加藤志津香さん.jpg高木伸泰.jpg硲.jpg杉浦エッセイ写真.jpg佐藤とし弘さん.jpg
加藤志津香   髙木伸泰   硲 伸夫   杉浦弘高   佐藤鋹弘
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後藤 正   大家千絵   佐藤一道    永山愛樹   鈴木 章  

リレーエッセー執筆者略歴 コチラ

硲.jpg硲 伸夫
はざま・のぶお、1938年大阪市生まれ、福井大工学部卒。京大工学部助手、トヨタ部長級、龍村美術織物エーアイ社長を経て、現在、森林・河川ボランティア、NPO矢作川森林塾理事長。

矢作川木こりオリンピック提案   (2017.05.19)

 公益財団法人あすて創立50周年、カローラ発売50周年を記念して、あすて森のプレゼントが「初代カローラを間伐材で作るプロジェクト」に挑戦した。狙いは矢作川流域の間伐材を使った原寸大初代カローラを「クルマのまち豊田市」「森林のまち豊田市」の象徴として作ることだった。

 作品は豊田市産業部のご尽力で、豊田市参号館ロビーおよび豊田市東館ロビーを皮切りに、中村寿一・豊田喜一郎顕彰会、とよたビジネスフェアーで展示させていただき、予想外の好評を得た。このプロジェクトは計画から展示まで趣旨を理解した多くの企業や市民の方々のご協力で日の目を見ることができたと感謝している。

 見ていただいたお客様の中には、「細部にわたり精密にできていることに感心する人」「生まれて初めてやっと手に入れたのが初代カローラだと懐かしがる人」「豊田市の森を健康にするための人工林の間伐と間伐材の有効活用が必要であることを再発見したという人」と人によって受け取り方は様々であったが、多くの人が自分のスマホで写真を撮っていかれ、関心の高さが伺われた。

 また、豊田章一郎トヨタ自動車名誉会長、豊田章男トヨタ自動車社長、今井林野庁長官、大村愛知県知事、太田豊田市長、三宅豊田商工会議所会頭にもご覧いただいた。太田市長には新年最初の記者会見で「間伐材カローラ」をご紹介いただいた。大村知事からは2年後の全国植樹祭の会場に展示してはどうかというご意見をいただいた。

 問題はアフター「間伐材カローラ」であろう。このプロジェクトの目的は「森を健康にするために人工林の間伐を急がなくてはならない。そのためには豊田市に住む人たちがもっと間伐の必要性と素晴らしさを理解しなければならない」ということだ。今回の「間伐材カローラ」の成功に浮かれていたのでは単に木で作ったカローラの展示で終わってしまう。次に何をやるか、これが頭を悩ます大問題もっと読む.pdf

間伐材カローラ誕生の前史を語る   (2017.03.10)

 あすて創立50周年、カローラ発売50周年を記念して、私が代表を務める「あすて森のプレゼント」が主体となって、矢作川流域の間伐材を使った「車のまち豊田市」「森林のまち豊田市」を象徴する原寸大初代カローラを作り上げた。

 サラリーマンを卒業した平成14年の夏、豊田市の万博協賛事業「矢作川水源の森間伐材利用プロジェクト」の委員長を引き受けることになった。これが私のボランティア人生の始まりである。この事業の目的は間伐材の良さを知ってもらうために、矢作川流域材で市民にベンチ100脚、テーブル、イス25組を作ってもらい、万博会場に設置することであった。事業の目処がついたころ、欲が出て、間伐材でA型クラウンを作ろうかという話が出たが時間的な問題もあり挑戦できずにプロジェクトは終了した。

 3年前のことになるが、当時の市役所の担当者(今は部長)と夕食を共にする機会があった。その席上で間伐材の車が話題に上り、再度チャレンジしようかということになった。本当に作れるだろうかと思案しているとき、あすて理事長の豊田夫妻との食事の機会があり「間伐材で車が作れるかな」と言ったところ「やる気があればできますよ」というお話をいただき、スタートすることにした。

 まず、森のプレゼントの仲間で勉強家の中田良政君を製作リーダーに選び、対象を初代カローラに決めた。トヨタ自動車のモデル製作会社である杉浦木型製作所から全面協力の申し出があった。結局、豊田市産業部、トヨタ自動車、あすて森のプレゼント、杉浦木型製作所でプロジェクトチームを結成することになった。

 最初に直面した問題は、ヒノキの間伐材をどこからもっと読む.pdf

108歳の人生を全うした母との別れ   (2017.01.06)

 平成28年10月22日土曜日の朝、母が108歳と8ヶ月の人生に静かに幕を引いた。2ヶ月前の健康診断ではどこも悪いところはなく、ごはんやおやつはおいしくいただいていたが、次第にウトウトとする時間が増え、眠るように旅立っていったのだ。

 母は明治41年3月に神戸市で生を享けた。両親とは幼少のころに死別したが、裕福な家庭であったため、神戸のまちとピアノを奏でるのをこよなく愛する青春時代を過ごすことができたようである。

 しかし、戦争は、例外なく、それまでの人生を奪っていった。疎開先の淡路島から子供3人を連れて帰ってきた母が見た大阪のまちは、一面の焼け野原で愕然としたという。そこから京都と奈良の中間にある田辺という駅へ行き、幼子たちの手を引いて峠を越えて父が待っている尊延寺という小さな村に向かって歩き始めた。日が暮れ、心細くなったころ、夕闇のかなたから迎えに来た父の姿を発見しホッとしたという。この話は後年になってから、母からたびたび聞かされた。母の戦後はここから始まったのだ。

 村での暮らしはけっして楽しいものでなかった。よそ者の小学校1年生の私はいじめにあい、学校帰りに同級生を相手に殴り合いの大喧嘩をした。家に帰って村の子と大喧嘩をしたことを母に叱られ、今度は母との大喧嘩となった。

 母に手を引かれ道端の食べられる草を摘みに行ったこともあった。父は大阪赤十字病院の外科の医者であったが、大阪府の災害救助や血液センターの献血活動で、毎日、朝から晩まで休みなく飛び回っていた。従って、母は一人で家を守っていかざるを得なかった。当時、幼かった私にはこのような母の苦労が分かるはずがなくもっと読む.pdf

WE LOVE 矢作川の皆さんに    (2016.10.21)

 前回、私の「WE LOVE とよた」の一つである「森のプレゼント事業」について述べた。今回はもう一つの「WE LOVE 矢作川」の矢作川森林塾の活動について述べたい。私たちは10年前から豊田市都心部の矢作川左岸の整備活動を市民の自主的な活動として行ってきた。

 当初は土手の上から川面が見えるようにしたいという一心で「景観の向上」に努めた。毎週土曜日朝6時30分からの整備活動は、荒廃した河畔の竹藪の竹を1本ずつ手で切る作業、毎年攻めてくる新竹や雑草との戦い、水際の斜面の土砂崩れなどの修復作業だった。

 黙々と作業を続けるうちに、メンバー全員に活動フィールドに対する愛着が無意識のうちに湧いてきたように思う。そして、メンバーの共通の基本方針である①防災②景観の向上③環境保全が出来上がってきた。

特に私たちの記憶に残る最大の防災工事は、豊田大橋左岸下の大崩れした水際の斜面の修復工事だった。国交省から間伐材や土砂などの資材の提供を受け、トライ アンド エラーで矢作川森林塾のメンバーが人力で修復を行った。大雨が降ると毎回崩れていた水際の斜面の崩壊は止まり、間伐材で作った階段状の新斜面は市民の憩いの「美しいスペース」の誕生となった。

 これこそが誰にも強制されず、行政からの支援金もなく、真夏の暑い日も、凍てつく冬の日も、毎週早朝から活動に来るメンバーのパワーの源泉であり、市民の「WE LOVE 矢作川」の心の表れであった。

 現在、矢作川の久澄橋から長興寺までの右岸の竹林の伐採と河道掘削工事が国交省によって億単位の巨額の費用を使って行われている。この工事によって増水時の矢作川水位を低下させ、10数年に一度の豊田市街地洪水も防げるようになるという。

 川の状況は時々刻々変化するのが常であり、10数年もの長い間には色々なところに問題点が出てくるはずである。例えば、掘削跡の水際の斜面が増水で崩れもっと読む.pdf

家間伐材で原寸大初代カローラ    (2016.08.05)

 豊田市が推進する「WE LOVEとよた」プロジェクトというのがある。豊田というまちが好きだという人は多いと思うが、一歩踏み込んで「自分は豊田に対して何ができるだろうか」を考えている人はどれくらいいるだろうか。BBQのゴミを持ち帰るのも良し、ボランティア活動に参加するのも良し、それぞれができる範囲で自分の気持ちを行動に移せばよい。

 私たちの家庭を考えてみよう。「私は家族が好きだ」という人の「家族のために」という気持ちが家族の絆を強めている。「WE LOVE 家族」である。豊田市は東海豪雨の大被害を契機に、対策の一つとして矢作川流域の山を健康にしようという機運が盛り上がり、私もその一員として荒廃した森林の間伐プロジェクトに参加した。

 当時、サラリーマンを終了して間もないころだったので、どの程度の戦力になったかは別として、毎週、元気に山に出かけ、間伐作業に汗を流した。 間伐作業とは成長して過密になった人工林の杉、ヒノキを間引く作業である。間引いた杉、ヒノキといえども立派な木材であり、これを山に放置するのはもったいない。この間伐材の素晴らしさを多くの市民に理解してもらい、積極的に利用してもらう。

 それによって、間伐が進み、山が健康になるというのだ。私はこの理解活動を間伐プロジェクトと並行して行ってきた。以上が私の「WE LOVEとよた」の原点である。

 その後、間伐ボランティアは矢作川森林塾活動として、また間伐材利用は「あすて森のプレゼント」として発展してきた。

 今年11月はカローラ発売50周年、12月はあすて創立50周年でもある。当時の仲間と相談した結果、矢作川流域材を使って「原寸大の初代カローラ」を作ろうということになり、平成27年7月16日「あすて森のプレゼント」を核に、トヨタ自動車、アイシン精機、豊田市産業部、杉浦木型で、製作のプロジェクトチームをもっと読む.pdf

家庭では親子共有の目標大事に    (2016.06.03)

 河川や森林の環境ボランティアを始めて13年が経過した。サラリーマンを終えた時は、これからの人生をどう過ごそうかと迷っていた。その頃は環境ボランティアに燃えようとは夢にも思っていなかった。

 サラリーマン時代は典型的な会社人間で、ボランティアは頭の片隅にもなかった。会社人間というものは仕事が無くなることは社会から葬られるに等しく、不安にさいなまれ、お先真っ暗になりがちだった。

 丁度そのころは愛知万博開催の2年前。豊田市が万博協賛事業として「矢作川水源の森間伐材利用プロジェクト」を計画していた。そして私にその委員長をやらないかという打診があり、お引き受けした。

 とはいっても、間伐については全く無知な委員長だったので、私なりの猛勉強を始めた。文献を読みあさったり、豊田市主催の「森林学校」に入って、チェーンソーの使い方や間伐のやり方を学んだ。

 卒業後は「小原こだまの会」というグループに入って間伐ボランティアをすることになった。おかげで第2の人生が徐々に見えてくるようになり、いつの間にか環境ボランティアにのめり込んでしまっていた。

 10年前になるが、市民の手で豊田スタジアム前の矢作川左岸の荒廃した密生竹林を伐採し、自然豊かな都市林に変えるという事業に着手した。いまでは、昼間はこの都市林を散策する人が徐々に増え、秋の夜長には多くの虫の声であふれるようになってきた。行政からのあてがいの人工的な公園ではなく、市民が自主的に作り上げてきた豊田都心地域の、自然豊かな都市公園となりつつある。

 広辞苑によるとボランティアとは「自ら進んで社会事業などに無償で参加する人」とある。大切なのは「自ら進んで社会事業をする」という点である。市民には自分のまちの環境を自らの手で良くしようという努力がもっと読む.pdf

プロはいつも北極星を見ている    (2016.03.18)

 前回のリレーエッセイでイギリスの心理学者、ジョン・ボウルビィが提唱した「セキュアベース(安全地帯)」という理論に触れたが、今回はその続きである。

 この理論は「悩んだり迷ったりしたときに避難できる場所という意味で、これが人間のやる気と深くかかわっている」と言うのだ。

 NHKの「プロフェッショナル」という番組のキャスターだった茂木健一郎は、彼の著書で「プロフェッショナルは自分の中にある北極星を見ている」と言う。

 北極星は太古の昔から、海洋や砂漠を旅する人々が迷わないための目印とした星であり、北極星があるから、困難な旅も可能になったのだ。北極星とはプロジェクトで言えば『ビジョン』であり、それが揺るぎない座標軸となって、旅人の行動範囲を果てしなく広げ、仕事への楽しみが増してくるのだ。

 現在、私のボランティア活動におけるセキュアベースは、NPO法人矢作川森林塾活動と、あすての森のプレゼントといった環境改善に係わる活動である。無報酬の活動であるボランティアにおいてセキュアベースはどのようにして形成されるのだろうか。

 それはビジョン、すなわち夢を共有する仲間の存在であり、仲間どうし同じ座標軸で自分たちの北極星を持つことによるであろう。ボランティアでこのようなセキュアベースを持てることは素晴らしい。

 新しいプロジェクトはほとんどの場合未知への挑戦である。これに取り掛かる際、計画段階では8割方の人は無関心を装う。しかし、このプロジェクトが軌道に乗ってくると、無関心を装っていた人の中から「それは、本来、自分の仕事である」という者が出てくる。しかし、そのような者にはセキュアベースは得られない。

 矢作川森林塾の活動も、最初は物好きが竹を切っている程度にしか評価されなかったが、竹の伐採あとから実生の木が育ち、河畔の景観が一変したころから…もっと読む.pdf

密生竹林延長2㎞が雑木林に    (2016.01.15)

 豊田市の中心市街地を流れる一級河川矢作川の河畔の環境改善活動に市民の手で着手して以来、この1月14日で丸10年を迎えた。

 2006年1月14日、冷たい雨の中、矢作川漁協のメンバーで高橋から豊田スタジアム前の豊田大橋まで約600mの間に密集する竹と雑草の整備に着手した。お世話になっている矢作川への漁協の恩返しである。河畔の竹は国の財産であり、1本の竹を切るにも国の許可が必要だった。切った竹は産業廃棄物となるため処分に一苦労した。

 2010年に所期の目的の豊田大橋までの竹の伐採は終了した。この年に国交省とアダプト(協働管理協定)を結ぶことで竹の伐採許可と処分の問題は解決したため、豊田大橋下流1・5㎞を新たな活動範囲に追加した。

 その結果、全長約2㎞という広大な活動範囲となり、漁協のメンバーではとても対応できないので、NPO法人にして一般市民にも参画してもらうことにした。一時は毎週の参加者が5名ほどに激減したが、一般市民の参画で25名ほどに持ち直し、地元企業も賛助会員になっていただき、活動が充実した。

 竹を切る作業一つとってもメンバー全員の苦心の連続であった。最初、美しい竹藪を残そうと、蛇の目傘を差して通れるくらいの間隔で間伐した。竹藪の風景は良くなったが、毎週、活動に出かけるたびに竹が倒れている。河原の竹は砂地に互いに寄り添って生えているため、支えが無くなると根っこから倒れてしまうのだ。そこで「竹林皆伐」に方針変更した。竹林伐採の跡に自然に生えて来る木々の幼木を「雑木林」に育成することにした。

 皆伐の仕方にもいろいろ問題があった。竹は1mほどの高さで切れば自然に枯れるというのでそのようにしたが…もっと読む.pdf

大地は「地球の肌」である    (2015.11.06)

 2002年にサラリーマン生活にピリオドを打って以来、環境ボランティアにのめり込んでしまった。この間、間伐材の利用促進、人工林の間伐、内モンゴルでの植樹、そして豊田都心を流れる矢作川河畔の環境改善に取り組んできた。

 サラリーマン時代には全く関心がなかったボランティア活動であったが、長年やっていると、本や文献を読んでいろいろと考えるものである。以下、現時点での私の自説を紹介する。

 大地は地球の肌だと言われている。人間の肌の働きは、体の保護、体温、水分蒸発の調節、各種感覚の受容であるが、地球の肌も似たところがある。

 イスラエルの北隣にレバノンという国があり、国旗にレバノン杉が描かれている。しかし、今では、全土に小さな森が10ヶ所ほど点在するにすぎず、他は荒廃した大地と化している。原因は紀元前2500年ごろ、エジプトのファラオが、聖なる木としてレバノン杉を好んで宮殿の建築資材、木棺などとして大量に用いたためだ。

 これは、人間による大規模な森林破壊の走りだと思う。同様の自然破壊はギリシャ、中近東、アフリカ北部でも行われ、砂漠や荒廃地の拡大を招いた。中国内陸の広大な黄土地帯は、嘗てはモウコナラの鬱蒼とした落葉広葉樹林であったという。ヒツジやヤギの過放牧を長年続けたため、森林は失われ荒廃した原野と化してしまった。

 現在では、砂漠の拡大や汚染物質たっぷりの黄砂に悩まされている。

 日本はどうか…もっと読む.pdf

初代カローラを間伐材でつくるプロジェクト    (2015.08.28)

今年の猛暑、地球温暖化のせいにはしたくないが、異常気象が原因というニュースが多すぎるように思う地球温暖化、豪雨による沢抜け、洪水、旱魃、ヒートアイランド等の対策全てに対応できるのは、手入れが行きとどいた健康な山と都市の貴重な緑を大切にする心以外にないと思う。

 私は、公益財団法人あすて(豊田彬子理事長)のボランティアグループの一つである「あすて森のプレゼント」の代表を務めている。この活動は2003年に豊田市が愛知万博協賛事業として、矢作川水系の森を健康にすることを目的とした「矢作川水源の森間伐材利用プロジェクト」に端を発している。全くの素人の私にこのプロジェクトの委員長就任の打診があり、この大役を引き受ける決心をした。この年、サラリーマン生活に終止符を打ち、第2の人生を模索していた時でもあったからだ。

 このプロジェクトの大きな狙いの一つに、都市部の市民に間伐の重要性と間伐材のすばらしさを知ってもらうことがあった。活動の目玉は、全国から間伐材を使ったベンチやテーブル、椅子のデザインを公募し、優秀作品をキット化して、市民に組み立ててもらい、それを万博会場に設置するというものであった。

 700人余の市民に約200基のベンチを組立ててもらい、万博会場に設置することができた。さらに、間伐材で初代クラウンを作ろうという案も検討したが、この時は残念ながら実現に至らなかった。

 このプロジェクトは万博終了と同時に解散となったが、その時に活躍したボランティア仲間がプロジェクトの趣旨を継いで、間伐材の木工製品を施設や保育園に寄付する「森のプレゼント」という任意団体を発足させた。2013年にこの任意団体を発展的に解散して、「あすて森のプレゼント」として再出発することになった。そして、設備もメンバーの技量も世間に誇れるレベルの…もっと読む.pdf

超壮年期の仲間に高校生が参加      (2015.06.12)

 豊田市の高齢化率は平成26年実績で20・1%、37年には24・7%になると言う。市民の4人に1人が高齢者の定義に当てはまる。

 私も今年の12月で喜寿を迎える。日本人男性の平均寿命の80・2才(2013年)に手が届く。そして、健康年齢の平均71・2才はいつの間にか過ぎ去ってしまった。

 幸せなことに今日まで自分が高齢者であるという意識を持ったことはなく、ボランティア活動に明け暮れている。出来る事なら、このまま生涯現役でいたいのだが、最近、腰の調子がおかしい。早足で歩くのが苦痛だ。体力の衰えを実感する。

 生涯現役を目指すならば、何とかして、これを自力で克服しなければならない。出来る限り外に出るように頑張っている。

 福祉というと「介護」を連想しがちであるが、福祉とは本来「しあわせ」とか「ゆたかさ」を意味する言葉であろう。これからの豊田市にとって、高齢者の肉体的にも精神的にも幸せな社会づくりをして、市民の健康年齢を引き上げる努力が大きな課題である。

 私は10年ほど前にサラリーマン生活を終了した際、65歳から75歳までの10年間は老令期ではなく「超壮年期」であると定義した。引きこもりを避け、自分に合ったボランティアを見つける決心をした。

 超壮年期というのは明るく住みよい豊田市づくりに貢献すべき年齢であり、この貢献活動を通じて自らの健康年齢の維持ができると考えたのである。

 健康年齢を維持する秘訣は家に引きこもらず外に出ること、人と交わること、そしてもっと読む.pdf

河畔林整備で生物層多様化        (2015.03.13)

 毎週土曜日の朝7時のNPO矢作川森林塾の活動開始時間、冬場0℃を下回って凍てつく豊田スタジアム前のフィールドにも、着実に春の足音が近づいてきた。心ときめくグリーンカムバックの季節である。

 冬の間は、刈り取った枯れ草の整理、増水時の水の抵抗軽減や、景観改善のために伐採した河畔の都市林の下枝の整理等、緑を迎えるために地道な作業をコツコツとやって来た。早朝、極寒の地味な仕事であるにもかかわらず、毎週20数人のメンバーが活動に参加し、黙々と作業を進める。

 参加者全員、豊田という地を愛し、市民の絆の温かさを大切にする仲間達である。これこそボランティアの醍醐味であると言えよう。住みよい豊田、心のふる里豊田はこの様にして生まれたのである。

 この活動は、2006年1月に開始して以来、今年で9度目の冬を迎えた。8度目までは年間を通じて荒廃した竹藪の伐採に明け暮れていたので、冬場の仕事と言っても特別なものではなかった。2014年4月に、推定10万本あった竹の最後の1本を残して伐採は完了し、今年の冬からは市民の憩いの場としのフィールド創造に取り掛かった。

 8年間にわたる竹藪の伐採は、よくここまでやったものだと我ながら感心している。毎週、コツコツと竹の伐採作業をし、振り返ってみると、土手の上から川面が見えるようになり、伐採跡には実生の木が勢いよく生えて来て都市林の様相が見えるようになった。

 反面、雑草と伐採跡から生えてくる新竹との絶え間ない戦いが繰り返された。竹藪がなくなったフィールドには…もっと読む.pdf

「漬物は幸せのバロメーター」論        (2014.12.19)

前回の「私の老害論」を読んでいただいた読者から「老害を防ぐために定年制が機能していると思っていたが…」という質問があった。

 私の答えは「NO」。次世代への後継となると、老害と並んで後継者の育成が問題となる。後継者の育成を怠って定年制のみが機能すると考えるのは、百害あって一利なしだ。

 人には「開拓重点型人間」と「維持重点型人間」がある。優秀なリーダーになるためには「開拓型」と「維持型」の両面の素質を兼ね備える努力をしなければいけない。

 私自身の素質は「開拓重点型」であり、先へ先へ考える癖がある。優秀なリーダーになるためには「維持重点型」を兼ね備える努力をしなければならない。

 私がリーダーを務めているNPO法人矢作川森林塾を例にとると、最初は土手から川面が見えなかった荒廃した河畔の竹藪の竹を切って、川面が見えるようにしたいということだった。作業が進み川面が見えるようになってくると、今度は竹藪の伐採跡から生えてくる実生の木で河畔に都市林をつくることを夢見るようになった。この都市林をさらに進化させ、人間と自然が溶け合って共生する状況を観察できる人間観察の森を目指している。

 次々に夢は広がり、活動範囲も最初は河畔約500mだったのが、現在では約2㎞に拡大している。この活動で、夢を共有して頑張っている矢作川森林塾のメンバー全員に心から感謝している。

 今後の最大の問題は、この成果を維持してくれる後継者にいかにしてバトンタッチをして行くかである。

 維持について、エッセイストの植松黎の『漬物は幸せのバロメーター』と言う興味ある文章を発見した。「浅漬けなら気まぐれでできるが、糠漬けはちがう。作ったら最後、途中でやめることができない。日々の手入れを怠れば、たちまちカビがわいて修復困難になる」…もっと読む.pdf

老害社会到来の予兆がある           (2014.09.26)

最近、「黒船家電」と言う言葉を耳にする。嘗ては、日本メーカーの独壇場であった家電市場に「フィルター交換不要の掃除機」や「油を使わないノンフライヤー調理機」「羽のない扇風機」「自宅で麺が作れる自動製麺機」と言った、独自の機能を売り物にした海外メーカーの製品が次々と日本に上陸しつつある。まさに白物家電業界への黒船の襲来である。

 優秀な技術者達が長年にわたって築き上げてきた日本の白物家電の牙城へ、なぜ黒船家電が攻め込めたのか。一つ考えられるのは、日本の白物家電業界の老害化である。広辞苑によれば、老害とは「硬直した考え方の高齢者が指導的な立場を占め、組織の活力が失われること」とある。血の出るような努力で世界に冠たる地位を築き上げてきたという実績を自負する高齢者達。彼らが自分たちの考え方、やり方が絶対的なものと錯覚して実権を握り、その結果、若者たちが十分に活躍できない組織になってしまったのだろう。

 老害が一企業の単位から、業界の単位、社会の単位と蔓延して行くに従って、夢のない、無気力な社会が出来上がってくる。このような社会の中では、企業でも、行政でも、ただ、惰性的に自分に与えられた仕事をこなしていれば良いという風潮が定常化して、仕事への問題意識、改善へのチャレンジは損をするという考えがはびこってしまうのだ…もっと読む.pdf

森で人を観察 人と付き合う           (2014.07.04)

 前回のリレーエッセイで「人間観察の森」を提唱した。夢というのは生きている限り、先へ先へと発展するものである。8年前に矢作川河畔の環境改善活動を始めたときには、土手から川面が見えるようになることだけを楽しみに、メンバー全員で荒廃した竹藪を我武者羅に切り始めた。

 そして今年4月、矢作川の高橋から加茂川合流点までの左岸約1・5㎞の竹藪の竹約10万本(推定)の伐採を完了した。伐採完了時のメンバーの達成感は計り知れないものがあった。

 今年も私たちに挑戦的に生えてくる新竹と雑草との戦いが始まり、秋まで続く。この戦いに敗れるなら1年間で荒廃した竹藪に戻ってしまうのだ。伐採後のメンテナンスがいかに大切かと言うことだ。行政単独の竹藪伐採の最大の欠点は、このメンテナンスが行われないことである。

 伐採を完了した跡からは実生の幼木も勢い良く生えて来る。メンバーの夢は次第に豊田市中心部の水と緑豊かな都市林の実現へと進化してきた。そして、夢が進化するたびに活動フィールドへの愛着はますます強まってきた。

 この活動は豊田市河川課、公園課の協力を得た。2010年10月の国土交通省豊橋河川事務所とのアダプトの締結、さらに今年3月の国土交通省中部地方整備局の矢作川水系唯一の「河川協力団体」認証に進んだ。このようにして、正真正銘の市民主導の官民協働活動の形が出来上がった。市民と行政が一緒に夢を追う水平目線の協働活動は、全国的にあまり例を見ない。今後の官民協働活動のモデルとして育てて行きたい。

 現在、私たちの夢は「河畔の都市林」から「人間観察の森」へと進化しつつある。自然との付き合いが薄い都会人はとかく、自然を観客席から観察する。人間と自然の間に一線を画する…もっと読む.pdf

密生竹林10万本の伐採を終えて        (2014.04.04)

 豊田市街地の矢作川は、荒廃した竹藪と蔦に覆われ、環境面でも風景面でも誇れる状態でなかった。その改善に「矢作川漁協森林塾」が乗り出したのは2006年1月であった。最大の課題は、荒廃した自然にどう挑みかかるかだった。密集した竹を一本ずつ切って、実生の木々の雑木林に変えて行くという、気の遠くなるような仕事であった。

 何しろ、高橋から久澄橋まで、約1㎞もあるのだから。しかも、竹の伐採後に期待通り実生の木が生えて雑木林になる保証は何もなかった。メンバーは土手から川面が見えるようになるだけを楽しみに、暑い夏の日も、凍てつく冬の日も、毎週土曜日の早朝から、ただただ黙々とノコギリと草刈機で挑みかかった。夢を追うというのはこういうものかもしれない。

 活動が軌道に乗り始めた2010年4月に、市民主導の森づくりをしようということで「NPO法人矢作川森林塾」の設立に至った。2010年10月には国土交通省豊橋河川事務所とアダプト(協働管理協定)を結び、官民協働活動の形が出来あがった。

 8年間の苦闘の末、遂に高橋から久澄橋までぎっしりと生い茂った推定10万本の竹を切り終えた。メンバーの達成感は計り知れない。2012年7月には国土交通省豊橋河川事務所から環境保護活動に対しての感謝状も頂いた。

 2011年10月から国土交通省の久澄橋下流の河道掘削工事が始まり、これに伴って矢作川森林塾の活動範囲は、久澄橋下流1㎞区間がこれまでの高橋〜久澄橋1㎞区間に加わり、総延長約2㎞となった。

 竹を駆除した後には、思惑通り実生の木が勢い良く生えてきて…もっと読む.pdf

社内で人を「さん付け」で呼ぶトヨタ        (2014.01.31)

豊田英二さん(トヨタ自動車では役職に係わらず「さん付け」で呼んでいる)が亡くなってから早いもので5ヵ月になる。英二さんとお話をさせていただいたのは二回くらいしかないが、その時の教えは私の人生の大切な宝物として深く心に刻み込まれている。

 亡くなって約一週間後に、トヨタ自動車の部長級OBの「社友会」の総会があり、久しぶりの元同僚と思い出話に花を咲かせた。当時、テレビでは「半澤直樹」と言うドラマが高視聴率を誇っていた。バブル末期に大手都市銀行に入行した半沢直樹が、合併した銀行の組織の軋轢と戦う姿を描いたドラマである。

 会社の合併というのは、それぞれの会社の強みを合わせて、より強靭な会社になることを期待されるが、新しい会社を作るに当たっては、プロジェクトマネージメントというソフト面の能力の発揮が必要不可欠となる。

 しかし、しばしば、互いに異なった社風で育った社員間で足の引っ張り合いが始まり、なかなか合併効果が表れないと言う事態が生じることがある。元同僚と「僕たちは、半澤直樹のような世界を体験することなく、トヨタ自動車での会社生活を全うできたのは本当に幸せなことだね」と話しあった。

 とは言え、私たちも在籍中に合併という洗礼を受けなかったわけではない。トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売との工販大合併があった。この大合併を波風立てず乗り切り、世界に冠たる優良会社に育て上げたのは…もっと読む.pdf

東京五輪誘致のマネージメントに思う  (2013.11.08)

福島原発の汚染水問題、JR北海道のメンテナンス問題。技術、技能を誇る日本でなぜこのようなことが起こるのだろうか。

 茂木健一郎の『新しい日本の愛し方』という著書の中に、水野弘道さんのツイッター上の次のようなジョークが紹介されている。経済学会で発表された定理に質問が集中した。

 イギリス人「その定理は経験によって裏付けられているだろうか?」

 ドイツ人「その定理はいかなる基本定理から演繹されたものであるか?」

 フランス人「その定理をフランス語で言ってください」

 日本人「あなたの先生は有名ですか?」

 肩書に弱い日本人には物事の本質を見極める前に肩書が優先する。最近の報道番組で見たことだ。ことは組織運営に起因するソフト面の問題なのに、固有技術研究で井の中の蛙になっている大学教授などの専門家にコメントを求めていた。ミスキャストだ。肩書だけで視聴者を納得させようとするコメントは、日本人なら納得かもしれないが、イギリス人やドイツ人は納得しないだろう。どんなプロジェクトでも固有技術のハードと組織運営のソフトの、両面からのアプローチが必須である。

 中日ドラゴンズの熱狂的ファンである哲学者梅原猛が「中日不振は高木監督の無能のせいだ」と中日新聞のエッセイで酷評した。阪神ファンの私も和田監督の采配に欲求不満だ。

 高木監督も和田監督も選手としての固有技術面では誰もが認める傑出した名手であったが、チーム運営と言うプロジェクトマネージメントとなると、有能とは言えない。監督は選手の特性を生かして理想のチームを作る有能なプロジェクトマネージャーでなければならない。

 東京五輪の招致では見事なプロジェクトマネージメントがなされた。皇室からは高円宮妃久子様、スポーツ界からは佐藤真海、太田雄貴、タレントの滝川クリステル、内閣総理大臣安倍晋三、東京都知事猪瀬直樹と言った各分野の有名人を起用して、見事なチームワークで五輪誘致を勝ち取った。日本人に欠如しているソフト面の障壁を…もっと読む.pdf

矢作川に在来種・外来種・園芸種あり    (2013.08.09)

去る2011年10月、矢作川の久澄橋から下流の河道掘削工事が着工され、翌年3月に終了した。岸辺の竹林は根から除去された。河道の土砂は掘削され、洪水の流れがよくなった。

 その結果、約1㎞にわたる工事区間の大部分は草木のない不毛の地になってしまった。

 NPO法人矢作川森林塾の活動は、上流の高橋から久澄橋までの約1㎞は、荒廃した竹藪の竹を伐採して、実生の木の林を造る作業であった。久澄橋から下流1㎞は不毛の地から木の林を造る作業となった。

 不毛の地から何が生えてくるか、全く予想がつかない。が、何かは生えてくる。工事完了から丸1年たった今年、シナダレスズメガヤ、メマツヨイグサ、セイタカアワダチソウ等の雑草や、ニワウルシなどの実生の外来木たちが生えてきた。 

 これらの外来種は生命力が強い。ヤナギ、エノキ、ムクノキ、クワのような在来種の木や雑草に交じって、アギナシやタコノアシなどの絶滅危惧植物も遠慮がちに芽を出しては来ている。私達は、在来種の実生の木を残し、ニワウルシのような外来の樹木を切ることにした。

 一方、雑草についても在来植物は残し、外来種は草刈機で刈り取ることにした。とはいえ、外来種の中に隠れている在来種を取らないようにするのは実にむつかしい。

 今後、外来種の雑草のみを駆除して行く努力をし、数年後には在来種の木と雑草からなる都市林にして行きたいと考えている。

 このほか、この自然界には似つかわしくない花を付ける植物がある。園芸種である。本来、園芸種は人工設計された庭に植え、華やかな花で庭にアクセントをつけることを目的としたものである。

 園芸種の花を見ていて心に浮かんだ事がある。企業の体制を庭に例えるなら、企業が設計した庭に植えられた園芸種は社員…もっと読む.pdf

高木伸泰.jpg髙木伸泰
たかき・のぶやす、1966年生まれ。豊田市則定町向16、(有)タカキ工業代表取締役。豊田高専卒・豊橋技科大修士卒。三菱電機(株)で10年間製品開発に従事しUターン。あすけ聞き書き隊事務局。

萩野自治区が地域づくりへ    (2017.05.12)

 豊田市足助地区東部の萩野自治区で二つの地域おこし活動がはじまった。一つは「地域計画」の見直し。豊田市合併前の足助町で策定された地域計画をご存知だろうか。平成16年3月発行の冊子「足助町地域づくり計画」が手元にある。

 580頁余に渡り、15地域計画と74集落計画が収録されている。平成14~15年度にかけて住民と役場職員とがいっしょになって話し合いを重ねた。会議の延べ参加人数は9878名になった。地域の現状を認識し、10年後を見据えて多くの人が考え、話し合うことを大切にした。

 この地域づくり計画を受け、足助町全体の振興計画策定のために『足助町まちづくり委員会』が立ち上げられた。委員会のメンバーは地域住民13名と若手町職員8名。私も副座長として参加した。当時の役場企画課課長が青木信行氏であり現萩野自治区長だ。

 萩野小学校の今年度児童数は27名で複式3学級。少子化で30年の伝統を持つ子供歌舞伎の存続も心配になる。人口減少だけでなく、耕作放棄地、空き家増加の問題も迫る。地域計画の達成状況を確かめ、将来を考える話し合いを重ねることが問題解決につながる。

 昨年度は機会あるごとに「自治区長と語る会」が行われた。自治区だよりの発行に携わっているため、私も同席の機会を得た。小学校教職員・PTA役員・保護者、足助中学校生、さざんかの会(女性グループ)、歴代自治区役員などから様々な意見を聞いた。

 若い人ほど「過疎化・少子化をなんとかしたい」「対策に取り組みたい」という思いが強い。 また、旭地区の敷島自治区を手本に全世帯にアンケートを実施した。その結果からは、今のままではもっと読む.pdf

ドキュメンタリー映画『産土」    (2017.03.03)

 2月4日(土)に足助病院南棟講義室で、あすけ聞き書き隊主催のドキュメンタリー映画 「産土豊田篇―節―」上映会(平成28年度足助地区わくわく事業)を開催した。この映画は市町村合併10周年を記念して制作されたものである。昨年の2月には豊田市美術館で制作者のトークショーが行われ、初上映された。

 「産土」は人が生まれた土地、守り神を示す言葉。映画「産土」は都会に住む人たちが忘れてしまい顧みなくなった「日本」という大きな産土の姿を少しでも取り戻そうという目的で制作がはじまったという。失われつつある日本の風景を各地で映像に収め、平成25年に第一弾、平成26年に第二弾が公開された。豊田市各所でロケーション撮影が行われた豊田篇は第三弾になる。自然とともに暮らす中で育まれ、受け継がれてきた知恵、技、文化を記録する映画「産土」に、聞き書き活動との共通点を感じた。

 足助地区ではの炭焼き、足助の鍛冶屋、霧山の正月神、家庭の正月風景が記録されている。大蔵連の炭焼きが撮影対象となったのは、足助の聞き書き第4集に収録された「炭焼きはやめれんだ」と題した聞き書き作品がきっかけだ。映画に出演したのは昭和2年生まれの安藤昭二さん。炭焼きの作業で太い木をいともたやすく動かし、機械を使わずにクサビを打ち込んで丸太を割って見せる。私も薪ストーブに使う薪作りをやっていて木の重さは実感しているので、その様子をスクリーンで見て驚いた。とても80代後半には見えない。聞き書き集にも、太い木を動かすことについて「経験ちゅうだか、コツでやるんだよ。ほんな力使わんでも…」という一節があるが、映像で見ると経験から掴んだコツがなせる技だと一目瞭然であった。 大蔵連地区は平成24年に斜面崩壊が発生し、危険なため住むことができなくなってしまった。それは、聞き書き集にも記されている。安藤さんは昼寝をしていたときに異変に気づきもっと読む.pdf

コムスサークルに夢中の父    (2016.12.16)

 77歳になる父がコムスサークルに夢中だ。コムスはトヨタ車体の1人用超小型電気自動車。豊田市の山里在住者が楽しみながらコムスに試乗し、活用方法や改善提案、車両整備、改造などの活動を行っている。中山間地域における高齢者の生活の質や、地域の持続性向上のために名古屋大学、東京大学、豊田市、足助病院が共働で立ち上げた『あすけあいプロジェクト』の活動の1つである。

 「コムスをいじって・乗って・感想を聞かせていただけるコムスサークルのメンバー募集を行います!ペイントや改造、実務に使っていただいてもOKです」というメンバー募集を知ったのが昨年の12月。父は車好きでオート三輪の頃から乗っており、自動車部品を製造する仕事の経験もある。自分で色を塗り変えた軽トラに乗っていたりするので、そんな父にはコムスサークルはぴったりだ。早速応募してモニター用コムスの順番待ちに登録した。

 それから待つこと8ヶ月。コムスは盆明けに届いた。父はそれまでに何度か「コムスはまだか」と聞いてきていたので心待ちにしていたようだ。到着早々、好みの色に調合したメタリック系塗料で塗装をはじめた。モニター用の旧型コムスは大分使用感があったが、塗装することで見違えるほどきれいになった。その後も荷物入れを取り付けるなど、使いやすいよう工夫し、改造を続けている。

 コムスの充電は家庭用の100V電源で行う。バッテリー残量計がゼロの状態から満充電までの所要時間は約8時間。うまく乗れば50㎞程度の距離が走れる。私も時々乗ってみるが、ちょっとした移動のためのガソリン代を節約できるし、遠方のガソリンスタンドに行かなくて済むのが良い。上り坂の多い山間部を走るにはパワー不足を感じることもある。上手に乗らないと航続距離が伸びなかったりもする。まだまだ発展途中なところが父にはかえってもっと読む.pdf

