他に無い。新宿の駅や歌舞伎町、東京駅の人ゴミなどはまだまだとても歩きやすい。

なぜこれほど鎌倉という町に人が集まるのか。名所旧跡を訪れる外国からの旅行者を割り引いても不思議な光景である。

 紫陽花の季節だけではなく、常時鎌倉はこんな様子であるらしい。とてもその「人のごった煮状態」には付き合えない。そこで通りを一つ外れると、気安気なやき鳥の店などがある。そこには沢山の人が思い思いのかっこうで酒を飲んでいる。

 外階段を上って数軒の店をのぞき乍ら画廊主の行きつけの店にゆくと、そこも満員であった。その店をあきらめ隣りの店にやっと場所を見付けた。カウンターに立つと、文士か文化人風の人が立ち呑んでいて、画廊主は挨拶をする。常連様ということだろう。

カウンターには金を入れる器があって、そこに千円、二千円と置いておくと、注文に応じてカウンターの中の人はその金を取る。明朗な会計の仕方でそれも心地良い。そういう勘定の仕方を僕は初めて見た。

 僕の呑み方はとても早いらしく一寸画廊主を驚かせたが、良い心持ちに酔い気持ち良く鎌倉を満喫した。僕はすっかりこの町が気に入ってしまった。

 展覧会には詩人の高橋睦郎や歌手の山崎ハコ、画家の赤堀尚、佐藤泰生、木下晋などが来た。友人の画家や知人などが訪れて、銀座などに負けぬ人の入りだった。あらためて鎌倉という町を認識させられた機会となった。

 それにしても今年の東京の水源の危うさは心配なことである。九州の方では八大竜王雨やめ給えというほどひどい水害だ。家がくずれ落ちてゆく様をテレビが放映し、息を呑んだ。テント暮らしのままならない生活に、他人ごとながら胸を痛める。

 片や我が東京は一体この夏どうなることやら。数年前の水不足をあらためて思い返す。それにも増して暑い夏の到来を、今から身がまえて待ちうける憂鬱な予感に何やらふるえる。絵・「親子猫」F6号 (2013年)ご購読はコチラ.pdf

鎌倉小町通り「社頭」 73      2016.07.01

23東墨田の家並F6号板.jpg 鎌倉の小町通りに和紙を売る店があったし、今でもあるに違いない。展覧会の時に僕はそこを訪ねてみようと考えている。

 その店の主人は菊岡さんといわれるはずだ。今は菊岡何という名前の人がその店を経営しているのか分からない。僕の覚えているのは菊岡久利という詩人の奥様がそこの主人であった。

 その店には陶芸家の加藤正義の絵ハガキが売られていたが、きっと今でも置いてあるのだと思う。良い機会だからのぞいてそのハガキを求めてこようと思う。

 加藤正義は最後は栄養失調、いわば飢え死にをした陶芸家であった。その作品は僕の家に沢山あって現在でも愛用して使っている。使うほどにあきない不思議な器である。

 加藤正義は一時期鎌倉の北大路魯山人の窯で働いていて、そこで沢山のものを学んだのだと思う。北大路魯山人と菊岡久利の交流はあらためてゆっくり知りたいと思う。菊岡久利は自分の娘たちに「ノンコ(京都の楽焼き本家の三代道入の俗称)」やら「エシノ(絵志野)」などの名前を付けているほどだから陶器に造詣の意深かった人だろう。その菊岡久利が加藤正義の陶器を愛した。ただし菊岡久利はいわばペンネーム(詩人名)で、命名は横光利一であると、どこかで読んだ。

 菊岡久利は鎌倉の文人たち(鎌倉には実に沢山の文人や画家や俳優などがいる)のボス的存在で、北大路魯山人などにもずけずけと物を言ったようだ。魯山人の窯で働いていた加藤正義と北岡久利がどういうきっかけで親交が深められたのか知らないが、「加藤正義陶の会」を菊岡久利の世話で発足させた。発起人は小原国芳、加藤幸兵衛、菊岡久利、黒田領治(黒田陶苑主)高木辰夫(彫刻家)、藤原啓(備前焼)、料治熊太など錚々たる人々である。

 華やかなデビューであったにもかかわらず、菊岡久利の早すぎた死の後、純粋過ぎて不器用な生活者だった加藤正義はいわば飢え死にをしてしまった。もし菊岡久利が生きていたら、加藤正義の陶芸家人生は別のものになっていたに違いない。

 さて、菊岡さんの和紙の店はやはり小町通りにあった。「社頭」という店は久利命名らしい名であった。そして加藤正義の絵ハガキが確かに置かれていた。十種類の加藤正義の絵ハガキと菊岡久利の十数種類の絵ハガキを求めると、菊岡久利の分は勘定から外し加藤正義の分しか取らなかった。その女は菊岡ノンコさんかエシノさんか分からない。ご購読はコチラ.pdf
絵・「東墨田の家並」F6号 (2014年)

又、夏がやってくる 72      2016.06.17

21平井七丁目の工場(今はもうない)F6号.jpg さて、鎌倉での展覧会である。友人の彫刻家の縁で拾ったこの機会を僕は大切にしなければならない。案内状も洒落たハガキが出来上がってきた。

 この逗子に至る鉄道には少し思い出がある。数年前のことである。その年は経済的に困窮し、夫婦で頭をかかえ、どうして収入を得ようか、と連日頭の痛いことであった。

 以前のある集まりで面識をえた横浜の寺の住職のことを妻が思い出し、その人に相談をして、絵(作品)を買ってもらえないだろうかということになった。連絡をとってみると、絵は買えないがその寺を描いてくれれば買おう、という返事がきた。一本の細い糸にすがるおもいで僕たちはその話にのった。

 暑い夏の日盛りだった。僕の部屋から平井の駅まで行き、総武線にのって秋葉原まで出て、京浜東北線に乗りかえ磯子まで行く。そこから寺まで三十分程歩く。二時間はかかるその道を僕は幾日も通った。

 四十号のキャンバスを二枚用意した。その寺院の絵と、そこから岡を上った高台から見下ろす海の絵とを、交互に日をおいて描き進めていった。

 海を見下す岡は陽陰がなくまともに太陽の陽射しを浴び、汗が体からしたたった。手持ちの弁当をひろげる時間になると、見計らって寺の人が差し入れの飲料水を届けてくれた。

 そうして幾日かの後に二点の作品が仕上がり、それを持ち帰って額装した。

 たしか額装をした作品は寺の人が車で取りにきたと記憶しているが、今そこのところは少し記憶がおぼろ気である。

 作品を寺におさめると相当額の作品料が用意されていた。僕たちはその慈雨のような金でその年を乗り切ったのである。

 鎌倉というと、忘れられない暑い暑い夏の思い出を記憶の中から拾い出す。その思い出は少しにがい。

 そして絵を描いた帰り道の寺の近くのマーケットでいつもブドウを一房買った。時には横浜の駅までバスにのって、ブドウの一粒一粒をかみしめるのが楽しみであったことも、又ゆっくりと記憶の中から拾いだす。

 今年の夏は例年より暑く、史上最高の暑さになるのだとテレビの天気予報が言っている。その暑さがやってくる頃には鎌倉での展覧会は終わっている。その展覧会ではどんな出会いがあるだろうか。

 今年の夏の暑さはどんな新しい絵を僕に描かせてくれるのだろうか。ご購読はコチラ.pdf


絵・「平井七丁目の工場」F6号 (2012年)

いとおしいことなど 71      2016.06.03

20芍薬と壺44.5cm×29cm.jpg 木の若葉が色を深めて濃くなり、季節は夏の準備を進めてゆく。そんな木々の色を見乍ら、墨田区八広の家並の中を絵のモチーフを探して自転車を走らせる。八広の町の道は幾度走っても迷路のようで今自分がどこに居るのか迷う。このあたりはいったん火事になれば消防自動車が入れないほどに狭い道が多い。

 一昨日も朝歩きの午前二時半頃に沢山の消防車がひしめいて、消火に大忙しだった。夜が明けて昼間にその場所にゆくと、二軒の下町の工場が丸焼けだった。人気はなかったのでケガをした人などはいなかったが、出火の原因が何かについてはよく分からない。ただ狭い道を消火のホースを引っ張り入れるのに消防隊員は四苦八苦をしていて、真夜中の道に少しばかりの住民が遠まきにしていた。

 火事の現場を見るのは僕にとって久しぶりのことで、その家に住人がいなかったことが切迫感を薄めていて何となく安堵をさせた。

 しばらく消火活動を見て僕は歩きだした。東京を襲うであろう大地震への常日頃の不安を、あらためて心に落とした。九州の熊本、大分などの震災が終息の気配を見せないままの大地の胎動を、不安に思わぬ者は今の日本にはいないだろう、ということを考えながら。

 神戸の大震災の記憶は今でも生々しい。神戸市長田区の妻の実家のあたりは現在でもまだ空き地が多い。そして日本列島のあちこちで地震の報告が届けられる。

 人間の根源の不安を心の底に持ちつづけたままの生活が日常化する。

 ところで今、向島百花園近くのギャラリー喫茶「みづき」では僕の展覧会がひらかれている。オーナーの島田さんが蒐めてくれた僕の絵が十数点展示され、好みのはっきりとした店主の意向が反映されている。そのコレクションに収められた絵たちは幸福なのだと僕は思う。絵には絵たちの運命があるのだと改めて僕は思う。

 来月鎌倉でひらかれる僕のスケッチ展も、あちこちをたどって僕の手元に帰りついた絵たちだ。幾人かのコレクターの間を旅して又僕の元に帰りついた内の数十点である。そしてその絵たちは新たな旅の準備を今はしている。

 それを描いた本人もすっかり忘れているものもある。一枚一枚をひもとき見てゆくと、かえってそれらの絵から僕自身のさ迷い歩いた旅の証しをつきつけられ、思い出の時間と場所と淋しさや悲しみや胸のときめいた僕の旅の年令までもが心の中に落ちてくる。やはりそれは、いとおしい時間の記憶なのだ。 ご購読はコチラ.pdf

絵・「芍薬と壺」44・5㎝×29㎝ (2013年)

青空の下の悒鬱 70      2016.05.20

19平井聖天の見える川F3号ボード.jpg 僕が油絵を学んだ最初の場所である新宿美術研究所の仲間、彫刻家の船山滋生君が逝って数年が経つ。

 船山君が最後の頃、鎌倉の画廊で展覧会をしていた。妻と二人で出掛けていったが、日時を見落としていて画廊は休みだった。寒い雪になりそうな濡れた道を、ウインドウに飾られた一点の馬の彫刻だけを見て僕達は引き返した。 自分のうっかりさ加減を棚に上げて、これも又縁なのだと僕は思った。その鎌倉ドローイングギャラリーで今度僕が展覧会をすることになった。

 画廊主の瀧口さんが僕のアトリエを訪れたのは今年に入ってからだった。数十点のスケッチを選びそれを送ると、六月の中頃に展覧会をする段取りが決まった。来週は細かい打ち合わせにゆく。

 画廊と画家との間には展覧会ごとの色々な契約をとりかわす。今までそれで画廊との間にトラブルの発生したことはほとんど無いけれども、決して無いということではない。一度だけ僕はトラブルに引き込まれたことがある。

 そうした時、当事者同士ではらちがあかないので、間に然るべき人を入れて話し合いをするのだが、それでも問題は解決しなかった。後味の悪さを残したまま人間関係はこわれてしまった。バブルといわれた時代の終わった頃の話である。 

 そういう経験もあって、特に今回のような初めて展覧会をする画廊との間には事前に約束事を打ち合わせをしなければならない、と僕は思っている。

 こうしたトラブルは絵の世界だけではなく演劇の世界でもあるようだ。昨夜一緒に食事をしたその世界をよく知る人によると、名の知られた劇団でも今、相続や原作の権利について激しい葛藤がくりひろげられているとのことである。ましてや政治の世界などとなると、むきだしの争いは「小説より奇なり」ということになるのではないか。

 僕のいる絵画の世界ではそうした様相はゆるやかだ。けれども僕が最初に属した書道の世界、今でも僕の妻の属するその世界では、信じられないようなヤクザ社会も青くなるような話を耳にするのである。

 芸術だという顔をしながら、その実強固な封建的ピラミッドは金銭に裏打ちされて成り立ち、上部の権力者ほど臆面もなくその世界の王様のような顔をする。

 そうした話は耳に入るにつけ僕を悒鬱にする。良く晴れたあたたかな空の下で元気に遊ぶ幼稚園児の姿を見ながら、今日はそんな事を考える。ご購読はコチラ.pdf

絵・「平井聖天の見える川」F3号 (2014年)

胸のときめき 69      2016.04.22

18ガード下の人々F3号.jpg 夜来の雨で地面は少ししめっていたが、風は止んで木の枝は動じる気配もなかった。雲は空をおおっていたが、時折月が顔を出した。ある場所までゆくと沈丁花の良い香りが運ばれてきて、闇の中のいきもののしるしを届けてくれるようだった。自然に顔がほころんだ。

 雨が降ったせいかいつもの場所に眠っている人がいなかった。遠くで貨物列車が通ってゆく音がした。

 川までゆくと水鳥たちが姿を消していた。もう北の国に向けて飛び去ったのかもしれない。水鳥のいない川面をしばらく見つめた。少しむこうの川面に、回っているスカイツリーの光がクルクル間隔をおいてうつっている。耳の奥で金属音のような高い音が鳴っている。

 よく見ると桜の蕾はふくらんで開花宣言がされたことを思い出した。

 後ろの暗闇でガサゴソと音がしたのは野良猫が通ったに違いない。桜並木の場所には白と桃色の提灯が街灯と街灯の間に下げられていて、花見の時には桜の花を照らすのだろう。

 こんな季節に思い出すのは中学校一年生の夜の思い出だ。小学生の時は集団で徒歩で通学したが、中学生になると自転車通学だったので、新しい自転車が届くのが何日も前から心待ちだった。夜に届けられた自転車は次の朝それを確かめるのに胸が躍った。

 今僕は二十年乗った自転車を廃車にして新品の自転車を運転しているので、中学生の時のあの朝のときめきを思い出すのである。胸のときめく瞬間は何才になっても嬉しく楽しい。

 先だって僕は豊田市で展覧会をした。その時高校生以来の友人たちに会うことができた。思い出せる数人の友人の顔もあれば、思い出せない人もあったが、胸のときめきは展覧会の一つの成果だった。いわば五十年来の再会だった。故郷の町で作品を展示するということは、そういう心楽しい余録もあるということなのだ。

 そしてその胸のときめきは生涯忘れてはならないものなのだ。人はささやかな一輪の花の咲くことにも心ふるわせ、一つの出会いや思い出にも心をそよがせて、胸におもいを満たすのが幸福なのだ。幸せなのだ。

 展覧会にはもう一つ大切な友人を見舞うという出来事があった。年齢的にも僕自身をふくめて体のあちこちが故障する。それが死に繫がることもある。だから友人との出会いも一期一会のことだ、と今思うのだ。ご購読はコチラ.pdf

絵・「ガード下の人々」F3号 (2013年)

月を見る場所 68      2016.04.15

16安養寺裏手F8号板.jpg 僕の父親は亜炭鉱の鉱夫だった。僕の生まれた村の裏山や黒笹の方にあった炭鉱で、父は亜炭を掘っていた。母も僕の生まれるまでは亜炭鉱の鉱道の中で働いていた。

 亜炭鉱で働いていたのは田や畑といった農地がなかった為だ。戸数八十戸ほどの純農村の中で田畑がないというのは致命的なことであったに違いない。当然家に遊びに来る人達は炭鉱の仲間であり、流れ者の人も多かった。 背中一面に刺青を入れ歯は随分抜け落ちていたが、酔うと生まれ故郷で吉良の仁吉と会った話をするのが癖の人がいた。「むねさ」と呼ばれていた。酔って小便しながら歩いてくる姿を今でもよく僕は覚えている。

 今思えば個性の強い人の多かった中で父は無口で大人しかった。そして鉱夫仲間が集まると酒宴の後何人かが、

 「宇野さん、観月峡にいこう」 というのが決まりだった。

 「パンパンを買いに行こう」 ということだったが、幼い僕はその店はパンを二つ売っている店だと思い込んでいて、そのパンが欲しくて仕方なかった。だが父は一度もそこに行ったことがなかった。だから僕もその店のパンを食べたことがない。

 鉱夫の中にはそこで知り合った女性と結婚をして家庭を持った人もいた。

 今何故観月峡のことを思い出したかというと、作品展の為に豊田市に行くことになり、ホテルを探すと丁度頃合いの良い距離に、頃合いの宿泊料金の宿があって、そこの町名が月見町であった。

 友人にその話をすると、 「ああ、観月峡のあったところだな」 と彼がいい、僕は薄明るい青い電灯の下に売られているパン屋をまざまざと思い出したのだった。


 行ったことはないけれども、僕の原風景の中に仕舞われている甘い味のする風景が観月峡、今の月見町なのだ。生まれてはじめて僕は行ったことのなかった原風景の場所に泊まることになった。

 ホテルに入って三階から窓を開けて風景を見渡しても、ただ人家の家並があるばかりで、大阪の飛田などのような昔の姿のかけらもない。

 夫婦二人に用意されていたのは十五帖ほどの広い部屋。一階の風呂場も広く快適であり、トイレも清潔で気持ちが良かった。

 宿泊を終えて東京行きの列車に乗ると、又僕の目の中に青い照明の店先のパンの姿が浮かんで消えた。ご購読はコチラ.pdf

絵・「安養寺裏手」F8号 (2013年)

画家 戸田道徳 67      2016.03.18 

17猫6cm×5.5cmキャンバス.jpg このところ立て続けに訃報が届いた。

 一人は画家の友人で七十才を少し出たばかりだった。頑固で不器用に見える彼の生き方は、その故にいつも気にかかるものだった。

 山形県天童の生まれで、その学歴はよく知らない。僕と同じように美術大学にいったわけではなく、新聞の勧誘員や運転手、山谷の立ちん坊もやっていたと聞いた。

 僕が知り合った頃は谷中の太平洋美術研究所に通い油絵を学んでいた。どこの公募展にも出品せず、個展と画商廻りを一生懸命していた。そしてフランスに勉強に行った。フランスでもおそらく色々な画廊を廻り、自分の絵を試してみたことだろう。

 日本に帰国してからは僕の家にしばらく泊まっていた。相変わらず僕の部屋から絵の売り先を探して、精力的に動き廻っていた。そのうち一人の後援者と知り合いになり、その人の世話で銀座の画廊で個展を開いた。彼は意気軒昂であった。

 人生の奇妙さだが、その個展の縁で僕達夫婦は今現在の住所、江戸川区平井に住み着くことになる。彼は谷中のアパートに住んで絵を描き、東京だけではなく日本中に発表の場を求めて動き廻っていた。その頃から絵を売って生活する困難さと直面し、そんな言葉を電話で伝えてきた。それは僕自身つくづく身に沁みていることだった。かえって彼がその現実の深さに気付くのが遅いのではないか、と僕は思った。人生の苦労人の割りに底抜けの気楽さ、明るさを持った人柄が改めて知られた。

 彼、戸田道徳の死を一月過ぎに届いた彼の兄、戸田道雄さんのハガキで知った。僕にとっては唐突なことで、一体何があったのかと、慌てて僕は小田原に住む戸田道雄さんに電話した。

 話によると、「昨年暮れの検診で癌が見つかり入院した。しかしもう末期で手のほどこしようがなく、終末医療の病院に転院をすることになり、その矢先に逝ってしまった」とのことだった。

 昨年の正月は僕の部屋で元日をすごし、その後銀座で個展。作品がとても良くなった印象を持ったばかりだった。その時会場に来ていたプロのシャンソン歌手の女性から、彼のシャンソンはプロで通用するなどと聴き、彼の新しい一面を知って驚いたばかりだった。

 又ある共通の友人からは彼は能や謡の師範の免許を持ち、それで生計を立ててゆけるほどだった、とも言われた。それでいて独身を通し絵の前で死んだ。彼の魂の煌めきが僕には見えるご購読はコチラ.pdf

絵・「猫」6㎝×5・5㎝(2014年)

千住大橋のアパート 66     2016.03.04 

15平井六丁目の家F8号板.jpg 前回書いた鐘ヶ淵を通って北千住に出、南千住方面に走ると京成電車の千住大橋駅に当たる。近くに市場があった。あった、と書くのは僕がこの市場の前、千住大橋のすぐ袂のアパートにしばらく住んでいて、朝の四時頃に市場の中の食堂にゆきホッピーを飲むのが楽しみだったからである。

 僕の三十二才から三十三才の頃のことだ。山谷の日雇い労働にもすっかり慣れ、汐入の六帖一間・共同トイレ・炊事場の傾いたアパートからやっと抜け出し、川を一つ越えた千住大橋の袂のアパートを見つけた。六帖よりやや広く、玄関と三帖の炊事場、トイレがついていた。

 このアパートは二階建てで八所帯が住んでいた。そして山谷の日雇い労働者でベテランの人が二人入っていた。この世界の約束事のように互いの付き合いはなかった。

 僕はアパートの二階の部屋に入った。隣りはTさんという大ベテランの日雇い労働者だった。専門技術を持ち乍らそれを頼らず、日雇いの種々の仕事をその日その日で選び、アブレ銭をうまく利用してゆったりした生活をしていた。

 整理された部屋には本棚に並んだ沢山の本が目立った。読書好きな人であることが一目で明らかだった。

 その頃僕の部屋には二才を過ぎた女の子供とその母親が定期的に遊びに来ていた。僕達はある事情で離婚し、別れてからも再び会うようになっていたのである。子供に会うのはとても楽しみだった。

 その子供が興味本位で外遊びに出るうち、隣のTさんに可愛がられるようになった。Tさんからみれば二才過ぎの女の子は打算をする必要のない外孫のようで、時には上野動物園に連れてゆき、食事をし土産物を買って帰ってきた。子供は僕の部屋に来るとすぐTさんの部屋に遊びにいった。

 僕は久しぶりに昔住んでいたそのアパートを訪ねた。しかしそこにはただ空き地があるだけで、建物の面影もなかった。そしてすぐ裏手の市場も鮮魚の部などは引越していて、以前の活気はどこにも見当たらなかった。何かキツネにつままれたような案配であったが、確かに時間が随分と経ったのだ、と思った。

 あの頃よく通った千住大橋脇の喫茶店にゆくと、そこは相変わらず元のまま営業をしていた。そこの店主夫婦に聞くと、そのアパートは火事で消滅していた。それは二階の人が自分の部屋に火をはなった結果だと言った。Tさんの顔がはっきりと目に浮かんだ。ご購読はコチラ.pdf

絵・「平井六丁目の家」F8号 (2013年)

秋山小兵衛のことなど 65     2016.02.19

14平井の派出所F8号板.jpg テレビドラマで見ると、池波正太郎の「剣客商売」の主役秋山小兵衛の穏宅はすぐ脇から舟を出せるようになっている。この便利な舟が大川(隅田川)にも漕ぎ出してゆく。

 この穏宅のある鐘ヶ淵に実際に立ってみると、護岸工事によって随分高くなっていて、水面ははるかに下である。それこそ小説やテレビドラマとは様子が全く違う。小説で描かれる風景は想像も出来ないのである。

 僕は高くなっている鐘ヶ淵を通ってその道を真っ直ぐに北千住にゆく。北千住の町を一廻りして千住新橋方面の西新井にゆく。又は左折をして南千住、山谷と廻り、行き付けの〝淀屋酒店〟で焼酎レモンハイを二、三杯引っかけ、あちこちの公園で一休みしながら浅草に出てゆくのがいつものコースである。