子育て世代Uターンの潮流    (2016.10.14)

 我が子が通う豊田市立則定小学校の児童数がUターン家族によって増えている。豊かな自然に恵まれた環境で学ばせたいと、小規模特認校制度を利用して都市部から通学する児童を含め、全校児童は49名(4年前は33名)。都市部とは桁違いだが、足助地区10校の中では2番目に多い児童数である。今回の児童数増加を含め、ここ数年身近なところで「あそこの子が戻ってきたよ」とか「戻ってくるらしいよ」という話を聞くようになった。小学生や子ども園児を持つ子育て世代のUターンが目立つ。

 豊田市役所足助支所が発行する定住促進を目的とした情報誌「あすけ通信」の取材で足助地区に住む30代の若者にインタビューする機会がある。そこでの会話からも、生まれ育った地で暮らしたいという思いが感じられる。例えば「ここで住んで働こう、戻って来ようと思っていた」、「絶対ここへ帰って来たいと思っていた」、「足助で暮らして子育てをしたい」などだ。自然環境、地域性、小規模校のきめ細かな指導など、田舎での子育てが魅力だという声も聞く。若い世代の心境の変化は、小・中学校で郷土について考え、地域の自然や歴史から学び、地域の良さを知る機会が増えていることが影響しているのではないかと思う。

 おいでん・さんそんセンター(都市と農山村の交流をコーディネートする豊田市の取り組み)HPの、いなか暮らし総合窓口ページ(http://www.oiden-sanson.com/window/)に、豊田市中山間地域の小学校区ごとの総人口と児童数推移をグラフで示した人口推移データが掲載されている。足助地区の小学校在学人口推移を見ると、今後移住者が無くても現状を維持できると予想されているのは、佐切、新盛、冷田小学校区のみ。いずれもこれまで移住者受け入れに積極的に取り組んで来た地区だ。

 則定小学校区は、30年後に全校児童が10人以下になってしまうというショッキングな結果だ。だが、このグラフにはもっと読む.pdf

地域づくり遺伝子を次代に     (2016.07.29)

 暑さを忘れて熱心に竹かごを編む子どもたち。最初に簡単な手順を教えると、夢中になってどんどん編んでいく。時間とともに六つ目編みの六角形が一段ずつ積み上がる。「ここからどうするんだっけ?」そんな声が聞こえると、近くに行って手ほどきをする。やがては子どもたち同士でワイワイ言いながら教え合う。

 今月はじめに、地元の豊田市立則定小学校の5・6年生13人が『たんころりん』の竹かご作りに挑戦した。私も足助たんころりんの会のメンバーとして子どもたちの指導にあたった。

 たんころりんは、夏の夜に足助の町並みに灯される行灯。足助の竹を編み足助屋敷で漉いた和紙を貼って作る。それをシルバー人材センターの陶芸教室で焼いた『ひょうそく』(陶器製の灯火器)にかぶせ、使い古したてんぷら油に火を灯す。炎の揺らぎが和紙を通して情緒ある光を生み出す。ひょうそくの形がひょうたんに似ていることが、たんころりんの語源だ。

 竹かごは編み始めが難しく全段編むには長時間かかるため5段編んだものを用意し、そこから6段編んでもらった。早くできた子は率先して他の子を手伝ってくれる。ちょうど2時間で全員が完成。思い思いの筆文字や絵を描いた和紙を貼って記念撮影を行った。自分の手で作り上げたたんころりんは宝物。子どもたちからは満足そうな笑顔があふれる。完成したたんころりんは自治区の盆踊り大会で披露する予定だ。

 たんころりんは平成14年にはじまった。今年で15年目を迎える。私はたんころりんの活動から多くを学んだ。みんなで集まり自分の手を動かして作るたんころりん。老いも若きも作り方を教え合う会話がはずみ、人と人とのつながりが活性化する。私もたくさんの人とつながったもっと読む.pdf

地域広報に聞き書きを生かそう      (2016.05.27)

 あすけ聞き書き隊のメンバーが聞き手となり、80~90代の話し手6名にインタビューして文章にまとめた『足助の聞き書き第6集』(全84ページ)が完成しました。わくわく事業の補助を受けて製本し、足助地区の各自治会、小中学校、図書館等に配布しました。

 第6集で私は「足助山草会」の初代会長として立ち上げに尽力された水野修一郎さん(87歳)にお話を伺いました。昨年5月1日発行の矢作新報紙面で「足助山草会の生い立ちや、毎年春夏秋に出展された『足助の山野草』の植物名などを聞き書きしてほしい」という提案があったことがきっかけです。昨年度の活動を例にして実際の聞き書き手法について紹介してみましょう。


 水野さんには、足助山草会の活動拠点の福祉センター「百年草」で8月にお会いしました。足助の聞き書きでは、この地で暮らす方から仕事の話を中心に〝具体的に〟を心がけて聞くことで生き様に迫り、時代背景や地域性を浮かび上がらせたいと考えています。

 今回も足助山草会のことだけでなく、子どもの頃からのことを振り返ってもらいました。その中には、戦争体験から子どもたちに二度とこんな思いをさせたくないと先生になったこと、自然環境を活かした教育に取り組んだ教師時代のことなどがありました。

 インタビューの録音音声は3時間分となり、それをすべて書き起こした原稿は3万字。これを1万字・15ページにまとめました。編集作業ではテーマを絞って文章を整理します。読者の視点で読み返しながら再構成し、方言を含む話し言葉で綴った原稿に仕上げます。

 10月には編集中の原稿を添削するブラシアップ講座を行いました。このとき私は最も多くの指摘を受けることになってしまいました。回を重ねることで悪い意味での「慣れ」が生じたもっと読む.pdf

Uターン促進をめざす地域情報誌       (2016.03.11)

 足助地区新成人を祝う会で「あすけ通信」の読者登録受付を行いました。恒例行事として勧誘活動に参加しています。同級生や恩師との久しぶりの再会に沸く新成人たちの笑顔にいつも元気をもらっています。

 進学・就職等で外に出て暮らすことになり、地元と疎遠になってしまうと戻ってくる機会を失いがちです。「あすけ通信」は、そういう若者に地元とつながりを持ち続けて欲しいという思いで発行している情報誌です。年4回、地区外の登録者に郵送するとともに足助地区全世帯に配布しています。Uターン促進を目的に平成24年度から地域予算提案事業としてはじまりました。市民と行政とが共働により運営しています。

 離れて暮らす読者からは、アンケートを通して「具体的な人物にインタビューした記事は伝わってくるものがある」、「成果はすぐに現れないかもしれないが、外に出ている者にパワーと地元はがんばっているという勇気をくれた」などの声が届いています。「美しい思い出がある『こもでしの滝』(葛沢町)を撮影してきて欲しい」、「同級生の頑張りを掲載して欲しい」と寄せられたリクエストに応え、発行を重ねるうちに読者との「つながり」を実感するようになりました。

 私は3年間の任期で編集委員会の依頼を受け、昨年度末に会長としての役目を終えました。今年度は都合がつくときに取材や写真撮影などで協力しています。

 昨年7月に発行した第13号の「あすっこ紹介」コーナーでは、Uターンして林業に従事されている佐藤圭介さんにインタビューしました。佐藤さんは昨年4月に特殊伐採を主業務とした『空一伐業』(080・6946・2334)を創業されたばかりです。住居や神社・寺院などに隣接し、切り倒すことが難しい大木を若い仲間とチームを組んで伐採しています。

 作業現場で取材したのですが、1本のロープを投げ上げたかと思うとそれを使ってすいすいと木に登り…もっと読む.pdf

「里CO」は定住推進のガイドブック      (2016.01.08)

 11月14日に名古屋市栄で「田舎暮らし女子トーク~山里からはじめる、持続可能な暮らし~」(NPO法人大ナゴヤ大学主催)が 開催されました。田舎暮らしに関心を持つ30名ほどの参加者が、豊田市の山里で暮らす4名の女性をゲスト講師に迎え、これからの生き方について考えました。

 前年にも同様の授業が行われており、続けて参加された方からは「空き家情報など具体的な情報を得ることができ、Iターンに一歩近づけた」という声が挙がっていました。私も毎回足を運んでいますが、会場の熱気から、都市部の若者の田舎への関心の高まりを実感する場となっています。

 ゲスト講師として登壇したのは、田舎暮らしガイドブック『~とよたで見つけたミライの山里暮らし~里co(さとこ)』に登場された方たちです。12月6日に豊田市駅西口で行われた「いなかとまちの文化祭」でも、里山女子トーク「里coの部屋」が実施されており、登壇の機会が増えています。

 『里co』は「女性が移住したくなる山里にしたいよね」という思いからはじまった出版企画の成果です。田舎暮らしの疑問に答えようと、豊田市の山里で田舎暮らしを満喫している女性移住者8名(足助、旭、小原)の移住の経緯と、 その後の生活について、同じ目線で話が聞ける山里在住の女性市民ライターがインタビューしました。

 発行者は、地域スモールビジネス研究会(0565・62・0610)。おいでん・さんそんセンター(都市と農山村の交流をコーディネートする豊田市の取り組み)の専門部会の一つで、足助、旭、小原、稲武にUターン/Iターンした30~40代のメンバーを中心に、暮らしの糧を得るための多様な小仕事作りを研究しています。私も立ち上げの頃から参加しています。

 定住促進を目指した『里co』は、まず田舎に興味を持つ都市在住者に手に取ってもらいたいと考えました。幅広く多くの方に届けたいという思いと、地域スモールビジネスの研究という観点から、メンバーでネットショップを立ち上げたところ…もっと読む.pdf

過去を未来へつなぐ聞き書き     (201510.30)

 盆明けに、京都から8名のみなさんが視察研修で足助にいらっしゃいました。農村部の地域づくりに取り組んでいる「京都聞き書きの会」から「あすけ聞き書き隊」宛に、「活動内容や、地域とのつながりについてお話を伺いたい」というメールが届いたことがきっかけでした。京都府の庁内ベンチャープロジェクトで、アドバイザーの先生から先進事例として足助の活動紹介があり、あすけ聞き書き隊のブログを見つけて連絡してくださったそうです。京都府庁内で足助の聞き書き活動のことが話題になっていたとは驚きです。

 聞き書きは、インタビューした内容を録音し、話し手によるひとり語りの形式で文章に書き起こす手法です。あすけ聞き書き隊は、豊田市役所足助支所主催の聞き書き講座受講生が集まって、平成24年3月に結成しました。足助で暮らしてきた80歳前後の方から、仕事、生活、考え方などのお話を伺い、方言を活かした語り口調でまとめています。毎年、わくわく事業補助金を活用して『足助の聞き書き集』を発刊しており、これまでに52作品を収録しました。今年も10名の活動メンバーで第6集の制作を進めています。

 聞き手には中学生、高校生をはじめとした若手や豊田市外からの参加もあり、世代と地域の広がりが生まれています。話し手の娘さんから「とじこもりの父の生活に新しい風を入れてくださってありがとう」というメッセージをもらったことがあります。足助地区という小さな範囲での活動ですが、人と人とのつながりを深め、歴史を紡ぐ役割を果たしています。

 視察研修では、私たちが「聞き書きは過去から未来へつなぐ活動」という思いを持っていることに共感してくださいました。聞き書きにより、かつてこの地で行われてきた生業、伝統行事、地域づくりへの取り組みを振り返ることができ、そこにはこれからの地域活性化のヒントがあります。今しか聞けない生の声を記録していくことは…もっと読む.pdf

郷土愛には人それぞれの形      (2015.09.18)

 7月中旬、足助中学校で行われた道徳の授業研究会にゲスト講師として参加しました。3年生の教室は多数の校外参観者に囲まれて普段とは異なる雰囲気でしたが、次々と積極的な意見が交わされ、堂々とした授業態度に心を打たれました。

 授業のテーマは郷土愛。郷土愛とはどういうものなのか考えたことがありますか? 人それぞれ郷土への思いと関わり方は異なり、愛の形も様々で、大人にとっても難しいテーマでした。私自身、深く意識したことはなく、あらためて考える機会になりました。

 授業では、私が一旦足助を出てからUターンするまでの経緯をお話ししました。自己紹介を兼ねてその内容を記したいと思います。

 私は中学校を卒業後、進学先で寮生活をはじめるために足助を出ました。田舎が嫌いだとか、都会で暮らしたいという強い意志があったわけではありません。電気電子工学を専攻していたので、就職するときには専門知識を活かせる仕事に就きたいと考え、三菱電機(株)に入社しました。配属先は名古屋となり、工業用機器の製品開発に10年間従事しました。戻って来てからも、(有)タカキ工業でソフトウェア開発の仕事を主業務としています。Uターンした理由は、長男だから家と事業を継ぐためだったということになります。

 振り返ってみると、当時は郷土に対して特に強い思いがあったわけではありませんでしたが、足助に戻ってからの生活で価値観が大きく変わりました。

 消防団、商工会青年部、たんころりんの会、地域会議などで、地元の仲間といっしょに活動するうちに、田舎の持つ伝統と文化の力、そこに暮らす人たちの温かさと絆、郷土に誇りを持った心を知り、その魅力に引き込まれました。山里の自然環境、小規模校での教育など、外で暮らしてきたことで一層その良さが浮かび上がったという面もあるかもしれません。

 現在も仕事とは別に、山里で生きてきた高齢者から話を聞いてその人生を『足助の聞き書き集』として残す『あすけ聞き書き隊』や、『地域スモールビジネス研究会』での田舎暮らしガイドブック『里co』制作などの活動に携わっています。

 こうした活動を通じて、この地で暮らす人たちの話に数多く触れる機会に恵まれました。また、共に活動するメンバーと、ここで何ができるかを考えて行動するうちに、郷土を愛する気持ちが強いものになってきたと感じています。

 普段の仕事ではコンピュータのプログラムを書く毎日ですが、この寄稿のきっかけは「あすけ聞き書き隊」事務局としての活動などによるものですので、山里での地域活動の話題を中心に書いて行きたいと思います。よろしくお願いしますもっと読む.pdf

加藤志津香さん.jpg加藤志津香
かとう・しずか、主婦、EMボカシで生ゴミを堆肥化している「尾三クリーンシティークラブ」世話人。みよし市在住。1962年生まれ、奈良県出身。

農業とホタルの共存考える日々          (2017.04.28)

 ホタルの幼虫は、ゲジゲジ然としていて、どちらかと言えばキモチワルイと形容されがちだが、「これがピカピカ光るホタルになるんだよ。」と言うと、虫が苦手という人からも「うまく光ってくれるといいね。」と言ってもらえるところがホタルの持っている才ではないだろうか。

 近所の水路(いつも水がチョロチョロ流れているU字溝)には、天然のヘイケボタルがわずかに継代しているが、残念なことに減る一方だ。ゲンジボタルが絶えてしまった二年ほど前からいくつかのホタルを守る会を訪ね、絶やさない方法を模索しているのだが、現実は簡単ではなさそうだ。

 私たちの師匠でもあるお隣の日進市折戸川では十年前から放流を続け、今では自然発生も確認できるようになり、放流会と鑑賞会が地元の名物になっているが、「昔のようにホタルを飛ばしたい。」と思い立ったころは、仲間うちでもホタルが何を食べ、どんな暮らしをしているのか、だれもほとんど知らなかったそうだ。そこからのご苦労があったからこそ、師匠の元には私たちの他にもいくつかの団体が教えを乞いに集まっている。

 羽化直前の幼虫から飼育下で一年間飼育させてもらって、ホタルはどの時期にどんな姿でどこにいるのか、どんな大きさの貝を食べているのかなどを実際に目の当たりにすることができたので、水路の泥浚えや水路脇の草刈りのタイミングなどがホタルの生活に影響することも想像できる。四月上旬から五月下旬までは水路脇の地表に近い土中にもぐって蛹になるので、そこをすっかりきれいに草刈りすると地表が乾き過ぎたりしてホタルにとってはかなり住みにくい状況になることも。草刈りの代わりに除草剤を散布されたなら草刈り以上に厳しい状況になることも。ただ、農家の事情もわかるだけに、「この時期は除草剤はやめて。」とは、なかなか言いにくいもっと読む.pdf

出発点は「生物多様性」では           (2017.02.24)

 これまでいくつかの「ホタル愛護活動」をしているところを訪ねた。きっかけを伺うと、「毎年放流してでもホタルそのものを地元で見たい、見せたい。」という思いからというところが多い。でも、活動を続けるうちに「手を加えなくてもホタルが発生するくらい豊かな環境を子供や孫に残したい。」というところに行き着くようだ。中には初めからそのつもりで始められたところもある。

 昨夏の「愛知サマーセミナー」にもホタルがらみの講座が二つあった。一つはホタルが絶えて久しい川に、十年ほどかけて養殖放流や水路の整備を続けながらほぼ自然発生するまでにこぎつけた日進の折戸川のお話。私の師匠のところだ

 もう一つは副題に目がくぎ付けになった豊橋の内山川のお話。「目視三匹そこそこにまで減ったゲンジボタルが、放流も餌やりもせず、環境整備だけで何千匹の乱舞にまで復活」とあった。目視数匹とはまるで莇生の現状そのままだ。これを聞き逃しては!と師匠の講座をスルーしてまで受講したのが良かった。

 ホタルの幼虫をたくさん放流すると餌になるカワニナの数が減る。だからといってカワニナも養殖して放流すると、今度はカワニナの餌が不足する、だったらカワニナの餌も、とバラまくと……川に棲んでいるのはホタルだけではないということ。自然に近い形で管理することでホタルだけでなく生き物全体が増えるのが理想。生物多様性というやつだ。結果、目に見えて増えたのがホタルではなくて、トンボになってもいいじゃないか、と講師の先生は言われたが、ホタルの光が人の心をとらえやすいというのもまた事実なのだ。

 内山川で取り組まれた方法は、ホタルの減少の原因を取り除いたり、代替のもので補うやり方だ。特徴的なのが代替アイテムの溶岩だった。三面コンクリートで護岸された壁面に、自然素材である溶岩をもっと読む.pdf

カッコいいよ! 無事故で返上           (2016.12.09)

 夜、家人を迎えに最寄りの駅に行くと、夏頃は例のゲームの影響からかロータリーは大混雑だったのだが、いつのまにか元に戻っている。皆さんそろそろ飽きたのかなと思ったのだが、「そのゲームをしていた結果起きた事故」のニュースが続いた。

 こんなに大きく報じられていても、画面に視線を落としながら歩く人をまだときどき見かける。目隠しして歩くのは怖くても、掌の上に乗る端末を見ながら歩くのは怖くないように感じてしまうのはなぜだろう?恥ずかしながらかくいう私も、歩きながらちょっと携帯画面を見たばかりにつまずいて、おっとっと!という経験がある。

 足元が不安なほどの近眼なので、温泉に行ってもメガネをかけたまま湯につかるような臆病者の私でも、つい陥ってしまったいわゆる「歩きスマホ」の誘惑。メールを打ちながら歩いていて側溝に落ちてけがをしたと打ち明けてくれた知人もある。でも、さすがに運転となると、歩く以上にもっと危ないことぐらいは誰でもわかると思っていた。

 以前この欄でも「あのゲームは麻薬のようだ」と書かれた方があったが、ながら運転による事故の報道には、ことばの端々に事故を起こした当事者よりもゲームのほうが悪者のような印象さえ受けたので、ひょっとしたら脳が何かしらの錯覚でも起こす仕組みになっているのでは? と、SF漫画のような想像もしてみた。いやいや、責任を携帯端末に転嫁してどうする。結局私も世間も自分に甘いということがわかったということだ。

 事故多発を受けて、県は「ながら運転」に厳罰を設けたり、危険性を広報するよう国に要請もしたそうだ。子どものころ学校で「人にやさしく、自分に厳しく」と、よく言われたことを思い出した。罰より予防が大事。でも「自分に厳しく」は、今も昔も難しい課題のようだ。

 先日一人暮らしの父を訪ねると、「このたびついに運転免許を返上する。」ともっと読む.pdf

ヘイケボタルの赤ちゃん飼育記            (2016.10.07)

 先回「ヘイケボタルの赤ちゃんがうじゃうじゃ生まれた!」と浮かれて書いたら、「莇生はすぐにホタルだらけになりそうね」と声をかけて下さった人もあったが、そう簡単にはいかないのだ…。

 さあ、実際の飼育体験はここからが本番。ヘイケボタルの幼虫はタニシなどの貝類を食べて育つ。「人間だって離乳食から始めるでしょ? 自然界なら自分のからだと同じサイズの貝を食べるから、生まれたばかりのホタルの赤ちゃんは生まれたばかりの貝の赤ちゃんを食べるのです。

 でもタニシの赤ちゃんを餌に必要な数だけ田んぼや水路から獲ってくるのは無理。だから、タニシも飼育しておかないとね」と、師匠のいうとおり3月からタニシを飼育していたら、ホタルの孵化の時期に合わせるようにタニシも赤ちゃんを産み始めた。偶然というよりは必然だ! と自然の営みに感じ入ってしまった。

 孵化したてのホタルの幼虫はとにかく小さい。仲間内では「老眼鏡作った?」が、あいさつがわり。孵化が一段落したころ、幼虫たちは大きいのからスポイトで吸い取りながら数えて、仲間の水槽に引っ越していった。さて、何匹成虫にまで育ってくれるだろうか。

 師匠が長年の経験から工夫を凝らして作った羽化箱と、師匠の育てた幼虫、それもすぐにでもサナギになりそうな健康優良児ばかりをちゃっかり譲ってもらったのだから難しいところはすべてクリアされているのだ。ここまで揃えば誰の手元でもできる。とは言え、羽化箱の中で幼虫がサナギになるために作る土まゆが、地中というより地表すれすれに長屋のように並んでいるのを目の当たりにできたのは大収穫だった。

 飼育下で観察しながらもっと読む.pdf

自然発生のヘイケボタル            (2016.07.22)

 今、わが家の水槽ではヘイケボタルの幼虫が次々生まれ、三千余匹いる。もう少し大きく育ったら、タニシ(これがヘイケボタルの餌になる)を飼って待っている仲間の水槽にも分かれて引っ越していく予定だ。

 四半世紀前、今のみよし市莇生にはヘイケボタルがどこにでも見られたのだが、十年前には「細々と自然発生している状況」にまで数が減った。主な原因だと思われていた水田農薬の一斉散布はその後廃止され、東海豪雨のあと整備された川には貝や小魚も戻ってきたので、ホタルもまた増えると期待していた。だが残念ながら今ではさらに数が減り、「息も絶え絶えに棲息している」と言ったほうが現状にあっている。

 なぜ増えてくれないのか? 他市でホタルの保護活動をしているところがあると聞けば、訪ねて現場の様子を比較したり、お話を伺ったりした。しかし、哀しいかなそれだけでは自分たちがするべきこと、できうることに自信が持てず、前に進めないでいた。

 そんな時訪ねた隣町の師匠が、わざわざ莇生まで現場を見にきてくださって、光の見える助言とともに、「まずは飼ってみて生態を知ること。」と、この春インスタントコーヒーいっぱいのタニシと、もう蛹になるばかりのヘイケボタルの幼虫をくださったのだ。この幼虫が飼育下で羽化し、卵を産み、今それが次々に孵化しているのだ。

 莇生まちづくり研究会では、今シーズンも恒例の「ホタルを見ナイトウォーキング」を催したのだが、ただでさえ数が減っているところに今年は予想より発生のピークが早かったことと、開催当日が雨降りだったこともあって、目を皿のようにして水路をのぞき回って、光の差し込まない壁際にようやく二匹の光を見つけた。雨の中参加して下さった人々にはたとえ二匹でも見ていただけてホッとしたが、シーズン中一番多く見つけた日でも十匹前後。

 「ホタルは一匹見つけたら実際は十匹いると思っていい。」と言われるが、ヘイケボタルは一夫一婦制でもっと読む.pdf

続・みよし市莇生で新四国巡り            (2016.06.24)

 旧暦の三月二十一日は弘法さんの日。正式には「接待弘法」というそうな。 旧国道153号線沿いの岩蔵寺境内には大師堂があり、大小二体の座像がまつられている。接待弘法の日にはお堂の戸が開けられ、お参り客が訪れる。莇生の弘法像の中で、弘法さんのためのお堂まであるのはここだけだ。

 お堂の中から「このお堂は、後ろの鐘つき堂と同じころに建てられた古いものだよ。屋根の飾り彫りも立派だから上も見てって。」と声がかかる。

 何度かお参りしたお堂だが、ちょっと見上げれば目に入る葡萄の房の彫り物も、言われるまであることすら知らなかった。おばあさんの言うところの「きなしだった。」というやつだ。

 実は他の一軒で見せていただいた「大じいさんの朱印帳」の中に、岩蔵寺の名前があった。表紙には西加茂二十一大師巡拝記 大正五年拾月吉日と書かれていた。かなり字が薄くなっているページもあるが、札所は挙母や猿投に多く、みよしらしき札所は三ヶ所読み取れた。莇生の住所は岩蔵寺のみだったから、莇生の弘法さんの中ではきっと別格だったのだろう。

 岩蔵寺近くのお不動さんのお堂にも数体の座像が一緒に飾られ、お不動さんを守りする近所の人々が交代で接待してみえた。 もともと、お不動さんのお堂にあった座像は、数年前にお堂が再建されるまでは、朽ちて抜け落ちた床板もろとも床下に転げ落ちていそうだ。お堂再建の話がなければどうなっていたことやら…。

 お茶をよばれながら当番のおばさんのお話を聞いていると、車二台に分乗した白い巡礼装束の一団がやってきた。鈴をならしてお経をあげる姿はまさしくお遍路さんだ。豊田市内の弘法さんを巡礼して、みよしではお不動さんにだけに寄り、名古屋の名東区のほうまで巡られるのだとか。

 お賽銭を握った子どもたちだけがお参りに来るものと思っていたのでもっと読む.pdf

みよし市莇生で新四国巡り            (2016.05.13)

 関西の新興住宅地で育った私にとって、ここみよし市莇生は三十年近く暮らしても、未だにどこかあったかい不思議ワールドだ。

 旧暦三月二十一日の「弘法さん」もその一つ。お寺などの縁日とはまた違った趣きで、地域の暖かさを感じる行事だ。のぼりの立つおうちの庭先から、お座敷に飾られた弘法さんの座像に手を合わせると筆が上達すると言われ、そのうえ駄菓子をいただける。子どもたちには大人気の行事だ。

 学校の休みにあたることは少ないが、それでも下校後におおぜいの子どもたちがお賽銭をにぎりしめて郷中を歩き回るので、いつになくにぎやかになる。

 私も子どもが大きくなってからはついて歩くこともなくなり、久しくご無沙汰していたのだが、断片的に聞いていたおばあさんの昔話をふと思い出して、久しぶりに家の近くの弘法さん巡りに出かけてみた。

 本四国に行かずとも自宅周辺でお参りできるよう、あわせて八十八カ所あると聞いてはいたが、今回莇生地内で十ヵ所二十体の座像とご対面できた。一番から回りたいところだが、どこが何番なのかは行ってみないとわからない。のぼりに「三心講八十八カ所第七番明治三十八年」とあるお宅では、先々代から「○○家、○○家とともに弘法さんをお守りするように」との申し送りの書付もあると見せて下さった。

 すぐ隣に八番と二番ののぼりを見つけたが、結局番号はその三つしかわからなかった。自転車で巡るという大きい子どもたちの中には隣接する他地区にも遠征するという強者もいたので、当地の新四国八十八カ所は意外に広い範囲にわたっているのかももっと読む.pdf

それでも農業が自分の仕事            (2016.03.04)

 つい先日のこと、新聞の投書欄に気になる一文を見つけた。「定年後、年金生活をしながら、新鮮だけが取りえの自家用野菜を作り続けている。収支をつけるとずっとマイナスだ。自分としては無職ではしっくりこない。専業農家の方には失礼かもしれないが、やはり自分の職業は農業なのだ」と七十二歳の男性が書いていた。

 「生きている間は『間に合う人』でいたい。」と、よく言っていた夫の祖母を思い出した。おばあさんの言う「間に合う」とは、「役に立つ」ということだ。八十歳まで田んぼに出て、「藁を縛れるだけの力が無くなった」と引退宣言。

 九十歳間近まで細々と有松絞りの内職をし、「ついに絞りをするだけの手先の力もなくなった。わしに仕事をくれんか?」と、家族の洗濯物を畳むなど、できそうな仕事を求めながら四年ほどお迎えが来るのを待って、逝かれた。

 そんなおばあさんの、その時できることをするという有言実行を、今でも「カッコいいな。」と思っている。投書の男性にも同じように「人は間に合ってなんぼ」というようなカッコよさを感じたのだ。

 夫はサラリーマンだがわが家も一応農家。米や野菜、果樹などの仕事はあるが自家用が中心だ。私は頻繁に他の活動にエネルギーをつぎ込むし、必要経費を考えれば夫のサラリーを田畑に回して維持しているというのが現状で、大真面目に農業をやっているとは恥ずかしくて言えない。

 「他人様の食べるものを作ってこそ農家」という自信に満ちたプロの声を聞いたり、「お母ちゃんのやってることって、仕事じゃないよね」と子どもにまで言われることもあって、自虐的に「エセ農家」と自称してしまうこともあるが、投書の男性のように、それでもやっぱり「農業」なのだ。周りを見渡すと、同じように維持されている田畑はあちらこちらにある。

 都市化が進むこの地域では、点在するそんな規模の小さい農地も大事な緑地になりつつ…もっと読む.pdf

莇生・秋祭りの幟旗の物語            (2015.10.23)

各地から秋祭りの便りが届く今日この頃。

 観光マップに載るような大きな祭りも良いが、手作り感の残る地域の祭りもまた良いものだ。地元、莇生神社の秋祭りには、わが家のすぐ近くにある秋葉さんの常夜灯の前に幟旗があげられる。隣組の住民が交代で榊や笹竹などを準備して、長い竿を力を合わせて立てるのだ。

 年寄りばかりだと体力的にきつい。年に一度のことなので若者ばかりだと作業手順がわからない。老若男女で知恵と力を出しあってうまくいく。

 夫が物心ついたころにはすでに恒例行事になっていたそうで、私は特にいわれを聞くでもなく幟の上がる数日間の農村らしい風景も、はためいたりこすれたりする音も風物詩として楽しんできた。

 私自身は新興住宅地で育ったので、隣人が力を合わせて幟を立てるということがとても新鮮で、いい意味でも悪い意味でも都市部にはない「住民の結びつきのシンボル」のように感じていた。

 ところがお正月に収納する際、ち(竿に通す輪になった部分)が擦り切れたりして痛みが目立ってきていたその幟が、ついに真ん中で破れてしまった。さあどうする? とにもかくにも似たような布地で補修してみたが、近くで見ると補修のミシン跡は一目瞭然。

 隣組で相談してみても、「神様につぎのあたった幟はいかんだろう。」「高齢化してきたし、これを潮時に幟をあげることをやめてはどうか。」とか、「高齢者ばかりになっても立てられるようにこの際、鉄骨の支柱まで新調したらどうか。」とか、意見はいろいろ出るものの、まずこの幟が誰のものなのかがわからない。

 長老に聞こうと思ったが、思いあたる長老がたはすでに旅立たれた後。生前に聞かされていた切れぎれの思い出話と、現在の若い長老がたの記憶を付き合わせた結果、五十年位前に地元の息災を祈願して有志で奉納され、常夜灯に近い組の住民が管理を引き受けたという経緯が見えてきた。

 まさしく地元の絆のシンボルだったのだ…もっと読む.pdf

政府の強引さに不安ある             (2015.08.07)

八月にはヒロシマの日、ナガサキの日、そして終戦の日と過去を思い返す日が続く。と思っていたのだが、NHKの調べでは広島市民でさえ原爆投下の年月日を言える人と、言えない人の割合が今年ついに逆転したという。記憶の風化だ。

 ネット上の戦争ゲームに興じる子に、私の父が「ゲームの戦争では熱とか臭いもわからん。ほんまもんはこんなもんでは済まんのや」と、つぶやいた。

 父の戦中戦後の記憶は、仁義なき空腹との戦いだったようだ。以前この欄に「戦時中にシジミ獲りばかりさせられたから父はシジミが嫌いになったらしい」と触れたが、その後、「これ、ちょっと違う」という本人から話を聞いた。

 戦後間もない焼け跡の大阪は食料の配給も途絶え、まさに〝半死に状態〟。道端のアカザやダイオウなどの草まで食べたこと。礎石やがれきが混じってとても畑にならないようなところに、無理やりカボチャの種をまいても少ししか実はつかず、それでもそろそろ食べられる大きさになっただろうと獲りに行くと、まだ小さいのまで全部誰かが盗っていった後でガックリ。そんなことがしょっちゅうあったそうだ。

 そんな食糧難の大阪のどこにシジミがいたのか? 当時、大和川の河口に有刺鉄線に囲まれた海軍の弾薬庫があり、人が近寄れなかったのが幸いしたのか、戦時中の四年間にシジミが大量発生していたらしい。

 当時父は小学六年生。体が小さいのをいいことに、有刺鉄線の隙間から入りこんでシジミを獲ったという。小一時間でズタ袋いっぱいになる、そこはまさに秘密の場所。担いで帰り、拾ってきた木端をおくどにくべ、調味料も無いので水だけで炊くのだが、少し残る汽水の塩分だけで「それなりにうまかった」という。

 しかし、戦禍で人口が激減していた大阪でも、食べることに事欠く人は多く、彼の秘密の場所も短期間のうちに口コミで拡散し、シジミはじきに獲りつくされてしまったそうだ。シジミを見るたび、そんな終戦直後のガックリきた、やるせない思い出が…もっと読む.pdf

日本は再び怪しい雰囲気に             (2015.05.22)

 今年は戦後七十年目。

 春には各地で追悼式や慰霊祭が行われた。親の代理で漫然と参列していた戦没者追悼式だったが、今年初めて地区遺族会の名簿を見る機会があった。遺族(戦没者の配偶者または親)はお一人のみ存命だったが、参列者はその子や孫の世代がほとんどだということを、あらためて知ることになった。夫の大叔父が戦死しているという立場の私などは、「遺族」のひ孫の世代にあたるのだ。戦争の生の記憶を語れる人がゼロになる日は本当に近い。

 今は亡き先生(職場の上司)もよく戦時中の話をされた。「戦争中はね…」と始まると、まだ二十歳台だった私と先輩は首をすくめて「またかいな…」と、うっとうしく思うこともたびたびだった。

 戦時中在籍していた東大では、出征して帰ってこられなかった優秀な先輩たちが少なからずあったこと。自分にも終戦直前に赤紙こそ来たが、出征をまぬがれたので助手のポストにつけたこと。「でも、戦争がなければ日本の科学はもっと進歩していたかも」と、自虐的な言い方をされていたことを覚えている。

 写真でしか知らない私自身の伯父も戦死している。「トオルさんは通信士やったからな、艦が沈みかけても最後までSOSを打ち続けなあかんから、逃げられへんかったんや」と、小さい頃何度も聞いた。戦時中、乗り込んだ船が撃沈され、船とともにどこかの海に沈んでいると聞いている。十七歳だったそうだ。

 私が写真の伯父くらいの年齢になったとき、母が近所のお兄さんから学生服と制帽を借りて来て私に着せた。写真の伯父にどことなく似ていた。母が何のためにそんなことをしたのかも、祖父母がどんな反応をしたのかも忘れてしまったが、私自身の子どもが、写真の伯父の年頃になったとき、日本が戦争をしないと誓った国であることに、今更ながらに安堵した…もっと読む.pdf

専業主婦が理想という女学生たち           (2015.02.20)

 「もっと女性の社会進出を。」とか「女性管理職をもっと増やせ。」とかいわれているが、皮肉なことにそんな今「専業主婦になることが理想」とする女子学生が増えているそうな

 そういえば先日偶然ラジオから聞こえてきた、某弁論大会で優秀賞をとった男子大学生の主張は、「私は、妻が専業主婦でも十分暮らせる稼ぎのある社会人になって、少子化解消に一役買う自信がある。少子化の原因は草食系といわれる男子のほうにある。」というような内容だった。

 この世代の男女の意見は時代を逆行して「男は仕事、女は家庭」という方向に一致しているように聞こえる。結婚しない(できない)若者が多いと聞く昨今、彼らの理想はどんな実を結ぶのだろう?

 ちょうど私の年恰好は彼ら学生の親の世代に当たる。先月あった学生時代の同級会の席を見回すと、十一人いる女性のうち結婚または出産を機に一度専業主婦を経験している人は九人。当時はそれが普通とされていたし、自分自身も勤め続けていては心理的にも物理的にも家事育児に必要なエネルギーが不足する、と信じていた。しかしそれが、まさか子ども世代に伝播したとは思い難い。

 しかも人は無いものねだりをする生き物で、ちょっと慣れると家事育児以外のことがかじりたくなる。「大学まで出て、なぜ今家事育児だけ?」と悶々としてみたりもした。

 身近に同じようなことを考えている人を見つけると思いは大きくなり、少しの隙間時間をこじあけて、何かをしようと画策した。勉強会をしたり、ボランティア活動をしたり。子どもを育てているときの女性は、人生で一番エネルギーに溢れているときなのだと思う…もっと読む.pdf

ホタル復活は「到達目標」に           (2014.11.28)

 この秋もまた砂後川の土手に水仙の球根を植えることができた。

「お宅のお庭の水仙を株分けして下さい。」と、毎夏莇生区内に回覧板を回すのだが、今年は早いうちから段ボール箱入りの球根をいただいたり、「道添いに仮植してあるから抜いていって。」と声をかけてもらったり、一千球以上を譲っていただいた。

 この水仙の小路に、東海豪雨を境にすっかりいなくなってしまったヘイケボタルに戻ってきてほしいと願っているのだが、ここで近年見られるのは数匹のゲンジボタルのみ。何年か前に一キロほど川上で放流されたものの子孫らしいが、細々と自然繁殖して継代している。集落を挟んで反対側の田んぼわきの水路には、まだヘイケボタルが生き残っているのも毎年観察しているので、そちらを元気にしてやれば、増えていずれ川に戻ってきてくれるかも…と、期待している。

 「ホタルが見たけりゃ各地でやっているようにゲンジボタルを養殖して毎年放流すればいいじゃないか。」というご意見もいただくのだが、それとはちょっと違うのだ。東海豪雨のあと、せっかく自然に近い護岸に整備された川だから、せめてもう少し身近に感じられるようになってほしい。以前は毎年ヘイケボタルが自然発生していた場所だから、ホタルの復活は誰にでもわかる「到達目標」とでも言えば、ホタルだけを守ろうとしているのではないことをわかっていただけるだろうか。

 生活の場のすぐ近くにある、こんな潤いの感じられる小路の存在は、おじいさん世代が子どもの時には当たり前の風景だったかもしれないが、都市化が進むこのあたりでは、これから子どもを育てたり、地域で老いの日々を過ごしたりするとき、贅沢なものに感じられる…もっと読む.pdf

でも「やや汚れた川」の調査結果           (2014.08.29)

 みよし市北部の境川は、下水道が完備されてからというもの川面の泡立ちもほとんどなく、ずいぶんきれいになったように見える。 二十人ほどの小学生と、同じくらいの人数の大人がタモやバケツを手に川の中、草の影をごそごそ…。イタチがあわてて草陰に引き返す。例年、市の環境課が夏休みの子どもたちを誘って境川の生き物調査をすると聞いていたので、この夏初めて見学させてもらった。そのときの風景だ。

 バケツや観察用のバットに集められたのは虫や魚や貝など。捕まえた生き物の名前を図鑑で調べ、あらかじめいくつかの枠に分類された表に個体数を書き込んでいくと、川がきれいなのか、汚れているのか、おおよその見当がつくのだという。生き物の正体がわからないときは担当課の物知りお兄さんの出番だ。

 「これ食べられるかな?」と、シジミらしき貝を取ってきた子には、「お店で売っているシジミは汽水に生息するヤマトシジミだからこれとは種類は違うけど、食べられないことはないよ。ここらにいるのは、たいてい外来種のタイワンシジミ。たぶんこれもそうだね。」と、教えてくれる。

 シジミのほかにもメダカだと思っていたらそっくりさんのカダヤシだったり、フナだと思ったらブラックバスだったり、横で聞いているとこんなに外来種が入っているのかと驚いた。彼らはきれいな川でなくても生きていけるほど、したたからしい。

 マシジミ(淡水に住む在来種)しかいない川にタイワンシジミが混入すると三~四年でタイワンシジミばかりになってしまったとの報告もあるという。そのしたたかさに二度驚いた。

 今回の調査ではきれいな川を好む生き物もいたが、汚れた川を好む生き物も多く…もっと読む.pdf

スマホLINEで娘とバトル?            (2014.06.06)

 「私は情報難民だ!」この春大学生になった娘が電話の向こうで嘆いている。

 聞けば、入学式で初めて顔を会わせたはずなのに、「出身県が違っていてもすでに知り合い」という、LINE(先般この欄でも話題になったスマホの無料通信アプリ)で繋がっているグループは意外に大きくて、サークルなどの前知識が共有されていたようだ。LINEを利用すると、同じ学校に入学予定の人を事前に見つけて会話できるとはきいていたがこれほどとは!

 話しかけてくれる同級生も二言目には「LINEやってる?」と聞くので、口下手で友達作りが苦手と自認する娘にとっては一大事だったようだ。しかし、聞けば周りはみんな分別ある大学生。スマホを持っていないと明かすと、口々にLINEで流れた大学生活のお得情報を教えてくれたそうだから、難民というほどのことはないではないか。

 「情報をもらうために、もの凄い勇気出して知らない人に話しかけてんの!」と口をとがらせるが、難民どころか以前より活発に会話ができている様子に母はニヤリ。小学生の時はゲーム機で、中学生の時は携帯で、こんなバトルを繰り返してきた。

 お隣の刈谷市では午後9時以後は子どもにスマホや携帯を持たせないようにと御触れを出した。今や子どもの通信教材の付録に携帯端末が付いてくる時代だ。ゲーム機だってインターネットに接続できるので、「片手落ち」とか、逆に「厳しすぎる」というご意見もあるようだが、子どもらはこの御触れをおおむね歓迎しているとの調査結果が紹介されていた。

 こんな時間指定の約束ごとは親子の間でするもので、市に決めてもらわねばならないの? と少々情けなくも思ったが…もっと読む.pdf

莇生で「おこしもん」コラボ            (2014.03.21)

各地で催されているひな祭り展もそろそろシーズン終了か。子供のころ、「桃の節句を過ぎてもお雛様を飾りっぱなしにしておくと、娘が嫁に行きそびれる。」などと言われると、子ども心にドキドキ。母が「うちは旧暦で飾っていますので。」と、言い訳していたのをいまも覚えている。

 今のみよし市莇生町に越してきたころは、初めて経験する莇生の習慣に、いちいち驚いたものだ。初節句もその一つで、初の娘の初節句には人形を飾り、赤ちゃんとお人形を見に来て下さる近所の人々に、雛菓子を振る舞う習慣があった。

 「今年はどこそこの子が初節句だげな。」と、事前におばあさんたちの口コミで情報が伝わるのが常で、桃の節句当日は近所の子どもたちもお母さんやおばあさんに連れられてその家を訪ね、庭先からお雛様を見せてもらったものだ。

 まだ新参者のころ、訪ねた庭先で一緒になった人との雑談から、「四日にお人形をしまえないときは、くるりと回して背中を前に向けて、晴れて乾燥する日を待ってから片づければ問題ない。」と教えられ、それ以来「旧暦で…」は笑い話にしている。

 ここ数年来、子どもの数が減っているだけでなく、人形やお菓子の支度などのわずらわしさを嫌ってか、以前ほど「初節句」は聞かなくなった。 お雛様の大きさやお顔の様子が時代を映すように、その土地の風習も時代とともに変化していくのは自然なことなのかもしれないが、こんな習慣が地域のゆるい絆つくりにも一役買っていたのかも…と思うと、無くなっていくのはちょっと残念だ。

 子どもたちにとっては雛菓子をもらうことが一番の目的でいい。ただ、それが近所の人の顔を覚えたり、覚えてもらったり、特に仕組んだわけでなく顔見知りになる機会にもなっていることが大事なのだ。

 他市町では、お月見の日に子どもたちがお菓子を貰いに地域の家々を回る習慣を復活させようと、若い世代が会費を募って会員制で始めているところもあるという。捨てる神あれば拾う神ありといったところか。

 莇生では毎年子供会だけで「おこしもん」を作っていたが、今年初めて老人クラブとのコラボレーションが実現した。お母さんたちに「おこしもん」を知らない人が多くなったことや、逆に地元育ちの人には、これがこの地域独自の食文化だとは知らずにいる人にも再認識してもらえることを願った。

 「伝統の食文化を伝えることも児童館の役目」という思いが、莇生の拾う神を呼び集めたようだ。蒸籠に並んだ色とりどりの「おこしもん」の取り持つ縁に期待が膨らんだ。ご購読はコチラ.pdf

ひょっとしたら憲法9条が…          (2014.01.10)

元旦には三好池の堤防近くで太極拳の初稽古をしながら初日の出を拝むのが、私の数年前からの恒例行事となっている。

 元旦に三好池で早朝稽古している人たちがいるとの噂を聞きつけ、それから毎年仲間に入れていただいているのだ。年に一度しかお会いしない方とも、そのひととき呼吸を合わせる、そんな一体感が、とても気持ちがいい。

 稽古をしながら日の出を待つと、犬の散歩をする人や走る人、歩く人が静かに前を通り過ぎていく。堤防上には日の出を狙ってカメラをセットする人もあり、それぞれの平和な年明けの風景だ。

 大みそかは夫や子どもらと近所のお寺で除夜の鐘をつき、その足で莇生神社に初詣。境内で前厄の男性が振舞ってくれる甘酒で温まってから休み、翌朝家族が寝ているうちに三好池を往復する。「一年の計は元旦にあり」というから、その年はちょっと余分に頑張れそうな気がする。

 ところで、昨年は特定秘密保護法案が大急ぎで可決され、TPP交渉も始まった。振り込め詐欺のように、決断を急がせるものにろくなものはないと言われるが、政治や経済に疎い私でも、日本は曲がり角に来たと感じている。

 日本人は交渉事が不得意といわれるが、罰則のない約束が破られやすいのと似て、軍隊の後ろ盾がないと他国との交渉には不利という人もある。昨今の報道を見聞きしていると、ひょっとしたら近いうちに憲法九条も変えられて、気が付いたときには軍隊を持つようになり、それを後ろ盾に交渉を行うような国になるかもしれないと思うとやるせない

 原発にしても、あの大きな事故のあとがいまだに収拾しかねているうえ、核のゴミの処理法も場当たり的としか思えない。それにもかかわらず、再稼働を進めようとする真意はどこにあるのだろう。事故の後、原子力関係の研究を希望する学生が減ったと聞いているが、すでに大量にたまっている核のゴミを安全に処理する方法を見つけるためにも、そちらにこそ力を入れるべきではないのか?それとも、錬金術のようにそれは所詮無理なこととすでに判っているのなら、なぜこれ以上危険なゴミを増やせよう。

 学校では日本史が近々必修科目になるようだ。領土や領海の知識も必要だが、今を過去として習う未来の子供たちが、胸を張って自国を自慢できる日本であってほしい。

 太極拳を学ぶ者は、自分の健康だけでなく、他者の健康と平和を願いながら稽古する。これから先も、平和な新年を迎えられることを願わずにはいられない平成二十六年幕開けの初稽古だった。ご購読はコチラ.pdf

「お蚕の暑さしのぎ」の知恵   (2013.10.18)

「稲刈りは終わったかん?」「はい、おかげさんで。」こんなあいさつを交わすことも少なくなってきたように思う。

 みよしに住んで二十数年になるが、みよしに来たハナは「関西の町育ち」の私にとって、こちらの人たちの話す聞き慣れない単語や言い回しは、とても新鮮でおもしろかった。うちの縁側で繰り広げられる近所のおばあさんたちの茶飲み話をお手本に覚えたものだから、私の三河弁は時によっては「少々年寄りくさい」と言われたりもする。

 「今なんて言うたの? それ、どういう意味?」とたびたび聞き直す私に、夫の祖母は「わしは尾張の出だでな。」と困り顔をされた。私は標準語に置き換えておしえてほしかったのだが、今にして思えば境川を渡ってお嫁に来たおばあさんにとっての標準語は、三河弁だったのかもしれない。ちなみに、御輿入れは「荷車に嫁入り道具を積み込んで、一時間ほど歩いてきた。」と話していた。

 先日、新編三好町誌の完成を記念しての講演会を拝聴する機会に恵まれた。講師のお話の中に「みよしは尾張と三河の中間にあり、両方の文化が融合しているところ。」そんな一節があって、今は亡き祖母とのやりとりが思い出された。

 三好町誌をめくると、祖母の現役時代の農村の風景が想像できる。「こんにちは」の代わりに「稲刈りは終わったかん?」とか「芋はさしたかん?」とか言われるのも、暮らしが農作業と密着していてこその季節のあいさつなのだ。

 みよしに来るまで農に触れる生活をしていなかった私には、使われる単語が三河弁だからではなく、農に密着した暮らし方に目新しさを感じていたのかもしれない。

 さて、この夏も猛暑が続いたが、祖母が生前実践していた「お蚕の暑さしのぎ」の知恵を応用して、今年も夏をしのぐことができた。町誌にもそれに関する記載があるかもと、養蚕の項を開いてみた。「夏のお蚕は育てにくい。」とはあった
が、暑さのしのぎ方は特に記載されていなかったところを見ると、一般的な方法ではなかったのかもしれない。

 それは、真夏の暑さが予想される日は、日の出のころの涼しい外気を取り込んだら、日がまだ東にあるうちに窓を閉め切り、夕方日が低くなるまで外気を入れないようにするという、いたってシンプルな方法だが、これに扇風機やエアコンを併用すると、冷房コストはぐんと下がり、昔の人の知恵は思いの他有効なことに驚かされた。

 農のある暮らしのあれこれは町誌では過去形で書かれていることが多かった。意味の深い生活文化のことなどは現在形で伝えていきたいものだと思った。ご購読はコチラ.pdf

土用の丑の日「うな丼の未来」やいかに     (2013.07.19)

昔からべあわせが悪いといわれる「ウナギと梅干」は、ともに「土用丑」「土用干し」と、この時期それぞれ話題になる組み合わせでもある。

 夫の祖母はうな丼が好物だった。しかし祖母の現役時代のうな丼は今よりもっとぜいたく品で、庶民には「土用くらいは!」と奮発しなければ食べられないごちそうだったと、食べるたびに言っていた。「九十歳を超えるまで長生きできたおかげで、土用でなくてもうな丼が食べられる。いい時代になったもんだなあ。ナンマンダブ、ナンマンダブ」と外国産の養殖ウナギを拝んでいたっけ。

 ここのところニホンウナギの絶滅が心配されている。この土用の丑の日に「うな丼の未来」というシンポジウムが東京大で開かれるという新聞記事が目に止まった。「安いウナギを頻繁に食べるのを止め、ごちそうとしてたまに堪能するために、関係者が協力するきっかけにしたい。」という主催者のことばが載っていた。そのことばから、祖母がいつでも食べられるようになったと喜んでいたときに、私自身が食文化を崩していたのかも、と反省した。

 悦んで食べてくれる祖母に、安いウナギを買ってきて食卓に並べていたのは何を隠そうこの私。好きなものを頻繁に食べさせてあげたいという気持ちからだったが、ごちそうはたまに食べるからごちそうだということを忘れていたと思う。

 もしかしたらニホンウナギの減少は、あさましい食べ方を改めよと教えてくれているのかもしれない。

 さて、シンポジウムでは現在のウナギ食の問題点や、人工繁殖技術の現状、近年発見されたニホンウナギの産卵場所の調査などの報告もあるようだ。参加する中国や韓国を含めた研究者や業者が、全会一致の方向を導き出せるとよいのだが。

 日本には今、世界中からいろいろな食品が集まってくる。選べるというのは豊かさの証だと思うが、一消費者にその食品の背景まではなかなか見えるものではない。知らないうちに度を越して、他国で雇用を生む代わりに環境を脅かしていたりすることもあると聞くと、豊かさと引き換えの罪深さを思う。

 こんな日本がTPPに参加するとどうなるのだろう? 安い食品がたくさん入ってくると歓迎する人あり、安心や安全が選べなくなると懸念を抱く人もありだろう。

 日本の農業は立ち行かなくなり、農業を捨てることになるという試算をされた方もある。歴史を紐解けば、定住して稲作を始めたことが国の始まりだったはず。農を手放すことは、国を手放すことにならないか。経済音痴のおばさんはそんな心配をしながら、梅干用の紫蘇を揉みつつ土用の入りを待っている。ご購読はコチラ.pdf

永山愛樹*.jpg永山愛樹
ながやま・よしき ミュージシャン。アジアを主に各国の土着音楽とロックなどを融合した楽隊「タートルアイランド」のリーダー。橋の下世界音楽祭主宰。1976年生まれ 豊田市曙町。

原発事故地・福島の現在を語る         (2017.04.21)

 僕はテレビをあまり見ない。たまに見るとものすごい気分になる。

 連日悲惨な事件と政治の問題、有名人のスキャンダル、つくづくくだらないなと思う。なぜ毎日毎日あんな悲惨なことばかり報道するのだろうか。子供が誘拐されたり殺されたりするのは見るに堪えられない。

 発信する側は一つだとしても、ものすごい数の人々が受信する。したがって一つの事件や発言、問題がまるで受信した数のように大きな問題のようになる。日本中がそれらに翻弄され疑心に満ち溢れる。

 ほんの70数年前の戦時中の日本は情報操作で国民全体をコントロールし、天皇陛下のために命を落とすのが美学であるとの教育を受け、先の戦争では数百万人が命を落とした。 もちろん日本に限らず戦争に参加した国々全てにおいて言えることだった。年寄りが命令して若い者たちから死んでゆく。お国の為と言われたが、お国とは一体なんなのだろう。

 僕は音楽をしながら全国各地や海外諸国を旅します。原発事故の起きた福島へも毎年何箇所か廻り、そこに住む人々から直接生の話を聞く機会も、他の人よりもたくさんあります。ガイガーカウンターで自ら線量を測ったりもしました。 そしてネットなどで様々な意見も聞いたり見たりもするが、答えはひとつではない。沢山の真実と、嘘、誤解、解釈などが同時に無限に存在している。

 簡単に福島の嘘などとひとくくりにして、まるで問題ないとでも言う意見や、逆に過剰に放射能の汚染や影響を煽る声も、どちらも間違いだと感じます。

 そして問題はそういうことではなくて、未だに何万人もの人々が苦しんでいるという事実だけが、何故か宙に浮いているということなのだと思います。

 次々に避難解除されていくニュースが報道されていますが、本当に苦しんでいる人々のことはもっと読む.pdf

ミズベリングと矢作川豊田大橋         (2017.02.10)

 少し前から全国的にミズベリングというのが流行っているらしいのですが、ミズベリングとは市民、企業、行政などが三位一体となって河川などの水辺を整備し、もっと有効活用して賑わいを作ろう、みたいなムーブメントのようなもの。

 語源は水辺+RING(輪)、水辺+ING(進行形)、水辺+R(リノベーション/再生)の造語。橋の下世界音楽祭の会場に使用させて頂いている大橋下、矢作川河川敷で自分のやっている楽隊も、もともと1999年頃から太鼓などの練習をするのによく通っていて、今でも我々 貧乏なバンドマンには個人で楽器の練習するのには有料のスタジオは極力使わず、この矢作川河川敷でこっそり練習していたりする。

 その他にも昼寝をしたり、休みの日には考え事をするのに河原で寝転び只ボーッとしたり、体を動かすためなど頻繁にいく大好きな場所である。最近は自分の生活と音楽活動が忙しく中々参加できていないが、河川敷をボランティアで整備しているNPO矢作川森林塾の皆さんの活動にも微力ながらも参加させて頂き、竹林の伐採などを少しお手伝いさせてもらっている。

 そして何と言っても今年で6回目の開催となる「橋の下世界音楽祭」にとっても矢作川とは切っても切れない場所。と、言うよりも、この場所だから生まれた祭りだとはっきりと言えます。祭り前後は一ヶ月くらいは毎日河原にいて、その内半月くらいはキャンプして太陽と月、空と風、砂埃を身に纏い、川と仲間達と寝食を共にし準備や片づけをします。 なので、この場所には自分らなりにも思い入れがあるのです。ただ流行りに流されて隣町や何処かの街の真似を

しても意味が無いと思うし、ただイベントスペースとして河原に人を集めたいと言うだけではもっと読む.pdf

奄美の盲目の唄者・里国隆さん          (2016.11.25)

 奄美大島に奄美竪琴なる楽器がある。大和の琴を半分にぶった切ったようなモノだ。琴のように寝かせて弾かず太腿に載せ、左手の四つ竹でカチカチとリズムを刻み、右手で弦を弾く。

 唯一の地上戦が行われた沖縄の戦後時代、革と木でできている高価な沖縄三線は手に入らなかった。食料缶をボディにして作った「かんから三線」同様、この竪琴もベニヤ板などで胴を作り、落ちているワイヤーを解き弦を張りネジで締めたような粗末なもの。

 そしてこの竪琴を路上で弾きながら樟脳を売り歩いた「奄美のアウトサイダー」盲目の唄者、里国隆(さと・くにたか)という人がいた。大正8年、奄美北部の笠利町に生まれ生後8ヶ月の時に失明した。祖父に島唄の手ほどきを受け育ったが、里さんは17歳頃老人の樟脳売りの芸に魅了され、その行商老人について家を出た。竪琴の作り方や行商を覚え生涯を沖縄、奄美を放浪しながら路傍での唄に一生を捧げたという人だ。

 僕は17年程前、沖縄島唄や祭祀に惹かれ沖縄を旅し、この里国隆の記録音源と出会った。彼の野太く荒々しくも繊細な唄に惹かれた。
そして昨年インターネットでたまたま、この竪琴を弾く一人のおいちゃんの動画を見つけた。

 これは!里国隆の竪琴じゃぁないか!! 調べてみるとなんと、このおいちゃんは盛島貴男さんという現在66歳。本土への出稼ぎから帰ってきた40代後半くらいの時に島でこの奄美竪琴の音色を聴き、小学生の頃路上で聴いた奇妙な盲目の唄者〝里国隆〟の記憶を鮮明に思い出した。

 これをやらなければいけないと自分の中の何者かから啓示を受け、里さんの親戚を訪ね歩き実際に里さんの使っていた竪琴を借り改良に改良を重ねた。

 今、手作りの小屋に住み、手作りの工房で竪琴を制作、販売。奏法を教え、自然のままに暮らしている人。

 それを聴いて興奮した僕は、すぐに沖縄から単身奄美大島行きの船に乗りもっと読む.pdf

豊田市西町「橋ノ下舎」開舎          (2016.09.30)

 8月14、15日、豊田市駅前ペデストリアンデッキの上で行われた橋の上大盆踊り大会は通常一年で一番人通りの少なくなると言われるお盆でしたがデッキを埋め尽くす人々が踊り唄い、デッキの底が抜けるのではないかと心配するくらい大盛況に終わりました。

 櫓と提灯と音頭を前にDNAに組み込まれている記憶が疼き老いも若きも踊らずにはいられなかったのでしょうか。

 そして、5月の橋の下世界音楽祭の直後から仲間で工事を進め、8月頭から開いたコンテンツニシマチ内、我々「橋の下世界音楽祭」と自分のバンド「タートルアイランド」の運営するコミュニティスペース、アンダーザブリッジカルチャーセンター、僕なりに訳しますと「はぐれものの文化センター」とでも言いましょうか、正式名称「橋ノ下舎」も動き出してきました。

 月に1本1週間ほど舎はドキュメンタリー映画を中心に上映するお座敷映画館となったり、十五夜には民謡会を開催し、地元の民謡の会「芳泉会」の三味線と唄のレクチャーにお客さん皆で大合唱し昭和の初め頃まで存在したと言われるお座敷遊びの雰囲気を体験。

 こんな楽しい遊びを無くすのは忍びなすぎる。民謡や三味線、囃子などの楽しさを伝え、観るもの、やるもの、ではなく、誰もが参加し演奏や唄を覚え、自ら奏で、他者と音や心を合わせる楽しみを広めたい。古き良き形式での新しい唄も作っていきたい。

 お囃子なども祭のある町内だけでしかないが、橋の下ではやりたい人々が囃子や木遣り唄など興味持ち覚えれば、誰でも参加できる。そのうち祭に来た人々何百人、何千人で囃子や太鼓奏でるようになったら面白い。

 客も演者も無いそれこそお祭りだ。町のお祭りでは無い。人間の祭りだ。町や地域、国境などの枠を超えた意識のコミュニティ作りも面白いと思うし、これからは特に必要だとも思う。もちろん地域とも関わりながら。ただ、行政などをあてにせずとももっと読む.pdf

自分を語るのはむつかしい           (2016.05.13)

 社会的地位があっても、人として優れているのかどうかとは、全く別の話だと思う。また社会性と人間性とも別の話しである。更に何か優れているものを持っていたとしても、それが自分だけのものであるならば、何の意味もない。

 名が知られるという事は自分の思いを伝えるチャンスが増えただけで、偉くなった訳ではない。更に必ずしもそれが正しいわけでもなければ、正しいと感じた事がどの風景にも当てはまるわけではない。富を沢山手に入れたとしても、大きな会社を起こしたとしても、人を沢山集める事ができたとしても、それで偉くなったとでも思うのは勘違いだし滑稽である。

 知識ある者が賢者ではない。知識を有効に使えるものが賢者なのだと思う。知識を人に分け、賢者を増やす事の出来るものが本当の賢者なのだと思う。

 勝敗は好きではないが、勝敗の無い世界は退屈だとも思う。勝ち負けに執着した表現や物事には興味を持てない。しかし本気で思う事なら絶対に勝ちたい。その〝勝つ〟と言う事は相手を倒すとか、奪い取る事ではない。安心させ、心地よくさせ、笑わせたりする類いの事であろう。

 この世のすべてのものは本当は誰のものでもない。親も子も彼女も奥さんも旦那も子供も、ペットと呼ばれる犬や猫でさえも自分のものではない。山や川、海、土に至っては、勝手にいつからか誰かが境界線を引いただけである。それを独占するなんてことは、その土地を誰かに奪われても文句は言えないのと等しい、と思う。

 害獣、害獣というが鹿やイノシシから観たら人間が一番の害獣。なかなかそうもいかないが、なるべく人類皆兄弟と思っていたい。この世のすべては自己責任だと思う。命を守るのも食べていくのもすべて自己責任。やるだけやったらあとは天任せ。自給自足できる農家さんらが一番凄い。極端に言えばあとはすべて幻想なのかもしれないとも…もっと読む.pdf

第5回橋の下世界音楽祭ご案内           (2016.04.29)

 今年5月27〜29日で五回目を迎える橋の下世界音楽祭。何も無い橋の下で参加者皆で創り上げていくお祭りです。それぞれ出来る事を出来る人がやる。すべて自己責任。当たり前ですがここではトイレも水道も電気も限られています。よく整備されていて、なんでも揃う街中とは違います。

 この限られた橋の下の環境の中でどうやってそれらと3日間豊かに付き合うかというのも橋の下の遊び方の醍醐味。400枚の太陽光パネルから吸収したエネルギーを神戸の慧通信技術工業の粟田さんの開発したオフグリッドシステム(独立電源)〝Personal Energy〟に取り込み、作られた電気を広大な橋の下会場すべてに供給し祭りが成り立っていた訳ですが、今年から新たな試みとして出店者さんにも協力してもらい自家発電、もしくは灯りの持参を義務づけての出店募集。

 発電機は多数あるとうるさくて疲れ、やはり音楽の邪魔になる。あの矢作川河川敷ののどかな風情を壊したくないので使用禁止。なので、バッテリー持参で低電力のLEDライトなど使ってもらうか、燃料式、電池式のランタンもしくは江戸時代のように提灯にろうそくと言うのもまた情緒ありよい。河原で夜なのだから夜ながらの暗さを楽しめるといいと思います。

 内容に関しまして今年はSOUL BEAT NIPPONと題し国内のアーティストや、伝統芸能、文化などを集約しました。毎日終盤には盆踊りの時間があり、地元の大工仲間が制作してくれる櫓が登場し、初日はスタンダードな民謡、地元の芳泉会が音頭取り。

 二日目は我らタートルアイランドがバンドセットで新しい音頭や民謡のバンド版などを演奏。最終日は震災/原発事故以降に福島出身/在住の音楽家や詩人などを中心に音楽や祭りを通し、福島の今の姿を世界に発信し〝福島〟をポジティブな言葉に変えていこうと立ち上がったPROJECT FUKUSHIMA登場。そこから生まれた福島盆バンドとタートルアイランドの合体が音頭をとる。

 また前祭りとして5月22(日)23(月)24日(火)、豊田大橋下の河川敷に「矢作座」と言う幻の芝居小屋もでき、歌舞伎やライブ、映画上映など本祭りまで毎日催しが開催される。

 5月27〜29日の本祭りにはロックやブルースなど現代音楽から奄美民謡、アイヌ民謡、東北の芸能〝なまはげ太鼓〟や佐渡の鬼太鼓なども出演する。

 音楽以外にも、味噌や醤油作りの体験ができる村や篠笛や太鼓の体験教室もありです。普段イベントなどに参加しない方々にも来場して頂き日本やアジアの音楽や文化、人の力の凄さと可能性を感じてもらいたいです。もっと読む.pdf

盆踊りの再創造を考えたい           (2016.02.19)

 2月8日この記事を書いている今日は旧暦の正月である。自分の仕事柄、世の中のペースとは合わせずに自分の感覚を頼りに1年を過ごしているのだが、最近気づいたのは、そう言った生活スタイルが定着してくると明治から変わった今の西洋歴よりも、元々のアジア全般の暦、旧暦の方が何かとしっくりくるのである。

 昨日豊田スタジアムからJリーグの予定が報告され、その空き日の5月27㈮28㈯29日㈰に、第5回「橋の下世界音楽祭」の開催が決定された。

 この祭りは当初4年周期で特徴を考えていこうと言う事だった。4と言う数字には深い意味はない。アジアの文化や音楽をテーマにしたお祭りと言うことで、メインステージに〝四神〟を描こうと言うことになった。始めた年が辰年で矢作川のほとりを場所に選んだこともあり、水の神の青龍から描き始めた。

 このメインステージに描かれる縦5m横7mの巨大な絵は岡崎在住の日本画家 鈴木聡さんが開催数日前から現場入りし描き下ろしてくれている。青龍に続き白虎、朱雀(鳳凰)、玄武(亀)の絵が4年がかりで描かれた。

 四神とは中国の神話で天の四方を司る霊獣なのだが、ここにはもうひとつ中央を司る麒麟がいる。なので4年でなく5年が節目であり、終わりの年と始まりの年が重なるのだと感じた。

 今年は心機一転、また新たな気持ちで祭りに取り組みたいと思っている。盆踊りを復活、再創造しようと考えている。盆踊りは小さい頃から馴染みの庶民の祭りではあるが、近年ではほとんどが音源はラジカセだ。生演奏でスタンダードな民謡から現代音楽などを音頭調に作り替えたりして演奏したい。

 そして祭りとはいったいなんなんだろうかと考える…もっと読む.pdf

テロも空爆も同じ人殺し           (2015.12.18)

 世界各地でテロが頻繁に起こっている。考えてみると、一昔前テレビや電話、インターネットなど無い時代だったら、まるで関係のない事です。ですが今はネットを開けば世界中の動向や事件、ありとあらゆる情報が入って来る。

 もちろんどれが真実でどれがデマかは厳密に言えば誰にもわからない。また、真実もいくつもあるのが事実だとも思います。そしてまたこの社会の中でなんとなく信じ込まされている常識の中にも、経済至上主義によって創りだされた幻想のような常識が多い、と僕は感じています。

 戦争はビジネス。巧みに利権が絡み合い、一部の資本家達が意図的に起こしている部分があるのではないか、とも感じています。そして2つくらいの国の国防費があれば、世界中の飢餓から子供達を救える額になるというのも事実であろうと思います。

 2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロでは3000人以上の犠牲者を出しました。それをきっかけにアメリカが自ら起こした二つの戦争では7000人近くの米兵を亡くし、現地では空爆などの犠牲者は50万人以上、うち7割が民間人だったと言われています。

 イラクの大量破壊兵器の保有疑惑を理由にアメリカが仕掛けたこの戦争の結果、大量破壊兵器は見つからず、この国は世界一子供たちの死亡率は高くなりました。5歳児の4人にひとりは栄養失調です。反先進国感情は強まり過激派組織の数も増え、中近東は混沌状態でテロは激増。

 今回のフランスのテロでも沢山の尊い命が奪われました。中東ではそれよりも遥か多くの民間人の罪の無い命も西側諸国の攻撃により奪われていますが、報道はほぼされません。殆どの国とメディアはこういう時、敵を創り上げ自国を正当化します。そして国際社会の正義の名の下、作りあげられた敵を殺しに行くのです。

 テロにしろ空爆にしろ、冷静に考えるとどちらも人殺しなのです。人殺しに正義など…もっと読む.pdf

寛容な世の中を創っていこう         (2015.10.16)

善と悪、光と闇、右と左、昼と夜、男と女、賛成と反対、あなたと私。常に相対するモノが同居する表裏一体のこの世の中で、これこそが絶対的に正しいと言える事があるだろうか。

 人は真っ更の状態で産まれますが、産まれた場所や時代、出会う人々とその環境の違いにより、様々な記憶が刻まれ、それぞれ人生はどのようにでもなっていきます。

 前世や何か別の次元から背負ってきているものなんかもあるのかもしれません。そして人は聖者のようにもなれれば、悪魔のようにもなれます。

 戦時中がきっとそうだったように、状況が変われば人は簡単に狂っていく。実質戦争経験者の話しを聞くと皆そう言います。

 自分ひとりを観ていても人間はお腹やお金が減ったくらいで、簡単に人が変わる。それくらいの生き物なんですからなんとなく想像できます。人の思想や常識というもの自体大抵は時代や状況が変われば皆簡単に変わってしまうくらいの「空っぽ」なものだと僕は感じているのです。

 世の中の動き自体が幻想のような得体の知れない亡霊のような、有って無いような現実であり、変わらないのは夕陽が綺麗な事や、海や川、森や山、自然が人を生かしてくれている事や、皆本当は楽しい事が好きな事や、必ず皆いつかは死がやって来るという事くらいでしょう。

 正しいか間違いかは別として、逆の意見や発想を只排除するのではなく、一度自分に取り込み自分の今までの考えがわからなくなるくらいよく混ぜ合わせ、そこから余分なものをそぎ落とす…もっと読む.pdf

音楽祭は「喜捨」で成り立つ         (2015.05.15)

 矢作川の豊田大橋の下で、今年4回目の「橋の下世界音楽祭」を迎えます。忙しくも心を失わない様に気をつけながら、仲間達と準備にあたっています。

 3日間で総勢70組以上のアーティストが出演しますが、今年は日本全国はもとより中国、内モンゴル、インドネシア、スペインバスクなどからも「橋の下」にやってきます。テレビ情報の価値観の人々が多数を占める中、橋の下世界音楽祭には、そんな事情とは一線を画しながらも、民間に足を着け、世界で活動し、そこで認められているアーティストが多数出演します。

 価値というのは不思議なものです。いくら技術があれど感動しないものがあります。時代の変遷に伴う流行り廃れどになびかず、芸術を生活の一部として表現活動し続ける伝統芸能から現代音楽まで、心に魂を籠めたアーティスト達が沢山やってきます。

 そしてこの祭りの胆は、なんといっても入場無料の投げ銭式の会場寄付で運営している事だと自負しております。 なぜ投げ銭か? と言いますと、もちろん多様な人々に垣根無く音楽を楽しんでもらいたいのが一番。でもそれだけでは只の絵空事。何をやるにもお金はかかるわけですが、そのお金の価値もそれぞれの事情によります。この祭りに来て観て感じ楽しみ、それぞれが得たものの対価を自分で決め、自由に好きな金額を投げ入れてもらう。「橋の上」の既存の世界とは真逆のやり方です。 要は「橋の下」音楽祭は企画モノでは無いのです。参加するすべての人が自分で考え、自分で創り上げていくお祭りなのです。

 投げ銭の話ですが、背伸びする必要は無いし、隣りと横目で比べ合う必要も無い。ある人は胸張ってどうだ! と言わんばかりに何万円も突っ込む人もあります。自分の心の対価なので無い人は無いなりに、今日は500円しか出せない、でいいわけです。代わりにゴミ拾って帰るとか、トイレ掃除するとか、片付けを手伝うとか…もっと読む.pdf

人に生業と魂の仕える仕事あり         (2015.02.06)

 2011・3・11大震災の翌年、地元豊田大橋の下の矢作川河川敷にて「橋の下世界音楽祭ソウルビートアジア」なる祭りを音楽仲間達と協力してゼロから創り上げ、今年で4年目を迎えます。

 そもそも震災で大きく揺れ萎んだ心にもう一度火を灯し、何が起ころうとたくましく生きのびてゆくため魂の手入れのようなお祭りをやろう! よし! やるならここアジアの土着音楽や文化を集めよう! 自分らがどういう民族なのか、それがわかる伝統音楽から現代音楽までとびっきりなモノを集めよう! 

 そんな思いで始めたのですが、これまたお金もなければコネも無い、あるのはやる気と仲間とイメージ。

 僕は中学生の頃パンクロックと言う音楽と出会い、その激しくて優しくタフでシンプルな音楽性と精神性に衝撃と影響を受けました。社会一般的にはあまり理解されるような音楽ではありませんが、それでもその中から様々な事を学び繋がり、当時唯一自発的に考え行動し、唯一人生の中で継続しているのが、ここから始まった音楽に関わる事で今に至ります。

 「好きな事やって貧乏は当たり前だ!」と、親父が良く言っていましたが、そりゃそうだと思いました。でもそれを貧しいととるか豊かだととるかも自分次第だとも思います。

 もちろん好きに生きるにはその為にやらなければならない事が沢山あります。会社などから与えられたミッションをこなしても必ずしも安定したお金がもらえるわけではない。保証も無くすべて自分で考え自分で進み、身ひとつが頼りの大博打のようなもので、はっきり言ってとても楽だとは思いません。

 人には生きて行く為にしなければならない生業の仕事と、もうひとつ人として宿した魂の仕える仕事のようなものがきっとあり、大なり小なり役割がそれぞれにあるようにもっと読む.pdf

鈴木章さん.jpg鈴木 章
すずき・あきら、1964年生まれ。豊田市足助町在住、(有)げたげん代表取締役。豊田西高卒・愛知大中退。元足助町議、現豊田市議。元県商工青年部連合会長・足助小PTA会長。母・妻・2女。

足助八幡宮「足腰の健康」霊験あり     (2017.04.14)

 足助地区はお祭りやイベントの多い町ですね、と近隣のみなさんからよく言われます。足助のまちづくりを象徴するような『古くて新しい神事』が軌道に乗り始めました。

 健脚を願う『足健康祭』(足まつり)が3月19日、足助八幡宮で挙行され、足助八幡宮の氏子が作成した長さ約百六十センチ、幅約七十五センチの『大草履神輿』が奉納されました。

 『足を助ける』とかいて『あすけ』。南北朝時代(14世紀)に記された『足助八幡宮縁起』には病気平癒の霊験(れいげん)があり、その中に足腰の治癒に関する事が記されています。

 例えば、足を痛めた佐渡島の旅人を社人が手当てをしていたところに八幡大神が出現し、数珠にカラスの羽を添えて患部をなでたところ、たちまちにして足が治り、立つことが出来たとあります。

 足助八幡宮は創建以来武運長久・家内安全・病気平癒のみならず、足腰の健康・災難除け・交通安全などの御神徳顕著なる神社として、篤く信仰されています。

 第1回『足健康祭』の昨年はラグビー選手などをお招きして神事が行われたのみでしたが、今年は気運が高まり、氏子総代・自治会長・宮係のみなさんが協力して大草履を作成して神輿に載せ、町内約4キロを練り歩く計画を立てました。

 行列は足助中学校2年生が先導して『足健康御祭』(あしけんこうおんさい)の掛け声とともに、足助高校生が神輿の担ぎ手となり、計画段階では60人程度の隊列が予想されていましたが、地元の皆さんや子どもたちも参加することとなり、足助八幡宮に到着する頃には二百人を超える大行列となり、足助人のお祭り好きが感じられる若さ溢れる行列となりました。

 大草履神輿の奉納後には、健脚を祈願する『草履祓』(ぞうりばらい)が行われもっと読む.pdf

香嵐渓が女性週刊誌2位に     (2017.02.17)

 豊田市の代表的な観光地のひとつである香嵐渓のもみじまつり実行委員会がこのほど開催され「第61回もみじまつり」の概要が報告されました。今回は、実行委員会の報告から読取れる「香嵐渓の現状と可能性」と「豊田市の観光に取組むべくの方向性」について考察しました。

 第61回もみじまつり期間中(平成28年11月1日~30日)の入込客は概ね31万人余でした。近年で入込客が多かった平成24年の41万人余と比較すると、わずか4年間で約10万人が減少するという驚きの数字です。

 また、紅葉の最盛期に香嵐渓の名所のひとつである香嵐橋のつり橋敷板が破損して通行止めとなってしまったことや、園地内で切り株が参道に落下して観光客が負傷するという事故も発生しました。このことは、今後の香嵐渓運営への大きな課題が露呈したことを示しています。

 入込客減少の大きな要因は、観光バスの入込が24年の2916台から1847台と千台以上も減少していることに起因します。原因は、大型バスの相次ぐ事故などにより観光バス運行での法律改正があり、バス代金の大幅値上げや運転手の労働時間短縮により、バスツアーが減少し、特に関東方面からの観光バス減少が顕著になっています。

 園地内の事故については、施設改修が遅れ遅れになっている豊田市としての観光地整備の位置づけが低く置かれている現状を疑問に感じます。

 また、インターネットなどSNSの普及により、紅葉の最盛期だけに観光客が集中する現象も大きな要因となっています。 反面、香嵐渓の将来性の高さを大きく示す報告もありました。

 日本政府が取組んでいる観光立国への成果として、外国人観光客が増え続けている近年は、香嵐渓にも多くの外国人が訪れるようになっています。昨年からの新企画「竹灯りの香積寺」の舞台となった香積寺では、お賽銭の中に「22か国もの外国コイン」が納められていました。このことは、香嵐渓が世界中の観光客からも評価され「訪れたい観光地」として定着していることを表しています。

 また、有名な女性週刊誌の紅葉特集「死ぬまでにみたい〈絶景紅葉〉十景」の第2位に香嵐渓が選ばれもっと読む.pdf

人口減少対策は福祉基盤充実で      (2016.12.02)

 豊田市役所足助支所の玄関を入り市民生活担当の前まで行くと、現在の足助地区の人口が表示されています。10月1日現在の人口は8089人となっており、いよいよ8000人台を割り込む日も近づいてきたことを痛感します。

 合併当時(平成17年4月1日)足助地区には9661人が住んでいました。合併後11年6ヶ月の年月を経て1572人の減少、率にして16・3%の人口減となっていることは毎年100人以上の人口減少が続いており、過疎化に歯止めがかかっていない状況を表しています。

 このことは、足助に限らず藤岡地区を除く旧町村すべてにあてはまります。合併当時の小原・足助・下山・旭・稲武の5地区を合わせた人口は2万6248人でした。今年の10月1日現在では2万1852人となっており、実に約17・7%の減少です。