 浅草を一廻りして吾妻橋を渡れば墨田区になる。渡り切ったところにアサヒビールの名物ビルが聳え立ち、その真下にギャラリー・アビアントがある。今もそこでは友人の画家達が三人展を開いている。

 先の鐘ヶ淵には行き付けの額屋があり、僕はそこで作品の額をしつらえる。アビアントの主人も時々額をそこで用意する。いわばこの辺りは僕達のテリトリーである。

 池波正太郎の「剣客商売」や「鬼平犯科帳」の本所の銕のテリトリーとはそこで重なる。

 今では外国からも沢山の人が来るスカイツリーは長谷川平蔵の地元のど真ん中にある。平蔵がそれを見たらどんな感想を言うだろうか。朝歩きをしながらそんなことを思う。

 ところで、僕の主治医の歯科医は剣道六段で二刀をも使う。その自宅にお邪魔した時、真剣を持たせてもらったことがある。刀を持ってみると重く、江戸時代の侍たちがいつも大小の刀を腰に差して歩いていたことを想像すると、あの時代の人たちの体力の頑健さに驚く。

 ましてや「剣客商売」の六十才を過ぎた秋山小兵衛が、その二本差しで飛び上がり、目にも止まらぬ早さで人を斬る技は僕の想像を越える。

 さらに自転車や自動車など無かった時代である。歩いて上方にゆき、箱根の山を越えてゆく。その体力のことを想うと、現代の人とは全く別の人種が百数十年前には生活をしていたことになる。

 僕達が映画やテレビドラマで時代劇を見たい欲求の中には、そうした時代への郷愁がきっとあるのだろう。僕はそう確信をする。ご購読はコチラ.pdf

絵・「平井の派出所(カラス)」F8号 (2013年)

鬼平や秋山小兵衛や 64     2016.02.05

13平井駅横の古木F8号板.jpg今僕が購読している毎日新聞の金曜日版に「鬼平を歩く」というシリーズが書かれている。今十九回になっているが、読んだのは今回が初めてである。いや読んでいたかもしれないが、認識したのは最近のことである。

 このところ池波正太郎の「鬼平犯科帳」やら「剣客商売」などのシリーズをまとめて読み出した。最近はずっと以前からテレビで楽しんでいた番組が無くなってしまったからだ。主役の俳優が老齢化して番組が終わった、という事情による。最後の鬼平スペシャルというふれこみの二時間ものはいやでも役者の老齢化が目に付き、おもわず目線を下に落とした。「男はつらいよ」のフーテンの寅の最後のころもそうだった。主役の渥美清の衰え方も画面を見ていて目をそむけたくなった。

 人気の長寿番組や長く続くシリーズの宿命なのかもしれない。演ずる主役や役者の老齢化は隠すことが出来ない。 テレビで「鬼平犯科帳」や「剣客商売」が見られなくなって、古本屋にゆくとその原作が目に飛びこんできた。一冊二冊と百円コーナーから本を探して読みはじめると止まらなくなった。

 平井、亀戸、向島あたりの古本屋をあちこち自転車でめぐって、買い集め読み集めた。今僕が絵を描いて毎日走り廻るテリトリーと、鬼平、そして秋山小兵衛の生活圏が重なるのである。だから、つい親近感がわく。

 鬼平、つまり長谷川平蔵は元々が〝本所の銕〟といわれ、若い頃は本所の暴れん坊だった。そうした若い頃の不良だった経験が、社会の底辺にも通暁する犯罪捜査の網の目をゆるぎなくし、鬼平独自の探索を可能にする、と小説には書かれている。

 その長谷川平蔵は実在の人物であったということも池波正太郎は解説に書いている。僕の住む平井の駅前から出ている上野松坂屋前行きのバスが運行する途中、丁度東京スカイツリーを通る手前、押上駅を過ぎたところのバス停の前に春慶寺というお寺がある。その寺前の書き付けに「岸井左馬之助寄宿の寺」と看板が出ている。長谷川平蔵の親友であり剣友の、実在した岸井左馬之助がよく泊まっていたゆかりの寺である。

 浅草方面に少しゆき、小さな川を渡ると本所。そのバスの先は浅草手前の〝大川〟今の呼び名は隅田川。その上に掛かる吾妻橋を渡り切ると、墨田区から台東区に入る。「剣客商売」の舞台、秋山小兵衛の穏宅のある鐘ヶ淵の話は次の稿にしたい。ご購読はコチラ.pdf

絵・「平井駅横の古木」F8号 (2014年)

闇の中へ 63     2016.01.22

12繋がれた舟F8号板.jpg 六十八才になった。母の享年が八十六だから、まだ母の逝った年まで十八年ある。けっこうな長さだな、と思うが、これからは年々を意識して生きてゆくことになるのかな、とも思う。

 もし母が生きていて、そんな質問をしたら母は何と答えるだろうか。母は大正四年の生まれだから、現在まで生きていたとすると百才になる。いや八十六才で充分だったよ、とはにかみながら答えるかもしれない。そう、孤児のような人生を生きた母には八十六年は充分な長さであった、と僕は思うことにしよう。それだけの天命であった。

 妻は折にふれ仏壇代わりの遺影をはった前にローソクをともし、線香をたく。そして母の好きだったビールを置く。遺影は母と父と木村東介と柊美術店の店長だった登利谷安妟である。戒名を書いた紙には他に妻の兄夫婦、父母、そして僕の祖父の享年が書かれている。

 霊たちが年に幾度かの機会にこの家を訪れる、そんな習慣を妻は大切にしている。母のお骨はまだそこに置かれている。「もうどうにかしたら」と妻は言うが、僕は何処かに動かすつもりは今のところない。

 ところでもし僕が死んだら葬式は不要、そして骨は何処かに捨てて自然の一部に返してくれればいい。

 絵極道の道を選んだ限りは僕の描いた絵の中にしか僕の人生は残らない。そのことを身に沁ませて、せめて母の享年までの人生を僕は生きなければならない。どう考えても僕よりははるかに強い母の人生の、せめて恥にならない程度には人生を押し上げる努力はしなければ…。


 僕の午前二時からの朝歩きは元日だけ休んだもののマイペースで続いている。二日ほど前のことだった。亀戸の商店街の切れかける手前の細い道で、ネズミと猫がお互いを伺って身じろぎもしないでいた。猫はいつ行動を起こそうかと身構え、ネズミは逃げるタイミングを必死で考えていた。その場に丁度通りかかった僕は、その葛藤を見過ごしては通り去れなかった。短いようで長く、長いようで短い時間が息をのむようにして過ぎていった。

 その時、道の遠くで何かが光ったと思ったらグングン近づいてきた。一台の軽自動車の明かりがどんどん大きくなり、猫とネズミの間に割って入った。猫とネズミは互いにその光を避けるようにして何処かに消えた。

 生の興亡の息づまる瞬間から解き放たれて、僕も公園の闇に足早に入った。ご購読はコチラ.pdf

絵・「繋がれた舟」F8号 (2013年)

出会った小説家たち 62     2016.01.08

10花の木東墨田F8号.jpg 僕が出会った小説家は高橋和巳が最初で、後に野坂昭如、そして水上勉に会った。もちろん作品が大好きな作家たちで、水上勉の飢餓海峡、野坂昭如の焼土層などは僕の好きな小説の十本の指に入る。だからその小説家と直に会え話の出来ることは無上のことだった。

 野坂昭如とは遠く秋田の湯沢市から奥に入った西馬音内という不思議な場所で出会った。

 その頃有力な県会議員であった高久正吉の奥様の実家が西馬音内の名家だった。その町の盆踊りは指定文化財になっていて(国か県かは失念した)、野坂昭如はそこを舞台にした日本版「マジソン郡の橋」の映画化の為の取材に来ていた。

 盆踊りの後、高久正吉の奥様の実家、黒沢家で宴がひらかれ、その席で野坂昭如と同席したのだった。そして宿泊のホテルは湯沢市内で、朝起きてあらためてロビーで野坂昭如と会った。酔った宴で何やら厳しい話をされたことなどはすっかり忘れ、あらためての挨拶をすると、 

 「よかったら赤坂にある私のギャラリーで展覧会をしませんか」 と野坂は言った。東京の赤坂に野坂は「ギャラリー、イマ」という画廊を経営していた。僕は了解をし東京に帰ったが、それからしばらくして野坂昭如は僕の部屋を訪れた。その次には奥様も一緒だった。

 展覧会の初日には友人の俳優、原田芳雄なども来て賑やかなオープニングパーティになった。

 野坂昭如に何点絵を買ってもらったか今記憶にないが、一時期野坂邸は僕の絵ばかりで飾られていると聞いたことがある。

 野坂昭如が病いに倒れた後、僕は一度も会っていない。消息を新聞で読むだけであるが、何か心残りである。もう会う機会はないのだろうか。あらためて「焼土層」を読み直し、やはり感動する。

 水上勉の小説も一時期僕はむさぼり読んだ。「寺泊」や「五番町夕霧楼」などは僕自身の旅とも重なった。柏崎に長く滞在した時には、良寛の書をたずねて出雲崎にゆき、幾度かそこらを僕はさまよい、寺泊にも寄った。

 京都ではまさしく五番町の昔遊郭だった部屋に下宿をした。僕のデビューになった京都の作品群はそこで生まれたのだった。

 五番町のおしろいの臭いの残る部屋に住み、毎日そこから徒歩で京都の町を描きに出掛け、僕の絵の世界の原型が出来上がった。そのことは水上勉に会った時、僕は話さなかった。ご購読はコチラ.pdf
絵・「花の木東墨田」F8号 (2013年)

高橋和巳からのハガキ 61     2015.12.16

11平井聖天前の家F8号板.jpg 高橋和巳の妻高橋たか子の小説を僕は読んでいないし、顔も見ていない。紅茶を差し入れた時の手を見、声を聞いただけである。

 僕の遠い記憶では、高橋たか子はフランス文学を学んだ人のはずだが定かではない。二人の結婚生活がどのようなものであったかも知らない。

 電話で三島由紀夫の自衛隊への討ち入りのことを高橋和巳に聞いたが、高橋和巳は何も語らなかった。高橋和巳が亡くなったのはその次の年だったはずだ。まだ三十代半ばを過ぎたばかりの余りにも早い死だった。その前年の七月二十二日付けで高橋和巳から僕に来たハガキが残っている。

 「予定より早く退院され、見舞いの機会を逸しましたが、しかし健康が第一、なによりです。もう元気になりましたか、小生の方も幸い一日一日と快方に向かっていますのでご安心下さい。

 ただ仕事の方は残念ながら、まだ手が着きませんが、あせるまいと思っています。もう少し元気になり東京に行く機会も多くなれば一度連絡をとるつもりです。

  七月二十二日」 差し出しの住所は鎌倉市二階堂七四八。そして僕の住所は東京都世田谷区杉原二の十八の十八。ということは僕が二回目の大きな手術、歯性上顎洞炎で入院した時のことだ。それを忘れていた。一度目の手術は二十才の時、胃穿孔で胃に穴があいて胃の四分の三を僕は切り取られた。

 僕は高橋和巳からのハガキが郵便ポストに入っていた時、飛び上がるほど嬉しかったし、又東京で会えることを楽しみにしていた。だが、その機会はやってこなかった。高橋和巳は上京することのないままこの世を去った。 今あらためて高橋和巳からのハガキを見ると、その字はとても端正で真面目である。人柄をそのままあらわし、そして高橋和巳その人も白皙な端正な顔をしていた。その体の奥には膨大な知識がつまっていた。京都大学で吉川幸次郎によって抜擢された中国文学の助教授の座を捨てて選んだ小説家の道は、鎌倉に移り住んで充分にその成果を上げるはずであった。妻たか子との二人の作品づくりは、ささやかな鎌倉の山ふところに抱かれた静かな空間の中から生み出てくるはずであった。

 高橋和巳が死んだことを僕は友人から知らされた。突然のことで信じられない気がした。その葬儀がどのように行われたか僕は知らない。僕の心の中に今でも高橋和巳は生きている。ご購読はコチラ.pdf

絵・「花の木東墨田」F8号 (2013年)

その手の思い出 60     2015.12.04

2踊り子・YF50号キャンバス.jpg 久しぶりに鎌倉に行った。一つの展覧会を見る為だったが、鎌倉駅の西口におりてみると、複雑な思いが突然胸の中にわきあがってきた。

 目的の展覧会会場の鎌倉ドローイングギャラリーは御成小学校のすこし先にある。以前ここを通った時も古風な風情の小学校の建物に見とれ、その小学校の校門の字に感心した。学校の門番にたずねると、校門の字を書いたのは高浜虚子とのこと。風格のあるすっきりとした文字・書である。

 虚子の足跡は遠く丹波にもあって、丹波の西山酒造の銘酒「小鼓」の名付け親である。そして揮毫も虚子である。西山酒造は僕の敬愛する小川芋銭とも縁が深く、現西山酒造の会長西山裕三氏は芋銭の孫になる。

 その西山裕三氏から昨日芋銭の作品集が送られてきた。昨年の水害で芋銭の丹波のアトリエであった石像寺や西山酒造も大変な水害にやられたとのこと。石像寺の石の庭、重森三玲作庭の名庭も無惨な姿になってしまった。その写真も作品集に収められていた。僕は丹波を訪れた日のことを思い出し、丹波の山並みを想った。芋銭の描いた山並みを。

 鎌倉のことではもう一つ思い出がある。二十代の前半、僕は鎌倉の二階堂というところに小説家の高橋和巳を訪ねたことがある。そのころ僕は高橋和巳の作品を夢中で読んでいた。『憂鬱なる党派』や『悲の器』、『邪宗門』、『捨子物語』、そして『我が解体』などを片っぱしから読みふけった。乾いた砂に水が沁み込むように高橋和巳の文章が入ってきた。

 その高橋和巳が京都大学の中国文学の助教授の職を辞して小説家の道を選び、鎌倉に引越してきた。そして小田実や柴田翔などと「人間として」という雑誌を出そうとしていた。だがその時高橋和巳は重い病をわずらい、東京女子医大病院に入院をした。その病院は僕が油絵を学びだした新宿美術研究所のすぐ上にあった。

 この時とばかりに僕は、西瓜を一つぶら下げて病院に見舞に行った。高橋和巳は色の白い、やさしい目が眼鏡の奥ではにかむような人だった。

 その重い病のことは高橋自身は知らなかったし、僕も又認識していなかった。すぐ退院するので鎌倉に来て下さい、といわれて僕は後日鎌倉の二階堂の家を訪ねた。

 奥さんが紅茶を出してくれたが、戸の向こうから盆を差し入れると姿を見せずに消えた。変わった女性だな、とその手と声だけが印象に残った。ご購読はコチラ.pdf

予感のする日々 59     2015.11.20

22壺と牡丹-変15号.jpg 昼間、数日おきに亀戸駅前の喫茶店にゆく。キャンバスを積んで自転車で走ってゆく範囲は、浅草方面は上野、山谷あたり。秋葉原方面は両国、錦糸町、亀戸。千葉方面は立石、小岩、新小岩。その日の気分で方角を決める。

 錦糸町の駅近くには友人の新城彰が主宰する劇団「かつば倶楽部」の事務所がある。山谷方面にはその途中、向島百花園の近くに親しい島田敏子の経営の人気を集める喫茶店「みずき」がある。「みずき」の入口を飾る大きな暖簾(花やぐ)の文字は、書家である妻延子が揮毫している。その暖簾の御披露目は延子の個展となった。島田敏子と延子は今はとても親しい。二人はあちこちで食事をし酒宴をする。女同士愚痴も喜びも悲しみも話が弾むに違いない。

 亀戸方面にゆくと、亀戸駅から近い大島に幼なじみの友人永田博光がいる。永田博光と僕は劇団「桟敷童子」の公演に一緒にゆく。帰り道には必ず二人で居酒屋に寄り、酒を飲んで食事をする。彼は模範的生活人で、あちこち傷だらけの僕の人生から見ると畏敬する人間である。

 彼は早くから上京して縁のある印刷の仕事につき、今でも夜遅くまで仕事をしている。彼の奥さんも病院の事務をし、夫婦は見事なほど円満である。彼が飲むのはもっぱらビールで、僕は焼酎のホッピー割りを飲む。このホッピービアーはもっぱら関東方面の飲みもので、中京や関西では見かけない。関東地方の下町の飲みものといっていいかもしれない。そして家では僕は毎日焼酎を麦茶で割って飲むのが習慣である。

 午後五時になると飲み始める僕の飲酒は癖のあまり良い酒ではない。先日も甲賀元嘉さんが訪れ(それは劇団唐組の公演に初日にゆき唐十郎と話をした報せと、その折とった唐十郎の近影を持ってきてくれた報告であったが)、色々話を聞いたことを僕は覚えていなかった。それと、甲賀さんの友人の展覧会に一緒に出掛ける約束を僕はしたが、それも覚えておらず、次の日延子から嫌味の効いた顛末を知らされた。

 丁度その約束をした日あたりに、鎌倉から画廊の主人が絵を見に来ることになっていて、その調整をどうするのか。僕は酔った勢いで甲賀さんとも約束をして一寸困ったのだった。他にも出掛けなければならない展覧会が二つあり、日程を組むのに頭を使う。

 そんな中で何となく僕より年上の友人の訃報が届くような予感がしている。ご購読はコチラ.pdf

僕の朝歩きは午前三時 58     2015.11.06

21赤い鳥居F10号.jpg 僕の朝歩きは毎日午前三時に始まる。だから起床は二時半すぎである。まず血圧を計り、麦茶を飲む。

 電灯は薄明かりにしてタオルを一本持ち、携帯電話とカメラをポケットに入れる。夏でもまだ暗い道を中平井橋に向かって歩き出す。空を見上げ天気を見、風のあるなしを感ずる。時には雨粒が少し落ちてくることもあり、用意として傘を脇にはさむこともある。少し位の雨粒なら迷うことなく歩きはじめる。

 川に添ってすこし行き、小さな坂を右折する。坂の手前に公衆トイレがあり、そこに寄ることもしばしばある。

 歩いてゆくと明治通りに出る道があり、左折して明治通りに出る。そこを左折して亀戸方面に進み、右手の公園に入ってゆく。公園の中にはぶら下がりの鉄棒や背伸ばしの太鼓状のベンチがあって、そこで五回の背伸ばしをする。それがまず朝の一回目の目的である。

 背伸ばしを終えて公園を横切り亀戸の駅に向かって歩く。途中蔵前通りの信号を確かめアーケードの商店街を進む。駅近くのまだ営業をしている店の前で、呼び込みの数人の男性がたむろしている。外国人が多く、女性も中には混じっている。どこの国の人かは分からないが、中東方面の人たちらしい。声を掛けられるのを避けて歩く。 駅の少し手前の通りを左折して駅前通りから遠ざかると、街灯だけが薄明るく照らす人影のない道になる。次の目的の亀戸中央公園までいくらかの距離があるが、公園まで歩けば予定の三分の二は歩いたことになる。朝歩きも後半の道だ。

 亀戸中央公園手前に町内の小さな公園があり、そこの公衆トイレに入ることも多い。そして木々の茂る中央公園に入ってゆく。人影はないが時々ベンチで眠っている人がいる。

 夏にはそんな人が数人いたり、若者が集まって花火を上げたりもしていた。若者たちの中には必ず女性がいた。そんな人たちも今はいない。中央公園は二つに分かれていて、一つの森を過ぎて次の森に入ってゆくと、公園の中の道を小走りでまわっている人が一人か二人いる。

 僕は目的の背伸ばしのベンチのある片隅の場所を目指し、そこで又五回の背伸ばしをする。少しベンチで休み小休止をとってゆっくり旧中川の橋を渡る。橋を渡れば平井の町である。

 平井の駅前までゆくと駅のシャッターが開く時もあり、まだ閉まったままの時もある。そこから僕の部屋まで十五分程、二時間の道程はそうして終わりになる。ご購読はコチラ.pdf

人生は未定である  57     2015.10.30

20雪の日F10号.jpg 四ツ葉のクローバーのハガキが届いて一週間後、妻延子はギックリ腰を発症して蒲団の上で唸っていた。立つことも出来ずトイレにも一人では行けなかった。

 蒲団での寝起きは辛いので、三ヶ月貸しの丈の低いベッドを借りた。身体への負担はそれで少し軽減したようだ。しかし相変わらず一人では用を足すのも無理なので、下で眠る僕も夜中に幾度か起こされることになった。 午後五時になると酒を飲み始める日常の生活の習慣は少し狂いはじめた。長い時間の外出をひかえ、治療に専念することが生活の一義になり中心となった。

 普段から通う整体院から出張で鍼灸整体師に来てもらうことにし、鍼と灸でともかく痛みを取ることになった。 二人の鍼灸整体師が交互に通って来た。僕達が普段通う整体院に幾人かいる整体師のうち、鍼灸の資格を持つ人は二人だけである。

 もう長い付き合いだから親身に治療をする整体師が色々と調べてくれ、エム・アール・アイの設備のある病院を探して教えてくれた。僕達の住む平井の町ではなく、隣町、亀戸の駅前クリニックにその設備と専門の医師が居るということだった。ともかく一日でも早く、と心を急がせてタクシーを呼び開院の午前九時を目指して行くと、その日は日曜日だったので、内科は診察しているが整形外科は休みだった。

 落胆して家に帰り一日首を長くして待ち、次の月曜日に亀戸駅前クリニックに飛んでいった。エム・アール・アイの検査は小一時間かかった。そして診察を受けると、背中から腰にかけての背骨の中に二つの潰れた骨があった。一つは古く、もう一つは比較的新しいが、かといって最近のものではない。その比較的新しい潰れた骨のまわりの筋肉に痛みが生じている。そしてその潰れた骨のあたりを直接叩いてみても痛みはない。

 診察の結果、痛み止めの薬と湿布、そして骨粗鬆症の薬も出た。年令からいっても骨粗鬆症の治療はずっと続けなければならない。二週間に一度はその為の注射を来院してする必要がある。

 結局今度の妻のギックリ腰は、年令故の長い戦いになるのだ、とゆっくり覚悟させられることになった。

 僕の朝歩きの風景を予定していた稿が、おもわぬアクシデントで生活の実相の話になった。人生はいつも未定で埋められている。ご購読はコチラ.pdf

四ツ葉のクローバーのハガキ  56     2015.10.16

19赤い壁の家F20号.jpg 四ツ葉のクローバーを押し花にしたハガキが郵便受けに入っていた。差出人の名前はあるが、文は一文字も書かれていなかった。宛名は妻の延子で、突然といっていいハガキだった。かえってそれが幾枚かの便箋より雄弁な気がした。

 そのことの事情を聞くと、妻は「僕の旅」には私のことが書かれていない、と藪蛇になるようなことを言った。そう言えばそうだ。良い機会だからこの際結婚する前の妻の仕事について聞いておこう、と思った。そして四ツ葉のクローバーのいわれから僕は聞きだしていった。

 妻は僕と結婚するまで二十二年間、神戸市で家庭養護促進協会のソーシャルワーカーとして働き、いわば「里親さがし」という児童福祉のベテランの専門家だった。扱ったケースは千数百件にのぼったそうだ。

 個人情報にかかわる秘密の多い仕事だからむやみには書けないが、その中の幾つかは僕も知っていて、今だにその人たちからの連絡がある。どれもこれも胸のふさがる重い話が多いが、その分明るい希望を与えられる話にも接する。 無言の四ツ葉のクローバーのハガキはその内の一つに違いない。そしてこの話は妻延子の最後の仕事になったケースだった。