 特に減少率が大きいのは稲武地区の約24%、旭地区の約20%で、稲武では人口の4人に1人、旭では5人に1人が居なくなってしまったことになります。

 しかしながら、ここで注目したいことは、人口の推移と相関関係にあると思われる世帯数の推移が、人口推移とは違う値を示していることです。 合併当時の5地区での世帯数は7985世帯、10月1日 現在では 8190世帯と減少どころか、維持されているだけでなく約2・5%も増加していることに驚かされます。

 さすがに人口減少率の大きい稲武地区では世帯数も約8%減少していますが、数値として比較すれば人口減の3分の1に留まっています。旭地区では世帯数は横ばいで維持され、小原・足助・下山地区では増加傾向にあります。

 この数値を分析すると、世帯数が維持あるいは増加している要因としては、ひとつは定住対策の効果による新たな世帯の増加があります。もう一つの要因としてはもっと読む.pdf

足助獣肉活用施設の経営を思う        (2016.09.16)

 昨年10月9日のリレーエッセイに寄稿した「足助獣肉活用施設」が、今年1月10日の稼働開始から約8ヶ月が経過し、運営状況が明らかになってきました。その施設の運営主体は、中山間地で獣肉活用に意欲を燃やす有志で設立された「株式会社山恵」(小澤庄一社長)であります。

 施設規模は、敷地面積1050㎡に鉄骨平屋建て80㎡。建設資金は総額約5千3百万円余で、その内訳は国費840万円余・市費2720万円余・自己資金1830万円余でした。処理対象獣類はイノシシとニホンシカで、年間350頭を処理する予定です。

 しかし、実際に稼働が始まると地元のニーズは想定以上に大きく、1月10日のオープンから8月末現在での搬入個体数はイノシシ355頭、シカ26頭、計381頭となり、既に年間予定数を上回っています。特に猟期(11月15日~3月15日)以外の駆除期の搬入が予想以上に多く、今年も3ヶ月を残してさらに多くの捕獲・搬入が想定されます。年間処理数は当初の予定を大きく上回り500~600頭になると思われます。

 想定以上の稼働実績を上げていることは、獣害対策に大きく貢献することであり喜ばしいことですが、処理頭数が多いことで、施設面・運営面で新たな問題も起こってきました。 想定以上の処理数のため、既に解体された「生肉」の保管冷凍庫が不足する状況になりつつあります。また、冬季の生肉と比べると肉質(味・風味・食感など)が劣る夏季のイノシシ搬入頭数が予想以上に多いことから、駆除期の生肉への対応も迫られています。

 この原因は建設・運営をこれまで指導してきた豊田市農政課の状況把握の甘さにあり、施策の失敗を恐れた「消極的対応」にあったのではなかったか、と私は…もっと読む.pdf

ラグビーワールドカップ2019の課題        (2016.07.15)

 4年に一度のラグビー世界一を決めるラグビーワールドカップが2019年に日本で開催されます。豊田市では大会開催に向けた招致活動を行い試合開催会場のひとつに豊田スタジアムが選ばれました。

 6月18日には、ラグビー日本代表の国際親善試合として、昨年のラグビーワールドカップロンドン大会で対戦し惜敗したスコットランド代表チームとの対戦が豊田スタジアムで行われました。試合は、先制されたスコットランドチームに対してトライにより途中には日本代表が逆転する場面もありましたが、結果は13対26で残念ながらロンドン大会のリベンジを果たすことはできませんでした。

 この試合には、より多くの観客を動員するために、「ラグビーワールドカップ2019 愛知・豊田開催支援委員会」では、2019年日本大会の機運醸成につなげるため、試合の告知や集客への取組等を通じて、官民一体となった活動が展開され、結果として24113人が観戦に訪れました。

 私自身チケットを購入してスタンドで声援を送り、多くの観客動員が成されたと感じました。

 しかしながら、6月3日に豊田スタジアムで開催されたサッカー日本代表対ブルガリア戦は、チケット発売と同時に完売してしまうほどの人気で、当日の観客動員は41940人とまさに超満員の盛況でした。

 この観客動員の違いは、サッカー人気とラグビー人気との違いであると一口に言ってしまえばそれまでですが、ラグビーワールドカップ2019を誘致した豊田市としては大会成功に向けて、さらなる機運醸成と大会での重要カード誘致が大きな課題です。

 現在、豊田市ではラグビーワールドカップ2019に向けて、地域の「観光力」を強化するために、豊田市観光協会の再編と進化を模索しています。

 これまでのおいでんまつりを中心としたイベント消化型の観光協会機能にもっと読む.pdf

税制等で毎年220億円減収へ        (2016.04.08)

 平成28年度豊田市の一般会計当初予算は1859億円が計上され、昨年比72億円増(4%増)の過去最高額の当初予算となりました。

 この数字だけを見れば、リーマンショック(平成20年)の影響による税収減の厳しい状況を克服して立ち直り、円安や景気回復による企業業績の上昇に後押しされて、「順風満帆な市政運営」を推進する条件が整ったかに感じられます。

 しかし、国では豊田市のように、歳入の構造として法人市民税の割合の高い市町村に対する『偏在性』を解消するため、「消費税率8%及び10%段階において、地域間の税源の偏在性を是正する方針です。財政力格差の縮小を図るため、法人住民税法人税割の税率引下げに併せて、地方法人税(国税)の創設及び税率引上げを行います。その税収全額を地方交付税原資化」することを、26年度税制改正、28年度税制改正で決定しました。

 この税制改正による豊田市歳入への影響は今年度から始まります。28年度予算では、法人市民税率12・3%から9・7%への引下げの影響で約81億円減、法人税率25・5%から23・9%への引下げの影響で約26億円減です。消費税5%から8%への引上げに伴う地方消費税交付金の増加分約33億円を加えても約74億円の減収となりました。

 この減収幅は、28年度税制改正が適用される平成30年度からはさらに拡大して、「法人市民税率 9・7%から6・0%への引下げの影響が約116億円、法人税率23・9%から23・2%への引下げの影響が約6億円で、消費税8%から10%への引上げに伴う地方消費税交付金の増加分など約38億円の増収分を加えても「約84億円の減収」です。26年・28年度税制改正分を合わせると、豊田市の税収は毎年158億円減らされてしまうことになります。

 更なる減収要因として…もっと読む.pdf

太田市長は行政マンから政治家へ        (2016.02.26)

 先日行われた豊田市長選挙は、大方の予想どおり、現職候補の太田稔彦市長が、対立した田中勝美候補を大差で破り、2選を果たしました。

 この結果を市民はどのように感じたのでしょうか。投票率は47・76%、この数字を高いと評価するか、低いと考えるかは、様々なとらえ方があると思います。

 客観的な数値で表現すれば、今回の投票率は、豊田市(挙母市時代を含む)の市長選挙歴代投票率では、選挙戦の行われた17回中の13番目、平成に入ってからでは、6回中の2番目であり、今回の候補者の組み合わせから考えればまずまず評価できる投票率だったと思います。

 得票数では、もっと明確です。太田選対の目標として掲げた13万票を超える132611票という数字は、人口の違いこそあれ、豊田市の市長選挙史上の最高得票であり、有効投票数に占める87%余の獲得数は、評価以上に市民の太田市政に対する期待の高さを表していると思います。

 特に、前々回(平成20年)選挙で、2万8千余票あった対立候補の得票を大きく減らし2万票に届かない数字に抑えたことは、ある意味完勝であったと評価されてもよいと感じます。

 さて、多くの市民からは、戦う前から勝敗が決まっている選挙を行うことの必要性について〝疑問の声〟があったことも事実であり、「選挙そのものの評価」もしなければなりません。前回選挙(平成24年)の太田候補は、初陣でありながら「無投票当選」が決まり、事実上選挙の洗礼を受けないうちに、1期目の市政運営に着手しました。 このことが4年間の市政運営にどのような影響を与えたかを検証することは難しいと思います。しかしながら、今回は7日間の選挙を過酷な日程で戦い抜いたことで、太田市長自身が、これまで見えなかった〝何か〟にもっと読む.pdf

香嵐渓のもみじ 樹齢百年の老木        (2015.12.11)

 足助の秋の風物詩である第60回「香嵐渓もみじまつり」が盛会のうちに終了しました。しかし、期間中のもみじの色合いは11月上中旬の温かさの影響で、鮮やかというには今一つといった状況でした。11月下旬になってようやく寒波が訪れ、12月に入ってから香嵐渓らしい紅葉になりました。

 自然が織りなす気温の変化は誰にもコントロールすることはできません。

 香嵐渓のもみじの歴史は、今から約380年前に遡り、香積寺11世の三栄(参栄)和尚が、江戸時代の寛永11年(1634)に植えたのがはじまりといわれています。

 三栄和尚は、美しい自然をより美しくとの願いをこめて、巴川沿いの参道から香積寺まで、楓、杉などを、般若心経を1巻詠むごとに、1本1本植えたと伝えられています。

 その後、大正から昭和の始めに足助住民のボランティアにより大補植が施され、ほぼ現在の景観の基礎となりました。

 第1回香嵐渓もみじまつりが開催されたのは昭和25年のことで、約30年も前から次の時代を見据えて町のシンボルを創り上げた先人たちの努力は「足助まちづくりの根幹」と言えます。

 以来、天皇崩御・伊勢湾台風などによる5回の中止をはさみながら、今年は遂に60回の記念イベントとなりました。

 しかしながら、大正年間に植えられたもみじは、既に百年を超える老木となりました。樹勢の衰えた木々や、苔むした枯れ枝のある木が目立つようになってきました。

 豊田市では平成19年度に、愛知県樹木医会による「飯盛山樹木調査診断」が行われ、飯盛山全山のすべての樹木が診断され、調査結果が報告されました。その結果、景観を保つために一部の大木となり過ぎた杉の木の伐採が行われましたが、飯盛山のもみじを若返らせる抜本的な楓の植え替えなどは「手つかずのまま」となりました。 平成20年に起こったリーマンショックで、豊田市財政が大幅な収入減に陥ってからは、計画自体が…もっと読む.pdf

足助獣肉処理施設への期待は大きい        (2015.10.09)

 中山間地の資源を有効に活用することを目的とした仮称「足助獣肉処理施設」の地鎮祭が、予定より約1年遅れで、8月24日に執り行われました。

 施設は鉄筋平屋建て約80㎡、総工費約5千万円です。国の6次産業化ネットワーク補助金及び豊田市補助金を活用し、施工管理以外の備品を除き8割補助で建設されます。民設民営です。

 工期は約4か月を見込み、年明けの1~2月にはオープン予定です。この獣肉処理施設への地元の期待は大きく、事業目的の「中山間地での新産業の創出・6次産業化の推進」に貢献するものです。

 それと同時に、中山間地農業の最大の問題は「獣害による度重なる農作物被害で耕作意欲が喪失」してしまうことです。長年の耕作をあきらめてしまう、いわゆる耕作放棄地の増加に歯止めをかけ、もう一度耕作意欲向上のきっかけを創出しなければなりません。

 豊田市の鳥獣類による農作物被害の状況は、金額ベースで平成22年1億7千万円余がピークでした。一旦は1億円を下回るまでに減少しましたが、24年頃から再び増加傾向が顕著となり、昨年(26年)の調査ではピーク時に迫る被害となりつつあります。

 鳥類・獣類別では、約6割以上を獣類が占めています。獣類による農作物被害の8割近くがイノシシによるものです。 足助地区小手ノ沢町では、収穫直前になって耕作者13軒中7軒でイノシシの水田侵入被害があり、今年の収穫は諦めざるを得ない深刻な事態です。自治会長から相談をいただき市農政課とも協議しましたが、今年度予算の対処は難しいと言うことで、寂しい秋を迎えることとなりました。

 また、近年はイノシシによる被害以上に「二ホンシカ」による被害が増加傾向です。下山地区では被害金額が26年は前年に比べ約3・7倍となりました。全国的にも増加の一途を辿っており、今後の適切な対応が急がれています。

 そのような状況下で建設される仮称「足助獣肉処理施設」は…もっと読む.pdf

柔軟な企画力が問われる一年           (2015.07.31)

豊田市の中山間地域では、今年度(平成27年度)が将来の田舎の方向性を決定する重要な「計画年度」となっています。

 計画内容は2つあります。ひとつは、太田市長の号令の下、合併後初めて中山間地に特化して作成される仮称「おいでんさんそんプラン」です。

 もう一つは、平成18年の策定以来2度目となる過疎地域に指定されている足助・旭・小原・稲武地区に適用される「豊田市過疎地域自立促進計画」の策定であります。

 いずれも、今後の中山間地域振興・人口維持に向けた基本戦略となる重要な計画です。

 今回の計画年度に向けた取組として足助支所(松永浩行支所長)では、計画策定への基本的な数値を定めるべく、平成26年度地域提案事業予算を活用して、足助地域会議(渡辺正之会長)の取組として「足助地域づくり方針策定のための基礎調査報告書」をまとめ、このほど発表しました。

 この報告書では、足助地区の将来人口を平成22年から5年ごとに平成42年までの20年間の推移で予測しています。 数値は、足助地区15自治区及び、自治区を構成する76自治会単位で集計された綿密なものです。

 足助地区全体では平成22年の人口を100した場合、42年では76・7%と大きく減少すると予測していますが、自治区・自治会別の集計を見ると、人口推移の傾向が大きく3つのパターンに分類されることが解りました。

 これは、昨年10月の本紙リレーエッセイに寄稿した過去20年間の推移及び傾向とほとんど合致しております。今後20年間についても足助15自治区は…もっと読む.pdf

45議席のうち31%が新人議員           (2015.07.24)

今年4月に行われた『豊田市議会議員選挙』では、定数が前回より1議席減の45議席を争う激しい選挙戦が展開されました。私自身、地域のみなさまの温かいご支援をいただき、身に余る得票を与えていただき、4回目の当選を果たすことができました。

 今回の選挙の特徴は勇退された方が多かったこともあり、当選の45議席中14議席(31%)を新人議員が占め、「世代交代」を印象付ける選挙でもあります。

 私の所属する自民クラブ議員団でも28議席中8議席が入れ替わりました。先日閉会した6月定例会では、新人の皆さんが初めての議会に戸惑いながらも真剣に取り組む姿勢が見受けられました。

 私が議会に初当選したのは、足助町議会では39歳、豊田市議会では41歳で、最も若い議員として活動していました。特に自民クラブでは、2期・3期と期数が上がっても初当選されてくる新人は年上の議員さんであり、最も年下の時代が同僚の太田議員とともに10年間続きました。

 今回の選挙でうれしかった事のひとつとして、4期目にして遂に正真正銘の「年下後輩」議員が誕生したことです。このことは私に真の後輩議員ができたということだけでなく、会派自体が若手の新人議員を得ることによって、ようやく若返る方向に動き出したことです。

 議会は、ある一定の年齢層・期別・思想だけでは、豊田市のさまざまな課題に柔軟な考え方を持って弾力性のある判断を下すことはできません。年齢・期別ともに幅広い議員構成で、あらゆる角度から議論される組織であることが望まれると思います。

 そういった意味では、今回の世代交代には大きな意義がありますし、自民クラブにおいても30・40歳代議員が加わったことは会派の機動力をさらに強化させる原動力になると思います。

 私には、真の年下後輩議員が3名できました。5月臨時議会から6月定例会までの彼らの活動に助言をしながら眺めていますと…もっと読む.pdf

旧6町村振興の大きな資金源            (2015.04.24) 

 平成27年4月1日、豊田市は周辺6町村との平成の大合併から10年の節目を迎えました。

 この10年間を振り返り市民、そして『10年前に豊田市民』になった皆さんは『合併後の豊田市』をどのように評価しているのでしょうか。きっと、市民一人一人がさまざまな評価をされ、いろいろな感想を持っておられることと思います。

 私自身は、合併後の多くの場面に遭遇して、良かったところ・悪かったところ・今後改善が求められるところ・都市と中山間地の違いを認め合うことで別制度を創るべきところなど、さまざまですが、まだ答えを出すべき時点ではなく『合併して良かったと思われる豊田市への通過点』だと思っています。

 さて、合併と共に旧6町村は広大な面積の新豊田市となり、地図上では消滅し、すべてが歴史と人々の記憶の中に行ってしまったのでしょうか。答えは『NO』です。

 市町村合併を推進してきた合併特例法では、税制上で一定期間これまでの市町村がすべて存在するものとして、地方交付税を交付し続けています。つまり法律上では旧6町村(藤岡町・小原村・足助町・下山村・旭町・稲武町)は現在でも存在し続けているのです。

 これは、合併特例法での『合併算定替』という制度で、合併後の市町村の状態で算定した地方交付税額が合併前の市町村それぞれ別々に存在するものとみなして算定した交付税額の合算額を下回らないように算定する特例制度です。

 この制度を豊田市に当てはめますと、平成17年から32年までの16年間は、旧6町村を存在するものとみなして地方交付税を算定して豊田市に交付し続けるというものです。正確には、平成17年から27年までの11年間は…もっと読む.pdf

小規模特任校に地域の未来あり            (2015.02.13)

 文部科学省は1月19日の中央教育審議会(文科相の諮問機関)分科会に、児童生徒数の少ない公立小中学校の統合を議論するため、自治体向け「手引き」を提示しました。異なる学年が同じ教室で学ぶ「複式学級」を編成している小規模校などを取り上げ、統合を検討するよう要請するとしています。
 文科省が学校統合に関し手引きを示すのは1957年以来60年ぶりと言われています。
 手引きは学校規模ごとに対応方針を示し、複式学級のある学校全体で1~5クラスの小学校と1~2クラスの中学校について、体育など集団学習に制約が出るため「教育上の課題が極めて大きい」と指摘。周辺校と統合することで⑴児童生徒の学習意欲の向上、⑵男女比の偏りの解消といった効果が得られるとしています。
 現在、豊田市には75校の小学校と27校の中学校がありますが、複式学級を採用しているのは18小学校で、中学校ではありません。
 豊田市における小学校の統廃合では、合併以来石野地区の藤沢小学校が東広瀬小学校に、旭地区の築羽小学校が敷島小学校に統合されました。
 その後の統廃合に向けた取り組みは、最も複式学級校が多い足助地区を中心に検討されてきましたが、0~4歳児の人口が維持あるいは増加に転じている小学校区が増えていることなどを考慮して、現在では小学校を維持していく方向で協議は凍結しています。
 特に希望児童が学校区を超えて山間小規模校に入学できる「小規模特認校制度」が導入され、平成21年にモデル2校で実施され、現在は7校で実施されています。当初1人の利用から始まり、年々増加して26年度には26人が利用しています。
 特に利用する児童が多い則定小学校では地元の児童数も増加する結果となり…もっと読む.pdf

山村定住希望増えたが宅地がない!            (2014.11.21)

足助地区の出生数減少に歯止めがかかりつつあること、そして地元自治区での対応策が功を奏していることなどを、このエッセー欄で書いてきました。

 合併以来取組まれてきた豊田市の定住政策や、田舎に住むことの魅力が評価されて『豊田市の中山間地(田舎)』に定住を希望する家族は年々増加傾向にあります。そのように市役所地域支援課や足助支所から報告を受けています。
ような実態が全国的な傾向であることも、平成26年6月の『内閣府農山漁村に関する世論調査』で明らかになりました。

 『都市住民の農山漁村地域への定住願望の有無』という項目では、自分の居住地域について「都市地域」「どちらかというと都市地域」と答えた者に、農山漁村地域に定住してみたいという願望があるか聞いたところ「ある」とする者の割合が31・6%となっており、前回の調査結果(平成17年11月)と比較して見ると、「ある」(20・6%→31・6%)とする者の割合が上昇し、「ない」とする者の割合が低下しているとの調査結果が出ています。

 この調査結果を豊田市に当てはめると、平成17年の合併直後から現在に至る過程で、中山間地への定住希望者は上昇傾向にあることが示されており、実際の『豊田市中山間地定住希望者の統計』を調べても登録世帯数は177件と年々増加傾向にあります。

 特に30代40代の子育て世帯の定住希望者の割合が約53%と半数以上を占めており、過疎解消の定住施策として希望が持てます。

 足助地区では、平成22年から25年までの4年間に43世帯115人の定住実績があります。20代から40代の世帯主は33人と実に約77%が子育て世帯という状況にあります。さらには、足助支所での足助地区への定住希望者からの相談者は年間100件程度と確実に増加しています。

 しかしながら、定住希望者を受け入れる『宅地・貸家・空き家』が不足しているのが…もっと読む.pdf

国会で「古橋源六郎暉皃」を紹介            (2014.11.14)

去る9月29日、第187国会で安倍総理の所信表明演説があり、その中で今の豊田市稲武地区生まれの郷土の偉人、古橋源六郎暉皃(1813〜1892)が紹介されました。
 古橋家の6代目だった古橋源六郎(のちの暉皃)は当時村の名主代行、農業指導者でした。未曾有の飢饉、百姓一揆、経済危機の中で村の繁栄を願い、植林、養蚕、茶の栽培、子弟の教育に尽力しました。

 時代を先取りした発想で村々の経済危機に対処した古橋源六郎暉皃の情熱が総理の国会演説で語られたのですが、国会で演説を聴いた八木代議士にも、地元の太田市長にも事前のリークはなかったようです。豊田市では市のホームページに『豊田の偉人古橋源六郎暉皃』を総理演説直後に配信し、対応しました。

 そのような事情の直後の去る10月17日、古橋源六郎暉皃が『悟りを開いた』と云われる足助地区伊勢神峠の『伊勢神宮遥拝所』において、今年の遥拝所御祭典が開催されました。

 伊勢神宮遥拝所は、江戸時代以前から三河と信州を結ぶ飯田街道(塩の道)の交通の難所であった伊勢神峠にあり、標高780メートルに位置します。多くの中馬や善光寺への参拝者がこの峠を往来しました。古くは石神峠、石亀峠などと呼ばれていましたが、文久4年(1864年)に古橋家の6代当主であった古橋源六郎暉皃によって伊勢神宮遥拝所が峠に設けられ、伊勢神峠と改められたといわれています。

 現在の交通は1897年(明治30年)に標高705メートルの位置に伊世賀美隧道(トンネル)が、1960年(昭和35年)には標高640メートルの位置に国道153号の伊勢神トンネルが開通しています。また、一昨年より『新伊勢神トンネル』建設が事業化され…もっと読む.pdf

過疎対策のカギは豊田市内にあり            (2014.08.22)

足助地区では全体人口が減少しているにもかかわらず『子どもの人口は増えている』という事実──。

 過疎化の進行は止めることができないと思い込んでいた足助の住民に『驚き』とともに『大きな希望』を与えています。

 前回寄稿した新盛自治区の取組の中で、東加茂郡足助町時代に作成された『足助町地域づくり計画』が大きな効果をあげているという報告がありました。それを受け、足助支所地域振興グループ(松永浩行支所長)では、足助町地域づくり計画を検証することから実態調査に取り掛かりました。

 同計画は、足助町時代の74自治区(現在は合併で集約されて15自治区)全ての平成5年から平成15年までの人口推移と地域の取組、10年後(平成25年)に向けた地域活性化計画をまとめ上げた膨大な資料です。この計画の作成にあたったのは、地域住民だけではありませんでした。当時の足助町役場職員が担当ごとに地域に入り込み策定しています。 平成5年の足助地区人口は10、630人、まだまだ足助に1万人以上の皆さんが住んでいた時代です。合併後の平成18年には9、587人、現在(平成26年7月)では8、504人と2千人以上も減少してしまいました。

 この事実だけを捉えれば『足助地区の過疎化は止められない』と、誰もが悲観的に考えてしまいます。 しかしながら、足助支所地域振興グループでは、データを検証する過程で、足助町時代の74自治区(現在は自治会)の中で約20地区の人口が平成5年から平成26年7月までの20年以上にわたって『人口維持が成されている』という実態を…もっと読む.pdf

過疎・少子化解決のカギに?            (2014.05.30)

今年は、平成の大合併により7市町村による『新豊田市』が誕生してからちょうど10年目の節目となります。太田市政でも今年度の重要なテーマと位置づけ『合併10年の成果を検証』することとしています。

 合併以前から藤岡を除く旧町村地域では『過疎化と少子高齢化』が深刻な問題として取り上げられてきましたが、過疎化の進行は未だに中山間地域では止まる気配を見せていません。このことも大きな問題ですが、それ以上に今後の豊田市に大きな影響を与えると考えられるのは、豊田市全域に蔓延してきた『少子高齢化の進行』です。

 総務省では今年も5月4日付で『我が国のこどもの数』が発表されましたが、それによれば日本の子供(0歳~14歳)の数は2014年4月1日時点で1633万人であることが明らかにされました。これは去年と比べ16
万人の減少で、昭和57年から33年連続の減少。子供の総人口に占める比率は12・
8%。統計記録のある中では、過去最低値です。

 豊田市全域では、この10年で総人口は約1・7%増加していますが、将来の地域を担う『0歳~4歳』の人口は約4・8%の減少となっており、大規模な開発により人口増加した浄水地域を含む猿投地区を除き、都市部といわれる『挙母・高橋・高岡・上郷地区』でも0歳~4歳人口は約10%も減少しています。以前、新興住宅地といわれた藤岡地区においても約16%と大幅にこどもの数が減ってきています。

 このことはまだあまり知られていませんが、今後の豊田市にとっては大きな社会問題に発展する可能性を秘めています。

 また、中山間地域においては、下山で約14%、稲武では約25%、旭ではなんと約27%も0歳~4歳人口が減少しており深刻の度合いが増しています。

 しかし、ここで注目したいのは、足助と小原地区の状況です。総人口では足助で約9・2%、小原では約10・3%と大きく減少していますが、0歳~4歳人口は足助が約6%の増加…もっと読む.pdf

頭の毛の黒いイノシシたちよ            (2014.03.14)

足助地区内の明和自治区・五反田町、明川町の山林を横断する「林道明和2号線竣工式」が開催され、来賓として出席しました。

 竣工式開会前に、前夜からの雪が残る明和2号線を視察しました。五反田町と明川町の尾根境を縫うように設置された、幅員4mの舗装道路で、路肩の草刈などは地元の皆さんがしっかりと管理されていました。


 式典では、足助町時代から要望活動を続け、13年という歳月をかけて漸く辿り着いた完成の喜びと苦労話が披露されました。

 式典後の懇親会では、さらに森林を地域で守ることへの厳しさがうかがえる話を聞くことができました。

 林道の開通、整備ということは、木材価格の低迷が続いている昨今ではありますが、将来の宝となる森林資源の手入れが容易にできる環境を整えるということです。材価が正常価格に回復するであろう将来を見据え、価値の高い森林を育てられることは地域にとってまさに有益です。

 しかしながら、林道が整備されることは裏返すと、誰でも容易に森林に入ることが可能となり、招かざる者たちも林野にさまざまな価値を求めて侵入する機会を与えてしまいます。

 獣害が大きな問題となっている山里では、イノシシやシカなどが耕作地の農作物を荒らし、さらに山の幸であるタケノコや自然薯などへも被害を及ぼしますが、地元の人々がそれ以上に恐れているのは、通称「頭の毛の黒いイノシシ」と呼ばれる都会からの不法侵入者だそうです。

 「頭の毛の黒いイノシシ」は、林野には所有者があり、山に自生する山菜や立木はすべて地主の持ち物であることを知ってか知らずか、平気で山に入り込み…もっと読む.pdf

父の亡くなった年齢を超えて          (2014.01.01)

私の父親は私が中学2年の冬、今から35年前に他界しました。49歳と半年の人生でありました。

 昔気質の『寡黙で真面目で派手を好まず、他人には常に優しく接する人』でした。子どものころの記憶ですので、いつの間にか私の中で美化されているのかもしれませんが、ただ、亡くなってからこれまでお会いした方々から父の悪口を聞かされたり、良くない噂が耳に入ったりしたことは一度もありません。

 かくいう私も、今年49歳に到達し、10月には父が亡くなった年齢に追いつき、すでに2か月が経過しました。

 4月に49歳を迎えてから、父の亡くなった年齢を超えることに思いを巡らすようになりました。

 当時、すい臓がんを患った父は、本人には病名すら伝えられることなく、医者からは母にのみ手術すらできぬ末期の状態であることが知らされ、病状は次第に悪化していきました.…もっと読む.pdf

中山間地は後期高齢化率が上昇   (2013.10.11)

 豊田市内の中山間地域の少子高齢化が深刻な問題となっています。平成25年8月1日現在の統計では、豊田市全域の平均年齢は40・84歳、私の住む足助地区では遂に50歳を飛び越えて51・31歳となりました。さらに高齢化の進んでいる『旭・稲武地区』では平均年齢でも55歳を超えてきました。

 高齢化率は、豊田市全域の18・81%に対して足助地区では34・07%となっています。この数字を見ただけでも深刻さが伝わってきますが、もっと問題となるのは、普段はあまり語られることのない75歳以上の高齢化率いわゆる『後期高齢化率』です。

 この数字を市内全体で当てはめれば、わずか7・64%ですが、足助地区では3倍近い21・29%に跳ね上がります。一人住まいの高齢者の多い田舎では80代のお年寄りが限られた交通手段を何とか利用して、毎日の生活必需品を買い求めようとしておられますが、不便さが日増しに増大している実態がこの数字を見ただけでも容易に想像がつきます。

 この問題に立ち向かっている奥村岳宏さんから次のようなメッセージをいただきました。

 ──足助地区も他の山村地域と同様に、少子高齢化が進んでいます。お年寄りだけの世帯も増え、公共交通機関が衰退してしまった現状では、日々の買い物にも不便を感じておられる方々も多いことでしょう。

 そんな中、各自治会さんのご理解とご協力をいただきながら、昨秋には足助商工会と足助商店街が協力して、東・北部地区を中心に「買物支援運動」がテスト的に行われました。そして、この3月からは西部地区限定でトヨタ生協さんと協力して、毎週土曜日に食料品、雑貨品などを移動販売しています。過疎化が進む足助地区において、少しでも住民の皆さんの不便を解消したいとの思いから、この運動は始まりました。

 実際に移動販売で各地区を回った商店街の人たちに話を聞くと、「ありがとう。本当に助かるよ」という声がうれしくて、がんばろうという気持ちが湧きあがってくると口を揃えていました。この10月からは…もっと読む.pdf

バスに灯油タンクが持ち込まれ          (2013.07.12)

全国的に消防法改正による『ガソリンスタンドの2013年問題』が大きな話題となっています。

 全国の市町村でガソリンスタンドの数が3か所以下で、『ガソリンスタンドの過疎地』とされる地域は257市町村に上り、愛知県内でも3町村が対象で、需要の減少を背景にガソリンスタンドの閉店が一段と進んでいる。そういう報道がありました。

 この報道は、合併後の数値なので豊田市は『ガソリンスタンドの過疎地』には含まれませんが、旧町村というエリアで考えれば事態は深刻です。ガソリンスタンドの数は、旧6町村のうち『旭地区1か所・稲武地区2か所・小原地区2か所・下山地区3か所』であり、まさに旧4町村が『ガソリンスタンドの過疎地』であると言えます。

 実は昨年までに、足助地区で2軒・旭地区で1軒が、今回の法改正による影響で廃業を余儀なくされました。足助地区で廃業された業者さんからは、いろいろ相談も受けましたが、結果として何もお手伝いできずに、2軒のガソリンスタンドは取り壊され、その跡地は、未だに更地のままになっています。

 2軒から1軒に半減した旭地区で、昨年暮れに、業界関係者から、こんなお話を伺いました。

 1店舗が閉店して間もないころ、少しの期間、灯油の配達が行き届かない地域がありました。そこで、ひとりのお婆さんが灯油入りのポリタンクを持ち込んで、おいでんバスに乗車しようとした事例があったそうです。

 当然のことながら、『旅客自動車運送事業運輸規則』ではポリタンクの灯油を公共交通である、おいでんバスに持ち込んで乗車することはできません。

 しかし、ガソリンスタンドから家までの運搬手段のないお婆さんの立場からすれば、家庭で使う肉・魚・野菜などの食品類や雑貨類などの生活必需品がバスに持ち込めるのと同じで、ガソリンスタンドで普通に買うことのできる『燃料としての生活必需品である灯油』も持ち込んでも良いのではないか…もっと読む.pdf

佐藤一道さん.jpg佐藤一道
さとう・いちどう、豊田市綾渡町、平勝寺住職。1948年名古屋市生まれ。同志社大学工学部卒。1976年、紫竹林安泰寺にて出家、同寺にて十年修行、1988年から平勝寺に住む。

良寛さんは今を丁寧に生きた     (2017.04.07)

 江戸時代後期、越後の国で生まれた良寛さんに次のような逸話がある。

 良寛さんが或る富豪を訪ねたとき、そこの主人が深刻な顔つきをして、「名誉も富も何ひとつ不足はないのですが、ただ一つ百歳まで生きたいと思うので、その方法を教えていただきたい」と言った。

 良寛さんは笑いながら、「そんなこと簡単です。今、百歳だと思えばいいのです」と答えた。

 長者は死を恐れていた。

 今は生きているがそのうち死ぬと予知できるからである。「そのうち」という時間が長者にとって恐怖なのである。また、他人は生きているのに私は死んでいかねばならないという比較も恐怖なのである。

 私たち人間は、過去の経験を記憶し、未来を推論する力を持っている。この思考力を使って、時間は過去現在未来と一方向に流れて行くと思っている。しかし、本当であろうか。

 過去は記憶であり、現実でない。未来は推測であり現実ではない。今この私が五感を通して感受しうる世界に存在していることだけが現実である。時間とはこの私が生きている時々刻々をいうのである。

 長者が今、七十歳として百歳まで生きたいと三十年間を頭で考えることは出来るが、それは仮想されたものである。七十歳の長者は七十歳を生きているのが現実であり、百歳になった長者は百歳を生きているだけである。

 私たちは手に入れたものを失いたくないという性質を持っている。自分に属している様々なものとの訣別を恐れる。その恐れの本質を理解している良寛さんは「今、百歳だと思えばよい」と端的に教えた。 今、百歳だと思えば、この百歳と一日目をいかに輝かせて生きるのか。明日、目が覚めれば百歳と二日目をいかに無駄なく生きるのかという方向性を持つことができる。

 良寛さんは過去を語らなかった。未来を論じなかった。今、生きている世界を丁寧に生き、その美しさを見つけ続けた。自分が得たものと絶えず訣別していく生をもっと読む.pdf

真の出家者良寛さん     (2017.01.27)

 良寛さんと子供ら
 この里に手鞠つきつつ 子供らと遊ぶ春日は 暮れずともよし

 良寛さんの歌である。衣の袖に毬を二つ三つしのばせて、托鉢に出る。子どもに出会えば、托鉢のことをすっかり忘れて日暮れまで手まりをしてしまう。

 良寛さんは理屈をつけて遊んでいるのではない。子どもと遊ぶことが心底楽しいから遊んでいるだけである。それは世間からの逃避でなく、出家者として真剣に生きた証である。

 良寛は宝暦八(一七五八)越後国出雲崎で生まれた。出雲崎筆頭の名門、橘屋の長男として生まれたにもかかわらず家職である名主を投げ出し、十八歳のとき剃髪し仏門に入った。

 良寛二十二歳の五月、備中玉島円通寺の大忍国仙大和尚が出雲崎に来た。国仙の風格に接し、敬慕の念を禁ずることができず、頼み込んで弟子にしてもらった。九十日間の法要が済み、国仙が備中玉島へ帰る時、良寛は国仙に従った。父母との絆を絶ち、懐かしい故郷の山河とも別れを告げて越後から備中へ旅立った。

 備中玉島の円通寺において良寛は十年間、厳しい修行を積んだ。私にも経験があるが、雲水時代は坐禅と作務と諷経の日課をこなすだけが精一杯である。ところが良寛は道元禅師の『正法眼蔵』をはじめ、あらゆる仏典を読破してしまった。

 幼い頃から非凡な才能を持った良寛は、仏典のみならず万葉集をはじめとする日本の古典、四書五経をはじめとする中国の古典、陶淵明や寒山の詩、懐素の書などを学びすべて記憶した。

 その学域の広さ、学識の深さは測り知れない。図書館やインターネットがある今日と違い、すべて他人から借りた本である。 膨大な量の書物を読んだ良寛の結論はもっと読む.pdf

歴代墓地整備の功徳あまねく   (2016.11.18)

 十月末日、平勝寺で檀家総会が開かれた。主な議題は年間会計報告と歴代住職墓地の整備についてだった。

 平勝寺には檀信徒の墓地がない。各家の裏山にそれぞれの墓地があるからだ。お寺には住職の墓地だけが有る。その墓地は「塔婆ヶ嶺」と呼ばれている。少なくとも十四世紀、南北朝時代からそう呼ばれてきた。

 そこには清貧な暮らしぶりだった歴代の住職にふさわしく簡素な墓石のみがある。

 墓石すらない住職もいる。それに気がついた檀家総代さんが、歴代住職の名前だけでも石に刻んで残そうと発案した。

 私は賛成した。自分が入る墓地が整備されるというさもしい気持ちからではない。

 今現在、お寺と檀家があるのは過去の多くの縁に支えられていると気づいた皆さんに賛同したからである。

 自分のいのちは誰にも代わって貰えず、自分で生きて行かなければならない。しかし、そのいのちを自分の力だけでは生きられないのも事実である。仏教では、それを縁と言っている。すべての存在は支え合い、補い合ってはじめて存在しているというのが仏教の認識である。

 今ここに在るということは既に時間的にも空間的にもあらゆるものとつながっている結果である。それが縁である。そしてその縁は、私の思い通りにならない。

 親しい間柄が裂かれる縁に遭うこともある。会いたくない人に会わなければならない縁もある。努力しても結果が得られないこともある。どんなに生きたいと思っていても死ぬ縁が整えば死んでしまう。ことごとく私が望んでいないことばかりである。

 私の自我意識は都合のよい縁だけに注目し、その縁が続くように願っている。しかし、縁とは私の都合を超えた事実の総体であるから私の思い通りにならなくて当然である。

 不都合な縁から目をそむけ、逃げ出したりすれば却って苦しくなるのは経験済みもっと読む.pdf

いのちの事実を知り、死の怖さ薄らぐ   (2016.09.02)

 子どもの時から私は死ぬのが怖かった。 私が幼い頃、母は大病を患った。病原菌をうつさないよう母は私の健康に過剰な注意を払った。その所為で臆病になっていたのかもしれない。
 また、長男を戦争で失った祖母は生き延びる大切さを私に諭した。その所為で死を忌避するようになったのかもしれない。

 それにも増して、生きている実感が無くなることが恐ろしかった。朝起きると両親がおり、家の内外からは聞きなれた音が聞こえてくる。味噌汁の匂いが漂い、手足を伸ばして跳ね起きれば昨日と変わらぬ今日が始まっていた。 死は瞬間にそれら全部を奪い取ってしまう。そして未来永劫二度と私は生き還ることがない。考えれば考えるほど怖かった。恐怖のあまり時として眠られないこともあった。

 そんな私に母は「いのちの事実」を示してくれた。

 八月五日、九十歳を一期として母は安らかに息を引き取った。数年前、認知症と診断されたが家族と暮らしている限り支障はなかった。今年二月、医師から直腸癌の発症を知らされた。母は手術や無理な延命治療を希望せず、在宅で穏やかに過ごしたいと言った。

 母の希望を叶えるため、家内は介護支援専門員に相談し、関係機関との連絡調整を依頼した。その結果、通所介護、訪問看護、訪問リハビリ、訪問診察など在宅で介護できる態勢が整った。介護する私たちの悩みを受け止めてもらえたし、医学的に緊急事態が発生したとき直ちに主治医や看護師が駆けつけてくれたのも心強かった。安心して母だけを看取ればよかった。

 日中は家内が介護し、夜は私が母の側で寝て様子を見守った。三ヶ月続けた。

 徐々に母は衰弱していった。夕方、梵鐘を撞いて観音堂を閉めるのが母の日課であった。できないことは分かっているが「ゴーンと撞いて観音堂を閉めてね」と私が言う。「今日は疲れたので、代わって撞いてきて」と母が言う。

  「いいよ。でも明日、元気になったら撞いてね」「はい」と母は返事した。翌日、同じ会話をした時、母は声が出ず頷くだけになった。翌々日には、遠くを見つめているような表情で、もう私の顔を見ていなかった。

 今日の一日は二度と帰って来ないと分かっているが、「そうは言っても明日も同じような一日がやってくるさ」と高を括っていた。 母と交流できる時間が飛ぶように過ぎ去っていった。家内は母の手足をさすり感謝の気持ちを伝え続けた。右の手を私が、左の手を家内が握って、母の最期を見届けた。死にゆく母の側にいていのちの事実が腑に落ちた。いつ死んでもいいとは思わないが、死の怖さが薄らいだ。ご購読はコチラ.pdf

雨傘1本と本3冊もって京都へ   (2016.07.01)

 五月七日の明け方、私は夢を見た。師匠に叱られている夢だった。四、五時間後に「老師が遷化されました」との訃報が入った。ただちに師匠の住職地である埼玉県に向かった。

 今から四十年前、生きていく方針が分からず私は京都の寺を訪ねた。雨傘一本と本三冊持っただけの私をこの師匠は受け入れてくれた。それのみならず剃髪し、戒を授けてくださった。生ある限り、私はこの師匠に付いて行こうと決めた。

 ちょうどその頃、京都にあった寺を兵庫県の山奥に移すことになった。移転に関して師匠は宗門関係者から非難を受けた。そのとき師匠は弟子十八名に「曹洞宗から離脱するかもしれない。各自、よく考えて進退去就を決めなさい」と言った。私は移転の方針に従った。以後、山奥の寺で十年半、師匠と生活をともにして仏道を習った。 その後、師匠はイタリアで禅道場を創設するためにミラノへ渡航した。それを機に私は修行道場を出て平勝寺の住職になった。

 師匠はイタリア人の弟子と共同して『正法眼蔵』のイタリア語版を著述した。その準備段階において、私は師匠から送られてくる日本語原稿を平勝寺で校正していた。

 そんな或る日、師匠から電話があった。国際電話だと思った。しかし「浜松の聖霊病院へ来るように」とのことだった。師匠が日本にいるのが不思議だったし、まして病に冒されているとは考えられなかった。ところが病状は末期がんで余命は三ヶ月だった。

 「西洋医学に見放されてしまった。これからは自分がよいと思う方法で養生する」と師匠は明るく言った。平成五年のことだった。

 緩和ケアを勧める医師の助言を無視して、師匠は故郷へ帰った。それ以後、師匠は玄米と野菜を食べて養生した。師匠は乞われるままに住職地を替えた。その地、その地の医師が診察した。癌はそのまま体内にあり、癌マーカーの数値も極端に高いのだが元気に暮らしていることにどの医師も驚いた。

 余命三ヶ月と宣告されてから二十三年が経ったもっと読む.pdf

私が忘年の交わりを希った人   (2016.04.15)

 四月は、ひと目で同年とわかる一団によく出会う。

 新しいランドセルを背負った小学一年生。手をつないで登校していた。お互いの不安を吹き飛ばすように一年生同士でしっかり手をつないでいた。また、自転車通学をする高校生。真新しい制服が同級生であることを裏づけている。きっとよき友となり、よきライバルになるのだろう。オフィス街では同じ研修資料を持った新入社員の一団。このように同年は親しみやすい。

 他方、中国には「忘年之交」という言葉がある。

 この成語の故事は今から約千八百年前の後漢の出来事に由来している。 二十歳に満たないが、衡という人物には人並み外れた学識があった。その学識に敬服した融は衡と親しく交わった。融は孔子二十世の末裔であり、すでに四十歳を越えていた。

 ふたりのように年の違いを忘れて交わることを「忘年の交わり」という。このような交わりを結びたいと願う人物に私は出会った。

 その人物とは、前々回のリレーエッセーで紹介した中国人留学生である。過日、彼を車に乗せ、京都と亀岡にある石田梅岩の史跡を案内した。名古屋から京都までの往復、車中で彼の話をいっぱい聞いた。

 彼は儒教、仏教、道教について深く理解していた。そのうえ典拠が正確だった。

 そろそろ旅の終わりが近づいたとき、私は彼に質問した。

 「博士課程まで進学して、なぜ哲学を専攻しているのですか」 ゆっくりとした口調で彼は以下のように話した。

 「もとはジャーナリストになりたかった。ジャーナリストは社会を正確に把握し、展望を報道する専門家である。正義を知らしめる職業でもあると思っていた。それが、或る事件をきっかけに崩れてしまった。

 或る事件とは、同級生が起こした殺人事件である。その事件について新聞紙上に書かれたことはもっと読む.pdf

赤い姿の仏像ビンズルさん   (2016.02.12)

本堂の縁先に赤い姿の仏像が祀られている寺がある。願いをかける人々に肩や手足を撫でられピカピカに光っている。

 その仏像は「ビンズルさん」と呼ばれている。ビンズルさんは釈尊の弟子のひとりでインド人である。中国人は彼の名前を賓頭盧突羅闍と音写した。日本では賓頭盧尊者と略称している。

 病んでいるところと同じところを撫でると、ビンズルさんが治してくださると信じられている。 或る寺を訪問した時、ビンズルさんを撫でている老婦人にばったり出くわした。

 「膝が痛くて、痛くて。ビンズルさんの膝を撫でてお願いしているところです。治してくださいますよねえ」と聞かれた。

 「そう思います。少なくとも私は治してもらいました」と答えた。 出家する数年前から、否、出家してからも私は劣等感に苛まれていた。

 他と比べ、なんと自分の能力は乏しいのだろう。彼の人は相応の評価を受けているのに、私はなぜ認められないのだろう。そのような思いに悶々としていた。

 修行していた寺では夜に輪講があった。各自が読んだ仏典を発表し討論した。また師匠の提唱を聞いた。

 或る夜、師匠は提唱の中で「我に羨心なし」と語った。前後の内容は兎も角も「我に羨心なし」という言葉が私の心の奥の奥まで入ってきた。

 師匠が私に伝えようとした真意ではなかったがその後、私は「我に羨心なし」という言葉をおまじないのように唱えた。

 劣等感を抱いたとき「我に羨心なし」、心が散乱して集中できないとき「我に羨心なし」と唱えていた。

 後年、「我に羨心なし」と言ったのはビンズル尊者だったと知った。

 『賓頭盧突羅闍爲優陀延王説法経』というお経の中にいきさつが書かれていた。 そのお経に登場するのは…もっと読む.pdf

石門心学の祖、石田梅岩の史跡を訪ねて   (2015.12.04)

 職業倫理を説いた足助の鈴木正三は、天正七年(1579)生まれ。それに遅れること約百年、貞享二年(1685)石田梅岩は丹波国桑田郡東懸村で百姓の次男として生まれた。

 正三と梅岩は時代も出自も異なるが、ともに「正直」「勤勉」をキーワードとして「人の人たる道」を追求した。

 先月、私は母校で開かれた学会に参加するため京都へ行ってきた。そのついでに京都、亀岡方面に残された石田梅岩の史跡を巡った。

 なぜ私がこの時期に梅岩の史跡を巡ろうと思ったのか。それは、ひとりの中国人留学生に出会ったからである。彼は中国人民大学で哲学を専攻している学生である。留学生に出会うと私はいつも「どのようなことを研究されていますか」と質問する。いろいろな答えが返ってくる。私が知らないことばかりで、彼らの話を聞くのが楽しみである。

 九月に出会った彼が返した答えに私はびっくりした。「近世日本転換期における儒学の実学化、石田梅岩の学説を中心として」というものだった。そして彼は修士論文のコピーを私に渡した。

 日本人でも石田梅岩のことを知っている人は少ないのに、若い中国人が博士課程で梅岩を研究していることに目を見張った。

 重ねて私は質問した。「日本に何度も来たことがありますか」 「今回が初めてです」と彼は答えた。 「京都や亀岡にひとりで自由に旅ができますか。梅岩の史跡がそこにあるのですが…」と言うと、彼は口ごもった。 「よかったら、いつか近いうちに私が車で案内をしましょう」と約束した。

 それで今回、京都へ行ったついでに彼のために史跡巡りの予行演習をしようと思った。

 まず京都市内にある石田梅岩邸址、梅岩が講義をした脩正舎址、延年寺旧跡にある梅岩の墓などを訪ねた。その後、亀岡市に車を走らせた。

 梅岩が生まれた所は丹波国桑田郡東懸村、現在の亀岡市東別院町東掛である。平勝寺に入寺する前…もっと読む.pdf

無常の一句を自分に引きつけ学んだか    (2015.10.02)

 先日、所用で東海市の寺院を訪問した。足助から伊勢湾岸自動車道を利用して約60㎞の行程である。そんなに遠くないのだが、未だ行ったことがなかった。

 東海インターチェンジで降り、目的の寺院に向かった。途中、木々に覆われた丘に大仏様の上半身が見えた。その時「しゅうらくえんの大仏様」という言葉が浮かんできた。幼稚園のとき名鉄電車に乗って遠足に来たことがあったのだ。

 「しゅうらくえん」ってどのように書くのだろう。知りたくなって駅を探した。駅はすぐに見つかり「聚楽園」と書いてあった。その駅前にバス発着場のロータリがあり、中央に大きなパネルがあった。そのパネルに「学思行 相まって 良となす 細井平洲先生の教え」と書いてあった。

 東海市が江戸時代の儒者、細井平洲の出身地であることをすっかり忘れていた。平洲は米沢藩主上杉鷹山の師である。学思行とは、学問と思索と実行の意味であり、その三つが揃ってはじめて学んだことになると平洲は言うのである。 儒教でいう「学び」と仏教の「学び」は自ずから異なるであろうが、仏教を学ぶとはどういうことかを師匠は私に言い聞かせた。

 四十年前、入門したての私は仏道修行の正しい方向を知らなかった。師匠は「仏典をしっかり学ぶこと。愚図らず皆と和合して叢林(修行道場)で過ごすこと。黙って十年、坐禅すること」と言われた。

 私は師匠の教え通り過ごしているつもりだった。しかし的が外れていたに違いない。

 数年後、師匠は顔をしかめて私に言った「仏典をしっかり学べと言ったはずだ。一字一句、自分に引きつけて読んでいるか。あちこちの仏典を読み散らかして、あっちにはこう書いてある、こっちにはこう書いてあると知識ばかり増やして何になる。仏典を読むとは、お前が日ごろ正しいと思っていることが実は間違っていたと気づくことだ…もっと読む.pdf

鈴木正三の 無分別 の勧め         (2015.07.17)

 一般社会で使われている言葉の意味と全く反対の意味を持つ仏教用語がたくさんある。

 例えば無学という言葉、一般的には知識のないことを意味する。しかし仏教用語では修行者が到る最高位のことである。煩悩を断ち尽くし、修行が完成して学ぶべきものが何もない所に達した者を無学という。

 また無分別という言葉は普通、思慮を欠き軽率であることを意味する。しかし仏教用語では苦悩を除く智慧のことであり、仏道修行者の狙いどころである。

 江戸時代に足助で生まれた禅僧、鈴木正三はことのほか無分別になることを推奨した。「分別の仕置き、用に立たぬものなり」とか「分別なしになしたるがよきなり」と弟子に無分別を勧めている。

 一般社会では無分別な人より分別ある人のほうが重んじられる。分別ある人は、ものごとの善悪や正邪を良くわきまえて事態に対処していくからである。それにもかかわらず私は、無分別とか無鉄砲という言葉に一種の爽やかさを感じている。なぜだろう。人は本当に正しく善悪を分別できるのだろうかと疑っているからである。

 人は誰でも時々刻々、小さな事から大きな事までどちらかを選び取って生きている。昼食に何を食べようかという事からこの人を伴侶にしようと決める事まで。

 また、地区の会議で草刈りの日程を決める事から日本の安全保障を審議する国会議員を選ぶ事まで、小から大まで刻々に何かを選び取って生きているのが人の一生である。

 分別を働かせ、善悪正邪をよくよく考えてこちらを選択したと人はその理由を述べる。果たしてその理由だけであろうか。前述した江戸時代の鈴木正三は、「我が身を思う念(自己保身)」が分別の本質であると言った。選択した理由が往々にして言い訳に聞こえるのもそのせいかもしれない。

 自他を分別し、所有物を分別しなければ社会生活は営めない。しかし、人はその分別によって苦悩する…もっと読む.pdf

坐禅の僧は眼を半眼に         (2015.04.17)

禅宗では師弟関係を重視している。なぜなら、言葉で伝えられないことを師匠が日常の生活を通して伝えるからである。本を読んで正しく理解できるならば師匠は不要である。しかし実際には正しく理解していないことが多い。また、あふれる情報の中から自分に都合のよい情報のみ集め、固定観念を築いているのが私たちである。容易に変えがたい固定観念を打ち砕いてくれるのも師匠の役割である。

 坐禅に関して間違った固定観念を持った人がいた。

 坐禅中、眼はどのようにしているのかという質問に対し、私は「大きく開けすぎず、かと言って閉じてもいない。大半の仏像がそうであるように半眼にする」と答えた。

 その人は「眼を開いていると集中できなかった。閉じていたほうが集中できた。だから半眼でなく、閉じていたほうがよいと思う」と提案した。

 私は「『普勧坐禅儀』に目はすべからく常に開くべしとあります。よって私は、先人のこの言葉に従っています。しかし、それだけでは納得されないでしょうから、なぜ、かすかに目を開いていなければならないのか理由を述べます。その前に『集中できた』と言われた『集中』が意味する内容を教えてください」と逆に質問した。

 その人は「私は木が好きです。特に美しい木目が好きです。目を開いて坐禅していると周りの人が気になって集中できませんでした。目を閉じて美しい木目をじいっと思い浮かべていると集中できました。」と答えた。

 質問者が持っている固定観念がこの答えにはっきり表現されている。その固定観念の間違いを明らかにすれば、坐禅中なぜ目を開いていなければならないのかが…もっと読む.pdf

仏教の第一の戒は不殺生戒         (2015.01.30)

 今年は第二次世界大戦が終結して七十年目に当たる。先人が英知を結集したからこそ、この間、日本は戦争をせず平和を享受した。僧侶である私が深刻な自己矛盾に陥らず生きながらえたのは、武器を手にしなかったからである。

 仏教では受戒することによって仏教徒になる。戒を受けるとは、授けられた戒に根ざした生涯を送ろうと決意することである。授けられた第一の戒は不殺生戒であった。不殺生戒を保つことと戦争は両立しない。
兵農分離が強化された江戸期において僧侶が武器をとることはなかった。しかし明治期以降、第二次世界大戦終結まで僧侶にも兵役の義務があった。武器を取るよう強要されたら私はどのようにするのだろう。

 幾多の戦時に僧侶は異なる三つの態度を取った。

 第一は、処刑されることを覚悟し、兵役拒否を表明した。良心的兵役拒否が認められつつある今日と異なり、七十年前の兵役拒否者は非国民、臆病者と侮蔑された。死刑に処せられた者もいた。

 第二は、仏教教義と戦争との間にある矛盾を戦時教学と呼ばれる考え方で自分を納得させ戦争に協力した。

 第三は、右のいずれでもなく、時代の様々な制約を受けながら生を享けたその時代を生きた。

 大正三年、寒村の寺で得度を受け、昭和七年、満洲に渡った僧侶の事跡を私は調査した。彼が第三の生き方を選択したからであった。 彼は昭和初年に大学で仏教を学んだ。遥か唐の時代から脈々と伝わる禅宗の教えを身に付けた。唐代、宋代に活躍した中国の禅僧は、彼にとって師であり模範であった。

 当時の日本仏教界の満洲宗教に対する認識は「仏教は衰微している。仏教信者と称する者でも深い信仰に基づくものは稀で、多くは現世利益を祈っているだけである」というものであった。これと同じ認識を持った彼は…もっと読む.pdf

僧は職業なのか生き方なのか         (2014.11.07)

 十月初旬、雲水時代を過ごした寺へ久しぶりに登った。歴代住職の年忌法要を勤めるから上山されたしとの通知を受け取ったからだ。

 バス停から寺に至る4㎞の山道は以前と変わらず車一台がやっと通れる幅であった。柔らかい穂のススキが秋風に吹かれていた。途中、誰ひとりにも会わなかった。そのような山寺に二十数名が自給自足しながら坐禅修行を続けている。

 それも半数が外国人である。住職がドイツ人であるという特殊な理由を差し引いても何故、ポーランドやフランス、シンガポールやアメリカからどこにも立ち寄らず、直接この寺に上山するのであろうか。

 それは、ここが職業としての僧侶を養成する所ではなく、仏弟子として生きる姿勢を探求する寺だからである。

 発心の動機は人さまざまであるが皆、何かを求めて上山している。その中には、かつて私がそうであったように間違った求め方をしている者がいる。今の自分と異なる理想の自分を描き、それに到達しようと努力することが修行であると思い込んでいるのである。

 もちろん人は一度生まれただけでは人とは言い難く何度も生まれ変わらなければならないのだが、何に生まれ変わるのか。自分に生まれ変わるのである。仏弟子の生き方とは、自己が自己に落ち着く実践にほかならない。

 今回、法要に随喜して外国人が日本語でお経を唱え、大豆から豆腐を作って参列者を饗するのに接し襟を正さざるを得なかった。

 私は平勝寺の住職として葬儀や法要を勤め、お布施をいただいて生きている一面と、誰からの強制も援助もないが仏弟子であり続ける一面がある。
 しかし外国人雲水には職業としての僧の一面はない。純粋に仏教の生き方を…もっと読む.pdf

観音さまから願われて            (2014.08.8)

 豊田市は平成17年4月の市町村合併により市域が拡大した。そのため新たに豊田市史を編纂しなおしている。平成34年までに25巻を刊行するそうだ。そのうちの一巻「美術、工芸」編が先月、刊行された。その本によると豊田市内の仏像で国の指定を受けている重要文化財は、ただ一体しかない。平勝寺の観音菩薩坐像がそれである。

 重要な文化財が綾渡に護持されてきたことを私は誇りに思う。しかし平安以来、八百五十年の長きにわたり大切に守られてきたのは、美術的価値が高かったからではない。人々の信仰心に支えられてきたからである。

 歴史的、芸術的にどんなに優れていても私は観音菩薩を美術品として拝んだことはない。観音菩薩が私の苦悩を救ってくださると信じ礼拝している。その上、お粗末な私であるがいつかは菩薩としての生き方を成就できるようにと願って額づいている。

 私が持っているのと同じように人はそれぞれ願いを持って生きている。子どもは子どもなりに、大人は大人なりに、老人は老人なりに願いを持っている。特に自分の願いを表わしたい時、先人は観音堂に絵馬や提灯を奉納した。それらには、さまざまな思いが詰まっている。

 今年の初め、或る人が提灯を奉納したいと言った。

 私はAさんの気持ちを無駄にしたくなかったが、提灯一張だけの注文を受ける業者はなかった。理由を伝えると…もっと読む.pdf

雲水十年間を思い出して            (2014.05.16)

都市部と異なり平勝寺ではよく焚き火をする。杉や楓の落葉、枯れ枝を掃き集め、安全な所で火を点ける。私は大抵マッチ一本で火を点けることができる。

 私の焚き火は種火を大切に扱い、炎を育て、パチパチと勢いが出てきたら無闇に触らず見守っているだけである。それなのに綺麗に燃える。

 思い起こせば安泰寺で過ごした雲水の十年間、燃料は薪だった。煮炊きも風呂もストーブもすべて薪だった。雪に閉ざされる四ヶ月の薪の量は小屋一杯分が必要である。雲水三十名が山に入って伐採し、枝を落とした木をウインチで集材した。それをチェーンソーで玉切りにした。その後は時間をかけて斧で割り小屋に積み上げていった。

 その薪を使って食事の準備をする。私たち禅宗では食事を作る配役を典座といい、重要な修行のひとつである。未熟な者は典座に当てられない。皆が夜明けの坐禅をしている時も、お経をあげている時もひとりで食事の準備をするのが典座の役割である。

 愚痴を言わず自分の為すべき役割を勤めあげるのは余程、修行力がついていないとできない。

 台所で無駄に使うと暖房用の薪が不足する。それで、ご飯とおかずがほどよく同時にできあがるように薪のくべ方を工夫しなければならない。残った熾は湯を沸かす竈に移しておいた。

 天婦羅を揚げる時の火力の調節は大変だった。私たちは箸を使って食材に衣をつけるなど上品なことはしなかった。手で直接、衣をつけ油の中にどんどんネタを入れていった。すると油の温度が下がっていく。薪を足し、手を洗って又、衣をつけていたので効率が悪かった。

 或る時、先輩からつぎのように教わった…もっと読む.pdf

足助から平勝寺に至る3本の道に            (2014.03.7)

慶応元年から二年にかけて足助から平勝寺に至る三本の道沿いに百体の観音石像が建てられた。

 半数ほどの石像が、普段通らない道沿いにある。昨年、そのうちの十四体を日頃通る道に移動した。移動後、地域の人たちと一緒に読経、供養した。

 石像の下部には建立者の名前が刻んである。その方たちは何を願って手を合わせたのであろう。建立者は今、私と一緒にお参りしている人たちの曾祖父か高祖父である。それを思うと慶応元年はそんなに遠い昔ではないように思えた。しかしその時期は歴史学上の時代区分で武士政権の近世から国民国家の近代へと替わる激動のときだった。

 昨年のNHK大河ドラマは新島八重が主人公であった。幕末前後の場面が私の記憶に新しい。思い出すままに綴ってみたい。

 ペリーが黒船四隻を率いて浦賀に来航した。鎖国を維持するのか、開国するのか幕府は決断を迫られた。諸侯が集まり評議の結果、開国と決まった。開国によって物価が高騰し、民衆と下級武士の生活が圧迫された。圧迫された民衆は「天から御札が降った。世直しだ」と連呼しながら集団で熱狂的に踊った。いっぽう下級武士を中心として尊皇攘夷運動がおこり、倒幕運動へと収斂していった。

 幕府の権威が低下するに従って、京に諸国から尊皇攘夷派の志士が集まってきた。京都所司代や京都町奉行だけでは治安が守れないとして京都守護職が新設された。

 会津藩主・松平容保が初代京都守護職に就任した。非正規部隊である新撰組を配下に置いた。三条木屋町の池田屋で会合中の尊皇攘夷派志士をその新撰組が襲撃した。

 そのころ当地では、平勝寺への百体観音石像を建立しようと足助の人々が発願していた。

 会津では、砲術師範・山本権八の三女、八重が新式銃の製作に…もっと読む.pdf

坐禅八日間の 臘八接心(ろうはつせっしん) 修行  (2013.12.13)

四十年前の私は常に動揺し、死の不安に駆られていた。そのような日常は受け入れ難かった。

 逃げたり追ったり競ったりして、自ら迷い自ら苦しんでいた私はそのうちに、もっと根本的な問題に突きあたった。一度だけしか生きられない自分のいのちをどのように使ったらよいのか。この世に生れてよかったと思える生き方とはどのようなものなのか。そうした問いが次々と浮かんできた。しかし、答えは容易に見つからなかった。

 苦しみの生じる原因すら特定できなかった私にとって「いかに生きるべきか」の答えを見つけることは至難のわざだった。だが佛教が二千五百年をかけてこの問いに取り組み、思索を深めてきたことを知った。

 それで私は坐禅修行に身を投じた。

 今しも修行道場では臘八接心といって坐禅を八日間続けている。菩提樹下での禅定を慕い、釈尊の成道に習うためである。

 釈尊は自らを死の淵まで追い込む苦行を六年続けた。しかし、苦行によっては解脱できなかった。そこで釈尊は苦行林の近くに流れていた尼連禅河で沐浴し、村娘スジャータの乳粥の布施を受けた。気力を回復した釈尊は大樹の下で結跏趺坐を組み、身を真っすぐにして坐った。

 自己の内に現れる欲望、渇愛、恐怖、疑い、慢心などと壮絶に戦い、釈尊は十二月八日、明けの明星を見て大悟した。この偉業を敬って十二月一日から八日まで坐禅し通すことを臘八接心と呼んでいる。

 出家して初めての臘八接心を通った後、つぎの言葉に出会った…もっと読む.pdf

外出先で母が反対方向に歩いた日   (2013.09.27)

私には八十六歳になる母がいる。雨の日を除いて毎日、母は境内地の草取りをしている。ヘルパーさんに同伴していただき福祉施設へは行くが、自分ひとりで外出することはない。

 父が他界し、私たち家族と同居するまで母は名古屋に住んでいた。母の兄弟姉妹も名古屋に住んでいる。同居して既に二十三年が経った。

 同居し始めた頃、母はよく名古屋へ行った。用事を済ませると母は自身の姉に電話をかける。姉を呼び出し、松坂屋で一緒に食事をすることが母の楽しみだった。戦中、戦後を名古屋で過ごした母にとって松坂屋で食事をすることは一種の贅沢だった。

 名古屋から帰宅した或る日、「方角を間違えた」と私に告げた。今から五年ほど前のことだった。私はさほど気にしていなかったが、方向感覚を失った最初の体験だったのだろう。その後も母はひとりで名古屋へ行
った。そんな或る時、今度は「切符の買い方が一瞬わからなくなった」と言った。母の状態が尋常でないと家内は心配した。

 四年前の春、母はいつも行っている護国神社の例祭に行きたいと言った。護国神社は愛知県庁の西側にあり、バスや地下鉄を乗り継いで行かなければならない。

 「今日は僕が後ろについて行くよ」と言うと母は不機嫌な顔つきになった。

 「心配ない。ひとりで行ってくる」と言ったが、私は母の言葉をさえぎってついて行った。

 行きは間違いなく切符を買い、正しい電車に乗って護国神社に着いた。参拝を済ませ、地下鉄市役所駅に行こうとした母が反対方向に歩きはじめた。間違いに気づかず歩き続ける母に私は後ろから声をかけた。

 「ほら、間違えたじゃないか」
 語気が荒かったのか、振り向いた母は悲しそうな目をして私を見つめた。その時、不意に…もっと読む.pdf

後藤正さん.jpg後藤 正
ごとう・ただし、本紙元記者、1948年生まれ、豊田市大平町在住。歴史研究会会員、郷土史を中心に戦国時代の土豪に興味を持ち、複数の会に所属している。中日文化センター講師(戦国史)

言葉遊びをして現実を見ない危うさ  (2017.03.31)

 自衛隊が南スーダンから撤収するかどうかの国会でのやり取りを聞いていて情けなくなった。稲田朋美防衛大臣が現地は「武力衝突」はあるが「戦闘状態」ではないと強弁して譲らなかったのだ。 私にはふたつの言葉は同じ状態を言い表しているとしか思えない。しかし稲田大臣は違うと言い張る。いったい武力衝突がある状態を戦闘状態と呼ばないでなんと呼ぶのだろうか。

 こういう人を「言霊(ことだま)教信者」という。言葉には霊力があり、言葉争いに勝てば現実を説明したことになると信じている人のことだ。

 これがなぜいけないかといえば、南スーダンの状態を議論しているはずがそれをどこかへ追いやって、言葉の問題にすり替えているからだ。結果、現地を客観的に把握することなく判断を誤ってしまう。

 こうしたことは第2次大戦中にもあった。日本軍の『戦陣訓』には「撤退」という言葉がなかった。天皇の軍隊(皇軍)は神の軍隊だから攻めれば勝てる、撤退は敵前逃亡だ、との思想から現地の指揮官は兵に撤退を命令できなかった。

 戦場の指揮官は追い詰められると逃げずに、米軍に向かって「天皇陛下万歳」と叫んで突撃するしか道がなかった。こうして多くの日本兵が死んでいった。これを「玉砕」と言う。突撃死を玉が砕け散ると美しく言い換えたのだ。米軍はなぜ日本兵が自殺行為を繰り返すのか気味悪がったという。

 一方、こんな話もある。敵機の襲撃を受けたとき若い少尉が命令をためらった。そばにいた古参軍曹が「少尉殿、転進して突撃と言ってください」「わかった」。少尉は腰の軍刀をすらりと抜くと「敵機に向かって転進し、突撃!」と叫ぶやジャングル目指して逃げ出した。兵たちも「転進だ、転進だ」と言いながら後に続いたという。

 「転進」とは迂回して後ろに進むこと、実は「撤退」することだがもっと読む.pdf

おんな城主直虎は男だった?  (2017.02.03)

 NHKの大河ドラマ『おんな城主直虎』が始まった。戦国時代は男社会だから女が城主になることは極めて珍しいといえよう。

 直虎は諱で通称は二郎。若くして出家し、女ながらも次郎法師を名乗った。男名前にしたのは男なら出家しても還俗(世俗に戻る)ができたからだ。今川家による当主のたび重なる暗殺で井伊家が断絶しそうになり、のちに彦根藩主となる直政がまだ幼かったので成人するまでの繋ぎとして還俗して直虎を名乗った。

 これらの話は静岡県浜松市の井伊家菩提寺である龍潭寺に伝わる『井伊家伝記』が元になっている。昨年末、子孫で井伊美術館長の井伊達夫氏が記者会見を開き、衝撃的な事実を明らかにした。

 同館所蔵文書によると、直虎は今川家の重臣関口家から井伊家へ養子に入った「二郎」という男だといい、直虎を名乗る二郎と出家した次郎法師は別人ではないかというのだ。

 他家へ移籍する場合、養子とあれば男のことだ。女の場合、養女と嫁入りの二つがあるが、養女は嫁がせる目的で一時的に他家に移籍させる場合で、養子とは区別される。 戦国時代は男系継承が基本だ。建前と本音を使い分ける日本社会では、名目上の男城主を立てて女が実権を握る例はいくらでもあったが、名実ともに女が城主だったとなると例はないように思う。

 私のいう女城主とは公文書に花押(サイン)を描き印判を押して、現在の女性市長と同じように行政力を発揮した女性のことだ。死んだ夫に代わって戦場に立った女性は女城主とは言わない。男勝りの女という。現在言われている女城主を調べると別に男城主がいた後世の創作話ばかりもっと読む.pdf

知恵伊豆といわれた男の外交    (2016.11.11)

 江戸初期に起こった島原の乱はキリシタンの美しい殉教物語と捉えられがちだが、日本が植民地化の一歩手前の情勢にあったことは余り認識されていない。


 乱の発端は、島原藩主松倉父子らの実質石高より多い年貢の徴収にあった。未納者には拷問を加えた。飢饉のさなか領民は餓死寸前にまで追い詰められた。

 領民たちはキリシタン天草四郎時貞を旗頭に一揆を起こし、3万7千人が島原半島先端の原城に籠城した。一揆勢は呼応の檄文を全国に飛ばした。当時、日本人口の1割がキリシタンだったといわれ、東北地方が特に多かったという。

 驚いた幕府は板倉重昌を総大将として島原に向かわせ、全国の有力大名には地元キリシタンの鎮圧を命じた。ところが板倉は総攻撃で討死にしてしまった。

 ここで派遣されたのが松平伊豆守信綱だった。「知恵伊豆」といわれた男だ。伊豆守は城を取り囲んで兵糧攻めにする策に出た。これは幕府の弱腰を意味するため批判も多かった。一方で伊豆守は矢文で城内と盛んに交渉をし、情報を掴みながら投降を呼びかけた。これにより投降者は1万人に達したともいう。

 一揆勢の目的は援軍待ちだった。クルス(十字架)を胸にゼウス(神)が必ず助けに来ると祈っていた。兵糧が尽き海藻を食べはじめたある日、沖合に2隻の外国船が姿を見せた。城内はどよめいた。ついにゼウスが助けにきたのだ。

 外国船の砲門が開き火を噴いた。砲弾は幕府軍ではなく城内に落ちた。砲撃は10日間つづき、陸からも砲弾が撃ち込まれた。城内の落胆はいかばかりか。

 撃ったのはオランダ艦船だった。オランダはプロテスタントの国で、血で血を洗う宗教戦争に勝ちカトリックのポルトガルから独立したばかりだった。日本で布教していたのはカトリックの方だった。

 伊豆守はヨーロッパに2つのキリスト教があって戦争になっていることを知っていて、オランダに砲撃を要請したのだ。マニラ沖で両者が海戦をしてオランダが勝ったことも知っていたのだろう。キリシタンにキリシタンを攻撃させてもっと読む.pdf

天皇制は制度疲労を起こしていないか    (2016.09.02)

 今上天皇が異例ともいえるテレビ会見をして「年を取り象徴の役目を果たすのが難しくなった」などと「お言葉」を述べた。私は、これは第2の人間宣言だなと思った。

 敗戦後、昭和天皇はそれまで信じられていた現人神(あらひとがみ)ではなく人間だと宣言をした。そこから現在の「象徴天皇制」が始まったのだが、未だに神のままでいたことに気づかなかった。会見は「天皇家をもっと人間として扱ってくれよ」という悲鳴に聞こえた。

天皇制は、古代を除き、千年近くも権力を持たない権威のみの状態、つまり象徴が続いたのが実態だ。権力は藤原氏や武家が受け持つ分業の形だった。

 明治に成立したヨーロッパの絶対王制を模した「元首天皇制」は、歴史的には異例で、天皇制の成り立ちを考えると無理な制度だった。

 縄文文化をベースに、稲作の中国南方文化が被さり、さらに中国北方シャーマニズム文化が乗ったのが日本文化だと私は思う。天皇家の先祖の「天族(あまぞく)」はシャーマン的要素の強い神官として日本列島に上陸し、東征したのだと思う。

 だから、国民の目に触れにくい新嘗祭(にいなめさい)などの天皇神事は、権力を誇示するものではなく「祈り」の要素が濃いものだと推測している。

 自民党の憲法改正草案は天皇を元首としている。私は9条も含めた憲法改正論者だが、1条に関しては自民党と違う。元首ではなく、まったく逆の、徹底した政教分離を進めるべきだと思
っている。「お言葉」で天皇も元首を望んでいないことがはっきりした。

 自由と平等という欧米型民主主義は71年間を経て日本に定着している。特別な存在を認める天皇制はそれに反する。

 天皇家が憲法で保障された基本的人権の適用外にあることは案外気づかれていない。職業選択、居住の自由がなく、思想信条の自由もない。高いモラルだけが求められる。今日の時代感覚では法的に差別されている存在とももっと読む.pdf

信長の肖像画をめぐる話    (2016.07.08)

 戦国時代の豊田地方を治めていたのは与語正勝という武将だった、と言うと知らない人がほとんどだと思う。

 しかし、あの有名な織田信長の肖像画を描かせた人物だ、と言えばピンと来る人も多いだろう。

 市内長興寺所蔵の肖像画は、信長の顔といえば誰もが思い浮かべるほど一般に知られている。教科書にも載っている画だ。信長肖像画は23点あるといわれるが、そのなかでもっとも有名な画であろう。

 少し神経質そうな面長の顔に明るい緑色の肩衣を着て、金扇を持ち座している姿は、落ち着いた天下人らしい威厳に満ちている。襟元の赤い襦袢がなんともおしゃれだ。

 正勝は、信長が本能寺の変で亡くなった一周忌に合わせて描かせ、長興寺で法要を営んだとみられる。

 そもそも正勝はなぜ一地方の長興寺で法要を営んだのだろうか? 京都では秀吉が天下取りに向けて大きく動きだしていたころだ。

 桶狭間の合戦(1560年)が信長の勝利で終わったあとの翌年、織田軍が豊田地方(高橋郡)に押し寄せ、衣城(金谷城)の中条氏を攻め滅ぼした。中条氏は鎌倉幕府以来の名門で、この地方を2百数十年間統治していた。

 この時、信長の家老佐久間信盛とともに尾張の御器所から攻め込んだのが与語氏だった。この侵入で長興寺は焼け落ちたが、のちに正勝が再建している。

 以来佐久間信盛が衣城主で与語正勝が城代という時代が20年弱続く。信盛は信長に付いて各地を転戦しなければならず正勝に任せきりだった。

 よく家康が三河を平定したというが間違いだ。今のトヨタ自動車本社辺りより北、西三河の北部は三好も含め織田領だった。家康は信長に被官(家来)化しており、織田領を侵すことができるはずがない…もっと読む.pdf

話し合っている間に事態は深刻に     (2016.04.22)

 前号で「第三次世界大戦はすでに始まっているとローマ法王が発言している」と述べ、日本は中東での一神教どうしの争いには介入しないほうがいいと書いたところ、中東情勢に詳しい方から「イスラエルのシオニストと組んだ米国のネオコン(新保守主義者)こそが中東問題の本質だ」とのご指摘をいただいた。

 ネオコンに関しては私もまったく同様な認識を持っている。

 彼らはイラン・イラク戦争ではサダム・フセインを焚き付け、第一次・第二次湾岸戦争を仕掛け、サダムを処刑し、アフガンにも侵攻し、今日の中東の混乱を作った人たちだ。

 レーガン元大統領、ブッシュ元大統領父子、ラムズフェルド元国務長官、チェイニー元副大統領らに代表される「キリスト教原理主義者」とも称される人々だ。その教理の取得は単純明快で、聖書一冊を携えて森の奥に入り、そこで何日かを過ごす。森から出てきた時には立派なキリスト教原理主義者が誕生しているというわけだ。伝統的なキリスト教価値観を世界に押しつけるためなら戦争をも厭わない集団だ。

 しかしオバマ政権は世界から米軍を撤退する方針で、ネオコンは今鳴りを潜めているようにみえる。

 いまの中東はというとシリアのIS(イスラム国)が焦点になっている。これを支援しているのがサウジアラビアで、アメリカとは友好関係だ。

 アメリカは「アラブの春」を支持し、エジプト、リビアなどの独裁者を排除したが、サウジの王制には手を付けない。だからISを本気で叩く気はない。アサド政権の牽制に使っている。

 隣国トルコもISとの間にクルド人問題を抱えているので戦う気はない。

 本気で空爆をしているのはアサド支持のロシアだけだ。カスピ海から精度の高い巡航ミサイルを撃ち込んでいる。これがISには一番効いているようだ。

 ヨーロッパに脱出しているシリア難民も富裕層だから可能な話で、多くの貧困層は国内に留まっている。

 つまりロシアを除いて誰もまともにISと戦おうとしていないのだもっと読む.pdf

すでに第三次世界大戦は始まっている     (2016.02.05)

正月明けに中東の大国サウジアラビアとイランが国交を断絶したというニュースが飛び込んできた。

 サウジが国内のシーア派指導者を多数処刑したことがきっかけだという。サウジはイスラーム教スンニ派の国であり、イランはシーア派の国だ。

 中東は、シリアとイラクを拠点とするIS(イスラム国)を巡ってシリア政府、キリスト教の欧米、ロシアがそれぞれの思惑から空爆などの軍事行動を展開している。その結果数百万人のシリア難民がヨーロッパを揺るがしているのは周知の事実だ。

 それにトルコと国を持たないクルド民族が絡み、さらに、パレスチナの住民を追い出して建国したユダヤ教のイスラエルが絡み、ただでさえ揉めている中東は増々混迷を深めている。

 そんなところへもっと衝撃的なニュースが飛び込んできた。近国の北朝鮮が水爆の地下実験に成功したというのだ。真偽のほどは今後の検証に任せるとして北朝鮮が核を保有していることは確かだろう。韓国では核武装論が起きている。

 これでは日本も核武装論が出てきて、原発を止めない理由になるなと思っていると、米国のカリフォルニア州で銃によるテロ事件が起きて数十人が死亡し、インドネシアでは自爆テロで多数の死傷者が出たという。洋の東西がずい分ときな臭くなってきた。

 そんななか昨年、第266代ローマ法王フランシスコ一世が「第3次世界大戦はすでに始まっている。パリで起きた同時テロはその一部だ」と発言した。 世界のカトリック信徒11億人の頂点にたつ法王が、キリスト教とイスラーム教が戦争状態に入っていると認めたということだ。この意味は重い。

 私は、法王のイスラーム教に対するキリスト教の実質的な「宣戦布告」だなと…もっと読む.pdf

シベリア抑留を語らずに逝った     (2015.11.27)