 色々な事情で子供を育てられなくなった親、あるいは見捨てられた乳児がまず預けられるのが乳児院である。そしてその乳児院に子供を育てたい里親が訪ねて来る。その里親の資格の調査をし見定めるのがソーシャルワーカーの仕事だ。

 延子が退職する直前に新任のワーカー、里親希望の夫婦と四人で山の中の乳児院を訪れた。新任のワーカーと里親希望の夫婦の妻は一才の子供の部屋にいった。延子と夫婦の夫は園の庭で二人が出て来るのを待っていた。

 その待っている場所に四ツ葉のクローバーが咲いていた。それを夫婦の夫が見付けたのだった。そのクローバーの葉は未来を暗示する幸福のクローバーだった。その葉を大事に取って、きっと夫は妻に見せたに違いない。

 その時乳児院から夫妻の元に引き取られた子供は、途中お定まりの不良のコースをたどったりもしたが、立派に育って、現在では幸福な結婚をしたのかもしれない。

 無言の一枚のハガキには四ツ葉のクローバーと幾種かの野の花が押し花になっていた。沢山の思いと現在の幸福を語りながら。ご購読はコチラ.pdf

永久連載ですよ。  55     2015.10.02

18桜散るF20号.jpg 僕が離婚し家を売り払って京都に出掛けたのは一九七五年の秋である。その時の洲之内徹からのハガキが残されている── 「京都へ行ったんですね。ハガキ相次いで二通受け取りました。

 淋しそうでこちらまでじっとしていられないような気になりますが、とにかくがんばって絵をかいてください。それ以外に何事も解決の途はないのだから…。

 まさ江さんはハリ、キュウの学校の試験に合格したので、四月からその学校に通うらしい。学校に通いながら画廊も手伝いたいという気持ちのようですが、その点どんな工合にするか、まだ詰めていません。

 今日からぼくは『きまぐれ─』の原稿書き。数日は地獄です。デハマタ…」

 まさ江さんとはその当時の僕の結婚相手である。

 その頃まだまさ江さんは僕の京都からの帰りを待つ気持ちだった。しかし僕は自分の絵を探そうと夢中だった。その為に今までの全てを捨てなければならない、と覚悟していた。自己中心の、目的の為には周りの迷惑を考えず、といった性向は僕の持って生まれた気質だった。

 ところで、洲之内徹という人は「現代画廊」の画廊主ではあったが、変わった画廊経営者で、夕方の五時過ぎにならないと画廊に出勤しない。そしてよく旅をして画廊にいないことも多かった、という意味で銀座の名物画商だった。

 というより、その頃僕がまだよく知らなかっただけで、元々彼は一部では知られた小説家だった。第一回の横光利一賞を大岡昇平と争い、幾度も芥川賞の最終選考にまで残った作家だった。遂に受賞することはなく、縁のあった田村泰次郎の始めた「現代画廊」の支配人をし、その画廊を受け継いで画商をしていた。

 僕が洲之内徹を識ったのは、新潮社から出版された『絵の中の散歩』という本を読んだからだ。その本の出版は、元々新潮社の出版部が芥川賞を取れなかった作家のその後を取材しているうちに、絵の話と人生の話の面白さを書くことを勧め実現したものだった。

 作家としては立てなかったが、その文章力はその美術随想で花開いた。『絵の中の散歩』は静かなヒットとなった。そして芸術新潮誌上最長の読み物となった『きまぐれ美術館』の連載がはじまった。

 ある時僕が連載は何時までかと問うと、「永久連載ですよ」と洲之内徹はきっぱりと空を見ていった。ご購読はコチラ.pdf

京都へ出発する 54     2015.09.18

17ピアノのある家F15号.jpg 僕の絵がはじめて雑誌にとりあげられたのは「アルプ」という山の雑誌である。串田孫一という哲学者が出す本で、その本の見開きの頁を洲之内徹が折々の画家の絵を紹介し文をかいていた。それに取り上げられた。

 「宇野さんは若い画家で、この(昭和五十年・一九七五年)春から、奥さんが土浦で小さな画廊を開いている。画廊開きは宇野さんの個展であった。八月は店を休み、車に絵を積んで、二人で仙台へ商売に出かけたらしい。その途中、小名浜で、宇野さんが描いたスケッチがこれである。

 〈花火の日〉という題のとおり、花火の絵だが、花火は上がっていない。まだ明るい時刻で、これから始まる花火を見に、人が集まってきている。しかし、通りがかりの宇野さんは花火を待ってはいられなかったのだろう。旅の気ぜわしさが感じられて、そこが面白い」 という文で、〈花火の日 絵は宇野政孝〉とある。政孝は僕の本名である。

 この絵が取り上げられたことが、僕の運命を変えることになった。 今まで溜められていた絵を描く創作意欲に、火薬にマッチをするように火がつけられた。自分でもおさえられない絵を描く衝動が体の中からふき上がって、僕は常磐線に飛び乗り風景を探して歩いた。

 目に止まった場所は南千住あたりの下町の裏さびれた町並みと隅田川の流れだった。 まだ降りたことのない南千住の町を、電車の車窓から見付けると飛び降りて歩き廻った。

 無我夢中の絵はスケッチブックを次から次に埋めていった。 一息ついてある程度まとまると、僕は現代画廊へ飛んでいった。それらの絵を一枚一枚くい入るように見てゆく洲之内徹の顔は今でも忘れない。 それらのスケッチを僕は又預けて帰った。心地良い満足感が体の中に広がっていた。

 絵は魔物かもしれない。

 火のつけられた創作意欲は僕の人生を又思いもかけない方向に導いていった。

 僕は一つの賭をした。

 日本の風景を描くとしたら、それは一体何処だろうか? 僕に思い浮かんだのは、京都だった。京都にゆけば、きっと日本的な何か、日本の最も日本らしい場所が見つかるのではないだろうか。

 だが、もしそうすれば、その為の犠牲は少なくはない。それができるか!ご購読はコチラ.pdf

現代画廊そして洲之内徹 53     2015.09.04

16平井の赤いアパートF20号.jpg 今まで同じ江戸川区内でもよく知らなかった一之江とそこにある国柱会申孝園の庭を見学することになった動機は、洲之内徹の「気まぐれ美術館」の最終章、藤巻義夫の「隅田川絵巻」第一巻に描かれた場所の発見、ということからであった。それによって僕の絵を描くテリトリーが広がった。これからは時々少し遠いが一之江のあたりを走って絵を描いてみよう、と思っている。

 洲之内徹と深い付き合いのあった時代はもう四十年も前のことだが、僕が職業画家になったのは洲之内徹に絵を認められたことがその最初であった。

 一九七五年、その頃銀座で一番小さな画廊といわれていた「現代画廊」に数点の油絵を持参し、その絵が洲之内徹に認められて預かりとなったことがキッカケである。

 画商に絵を認められるということは、作品を買い上げられるのが最終目標だが、そこに至るまでには段階がある。

 まず絵を見せてその画商の感想を聞き、機会を得たら新作がまとまるたびに見せにゆく。それでは企画で展覧会をしてみようか、ということになれば上等である。

 その段階になると画商は展覧会をすることによって作品の感触を確かめる。新作展を続けてゆこう、ということになれば合格である。次にその画廊に関わる実力画家たちのグループ展などに加えられることになれば、画家はその画廊の顔の一員ということになる。作品が買い上げられるのはその後のことである。

 ましてや作品を画商に買い上げられるだけの収入で生活出来るようになるのには時間と運が必要である。

 僕がまず第一段階で洲之内徹の現代画廊で作品の預かりになったのは運命の神がすこしウィンクを見せた、ということだった。

 その頃僕は茨城県の牛久というところに住んでいたが、作品を画廊に預けて帰宅する足取りは軽かった。

 しばらくすると洲之内徹から一枚のハガキがきた。「預かった絵(八号の自画像だった)を画廊のイーゼルにのせて毎日見ているが、欠点はあるもののとても良い絵ですね。将来をたのしみにしています」という内容だった。そしてこの一枚の絵から洲之内徹との付き合いがはじまった。

 もちろん絵の収入は無いので僕は色々なアルバイトをしていた。牛久の隣り町の竜ヶ崎市役所の夜警をしたり子供たちの絵画教室だったりした。そして思いつくままに少し先の土浦市で画廊を経営しようとした。ご購読はコチラ.pdf

国柱会、申孝園  52     2015.08.21

15東墨田風景F20号.jpg 甲賀さんの奥様の故郷、浦安の町の面白さは開発された現在の隙間のような場所に散見できた。少女時代を彷彿させる奥様の案内で、僕達は浦安の原風景と思われるそうした場所を次から次へと見て廻った。そして、浦安郷土資料館にいった。

 昔の「浦安のまち」を再現した三軒長屋や共同水道、銭湯、寿司屋などの家を覗き、路地を歩きまわって短いタイムスリップを僕たちはした。

 そして昼食は博物館の敷地の中のレストラン「すてんぱれ」の〝あさりめしセット〟だった。浦安に来てあさりめしを食べ逃すことがあれば何より残念なことであるに違いない。浦安の町の小さな旅はあさりめしで締めなければならない。

 郷土資料館に来る前に、浦安の海岸に建つ宏大な建物、ディズニーランド、ディズニーシーのまわりを甲賀さんの車で見て廻った。その先の海岸の端の沢山のマンション群の中のレストランのランチを甲賀さんは予定していたようだったが、丁度その店は休店だった。かえってそれが「すてんぱれ」のあさりめしになって、僕はその方が嬉しかった。

 又、「すてんぱれ」とはやはり浦安地方の言葉で、漢字で書けば「素天晴」といったところだろうか。何と陽気な愉快な名前だろうかと、僕は思った。

 甲賀さんとの約束は本来は浦安散策ではなく、洲之内徹の『きまぐれ美術館』の最後の章「一之江、申孝園」を案内していただくことが目的だった。一之江、申孝園は洲之内がとりあげた藤牧義夫の《隅田川絵巻》第一巻の場所の特定をしたところだ。それまで分からなかった絵の具体的な場所が一通の手紙の指摘によって謎が解ける、ということになった経緯を洲之内は書いている。

 その文章を発見してコピーで送ってくれたのは甲賀さんだった。その申孝園という庭は「国柱会」という団体の建物の中の庭園で、甲賀元嘉さんの生家と隣り合わせであったことが案内されて分かった。幼い頃、投げたボールが申孝園の中に入ってしまい探しにいった。

 甲賀さんが洲之内徹の文章に目を止め、そしてコピーをして送ってくれた理由が、その日の目的一之江申孝園に行ってみてよく納得できた。

 甲賀さん夫妻と僕達夫婦は申孝園の中をゆっくり歩いた。

 新鮮な記憶が一つ増え、新しい縁と場所に出会った。帰り道では、雨はもう上がっていた。ご購読はコチラ.pdf

観天望気の町 51     2015.08.07

14上挙母の家並F20号.jpg 甲賀元嘉さんの奥様の運転で一之江を訪ねる予定の日、甲賀夫妻はまず一之江から江戸川を渡って、隣りの千葉県浦安市に僕達を連れていった。

 浦安は奥様の故郷だった。江戸川一つを渡っただけで、風景も会う人たちの気質もまるで違っていた。

 浦安は漁師町、山本周五郎の『青べか物語』の舞台となった町である。今は見る影もなく、マンションや新興住宅地ももう古くなって落ち着いた町になった。

 以前は百万坪といわれた広大な干潟と豊かな海に恵まれた土地だった。「べか舟」で貝を採ったり魚をとって干物にしたりしての生活は、舟底の板一枚で死との隣りあわせの仕事だから、土地の人の気性も強く荒かった。出会う人々の言葉も初めて聞く漁師言葉で、二十才から東京に住んでいる僕にも浦安気質の人々は生まれてはじめて会う種類の人たちに思えた。

 例えば浦安の漁師の観天望気という言葉がある。漁師が自分たちの命を守る手段として、長年の経験から身に付けた気象の変化を目や耳や肌で感じとり天候を予測する術のことだ。気象予報官も驚くほどの観察力と正確さを浦安の漁師は身に付けているという。

 その漁法の一つに投網がある。網を海に大きく打って魚や海老などを採る方法で、昔、熊本(九州)から来た一人の漁師が新しい投げ方を教えた。その漁師は熊本藩細川家の下屋敷に身をよせていたことから「細川の政」と呼ばれていた。

 その「すくい取り」という方法は船で広い範囲を移動しながら打つのに適していて、瞬く間に広まってゆき、「細川流」と呼ばれるようになった。ちなみに投網でとれる魚はスズキ、ボラ、マハゼ、イナダ、アオギス、クロダイ、コイ、ウグイなど、又珍しくマスがとれたこともあった。

 そしてこの専門的な技は高梨平治、藤松広吉、行徳の〝網兼〟などの名人の名を今に残している。浦安、その隣りの行徳などの漁師のプライドは高い。

 経済的には浦安の町は漁獲高がただちに景気に影響し、不漁が続くと町はすっかり寂れ、大漁が続くと町は活気にあふれた。漁師町特有の日銭稼ぎの日常は「宵越しの金は持たない」習慣となり、飲酒飲食の派手な日々の生活に追われることになる。

 漁師たちは自然を相手にいつも危険と隣り合わせで、「船板一枚下は地獄」という海への恩恵と畏怖の仕事が信仰心を深くした。

 住民の大部分が漁師を生業とする浦安には独自の気質や言葉がきずかれた。

檜木の風呂 50     2015.07.31

13尾久のパチンコ店F15号.jpg テレビの画面に滑稽な場面が映っていた。

 国の最高権力者の側近の代議士がマスコミに圧力をかけろと発言し、身内からも顰蹙を買った。それでもなお自説を高言する為体で、その人格を疑わせる情け無さは失笑しても足りなかった。その代議士の票田は僕が今住む地域で、通りを歩けばあちこちにポスターが貼ってある。そのポスターを見る度に苦笑いを僕はする。

 その側近をかかえる今の首相の父君は僕の絵のコレクターであった。その父君が党の幹事長であった時代、幹事長室には僕の絵が掛けられていた。直接見た訳ではないが、そのスポンサー的な人がぼくの作品のいわば大コレクターだった。その人の箱根の別荘は世間では首相の父君の別荘のように言われていたが、実のところは他人の持ち物だった。僕はその別荘に行き食事をし檜木の風呂に入ったことがある。木立の中の静かな、そして贅沢な家だった。

 ある夏、そのコレクターの招きで伊豆、下田のホテルに絵の制作にゆき、その滞在中に箱根の別荘に連れられていったのだった。バブルの時代の話である。

 バブルと呼ばれた時代、僕のような貧乏絵描きには何の関わりもなかったが、下田のホテルと箱根の別荘行きは、そのすこしの恩恵だったかもしれない。テレビの画面で首相の顔を見ると、そのことを思い出す。

 某月某日、待ちに待った甲賀元嘉夫妻の住む江戸川区一之江を訪ねる日がやってきた。

 晴れていれば僕は自転車で走ってゆくつもりだった。あいにくその日は雲の多い雨が落ちてきてそうな空だった。どうしようか、そんな心配をよそに甲賀夫妻は車で迎えに来てくれ、僕たちは夫婦で一之江を訪ねることになった。一之江は同じ江戸川区の中でも千葉県に近く、僕の住む平井は反対に墨田区まで二百米たらずのところで荒川に分断されている。いわば江戸川区の西東の端同士といっていい。

 一之江から少し行った江戸川を越えれば行徳、浦安といった千葉県になる。 僕の住居からは距離があるので、一之江あたりまで自転車で行ったことは今までに一度か二度くらいしかない。未知の場所といえる。

 何となく町の雰囲気が思い出せたが、それも随分前のことだから、今はすっかり変わっているだろう。

 色々と考えている内に甲賀夫妻の迎えの車が時間通りに到着した。ご購読はコチラ.pdf

愚痴のある場所 49     2015.07.17

12青服の人F10号.jpg 江戸川区一之江の甲賀さんの家の住所を探して、そこに行く道を地図で調べてみた。記憶の中の場所と少し違っていて、思いのほか近かった。

 よく、とは言えないが、僕はその辺りを幾度が通っている。僕の住む部屋の近くを流れているのが旧中川。一之江の甲賀さんの家は川添いにあるらしく、その川は新中川である。川に縁があることが、何となく甲賀さんとの親しさを引き寄せる。

 十六年前に新宿から平井に越してきた大きな理由の一つが、旧中川が町を流れていて、その水の臭いが新宿歌舞伎町裏、大久保通りの殺伐とした空気で渇いた心を潤してくれる、と直感的に思ったからだ。その直感は今でも過っていず、僕は毎日朝夕に旧中川の川の流れを見つめる。その川は日々新鮮である。

 一之江の新中川添いの甲賀さんの家の住宅地は、僕の記憶の中では特別特徴がある風に思えない。だが手紙と共に送られてきた資料によると、そうではなく面白そうな場所に思える。それはともかく近い内に出掛けてゆくことにしてザッと計算してみた。自転車で一時間を予定すれば行き着くようだ。帰りに少し廻り道をして浦安方面の初めての土地をうろつき散策して…などと考えると、ほぼ日中を走り廻り夕方に帰りつくスケジュールを立てる必要がある。 見知らぬ土地を訪ねる好奇心と少し面倒のような億劫さが心を横切る。 今週は気持ちを奮い起たせて、見知らぬ町へ小さな旅に出掛けてゆくことにする。

 ここのところしばらく浅草、山谷方面から足が遠のいている。僕の居場所が平井、亀戸、錦糸町に据え置かれて、朝の山谷の泥棒市もしばらく訪ねていない

 様子が少し変わっているかと気になるが、朝早く出掛けてゆく気持ちがこのところ薄い。同じような大阪、西成の毎朝通った線路添いの市もただなつかしいばかり。ふと気付くと、毎朝日課のようにして出掛けた風景が少し遠くなっている。

 先日テレビで西成のコインロッカーの中身を調べるという番組が放映されていた。そこから見えてくる人の人生を想像させるものを、僕は肌身で知っている。自衛隊にいた人。福島の原発の仕事から逃げ帰った者、様々な人が朝早くから立ち呑み居酒屋で愚痴を肴に飲んでいる。山谷でもそれは同じで、新幹線で自ら火を放った男の心情を、より深く受け止める人々の場所はそこではないだろうか。ご購読はコチラ.pdf

江戸川区一之江 48     2015.07.03

11公園の柳の木F15号.jpg 唐組赤テントで親しくなった唐十郎の明治大学の同級生、甲賀元嘉さんは偶然江戸川区に住んでいる。

 一之江という住所で、区内を流れている荒川の平井は上流で、一之江は下流になる。その場所にはまだ僕は行ったことがない。

 少し前に甲賀夫妻が僕の部屋を訪れた。お互いの住居が江戸川区であることと、唐さんの甲賀さんあての手紙を見せてくれる為だった。

 若き大学生の唐十郎の手紙に僕は興味津々だった。そして生の若き唐十郎の肉声は期待を裏切らずに若者の夢と詩(ポエジー)について書かれていた。僕は甲賀さんの許可を得て、それをカメラに収めた。

 その甲賀さんから又資料が届いた。今度は先だって別の話題になった洲之内徹についての資料だった。甲賀さんの住居の近くにある「申孝園」という庭園についての洲之内徹の文で、「一之江、申孝園」と題された最晩年の文章である。僕の本棚の中では「さらば気まぐれ美術館」の最後の章だ。藤巻義夫という夭折した画家の作品の題材になった場所を特定する章である。

 甲賀さんの送ってくれた資料を見乍ら近い内にその場所を訪ねてみるのもいいな、と僕は思っている。

 最近といっても三ヶ月程前のことだが、一寸気を許したら血糖値が上がって泡を食った。

 一念発起して朝歩くことにした。早起きは常々の習慣だから、午前三時に目を覚ます。用意をして三時半に部屋を出てゆるい坂を2㎞ばかり京葉道路まで下ってゆく。早足で歩き、京葉道路に突き当たると右に曲がり、亀戸への橋の袂から土手を下って川岸の道にでる。その道を遡上するのだが、暗闇の川に所々の川沿いの街灯が映り、又月の明るい日は遠くにスカイツリーが黒く聳えて風情がある。

 戻り道の途中で空が徐々に明るくなり朝があけてくる。

 いつもその頃には体がすっかり汗ばんでタオルで体や顔を拭く。途中に公衆トイレが幾箇所かあって時々そこで用を足す。

 東京の公衆トイレは清潔でトイレットペーパーも用意されている。どこの公園のトイレもそうだ。他の町に行ったりすると、それが常識になっている平井の町の文化程度について考えさせられる。

 部屋に帰りつくのは五時前で、妻は白川夜船の最中である。僕は音を立てないようにして珈琲を沸かす。

 雨の日はマンションの階段の登り降りをする。
絵・「公園の柳の木」F15号 (1995年)新宿、高田の馬場の公園の木であるご購読はコチラ.pdf

唐十郎のファンタジー 47     2015.06.19

10千住大橋の神社F15号.jpg 杉並区の自宅兼稽古場での李麗仙演出の「愛の乞食」の公演の後、夫婦は別れた。どういう理由であったかはともかく、二人は太陽と月のような関係ではなく、一つの空間に二個の太陽が必要無きが如くに空間を分かちあった。そして唐十郎は現在に続く「劇団・唐組」を立ち上げ、一から劇団員を育て直した。

 ある人に言わせれば「唐十郎は、そして唐組はそのテント芝居の向こうにかつての状況劇場の幻をみようとする人たちの期待を裏切るように新しい。そして二十一世紀に入った今、ますます現在形である」となり、年毎に新作を発表しつづけた。

 その野外劇でしか味わえない演劇空間はファンの心をしっかりと捉えた。毎度のことながらフィナーレに舞台が突然崩壊し、野外の闇の中を主人公が去ってゆく演出は、外気の津波とともに観客を閉じ込められた劇場空間から現実の夜の中に一気に引き込み解き放つ。

 唐十郎でしか成しえないこの妙味は、僕には唐十郎がいかに人を酔わせる演劇好きの芝居人であるかを認識させられるいつもの瞬間である。

 そして又唐劇には必ず水槽が登場する。それは海であったり川であったり池、沼であって、その底は何処か遠い外界に繫がっている。そんな発想の中にも演劇少年の夢のような水遊びを僕は受け取る。

 ある時ふと思った。 唐十郎の芝居とは一種のファンタジー、大人の童話ではないだろうか。

 唐十郎の頭蓋の中は沢山の演劇、文学の知識で埋められているが、その中心には少年のファンタジーの核があって寒山拾得のように戯れている。

 以前唐さんが突然僕の部屋を訪ねてきた時、「頭の中で暴れまわるそうした想念に手を焼くことがある、と同時にしきりにデジャビュー(既視感)におそわれる」と言った。

 その頃からすでに唐さんの頭蓋の中の寒山拾得はしきりにいたずらをしかけ、勝手に遊びはじめていたのかもしれない。


 ある時唐さんは自宅の前で転倒し頭を強く打った。 治療中に「朝日賞」という大きな賞の受賞の報せが入ったが、彼の頭蓋の中に届いたかは、分からなかった。

 先日、赤テントの唐組公演をみた。唐さんが倒れてから劇団をひきいている久保井研の演出で、劇はよく纏まっていた。が、いつもの席に唐十郎は居なかった。何かが欠けた気がした。
絵・「千住大橋の神社」F15号 (1981年)以前住んでいた千住大橋の神社。ご購読はコチラ.pdf

愛の乞食(こじき) 46     2015.06.05

9川岸の家F15号.jpg 友人を介して李麗仙さんから連絡があった。

 新作の劇への招待だった。渋谷あたりの能楽堂が公演場所らしく、その場所に見合う演目のようだから演者の新境地の発表かもしれない、と興味が湧く。

 もう一つ劇団唐組からも公演の招待状が届いていた。ただこちらの方はいつもの案内状の他にもう一枚のチラシが入っていて、寄付のお願いと窮状の訴えの文面だった。僕は少し驚いた。

 ある意味で劇団存亡の危機を衆目に晒すということは余程のこと、万が一のことに違いない。それにしても事態の真相が気になった。

 座長の唐十郎が不慮の事故により舞台に上れなくなって三年、と文面にはある。もう唐さんが舞台にたてなくなって三年が経つのか、と僕は改めて時の流れの早さを思う。元気な唐さんと最後に飲んだのは確か大阪城での公演の後だ。大阪での宿舎になっている寺から見送ってもらった時、唐さんは「そういえば少し足元が覚つかない」と自分で言っていた。あの時から何かの兆候があったのか、と今になって思う。

 思い出せば唐十郎、李麗仙さんと知り合ったのは三十二年前だ。僕を世に送り出してくれた美術商、木村東介が先行きのことを考え、異種の世界への道筋の為に、まだその頃は「状況劇場」と名乗っていた唐十郎と李麗仙、劇団員数人との食事の宴を用意してくれたのがきっかけだった。木村東介はその時、独身だった僕のことを、

 「唐君、唐君、宇野君はまだ独身だから、誰か良い彼女を世話してやってよ」と言った。僕はその言葉を信じ、それから招待されるようになった状況劇場の赤テントに足を運んだ。

 いつ劇団員の独身女性を紹介されるのだろう、と楽しみだったが、ついにその機会はこなかった。それが大人の世界かもしれない、と後々に僕は思った。

 杉並区にあった劇団の稽古場の公演の後、打ち上げの席で唐さんと李さんが劇場の端と端に分かれて坐っていた。僕はまずその日の演出をした李さんの席にいったが、しばらくすると向こうの席の唐さんから、

 「宇野さん、こちらに来ませんか!」 と声がかかって、僕はそちらに移動した。

 唐さんは少し酔ってくると、僕の耳元で、

 「今日の劇は宇野さんの為に書いたような劇ですよ」と言い、あらためてチラシを見てみると、演劇の題名は「愛の乞食」だった。
絵・「川岸の家」F15号 (1980年)千葉県松戸の風景である。ご購読はコチラ.pdf

見知らぬ町の見知らぬ場所 45     2015.05.01

8旧中川風景F8号.jpg 立った場所と坐った場所、歩いた道と走った道、一日一日がそうして過ぎてゆく。それに時間が加わると僕は又一つ年をとる。あと二年数ヶ月で七十才、古稀になる。

 年をとると同世代の多くがそうではないかと思うが、七十才という年令が実感としてピンとこないのではないだろうか。古稀という言葉が面映ゆい。

 そこを越えてゆくと死の影を背負うことになるという気がする。先が見えはじめる気がする。残りの時間が陰に陽に射程に入ってくる。だが、そこからこそ生きて何かをしたいことの目的がはっきりする、ということもあるのではないか。

 十代のまだ青春の入口にある若者の理不尽な死、リンチなどのニュースがこの頃つづけて耳に入ってくる。どうしようもない怒りで目の前が暗くなる。平和に見える日本の病理がつきつけられる。莫とした不安が体の中に広がる。若者たちの集団に出会うと、得体の知れない薄気味悪さを感じる瞬間がある。そして自分の青春を思い出す。

 雨が上がって木々や草花が生き生きと水を吸って空に向かって伸び上がる。その朝の一刻に心を拡げる。少し前僕は故郷の夜の道を歩いていた。久しぶりの故郷の道は新しくなり、方角を見失って自分の立っている位置、場所が分からなくなっていた。

 見知らぬ町の見知らぬ角に立って僕は昔の知人がやっているという居酒屋を捜そうとしていたが、教えられたはずの道をどれ程歩いてもその店は見付からなかった。新しい道と新しい店が続く場所をうろつき廻る内に、異国の異場所で置き去りにされた幼児のように佇んだ。

 そしてともかく宿泊場所に帰ろうと歩きはじめた。目印の建物を見付け、記憶にある小さな神社の木の下を通り過ぎたのだが、いつの間にか又帰り着く場所を見失った。何故か道が違っていた。

 知り合いの病院の院長室を探したが、そこにも人は誰も居なかった。僕は又とぼとぼと歩いた。やっと宿泊するホテルの近くのコンビニエンスの明かりが見えてきた。

 安心感が湧くと何処からか賑やかな歌声が聞こえてきた。ひときわ明るい一軒の店で歌と人の話し声が大きく外にこぼれていた。僕は思わずその店の扉を押して入っていった。

 歌声と笑い声の飛び交うその店で二杯三杯と酒を飲み人の声に囲まれると、いつしか涙が次から次にあふれ、僕は声を立てて泣いた。
絵・「旧中川風景」F18号 (1999年)少し前の旧中川風景、今は沢山の建物が建っている。ご購読はコチラ.pdf

余市という場所 44     2015.04.17

7歌舞伎町風景F15号.jpg 阿倍野ハルカスにいった。十二階に登ると右手の下に通天閣が見えた。その脇には天王寺動物園がある。そしてその左手が山王町、僕のなつかしい場所「飛田本通り」がある。そこの商店街の会長を長く続けているのが足立真美、第六足立酒店の店主、僕と同い年の親友である。その妻実幸が今は店を取りしきっている。馴染みの客が夕方から集い、いわば飛田本通りの名店である。

 僕が二十代後半から毎日通って親戚のようになった夫婦である。そこの常連というより主のようなやさしい高校の先生だった人が「たなべさん」。競馬の好きなインテリ、物知りである。書物で二階の部屋が抜け落ちるほどの蔵書家だが、そんな様子はみじんも見せない。ひたすら親切なやさしいただの好人物である。

 この人は僕が知った沢山の人の中で「人生の名人」だと頭を下げたくなる人だが、性格は実に淡々としている。生まれつきのものか複雑な人生を味わい尽くした結果なのか一寸分からない。魅力的な人であることだけが味わいとしてある。

 確かに何かの思想を持った人であることは僕の直感で分かるが、それを微塵もかんじさせない、そういう人である。この人はいつも優しい。僕が人生に恵まれていると思うのはこういう人に出会えたからだ。下町の哲人というのはおそらくこういう人のことを言うのだろう。その人が毎日夕方になると自分の部屋のようにして通う第六足立酒店は、確かにその場所で一つの歴史を作り上げたとても良い店である、とつくづく思う。僕の二十八才から現在の六十七才まで、いつも心の安らぐ場所としてその店が続いていることは僕の人生の幸福である。

 話は変わる。もうすぐNHKの朝の連続ドラマ「まっさん」が終わる。このドラマは北海道余市のニッカウィスキーの創業者の話だが、主人公のモデルになった人は本名を「政孝」といって、僕の本名と同じだからすごく親近感がある。

 僕も元々ニッカウィスキーが好きだ。そのウィスキーの見本をイングランドから持ち帰り、余市の自然を見つけてそこで独自の酒造りをはじめた。テレビの画面から伝わってくるものは、北海道という場所が一つの歴史をそこで持ったという、日本の国の近代のあらためての認識だ。そして余市という場所をあらためて知る。

 北海道を旅した頃、海峡を渡ると、遠い国に来た気がした。そんな思いで又僕はテレビを見ている。
絵・「歌舞伎町風景」F15号 (1993年)新宿の繁華街風景。ご購読はコチラ.pdf

さいごの色街、飛田 43     2015.04.03

6西新井の桜F15号.jpg 加藤嘉子という同級生がいた。小学校中学校と一緒で中学校三年生の時は同じクラスだった。彼女は心臓に爆弾を抱えていて、少しの距離も走ることができなかった。色は白く眼鏡をかけていて紫の唇をしていた。

 彼女は二十才まで生きられない宿命を負わされていて、聡明な頭脳はそのことをよく理解している、そういう表情をいつもしていた。だから僕たちより少し大人のように見えた。僕は彼女から読む本を教えられた。ヘルマン・ヘッセの『デミアン』という小説だった。その本から僕は知的世界の楽しさを覚えていった。

 中学校を卒業してから彼女に会ったのは、高校を中退してから旅をし、そして故郷に戻った時だった。ある日バスに乗ると、彼女が立っていて静かに微笑していた。つい言葉をかけ「元気になったんですね」と言うと、彼女は否定も肯定もせず、密かな笑いを見せてバスを降りていった。

 しばらくして彼女が入院したことを知った。そしてこの世から遠くに逝った。あの時バスの中で会ったのは彼女の最後の楽しい散歩だったのだ、とその時思った。幾年かに一回彼女の夢を見る。小学生の時、遠くまで歩けない彼女の為に一家は校門のすぐ近くに家を構え、彼女はゆっくりと歩いて学校に通っていた。俯き加減に下を向きながら。

 自分の運命を噛み締めながら早逝した、そして文学の楽しさを教えられた彼女、一人の女性のことを又夢に見て昨夜は夜中に起き、ゆっくり思い出を確かめながら目に涙がにじんだ。

 作家の井上理津子さんから新刊の文庫本が今日届いた。「さいごの色街、飛田」という本で四百八十一頁の長編ドキュメンタリーである。もしかしたらこの本の中に僕の絵が使われることになっていたかもしれない一冊である。 僕の描いた飛田遊郭の絵を井上さんは画廊に足を運んで見に来たが、編集の都合で本の中に絵の頁は入らなかった。それでも西成の町で仕事をした者同士いつしか知り合いになり、昨年の新作展にも井上さんは来廊した。一昨年の大阪の個展にも来た。

 西成の町で凄まじい人生の終わりをとげた一条さゆりやその伝記を書いた加藤詩子、そして井上理津子など西成の町を縁にして、いつまでも大阪との関係は続いてゆく。もうあと数日で又大阪、神戸に行かねばならない用事があって出掛けてゆく。

 大阪に着いたら飛田本通り、第六足立酒店の仲間たちにまず会いにゆく。
絵・「西新井の桜」F15号 (1988年)下町の桜の風景である。ご購読はコチラ.pdf

外国の話一つ二つ 42     2015.03.20

5公園の人F15号.jpg キラキラ橘商店街のサエキ自転車店の店主はもう八十才を越えているかもしれない。年の割には背が高く、どことなく教養を身につけている人に見える。

 そして何より自転車をよく知り、その見立ては名医を思わせる。なんでもかんでも金にし、修理代をむさぼる自転車店も平井のまちにはあるが、サエキ自転車店は正反対の良心の店といえる。

 例えば自転車のペダルの具合が悪いと思って持ち込むと、原因はペダルではなく後輪のチェーンのたるみだと指摘された。そのたるみを少し直すとペダルは正常になった。それを見ている僕にはまるで魔法の術のように見えた。こんな自転車店に会うのは初めてだ。明らかな長いキャリア、経験をまのあたりにした。

 このところたて続けに起きた故障も後輪のタイヤを丸ごととりかえることで決着した。新品になった後輪によって自転車の乗り心地はすこぶる快適になった。いつ空気が抜けるかとこわごわ自転車を走らせている慢性不安状態が解消されて、走ってゆく距離がつい伸びる。そして何より気持ちに余裕を持てることが嬉しい。

 そうして朝出掛けてゆく時、つい顔を合わせる僕の前の部屋の住民をこのところたて続けてテレビの画面でみかける。

 日本の報道カメラマンや軍事専門家が外国で殺害された事件、「イスラム国」の専門家としてその人は解説する。中東調査会の上席研究員というのが彼の肩書きで、シリアの現代政治の専門家として紹介されている。

 今住むマンションの自治会でいつも顔を合わせ、役員の引き継ぎでも僕の後任を頼み、回覧板を次に回す部屋の人である。そういえばつい間違えて入った郵便物の中にその人あての封書があった。差出人は東京外語大学とあったから、もしかしたらその人の出身校かもしれない、と想像をたくましくする。

 東京の下町には色々な人が住んでいる、とあらためて思う。

 一昨日先輩の画家から一冊の本が送られてきた。

 「フランス留学記」と題されたその本は、若き頃の外国留学の様子を書いたものだ。もう八十才を過ぎたその人が外国に出掛けた頃は船旅であった。一ヶ月以上を費やして目的地パリに着くまでの好奇心に満ちた外国航路の船の旅の様子は、思えば少し前の、たった五十年ほど前の事ながら、別世界の出来事、物語になっている。現代の状況との遠い距離をあらためて思い知らされ、物思いにふけさせる。
絵・「公園の人」F15号 (1997年)寄るべのない無宿の人と見うけられる。ご購読はコチラ.pdf

霧の日の風景 41       2015.03.06

4江北の住宅F12号.jpg 朝テレビを見ると、東京の街が霧の海の中に沈んでいた。あまり見たことのない風景で、そういえば以前は、というより幼い頃家の周りによく霧が立って前の田んぼや隣りの家が見えないほどの日があった記憶が甦る。

 だが今ではあまり遠い記憶になっているので、それが現実だったのか夢の中だったのかという気がする。今朝のテレビに映された東京の街の霧の風景はまざまざとした遠い記憶を呼び戻し、霧の日を思い出させた。そうだ、霧の日が幼い頃にあった。それは突然に訪れた非日常的な時間だった。

 もう一つは北秋田の阿仁の朝。霧が出ている窓をあけてしばらくすると嘘のように霧が晴れて山や川や家並が透き徹って見えた。人生の中で体験したことのないような透明な空気、風景は今でも鮮やかに目の裏に残る。あの日も目覚めた頃は霧が出ていた。 そう考えてみると最近、霧に包まれたという体験がない。今の住居に来て十六年、その前の新宿の街の六年間も霧の経験がない。

 今朝のテレビにしても、確かに映像には隅田川やスカイツリーをとりかこむこのあたり一帯は霧に包まれているが、目の前の家や人に霧がかかっている様子はない。しばらくして外に飛び出すと、空はよく晴れて風もない穏やかな寒い一日だった。

 このところ自転車の故障が続いた。パンクや空気入れの虫ゴムが傷んでいて、朝出掛けようとすると自転車に乗れなかった。出来るだけ近くの自転車店に持ち込んだが、次の朝又タイヤの空気が抜けて自転車に乗れなかった。

 少し遠いが墨田区のキラキラ橘商店街にある信頼のできる自転車店まで歩いて自転車を引きずっていった。店主の見立てはタイヤのパンクではなく空気を入れる虫ゴムが古くなっていただけで、その交換が五百円で済んだ。 二日して又自転車の前輪がパンクをした。そして又朝からキラキラ橘商店街まで自転車を押していった。修理代が千円だった。この四日間でパンクが二回、虫ゴムの交換が一回、そしてその間絵を描くことができなかった。

 今日は恐る恐る自転車に乗り向島、亀戸、錦糸町を走った。時々降りてタイヤの具合を見、そのたびに近くの自転車店がどこにあるかを考えた。

 たて続けの自転車の故障は、気の腐りとともに自分の老いにも及んで気持ちを沈ませ、そして少しの闘争心を煽らせ心に火を点す。
絵・「江北の住宅」F12号 (1988年)足立区江北の住宅、今はないご購読はコチラ.pdf

生くる世の さびしくなれば 40       2015.02.20

3-新宿のガードF12.jpg 群馬県草津町のハンセン病療養所、草津楽泉園の外来者の宿泊所、石楠花荘の入口には土屋文明の和歌が掛けられている。

 生くる世の さびしくなれば此所に来よ 谷にたなびく 藤浪の花

 訪れる度に僕はこの歌に救われる気がした。生きてゆく上には楽しいことも苦しいことも悲しいことも多々ある。人との死別、生別、諍い、その他諸々。そんな時に気付くのは人間の存在の淋しさだ。普段では意識しなくともある時ふと、人間は人間の存在の淋しさに気が付く。

 土屋文明は栗生楽泉園という人界から隔離された場所に立ってしみじみとこの歌を生みだした、ということがその場所に来ると分かる。歌われる谷とは、もうその先の無い、園の中でいわれる〝地獄谷〟と名称される場所である。

 見霽かす谷の向こうの山並には、春過ぎると緑の中に藤の花のさむらさきが人の目を誘う。絶景なのだ。 いわば日本の国の最終地点ともいえる楽泉園の地獄谷からの眺めは、あと少しで消えるかもしれない。先日教えられた電話ではもう患者といわれる人は百名を切り、高齢の為もあって一日に数人ずつが亡くなってゆく現状だという。

 皮肉にも隔離政策をとった光田健輔の施策、もくろみは、今になって実を結ぶのかもしれない。幾多の悲涙の果てに。

 日本の中の隔離地が一つ二つと消えてゆくかもしれない。だが国の首都のど真ん中の隔離地が消滅することは考えられない。思えば不思議なことではある。 昨年その隔離地に人が連なって押し掛け入ってゆく様子がテレビに映っていた。桜の見頃で、物珍しい風景に昂奮する人々と、それを喜ぶ様子のその地の主の顔が映されると、ことほど左様には喜ぶには遠い気持ちに僕はなった。施すものと施されるものの差別が僕の天の邪鬼を呼び覚ます気がしたのだ。日本の民主主義とは一体何だろうか? 天皇制という孫悟空の金輪は時として僕の頭を締め付けるらしい。

 ところで貧乏画家の日常の孫悟空の金輪、経済の方も、ますますじわりじわりと締め付けられ弛む気配がない。

 時の為政者が民を生かさず殺さずという生き地獄の状態に置いて、そこからの施策を考えざるように見えるのは、僕だけの勘違いなのか。それともこの国には、あくまで差別の行き届いた政治がいまだなされているのか。さて、どうだろう?
絵・「新宿のガード」F12号 (1995年)歌舞伎町の裏にあるガードの風景ご購読はコチラ.pdf

今、思うことは 39       2015.02.06

2立花裏通りF12号.jpg永い間考えたかった天皇制についてふれたい。

 明治憲法で法的に確立した日本の天皇制国家は昭和二十年の敗戦によって象徴天皇制となった。その制度では天皇は国の象徴および国民統合の象徴であり、国政に関する権能を有しないとされる。

 この制度の元に現代の日本の民主主義という社会体制は運営されている。近くの国々が持つ大統領や主席といった国の責任者が政治に大きな働きをするのに比べ、日本の天皇は政治に関わらず、かといって社会的行動が無いかというと、決してそうではない。かえって三百六十五日公務から離されていないといっても過言ではない。天皇は人間であって個人ではない不思議な存在に見える。

 皇居という敷地の広い場所に住むとはいえ、そこからの出入りの自由があるようには見えず、真反対の自由のない刑務所と環境は似ている。そして日本の中で姓名の姓を持たない存在であるということも、国民とは決定的に差別をされている。考えてみれば不思議な存在を僕たちは容認し、時には利用し、時にはその前で畏縮してその存在を空気のように吸い込み生きている。

 だがよく考えてみると、その存在を意識無意識のうちに取り入れながら寄り添って共同体の一部としているのは、その人格が厄災の祈りであったり、僕たちの邪魔にならないようにひたすら磨かれていると思えるからだ、と見える。

 こう考えれば考えるほど不思議な被差別な存在を作り上げた共同体の智慧は、風土と歴史(時間)という自然の賜物かもしれない。この島国はこうした装置を持つことによって安定を保ち、均衡をはかり重さを支えている。 もちろんその存在を否定し、その人たちなりの神を持つ人々は多くいる。その上になお超然と倫理や行動を人の目に焼き付ける被差別の存在を、昨日も又僕はテレビの相撲の場面で見た。

 過日案内された国会議事堂の中に特別な場所のあることを教えられた時、突然以前訪ねたことのある群馬県草津町のハンセン病療養所を思い出した。今は人もまばらになった園の静かさ、日本の中で一番静かな落ち着く空間だ。宮城もそして閉ざされた療養所もその静かさは似ている、と僕には思えたのだ。

 人間には人ごみの中で集まることによって安心を得る場所と、まるで一人きりで静寂に包まれて落ち着く場所とがある。二つの空間が人には必要だと今思う。
絵・「立花の裏通り」F12号 (1999年)下町の路地の風景であるご購読はコチラ.pdf

井上有一について 38       2015.01.30

1-南千住の店F12号.jpg 色街について書きたい。

 「色街」、漢字で書くと色彩のあふれる夢のある街のような気がする。確かに「色街」には僕にとって甘くそして豊かな思い出がある。

 幼い頃には豊田の町には「かんげつきょう」という色街があって、父の友人たちの「宇野さんパンパン買いにゆこう」という声が幼い僕の耳によく聞こえた。僕はパンを売る店と思い、そこに行く誘惑にいつもとらわれていた。きっとおいしいパンがその店には並んでいる。その店には少し侘びしい電灯が点っていてそのウインドウの中には美味しそうなパンが売られているに違いない。そのパンが僕にはとても魅力のある食べ物に思え、夢の食べ物に思えた。

「かんげつきょう」という名のその色街には素敵なパン屋がきっとある。

 その風景が消えたのはいつの頃だったのか、今僕は知りたいと思う。おそらく少し前の僕の父母の時代を知る人は「かんげつきょう」を覚えているに違いない。

 といっても僕が生まれた宮口町の亜炭鉱のことももう知る人の居ない時代だから、まして「かんがげつきょう」など知る人は豊田にはもう居ないだろう。懐かしく切ない日本の風景の一つの場面は思い出の彼方になる。

 そんな思い出がいつしか大阪の飛田遊郭に繋がって一昨年僕は飛田遊郭を中心に大阪の西成に絵を描きにいった。その収穫で東京と大阪で個展をし、それでもう思い出の町に区切りを付けよう、と思った。父も母も居なくなり自分の中の歴史にも区切りをつけておきたいと考えたのだ。

 確かにそう覚悟して描いた所為かその作品は他人の目にも僕の目にもずっと以前の絵の描き方に戻っていて、ここ数年積み重ねた東京での絵とは画風が異なっていた。絵の描き方がずっと以前に帰っていた。自分でもそれは不思議なことだった。

 そんなことから分野は違うけど書家の井上有一のことを考えた。

 というのは東京に帰ってからふとした機会で井上有一の「月」という一字が僕のアトリエにやってきた。タテ九十センチ、横七十センチほどのなかなかの大作だった。いつもその字を見乍ら井上有一という書家の魅力について考えていた。一つは書道の枠からはみ出して作品が絵画的であること。そして脱皮を繰り返すエネルギーに溢れていること。それらは既成の書道界を破壊する魅力だった。
絵・「南千住の店」F12号 (1972年)今はもうない山谷の風景であるご購読はコチラ.pdf

朝まだ暗き公園を 37       2015.01.16

16.平井の住宅M20(2008年).jpg今僕の目の前に三人の少年が乗ったボートと落日の絵の二点がある。昨日の仕事の収穫である。寒いものの風の無い穏やかな一日だった。対岸には釣りをする人が数人いた。寒空の下での一心不乱の様子は暖かな日の釣りから見ると考えさせられるものがある。

 寒さの中で一際縮まって見える人影は幸田露伴の描いた「蘆声」と同じ西袋の場所にあった(丁度この辺りの川釣りの様子を幸田露伴は「蘆声」という短編小説の中で書いている)。あの当時と違って晩の食卓の為の獲物とも思えず、一体どうするのかと穿鑿すると、魚を採るというより釣りの楽しみという理由が一番納得できる。釣りを楽しむ心は暑さ寒さとは関係なく人を川辺に運ぶようだ。

 それは僕が寒空の下で自転車に茶箱を積んで絵を描くのと同じだ。他人から見れば酔狂にも、好きこそものの上手なれにも見えるだろう。そんな姿の横にはよく子供がまとわりついているのを見かける。