日本の敗戦時に中国東北部のソ満国境で捕虜になり、シベリアに抑留された元兵士が亡くなった。享年93。私の母の夫だ。

 母の夫とは妙な言い方だが私とは籍が違う。親戚付き合いをしている仲だ。

 抑留は3年半に及んだという。しかし直接彼から体験を聞くことができないまま逝ってしまった。 聞く人がいなければ話せないだろうと、祭りや法事の席で機会あるごとに私は彼に話をふった。

 「シベリアはどこにおったのだえ」 「ああ…」 そこからいつも答えが返ってこない。黙って杯を干している。無口だったがよく浪曲や歌謡曲を口ずさんでいた人だ。いつかしゃべると思っていた。

 一般に南方で戦争を体験した人はこだわりなくしゃべる傾向にある。漫画家の水木しげる氏がそうだ。

 子どものころ大人たちが焚き火をしている所に「あたらして」といって割り込むと、軍隊話に花が咲いていた。

 「貴様はどこだ」 「おれはラバウルよ」 「食い物はあったか?」 「ああ、あったぞ。バナナが多かったな。貴様は?」 「おれはミンダナオよ」子どもの私は遠い南国の話を興奮して聞いたものだ。

 ところが中国など北方に従軍した人の口は重い。ましてや捕虜になってのシベリア抑留となるとまずしゃべらない。食糧の乏しい極寒地での重労働、非人間的な赤化教育は思い出したくもないのだろう。

 それでも葬儀の席で実弟が「しゃべらんかったなあ」と言いながら、一度だけ聞いたという話をしてくれた。 それによると招集は昭和20年2月。8月9日にソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に進攻。関東軍は壊滅。実弟は「捕虜になりにいったようなものだ」と苦々しく言った…もっと読む.pdf

平和維持にはリスクが伴う       (2015.09.25)

 憲法解釈をめぐって紛糾している安保法案は、この稿が掲載されるころには参議院で可決し、成立しているかもしれない。

 私は車の運転中に国会中継を聞くなどそれなりに関心を寄せていたのだが、正直言って与野党の議論はさっぱりわからない。想定する戦時状況があまりにも個別具体的すぎて、どこからが個別的自衛権の範囲で、どこからが集団的自衛権の範囲になるのかがまるで理解できない。

 そもそも個別的自衛権と集団的自衛権の境界を想定しようとすること事体に無理があるのではないのか。こんな不毛な議論を延々とやっているのは日本だけのように思う。

 世界の国はどこも交戦権を認めていて、いつでも国を守る体制を創っている。永世中立国のスイスでさえ国民皆兵の徴兵制を敷き、中学校では軍事教練が義務化している。法律があるからといってすぐ戦争になるわけではない。有事に備えているだけだ。

 私に言わせれば日本国憲法の9条はできてすぐに死文となった。

 昭和22年に憲法が発布され、3年後に朝鮮戦争が勃発するとその年のうちに警察予備隊ができた。GHQ(占領軍)の命令だった。その後保安隊と名を変え重装備し、朝鮮戦争の後方部隊となった。サンフランシスコ平和条約が締結され、日本が曲がりなりにも独立を果たすと自衛隊と名称を変え、いまでは世界屈指の陸海空軍になっている。


 以上から自衛隊が憲法違反なことはほぼ70年前から明々白々なのだ。本当は憲法の方を変えるのが立憲主義のあるべき姿だ。

 だが、日本は現実問題を解釈の変更で対応してきた。そこには建前と本音の使い分けをする日本文化独特の特質がある、と言っても問題が解決するわけではないが、一度決めたことを容易に変えるのは悪だとの保守的な認識があるようだ。

 だが、色あせた憲法9条を後生大事に拝んでいる間に危機は着々と近づいている。南沙諸島に軍事基地を強引に構築した中国の狙いは…もっと読む.pdf

家柄詐称で将軍になった家康       (2015.07.03)

 今年は徳川家康が亡くなってちょうど4百年目になる。各地でさまざまなイベントがあって、岡崎で開かれた講演会では家康の先祖松平氏の研究の足跡を辿った研究史の話があった。

 今や学界段階での松平氏のイメージは大きく変わってきている。特に初期松平氏に関しては、江戸時代に創られたイメージとはかなり様相を異にしている。

 松平氏は豊田市松平町を発祥の地にもつ中世の土豪だ。本家は松平郷で「松平太郎左衛門」と称して代々続いてきた。その庶家の岩津松平家から分かれた安城松平家の流れを汲むのが家康だ。本家からみれば庶家の庶家といったところだ。 ところが歴史は家康が将軍になって幕府を開いたので、本家の太郎左衛門家が存続しているにも関わらず家康を9代目の松平氏惣領として扱ってきた。

 その本家太郎左衛門家の元家老の神谷家から昭和46年に発見されたのが『松平氏由緒書』だ。この書には新田源氏の末裔で、時宗の僧に姿を変え松平郷にたどり着いた初代親氏の話が載っていなかった。これに当時の歴史学界は強い衝撃を受けた。

 江戸幕府の官製歴史書に必ず載っていた初期松平氏の歴史が違うばかりか、德川氏が将軍になるのに必須条件のはずの源氏の「氏の長者」の話がなかったのだ。

 そもそも征夷大将軍は東北の蝦夷を討つために設けられた官位で、源氏の統領(氏の長者)がなるのが慣例だった。その資格があるのは足利氏が滅んだあとは吉良氏か今川氏、もし新田氏が健在なら新田氏だった。新田氏は足利氏の兄の家筋にあたる。 家康が松平から徳川に改姓したのは、德川氏が新田源氏の嫡流だからだ。

 だがその前提が崩れるとなると徳川氏は将軍の家柄ではなくなる。これは大変なことだ…もっと読む.pdf

資本主義を延命させたケイ帯         (2015.04.03)

 私は月に数回は電車に乗って名古屋に出かける。山里の家から豊田新線の上豊田駅までは車で行き、駅のそばの駐車場に車を置いて、そこからは電車を利用する。パーク&ライドの実践者というわけだ。

 ここ数年、車内の風景ががらりと変わってしまった。人の話声が聞こえなくなった。乗ってくる人がみな、無言で携帯電話を取りだすとすぐに画面に見入るようになった。顔をあげているのは私だけという日もある。

 横一列に座ったまま、一斉に携帯に向かって同じ動作をしている光景は異様に見える。無表情な顔でなにかに操られているように、若い男女はもちろん、おじさんもおばさんも黙って、自分だけの世界に向かって指を動かしている。

 私はそうした光景を眺めながら、自分は異次元の世界に居るのではないかと錯覚することがある。心を通わせることが不可能に思える人たちのなかに1人だけいるという感覚。日本社会は変わったとはっきり思い知らされるひと時だ。

 元内閣府大臣官房審議官で経済財政分析を担当していた水野和夫氏によれば、資本主義は最終局面に入っていて、すでに崩壊していてもおかしくないのに、延命策の成功によって生きながらえていると言う。

 発展途上国が近代化され、地球規模でのこれ以上の地理的市場拡大は限界に達しているのに、制度としての資本主義は拡大の追求を止めることができない。無限に拡大をつづけなければならない。

 そこで考え出されたのがバーチャルな世界に新市場を創出することで「電子・金融」という虚構世界での市場開拓だったと水野氏は言う。

 その結果生み出されたのがコンピューターであり、一般庶民への普及版として超小型化され電話器に取り入れられたのが携帯電話だった…もっと読む.pdf

娘たちは首都圏をめざす           (2015.01.16)

 若い女性の地方から首都圏への流出が止まらないと、日本の3割以上の都市が25年後に消滅する。

 日本創成会議「人口減少問題検討分科会(増田寛也座長・元総務相)」が、昨年5月にこんな衝撃的な提言をまとめた。

 同分科会によれば、20~39歳までの出産可能年齢の女性のほとんどが大都市に移住し、特に首都圏への集中が著しいという。

 このままいけば2040年には、日本の1800ある区市町村のうち523(3割)が人口1万人未満となって消滅するという。消滅とは自治体が機能不全に陥り、あらゆる住民サービスが停止する状態を意味する。やがて地方が消滅し、都市への人口流出が止まり、都市自体も衰退すると提言は警告する。

 原因は若い女性が首都圏に移住して子どもを産まないからだ。東京の出生率は全国で一番低いという。 首都圏には何かがありそうにみえる。若い女性には魅力的に映るのだろう。


 だが、あこがれの東京に来たものの狭いアパートで一人暮らし。生活がやっとの安い給料。星の王子さまは簡単には現れず、セレブとは超無縁。気がつけばもうすぐ40歳。ほとんどの若い女性が「東京砂漠」を味わっているのが実態だと思う。

 消滅する自治体は日本列島全体におよび、大都市でも大阪府浪速区、西成区が含まれる。愛知県では、新城市、設楽町、東栄町、豊根村、飛島村、南知多町、美浜町の7つ。山と海の自治体が危うい。

 しかしこの予測は甘い。豊田市のように合併によって過疎どころか崩壊集落進行中の地域を抱えた自治体は含まれてはいないのだ。今年は戦後70年。日本人が戦後に獲得した最大の成果は「自由」だと思う。女性が「家」の束縛から解放され自由に行動できる世の中になった。娘が親と衝突しても、親の方で摩擦を避ける時代になった。

 自由の意識は居住の移動に留まらず、結婚するしないにまで波及し…もっと読む.pdf

中東で次々に生まれる過激組織           (2014.10.24)

 「イスラム国」という聞き慣れない言葉がメディアに登場したかと思ったら、またたく間にイラクだけでなく隣国シリアをも制圧しはじめた。イスラム教スンニ派が母体で、国家樹立をめざしているという。中東は一気に緊張が高まった。

 ヨーロッパなど各国から義勇兵が集結していて、日本からもシリアに行こうとした大学生が警察に拘束された。罪名は「私戦予備罪及び陰謀罪」で、個人や団体が外国に行って私的に戦争をしてはならないという法律だそうだ。

 イラクは少数派であるスンニ派のフセイン大統領をアメリカが排除したあと、多数派であるシーア派のマリキ政権が露骨にスンニ派軽視の政策をしていた。

 フセインはキリスト教徒をも閣僚に加えるなど、宗派間のバランスをとって独裁体制を敷いていた。それをアメリカが除いたためバランスが崩れてしまったのだ。フセインはイランとの戦争でアメリカに利用されたが、力を得るとアラブの統一をめざして米英と戦って排除されてしまった。 

 アメリカのオバマ大統領は、ブッシュ政権のイラク侵攻を批判し「米軍の撤退」を公約に掲げて登場しただけに、軍事力行使には消極的だった。それでも空爆をしたのは、放っておくとアメリカ本土がテロの標的になるから自衛のための措置なのだ。

 オバマは独裁国家シリアを空爆しようとしたがロシアなどの反対にあって実行できなかった経緯がある。 中東は石油があるために常に欧米の利害に翻弄されてきた。それに宗教対立が複雑にからんでいる。イスラム教とユダヤ教の対立は根深い。

 第二次大戦後にできたユダヤ教の国イスラエルは、それまで住んでいたパレスチナ住民を追い出して建国をした。2千年前に神と契約をした「約束の地」だから住む権利があるという。日本人には信じられない理由だが…もっと読む.pdf

集団的自衛権容認は歴史の流れ           (2014.07.25)

安倍内閣が集団的自衛権の行使容認を閣議決定した。今後関連する法整備を急ぐことになる。

 当初、安倍首相は憲法そのものの改正を目指していたが、国民の同意を得られそうもないと判断すると、歴代内閣が無理だとしてきた憲法解釈の変更という想定外の手を使ってきた。

 日本国憲法の9条を素直に読めば、集団的自衛権どころか個別的自衛権も認められてはいない。「他国との紛争解決の手段としては永久にこれを放棄する。つまり日本は軍事力を一切持たない、使わないと宣言しているとしか読めない。

 当時からこんな憲法は認められないとの声は強く、日本共産党の野坂参三衆院議員ですら「民族の独立を危うくする」と反対したといわれる。

 しかし今のイラクと同じように、米軍に軍事占領された敗戦国日本に主権があるはずもなく、天皇も直立不動の姿勢をとるマッカーサー元帥の命令では認めるしかなかった。

 以来国連憲章と瓜二つの絵に描いた餅のような条文を日本人は後生大事にしてきた。ところがここにきて憲法の非現実性が確かになってきたのだ。

 今のままでは中国の軍事的脅威に対抗できない。数千回に及ぶ中国の軍事挑発は国民が感じている以上に緊迫度の高いものだ。中国が領土拡大を目指し、日本を狙っていることは間違いない。加えて今まで日本を軍事的に保護してきた米国にも力の衰えがみえてきた。

 中国には理由がある。15億人の国民を食わせるためには、川の魚だけでは足りない。海の魚もいる。魚を焼く油やガスもいる。そのためには尖閣諸島だけでなく沖縄もほしい。さらに…もっと読む.pdf

新伊勢神トンネルは幸せを運ぶだろうか            (2014.05.02)

用事があって飯田市まで国道153号線を車で走った。平戸橋を渡って足助の古い街並みを横目に、伊勢神トンネルまでは前より早くなった。追い越し車線ができて遅い車に先を邪魔されなくなったためだ。新伊勢神トンネルができたらもっと早くなるだろう。

 稲武の道の駅を通過するとそこから先はほとんどノンストップ。高速並みといっては叱られるが、どの車もスピードオーバーだ。平谷も浪合もよく見ると集落は道路の下にある。山の中腹を走っている道路なので信号がない。

 飯田市で用事を済ませて来た道を戻る。下り坂が多いせいか帰りは行きより早かった。

 今から半世紀ほど昔、私は設楽町の山奥から153号線を通って豊田市に出てきた。だから今でもこの道は懐かしい。朝、バスで稲武まで出て、停留所でしばらく待ったあと、足助行きのバスに乗る。

 足助でも停留所で待ったあと平戸橋行きのバスに乗った。平戸橋でも停留所で待ったあと豊田市駅行きのバスに乗る。豊田市駅に着いた時には昼になっていた。さらにそこから下宿先までもうひと移動にしなければならなかった。それを思えば実に便利になったものだ。

 だが待てよと思う。車は車両専用道路を走っているように快適だったが、道路沿いのどの集落も人の気配がしなかった。歩いている人を見かけなかった。どこも過疎が深刻なのだ。

 私が豊田市に住み始めた頃、高等小学校しか出ていない田中角栄という総理大臣がいた。新潟出身の彼は、雪に閉ざされた故郷と東京を結ぶことを夢に見た。日本中に高速道路を張り巡らせば地方と都市が結ばれて便利になり、人々が幸せになると考えた。『日本列島改造論』である。

 角栄のこの考えは今も国の道路行政に継承されている。「より近く、より早く」をモットーに日本の道路は年々良くなっている。

 角栄は人々が地方と都市を行き来することを想定したが、出っ放しになるとは考えなかった。深い雪の中から這い出た人が、もっとも便利なのは、不便な所と便利な所を行き来することではなく、便利な所に住み続けることだと…もっと読む.pdf

山本勘助がわかってきた            (2014.02.21)

歴史は過去のでき事で真実はたったひとつのはずなのに、実際には時代とともに変わっていく。


先日、豊橋市で開かれた『やっぱり山本勘助は実在した』という歴史イベントに参加してきた。会場のホールは満員で、3百人は越えていただろうか。最近の歴史ブームの昂揚を思い知らされた。

 山本勘助のことは数年前に本欄に書いたことがある。題は『江戸時代に軍使が軍師に転化?』というものだった。勘助が主役の大河ドラマをNHKがやっていた頃だ。

 当時、勘助の実在は認められていたが、どういう立場の人物かがよくわかっていなかった。それで推測を含んだ前述の題になった。今回、勘助像がその時より鮮明になった。

 山本勘助は戦国時代に武田信玄に仕えた人物。江戸時代には甲州流軍学の流行もあり、誰もが知っていた。隻眼で片足が不自由。手の指もいくつか欠損していたという。その異様な風貌はいくたびも戦場往来を繰り返した男の生き様を現していた。

 しかし江戸時代初期に成立した「甲陽軍鑑」にしか、その名がないことから、明治時代になると実在が疑われ架空説が浮上した。これは歴史学がドイツ実証主義の影響を受けたためだ。

 実証主義とは簡単に言えば、証拠の無いものは認められないという科学的、客観的にものをみる見方。今日ではあたりまえの見方だが、それは戦後の話で、それまでは皇国史観が歴史界を歪めていたのは誰もが知っているとおりだ。

 昭和44年に北海道釧路市の市川家から、先祖が武田信玄から受け取った文書が発見されたもっと読む.pdf

核廃棄物処理と元首相の脱原発論  (2013.11.29)

小泉元首相が「脱原発」を明確にすべきだと安倍首相に迫っている。これに細川元首相も同調している。

 福島原発では4号機から使用済核燃料棒1533本の取り出しが始まった。4号機の貯蔵庫は30mの高さにあり、爆発で、支えていた鉄骨がぐにゃぐにゃになっていた。もちろん補強したのだが、地震や台風で落下する恐れがあると、アメリカの核の専門家が危険性を指摘していた。
 もし落下して地上に燃料棒が散乱すれば、強い放射性物質が拡散し、現場の作業員は即死、およそ数千万人が避難しなければならないといわれている。

 だから燃料棒の取り出しに絶対ミスは許されない。すべて移動し終えるには1年間かかるという。ただこの作業は燃料棒を地上に降ろし、100m離れた水槽に移動させるだけのことで、問題がこれで解決するわけではない。

 1・2・3号機は原子炉の底が溶けている。燃料棒がどうなっているのか誰も見たことがない。それを今後取り出そうというのだが、その方法はまったく確立していない。流れ込む地下水もブロックできていない。除染など最初からできっこないのにするといっている。前途は多難だ。

 小泉元首相に言われるまでもなく、一番の問題は、使用済核燃料棒をどう処分するかだ。使用済みというと、なにかカスになった無害の棒をイメージするが、実際はまるで逆だ。使い終えた燃料棒は核分裂を繰り返した後なので、放射された核物質で…もっと読む.pdf

師匠は十段のおじいちゃん      (2013.09.06)

昨年11月に居合を習いはじめ、7月になんとか初段になった。いい年をして体が壊れないかと冷やかされそうだが、若いころからの夢だったのだ。

 私は若いころは空手をやっていた。新道場が完成して、その「道場開き」の祝席で披露されたのが居合を観た最初だった。初めて見る日本刀を抜き放つ実戦的な迫力に、空手とは違う魅力を感じた。

 以来習いたいという願望を持ち続けてはいたが、若年の私には仕事や家庭が優先で、空手と居合の二つを習う余裕はなかった。いつの間にか60歳を過ぎ、体力・運動神経が確実に低下してきた。気力も下降気味だ。このまま単なる夢で終わるのかと思うと、焦りにも似た気持ちになった。

 道場を選ぶにあたっては私なりに考えた。指導を受ける師匠は私より年上に限る。これは経験豊富なのが第一の理由だが、なによりも自分が年寄り扱いされ、道場のお荷物になるのがいやだったからだ。

 年配の初心者は覚えが悪い。年下の指導者に本当はだめなのに「ああいいですね」とあしらわれ、ほめ殺しにあってはたまらない。悪いところを指摘し、叱ってくれる年上の師匠がいいと思っていた。

 習い事の世界は、年をとってから入って「もの」になるほど甘い世界ではない。感性が若いうちにはじめるのが一番だ。陶芸でも絵画でもそうだが、若いころから己の人生を賭け、必死に精進してきた人の作品は違う。金を出してでも買いたいと人に思わせるだけの何かを備えている。定年後に暇つぶしに始め、技を極める境地に行きつけることはめったにない。 

 ただそうは考えても、どうせ習うなら少しでも上に、と夢見るのは人情だ。だめはだめなりに武の王道をめざしたい、そして志半ばで潰えようともまっとうな道を進んで倒れたい、と私は理想だけはとても高い…もっと読む.pdf

佐藤とし弘さん.jpg佐藤鋹弘
さとう・としひろ、佐藤園芸園主、1943年生まれ、豊田市鴛鴨町在住。豊田東名ライオンズクラブ元会長、オイスカ豊田支局副会長、豊田市立上郷中学校・末野原中学校PTA元会長。

しなやかな日本の出番かも      (2017.03.24)

 3・11悪夢のあの日から早や6年。被災地の悲哀とは無縁に時は無常に流れ続けます。

 未だに不自由な仮設住宅暮らしを強いられる3万5千人の人々。

 慣れ親しんだ唯一の故里に戻ることも許されず、全国散り散りな生活を余儀なくされる原発震源地の人々。22年前、阪神淡路大震災の地獄絵はもう二度と見ないだろうと思ったものでしたが、その後も熊本大地震、糸魚川大火と容赦なく訪れた神々のいたずら。

 人は場所を選んで生まれることが出来ないとすれば、最早私たちは、ひたすら悪いクジに当たらないことを祈ることしかないのでしょうか。

 日本に駐在する153ヶ国の大使の代表を努める地中海に浮かぶ小国、サンマリノ国のマンリオ・カデロ大使は我が国を次のように評していた。

 面積も狭く、しかも山が多く資源にも乏しく、先天的な豊かさに恵まれない国、その上、火山、地震、台風、津波等、災害が多発し、究極は原爆投下の辛酸を嘗めた世界有数のダメージの多い国でした。

 しかし、そんな中にあって自然に恵まれ、四季折々の美しさと共に国民の精神性の「しなやかさ」は、世界に類を見ない美点と賞賛していました。

 しなやかさとは何か。かつて震災時に世界のマスコミが讃えた日本人の劣悪、異常な事態にあって乱れない秩序、忍耐、協調、互譲の豊かな精神性を言ったのであろうか。 また、安心、安全に対する周到な配慮、美しい街、国土を守る自然への畏敬心…。来訪者に差し出されるおしぼりは、おもてなし文化の象徴だそうである。

 一方、我が国は有史以来、他国に侵略されることもなく、独立を守った特異な国です。島国という好条件もありますが、独自の伝統と文化を確立し発展して来たとも言えます。 先の大戦末期には国土の一部が戦場と化しましたがもっと読む.pdf

人類は知恵をしぼれ!       (2017.01.20)

 南北に400㎞、東西40㎞の細長いこの島の背骨部分のジャングルを切り開いて伸びる1本の道路。しかし、幹線道路からはずれた途端ぬかるんだ水溜まりの道をジグザグに車が進むこと20分。わずかに広がる水田地帯の道路脇の盛り土に翻る手づくりの日の丸。視線を少し下げれば雑草に飲みこまれそうな小さな校舎。

 そこにわき上がる明るい歓声と小さな手々とのハイタッチ。健康色の顔からこぼれる澄んだ瞳。情熱的ダンスの歓迎と校内で頂いたオイスカ産米の美味しい弁当。折り紙や雑草広場でのバレーボール交流。小さな贈り物として持参したノートとペンは早速サイン会の小道具に早変わりした。

 海辺の小さな学校の子ども達と植えた1000本のマングローブ。明るい太陽の下に輝く瞳と笑顔。澄み切った空と海に溶け込んでマングローブも心地良さそうだった。

 これは昨秋訪れたフィリピン最後の秘境と称されるパラワン島南部の学校を訪れた時のスケッチです。南シナ海に浮かぶこの島のわずか西方には、今、世界の火種となっている南沙諸島があり、暮れには中国空母の演習場ともなったばかりか、我が国原油輸送の要衝でもあり、ひたすら波穏やかなることを祈るばかりだ。

 正月は相変わらずの駅伝三昧である。寒風の中、沿道200㎞に及ぶ人の波を引きつけるものは何だろう。人間の体力と精神力の限界に挑み、母校と仲間のために繋ぐタスキの見せるドラマだろう。一強〇弱の感は否めないが、ドラマには常にシナリオも演出もない。

 近頃の川柳に「おみくじにトランプ次第と書いてあり」とか「ファーストにもれた俺達どうなるの」とある。いよいよ不気味な年の始まりである。今や政治(選挙)が利己の先にある大衆迎合主義に翻弄されている。 かつての戦争敵対国で車を生産する、人類の歴史を一変させたグローバル化の波がもっと読む.pdf

薄幸の詩人金子みすゞの世界       (2016.11.04)

歌(詩)の持つ力と素晴らしさは計り知れない。感性豊かな詩に酔いしれながら、その作者への憧れは、賛辞と羨望を最大化する。
 / どれだけ砲弾の雨が降ったなら / 武器は永遠に禁止されるのか / その答えは、友よ、風に舞っている

 これはノーベル賞の渦中にあるボブ・ディランの『風に吹かれて』の一節である。反戦と平和を希求して50年。人種差別問題にも挑んだディランの強力なメッセージは、我が青春時代の回顧と相まって今なお新鮮な衝撃を醸し出している。わずか数分の歌が、これほど心に響く物語を紡ぐものかと感嘆する。

 一方で、日本の演歌の世界の妖艶にしてゆかしく、また間接的、叙情的表現に圧倒される。
 / ♪髪の乱れに手をやれば / 赤い蹴出しが風に舞う

 美空ひばりの『乱れ髪』にそれを見る。この歌は、福島県いわき市の塩屋埼の灯台を舞台に、破れた恋に今なおあきらめきれない相手へのつのる思いを、切々と訴える悲恋の歌である。とりわけ3番の / ♪春は二重に巻いた帯 / 三重に巻いても余る秋

 帯の長さに痩せる思いを表現する作者の感性って何だろう。どこにその発想の芽生えはあるのだろうか。驚きと共に艶歌の醍醐味を実感します。凡人が星野哲郎に近づくための工夫と方策を誰か教えてほしい。

 薄幸の詩人、金子みすゞの世界『お魚』にも人知を越えた境地がある。
 / 海の魚はかわいそう / お米は人に作られる / 牛は牧場で飼われてる / 鯉もお池で麩をもらう / けれども海のお魚は / なんにも世話にならないし / いたずらひとつしないのに / こうして私に食べられる / ほんとに魚はかわいそう

 小さい動植物に対する深い愛情と慈しみ。命なきものへの優しいまなざし。見えないもの、弱者へのいたわり等、誰の回りにもある日常の情景が、彼女のその描写を通して解け入りそうな純粋な世界への尊さ、美しさに清々しい幸せすらもっと読む.pdf

豊田の子ら7人ネグロス派遣へ       (2016.08.26)

 一日中うたた寝をしている我が家のペットも、いざご家族のご帰宅となれば精一杯の愛嬌を振りまいて出迎えてくれます。一方、同じ犬として生を受けながら、雨の日も風の日も、駅の階段も、街の雑踏も、一本のハーネスに結ばれ、ご主人様に献身的に尽くす盲導犬の姿があります。

 ワンちゃん自身のその運命の由来は不明ですが、我が人間社会に置き換えるならば、人は国や地域を、ましてや親や家族を選んで生まれることはできない。

 つまり、災害、障害、貧困、飢餓などといった不幸な言語が辞書に存在する限り、誰かがその当事者になり、誰かはたまたまそうではない。もはや人生は努力の世界というより、運命の世界というべきかもしれません。

 「障害者なんていなくなればいい」。そんな短慮な蛮行によって過日、障害者施設の19名の尊い命が一瞬にして奪われました。弱者に対する憎悪と差別は、人間の尊厳に対する挑戦であります。

 自己過失や、後天的要因で苦難に甘んじている人を含め、障害は好むと好まざるとにかかわらず常に先方から到来します。その被害の当事者になる可能性は誰にもあるのです。つまり、悪いクジを引いてしまった人が必ず存在するということです。人は誰しも幸せになる権利があるが、この言葉があまりに空しく聞こえます。

 天命の最たるものは、自然災害です。阪神、東日本、熊本と、そのたびに威力を増す大地震は、同胞を完膚なきまでに痛みつけました。そして、次なる大地震の予告を受けている私達ですが、神様にそのいたずらの規準と尺度を尋ねてみたくもなります。しかし当地は今日現在もっと読む.pdf

第二の「ナボイ劇場」建設となれ        (2016.06.17)

 韓国の仁川から機首を西に向けたジェット機が次に翼を休めるのは7時間後、中央アジアの最大の都市、ウズベキスタンの首都タシケントである。

 広大な中国をひとまたぎ、シルクロードの陸の壁、天山山脈と白い峰々が連座するパミール高原を真下に従え、機首を下げた翼は忽然と現われる大木と緑の生い茂る首都に静止した。旧ソ連時代の面影を残す、広く重厚な街並みをはずれると、次なる光景は地平線まで続く綿花と麦の畑、オアシスに点在する数々の集落をくぐり抜けるといよいよ目ざす砂漠へ到着だ。

 3年続けて現われた我々への歓迎は、今では知り合いを捜すかの様な落ち着いたものだった。今年も子ども達と植えた5000本のハロキシロンの木々、3年の成果は未だ見えないが、自然の恵み(伐採)は頂くものでなく、人の手(植林)が加わってより確実なものになる。そんな意識の芽生えは緑と共に育っていると感じた。

 それにつけても生き生きと作業する子ども達の姿には友好の未来を感じた。笑顔と感動の相互交流プログラムを通して描く我々のもう一つの夢は、いつの日か我々グリーングラスロッツの来訪が砂漠緑化の効果をあげ、日・ウ友好のシンボルである第2の「ナボイ劇場」建設となることであろう。

 シルクロードの要衡、ブハラでは悠久の歴史に酔い知れ、タシケントには夜行列車で戻った。いよいよ日・ウ友好の開宴である。

 昨年に続いて大学で日本語を学ぶ学生達と日本語の交換交流、また日本の茶の湯のおもてなしには加藤日本大使夫妻を始め、多くの来場者を接待し、一期一会の世界を広めた。

 親日国ウズを語る原点は、先の大戦後2万人余りの日本人戦争抑留者が日本の技術で「ナボイ劇場」を建設したことだ。困難なソ連時代を乗り越え「日本人抑留資料館」を私費で開設したスルタノフさんの献身は計り知れず、昨年安倍総理もここを訪れもっと読む.pdf

太平洋戦争経験者Kさんのこと        (2016.04.01)

 弔辞、弔電の「弔」は回避したい言語の代表格でありますが、弔う(とむら)と響けば何かしら人間の尊厳を感ずる格調高い言葉の存在となることに、日本語の不思議さを感じます。

 3月11日、日本中を震撼させたあの東日本大震災から丸5年。午後2時46分、2万人余の尊い命に捧げられた黙祷は、関係団体の主催会場はもとよりスポーツ会場や多くの学校でも、それを中断して弔いのやさしさが施されました。祈りは復興の実効性には乏しいけれど、人々の絆を深め苦難に打ち克つ心を育てるには十分なものでした。

 今なお行方のわからない方々は2500人。今日も海中や海岸を、また沼や川をこの寒さの中、続けられる弔いを越えた慈愛作業に頭が下がります。 あの時以来、幾度と鳴る玄関チャイムの向こうから「ウソ言ってゴメン」と、今も帰って来そうな幻想や、一方ではかない現実が交叉し胸をしめつけます。そしてもう一度だけ「会いたい!」当事者の思いが痛いほど伝わってきます。

 全世界から寄せられた励ましの義援金は莫大な額となりました。苦難は世界を一ツにする。しかし一方で争い事の絶えない地球を俯瞰する時、人の心の二面性に空しさをも感じます。

 弔いと言えば、先の大戦における300万余の英霊に対する魂にもあります。宿命的な自然災害とは趣を異にしますが、繰り返してはならない人類の過ちという視点に立てば、戦争の収拾には大きな意義があります。 その意味で、今次のフィリピン(比国)を始めとする天皇の慰霊訪問は特筆すべきことであり、あのどこまでも淀みのない誠実な人柄と、国民の平和と安穏を希求する日本皇室は世界に誇れます。

 しかし残念ながら、祈りにはその実効力に限界があります。40年前、オイスカ友の会(豊田市南部)を立ち上げたKさんは、南方での戦争体験者でした。復員後、亡き戦友の遺骨収集に係わる中、戦争に対する自戒の心情と共にもっと読む.pdf

人類に助け合いと殺し合いの2面性        (2016.01.29)

昨年暮れ、安倍総理と同じ映画を、しかも2本見るという、めずらしい体験をした(首相の1日から)。

 1本は「命のビザ」の発給を通して人道主義に徹した岐阜県出身の『杉原千畝、スギハラチウネ』の物語である。1940年、当時中立国リトアニアの日本領事館長代理であった杉原は、ドイツ軍に占領され、ナチスドイツの迫害により隣国ポーランドから逃れてきたユダヤ難民に対し、日本経由のビザを発給した。

 事態の緊急性に鑑み、日本政府の承認を待たずして勇断し、杉原は2000枚ものビザを書き続け、6000人のユダヤ人救出に貢献したのである。

 これは後日談だが、昨夏アメリカに趣いた安倍総理にもユダヤ人関係者から謝意が示され、総理自身も杉原を讃えた。

 もう1本は、オスマントルコ親善使節団の600余名が遭難した『海難1890』事件である。明治23年、明治天皇に親書奉呈のため来航したトルコ船「エルトゥールル号」が帰路、潮岬沖で台風に遭遇し、全員が海に投げ出された。

 遭難現場となった大島村(現串本町)では、住民総出で海岸に繰り出し、69名の命を救出したのである。今から125年も前、豊かでない漁村の、しかも言葉も通じない初めて見る異国人の救出劇には、想像を絶する困難があったに違いない。

 そして時は流れてそれから95年後。1985年のイラン・イラク戦争。あのサダム・フセインによって、当時イラン在住の日本人215人に危険が迫っていた。日本人救出のため、日本の自衛隊機も日航も飛ばない緊迫した状況の中、事情を知ったトルコ政府は、「あのエルトゥールル号の恩義は忘れない」と2機のトルコ航空機を飛ばし、無事日本人をトルコ領イスタンブールに導いたのである。

 国内、国外を問わず、こうした美談は枚挙にいとまがない。しかし、一方で残念ながら人類の歴史は覇権のための対立と戦争の歴史でもあり…もっと読む.pdf

東名LC「緑の森ツアー」の25年を語る     (2015.11.20)

 「♪遠く遠くあの果てしない空に…」秋冷の体育館に響く800人の中学生の澄み切った歌声。フィリピン国歌が流れ、手づくりのアーチと熱い拍手と視線の中、比国23人のお客様をもてなす末野原中学校の歓迎行事のスタートでした。

 生徒による進行の下、学校紹介と比国の様子がスクリーンに流され、勇壮な末野原太鼓、遠来の中学生による歌と踊り。そして代表者による英語での質疑応答はハプニングと笑いの連続でした。筆を持っての習字体験もあった。「友」「幸」「愛」の友好言語が、書くというより造形として描かれ、最後は色紙に清書された。ハイ、ポーズ! 日本での最大のおみやげになったことでしょう。

 これは25年の歴史を誇る東名ライオンズクラブ事業「緑の森ツアー」の集大成として招待した訪問団の歓迎の1コマでした。

 4半世紀前、ネグロス島の夜は漆黒の闇、生活水といえば大きなカメに溜めた降雨、並べられた食物にはハエが飛び交い、田畑を耕すのは水牛。泥と油にまみれた鉄の固まりが走る道路は、センターラインも側溝もない。ツアーはこんな状況で始まりました。

 1年目植えられた数千本のマングローブの木々。「無事に育っていて!」の願いも空しく、2年目初めて同行した中学生の前に現れた光景は、あまりに無残でした…もっと読む.pdf

日本は戦争への道あゆむのか           (2015.09.18)

暑かった今夏は「100」と「70」の数字が日々躍りました。今年は戦後70年。広島に原爆投下の8月6日に奇しくも開会した夏の高校野球は、数々のドラマを重ねて100年です。実質97回大会の3年ブランクは戦争によるものでした。

 第1回出場校の京都鳥羽高校主将の平和をかみしめ、平和に感謝する選手宣誓は実に味わい深いものでした。甲子園の大観衆は感動のるつぼでした。

 清新な入場行進。〝雲は湧き、光あふれて…〟の高校野球賛歌「栄冠は君に輝く」のメロディは、行進曲の軽快さに乗り、青春賛歌にも人生応援歌にも聞こえ、胸に迫りくるものがある。

 全力野球の背後の全力応援の存在を忘れてはなりません。中でも最前列でベンチ入りの選手と同じ量の汗を流したであろう野球部員の声を限りの応援や、酷暑の中アルプス席を揺るがす地元応援団、また地域を越えて遠来チームや弱小チームに贈られる甲子園観衆の暖かい声援にも心を打つものがあります。

 5回を終わって素早く行われるグランド整備、白線を大事にする選手、ゲームセット後、健闘を讃え合う握手。涙をこらえ、次のチームのため急いでベンチを空ける。そして整列し、聖地に一礼して去って行く。その一つ一つを大事にする美しい光景の連続が甲子園の魅力でしょう。

 3900余校の1校に与えられる栄冠は、その日を頂点に流れを戻し、次なるドラマが再スタートです。 さて振り出しといえば、この国は70年前、300万人余の英霊を代償に過ちを悟り、二度と戦わない道を選びました。過ちを繰り返さないために何をすべきか、今、日本は大きな分岐点にあります。

 為政者は自国の「平和と安全」を守るをお題目にして、戦争できる普通の国を目指しています。確かに70年の時の流れは状況を一変させ、無節操な国々を説諭する言葉は持ちません。

  しかし、如何に限定的といえども、「イイカ、よく聞け! 俺たちは今迄とは違うぞ」といきり立つことが最大の抑止力と考える稚拙さにはあきれる…もっと読む.pdf

戦争しない日本国に高い評価           (2015.06.26)

今ほど「親日」や「好日」の言葉に癒され、安心を感ずる時はないでしょう。昨年に続いてNPO法人グリーングラスロッツの一員としてウズベキスタンを訪問する機会に恵まれました。今話題のウクライナと同一視されそうですが、趣を全く異にしています。

 入国審査官の柔和な態度、街角から飛んでくる「ヤポン」の好意的あいさつ…。首都タシケントの地下鉄に試乗した折、何のためらいもなくわれわれに席を譲ってくれた。われわれが日本人だから? 余りに年老いて見えたから? 街頭、公園にゴミはまず見当たらない。情操の高い国です。

 昨年に続いて我々に同行してくれた通訳のマリカさんの母校、東洋大学日本語学部を訪問し、学生たちと交流しました。あの妖精コマネチ(体操選手)を思わせる美女らとの語らいは、今訪問の圧巻であり、最大の国際親善でした。

 「この国の人々は、何故我が国に対し好意的なんですか?」と大学の日本語教師に尋ねてみた。それは先の大戦の代償として囚われた2万人余の日本人捕虜がナボイ劇場などの建設に献身的に働いたこと。労働者としての日本人が優秀だったこと。それが今なお語り継がれているからだという。そしてもう一つ、日本は戦争をしない国と評価されているからでしょうとのうれしい返事でした。

 マリカさんの裁量でウズベキスタンの日本大使公邸で、加藤大使に接見できたのも大きな成果でした。首都から500km、遠く離れた砂漠での我々の取り組みに評価を頂き、市民レベルの親善交流の重要性にも触れて頂きました。

 フィリピンに於けるマングローブ植林も、内モンゴルの砂漠でのソウソウの植林も、今回のウズベキスタンに於ける植林活動も、共通点は、我々の行動はあくまでも現地住民への啓発活動に過ぎず、その成果を見るのに…もっと読む.pdf

次なる苦難を乗り越えるために          (2015.03.27)

ご主人亡き後9年間、渋谷駅頭で主を待ち続けた「忠犬ハチ公」。11才の老犬が駅近くの路上で息絶えたのは今から80年前の3月8日の朝のことでした。そしてこの程飼い主上野英三郎博士の東京大学に新たなハチ公像が除幕されました。

 動物と人間との純愛物語は他にもあります。岐阜県郡上市の国道156号線、冬の雪道でスリップして来た暴走車から、主人を守り重傷を負い3本足となった盲導犬サーブが亡くなって27年になります。サーブの偉業を後世に語り継ぐべくサーブ像が郡上の地に建立されたのは、東名LC15周年記念誌によればその2年後でした。