 先日興味を持って、釣った魚を見せてもらうと沙魚が四、五匹入っていた。その人の話ではこの川には鮒や鯉、鯔もいるが、釣り人はもっぱら川岸の沙魚釣りばかりである。

 川幅は四、五十米といったところで最近競技ボートの練習を男女の高校生がよくしている。今日僕が目に止めて描いたのはもっと小さなボートに乗った三人の少年達だった。描き終わって、遠ざかってゆく少年達を見ながらふと事故のことを心配し父兄や教師のことを考えたのは、僕の心のどのあたりから来たものだろうか。老婆心か、と苦笑いが浮かびそうだった。

 この時期になると気になるのが朝焼けの空の色で、冬の寒気の澄み透った空の暗さの中から徐々に姿を現す日輪の色をキャンバスに閉じ込めようと、朝の暗いうちから出掛けてゆく。

 前の日から心用意をして闇夜の寒さの中を日の出を待ったが、生憎その朝は雲が多かった。いつまでも陽は上がらず、キャンバスに絵の具は一色も置かれなかった。そんな日は心準備が足りなかったのである。空を見極めることなしに闇雲に走り出しても絵の神様は待っていなかった。すごすごと帰る途中の公園に一匹の野良猫が寒気の中をゆっくりと歩いていた。

 最近、階下の部屋の庭の隅で数匹の子猫を生んだ母猫が子猫たちを連れ去った。何処かに住居を見つけたかが気になっていたが、その母猫が朝まだ暗い公園を食物を探して歩いている、そんなことが気に掛かった。
絵・「平井の住宅」M20号 (2008年)平井最後の古い家屋であるご購読はコチラ.pdf

忿怒の不動明王は 36       2014.12.19

15.十間橋からP30(2007年).jpg 仙葉由季の肖像の後、今僕が描いているのは不動明王の絵で、これは以前浅草の古道具屋で見付けた鋳造の仏像。明王の前に矜羯羅、制多迦の二童子を従えている。

 そのせいか外で絵を描く時も寺院に祀られている石仏や神像に目がいく。時としてそれらの仏像の前で立ち止まり、眺めていることが多い。町のあちこちの片隅や町角に神仏は鎮座し、近くの人が水や榊の供物を置いている。

 こうした外での神仏を拝むことは特定の宗教を持つ人ではなく、日常の宗教心、何かを祈り願うといった日常心の中の出来事の様に見受けられ、僕のような無宗教の者にも違和感がない。気持ち良い美しい行為である。

 不動明王を描きはじめた時はさして特別の意識もなく、偶然手に入れた仏像を絵のモチーフにしようと考えた位だった。だが絵が段々と仕上がってくると、それがただのモチーフでなく艶めかしい実在のように僕に対し迫ってくるようになった。そして外に出ても石仏や神社仏閣などの像が生きて動き出すような錯覚に魘われそうになる。

 そういえば今年は水害や噴火で沢山の人が死に、テレビからは東北大震災、津波のドラマが流れてくる。鎌倉時代、源実朝が「すぐれば民のなげきなり、八大竜王雨やめ給え」と歌ったその時代にも、自然の災厄は人を苦しめた。何かが発達したといっても災厄は変わらない。

 町の片隅に置かれた像に祈る人の心は鎌倉時代、いやもっともっと古代の人と何ら変わらないのではないか、と僕は思う。大なり小なりの地震が今年は幾度も家を揺らした。そして日本列島を襲う大地震の予測がしきりに報道番組に流れる。

 話は変わるが、先日豊田市役所から連絡があり、未来に残す豊田市の風景を描いてくれないかとの打診。場所は指定されていて、上挙母駅の駅舎風景と電車もその中に入れろ、とのこと。後日届いた市からの郵便物にはその写真が同封されていて、電車も写っていた。

 係の人から電話があり、その受け答えの中で、僕の絵を描く姿勢、現場主義だから絵は必ずその現場で仕上げる、と言うと、戸惑った様子だった。写真を見て絵は仕上がるものだ、と位にしかその人の認識がないことが話の中で推し量られた。

 それはそれとして仕事を引き受けるにあたって豊田市に道具を担いで出掛けることになるが、日数と宿泊場所など貧乏画家にとって頭の痛い宿題がついてきた。
絵・「十間橋から」P30号 (2007年)スカイツリーの建築途中の風景ご購読はコチラ.pdf

インターネットの世界 35       2014.12.05

14.カンナF12号(2010年).jpg 展覧会が終わった。二年ぶりの新作展だったから少し緊張した。

 作品は五十号二点を中心にした十七点。広い画廊ではないが、通りに面した一階のガラス張りで人の眼は多い。東京駅から歩いて七、八分の場所なので立地条件としては便利である。

 近年画廊の中心街だった銀座が変わって、シャネルなどの外国資本の店舗が増え、あちこちにあった有名画廊が銀座から姿を消した。

 バブル期や隆盛だった時代の象徴だったいわば銀座の顔的な画廊が軒並み姿を消し、裏通りに引っ越したり、場所を移し細々と営業をしている。その変遷は一時期の銀座を知る者にとって目を見張り嘆息する気がする。名物といわれた画廊が今はもうない。

 その代わりに画廊や美術商が急速に増えたのが東京駅に近い京橋あたりだ。普段はビジネス街で、土、日曜日は人通りが絶える街だったが、画廊や骨董店巡りの人達が歩き廻るようになり、様子が変わってきた。

 僕が展覧会をした「アート紀元」は早めに京橋に店を出した画廊だ。経営者の伊藤幸和は先見の明があったのか、伊藤が店を持った後にあちこち画廊が増えた。 といっても何となくまだ銀座への郷愁の残り香が京橋あたりに漂っている気配はする。

 展覧会の出品作の中心五十号二点の一点は浅草「ロック座」のトップスターだった踊り子、仙葉由季の刺青の入った裸身で、赤い襦袢を片肌被った姿。もう一点は和服を着た姿である。これには理由がある。絵のモデルを頼み描き始めたのがまだ寒い頃だった。仙葉由季本人は、プロとしてどれほど寒くても衣服を脱ぐ、と言ったけれども、もし風邪でもひかれることになったらとり返しがつかない。それは僕の方から遠慮して、まず着衣から描きはじめ、暖かくなった頃着衣をとってもらうことにして、着衣と裸身の五十号二枚のキャンバスを用意した。

 そうして出来上がったのが五十号二点と、0号の油絵、素描三点を加えた六点の仙葉由季の絵だった。今回の作品展は、それに新作の風景や人物の油絵全十七点の発表だった。

 読売新聞と毎日新聞の都内版に展覧会は取り上げられ、新聞を見ての入場者も多かった。そして何より驚いたのは、仙葉由季のファンで、遠くから駆け付けた者もいたことだ。インターネットでの広がりを僕は仙葉由季によって教えられたのだった。
絵・「カンナ」F12号 (2010年)旧中川の川端に咲くカンナの花ご購読はコチラ.pdf

人生は寒く厳しい 34       2014.11.21

13.花火の日F4号(1993年).jpg 数日前親しいというほどでもない人から電話があった。借金の申込みで、話は切羽詰まっていた。額は数万円で、余裕のない我が家でも何とか都合の出来る金額だった。

 急いでの用件だから妻と相談の上、僕は銀行に走っていった。丁度生活費をおろしてきたばかりで手元に現金があった。入金を済ますとしばらくして電話があった。入金を確認したという礼の電話だった。

 深い関係ではないが見知った人に貸す金というのは多分返済されないだろう、と入金をして漠然と思った。貸し易い金額というのは微妙で、何となく返済されなくてもあきらめのつく額でもあり、借り手はそのことをよく知っている。額の微妙さが借金のコツということを数年前にも体験をした。

 ある日、朝早く電話があった。故郷の老舗薬局の知人だという人から、その薬局の紹介で僕の絵を購入したい、ついては今時間の都合がつくから訪問して良いか、という問い合わせだった。願ってもない話だったから僕は平井の駅まで出迎えにいった。

 七十代は半ばの老紳士然としたその人の話では予算は一千万円。名古屋に新築したビルの正面と神戸にもビルを建てるからその玄関にも作品が要る、とりあえず五十号二点を買いたい、という涎の出るような話だった。最近外国から仕事を終えて帰国し、熱海にも別荘があるから是非そちらにも遊びに来て欲しい。外国みやげのウイスキーやブランデーが沢山揃っている。酒の嫌いではない僕にとって心くすぐられる話ばかりが並んだ。

 その日の午後に会社の車を回すからとりあえず、五十号二点を用意し、その前に振り込みを終えるから口座番号を教えて欲しい。

  話はトントン拍子に進んでいざ帰りに、手持ちのバッグを電車の中に忘れてきたらしい、あの中に財布が入っていた。さて困った。少し金を拝借できないか。午後の入金の際に一緒に返済をする。

 後になって考えると詐欺師というのは水の流れのように話を作り上げ、その落とし所に人を誘い込んでゆく。一種の手品のようなものだ。それはうまく人の心理の弱点を突く。

 今回の借金の申込みが前回の詐欺師事件と同様だとは思わないが、銀行に振り込んだ金額が返ることはないと覚悟はしておこう。それが人に裏切られたと思わぬ方策だ。さあ、寒く厳しい季節が又やってくる。しっかり防寒しなければ。
絵・「花火の日」F4号 (1993年)荒川の花火の日の準備テントであるご購読はコチラ.pdf

公園の遊具の色が 33       2014.11.07

12聖天前F8号(2013年).jpg 余韻はまだ続いている。本の出版記念の宴が終わっても、その出版記念という訳ではないが作品の新作展が予定されていて、その展覧会は関西、神戸での展覧会へと廻ってゆく。

 その展覧会には本の出版広告のポスターが作られて張られる、と皓星社の藤巻さんから連絡があった。流れは動いている。

 神戸での展覧会となると関西に行くのは二年ぶり、一昨年大阪の飛田遊郭とその周辺を描くのに一年弱滞在したが、その生活の無理が祟って糖尿病を発症した。思わぬ病気の自覚はその後の生活の見直しを迫り、又年令の自覚にもなった。原因は大阪での生活の緊張とその為の大量の飲酒。そして普段は自転車に乗っての現場での製作が、大阪では毎日徒歩で画材を担いでの生活だった。

 ある日、足が浮腫んで腫れ上がった。焦った僕は急いで内科に飛び込んだ。利尿剤を調剤されると一晩で症状は治ったものの、神戸の西市民病院の検査を受けた。そして糖尿病が宣告された。

 大阪での制作を終えて東京に戻ると早速行きつけの医院に再検査にいった。やはりそこでも検査結果は変わらなかった。投薬を続けて一年以上が過ぎ、やっとこの頃血糖の数値が正常なところまで下がったが、主治医の言うところは「これからがむつかしく大切なところですよ。」とのこと。それでも胸の騒ぎは何とか落ち着き、自転車での製作に弾みがついている。

 そんな自分なりに安定した生活の中に、一昨日作家の井上理津子から電話がかかってきた。彼女は以前から飛田遊郭を題材に本を書いていて「最後の色街、飛田」という書物を出している。そして又その本を改訂して新潮社から文庫本を出す、という報せで、僕の描いた飛田の絵が気に掛かり、その絵を今持っている画廊「アート紀元」を訪ねて見たとのこと。突然の報せに僕は絵の持つ運命ということを考えた。描いた人間とは別のところで、絵は又別の運命を辿ってゆく。絵も又生き物なのだ、と僕は思う。

 今日は朝から冷たい風が吹いていて空はそこそこに晴れた。

 深い知り合いではないが同じ平井の町で絵を描いている人がいて、江戸川区の文化会館で個展をするというので早々に出掛けていった。六帖一間で絵に埋まった生活だという。ほほえましい話を聞き、帰りに小さな公園に寄った。ブランコや子供の遊具の青赤黄緑の色彩が彼の絵のようだった。
絵・「聖天前」F8号 (2013年)平井聖天の前の家並みであるご購読はコチラ.pdf

祝賀会の後で 32       2014.10.31

11.焼芋屋台F3号(1995年).jpg 出版記念会が終わって肩の荷が一つおりた。三十人ほどのささやかな会であったが、和気藹々とした気の許せる友人たちの楽しい祝賀会だった。場所は向島百花園の近くのギャラリー喫茶「みずき」。主人の島田敏子の企画した思いがけない会だった。友人の俳優で墨田区で劇団を主宰する新城彰と僕が午後五時半からトークショーをし、その後に食事。集まった人たちの自己紹介が続いて、それぞれがユニークな挨拶をした。それが良かった。各々の人生のスケッチをそれぞれが知り、ビールと酒とワインがふるまわれて僕は気持ちよく酔った。武蔵野美術大学で長い間教鞭をとった立花義遼が乾杯の音頭をとり、僕が世話になっている画廊の主人、「アート紀元」の伊藤幸和と本の出版元、皓星社の社主、藤巻修一がセンス溢れるユーモアに富んだ話をした。

 絵を中心にした人々の集いは、明月の空の下で戸外のさわやかな空気を取り込んで人の心を解きほぐし、和やかな一夜を一人一人に運んできた。そんな会を見ながら主催の島田敏子は純真な心で涙ぐみ、僕はその気持ちを受け止めながらひたすら酔っていた。僕にとって言葉にならぬ平和な時間が流れていた。

 乾杯の音頭をとった立花義遼は武蔵野美術大学設立に大きく関わり、麻生三郎や山口長男を教授に据えたのも彼の力であったと、どこかで聞いた。幾年か前には唐十郎を横浜国大の教授にもした。僕が立花義遼を識ったのは唐十郎の赤テントの中だった。唐十郎と劇団唐組の後見人的立場である立花は、他にも演劇に関わる学会の仕事をして、あちこちを飛び歩いている。そして外に出ない時は山中湖の別荘にいて、研究、執筆している。

 祝賀会が終わった後、ポッカリと胸の中が空になったような虚ろな時間がやってきた。絵を描く意欲も湧かず、人と話をする気にもなれず活字を読む気力もない。

 廃人になりかけのような不安がふと頭の中を横切る。そんな日が二日三日と続き、疲れ果てて倒れるように眠った。

 目を覚ますとひどく空腹なことに気付く。食料を漁って人心地をつけひとまず落ち着くと、周りのものが一つ一つ視界に入り見えてくる。現実がゆっくりと心の中に入ってきて、体が行動を起こす。自転車を走らせ風景を見渡すと、家並みも木々も草花も優しく微笑んでいる気がする。一つのささやかな祝事がそうして終わった。
絵・「焼き芋屋台」F3号 (1995年)新宿の焼き芋屋台ご購読はコチラ.pdf

佐伯祐三と山口長男 31       2014.10.17

10.秋の橋F8号板(2007年).jpg 僕が油絵の勉強をはじめたのは一九六八年、二十才になったばかりの一月だった。学歴がなかったので美術大学には入れず、美術研究所に入った。研究生は美大受験の為の高校生が多く来ていて、二十才の僕は戸惑った。木炭デッサンの紙の裏表も分からず、そのことを注意指摘されると、顔から火が出るように恥ずかしかった。それが三ヶ月もすると慣れて、人の倍の時間を石膏デッサンし、自分の部屋では我流で油絵を描きだした。

 僕が油絵に興味を持つキッカケになったのは佐伯祐三の画集と出会ったからだ。その絵を特徴づける建物のフォルムや筆使いが書道の線を意識連想させた。書道界にのめり込み、挫折した当時の僕にとって、佐伯祐三の絵はそれまで全くの無縁だった油絵の世界の入口の扉を叩く鐘の音だった。

 佐伯祐三のような絵を描くのにはどうしたら良いか。それが思ってもみなかった東京に出る理由になり、新宿の美術研究所で基礎デッサンをはじめる元になった。

 美術研究所に入ってみて運の良かったことは、そこに武蔵野美術大学の教授、山口長男と麻生三郎が教えに来ていたことだ。麻生三郎は大学の人気教授であり、山口長男はパリ時代佐伯祐三、萩須高徳と一緒に生活し絵を描いていた。萩須は深く佐伯の影響を受けその後もパリに住み続けた。その延長線上に画風を確立し人気画家となった。佐伯は若くして三十才で客死するが、山口長男は日本に帰り独自の抽象画の世界を切り拓いた。

 だがその抽象もしっかりした具象というより大地に根ざしていた。僕が山口長男からもらったハガキには、 「根源は現実物がそのまま示している大きな摂理を自分との正対した接触から学んでゆかないものは概念の固定を来します──」と、具象にこだわることをしっかりと戒められた。

 「動脈硬化は老若に拘わらずことにあり、成長とは無関係になります。日本の全部の人々に共通した実状です。」

 とも続いていて、いかに山口長男が現実物そして具象、事象を見つめていたかが窺われる。

 今思うと、佐伯祐三の絵から入って山口長男と出会い教えを受けたことは、僕の画家人生の幸福の一つと言える。

 後に画家となる為の入口、現代画廊の洲之内徹と出会った最初の日、誰に学んだかを聞かれ、山口、麻生の名前を言うと、「良い人に学びましたね」と言った。僕の絵画修行はそうして始まった。
絵・「秋の橋」F8号 (2007年)中平井橋の秋景色ご購読はコチラ.pdf

言葉は風に乗って 30       2014.10.03

9八広の街角F4号(2010年).jpg ことば(言葉)が何時何処で僕たちにやってくるのか分からない。

 風に乗って、あるいは稲妻のように、又は洪水があふれてくるように、多様にことば(言葉)は人を襲う。 ことば(言葉)が一つの武器であり凶器であることは子供から大人まであまねく識っている。時にはそれで人を殺傷し痛めつけ、時にはそれで人を救う。救済の道具としても有効に働く時がある。

 かねてから僕はことば(言葉)は人間が発明した最大の道具だ、というのが持論で、何かを考えるとその考えのまわりをいつもそのことが飛び回る。言葉は人間を支配し、人間は言葉に支配される。

 道具を使うという人間の特性は他の動物との決定的な違いであり、体力的には百分の一にも及ばない鯨であろうと象であろうとライオンでさえ、人間は打ち倒し捕らえ支配し食糧にする。道具は木であったり、鉄であったり火であったりするが、その道具の最たるものがことば(言葉)である、と僕は思う。

 それほど有効な道具であるからこそ取り扱いも又慎重を要する。

 昨日こんなことがあった。

 僕の住むマンションのゴミの収集は月曜日と木曜日。粗大ゴミなどは又特別の日だが、収集日に当たらない昨日、ゴミが置かれていた。どうやら最近来た外国の人の物らしい。管理人は仕事がら早速その部屋の住人にマンションのゴミ出しルールの説明にいったが、言葉が通じない。四苦八苦して困り、僕におはちが回ってきた。その外国語の出来る人を知らないか、という相談だった。このマンションの中に同じ国の人がいる。そして日本語も堪能だ。僕はその人と一緒にゴミ出しルールの説明にその部屋にいった。数人で暮らすその部屋の住人たちはまだ日本に来て四ヶ月、日本語はおぼつかない。

 鉄砲を撃ち合うようなその部屋の住人との話し合いはしばらく時間がかかった。その国の言葉のわからない僕は、その激しいやりとりを見、その国の言葉の激しさを実感した。

 部屋に戻ると舞踏家仙葉由季からファックスが届いていた。次の展覧会の為の文章だった。

 「いつだったかバラの絵を見たとき、このバラはずっと咲き続けるんだってそう思った。散ることなく咲き続けるのだろうって。ここに生まれた私は、この青のなかで生き続けるんだよね。何度も膨張しながら何度も踊ろうとするの。ねえ、そうでしょ? マサ兄」
絵・「八広の街角」F20号 (2010年)墨田区八広の街角ご購読はコチラ.pdf

ブランコと風と 29       2014.9.19

8不動明王F40号(2013年 ).jpg ブランコを揺らすほどではないにしても、肌に当たって風が過ぎてゆく。白い雲が青空の中をゆっくり動いてゆく。樹々の緑は盛りをすぎて濃く、光は衰えを見せて季節の移りを知らせる。人はゆっくりと歩き、鳥の声と住宅のどこかで物を打つ音がする。

 賑やかな表通りから一筋裏道に入ると、平井の町の日常の生活が営まれている音が静かに聞こえる。

 ことさらに陽射しの強い場所を避けて樹陰を探し、立ち寄ったことの少ない公園のベンチに座ると、そんな町の風景に出会って心休めることがある。

 絵を描く主題と場所を見付けて歩く毎日の作業も、暑さや寒さにさまたげられて迷い戸惑う時に町の中の公園は僕の救いになる。そして東京の公園には必ず公衆トイレと水飲み場があって、掃除され清潔さが保たれている。年配の人たちが午前中いつも公園を掃き清めている。

 よく公園を利用する僕は顔見知りになって話を聞いてみると、公園の清掃だけではなく駐輪の整理や町への目配せをシルバー人材として区の外郭の会社が手配をしているとのこと。もう八十才に近いその人たちは週四日間のその仕事を丁度健康の為に良い、と笑って言った。

 そういえば東京では普通だと思っていた町のオアシスである公園が、神戸の町にゆくと無い。幾つかの公園には公衆トイレも木々の緑もなく、ただ遊具だけがおかれていて、広い敷地はガランとして情緒がない。町にその余裕がないのか文化の違いなのか、外で絵を描く僕の生活にとってはその条件の違いは結構大きいのである。

 人生にはおもいがけなく予定にない出来事が起こる。皓星社から自伝を出版しないか、と言われたこともその一つで、あれよあれよという間に本が出来上がった。今年の春のことである。書名は「ぼくの旅」。

 他人にいわせると、懺悔の本だね、ということだが僕は別にそんなつもりはない。学歴もなく生きる道を絵を描くことにつき当たり、職業となった一人の絵描きの生き様をできる限り正直に書いてみたということだ。紆余曲折の多い人生を、最後に自分の生い立ちに返って見つめてみたい、そんな本だった。

 多少は反響があって見知らぬ人から手紙がきたりした。それと近くの友人から出版記念の会をしないかと話が出て、ささやかな祝宴の準備が始まった。気恥ずかしい気もするが、その厚意を素直に喜び、集う人たちの顔を思い浮かべると絵を描く気持ちも又あらたまる。新しい旅のはじまりになる。
絵・「不動明王」F20号 (2013年)我が家の守り神であるご購読はコチラ.pdf

苫小牧の町にいて 28       2014.9.05

7工事風景(平井)F8号ボード(2002年).jpg 友が死んだ。純粋で才能のある愛すべき画友だった。人に看取られることもなくベッドで硬くなっていた。北海道の苫小牧で生活保護を受けていたが、最近愛する母親が逝き、その財産が残されていたので生活保護は打ち切られた。県展(北海道展)に出品しようとし、彼の作品を愛する人々によって新作展が予定されていた。貧しい中にも希望があり、そこにむけて製作の途中であった。六十才にもなっていなかった。

 学生時代は北海道でスケーターとして一番にもなり、市役所に就職した時の成績も一番であった。

 そうした成績を捨てて画家として立とうとしていた。彼の才能に驚いた僕は、彼の展覧会の企画を友人に相談し、東京で開かれた彼の個展にはコレクターがついた。プロの画家になる道のむつかしさを知る僕は、その相談にのり、幾つかの道を探した。折柄美術ブームは去って、かえってその方が才能の無駄花に溺れることなく着実な才能の開花には良いと思っていた。が、生活の困難はしたたかに彼を打ちのめし、何かにつけ彼から電話が入った。

 画家への道は最終的にはひとりきりで切り拓いて、その人なりの形を作ってゆくしかないが、彼の人柄はきっとそれを自分のものにしてゆくだろう、と僕は楽しみだった。その希望は彼の明るさによった。幾度も打ちのめされ、現実と戦って花開いてゆく困難な道を選んだ一つの才能を僕は見守りたい、と思った。彼の北海道からの長電話に易々とした答えを与えなかったが、機会はきっとあるのだ、と僕は励ましたかった。

 そして、北海道ならではの作品を描くこと、それを自分のものにすること、僕のアドバイスはそういうことだった。実らせる力を自分で獲得すること、絵の道はそういうものだと僕はいつも言った。そして一点、一点彼の作品の仕上がってくるのが楽しみだった。

 懸命に生活と戦って絵を描いている様子を彼は切々と伝えてきた。彼にはまだまだ自分を磨く時間があった。美の神はきっと彼に微笑む、僕はそう思っていた。

 突然の死の報せは頭の中に空白な時間をもたらし、まだ最近のことだった朝の長電話の彼の声が、ありありと蘇った。声に暗さはなく淋しく困難な日常生活の中にあって絵だけに賭ける彼の希望を、抑え気味に僕は励ました。道は長いのだから慌てることはない、言外に僕はそう思っていた。

 予想もしない形で死は彼を連れに来た。彼の名は畠山直樹。無念の終焉だ。
絵・「工事風景」F20号 (2002年)
その後工事が終わり、町は新しくなったご購読はコチラ.pdf

今年の旅の目的は 27       2014.8.22

6京島風景F3号(2007年).jpg 新宿から松本まで二時間半、松本から松本電気鉄道に乗って三十分、新島々駅からさらにバスで乗鞍方面に入ってゆくから一体どんな場所に宿はあるのだろうか、と胸弾ませる。遠足の日を待つ学生の気分だ。 

 一年に一度出掛ける旅は今年は山の中、去年は千葉の海、漁港の町に行った。出来るだけ金のかからない予算を考えた旅だから普通電車に揺られた各駅停車。駅毎に降りて風景を見るのんびりさは心を豊かにしてくれる。だが今年は特急で松本に行く。そして宿に泊まった次の日は篠ノ井線で篠ノ井、上田に行く。その間各駅停車の旅になる。その各駅停車が楽しみだ。

 今回の旅の目的は、上田のホテルで開かれる信濃デッサン館開館三十五周年記念のイベントの集いに参加する為で、館主の窪島誠一郎氏との付き合いは四十二年になる。その頃は窪島さんは実父が水上勉だということは分かっていなくて、渋谷で画廊を経営していた。僕も又茨城県土浦市で画廊の経営をしながら絵を描いていた。

 僕が個人的事情から生活を破綻させ大阪の西成で日雇い労働をしはじめた頃、新聞に小説家水上勉の実子が見付かり、それが窪島誠一郎だと報道された。その記事を読みながら僕は窪島さんの顔を思い浮かべていた。窪島さんの出生の複雑さはどことなく僕と重なる。そして存在の不安、淋しさ、そんなことが解る。絵に結がる道筋も見えてくる。

 信濃デッサン館という夭折の画家の作品の収集と「無言館」という戦争で散った画学生の作品の収集に力をそそぐ特異な美術館のあり方は、窪島さんならではの、窪島さんにしか出来ない仕事だろう。その三十五年間の重み、苦労の跡を僕も傍らで味わう、そんな集いの楽しみを心待ちにして旅を待つ。

 今年は苦しむことなく絵が描き上がる。見るもの見付けるものに難なく取り付いて絵筆が運ぶ。 絵を描くのが楽しいというのでもなく、風に吹かれるまま走っていると、ものや風景が自然に足を速めさせて絵を描かせるといった具合で、アトリエに持って帰り並べていると時間が経って気になるところが見付かる。

 が、そのことはすぐに忘れてしまう。ある程度の永さの時間を置いて又ゆっくりと見る。その点検の時が自覚的に描かれた作品を見つめる重い時間かもしれない。二度目にその場所に足を運ぶ時は、自覚したものと目の前の自然とが絡みあい、時に解れて予測のつかない作品になって現出する。
絵・「京島風景」F20号 (2007年)
墨田区京島。今はビルが建っているご購読はコチラ.pdf

あれは何の花だったのか 26       2014.8.01

5千住宮元町F8号(1985年).jpg あれは何の花だったろうか、と考えることがある。なかなか名前が浮かんでこない。ただ、なんだか懐かしい気がする。

 懐かしいといえば、花もそして場所も懐かしい。人はそれを探索する。

 時折風が吹いて樹々の葉を揺らし鳥が枝から枝へ移ってゆく時、見上げたその上の青空の色が懐かしい。この頃そんなことが時々ある。何処かへ帰ってゆきたくなる。場所の当てがあるわけではない。かといってきまぐれな気分かというとそういうものでもない。漠然としているがそれでいて確かな何か、確かな何かである。

 そんなことを感じながら久しぶりに山谷へ行った。なじみの酒屋で少し飲んで南千住の定食の店千成食堂でモツの煮込み定食を注文した。この定食が無性に食べたくなる時がある。関東のモツ煮込みは中京と違って砂糖を使わない。はじめは何か物足りなかったが、今では関東風の煮込みの味にすっかり慣れ、家で作る時も今は砂糖を使わない。

 空腹を満たすと浅草までの道をゆっくりと走った。町には皮革を扱う店が多く寺院も多い。そして静かである。以前この町で江戸時代の被差別部落の頭領、浅草弾左右衛門の最後の墓(弾左右衛門は十三代、明治で終わる)を探したことがある。名字を得て「矢野」氏となり浅草の今戸の白龍寺に祀られている。隣りは今戸神社で新撰組の沖田総司終焉の地である。江戸時代という百年前の歴史がそのままそこにある。歴史は現存して生きている。

 浅草の風はそういう香りを運んでくる。その風の臭いが僕は好きだ。その道を過ぎて浅草に出、吾妻橋を渡ると友人の画廊「ギャラリー・アビアント」がある。画廊には定期的に行く。それは日常性になっている。開かれている展覧会は知人であったり画廊の企画展であったりし、それは楽しみ一つで隣りの珈琲店で一服するのも日常である。

 そして平井に帰る道の途中に向島百花園がある。その側に「みずき」という喫茶店がある。自宅を改装した落ち着いた店で、大通りから引っ込んでいるから馴染みの客が集う店だ。いつも何かの展覧会をしていて、工芸展であったり写真展であったり人形展や絵の展覧会、書の展覧会をする。

 主人が感性の鋭い女性で種々の好き者がそこに集まってくる。その場の人たちの会話は僕にとって眩しい気がする。だがそこに座っていると人に言えない自分の現在が少し認められたようなホッとした気持ちが静かにやってくる。
絵・「千住宮元町」F20号 (1985年)この風景は今はないご購読はコチラ.pdf

絵は子供の誕生のように 25       2014.7.18

4秋の公園54×72(2007年).jpg 魚が川で跳ねる。少しむこうでも魚が跳ねた。川面は凪いで鏡のように川岸の建物を映している。空はうすく晴れて暑さもほどほど。川は二百米ほど上流で蛇行して右手は木々の繁った公園になっている。

 犬を散歩させる人やジョギングする人がゆっくり走っている。木陰の多い公園の道は陽射しをまともに受ける川岸の道に比べると快適そうだ。僕は時々この公園で休む。あるいは絵を描いたりする。

 公園は江東区に所在しているが、すぐ隣りは墨田区で公園の端からはスカイツリーがよく見える。横を流れる旧中川は僕の住む平井あたりでは川と橋が真中、中央で区分けされていて墨田区と江戸川区が別々に管理をしている。川岸が整地され桜の若木が植えられているが、墨田区側は未だ工事途中で、そんな状態がもう一年続いている。

 川には色々な魚がいて、鯔が群れて泳いでいるのがよく見える。他人が言うには鯔は餌をつけても釣れないそうだ。ということは毎日幾人か釣りをしている人は鯔以外の魚を釣っているのだろう。二月頃の日暮れからは面白いように沙魚が釣竿を揺らして上がってくる。四時間で九百匹を釣った人を見た事がある。干物にして出汁を取ると最高だ、とその人は言った。

 その沙魚を釣る人達をここ数年見かけない。平井の風物が一つ消えた気がする。川の辺に次から次に建つマンションのビルで風景が一変してしまった。

 マンションが一つ増える毎に川辺を散策する人が多くなり、朝、昼、夕方に人と犬が歩いている。川は荒川に繋がっていて水門がある。その水門あたりはほとんど人は行かないが、知る人ぞ知る良い釣り場所がある。その場所は秘密の場所になっている。

 ところでそんな旧中川の川岸で絵を描きながら、ふと三十才の頃にしきりに考え心を悩ませた絵画の理論のことを思い出している。

 一つは日本に油絵が輸入された由来、そしてその意味、だからこそその油絵のあり方、そうしたことを僕は懸命に考えたことがある。そうした疑問を整理しなければキャンバスに色を置くこと、絵の具を筆につけることが出来なかった。

 だが今は、あれほど頭を悩ませた事柄が頭に浮かばず、そんなことはどうでも良いようにして絵を描いている。年をとって考えることが面倒になったのか、頭が脳軟化病気味なのか分からない。

 川風に吹かれ、太陽の光に焼かれながら不思議もなく絵は次々に生まれてくる。子供の誕生のように。
絵・「秋の公園」F20号 (2007年) 僕の住む部屋の隣の公園の秋

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神田古書街裏手 24       2014.7.04

3京島の通りF8号(2004年).jpg 一昨日久しぶりに神田に出掛けて行った。友人の映画の美術監督・丸山裕司の展覧会とトークショーを見る為で、彼の手がけた映画の仕事はテレビの「相棒」や宇野重吉主演の映画「金環食」などで、おや、と思う時々にも彼の名前を画面で見付ける事がある。ベテランの美術監督のはずが、会って話していると一向にそんな気がしない。純粋で好奇心に満ちた少年の印象がいつも残る。

 芸能界という特殊な世界と僕達受け手の側の関係は、テレビなどの日常やあるいは時々出掛ける映画館などで陽と陰のようだが、どちらが陽でどちらが陰かというと一概には決められない。芸能とは人間の生活の豊かさを指し示す何かであって、辞書を見ると音楽や絵画などもその内に含まれている。

 映画の美術はそれら諸々を取り込んで総合的な想像力を必要とする、丸山は自分が描いた映画のスケッチ画の幾点かを指しながらそんな説明をした。彼の話の演題は「うそ+まこと」の世界、というものであった。来ていた聴衆の多くは映画関係者で、中には幾人かの映画監督がいて、うそ+まこととはどういう意味か、と一人が質問した。

 丸山裕司は映画という虚構とその舞台を作る現実との葛藤が頭の中で組まれてゆくまでの永い時間の苦労を切々と話した。それはスタジオの中だけではなくロケーションの現場を探して歩く苦労であったり、その現場をいかに映画の時代に作り変えるかであり、うそとまことの見切りこそが美術監督の醍醐味なのだ、そう語る丸山の話は映画という虚構の裏側のリアルさとスリルを感じさせた。

 二時間ほどの濃密な時間の後クーラーの効いたギャラリーの部屋から外に出ると陽射しが暑かった。よく晴れた空に目をやり帰り道につくと、おや、と思うほど来た時には気付かなかった神田神保町の裏通りは古い町のたたずまいをしていて、表通りとは全く違う印象の町だと僕は思った。

 見知らぬ思いがけない時代錯誤の町に紛れ込んだ気持ちが一瞬した。

 まだ丸山裕司の映画の世界が現実に結がっているようだった。

 表通りに出ると見慣れた神田の町で、名の知れた古書店の看板が次から次に目にうつる。陽射しを避けて建物の陰を選びながらJRのお茶の水駅まで歩き、途中妻と二人喫茶店に入った。少し涼んでから店を出、まわりの建物を見るとビルばかり目に入って、神田の町もすっかり変わっていた。

絵・「京島の通り」F8号 (2004年) 京島の夏の道である

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新宿ゴールデン街で 23       2014.06.20

2水鳥たち29.5×21(2005年).jpg 亀戸の駅前で珈琲を飲む。いつもの日課に戻って店内は相変わらず賑わい、下町のサロンは混みあっている。珈琲の値段が上がっているのかと思っていたら、以前のままで少し嬉しくなる。

 外国の海で大きな海難事故があって朝からテレビニュースはかまびすしい。外国のことながら傷ましい映像は心に刺さる。それでいて僕たちには手を差し伸べる術は、ない。今のこの一時の安穏な日常を享受するそのことを幸運なことと思うしかない。いつ災厄が身にふりかかるかとその予感を抱きながら、それでも今日だけは無事で過ごせることを僕は喜んでいる。

 風もなく若葉はもえ、近くの川辺では健康の為に人がゆっくり走っている。

 一昨日久しぶりに新宿ゴールデン街に遊びに行った。昨年からモデルを頼んでいる仙葉由季が日曜日だけ経営する酒場見学が目的だった。折からNHKテレビの「小さな旅」という番組でその日ゴールデン街をうつしだし、彼女の店「ぱいん・つりー」の看板がうつっていた。

 仙葉は黒ずくめの衣装で帽子をかぶり色の白い顔がきわだって店は次から次の客で混んでいた。いつも和服で我が家を訪れる彼女とは又別の女性がそこに居た。そんな彼女を見るのは楽しい時間だった。

 新宿ゴールデン街は今でもビル群の中にあって二百数十軒が営業をする木造の酒場群で、様々な職種の人の憩いの場であるが、昔は作家や俳優たちが論じあい、時には喧嘩になって立ち回りをするいわば青春の場所だった。今はそうした風景は見られないが、何とはなくその面影の中に浸れる香りのある場所である。とはいっても、いつもいつも行く気になるには僕は少し年をとった。

 沢山の店の中には半世紀をそこで暮らす人たちも幾人もいると聞くと、そこは一つの大きな村なのだという気がする。住みついた人の歴史はそれなりの特別な行路があって、それが又その街の彩りとなっているが、それは僕が住んだ大阪の西成や東京の山谷の町に通底するものがある。

 町というものは何処かに社会からいかがわしいと見られる遊びのようなものがなければならない、とは常日頃僕が考えていることで、そうした場が次々に失われ寂しい方向に社会が進行してゆく、僕はそう懸念している。

 日本という国が果たして人間にとって住みやすく暮らしやすい方向に進んでいるといえるか、そんな疑問を僕はいつも持つ。
絵・「水鳥たち」29・5×21 (2005年) 旧中川には沢山の水鳥がくる

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又自転車に乗って 22       2014.06.06

1平井の自転車店F20号(2009年).jpg 朝早く起きて昆森公園にいった。桜が散り敷いた公園の池の水面に春の盛りが漲って少し寒かった。一人のカメラマンが夢中でシャッターを押していた。

 僕は久しぶりの豊田市での展覧会で緊張した初日を終えまだ薄暗い内に目を覚ましていた。

 故郷での展覧会は久しぶりだったし、母の法事をすることは一つの義務感を果たし墓を訪ねるのに何か満たされるものが、胸の中にあふれてくるものがあった。宮口町の田を見はるかし、その向こうに通った小学校が見えた。故郷に住む同級生たちにはきっとわからないその地を離れた者の哀しさと僕の旅とそして再び訪うことのできた喜びが心にしみていた。ここは僕の出発の地だった。

 誰が掃除をしたのか墓は雑草が抜かれて綺麗だった。近くの野に咲く花をとって墓を飾り水をかけた。それだけで少し心が落ち着く。空は良く晴れてあたたかな春の日だった。故郷の展覧会を迎えるに良い日だった。胸を張って僕の作品展が始められる。墓を後にして野中の道を歩いた。そして町へのバスに乗った。

 泊まったホテルは画廊の手配で広くゆったりとしていた。豊田の町は様相を変えて目を見張る気がしたが、路地に入り歩くとなつかしい家や昔からの店がまだのこっていて、あちこちで僕は立ち止まり携帯電話のカメラのシャッターを押した。

 展覧会の前に市長を表敬訪問した。同級生の八木哲也があらかじめ約束をとりつけていて、それも故郷のありがたさだ、と僕は思った。夜は数人の友人が集い、僕はしたたかに酔った。それこそ恥も外聞もなく友人たちとの宴に酔えるのが心地良い。展覧会は無事に始まり一日一日久しぶりに会える人との嬉しさと少し恥ずかしい出会いの時間とであっという間の四日間が過ぎた。

 展覧会は自伝の出版記念展でもあったのでことさら感慨が深かった。

 人に語ることを出来ない十六才で家出をして故郷を飛び出してからの僕の少し長い旅、画家になる過程が一人でも二人でも本によって知ってもらえるなら僕の人生は幸福であった。そんな展覧会であった。

 幾人かの中学校の恩師が訪れてくれたのも言うに言えない喜びだった。

 東京に戻り又いつものペースで自転車に乗り絵を描く日々が新しいものになる。故郷からの勇気を手にして六十六才からの旅があらためて始まってゆく。
絵・「平井の自転車店」F20号 (2009年) 今は廃業した自転車店である

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時間はそれでも流れてゆく 21       2014.05.02

21.竹の台の協会F20号.jpg 何か絶望することから始まることが、ありはしないか。

 地球の中の道は案外狭いものであることがわかる。十㎝か二十㎝の巾によって人の行く道は定まっている。

 というような分かるようで分からない言葉が、ジャン・ジュネの『泥棒日記』の本のカバーに書いてある。

 二十才頃自分の考えていた記憶が甦る。

 四十数年ぶりにあらためてその言葉が示すように僕は東京の下町の自分の決められた道を自転車で走る。自転車の細い轍があたかも定められた道のように僕の目に映る。この道は運命に添って生まれる以前から決められていた、と時々僕は思う。思える。

 あちこちの地方の道を行く時も、ふとデジャブのように風景が見える時がある。いつだったか劇作家の唐十郎が僕の家に来た時もその既視感の訪れを話していた。この頃はしきりにその感覚がやってきて立ち止まり、ついでにその道に寝そべりたくなる、と言う。その話を聞くと、唐十郎の劇作、創作の秘密に触れる気がした。

 唐十郎のどこか懐かしい劇の中身には幼い頃の遊び場やルーツの九州の記憶がひそんでいる気がする。あの野外の森の中や風景を借景にする演出などはそこから現出するのではないだろうか。それを観劇する者に共有させ、カタルシスを呼びこむ力は彼の天才的能力だと思う。より深い幼児の記憶力や幻視の力が特殊な空間を創り出す。それを決められた彼の道、と僕は呼びたい。

 桜の花が散って木の若芽が美しい季節、風は無く一時世界は平和。時間がいつもよりゆっくりと過ぎ人はのんびりと歩く。時々立ち止まって木々を見上げ、あたりの風景を味わうように見渡す。植物は成長の途中、地中から空に向かってあくまで伸び上がろうとしている。

 そんな風景を見ながら進んでゆくと、少し留守にしていた間に道端に新品の公衆トイレが出来ている。人間の生活も植物が育つように流転して新しい景色を生み、変転してやがてその風景に慣れてゆく。

 例えそれが戦争という破壊へ向かっていようとも人はそれを知らない。どれほどの碩学が目を凝らしても、その出来事は予測し得ないであろう。人間は時間の前で無力に佇むだけである。

絵・「竹の台の教会」F20号 東京の日暮里近くの教会の絵

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絵の中でしか残らない風景 20       2014.04.18

20.福原風景(神戸)F20号.jpg 近くの公園の﨔の木が途中で切られた。どういう理由なのかは分からないが、行政の公園課の仕事だからそれなりのわけがあるにちがいないが、端で見る目には切られる木の悲鳴が聞こえる気がする。

 切られた中途半端な太さの木はどういう処分をされるのか気になる。

 木が繁る公園は夏は樹陰が涼しく人の心を休める。自然の豊かさが享受できるこの町の環境が好きな僕には何となく不本意な出来事である。

 昔、新松戸に住んでいた頃、千葉県松戸市五香を通ることがよくあった。五香の町並みにつづく﨔並木が気に入っていて、市川方面にバイクを飛ばしてゆく時、まわり道をして五香の﨔並木を必ず通った。通ることが楽しみな道だった。もう何年もその道を訪ねていないが、今、五香の町はどんな姿をしているのだろうか。

 今僕が原稿の升目を埋めている目の前に、岩塩をくり抜いて作ったランプが点っている。店主の説明によると、一億数千年前のヒマラヤの産出で邪気を払い電波の妨害をするということで、機械の仕事をする人に好まれるらしい。それが本当かどうか僕には分からない。ただその鈍い明かりは心を休ませてくれる。その向こうには明るい冬の陽射しのあたる小学校の校舎が見える。陽射しは春の光を含んでいる。

 そういえば先だって阿佐ヶ谷の町を訪ねた時つづいていたのは﨔並木だった気がする。そして入った喫茶店にもスタンドが置かれていてそれは蛍光灯の小さなスタンドだった。その席から真下に商店街の賑わいが見え、沢山の人が出入りする店をよく見るとモダンな豆腐屋だった。

 一昨日、買い物を妻に頼まれ平井の町で豆腐屋を探すと、二軒あった店は二軒とも閉店をしていて昔ながらの豆腐屋が現実には厳しい経営なのだと知った。

 町のせいなのか何なのかわからないが、平井の町は町の風情が急速に変わってゆく。行きつけのサロンのようだった店の主人が亡くなり、駅前ロータリーにたむろするメンバーも姿が見えなくなって町の様子が確実に変わった。

 僕が秘密の場所にしていた百合の木橋の川岸に新築マンションが建ち、少しの間のことなのに行くことの楽しみだった場所が失われてしまった。僕の絵の中の風景はもうそこでしか見られない。だから又新しい場所を探して自転車を走らせてゆく。
絵・「福原風景(神戸)」F20号 神戸の福原は歓楽街として有名である

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大きなシャンデリアとリアリズム 19       2014.04.04

19.港風景(神戸)F20号.jpg まだ雪が残っている。溶けずに残った雪は固く冬の寒さを受け止めて、いつ消えるのか予想もつかぬまま木の芽の蕾は開く準備をしているのが感じられる。旧中川の土手の桜はまだ固いが川岸の河津桜の蕾はふくらんで開花の準備をちゃくちゃくとし、テレビで河津桜の開くニュースがもう少しすれば届くだろう。

 目にはっきりと見えない内に季節と生くるものの生育は確実に進んでゆく。春の来る前の冬の名残りのように雪が降る。固く凝った雪が春の到来を教える。

 そういえば近くの旧中川の水鳥たちの数が減ったようだ。鳥たちはもう北に向かって飛んでいったのだろう。

 鐘ヶ淵から白髭橋あたりに大きな鐘が沈んでいるという夢想は、僕の住む平井にある燈明寺の二階の鹿鳴館のシャンデリアと重なる。明治時代、その下で多くの人が踊っていた。このお化けシャンデリアのことを案外地元の人が知らない。だからこのところ急速に増えつづける新しい住民はこの平井の名物を知ることがない。町の移り変わりにその土地の歴史が沈黙をする。

 去年から皓星社という出版社から自伝を出さないか、という話があり、この冬はその為の原稿を書くことで少し追われた。

 僕の来歴が人目に晒すに値するかどうかは分からないが、画家としては少し道を外した生き様であるのは、周りの画家の友人達と比べると変わっているのは自覚をしている。今、僕の周りの友人の画家達は芸術大学の出身でエリートの人たちが多い。その人たちと僕の絵の描き方は少し違う。