 そして神様は美談に美談を重ねました。サーブ像建立直後、豊田の地で開催されたサーブ賛歌の、ダークダックスによるチャリティーコンサートがありました。サーブの主人亀山道夫さんの傍らの新しい盲導犬が、豊田のパピーウォーカー寺田さんの愛情の下で育った「ベージー」だったのです。

 当日招待されていた寺田さんとべージーの感動的対面に1800人の聴衆で埋まった会場は涙と感動のるつぼと化したのでした。

 何の見返りも打算もない動物達の、屈託のない仕草に、私達は感謝と謙虚さを学びました。悪夢の3・11から満4年、人類社会は忠犬ハチやサーブに劣らぬ連帯社会を築き上げただろうか。

 昨今の凄惨な殺戮の連続に、戦慄を覚えるのは私一人ではないでしょう。ISによる非道な日本人ジャーナリストの惨殺。全裸、寒水、カッターナイフ、想像しただけでも身の毛もよだつ18才の少年の狂気の沙汰。13才の上村少年の遺影が余りに痛々しい。女子大生に至っては誰でもいいから殺してみたかったと言っていたという。 東日本大震災で奪われた2万人の命、紛争や戦渦で消えた幾万の命、同じ命にですが…もっと読む.pdf

有権者の 一票 が群れて民意を成す          (2015.01.09)

わずか1点を取ることがこんなにも難しいものなのか。また、わずか1点を取られることの恐怖にこんなにも胸がしめつけられるものなのか。選手のベンチとダイアモンドの往復は実に50回。投げも投げたり両チームエースの渾身の腕から放たれた白球は実に1399球!4日間に及ぶ0行進のスコアボードは仮設を伸ばしに伸ばし、カメラに入りきらない。

 これは昨夏、灼熱の明石球場に於ける高校軟式野球大会の準決勝の一コマだ。たとえ血気盛んな10代の若者といえども、肉体の限界を超えた果敢な挑戦を支えたものは何だったのだろうか。それは日頃の練習に裏打ちされた肉体と精神力、そしていつも仲間と共にある絆の大きさに他ならない。

 その直後に行われた決勝戦、準決勝の敗者が勝者に託した夢と声援にスポーツの清々しさに酔いしれたものだった。厳しい練習と緊張の試合を通して培われた仲間の和、野球がくれた汗と涙は彼らの人生に大きな大きな財産となったであろう。そこには真実の教育があった。

 「1人のこども、1人の教師、1本のペン、そして1冊の本が世界を変える」。こう訴えノーベル平和賞を贈られた17歳の少女パキスタンのマララさん。

 本来、宗教や教育は平和や人命尊重のためにあるはずなのに、より多くの子ども達に教育をとの悲痛な彼女の呼びかけが、ある日銃口の的になってしまった。

 教育は人生の恵みの一つであり、人生に欠くことの出来ないもの。人々が学び高まることにより、より豊かな人生と明るい社会を創造するという義務を伴う権利が、犯罪の因となってしまった、イスラムの世界の不幸な現実である。

 50億kmの彼方の小惑星にピンポイントで到達し、引き返してくる。水素で車を走らせる夢のような話。21世紀の現代に生きる私達に不可能なことは無いと信じたい。

 しかしこの様な科学の粋を競う英知の教育の一方で紛争や抑圧、差別や貧困に苦しむ世界の子ども達が等しく高い教育を受けられるための訴えは…もっと読む.pdf

捕虜が建築したナボイ劇場にて            (2014.10.10)

 もしかしたら近い将来、「戦後」という言葉が日本語から消えるかもしれません。

 1945年、先の大戦の敗戦でソ連の捕虜として囚われ、荒涼の大地ウズベキスタンに連行、抑留されたのは17歳の少年を含む2万3千人の同胞でした。以後3年間、絶望に耐え異国の地でダム建設や井戸掘り、炭鉱労働、農業労働に使役させられました。改めて戦争の惨さ、残酷さに憤りを感じました。

 これは先頃NPO法人グリーングラスロッツの一員として未知の国ウズベキスタンを訪れ、知った歴史の光景です。中でも先人が残した首都タシケントにあるナボイ劇場は70年の歴史を刻み込んで今も偉容を誇り、市民の文化の聖地として君臨していました。壁面には「数百人の日本国民が劇場完成に貢献した」とのプレートがはめ込まれていました。ウズベキスタンがソ連邦から独立した今、この国の人々は我々に感謝の笑顔を送ってくれます。

 また二度と故国の地を踏めなかった900人余の英霊が13ヶ所の日本人墓地に静かに眠っておられます。そこには日本の桜が植えられ、この国の世代を継いだ墓守りの方々によって見事なまでに美しく管理され、思わず合わす手のひらに震えとこみ上げるものを感じました。

 ユーラシア大陸のほぼ中央に位置するウズベキスタン。点在するオアシスに居住する人々のたくましい生命力にも感動し、目指す全校生80余名の小・中学校に辿り着きました。

 日本の卒業式を思わせるような正装で規律正しく迎えてくれる子供たちにまず感激し、沙漠でも育つソウソウの木の植樹と漢方薬用種子の植え付け作業となりました。

 卒業式の正装のままの姿で大きなスコップを振るう子ら。砂漠の命ともいうべき水を運ぶ子ら。生き生きと働く子供たちにいとおしさを感じました。気温45度、木陰も少ない校庭で昼食をいただき、歌や踊りの交流の輪も広がり、大人たちの不思議そうに見つめる眼差しがとても印象的でした。

 生計の糧は牧畜業のみ…もっと読む.pdf

国際NGOオイスカの海岸林再生に参加して            (2014.07.18)

 40ヶ月前の悪夢 ──東北の玄関口、仙台空港の滑走路をまるで怪物が獲物を呑み込むが如く押し寄せた、あの大津波の脅威と凄惨さをいま思い起こします。
 伊達正宗以来400年、東日本の人々の歴史と生活に溶け込んでいた海岸林は、高波や強風による飛砂、冷害から住居や農地を守っただけではない。かつては人々の暮らしを支える大切な熱源供給地であり、正に里山ならぬ里浜の働きを醸し出していました。そして「白砂青松」と呼称される我が国を代表する景観のひとつでもありました。
 1000年に一度と言われる今回の自然界の怒りは、延長200kmにも及んで東日本の海岸林を壊滅させました。歴史は災害と復興の繰り返しではありますが、地震の猛威は蓄積されたエネルギーの発露であり、その何倍ものエネルギーを復興は必要とします。
 6月初旬、オイスカ豊田推進協議会の一員として、仙台空港を抱える名取の海岸林再生の活動に触れてきました。海外でも植林活動や農村開発を手がけ実績を上げる国際NGO『オイスカ』は、震災直後この地に入り、海岸林再生のための遠大にして最大の苦難が待ち受けるプログラムをスタートさせました。
 事業資金10億円は民間から募り、この10年間で100㌶に50万本の植栽をするというものです。海側に堅牢な高さ7・2mの防波堤を築き、そこから内陸へ幅300m、高さ3mの盛土をし…もっと読む.pdf

世界は日本の品格に期待する            (2014.04.25)

 ソチ五輪もセンバツも数々の感動の余韻の中で、次なる期待に夢をふくらませ通り過ぎました。


スポーツは、一握りの勝者と大多数の敗者の上に成り立っている。言い換えれば、一方は尊厳を持って勝利を祝福し、他方は同じ尊厳の下、敗北を受け入れることだろう。

 そしてその背後に、選ばれた者の勝者を目指すたゆまぬ努力と、その周りにあって支える多くの人々の熱い声援が相混っているところに、スポーツの意義と醍醐味が存在します。

 甲子園の高校野球に、各地の勝者とは別に、21世紀枠で参加する高校がある。本年は奄美大島から春夏通して初の大島高校が甲子園の土を踏んだ。初戦で優勝した京都の古豪に大敗を喫したが、数々のハンディーを越えての健闘は、初々しさと共に人々を魅了した。

 なかでも島を挙げて繰り出した大応援団、そしてゲームセット直後、勝者平安高校を讃える同校校歌に温かいエールと敬意を贈った応援団マナーに、胸が熱くなった。そこには勝者とか敗者の区別の必要は全くなく、健闘を讃え合う人間愛の物語がありました。

 スポーツの健全性とは裏腹に、昨今の我が国と隣国との関係悪化を憂うのは私一人ではないでしょう。今、地球に70億人の民と200を越える国々が存在します。人は2人以上で対立し、3人以上で徒党を組む。その上に他人(他国)より優位に立つことのみが保身と考える、浅知恵を持っているようです。

 領土や慰安婦問題、とりわけ100年前の戦争の歴史認識を、双方が繰り返し持ち出す遺恨試合は治まる様相が全くありません。一方で平和主義をかざし、対話の扉は開かれていると言いつつの…もっと読む.pdf

祖国独立のため参戦した青年の思い出            (2014.02.14)

何の努力もせずして古希に達してしまった。運転免許証の更新も医療費の算出も別枠扱いになった。

 過日、ある文献に、人生幾つになっても教育(キョウイク)と教養(キョウヨウ)が重要であるとあった。更に「今日、行く所がある」と「今日、用がある」の二つが老後を充実せしめるポイントとあった。

 今年も121万人の成人が祝福と期待の中にあった。あの被災地、陸前高田にも晴れ着と笑顔が戻り、その中に友に抱かれ晴れ着をまとった遺影があった。未だ不明の我が娘に寄せる思いは父母にとって余りに惨い1000日間であったことだろう。

 成人式といえば20歳の献血とか少年の主張とかの社会性の啓発が図られる反面、荒れる成人式との汚名に甘んじる時代もあった。一堂に会し紋切型のあいさつに終始する成人式は最早限界であり、何の魅力も感じない。そうした背景を察知し、豊田市は25年ほど前から地域分散型の実行委員による手作り成人式に舵を切った。

 当時公民館(コミセン)は今ほど充実しておらず、当地域は柳川瀬体育館での開催となった。前日までの念入りな準備に続いて、日の出前の凍るような寒空の下、委員が持ち寄った数10台のストーブに火が入り、主賓の来場を待った。もちろん料理も装飾も進行もすべて100人近い実行委員による手作りだった。

 若者の祝福を通してお互い学べることがある。高まり合うことがある。当時からオイスカに縁があった小生は、海外研修生を招待し、国際色豊かな成人式を試みた。その中の最年長のバングラディシュ研修生にスピーチをお願いした。彼は1971年、東パキスタンからの独立戦争に参戦し国を興した青年であった。戦争に無縁の日本青年に与えたインパクトは…もっと読む.pdf


隣松寺信徒スリランカ訪問記  (2013.11.22)

「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、愛によって消え去るものである。」これは、インド洋上に浮かぶ島国、スリランカの初代大統領ジャワルダナのサンフランシスコ講和条約での名演説です。

 戦後処理問題で窮地に追い込まれていた我が国を支持し、対日賠償請求権の放棄を訴えた親日家です。後に彼の角膜は、片目はスリランカ人に、もう一つは日本人に提供されました。

 戦後68年、未だに慰安婦問題や領土問題で友好の道を進むことのできない隣国とは対照的に、心の安らぎを感じます。

 この国との友好に役立ちたい。そんな折りのこの夏、豊田の名刹、隣松寺の信徒36名に加わり、スリランカを訪れました。スリランカの歴史の深さを象徴する世界文化遺産の数々は圧巻でした。往時を偲ばせる巨大な仏塔、石柱、石立像、そして極彩色の壁画は訪問者の目を奪い、2000年の時を刻むお釈迦様ゆかりの菩提樹が大きな傘を拡げ、参拝者に緑陰を提供していました。

 緑のジャングルに忽然と巨岩がそびえるシーギリアロック。5世紀頃の王様が頂上に築いた王宮は、今でも高所恐怖症の人が頂上に辿り着くことを許しません。築城の不思議さは常軌を越えて謎めいて…もっと読む.pdf

熱きドラマは人生の源泉に     (2013.08.30)

──誰にもその時は必ず来る──物騒な書き出しで恐縮だが、球児にとって憧れの甲子園への夢が地区のたった一校を除いて途切れる。そのドラマが盛夏に全国で展開された。

 高校3年生の息子を持つあるお母さんの実話。小学校低学年から握り出したバット。グローブも何回変えただろう。幾度となく切れるスパイクの紐。日に焼け、色褪せた帽子。何回も膝当てし、重くなったユニホーム。そのユニホームが洗濯機の性能試験に寄与した回数はどれほどだろう。

 土日と続く練習や試合は親子に休日を与えない。夏、汗と泥にまみれたユニホームは、さすがに我が子のものといえども…。そして朝までの乾燥が必須…。弁当作り、送迎当番、時にはボール拾いと、好きに義務感を加え、さらに2乗した以上の現実がそこにあった。

 そこに訪れた運命の日。一夜明けた朝、韋駄天息子が初めて口を開く母への神妙な一言。「お母さん、長い
間ありがとう。」仲間と共に耐え、挑んだ厳しい日々。歓喜の勝利と落胆の敗北。熱い思いの中で貴重にしてあまりに重い体感が、感謝の気持ちの現われになった瞬間だろう。

 95回を数えた今夏の甲子園。トーナメントは全国3957校の1校の勝者を決めるためにある。逆説すれば3956校の敗者を創り出すためでもある。「負けに学ぶ」これぞ甲子園伝説の由縁であり、高校野球の命と神髄でもある。

 最後の打者になりたくない…もっと読む.pdf


杉浦エッセイ写真.jpg杉浦弘高
すぎうら・ひろたか、豊田市議会議員、一級建築士、豊田西高校同窓会会長。武蔵野美術大学建築科卒、東京工業大学工学部助手、元豊田青年会議所理事長。豊田市四郷町在住、1946年生まれ。

自由主義は善・保護主義は悪か?         (2017.03.17)

 先回ポスト真実と大衆ファシズムについて述べたがその後、同じ意味合いの「フェイクニュース(偽のニュース)」「嘘をつくデータ」の言葉が使われ始めた。ニュースや情報やデータの多くが嘘である事実が次々に指摘されている。我々はメディアを通してしか世界を知りえず、その情報を我々は事実だと思っている。

 ではメディアは本当に事実を報道しているのだろうか。そうは簡単には言えない。それはジャーナリストの悪意ではなく人間の認識そのものの構造だと言われている。我々は世界全体を見る事も知る事も出来ない。その一部を切り取り報道される。その切り取り方に先入観が持ち込まれ、その擬似的な事実を基にメディアが作り出す世論が政治を動かすからである。

 世論が民主政治を動かす「神」の如きものとなれば、ジャーナリストは自己の主張を「事実らしく」見せて世論を創る事で政治に影響を与える事ができると思い込む事がフェイクニュースを産み出している。トランプ大統領が「メディアは最初から偏った報道で世論を創り出している」と言ったのは正にこの事である。

 ポスト真実は今に始まった事でなく民主政治と不可分である。頼れるのは事実そのものよりも発言する人物に対する信頼性だけとなる。我々にその判断力と創造力があるかが政治の分かれ目となる。

 トランプ氏のグローバリズム(自由主義)と保護主義に対する論評も実はフェイクニュースに近い。グローバリズムとはモノ、ヒト、カネが国境を越え自由化する事を善とするイズムである。世界は確実に行き過ぎたグローバリズムの是正に向かって動き出した。トランプ氏は確かに就任演説で保護主義は繁栄と強さに結びつくと語った。この言葉に日本のメディアや評論家は保護主義はダメ・トランプは利己主義者と批判を始めている。

 究極の保護主義とは共産主義国の如く全ての資本を国が保有し管理する社会でありもっと読む.pdf

大衆ファシズムの真実           (2017.01.13)

 オックスフォード大学出版局(英国)は今年注目を集めた言葉としてPOST─TRUTH(ポスト真実)を選んだ。POST─とは、それに続く語を修飾して「後に」「次の」という意味である。この言葉の登場は1992年米劇作家S・テシッシュ氏が使った造語であり、2004年に米評論家L・キーズ氏が「客観的事実や真実が重視されない時代」と言う意味で自著のタイトル名に「ポスト真実の時代」として使った。

 「嘘でもって人々を先導し、人々が先導されてしまう社会風潮」又「事実か否かの検証が軽んじられ、感情的又、個人的信条に流されてウソがまかり通ってしまう現代性を象徴した言葉」「単に事実と違う意味の〝反真実〟」「〝反事実〟でなく、主張が繰り返されて一種のうねりとなり、みんなが信じてしまう状況」等がその意味とされている。

 英国の国民投票でEU離脱や米国トランプ氏の勝利、そして朴韓国大統領事件も「ポスト真実」現象である。日本ではかつての民主党の政権奪取もそうである。大阪維新の会旋風や橋元知事誕生も、又名古屋市の減税党や河村市長誕生も、そして最近では小池東京都知事誕生もその典型でもある。築地市場や豊洲市場移転に関する盛り土、を始めとする水質汚染、環境汚染報道と大衆の反応もまさに「ポスト真実」である。

 しかし、この「ポスト真実」は政治の世界だけではない。古くは地球温暖化の原因はCO2説となった事に始まった環境基準又東北震災の放射能汚染のデマや熊本震災のデマの流布、又最近特にヒートアップしエスカレートしているタバコ害悪説によるタバコ撲滅運動=「禁煙ファシズム」を始めとする「ポスト真実」現象はいたる所で起きている。この「ポスト真実」は常々小生が「大衆ファシズム」と言う造語で当エッセイでも記している。「大衆ファシズム」とは「市民運動」という名を冠して大衆がヒットラーになっていると言う社会現象を小生なりに整理した造語である。その造語の命名は別として、この「ポスト真実」の指摘はもっと読む.pdf

街頭政治は議会主義を否定         (2016.10.28)

 SEALDs(シールズ)が8月15日に解散した。沖縄の基地問題、安保関連法や改憲に反対をして、国会前や各地で反対デモを繰り広げ、参院選で野党共闘を呼びかけた学生団体である。

 一部の新聞があたかも若者の代表のように報じ、その実態を知らない若者や国民が付和雷同した事は、記憶に新しい。

 その急先鋒が慰安婦問題や原発問題で虚偽の捏造証言記事で有名なA新聞である。シールズの解散を受けて、その「回顧モノ記事」を盛んに載せていた。17日付2面に「街頭政治 シールズが残したもの」として「市民が争点作る、種まいた」等と英雄扱いした。さらには社説にまで「シールズの活動は選挙による代表制民主主義に限られない民意の表し方をわかりやすく、スマートに示した。反発も受けたが、若者だけでなく、より上の世代の政治参加も後押ししたのは間違いない。それがうねりとなり、やがて政党を動かすまでに至った事は、大きな功績だ」と褒めちぎっている。18日からはシリーズを組み、連載を続けた。

 「選挙以外の民意の表し方」と言っているが、日本国憲法前文の冒頭に「日本国民は正当に選挙された国会に於ける代表者を通じて行動し…」とある。民意(国民の意思)は選挙を通じて表されるもので、一部の自己主張、プロパガンダ(主義、思想などの宣伝)を民意とは言わない。

 A新聞の言う「街頭政治」「民意の表し方」とはアナーキスト(無政府主義者)や共産主義者の反議会主義である。議会主義の否定である。憲法は表現の自由を保障しており、街の路上に政治があっても良いが、国政を論じる場合、政治とは国の統治作用を指し、それは国会を通じてなすものであり、街頭政治はそれを真っ向から否定する概念である。 さらにA新聞は「スマート」と言うが汚い言葉で怒号を飛ばし、下品でヘイトスピーチであり、決してスマートではない。さらに若者はシールズに共鳴はしていない。その事はA新聞の参院選の出口調査でさえももっと読む.pdf

ポケモン旋風と無関係か?!           (2016.08.12)

 「ポケモンGO」が日本全国を席巻している。若者だけでなく、背広姿の大人までスマホを両手にいたる所を彷徨っている。「レアポケモンが現れる」と言う情報が流れると、ポケモンを求めて一斉に移動。名古屋の鶴舞公園には、1日で1万3千人が集まったと言う。

 いい大人が一箇所に集まり無言でスマホを凝視して、ゲームに操られて夜中にうろつく姿は、不審者であり、異様で恐怖である。車や自転車を運転中に夢中になり、交通事故が多発する。

 右も左もお構いなし、自分が楽しく夢中になれればいいという、子供化した自己チュウ大人の出現は当エッセーでも指摘してきた。

 こうなると「違法ドラッグ」とどう違うのか、となる。「ポケモンGOは21世紀のアヘンである」とも言われている。漫画家のやくみつる氏がテレビで異論を唱えただけで、「時代についていけない哀れな人間」「これぞ老害」とネット上とテレビで大炎上し、袋叩きにあった。1億総白痴化と言われて久しく、朝日新聞まで「ポケモンGOが日本に興奮上陸」と浮かれていた。「くる所まで来た、日本人は本当にバカになってしまったのか…」

 「日本人の幼児化が進んでいる。歩きスマホが危険な事は子供にも解る…」  それでも身の安全よりゲームの楽しさを選ぶのは、正常な判断が下せなくなっていると言う事だ。事の軽重さえ判らなくなっているという事である。

 爆笑問題の太田光は「馬鹿じゃねえのかっ。皆同じ事をして楽しむって言うのはさ」と言う。

 この十年、新自由主義やグロバール化によって大きな変動が起き、あらゆる秩序や習慣を崩壊させたもっと読む.pdf

美しい分煙社会へ画期的一歩           (2016.06.10)

 今、話題の舛添要一知事のパフォーマンスの一つに、2020年東京オリンピックに向けての「禁煙条例」宣言がある。「飲食店でタバコが吸える先進国は日本だけ、飲食店を全面禁煙とする」とテレビ番組で突如ぶち上げた。

 それまで東京都は分煙問題に取り組んできた経緯を全く無視した不勉強で軽薄なパフォーマンスだった。

 そもそも海外は屋内禁煙であり、屋外及び道路での喫煙は自由である。しかし日本は屋外規制が先行し、今では屋内、屋外完全禁煙状態になりつつある。恐ろしい「いじめ社会」の到来である。

 日本の過剰なタバコ規制は、オリンピックで来日の外国人の路上喫煙トラブルの原因になり、国際問題に発展する。「禁煙条例はオリンピックの失敗を招く」と国内外から指摘されている。

 2002年に路上喫煙禁止条例を日本で初施行した千代田区や、港区が今年の4月から喫煙所設置に500万円まで完全助成する事になった。特に千代田区が「禁煙」から「分煙」に舵を切った事は画期的な勇気ある政策転換である。「美しい分煙社会」への第一歩である。

 かつて本欄でも述べたが、禁煙運動は1988年世界保健機構(WHO)の事務局長就任演説で元ノルウェー首相グロ・H・B女史が「タバコは人殺しです」と口走った事が始まりである。医者達はWHOを敵に回したら大変とばかりにグロ女史の味方について今日に至る。彼女は電磁波過敏症と言う病気で「あの時の私は病気のせいでちょっとおかしかった」と後日ヒステリック発言を撤回している。にも拘らず「タバコ規制枠組み条約」が採択されてしまった。「タバコは人殺し」としての歴史が始まり、真っ先にその尻馬に乗ったのが日本である。

 その時々に流行る考えに易々と乗せられる人間が異様に増える、という現象、すなわち最近流行の「民意」と称するヒステリックな多数派が支配者となった「大衆ファシズム」が横行している現在、タバコに関しては「禁煙ファシズム」となっている。

 アメリカの嫌煙運動は自動車の街・デトロイトから始まった。自動車公害が問題視されると察知したGM、フォード、クライスラーの三大メーカーが議会に圧力をかけ、「公害」を「嫌煙」にすり替え、嫌煙運動が始まったのである。

 車の街・豊田市もあらぬ疑いを払拭する為にも「禁煙」と言う間違いを素直に改め、潔く「分煙」に舵を切り替えた千代田区の正義を範とすべきである。一刻も早く喫煙者、非喫煙者にとって住みやすい、万人にとって優しい、「美しい分煙の街」とする事が「真のまちづくり」であり「真のおもてなし」といえる。もっと読む.pdf

沖縄知事の「正義」は嘘か誠か           (2016.03.25)

 3月4日、安倍首相と翁長沖縄知事は福岡高裁那覇支部が示した和解案を受け入れ、和解が成立した。今後、双方の主張が変わらないと再び法廷で争われる事となる。

 辺野古埋め立て承認取り消し問題は長期化をし、政府と県が修復困難となった。近年高まる沖縄独立運動に拍車がかかる事態となり、正に民族分裂の危機でもあると危惧されていたが、この突然の和解劇で、どのような話し合いが行われたのであろうか。

 2014年11月の沖縄知事選前のこんな話がある。「当時、知事のイスを狙っていた翁長那覇市長は県議時代、辺野古移設賛成・メガフロート推進者だった衣を脱ぎ捨て、選挙に勝つ為に辺野古反対を叫び始め、革新勢力にスリより、尻馬に乗った」と言われ、さらには翁長市長は沖縄の各市町村が一堂に集まった席で「辺野古移設に反対しても、しなくてもどうせ国は移設させる。移設反対を叫んだほうが沖縄振興予算が引き出せる」とうそぶいた。実際にあった事としての関係者の話もある。

 当時、普天間飛行場の移設候補地に沖縄各地からの活発な誘致運動が展開されていたが平成11年、当時の稲峰沖縄県知事は移設候補地として「キャンプ・シュワブ(辺野古)水域内沿岸域」と表明し、岸本名護市長が受け入れ表明した。

 翌年度以降、移設条件として沖縄県には驚くほどの税金が投入される事となる。沖縄県の人口が昭和47年の祖国復帰時の97万人から平成26年末に142万5千人に急増した最大の要因は祖国復帰以来続けられてきた全国に比べ高率の補助費を始め、政府の沖縄振興策によるのである。 平成12年度以降、北部振興事業に年額100億円以上が投入されていたが、平成24年度には沖縄振興一括交付金制度が創設され2512月安倍首相と仲井真前知事が平成33年までの沖縄振興予算を3000億円以上、と約束された。

 ちなみに沖縄振興予算に限っていえば27年度は3340億、28年度予算は3350億と一気に高額となった。加えて事業の補助率は90%(沖縄以外の自治体は50%である)で、残り10は交付税で措置される事もあり、結果ほぼ90%〜100%補助である。その他、数え切れない沖縄優遇措置が講じられている。

 その恩恵が如何に莫大なものかを沖縄県民さえも知っている人は少ない。マスコミが意図的に報道をしていないからである。今回の和解劇は翁長知事が上記のように基地問題を沖縄振興予算獲得の道具にしたのであれば、許されざる、したたかな政治力の持ち主であると褒め称えるべきなのであろうか。嘘の正義ではなく、誠の正義こそ、今、求められている。もっと読む.pdf

最近の子供命名事例に驚く!           (2016.01.22)

 とても読む事のできない最近の子供の命名について。葉萌似(ハーモニー)新千絵(ニーチェ)愛忠人(エチュード)円丸(まとまる)卓瑠(タックル)平太(ペーター)といった当て字系から、当て字のレベルを超えて発想力を試されるような七音(ドレミ)音奏(めろでぃ)春鈴(はるりん)創夢(はじめ)光子(きららこ)三二一(みにー)無(ノン)暴(あらし)初冬(うぶ)慧斗(ジェット)雄(ライオン)等、読解不能な名前である。親の執念と想像力の逞しさには敬服する?

 キラキラネームもずらりとある。宝冠(ティアラ)星(あかり)虹空(ニック)七月(ジュリ)雪精(りた)天使(エンジェル)聖母(マリア)業(かるま)生粋(しぇいき)百獣王(りおん)勇敢(カリブ)天馬(ペガサス)加速(アクセル)走太(ジョンソン)だそうだ。

 さらに男女逆転の名前がブームなのだとか。愛(アレン)主音(トニカ)美音楽(ビオラ)如来(みき)夢倫(メロン)橙(みかん)朗礼(ローラ)優雅子(リラコ)可愛子(アリス)、この可愛らしい名前は全て男の子の名前である。

 「男の子に女の子風の名前を付けるのが〝カッコイイ〟んです」(20才の母親)。そんな子は「男として認められていない」と言う劣等感を抱き、大きくなるにつれ、男であると証明したいという思いが、暴力となり、家庭内暴力や非行に走るとも言われている。

 瑛磨(エース)姫茶(キティ)瑠風衣(ルフィ)一一(ゾロ)舞曲(マイメロ)泡姫(アリエル)夢民(ムーミン)月(ライト)今鹿(ナウシカ)黄熊(プウ)光宇宙(ピカチュウ)大熊猫(パンダ)愛羅生(ラブ)等のキャラクター名である。

 こうした珍奇な名前を付けられた子供は引っ込み思案になり、解読難解な名前は、いつまでも覚えてもらえずに疎外感から自発的に行動を起こせなくなり、又個性的?過ぎる名前は大きくなって恥ずかしくなり、目立つのを避け、逆に個性が発揮できなくなるだけでなく、子供の時はいいが就活面接で不採用になった事例もある。

 奇抜な名前を付けたがる親達は身なりも言葉使いもきちんとしており、20代後半が中心で過度の優等生で社会や周囲に過剰反応してしまうタイプ。自分の意見を主張できず、個性を殺して生きてきた人達で、やっと自分が主導権を握れ、かつ個性を発揮できる数少ない機会がわが子の命名と言う訳で、こうした名前が個性だと思い込んでいる。そう専門家は指摘している。危惧される日本人の大人が子供化してしまったホンの一例でもある。

 名前は親から子供への最初のプレゼントであり、子供の人格形成において重要・重大な問題である。これでいいのかなあ…。もっと読む.pdf

あれは琉球独立運動宣言か           (2015.11.13)

 沖縄県の翁長知事は10月13日、米軍普天間飛行場の移設先である名護市辺野古沖の、前知事による「埋め立て承認」を取り消した。

 防衛省沖縄防衛局は行政不服審査法に基づく審査請求と効力停止を国交省に申し立て、これを受けて政府は知事に代わって国が埋め立てを承認する「代執行」に踏み切ることを決めた。28日取り消し処分の是正を「勧告」する文書を県に送付し、政府と県が「全面対決」する事となった。

 10月21日翁長知事はスイス・ジュネーブで開催された国連人権理事会で辺野古移設に反対する演説を行った。知事は演説で、沖縄県民の権利がないがしろにされているとして「Self-determination」と言う英単語を使った。日本の新聞記者は「沖縄の〝自己決定権〟がないがしろにされている」と訳し報道したが、実はこの英単語は国際法上の権利用語であり、正確には〝民族自決権〟と訳し、その意味は〝植民地や従属地域からの分離、独立〟を意味するとされている。

 つまり知事は「沖縄県民は独立民族である」「沖縄は植民地である」「沖縄には日本から独立する権利がある」と宣言した、と海外では理解される。米紙ニューヨーク・タイムズや英紙フィナンシャル・タイムズの東京支局長を歴任した英ジャーナリスト、ヘンリ・S・ストークス氏は、そういう見解を緊急発表した。

 さらに「一連の知事の危険きわまる言動は完全に一線を越えてしまった」と指摘し、続けて辺野古移設は「世界一危険」と言われる普天間飛行場の危険性を除去しながら、沖縄の基地負担を軽減し、日米同盟の抑止力を維持する「唯一の策」だ、とも。

 中国は1990年代以降、国防費を毎年10%前後増加させ、沖縄・尖閣諸島周辺に艦船を連日侵入させている。沖縄本島への領土的野心もあらわにしている。知事として沖縄の地政学的重要性も考えて判断すべきところを安全保障に対する意識が全く欠落しているのか、視る目と聞く耳と判断する頭を何らかの意図があって持たなかったのかの、そのどちらかだろう。

 知事に不確かな英単語の知恵を付けた人物や組織があるのか。沖縄が大混乱して喜ぶ国はどこか。このような看過できない妄言を振りかざす知事を持つとは、沖縄の将来は暗澹たるものと言わざるを得ない。沖縄に迫る危険性について、日本国民、特に沖縄県民は深刻に受け止めるべきだ、と警告している。

 又知事の演説に対しインターネット上では「日本と沖縄の分断工作の一環か」「分断を画策する某国の手先か」「琉球独立運動宣言か」と言うストークス氏と同じ疑問や指摘が噴出している。そうも報じられた。もっと読む.pdf

安保法案に 戦争法 のレッテル貼るな!      (2015.09.11)

 集団的自衛権の行使が可能となる安全保障関連法案がマスコミと野党の世論操作によって逆風に晒されている。「戦争法案」のレッテルを貼る事でデモ活動等の大衆ファシズムとなり、文化人気取りの人種が加わり、熱病化の様相だ。

 戦後日本は米国が門番を務めるディズニーランド=DLというぬるま湯に長年浸って、世界の波風に晒される事なく、井の中の蛙として平和を享受している。

 2013年に米の軍事費が70兆円に膨れ上がり、オバマ大統領は「世界の警察」を辞めると宣言した。日本も自分で何かやりなさいと通告された。

 門番の米がいなくなればDLの平和と安全は守られない。DL呆けで、戦争を起こさない為の抑止力とは何か、又平和について深く考えてこなかったツケが今来ている。

 憲法学者の主張する自国の憲法のみを主張し、国際法を無視して安保法制を不成立とすれば米が日本から撤退し、国際社会から一国平和主義国のレッテルを貼られ日本は孤立し、中国の脅威は増大する。

 集団的自衛権の限定行使容認を柱とする安保法案が7月16日衆院を通過した。それにさきがけ沖縄の石垣市議会が14日「安保法案の今国会成立を求める意見書」を賛成多数で可決した。

 また石垣市議会では作家の百田尚樹氏と自民党議員の沖縄地方紙2紙に対する報道圧力発言に対する抗議決議案を否決している。沖縄県民の総意として辺野古移設反対を大儀に「オール沖縄」を主唱する翁長沖縄県知事に対し、中山石垣市長は異議を唱えている。

 また尖閣諸島を抱える石垣市長として、石垣市の行政区域の尖閣諸島において中国公船の領海侵犯が日常茶飯事であり、市民は不安な日々である事を訴えている。さらに翁長知事が就任以来、海外訪問に力を注ぐ一方で、離島地域に足を全く運んでいない事も訴えているのである。

 また尖閣諸島は沖縄県の行政区域であるにも拘らず、自分の行政区域に中国の船があれだけ入ってきている状況を中国のトップと会談しながら何も発言しなかった事を「沖縄知事としての資質の欠如・偏向の姿勢」と辛辣に批判した。

 同じ離島の宮古島市も安全保障に対する意識が格段に高い。日々命の危機に晒されている離島の切実なる現実があるのである。

 北方問題では北海道の根室市民は、眼前がロシアとの領海に面し、拿捕される危機の中で怯えながら生活しているのである。

 沖縄の翁長知事を始め、百田尚樹氏に偏向記事を指摘された琉球新報と沖縄タイムズ等は、自分にとって都合の悪い情報は覆い隠し、都合の良い情報だけを唯一の事実とする偏向報道を強めているのである。もっと読む.pdf

集団的自衛権という抑止力            (2015.06.19)

 昨年7月25日号リレー・エッセーにて後藤正氏が「やっと普通の国に近づいた」と日本国民の平和ボケ振りや、憲法改正と集団的自衛権について述べられた。

 かつて、世界の国は自国の安全や発展の為に、戦争に訴える事も出来ると言う権利を持っていた。その後第一次、第二次大戦を経て国連が誕生し、「戦争はこりごり」となり、国連憲章第2条4項で「戦争は禁止」となった。

 しかし国連憲章で明文化をしたにも拘らず、加盟国が守らず、現在も他国を侵略する。そこで国連が考えた。平和を破り侵略行為をする国には国際社会が一致団結して防がないといけない。これが「集団安全保障」である。そして攻撃を受けた場合、安保理が助けるまで自衛をして良い。これが「個別的自衛権」である。

 さらに強大国に侵略された時は他国に助けを求めて戦える権利。これが「集団的自衛権」である。

 しかし「集団的自衛権の行使だから正当である」と勝手な拡大解釈をした戦争が米国のベトナム戦争、ソ連のチェコスロバキア侵攻、中国のフィリピン侵攻である。中国は日本の尖閣や沖縄まで自国領土だと主張し始めている。

 日本でも集団的自衛権に関して、憲法9条との絡みで吉田茂内閣以来、紆余曲折の解釈があった。1950年アメリカ軍が朝鮮戦争に出かけ、手薄になった日本の治安の為にアメリカが「警察予備隊」を作らせ、その後サンフランシスコ講和条約、旧日米安保条約が発動され、日本は独立を果たした。警察予備軍は主権国家防衛の「保安隊」となり、「自衛隊」となった

 一方、「戦後日本が平和でこられたのは憲法に基づく平和主義があったからであり、世界から尊敬されている」 「集団的自衛権は戦争法」というまことしやかなデマを某党や一部マスコミが流し、そのデマに国民が流されている。

 憲法9条があるから日本が戦争に巻き込まれなかったと思っているのは日本人だけの思い込みである。世界はもっとシビアだ。

 日本を戦争に巻き込まなかったのは日米安保条約だ。アメリカの庇護で軍事費を使わずに日本は経済に集中できた。日本に蔓延する自分さえ良ければいいという個人主義、利己主義がそのまま平和ボケとなった。集団的自衛権とは黒澤明監督の「7人の侍」の世界だ。

 今の日本で戦争をしたいと思う人はいない。他国に戦争を仕掛けるメリットは無い。「人が死ぬ」「膨大な金が要る」「世界から非難される」こんな事を望む国民も政治家もいない。戦争を避ける為に一番現実的な方法が集団的自衛権という抑止力である。今一番大切なのは日本の平和だけでなく世界の平和も守る、ではないのですか。もっと読む.pdf

老人性怒り症と類                (2015.03.20)

 昨年1509号の当紙にて、社主の新見幾男さんが「老人性怒り症」という症状と病名について記し、正式病名ではないが勝手につけた、と述べていた。粋なセンスとブラックユーモア的な命名に口がほころんだ。

 周りにこの症状の老人が多く存在し、ご自分にもその自覚があるのだそうだ。老齢化と共に自己判断力が衰え、怒りが抑制力を超え爆発する症状だという。

「老害」と言う言葉があるが、怒り症はその一症状であろう。

 片田珠美著『他人を攻撃せずにいられない人』(PHP新書)が出版された。害を及ぼす攻撃型人間が急増している。害になる人間は以下の特性を持つと言う内容の本である。

 ──何らかの役職にあって権力を独裁的に乱用をする。人の意見には一切耳を貸さず誰の助言も聞き入れない。相手が従わないと激怒し、非難し、手段を選ばず脅す。自分の都合にねじ曲げて解釈する。「忘れる」「何もしない」「遅らせる」と言う受動的攻撃を仕掛ける。話し合いをぞんざいに片付けようとする。朝令暮改の虚言癖がある。質問にはちゃんと答えず、はぐらかす。周囲に揉め事を作り、巧妙に波風を立てる。口で言う事とやる事がずれている。支配欲・自己顕示欲と承認要求度が異常に強い──

 怒り症と攻撃病は同じ病気の症状であり、老齢化によって重症化する。実は老人限定の病気ではなく、今の日本社会自体が攻撃型・怒り病を患っていると感じている。

 かつて当エッセイでも書いたが、我が街の特産品でもある自動車のデザインにもこの症状が見えるる。人に優しい車を標榜する一方で、車の顔は威圧的な怒り顔に仕立てられている。

 モンスターペアレンツ達のヒステリック症候群も怒り病の一症状である。気に入らない事があると騒ぎたて、裁判にまでエスカレートさせてしまう。人のミスを許さない。謝罪会見をさせ、謝罪の態度が悪いと言ってさらに怒り狂う。又、少数派や弱い者と見るといじめや攻撃をする。

 そんな大人を見習って子供達は弱い者を探してネットいじめや、様々ないじめをエスカレートさせる。最近の川崎市の中学生殺害事件も弱いものいじめが殺人にまでエスカレートしてしまった事例だろう。

 いじめ問題は子供限定の問題だと大人たちは勘違いをしている。実は我々大人たちが無意識・無自覚にいじめをしている事に気が付いていない所に、いじめ問題の根深さがある。

 嫌煙権を掲げ、禁煙・健康論を振りかざす大人も知らずにいじめをしている攻撃型・怒り症である事に気付くべきである。少数派をいじめず、少数派も生きられる社会を作りましょう。もっと読む.pdf