 人間的にも画家としても敬愛する先輩の人は、絵はアトリエの中で描くものと決めていて、風景の中の現場ではあくまで下描きとして描き、アトリエで構図、色の配置などを計算して仕上げるという方法論だった。それがオーソドックス、本来の油絵の方法、としていた。

 しかし僕の展覧会に来た時、僕の作品の不思議さを 「なるほど、現場で描くからこういう絵が出来るのか。」 と僕の絵を認めた。後輩の作品に厳しいその人の認め方を、主催画廊の画廊主は珍しいことだと言った。

 高橋由一、長谷川利行を日本の油絵のリアリズムの系譜と考える僕は、その場所で暑さ寒さや空気を捉える、現場主義という作画方法をとって現在に至っている。

絵・「港風景(神戸)」F20号 神戸の船溜まり風景である

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千成食堂と回向院あたり  18       2014.03.21

18.本所の家F20号.jpg腕の喜三郎や高橋お伝、鼠小僧次郎吉の墓などが並ぶ南千住の回向院は日本で初めて腑分け(解剖)が行われた場所で、吉田松陰や橋本左内、稲田重蔵など志士、烈士の墓石も並んでいる。

 近くに小塚原の刑場跡があり浅草方面にゆく次の十字路が泪橋の交差点である。泪橋といっても橋は無い。漫画「あしたのジョー」の風景はもちろん架空である。

 だが江戸時代にはここには河川が流れていて刑場にひかれてゆく人と最後の別れをした場所だった。

 刑場は東海道の出入口、品川の南の鈴ヶ森と北の日光街道の出入口、南千住の小塚原にあった。鈴ヶ森の刑場は現在の東京都品川区南大井二丁目付近と広辞苑に載っている。

 小塚原、南千住の回向院の境内には吉展ちゃん事件の吉展ちゃんが遺棄されていたことでも知られる。

 ただ久しぶりに訪ねてみると、鼠小僧次郎吉や高橋お伝、腕の喜三郎や志士の墓は以前と場所が変わっていて、東北大震災で徒刑場跡の首切り地蔵尊の落ちた頭部も今は元戻りに直っている。だがその前に建っていた山谷名物の大食堂「大利根」は跡形もない。 

 大利根とその二階、夜になると開く大きな酒場「コンパ」も消えて、いわゆる日雇い労働者の町〝山谷〟という町も消え去った。

 そんな思いで自転車を走らせていると、回向院近くの「千成食堂」は開いていて、そこで働く人も以前のまま老けた様子はない。この食堂のモツ煮込み定食は今でも懐かしい味で、時にどうしても食べたくなる。定食にもう一品厚揚げを甘辛く煮しめた皿をとって掻き込む朝食は、日雇い生活の御馳走だった。朝食と昼食の弁当を頼んで千成食堂からその日の仕事に出掛けてゆく、あの頃の日々を、僕はありありと思い出し乍ら食堂を見ていた。
一緒に働き一緒に大利根で酒を飲んだ仲間達は今、何処でどういう暮らしをしているのだろうか。無性にその人たちに会いたい衝動がこの頃はする。

 もう亡くなったという噂を聞く人もいる。あるいは思いがけず、今でも山谷で見かける顔もあった。年齢や状況から見ても生活保護生活だろう、と推し量れるが、その暮らしぶりは衣服にあらわれ、つい声をかけそびれてしまう。

 山谷の日雇い生活では、何かのはずみであっという間に体を壊し零落してゆく。そんな例を幾人も見た。

 南千住の回向院は支院で両国に本院があることを最近僕は知った。
絵・「本所の家」F20号 本所という地名は時代劇によく出て来る

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千住大橋と山谷と 17       2014.03.07

17.浅草寺影向堂F20号.jpg 足立区千住橋戸町のアパートに僕が住んでいたのは三十代前半、三十三年前のことだ。先行きの不安、人生の曲がり角を意識する年令にさしかかっていた。山谷での日雇いから生活を変え自営の出来る仕事はないか、と考えていた。一生絵を描いてゆくには何かに縛られることのない自由を確保しなければ成らない。例えば故郷の味、赤味噌煮込みの〝どてやき〟など東京では珍しいから売れるのではないかなどと考え、まずその為の料理の基礎を学ぼうと思った。

 思い立つと僕は上野の町に店を探しに行った。その頃は五十㏄のバイクに乗っていたので千住橋戸町から上野までは近い距離だった。山谷の玉姫の職安で月十三日分の〝アブレ金〟は相変わらず大切な収入だったが、上野の居酒屋でも午後四時から十一時までのアルバイトはそこそこの収入になった。

 一年ほどそこで料理を覚え、屋台を作る資金を蓄えれば準備は整う。そんなことを真剣に考えていた。

 今思うと、あの頃の時間は明るくはなかったが、かといって暗いばかりでもない。絵を描き、画家になろうとした道の先がそういうことだった。画家への道という目的と夢のある限り、息苦しい日常の中にも瞬間瞬間で見付かる楽しさもある。そう考えると、一緒に店で働いている人たちの夢や希望、将来の見通しは何だろうか、などと考えることがあった。

 そんなことを思い出し感慨にふけりながら千住大橋を渡りコツ通りを過ぎて山谷にある、というより数少なく残る立ち呑み酒屋でレモンを搾った酎ハイを飲んだ。そして店内を見回すと、以前は日雇い労働者で混んでいた席はガランとして、サラリーマン風の一群が居るばかり。それでもこの店はいつも隅々まで掃除が行き届き、卓には花が飾られていて清潔だ。酒屋はこうでなければいけない、とこの店でいつも思う。

 人生では色々なことが起こる。屋台を引くと決め、その為の準備に上野の居酒屋に通い出した途中、思いがけなく、大手の美術商から契約の話が舞い込んだのだ。念願だった画家、職業画家への道が目の前に開いた。

 僕の身の上におこった一つの奇跡を今でも時として噛みしめる。

 もう日雇いにゆくことも、又どこかに勤めることもなく、絵だけを描いて生きてゆける日の来たあの朝の空の青さを。

 僕は思い切り畳の上に大の字になり窓を開けて大きく深呼吸し空を見た。
絵・「浅草寺影向堂」F20号 浅草寺も今は改装、修理が多い

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鐘ヶ淵を越えて 16        2014.02.21

16.三ノ輪の不動産屋F20号.jpg 寒さもそこそこの日、新年の正月気分も抜けて少し遠出をしたい気になった。

 何とはない冒険心に気持ちがそぞろめいて小さな旅をしたい気分だった。 いつも歩く決まりのコースではなく、未知の場所を探して夜中に地図をめくった。それは何となくワクワクした胸の弾む時間だった。

 僕の住む平井の町から墨田区鐘ヶ淵まで自転車で三十分はかからない。荒川が綾瀬川と近接するこの場所は橋場長昌寺、または亀戸普門院の釣鐘がこの淵に沈んだと言い伝えられた、という。

 そういえば昔、近くの白髭橋を通った時、何とはなく詩のようなものが頭の中に浮かんだことがあった。白髭橋の下の川の中に大きな鐘が沈んでいて、時折その鐘の音が響くと、久遠にまで届くという、とりとめのない詩句だったが、山谷から白髭橋を渡って絵を描く時はいつも川面を見ながらそんな夢想をしていた。そんな夢想ができる程橋の長さがある。隅田川はけっこう川幅がある。そんな風景も、近くにスカイツリーという高い建物ができると印象が違ってきた。

 白髭橋の上にゆくと、視線はスカイツリーにうばいとられ、川の存在感がどことなく薄らいで、美人が普通の女性に変わったような白けた気になるのは、僕が浮気な凡身のせいだろう。

 そんな隅田川の岸に春になると延々と桜が咲き、歩いても歩いても切りのない桜並木の下を行く時は、明治や江戸時代にまで遡ってその時代の風情を思い浮かべ、山本周五郎の小説の主人公、さぶなどがそこらあたりに居る気がする。

 浅草、本所、両国などは今でもテレビの時代劇にいつも登場する地名で、路地を入った近所の人の集う居酒屋のカウンターに座ると下町の江戸っ子の会話が威勢の良い調子で交わされ、下手な落語を聞くより余程面白い話が次から次に飛び交う。

 そんな店も、スカイツリーが営業をはじめてから町が徐々に変わりはじめ、新しい店が増えて、若者や観光客で賑わう分寂れつつある。

 鼻っ柱の強い鯔背な職人が夕方から集う粋な店に、いつしか人が一人消え二人減って話が聞こえなくなった。 町が新しく装いを変える分懐かしい風物が姿を消し、何かが確実に失われてゆく。

 もしかしたら三十数年前の風景が残っていないか、と鐘ヶ淵を通って、北千住、南千住と自転車を走らせたが、思いは少ししか適わなかった。

絵・「三ノ輪の不動産屋」F20号 三ノ輪の古い不動産の店、今は無い

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展覧会とその後と 15        2014.02.07

15.タバコ乾燥の家(豊田)F20号.jpg 大阪西成を描いた絵はまず2012年十一月に東京京橋の画廊「アート紀元」で発表され、そして2013年十月の十六日から二十六日まで大阪の梅田画廊でも展覧会が開かれた。

 展覧会にはそれぞれ大なり小なりのドラマがある。その彩りで絵の風情、見え方が変わる。絵そのものに何らかの変化はないのだが、場所、空気、時間によって絵が違って見え、別物に変化する。ということは見る人によっても異なった表情を絵は見せている、ということになる。妻の延子が梅田画廊の会場でしきりにその不思議さを口にした。会場の広さや展示の仕方によって絵は全く別の表情に変わる。

 東京で絵を見、大阪で再び見た人が同じ感想を言い、その絵の現場まで足を運んで会場に戻ってきた。そして再び絵を見ると又違うという。写真で見るのとは印象の異なる何かをその人は見付けた様子で、そういう人の前では絵は又描いた人間にも分からない姿を現すのかもしれない。

 東京の展覧会には映画監督の坂本順二氏が来、折柄監督した映画「北のカナリヤたち」のチケットを三枚呉れ、僕達は早速錦糸町の映画館に観にいった。

 大阪の展覧会では初日のオープニングパーティに俳優でボクサーだった赤井英和氏が来て乾杯の音頭をとってくれた。赤井さんの両親は飛田本通りの商店街で以前漬物の店を出していて、商店街の現在の会長「第六足立酒店」の足立真美、実幸夫妻や店の仲間達は赤井さんを囲んで感激の態であった。パーティは盛り上がった。

 十日間の展覧会の間僕と妻は神戸から大阪まで毎日通った。梅田の駅から会場の毎日新聞社のビルまで歩いて十分ほど、雨の日は地下街を、晴れた日は地上の景色を楽しみながら大阪の空気を味わう。長いようで短く、短いようで長い十日間だった。

 この展覧会が終わって2011年十一ヶ月を過ごした大阪での制作のけじめが付き、仕事の一区切りがついたことを実感した。何かが過去になった。

 東京に戻り展覧会の後片付け(礼状などの整理や諸々)をし部屋を整えると僕と妻は旅行に出かけた。できるだけ安い費用で少し遠くの温泉場を探す時が楽しみで、地図を拡げ時刻表を見て胸躍らせた。

 仕事の後の骨休めも大事だと近頃思う。若い時とやはり何かが違い、それが何か、を考える。老いが見える年齢になった。

絵・「タバコ乾燥の家(豊田)」F20号 豊田には昔、タバコの乾燥場があった。

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あべのハルカスと通天閣 14        2014.01.24

14.楠町の家(神戸)F20号.jpg 又今日も平井の町は祭りらしい。あちこちの町内が次から次に祭りをするから、行くところ行くところ神輿を見かける。故郷では見かけない風景で平井に来る前の新宿の大久保通りでも見かけない。東京の下町では祭りが本当に多いな、というのが平井に住んでからの感想で、行列に行き会う度に少し心が騒ぐ。

 ずっと以前鳥越神社(浅草橋)の宮入りを見たことがあった。夜の提灯の明かりの中で鳶職の棟梁たちの木遣りの大合唱は荘厳で夜の闇に轟いていて夢のような美しさに我を忘れた。遠い宝石のような思い出である。

 そういえばもう一つ忘れられない祭りの思い出がある。秋田県西馬音内の盆踊りも暗い田んぼの道を行ったところに突然現出した不思議な夢幻的な光景だった。女性は笠で顔を隠し、男衆が卑猥な言葉で追いかけるエロティックな篝火の場は、東京に帰ってからも心に残って後を引いた。

 その祭りには作家の野坂昭如が来ていた。それが後に彼ら夫婦が経営する画廊で個展をするキッカケになった。野坂昭如とその夫人は幾度か僕達の部屋にやってきた。そして絵を買っていった。今彼が病をわずらって闘病しながら新聞にエッセイをつづる姿を見ながら、大好きな小説の一篇「焼土層」を読み返す。折から僕は現在その小説の舞台になった神戸に来ている。神戸は海と山の狭間の町で、戦争では空襲にあった。野坂昭如の文学には戦争の傷跡が描かれている。その傷みの誠実さが心を打つ。

 一昨日作家の山崎豊子が逝き一つの時代、昭和の検証者がいなくなったと、テレビで誰かが話していた。文学の時代の一つの節目は僕の肩にも落ちかかる。

 今僕が神戸に居るのは大阪の梅田画廊でひらかれる個展の為で、一昨年西成暮らしをした後もう関西に来ることはないと考えていた。人生の一区切りにする予定だった。だが思い通りにはゆかない。再び新大阪の駅に降り立ち、西成の町に行ってみると、阿倍野には六十階の「あべのハルカス」というビルが建ち、町の様相がすっかり変わっている。

 すぐ下に聳える通天閣も見下ろされて、新旧が対比されている気がする。鮮やかな時代の移り代わりに僕の第二の故郷飛田あるいは「釜が崎」の町はこれからどんな変わり方をするのだろうか。久しぶりに第六足立酒店の仲間に会うと、いつもと変わらず溶け入って駄洒落に話が弾む楽しさ嬉しさだった。

絵・「楠町の家(神戸)」F20号 東京と神戸を行ったり来たりして絵を描く

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ロッカーの町西成は 13        2014.01.17

13.中曽根神社F20号.jpg 2011年八月から2012年七月までの大阪、西成での生活を僕は一つの清算と考えていた。

 僕の人生の中で、十六才で家出をし大阪に行った時から二十代後半から三十代前半を過ごした町西成は生き様、人生観を鍛えた場所だった。

 僕にとっての初めての都会だった。その辺りで酒を覚え女色を知った。そして絵を描く基礎をそこでやしなった。僕にとっての日本の風景は大阪、京都といった関西から始まっている。

 東京と大阪という二代文化圏の中間に育った僕は関西と関わりを持つ機会が多かった。そのきっかけは仮名書道にのめり込んだ高校生の時からで、僕の触れた最初の文化は仮名書道だった。その道を挫折し人生の目的を見失った目の前に、興味も意識も無かった油絵という方法、文化の臭いが立ち現れた。唐突に。

 今でも僕は油絵との出会いを考える時、不思議な気持ちになる。思ってもみない、憧れでもない見知らぬ異性と出会い何時の間にか結婚をした、そんな相手が僕にとっての油絵だった。 だから何となく今は職業として油絵画家になったけれど、書道への未練と尻尾をひきずって身の周りの環境を飾っている。

 平井の町のコーヒー店の二階から駅前の広場を見ていると、まだ陽傘をさした人が通ってゆく。空の雲は夏から秋に移りつつあって暑かった炎暑の夏からやっと解放されそうだ。行事の多い東京の夏の祭りももう終わった。コーヒー店の店内は老人が集まって、もっぱら病院事情の噂に話ははずみ、ここでも生活保護と競艇、競馬に話題は集中する。

 2020年に決まった東京オリンピックの話は聞こえてこない。勘ぐればその頃生き残っている人はこの店内で幾人いるだろうか。他人ごとでなく僕自身も心許ない。

 昨夜NHKテレビを見ていると、大阪西成のロッカー物語が放映されていた。一階から五階までが全てロッカーで、千以上のロッカーにそれぞれの人生の事情が詰められている。映された道路の場所から推察すると、僕が一昨年から住んでいたドヤからすぐ近くで、いつもその前を通り過ぎていたはずだが僕には認識がない。 だが事情は良く似ていて、西成で住んだ僕の隣りの部屋も天井までゴミや荷が積まれ、何時誰が入れたかは分からなかった。不可思議な西成体験の忘れられぬ出来事だった。

絵・中曽根神社」F20号 足立区西新井にある神社である
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三角公園の人たちは 12        2014.01.10

12.木下大サーカスF20号.jpg 雨上がりと秋の風が暑かった二千十三の夏の息苦しさをやっと吹き払った気が今朝はした。晩夏から初秋の雲が旧中川の上に浮かんで、息を大きく吸う。

 自転車を走らせ上着を一枚多く着て明治通りを白髭橋を渡り山谷にゆく。

 日雇い労働者が屯する風景は今はないが泥棒市は規模が小さくなって続いている。最近の特色は中国人が多くなったことで、珍しそうな物が時折見つかる。といっても最盛期のようなギョッとする品物はすっかり姿を消している。以前は機関銃や掛け軸など明らかに盗品とわかる物品が出て、又解体作業で見付かる宝石、デパートで売られている外国産の新品の靴など、もう見かけることはない。

 それでも何か掘出し物はないかと探しにゆく。見付けて買ってくると、どこかのゴミの捨て場からの拾い物とわかる代物で、それでも二百円、三百円と安いからつい買う。妻は気分をこわし文句をいうが、いつの間にか台所に定着して使っている。そうした機会もこの頃はすっかり減って、一年に数回となった。

 二千十一年僕は思い切って資金を工面して大阪西成区太子に宿泊し十一ヶ月間絵を描いた。大阪の町も大きく変わりはじめ、縁の深い阿倍野などは再開発で今までの家並みはすっかり姿を消し全く別の町になり、高層ビルが林立して道路さえ分からなくなった。浪速の町の風情の色濃い新世界から飛田本通り、そして旧飛田遊郭、萩の茶屋といった街並みも風前の灯火と思われ、僕は危機感から、どうしてもその町を描き残したい、と思った。その町には僕の青春が埋まっている。

 いざ住んでみると町も住む人たちもすっかり変わっている。日雇い労働者の姿はなく生活保護で暮らす老人が病院の前に列をなし、新今宮の労働センター、職安の床には新聞紙を敷いたホームレスがさながら戦死者の群れのように横たわり、まるで野戦病院のような有様だ。日雇い労働者集めの手配師のバスや車もわずかしか止まっていない。

 日本の国の何が変わったかは分からないが、あれほど町に溢れていた労働者はどこに消えたのか。朝、人であふれ肩擦れるほどの三角公園は数匹の犬が遊び、四、五の青テントが建っているばかりで、赤と黄色のカンナの花の色がうら淋しい。

 僕はゆっくり三角公園を横切り公園の手摺りに腰をおろす。音のない公園は静かで空の青さ、天の高さが目を覆う。過ぎた時間をゆっくり噛みしめる。
絵・「木下大サーカス」F20号 木下大サーカスで知人が働いていた。ご購読はコチラ.pdf

人はどこから来たか 11        2013.12.20

11.西新井の路地F20号.jpg 時代が変わってゆく、というのは今年六十五才になった僕の感想だ。それは急に来て一つの感慨となって考える。六十五才といえばもう老域に入った。何とない寂しさとともにそう思う。だから聞いてみたい。僕の同級生たちはこの年齢を今どうやってむかえているのだろうか、と。

 そう思いついて同級生名簿をとり出して電話をした。その行為は妻に詰られた。突然、何十年かぶりに東京から掛かった電話に幾人かの人は戸惑ったことだろう。それは分かっていても、声を聞くことは僕の清涼剤となり、精神に安定をもたらす。懐かしさだけではない。何かが受話器の向こうにある。

 今年度僕は頼まれて本の装丁の仕事をした。瀬戸内寂聴の「人はそれでも生きていく」という本である。瀬戸内さんの古い寂聴さんになる前からの編集者からの依頼だった。僕は瀬戸内さんを昔京都に訪ねたことがあった。その「寂庵」の前まで行って想像していたより立派な住居で、中に入れずすごすごと引き返したことがある。今なら会うことにためらわないかもしれないが、その頃は、自信がなかった。自信がないから会いにゆき、自信がないから会えなかった。そんな思い出を考えると、今回の本の装丁は図らずもその想いの結果だったかとも思ったが、人生の出会いというのは望みどおりにはゆかず、けれどもいつかどこかで叶うものかもしれない。僕が瀬戸内さんに会いたかったのは彼女の人生が一通りではなく、若くして生み落とした子供を捨てて文学の道を選んだ原罪とでもいうべき経験を持っている、そう考えた為だ。

 瀬戸内さんが五十才を過ぎて仏門に帰依したのはその原罪を持ちつづけたのではないか、そのことに深い思索があるのなら僕は聞いてみたかった。生まれることについての原罪を。

 原罪を持って生きるのはおしなべて全ての人々に与えられた宿題のようなものだと僕は考えている。

 誰もが生まれたことに疑問を持ち、それが生きてゆくことのエネルギーになる。それでなければ、文学や哲学といった学問の基礎は生まれてこない。

 僕が知った若い頃の絵と言葉がある。ゴーギャン(フランスの画家)の絵に「人はどこから来たか? そしてどこにゆくか」という作品名がある。この絵は絵画史の中で象徴的である。ご購読はコチラ.pdf
絵・西新井の路地(F20号) 下町の路地では落ち着いて絵を描く

原田芳雄という俳優は 10        2013.12.06

10八広風景12.5×18.jpg僕が母の生い立ちを知ったのは現在の妻、延子と結婚をしてからで四十才を過ぎていた。妻の旧姓(小畑)について母が、
 「私も元々の姓は小畑だった。」
 と言った時で、旧姓の(梶田)しか知らなかった僕は奇異な気がしたがその時は心に止めなかった。ある時、妻との話がむしかえされた時そのことが気になった。母に電話をして戸籍謄本を送らせると、確かに母の最初の姓は小畑菊蔵、りえの長女となっていた。母には僕の知らない過去がある。そう思うと遮二無二母の生い立ちを知りたくなった。

 戸籍をたどり静岡県の藤枝と母の兄という人の住所を調べ東京の三河島に電話をした。母の兄という人はもう亡くなっていたが、その長男、僕にとって従兄弟にあたる小畑昌平に会いにいった。小畑家の人々は今でも本家と付き合いをしていて、母の母、小畑りえの弟を知っていた。その人は静岡の安倍川の橋の袂に住んでいた。小畑家の関係者とりえの実家、飯塚家を母を連れて訪ねた。りえの弟飯塚直吉と母が並んで座ると顔立ち、面差しが驚くほど似ていた。血の繋がりがまぎれもなかった。僕は解けなかった宿題が一つ解決した気がして心が晴れた。母に帰り道、
 「どうだった?」
 と聞くと、母は、
 「何とも思わんね。」
 と愉快でも不愉快でもない淡々とした顔をしていた。母がそれから何を考えたか死ぬまで僕は聞かなかった。

 今年の夏は本当に暑かった。酷暑がまぎれもなく東京では水源の水不足の不安とあいまって不快な夏だった。

 七月十九日に俳優の原田芳雄の三回忌が麻布の善福寺で行われて百五十人ほどの人が参集した。やはり芸能の関係者が多く映画やテレビでよく見る人たちが喫煙所で集まっている中で僕もタバコをすったが、そうした人々と会うのもこれが最後の機会だ、とふと思った。 

 昔ある人にそうした芸能界のことを怖い場所だからね、と言われたが、原田芳雄のまわりにそんな印象はなかった。中心であった原田が持つ人生観がそうしたことを感じさせなかったのだろう。

 だが、家に帰って原田芳雄の出演した作品をまとめて見ると、やはり彼はプロ中のプロの役者だったと、しみじみつくづく思った。ご購読はコチラ.pdf
絵・「八広風景」12・5×1 下町の八広の夕暮れの風景

母の放浪の血を引いて 9         2013.11.29

8土手の人S・M.jpg 今僕は一人の女性の肖像を描いている。彼女は浅草ロック座の踊り子で一番上にたち振付や演技指導をし、衣装も考える。去年の二月に引退し踊り子たちの色々な相談にのっているが、元々はグラビアアイドルとして十代から活躍して多くのファンに囲まれていた。三十才で背中に刺青を入れ、ストリップの世界に入った。そして又テレビなどで番組ができた。その世界では名が知られている。この稿が新聞に載る頃には週刊誌で彼女の刺青が見られるはずである。

 「仙葉由季」が彼女の名前である。彼女を僕が知ったのは映画監督の林海象が彼女を我が家に連れて来たからである。彼女の美貌と背中の刺青、最近では珍しい和服の着こなしなどが目に止まり興味がわいた。刺青は話の中で終わらず、その場で着物を脱ぎ、僕達は見事な図柄を見た。 

 浅草ロック座の彼女の引退の公演は大雪の日にもかかわらず、遠くは大阪から駆けつけるファンもいて劇場の前には行列ができ人気の高さに僕は驚いた。公演が終わると、彼女は入口に来て僕の妻の延子と抱き合い、なぜか僕は感無量だった。

 体にさわると彼女は痩せていた。引退興行にかけた努力が体の肉を削ぎ落としたのだ、と僕は思った。彼女はそれ以後も踊り子たちの衣装や踊りの指導をし、今に至っている。そして又雑誌のグラビアなどの仕事が入ると、その肢体を人の前に現す。だから食事などには気を使い体の状態を一定に保っている。プロ根性が体の隅々まで支配している。

 彼女の絵を描くということはあなたの戦いでもあるのよ、と妻の延子は言う。二週間に一度を目安にして一年間僕と彼女の戦いは続く。最後にどんな姿の仙葉由季があらわれるのだろうか。

 ところで彼女には関係のないことだが、僕は昔から漂白する人たちに興味があって、サーカスや旅芸人に惹かれややもするとその人たちの後ろについてゆきたくなることがあった。もしかするとその性癖は母からの血の繋がりかもしれない。

 母は幼い頃旅芸人についていったり、又家庭の事情からあちこちの家に預けられて育った。京都の新京極あたりを屋台に連れられて歩いた記憶や、京都や名古屋の遊郭で〝おまめ〟という奉公に出ていた思い出があって、そんな話をする時辛かったとはいわなかったが、学校で友だちと遊んだことはなく、一人公園で遊ぶのが楽しかったと言っていた。女中のような日常生活が母の幼い姿だ。ご購読はコチラ.pdf
絵・「土手の人」SM 近くの川の土手にいる人を油絵でスケッチした

展覧会と西成と山谷と 8         2013.11.01 

7髪飾りの娘F0号.jpg 大掛かりな展覧会をするにはまず資金がいる。第一の関門はそれだった。

 僕は豊田にある家と土地を売ることにした。そして平井西町会の会長に相談をした。下町の人情に甘えてみようと思ったのだ。町内の会長は町内のことと人の世話を厚くする人だった。 平井には町工場が沢山ある。その工場を一軒一軒僕たち夫婦を連れて協力の要請をし、その数は二十軒近かった。そして僕たちは又企業にも協力を求めて走り廻った。神戸の神戸製鋼所、アシックス、KiRiN(キリン)、豊田関係の東京トヨペット、トヨタアドミニスター、太啓建設、深田倉庫、そして井植記念会などで、江戸川区、神戸市、墨田文化観光協会、豊田市教育委員会が後援だった。

 実行委員会として十四店舗の画廊が参加をし、下町談義を会期中行うことにした。出席メンバーは俳優の原田芳雄、唐十郎そして僕たち二人で、司会は映画監督の林海象だった。

 作品のリーフレットを作り唐十郎が文を書いた。

 そうしたイベントに至るまでの様子をNHKテレビは三ヶ月間にわたって撮影に入り、朝暗いうちからカメラ、音声、ディレクターが部屋の中に居ることに僕は神経がクタクタになった。相手と話すこともなくカメラに追われつづけるという作業はこんなにも体の底の神経をいためつけるものか、とはじめての体験に疲れ果てた。

 僕にはこの番組で是非撮ってもらいたい場所があると注文をつけ、山谷にスタッフを連れていった。

 絵を描く原点を東京の山谷と大阪の西成と決めたのは絵を描く為の生活の仕方として僕は二十代後半から数年をそこで暮らしたからだった。日本の風景を描く原点を僕はそこから始めた。

 切っ掛けは京都の裏町だったが、生活の方法を日雇いとし一日絵を描き、一日を日雇いの肉体労働として僕は過ごした。絵を描く仲間の中にはそれを甘いロマンチズムとして「朱に染まれば赤くなるで、現実は甘くないよ。」と助言する者もあったが、僕の覚悟は変わらなかった。やってみなければ分からないではないか。

 今でも僕はその生き方が間違っていたとは思っていない。そこで見聞きし体験したことは、僕の絵の核にある。絵は単に描くことではなく、生きることなのだ。

 今でも僕は時として、朝絵を描きはじめる前に山谷に行き、町を廻る。そして大阪西成の友を訪ねる。僕の心の故郷なのだ。その町も今は仕事もなく、老齢化した人たちは生活保護者として暮らしているのが現実だ。ご購読はコチラ.pdf
絵・「髪飾りの娘」F0号 友人の娘の七五三の肖像

江戸東京博物館の展覧会 7         2013.10.18

6子を抱く人形F3号.jpg 僕の部屋の隣りは公園で、その角はコンビニエンスストアーになっている。小西というその店の先代は中平井橋の無い時代、川の舟の渡し守をしていた。店の名前は小西だが実名は深野といい、この辺りは深野姓が多い。どの家が本家でどの家が分家なのか聞いたことはないが、平井の町の辺りになると島村姓が沢山あって、新小岩、小岩の方までが島村家の土地であった。 大地主の島村家は大勢力で、政治家を輩出し大臣や町の有力議員となっている。つまり底流は封建的土地柄である。

 その土地柄にいかに溶け込めるかと僕達夫婦は腐心した。勤め人でもなく商売をしているわけでもない画家という職業、そして毎日自転車に茶箱を積んで油絵の道具を入れて走り廻る姿は人目につく。この町で住み易い為には存在を認識してもらうことだ、と僕と妻は考え、イベントを実行することを思い付いた。町会の人は近くの集会場を探してきた。だが展覧会に適していなかった。

 あるとすれば何処だろうか。思案はまとまらずこの部屋を見付ける切っ掛けになった近くに住む磯貝延子に相談をした。磯貝延子は名前が妻の延子と同じで二人は両延と言い交わしている。

 磯貝延子は音楽大学を卒業して今では浅草の近く吾妻橋の袂で画廊を経営している。僕達夫婦はその相談相手である。磯貝延子の発案で両国の江戸東京博物館で大大的な催し、夫婦の二人展はどうかということになった。幸い磯貝の知人に博物館に顔の利く人がいる。

 交渉の結果博物館の主催では出来ないが、大会議場なら借りることができる。その場所を下見にゆくと広さは充分だが、展覧会仕様になっていない。ではどうするか? 

 僕の知り合いにサジキ童子という劇団があり、主宰の東憲司は新宿梁山泊出身の新進気鋭の演劇人。このところ次から次に演劇賞を受賞して石川さゆりの舞台も作っている。人柄は穏やかだが強烈な芯をもっていて、その脚本と舞台作りは今右に出る者がいないほどである。彼に展覧会場作りを頼めたならきっと面白くなる。

 そう思うと計画を話しにいった。「下町の夫婦展」だから祭りの屋台風な演出がいい。

 彼は快く引き受け、劇団員全員で会場を作り整えた。その話をNHKの富沢満に話すと興味を持ち、ETV特集で放映したいと言った。話は思いがけぬ方向に向かっていった。NHKエンタープライズからNHK本局が撮ることに話が決まり、取材が入った。ご購読はコチラ.pdf
絵・「子を抱く人形」F3号 浅草の古道具店でみつけた泥人形

部落と橋のない川 6         2013.10.04

5猫F3号.jpg 浅草弾左右衛門とは徳川時代三百年の関東一円の被差別部落の頭領で、十三代続き、明治時代に入って弾直樹によって終わる。弾直樹は念願の姓名の姓、苗字を手に入れて一八八九年(明治二十二年)に死ぬ。手に入れた苗字は「矢野」である。

 僕はその人の墓所を探して浅草を訪ね歩き探し廻ったことがある。

 不思議だったことにその場所は警察や消防署など様々なところで聞いても判らなかった。当惑をして幾軒かの寺を聞き廻った。

 やっと探し当てたのは部落問題研究会の事務所を見付け、そこで尋ねると教えてくれる人がいた。今戸公園の近く、本龍寺という寺の墓地の中に想像していたよりも驚くほどひっそりと目立たないかたちで「矢野家」と石には刻まれ、肩身の狭い風情はいかに被差別部落というものが歴史の中で貶められ差別され続けたかを痛感させた。

 その底流は現在にも残され、佐山事件の被告は差別故の不当逮捕であり、失ったものは時間であると訴えつづけている。

 僕もその集会に参加しその人に会ったが、被差別部落という環境の中で、貧しさから教育も受けられず文字も書けない青年が犯人とされ、刑務所の中で心ある看守から文字を学び現在では外国で英語でスピーチをするほどの教養を身に付けたことを知り、人間と環境について考えざるをえなかった。僕の身にも覚えのあることである。

 東墨田地区の小学校は木下川小学校といい、その地区の子供たちの為だけに建てられていて、学校の中には皮製品を作る道具や機械が保存展示されている。それでも社会に出ると自らの出自を匿して生活をしている実状がある。

 僕の妻が、朝のランニングと体操の集会で知り合った女性を僕はモデルにして描いたことがあるが、八十才になるその人は木下川小学校の出身で年には見えないモダンな服装と化粧をした人だったが、若い時に結婚をした婚家の人に戸籍を知られると、実家に帰されたのだといった。

 その口惜しさは想像をしてみるしかなかった。そしてあらためて結婚をし生まれた女の子供は今立派な部落解放同盟の闘士になっている。

 今は静かで整備された土手に桜の木が植えられ水鳥の泳ぐ旧中川も、昔は川で皮を洗い土手には皮が干されていたと近所の老人はいう。

 そして僕たちが渡る中平井橋は昔は無くて川は橋の無い川だった。ご購読はコチラ.pdf

絵・「猫」F3号 平井は猫の多い町で集会場がある

露伴と浅草弾左衛門 5         2013.09.20

4八広の公園F3号.jpg平井の町を囲んで流れる旧中川は荒川が出来るまで(荒川はこの辺りは荒川放水路と言って人工川である)は葛飾区の中川と結っていた。

 明治の文豪、幸田露伴が荒川が出来る以前の風景をその掌篇「蘆声」に書いている。

 そこでは中川は四十九曲りといって屈曲して流れる川で、丁度今僕の住む辺りを西袋(この辺りの旧称)といい、露伴の馴染みの釣り場だった。

 蘆声はその馴染みの釣り場にある時先客がいて、子供が陣どっていた話である。

 露伴と少年が場所取り問答で、少年の事情、状況を知っていく。事情を知ると露伴は子供に自分の釣った収穫を分け与える。

 どうしても食卓に必要な収穫を得て子供は帰ってゆくが、もう暗くなったその川で五位鷺がギャアと夕空で鳴く。そんな風景で掌篇は終わる。

 思えばその当時には当然この辺り西袋には橋はかかっていない。そして又人工川の荒川放水路も無かった。

 現在の風景を露伴の頃の風景と比べてみると、時間の経緯が想像されて興味が湧く。 

 僕は今絵を描くのに毎日中平井橋を渡る。買い物ににゆく時にも渡る。僕の住んだ十三年前は川の両岸に大きな製線工場があった。

 一つは今でも新技術を開発し、中国にも進出して勢いを伸ばし、もう一方の工場は廃業してその跡地に大きなマンションが建っている。

 中平井橋はこのマンションの横を通って江戸川区から墨田区に入る。橋の中央が江戸川区と墨田区の境となってその印が刻まれている。橋を渡ると東墨田という地名で袂に油脂会社がある。江戸川区側にはライオン油脂という会社がある。石鹸を作る会社である。油脂に関わる工場がこの辺りは多い。

 ある日自転車で町を走っていると、東墨田にある会館の前に、同和差別を許すな、という看板が立っていた。その言葉に引かれて会館の中に入り、見学をしていると、揃え付けの本棚に同和関係に関する本が並んでいた。

 その中に浅草弾左衛門と名の付いた本があった。興味をもってその本を借り読んでゆくと、弾左衛門は江戸時代関東地方を支配したえたの頭で非人も支配下に置いていた、と書かれていた。被差別部落の歴史を僕は初めて、その本の中で知った。僕の育った豊田では被差別部落の話は聞いたことがなく、白土三平のカムイ伝の中では知っていた。ご購読はコチラ.pdf

絵・「八広の公園」F3号 東京の下町は公園が多く、僕は絵を描き休みをそこでとる。

吹雪の中の歌声 4         2013.09.06

9公園の子供たち20×20.jpg時代が移り変わってゆく。六十五才になった僕の今年の感想と感慨である。折しも同世代のスター歌手、藤圭子が新宿のビルから飛び下り自殺をしたニュースが報じられ、その人の淋しい生い立ちの風景と波瀾の生涯を垣間見る。そして死ということを考える。

 確かに近年死というものを意識し、ふと考える瞬間は多々ある。それを救ってくれるものは僕の場合絵というもの。自分の絵の主題を探して自転車で風景の中を走る時、何かから開放され自由で心の緊張がとけ喜びにふれる。それは生を繋ぎとめる一本の蜘蛛の糸のようだ。

 藤圭子は何で生を繋いでいたのか。大量の現金をカバンにつめて世界中を歩いていたという姿は、悲痛で傷ましく、幼い頃盲目の母に手を引かれて日本海ぞいの町や村を放浪してゆく風景を想像すると、まぎれもなく日本の歌曲の原風景が見えてくる気がする。

 僕も人生の一時期、日本海に面した町を転々とし、柏崎の奥黒姫山の麓の雪国で一冬暮らした時、古老の人から昔そのあたりを瞽女の一団が訪れ雪深い黒姫山に消えていった、と聞かされた。

 六米も積もる雪の中へ去ってゆく瞽女の人たちの苛酷な人生はその頃でさえ信じられないほどであった。まして現代の日本の環境からすれば遠い国の夢の出来事である。そんな幻の人種が生き残って歌う歌こそ、まぎれもない日本の歌曲だったろう。

 日本の近代の歌曲の原点を運命として背負い、それが意識された時、彼女は歌うことを止めたのではないだろうか。そして日本という国を飛び出て行く。放浪は世界に変わり、一時の自由を手に入れても、運命は彼女を引き戻す。

 胸にこたえる話があった。日本に帰っても浦島太郎のように訪ねる知り合いはなく、さみしいと言っていたたという。やり切れない孤独、さみしさの牢獄の中で杖のように持ったカバンの中身は一体何だったのだろうか。

 日本海の厳しい吹雪の中の旅よりもなお、空気の薄い東京の町で息をする術さえ見失い疲れ果ててなお、帰ろうとした場所は吹雪の中の母の懐、胸の中だったのではないだろうか。

 ここまで書いて平井の町に出てゆくと本屋の棚の週刊誌に沢山の藤圭子の記事が出ている。おもいがけなく小柄な体と整った目鼻だちは若い頃のもので、さっき見たテレビの後年の顔はどこか荒んで年月の疲れが染みついて見えた。ご購読はコチラ.pdf

絵・「公園の子供たち」20㎝×20㎝ 都会の子供達の遊ぶ場所は少ない

平井の風物ということ 3      2013.08.23

 平井の駅前にいつも座っていた「正ちゃん」という老人のことを過去にも少し書いたことがあるが、もう少しくわしく書いておきたい。
3あじさい52×36.jpg
 彼は三十年以上駅横のガード下に段ボールを敷き、蒲団を掛けて住んでいた。彼を識る人は、彼が平井の生まれで近くに家もあり姉もいる、ということだったが、いつしかガード下で眠るようになった。食事は近くの篤志の人が差し入れし、駅に止める自転車を磨いていくらかの収入にしている。又近くの銭湯でもらい風呂をしているという話も聞いた。

 それにしても彼の特異な生活のし方がどういう事情、哲学に依るものか説明してくれる人はいない。かといって迷惑顔をする人もいない。

 自然で空気のようにしてそこにいる。平井の町の空気のようだ。
 その彼を見知らぬ酔漢が気まぐれで殴り、コンクリートの角で頭を打って病院に運ばれ死んだ。彼の居なくなったガード下の場所に幾月も花束が置かれ、酒やビールがたむけられていた。中にはその酒やビールを盗む者もいたが、彼の死を悲しむ人が多かった。平井の名物が一つ消えた。

 彼がいなくなった後も、平井北口ロータリーには人が集い座り続けている。この季節は花水木の数本が花をつけ、陽光があふれて眩しい。そして又彼を若い時分から知っている人の中には、

 「正ちゃんは、二十代の頃やんちゃで、ヤクザをやっていたこともあるんだよ。」
 と言う人もいて、無口で大人しいガード下の生活者に至るまでの葛藤の経緯が単純ではないことを想像させる。押し黙った孤独の裏に苦い決意が隠れている。

 平井の町を囲んで流れる旧中川は近年土手が整理され鯔が群れて泳ぐ。本当か嘘か知らないが鯔という魚は釣り糸には掛からず、釣り糸を垂れる人の竿に掛かるのは別の魚のようだ。寒気の極まる二月には鯊が釣れる。見ていると、陽の光が残る内は全く反応がないが、暮れると途端、五本、六本と立てた竿に次から次と反応があって、すぐにバケツが一杯になる。僕はその様子が珍しく、絵を描き終わった帰りの途中、飽かずにながめていた。

 「これはどうやって料理をするのですか?」
 と聞くと、腸を取り乾して、それで出し汁を作るのだと言った。

 川魚漁のこの土地ならではの風物が今も残って冬の景色となっている。ご購読はコチラ.pdf

絵・「あじさい」52㎝×36㎝ 梅雨に入るとうっとおしいが、あじさいの花は美しく、心休めになる。

年令ということ 2     2013.08.02

 十一ヶ月間の西成暮らしは長いようにも思え、帰京してみれば短くも感じた。そして二度とそうした機会はない、と思った。宿題を終えたような満足感が残った。

 大阪は今橋本市長の発言で揺れて何となく落ち着かないが、町は発展変化している。西成の隣りの阿倍野の町は近鉄百貨店が新しくなり、高層ビルが幾棟も建っている。釜ヶ崎といわれた労働者の町は生活保護を受給する労働者の老令化で昔の面影はない。

 道一つ隔てた新世界は観光客で賑わうが、飛田本通は閑散としている。日本の縮図の一つがここにある。

 飛田の遊郭の面影を残す建物や町も、いつまで存在できるか心許ない。失うものは建物だけではなく人の心の情緒も又失う。現代の物理的豊かさとはかえって心の情緒の豊かさを失なうことと重なる。僕の描こうとしている世界も挟まってゆく。

2平井の工場F25号.jpg 西成で描いた四十点ほどの絵は東京に戻り京橋の画廊「アート紀元」で発表された。展覧会は終わったが十一ヶ月の西成の生活が染み着いて中々元に戻らなかった。

 僕はゆっくり平井から浅草、立石、小岩、両国と行き慣れた道を自転車で走った。十数年歩いた道や一度も入らなかった路地に新鮮な発見をすると、自転車を止めて絵を描く。

 東京の下町には普段気付かぬ場所に道祖神や石仏が祀られていて花や水や食物が置かれている。

 町の鎮守を祈る人が無私の捧げ物をする。西成の町の入口にも不動尊の石像が通りを見据え、老令の女性が花や水や供物を供えていた。自然災害や火事や事故から守られる祈りが、そこに籠められている。

 僕は町を歩き廻って休みたい時には神社仏閣に入ってゆく。そこは落ち着ける場所である。

 僕の絵がはじめて人に認められて美術雑誌に載ったのは二十八才の時で、京都の裏町を描いたスケッチだった。その京都では有名な寺や八坂神社など神社仏閣が多かったが、そこに入って絵を描いたことがない。今考えると不思議で、生来の天の邪鬼の性格がそういう場を拒否したのだろう。

 今では落ち着く場所が寺や神社になり、今住む平井でも平井聖天(関東の三大聖天の一つ)を描き、亀戸天神の藤の花を描いている。

 その神社の因縁を読み由来に興味を持ってその寺を描く。

 年令によって僕の絵も変わってゆく。ご購読はコチラ.pdf

絵・「平井の工場」F25号 この工場は現在はない。この辺りはセメント工場が多い。

江戸川区平井の町 1      2013.07.19

 今年はなぜか風の強い日が多く、そして東京では小さな地震が多発する。

 江戸川区平井という町は、東京の中でも千葉県に近く、次の新小岩、小岩という二つの駅を過ぎて江戸川を渡ればもう千葉県市川市となる。

 特徴もなく目立つ産業もない田舎町という風情で、十三年前この町に降りた時は、何か懐かしい昔の挙母市に来た気がした。

 矢作川ほど大きな川ではないが旧中川という川が流れていて、冬には水鳥がのんびり泳ぎ、朝方土手を多くの人が犬を連れて散歩している。 

 小さな町だから町内会組織が綿密で七十才を過ぎた年寄りの人達が祭りや選挙運動、桜の花見などに活発に走り廻る。

 人情味ある住み易さに惹かれて、僕はこの町を永住の地にしよう、と考えた。

 町は田舎町の1平井聖天F25号.jpg風情だが交通は便利で、浅草までバスで四十分。東京駅までもその位で、新宿には総武線一本で行ける。

 その割に何故か平井の町は人に知られていない。隣りの亀戸は亀戸天神の藤の花や亀戸大根で有名で、新小岩や小岩には賑やかな駅前商店街がある。

 そんな特徴のない平井の町も近年は浅草近くに建った東京スカイツリーの影響で次々にマンションが建ちはじめ、人口が急速にふくらみつつある。新しい人口が旧来の住人を凌駕しはじめ、町内会のバランスが崩れて新興住宅地の様相を見せつつある。

 日本の失われてゆく風景を描く僕の絵にとってもやはりこの変化は他人事ではない。描きたいと思っていた家や景色があっという間に失われ、キャンバスを持って現場にゆくと失望させられることがよくある。一ヶ月前にあった家並が今日はもう無い。

 そして目立つことは、最近の家は貼り合わせ方式でどの家も皆同じ外観をしている。面白みがないのだ。個性がない。ということは中に住む人間も又個性がなく見える。今の日本の豊かさとは味気ないものという気がする。


 僕は昨年は十一カ月ほど大阪に居て西成区の飛田遊郭とその周辺を描いていた。

 大阪も東京と同じで急速に町が変わり、三年前に以前住んでいた辺りに行ってみると、町が途中で途切れて道の向こうがビルばかりの、まるでニューヨークのような町になっていた。

 懐かしい町の風前の灯の様子に、僕は今描き残さなければ大切なものが失われてしまうのだ、と思った。ご購読はコチラ.pdf

絵・「平井聖天」F25号。 平井聖天と浅草待乳山聖天と埼玉県の聖天が三大聖天。

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