人口減少を前提にした価値観           (2015.01.01)

少子化と高齢化が一括りに論じられるが、本当に危機的状況なのは実は少子化であり、日本に必要なのは三人っ子政策である。と前回のエッセイで記した。

 今回は高齢化が少子化とは全く別な人口減少問題である事についてであります。今、日本が経験している高齢化とは、一言で言えば、高齢者の絶対数の増加、より正確には75歳以上の人口の急増の事である。これを「高齢化率」の上昇の事だと思っていると事が見えなくなってしまう。

 国立社会保障・人口問題研究所の2012年中位推計によれば現在、85歳以上のお年寄りは400万人。これが2040年には1000万人を超える。しかしその先の2070年には85歳以上の絶対数が激減するという。

 少子化は際限なく続くが高齢化は時間が解決する事になり、高齢者も激減となり、高齢化問題は消滅し、子供もお年寄りも、どちらも激減するのである。今、激減している子供たちが50年後には高齢者となり、その結果、前々回のエッセイでも記したように2060年には昭和30年代と同じ人口の8674万人、2082年には6406万人となりピーク時の半分となる。

 2012年イギリスのエコノミクス誌の将来予測では、2050年の日本のGDPは現在の世界第3位から韓国に抜かれてロシアやブラジルと同程度となると評された。

 確かに人口減少は日本がトップランナーではあるが、今後、韓国やロシアも日本以上の急速な人口減少の時代に入り、世界各国で深刻化する事が、エコノミクス誌の将来予測にどれだけ盛り込まれているのか怪しいとも言われている。

日本以外の国々でも起きつつある人口減少は「100年の経済常識」と言われているアメリカ型資本主義、いわゆるマネー資本主義が招いた当然の帰結であると考えるべきである。リーマンショックがその帰結の象徴でもあった。

 どんどんエネルギーや資源の消費を奨励し、それを上回る利益を上げればいいのであり、規模を大きくする事で利益は増え、それが「豊かさと言う事なのだ」と言う経済至上主義や、人が動かなくても機械が動いてくれるという車社会に象徴される利便性至上主義からの脱皮をしない限り、人類の幸福は訪れないと当エッセイでも述べて来た。

 アメリカ型資本主義は人口が増大すると言う前提で成り立っている事、そして人口減少が避けられなくなってしまった以上、ここに来てアメリカ型資本主義・マネー資本主義から新たな価値観による資本主義への転換が求められている。

 目指すは「過剰な豊かさの為」でなく、人口減少前提の「自然と人間の幸せの為」の価値観であろう。もっと読む.pdf

日本創生は「三人っ子」政策で           (2014.10.03)

 少子高齢化が異常な速さで日本列島に蔓延し、日本列島から人間が激減しようとしている。その結果、在って当たり前の自治体、学校、病院等々で働ける人間が居なくなり、我々が考える経済・社会自体が成り立たなくなる。

 少子化と高齢化を一括りにして少子高齢化問題が論じられているが、本当に危機的状況なのは実は少子化である。そして人口増政策が日本の最優先重要課題である。と前回のエッセイで記した。

 又人口減少となってしまった2つの原因の一つである「女性の社会参加」に関して、安部政権が秋の臨時国会に提出する「女性の活躍」推進法案の骨格がこの8月に判明した。

 「2020年までに女性管理職を30%に」が政府目標。女性活躍企業に対し助成金を出し、国と自治体の公共事業の受注機会を増やす。税優遇をするという事である。

 経団連や各企業がこぞって女性比率の計画数値を公表しているが、現場では多くの問題が発生している。男性社員のモチベーションが下がり始めた。2013年の民間企業の課長職以上の女性比率は7・5%に過ぎず、10のポストに対して0・75人である。それを30%に増やせば男性のポストが2つ以上減ることに成る。管理職ポストが増える見込みは無いとすれば、2~3人の男性管理職は、能力とは関係なく降格させられる。

 こうした数合わせの弊害があちこちで発生している。ある金融業の昇進審査には女性枠なるものがある。課長にふさわしいマネージメント能力があるかを審査する筈なのに、女性の割に優秀だからと下駄を履かせて昇進させる。又男性より少し能力が劣っている場合も女性だからと昇進させる、と言う企業が出始めている。

 その一方で独立行政法人「労働政策研究・研修機構」が一般従業員に課長以上への昇進希望があるかを問うた。男性は598%があると答え、女性のそれは109%に過ぎないという統計結果が出ている。会社のトップが経済界や業界に気を使い「部下なし女性管理職」を誕生させるという苦肉の策で無理やり出世させるという悲劇が起きている。

 男性社員が逆差別と感じることは容易に想像がつく。女性の社会参加が日本創生の為、の筈が企業の劣化を産み、人口減少に拍車をかけて日本の劣化を進めてしまう。「そんなことをしている場合ではない」。

 憲法問題、外交問題、朝日新聞を始めとするマスコミの偽造記事等々、多くの日本の課題はあるが、今率先して行うべき事は中国の一人っ子政策や日本の二人っ子政策(昭和49年)を反省し、今日の日本が「三人っ子政策」をまず柱として実行し、日本創生すべきである。もっと読む.pdf

女性の社会進出で人口増えるか?            (2014.07.11)

 日本列島から人間が消えようとしている。国立社会保障・人口問題研究所が将来推計人口を発表、日本創成会議・分科会も危機的状況の推計を発表した。

 人口は今1億2722万人、2050年には1億人を切る。2060年には8674万人、昭和30年代と同じ人口になる。2082年には6406万人、ピーク時の半分だ。2110年には4300万という。

 日本創成会議は研究所の統計を基に、地方から大都市へ人口が一極集中すると見る。特に20歳~39歳の子供の産める年齢の若年女性が、2010年から大都市に集中し、地方から減少するとした。

 若年女性減少率が50%を超え、人口が1万人を切る、いわゆる「消滅危機市町村」が全国1718ある。2040年にはその半数の896市町村が消滅の危機に瀕するとされた。

 では何故、人口が減り続けるのか。その原因が大きく2点指摘されている。

 1点は戦後からの産児制限である。特に団塊の世代ジュニアが急増した事を受けて、昭和49年政府の人口白書で出生率を4%減らせば2010年までには人口は減少に転じる、と発表した。

 日本人口会議は「子供は2人まで」との宣言を採択し、人工中絶や避妊用ピルの公認等の産児制限に取り組んだ。今の人口減少は産児制限の効果が見事に成功したもので、減少の勢いが止まらなくなった。

 2点目は女性の社会参加が進み、人生の選択肢が増えた事だ。女性の結婚と出産に対する意識が大きく変わったのである。

 さらに出生率はここ数年1・43まで回復しているが、生まれる子供の数は減っている。若年女性が激減したからである。

 安倍政権もここに来て人口減への危機感を強めている。が実は政府はまったく矛盾した事を女性に要求しているのである。社会参加をして、もっと働けという一方で、子供をもっと生めと言っているのである。

 地方自治体も同じ矛盾した政策を行っている。女性の社会進出が進んでいる国は出生率が高い、という説があるが、統計の収集時点から意図的な操作があり、実態は逆に低くなるとも言われている。この矛盾した政策を続ける限り人口減はもう止まらない。何をしても日本人は減る。

 人口が上記の数字になれば、消滅の危機は自治体だけではない。働く人間がいなくなり、客がいなくなる。つまり仕事が無くなるのである。会社、組織、コミティー、学校、公共交通機関、病院等々がなくなり、市場がなくなる。

 我々が考える経済も、社会自体も、成り立たなくなる。人口増政策は日本存続のための、最大の最優先重要課題なのである。もっと読む.pdf

さらに知能自動車は進化する?            (2014.04.18)

 車と自動車。この二つの言葉は日頃の意識や会話では使い分けされない。

 自動車が発明された時代は、車輪が付いているだけの道具を車と言い、エンジンという機械によって自動的に動く車を自動車と呼んだと思われる。近年では車も自動車も同じものを指す言葉として何気なく使われている。

 平成15年、市議会特別委員会で国土技術政策総合研究所と産業技術総合研究所を視察した。AHS(走行支援道路システム)、スマートコミュニケーション
(カーナビ、VICS、ETC)、インテリジェントビークル(AVCSS)、自動運転システム(知能自動車)等についての視察だった。

 当年度はITS関連予算だけで3630億円だった。ITS研究は1960年代初めに始まり、現在までの約50年間の累計額は天文学的数字の予算であろうと想像できる。 

 そしてAHSとAVCSS以外は全て当たり前の事実となった。と言う以上に車と交通の電子化と情報化は驚くほど進化した。

 その結果、故障車のチェックがコンピューターでしか出来なくなっている。進化した「知能自動車」だけでなく、コンピューターを介する事無く、人間だけで整備できる「アナログ車」を必要としている人はいないのだろうか?

 これ以上便利な知能自動車ばかりにする事が人間にとって本当に必要なのか、と不安になる。自動制御の安全な知能自動車も環境・エネルギー・安全性という面では必要ではあろうが、アナログ車を作る事が人間にとっては不可欠のように思うのは安っぽい感傷だろうか? ガラパゴス人間の発想なのであろうか? コンピューター制御のロボットに振り回されるだけの時代は寂しく、悲しく、楽しくない。

 最近の自動車のデザインでも気になる事がある。ライトの形状やフロントエンドのデザインのことが気になるのである。

 技術の飛躍的進歩でどんな形状にも出来るようになった結果なのか、吊り上がった怒り顔とか、鋭角な矢じりの様なヘッドライトとか、口を大きく開けた仁王様の憤怒の怒り顔であったりする。映画のプレデターやスターウォーズのダースベーダーの口、その部下の白兵のヘルメットの様な顔のデザインの横行…。

 その流行はアウディ車の、顎が外れ垂れたように口を大きく開けたデザインから始まり、異常に流行ってしまった。そのほうが大衆に歓迎され売れるのであろうし、世界の自動車デザインの一つの傾向でもあろう。

 あまりに威圧的で挑戦的なデザインではなく、見た目に穏かで「人に優しい顔の自動車」を私は懇願するものである。もっと読む.pdf

人生は公平でも平等でもない            (2014.02.07)

人世には思い通りにはいかない事が厳然としてある。人生は、この世は、そして人間は、公平でも平等でもないのである。

 ヤンキースに入団の田中将大投手と他の選手と比較して不平等だと指摘する人は誰もいない。彼らの成績と才能と努力を認め、ある違和感を抱きつつも、誰もが納得している。

 しかし何故か今の社会や教育現場においては才能や努力による成績に順位をつける事が、学力でも運動能力でも不平等、差別とみなされ、悪い事とされている。現実には人夫々、産まれる環境は平等ではない。田中選手の例に限らず「人は皆平等」ではない現実の中に生きている。

 ここで言う「人は皆平等」とは「人は皆平等を目指す」という事であって、「実際に平等である」と言う事ではない。又「人は皆平等になれる」という保証でもない。また「平等」とは「機会の平等」であって、「結果の平等」ではない。

 機会の平等は全ての人に与えられるべきであるが、その結果は決して万人平等ではない。各人の努力とその取り組みによって結果は様々である。

 結果が不平等だからと言って、ヒステリックに他に責任転嫁をして、文句と要求ばかり並べる人々が急増している。日本人の思考から現実を正視する視点が失われてきた事にこそ、今の日本の悲劇がある。

 これを認める事が出来ないと人生を見失う。社会が崩壊する。人世の全てが平等ではない。又想定外が当たり前である。善と悪のハザマで生きているのが人世である。ドイツ語にゾレンSollen= あるべき姿)とザイン(Sein=あるがままの姿)とがあり、人間や社会の目指すべき姿と現実の姿とが、明確に区別されている。

 それが戦後の日本では、平等、公平、人権、平和、自由が何より大切だと教え込まれ、ゾレンとザインがごちゃ混ぜになってしまっている。

 ゾレンだけが全てとされて上記の理想的な甘い言葉がザインという人間が持つ本質的部分を覆い隠す。現実を正視する視点と勇気を奪ってきたとも言える。

 自由も平等と同じようにはき違えられている。人生は自由に思いのままになると錯覚し、不自由な事は他人のせいにするという、自分勝手さに変質している。個人の自由は我慢、辛抱、自制が不可欠だ。

 理想はどんな状況になっても持ち続け、理想のゾレンに近づける努力を怠ってはいけない。しかしいささかでも社会の一員である人間が平等、自由で有りえない以上、そこに必ず区別や差異や上下関係の意識が生まれる。理想に反する現実が存在する。それを正視する覚悟と勇気を持たなくてはならない。もっと読む.pdf

大人の男が生きられない  (2013.11.15)

 中日ドラゴンズの高木監督が退任し、谷繁監督が誕生した。2年前、中日を常勝球団に作り変えた落合博満監督が観客動員数の減少を理由に首を切られた。高木監督の2年間で握手やサイン作戦と言うサービスが観客動員増に繋がると勘違いし、野球の質の維持が疎かになり、遂にBクラスに転落、当然、観客動員は激減をした。落合監督の失脚で一番喜ぶのは他のチームとファンである、と2年前の当エッセイで述べた。

 予想どうり、2年連続で巨人がセリーグ制覇した。その結果、落合監督の退任の道筋をつくり高木氏を監督に据えて中日OB中心の仲良し軍団を編成した反落合派の球団社長、管理担当取締役、営業担当取締役の3人が更迭された。

 中日のオーナーが強いチームに立て直すには落合氏しかいないという事で落合監督の再登場となる筈であったが、会談の結果、落合氏の提案で落合氏は中日球団史上初のGMとなり、監督には谷繁氏が現役にこだわり、選手兼任監督となり、落合監督を支えた森繁和氏をヘッドコーチに復帰させた。野球をよく知る3人によるトロイカ体制が出来上がった。

 たった2年で監督によってこれほどダメになるのかと思うほど弱体化したチームの再建は長くて2年、うまくすれば落合監督初年に優勝した、という同じ夢の再現が大いに期待できる。2年前に高木監督誕生で優勝のチャンスが増える、とほくそ笑んだ他のチームやファンが苦虫をかんでいる姿を想像するのは楽しい。「落合は嫌い」と言うドラキチやマスコミは多い。

 彼の人気が無いのは本人の不遜とも思える態度や子供じみた質問には馬鹿にして答えない等であるが、しかし野球人としての卓越した野球理論や組織論、又大人の男としての言動は大いに好感が持てる。しかし今の日本はそんな大人の男の存在を認めようとしない。解りやすい過剰な説明がないと許そうとしない。

 この現象は野球界だけでなく、大人の男が生きられなくなり、成長しきれない子供ばかりの幼稚化した「こども文化」国となってしまった。政治もしかりだ。民意と称する風潮が子供の駄々をこね、何かあるとヒステリックに責任転嫁して他人の責任をなじるだけである。

 かつて落合監督が「現有勢力で勝つ」と、言った。あれこれ贅沢を求めず、人のミスを責めず、責任を他に求めない。自ら責任を負うと言う大人の姿こそ日本に必要である。

 子供ばかりでは国力が落ちるのは当然である。昨今の原発問題、ホテル等の料理の食材問題、嫌煙問題等々、全ての遠因が民衆の「子供化」にあると心するべきである。特にマスメディアはその傾向が顕著である。もっと読む.pdf

理の合理主義から情の人間主義へ    (2013.08.23)

『便利は人を不幸にする』(佐倉統著)というタイトルに惹かれ、購入した。14年程前の『不便な事は素敵な事』(桐谷エリザベス著)以来、同趣旨の書籍は小生の知る限り皆無である。

 人間の無限の欲望が科学技術を進歩させ、便利な事は幸せな事だと信じられてきたが、その裏で多くの不幸を招いている。インターネット、携帯電話や情報伝達機器の出現、車に至ってはコンピューター満載で人間の持つ機能では車の異常も見つけられない。野菜の品種改良・遺伝子組み換えで、それを食べる動物や人間の心身に異常な現象が現れ始めてもいる。

 科学的な証明がされてはいないが、かつてサトイモの葉や茎を人家や畑の近くにちりばめておけば猪は来なかった。今の猪には効き目がない。サトイモのヌルヌルを嫌う消費者むけに品種改良し、ヌルヌルを無くした事が原因ともいう。

 どんどん便利になる科学技術、過剰な便利さの追求の裏で人が不幸になっている事は間違いがないだろう。東北の震災以来の原発問題も便利さの過剰な追求が大きな原因となっている。

 ここで問題なのは便利さを過剰に追求し、それを欲望してきた我々国民全てにその責任がある。声高に過敏な反応をし、原発反対を叫ぶ人々の声や心は正しく、間違っているとは思わない。人々は原発の問題だけでなく、その前に過剰な便利さに汚染された自分の生活から正そうとしているのだろうか。

 冒頭の本に次の様な一節がある。科学技術の進歩と人間の価値についての山形浩生氏の言である。どんどん便利になるべきだし、なった方が善いし、なるに違いない。便利さを危ういと感じる事自体が贅沢で恵まれている状況である。

 人間はいつの時代も、どの社会でも、昔のつらい事を忘れ、良い事だけを覚えている。孔子の時代から人の悩みの総量は同じであるのだそうだ。称して「総不幸量一定の法則」と言うのだそうである。

 又、著者は日本の明治の近代化はこのような合理主義的志向を発展させる事で推し進められてきたという。福沢諭吉は科学が社会の基盤になるべきだと力説し、前近代性の克服を目標とした。科学技術の位置付けは今と殆ど共通するとも述べている。「何かが変わった」と東北震災以来言われているが、何が本当に変わらなければいけないと考えているのか、疑問でもある。

 天変地異の時代の人心の混乱は、科学技術による過剰な便利さと合理性の追求への妄信の結果でもある。理を優先する合理主義から情を優先する人間主義の世の中へ舵取りをしないと、見せかけの幸せからの脱皮は出来ずに、不幸の坂を転がり落ちる事になるのかも知れません。もっと読む.pdf

森さん.jpg森  當
もり・あたる、豊田市舞木町、1933年まれ。小説「はみだし会」で第33回農民文学賞、毎日農業記録賞優良賞、豊田文化功労賞。創作集『巣立ち』『桃の里』『同行二人』、『明治の村医者 脩平伝』『桃園雑記帳』出版。農業経営を後継に譲り、フリーに。桃俚庵庵主。

戦争する国にしてはならない          (2015.08.21)

 今年の三月は寒かった。部屋の整理を思いついて、手始めに本棚の前に積まれていた雑誌や新聞の山を片付けることにした。ミカンの段ボール箱三つに入れたら、なんとか寄りつけるようになって、それを焼却炉に入れて火を付けた。燃やし終わって、部屋に帰ってやれやれと思って、使い古した傷だらけの机の前に腰をおろして、机の上を見渡してからが大変であった。

 いつも目にしていた雑誌がないのである。それは『街道をゆく』の作者の最後の取材記事を載せた週刊誌だった。「絶筆『濃尾三州記』一挙収録」の内容で、表紙には「司馬遼太郎の遺産」(街道をゆく)と書かれ、その下に銀髪で黒淵眼鏡の作者が、頬杖をして、白い歯を見せて笑いかけている。脳裏から消しようのない一冊だった。 司馬遼太郎さんが亡くなったのは1996年だから、すでに20年ちかくたっているのだが、ついこの間のことのように思えて、この雑誌を燃やしたことが何とも残念であった。

 それもあって、晴れた日には柿の剪定に精を出し、家にいる時には、買いそろえたがまだ読み切れていない文庫本全43巻の『街道をゆく』を読んでいる。飽きることがない。 このところ物忘れがひどい。日程の記憶は2枚のカレンダーに印をつけておくのだが、しばらくするとそれが何の予定であったか分からなくなってしまう。行事名を書きこんでおけばいいのだが、それをやらないのである。

 そんなずぼらな男だから、いくら大切な雑誌でも燃やしてしまう。愚痴をこぼしても笑われるのが関の山だ。一人無念の思いをかみしめるより仕方がない、と思い定めていたのだが、半月ばかりして、その燃やしたと思っていた雑誌が出てきたのである。

 しかも、前から置かれていた机の上にあった。燃やしてしまったと思って、パニックになっていた時も、それはなんでもない一枚のチラシの下に隠れていたのである。

 ゆっくり頁をめくって、絶筆『濃尾三州記』を読んだ。高月院の山門が描かれだ…もっと読む.pdf

日本国憲法9条を語る小説           (2015.05.29)

 厚木市の飯塚さんから先日送られてきた作品集の中に「馬酔木の花」と言う小説がのっていた。霊峰富士山を見上げる駿河の国と、相模の国に住んでいる農村の男女の、物語である。

 主人公のゆう子は神奈川県のある農協の信用窓口係の職員、青年は富士山の静岡県側の園芸農家の跡取り息子。ある日、ある時、富士山を見上げる足柄山の峠で出会うところから話が始まるのだが…。

 農協の新年宴会でひょんなことから、万葉集の和歌を皆の前で読みあげて紹介したことから「万葉サン」という渾名がつけられたゆう子は、職場の中で浮いてしまって孤独に悩まされ、晩春の一日、一人でドライブに出かけた。

 行く先は足柄峠。標高は1200米ほど、目の前に下から上まではだかの富士山が出迎えてくれた。万葉集の中に十二首も歌われている足柄峠。日曜日だが、まだ誰もいなかった。

 見晴らし台のテーブルもベンチもある広場に登った。そこのベンチに腰掛けて、途中で買ったコーヒーをのんだ。その時、駐車場で車の停まる音がして、若い男が降りてきた。男は、ゆう子に断って反対側に腰掛け、ゆう子に背を向けて「ではいただきます」と富士山に言ってコーヒーを飲んでいた。

 「僕は目の下の御殿場からきました。そちらは神奈川でしょう」「あらよく御存知で」「盗難車ですか、相模ナンバーがついていますよ」 男の名前は竜太。富士山のふもとで施設園芸をやっている両親の園芸会社の新米社員だった。この出会いが縁で…もっと読む.pdf

蓮根の齢になりて本を出し           (2015.02.27)

今年に入って農民文学会の大先輩である厚木市の飯塚さんから二冊の本が送られてきた。どちらも300頁を越える創作集だった。その一冊にペン書きの栞がはさまれていた。
 「蓮根の齢となりて 本を出し
 妻に先立たれ、私の先も見えてきましたので今までのものをまとめました。お手すきの折ご笑覧下さい」

 昨年の総会で飯塚さんの口から奥さんが亡くなられたことを初めて聞いた。年の暮れのことだったという。「どこか悪かったのですか」とたずねた僕に「あっという間のことだった」とだけ言って下を向いてしまった。 それ以上の会話を拒否するような強い言い方だった。

「知らずにいてお悔やみもせずに…」と詫びたが、「どうしようもなかった」と繰り返し言われた。

 六年ほど前、東京で一泊した次の日の朝、飯塚さんの家を訪ねたことがあった。二月の初めのことで、教えられたように小田急線で厚木市の駅で降り、飯塚さんに電話した。東京の近郊にある厚木駅の前は人も車も多く賑やかだった。

 飯塚さんはほどなく車で迎えに来てくれた。彼は運転をしながら、東京の衛星都市となった厚木市の変貌をはなしてくれた。企業団地も、住宅団地もまだ空き地が目立っていたが、東名高速をはじめ、高速道路網が整備されていて、車の街でもあった。

 飯塚さんの家は、その中心街から三十分ほど走った郊外にあって、田舎道のつきあたりに建った二階建ての新しい大きな家であった。家の前にはひろい畑が広がっていた。そこで奥さんと二人で農業をやっていた。子供たちは独立して街に住んでいるということだった。

 明るい床の間のある部屋で昼食をよばれながら、いろいろと話を聞いた。家の前の畑に野菜を作ると、集落の背後にある山から野生の猿の集団がおりてきて…もっと読む.pdf

遠い旅の記憶に誘われ2泊3日           (2014.12.05)

身体が思うように動かなくなり、頭の回転がにぶくなったが、「佐渡」だけは行っておきたい、と思うようになった。日本海側の車窓に時々見えた不思議な島影が思い出された。遠い昔の旅の記憶だ。

 まだ行きたい場所はいくつもあったが、それはそれで、とにかく「佐渡」行きと決めた。と言っても一人で気ままに行くというわけにはいかないから、同行者を頼んで、その都合に合わせて、というよりお任せしての二泊三日の「佐渡行」だった。

「荒海や佐渡に横たふ天の河」を思い出して松尾芭蕉の「奥の細道」を探しだして見る。「月日は百代の過客にして行き交う人もまた旅人なり」と読み出したら止まらなくなる。
さて当日九時半、観光バスは豊田市内の集合場所を出発して高速道路に入ると、日本列島横断であった。途中三回ほど休憩して新潟の直江津に到着。ここからカーフェリーにのって佐渡の小木港。暗い佐渡の海岸道路を走って目的の両津港のホテルに着いたのは夜の八時少し前であった。家を出て十時間あまり、やはり佐渡は遠かった。

 旅となればやはり司馬遼太郎の『佐渡のみち』を読まなければと、これも探し出して読む。佐渡の近代にいたるまでの金銀の産出量が書かれている。豊臣秀吉が死んでその子秀頼に残した金銀は、金九万枚、銀十六万枚、金貨五貫匁、銀貨二十貫匁、大判千枚吹、二千万枚吹。この金銀に石田三成らは目がくらんだに違いない、などと余計なことを考える。

 徳川の江戸時代に入って、いよいよ金銀採掘は進んで、明治維新の時、徳川の金庫にはまだ三百年を賄うほどの金銀が積まれていたという。それはどうなったのか。記録は「近代日本の基礎になった」とそっけない。「佐渡のみち」にはそれに関連した無宿人の話が詳しい。

 二日目の夕食の時、宿の女性が「食べ物はレンコン以外なんでもとれるのです。魚介類もすべて佐渡の海で取れます」といって…もっと読む.pdf

今の社会を農村から見た注目作            (2014.09.05)

長野県の飯島勝彦さんから『夢三夜』と言う作品集が贈られてきた。副題に「TPP・原発・憲法」とあった。
 第一夜の夢物語は、定年退職して一町歩の水田と野菜をつくる農家が主人公。
 コメの収入は今の米価では共稼ぎの三月分にもならない。日々必要な生活費は兼業収入に求めざるを得ない。「こういう所と、平均140町歩のカリフォルニアのコメ農家を競争させようてんだから、わけがわからねえ」「百姓はやるなってことよ、国民年金で細々暮らせとさ」と思う。TPPに加入し関税が撤廃されると、自給率は十%を切るという。
 そこへ米国の旱魃と豪州の洪水が原因で食材輸入が途絶えてしまった。中国の塩害と砂漠化による食糧不足が裏にある。「コメを売ってくれ! 金はいくらもある!」街の男が叫ぶ。
 「駄目だ! これはうちの家族のぶんだ!」「あんたが守ろうとする家族はわしらにもあるんだ。よこせ!」
 背後で銃声が鳴り、衝撃が背中を走った。途端、目覚めた。私は生きていた。
 第二夜の夢物語。地震によるマグマの活動で、主人公の住む信州の浅間山が火柱を上げた。次いで八ヶ岳、蓼科山まで火柱をあげ、その火砕流は集落にまで押し寄せてきた。
 主人公は集落の高台にあるお寺に逃げ、その石段を登り始めた。そして石段を登り切るところで足首をつかまれた。みるといつもの町の人間の手だ。途端に目が覚めた。私は又生きていた。
 第三夜の夢物語。「おれみたいな非正規が半分以上いる、こんな国何とかしてもらいたいな」息子が言う.…もっと読む.pdf

2年ぶりに日本農民文学会総会に出席して            (2014.06.20)

二年ぶりに農民文学会の総会に出席した。東京はスカイツリーの見学や、2020年東京オリンピックの準備で様変わりしているらしい。心配したが、係員に訊ねたずねして無事に会場にたどりついた。

 昨年は総会は欠席して何となく体の力が抜けた。千葉県の遠山さんからの年賀に「今年の総会には会えるのを楽しみにしています」と言う誘いを楽しみにして、足腰鍛えてきた甲斐があった。老体の一人旅も「案ずるより、うむがやすし」などと内心ホッとしていた。 「私今年96歳大丈夫かな〜」と書かれていた遠山さんの姿はなかった。同じ千葉県の会員にも消息は分からないらしい。

 ことし第57回の農民文学賞の受賞者は2名。

 小説『管山』・野川義秋。「管山」とは「天皇陛下様の山」である。鹿児島県の野々宮という田舎にある広大な管山にかこまれた子供や大人たちの暮らしが克明に描かれていて、現在の権力志向を暗に批判していた。

 詩人の山田清吉さんは古くからの会員で、詩集・『土偶』(でこんぼ)がある。

  「解らん事」
 うらは百姓じゃった
 あの頃は朝から晩まで、 
 田んぼ 田んぼ仕事で仕
 事においかけられ腰をの
 ばすまもなかった
 百の苦労を重ねて
 百俵の米俵をおさめた
 親爺は五十代
 おっ母ァは六十代で
 鎌を握ったまま鍬を握っ
 たまま逝ったが
 おれもいつの間にか八十
 代そして鎌鍬は赤錆
 この村から村も消え百姓
 も消え
 田んぼはほんの少しある
 はあるがそのすこしの田
 んぼも減反 草ぼうぼう
 なんで米がいらんのかの
 俺らにはわからん

分からんことだらけ

 総会、授賞式、祝賀会が終わって…もっと読む.pdf

鳥たちが残した若木が育つ            (2014.03.28)

植えられてどれだけになるのか、山畑の土手にあった根まわりは一m以上もありそうな枇杷の木が枯れてしまった。土手にはまだ枯木の一部が残っているが、何とも殺風景になった。先日テレビで枇杷の花が咲いている画面が出てきて、改めてこの枇杷のことを思い出した。

 この土手の上の畑は植えられて三〇年以上になる次郎柿の畑だったが、三年ほど前にすべて切り倒した。枇杷の上にあったのは根回り一m五〇㎝もあった次郎柿の大木で、株の掘り取りに二日もかかり、疲れで二日も寝こんだ。

 この次郎柿の根が土手の枇杷の木まで伸びていて、枇杷はこの柿の根から何かをもらっていたのか、柿の木を切ってから二年ばかりして枇杷は枯れたのだ。

 枇杷は冬場になっても濃緑の葉がつやつやと輝き、花とも思えぬ茶色の花房を伸ばした。小さな白い花を咲かしていた。

 枇杷の木は上に上に伸び、下枝がだんだん少なくなる。人間の手の届かない上の枝の枇杷の実は鳥の餌になった。カラスやヒヨが群れになってやってきた。

 実をくわえたまま鳥たちはあちこちの竹や木の上に飛んで行き、実だけ食べ種を落としていく。それが根を出し、うまく土にとどくと芽を出し、成長して行くのだが…もっと読む.pdf

小説を書くため必死に生きる人々         (2014.01.17)

昨年の十月、久しぶりに新幹線に乗った。行き先がはじめての神戸ということで、子供のようにホームを歩きまわっていた。七年ほど前から「淡路島文学」と言う文芸雑誌を発行している北原文雄さんが「神戸エルマール賞」と言う文学賞を受賞して、その祝賀会に誘われ出かけたのだが、農民文学会の仲間の会長と編集委員も出席するということで神戸駅で落ちあった。

 会場は神戸市の中山手通りにある神戸ラッセホールということで駅からタクシーで直行したが、「この道路の両側に布団や毛布にくるまって夜を過ごす人が大勢いました」と運転手は阪神淡路大震災の事を話した。壊れたビルも多かったと言ったが、今は何の傷跡も残っていないようだった。

 淡路島に住む北原さんには、この時の体験をもとにした小説「島の春」があり、話題になった。今度の受賞作「秋彼岸」は現在の彼の生活を描いて、現代を考えさせ注目を浴びた。

 この祝賀会の来賓席に、長く農民文学会の顧問であり、文学賞の選考委員であった伊藤桂一先生の姿を見て驚いた。今はここ神戸に住まいを移されて活動を続けられていると聞いて納得した。

 半年ほど前に足の骨を折って病院でリハビリをしておられ、まだ杖をついておられた。北原さんの受賞を祝う言葉を述べるとき、先生の難儀を心配して、主催者の一人が壇上への階段を後ろから支えようと手を出したら、強い勢いでその手をはらわれたのには会場から感嘆の声がおきた…もっと読む.pdf

10代、20代、30代の日記まとめ  (2013.10.25)

老人は後ろを向いて前進すると何かに書いてあった気がするのだが、確かにそんなつもりでなくても、古いことや昔のことがこの間のことのようになってしまう。

 「この前行ったハワイの海岸へもう一度行きたいな」などと言って、「五十年も前の話が、どうしてこの前になるのだ」と笑われるのだが、仕方ない。だいいち今は、これからの世の中の話になると不満や不安が多いから、余計にそうなるに違いない。

 ところで、本多秋五先生が1993年に出版された『一閃の光』と題された本の中に「自我主義者として生きてきた私の考えでは、自我にとって重要な問題は二つしかない。一つは自我と宇宙の関係を知ること。もう一つは、五臓六腑にいたるまで、自己の何ものであるかを知ることである」と、いう文章があった。そして「私はこれらの消息を年齢相応に了解したと思っている」と書いてあった。

 先生75歳の時の文章である。さらに「それは衆生の恩を知ることと切っても切れぬ関係があること。そして自我は微塵にひとしく、微塵としてもそれぞれ不完全だが、その自我が、気の遠くなるような宇宙を見返すということ、宇宙と人間とを貫く理法を一閃の光として感得することがあるということ。これはまた格別なことでいずれまた別の機会にもっとよく考えたい。」と結ばれていた。

 実はその文章を写し書きしているのだが、意味も内容もよく分からない。それでいて気にかかって、時々思い出してみるのである。

 私はこの夏、これが最後になるかもしれないと思って『山麓月記』(武蔵野書房)という本を出して、その「まえがき」に「人生の残務整理」と書いた。10代、20代、30代の日記をまとめただけのものだった。

 それを、記憶に残っている人に贈った。今までもそうしていたのだが、送られた人は随分迷惑であったろうと、今にして思うのだが、後悔先に立たずで仕方ない。

 それから猛暑の去らない十月の初め…もっと読む.pdf

本多秋五先生の葉書のファイルから     (2013.07.26)

 古くなった葉書のファイルに本多秋五先生からいただいた葉書が納めてあった。いま数えてみると二十枚ばかりある。ほとんどは、収穫時になると送っていた桃や梨へのお礼葉書であった。

 いちばん初めのものは1981年2月27日の日付になっていて、この年、私は生まれて初めて作品集をだした。

 「先日、花本の本多秀治が鎌倉へきたとき、お託しの高著「巣立ち」をいただきました。私は加納は歩いたことがありますが舞木は知りません。それでも大体のことはわかっているので、懐かしく思って拝見しました。「巣立ち」がいいと思いました。とくに結末がよく書けていると思いました。これはそのまま映画かテレヴィ・ドラマになると思いました。とりあえずお礼まで。匆々」

 本多秀治さんは地域の名士であった。その人に臆面もなく、初めて出版した小説集を手渡したらしい。五十歳になんなんとする男が、よくもまあ、と冷や汗がでるが、それにもまして、先生の葉書に感動して、それから後の作品を書く力になったことを思うと、忘れられない葉書になった。

 一九八九年の花の季節、平戸橋の「花見の会」に出席された先生は、その足で「舞木」の桃園のあちこちを歩かれた。

 「先日はお忙しいなかを果樹園の中を案内していただいて、ありがとうございました。学生時代から話だけ聞いて見る折のなかった舞木の果樹栽培を、桃の花の最盛期に見ることができて、本当にうれしく思いました。あのとき、早く花が咲き実が遅く取れる品種は何というのか。コスカシバ(?)にやられた樹幹に塗るクスリの名は何というのか、どんな包帯を巻けばいいのか、聞いておけばよかったと思いました。怠け者が急に動きまわったので、あのあと、土、日、月と火の半日、病人同然でした。
お世話お礼を申します。匆々」

 この年、本多先生は八一歳であった。杖は持っておられたが…もっと読む.pdf

田中裕子.jpg田中裕子
たなか・やすこ、主婦、1947年徳島県神山町生まれ、若林東町在住。有志と共にNPO法人「さわやか豊田」を設立、その活動として豊田と故郷の文化交流を企画。当紙エッセー寄稿18年。

今の大家族暮らしバンザイ    (2015.06.05)

 豊田市民になって43年。その間、毎年春と夏にはお墓参り帰郷をして来た。親戚の不幸やお祝い事にも帰郷した。単純に数えて豊田と徳島の間を百回近く行ったり帰ったりしたことになる。

 一人娘で家を継ぐ運命だった私が、その故郷を捨て家を離れてしまったのだから仕方がないと思う。

 私が結婚のため家を出た頃は、両親も若くて元気だったので、家から私を送り出す両親も、家を出る私も何の心配もなかったのである。

 しかし月日が過ぎ、私は歳を重ね、すでに両親も逝った。

 閉めた切りの実家の戸を開けるのも、年に2回。それでもこれまでは体力も気力も充分な歳だったから少しも苦にならず。却って長期旅行に出かける様な楽しさがあった。

 が、今は少し違う。まず故郷への遠い道のりが苦になる。留守宅を開け、掃除をし、布団を干して何日かの生活が出来るようにする過程が苦になる。

 歳を重ねるとは、こんなものかと体力の無さにがっかりもする。 が、自宅とは良いもので、一応の片付けが終わり家に落ち着くと、そこは豊田の家と同じ様な感覚で過ごすことができる。

 ホテルでもなく、親戚の家でもない自宅。

 6人家族で暮らす豊田の家とは大違いの2人暮らし。初めは静かで良いなぁと思う。が、2日目位から物足りなさも感じ、寂しくなるのだから不思議なことである。

 私が子どもの頃は家族が大勢で暮らす家がほとんどだった。兄弟姉妹も多く、私の家の両隣りは7人から10人の大家族だった。それが私には羨ましかったのである。

 が、今は二世帯同居の6人暮らし…もっと読む.pdf

高齢の自覚から勇気もらって    (2015.03.06)

灯をつけましょぼんぼりに、お花をあげましょ桃の花。
 唄いながらおひな様を飾った。いくつになってもおひな祭りは心が踊る。

 1年間には色々な行事があるが、私が心をときめかすのは「おひな祭り」。今年もそのおひな様を出して飾った。心が華やぐ。67歳になった今も心がときめく。

 いつもとは違う華やいだ空間になった床の間を何度でも眺める。自然に笑みがこぼれる。

 そのおひな様たちはわが家に来て40余年近くが経った。その間に生まれたばかりだった娘たちは40歳過ぎと40歳近くになった。今は二人の孫たちのために、そのおひな様を飾っている。私の一番好きな行事。

 私は昭和22年生まれで物の不自由な幼少時代だった。そのうえ半端じゃない田舎。それでも父は伝手とお金を使い私におひな様を買ってくれていた。それを飾るとたくさんの人が見にも来ていた。それも嬉しかった私のおひな様は7段で御殿飾りだった。

 その御殿の組み立てが複雑だったようで母は嫌がっていた。が顔は笑っていたのを覚えている。叔母たちのおひな様は赤ちゃんが座った程の大きな立派なものだった。今も田舎の土蔵で私のおひな様と共に眠っている。

 と、ここまで書いたら1本の電話が入った。それは京都の叔母死去の連絡だった。急遽通夜告別式に行くことになった。

 その準備をしながら私の心は大揺れをしていた。急いで支度をしなけばと半分の頭で考え、半分の頭では無事に京都の葬儀場まで行けるだろうかと考えていた。
 「急いで行かなければ」と思う一方で、長い間、新幹線に乗って出かけたことがないことに気づき不安がつのる。

 果たして無事に行って帰ることができるのかなどとの葛藤もバッグに詰めながら、自分が知らず知らずの間に歳を重ねて立派な年寄りになっていることを自覚した。

 その自覚が私に勇気と力をくれたと思う。開きなおりの勇気だ。以前テレビで良く放映していた番組「はじめてのおつかい」くらいの…もっと読む.pdf

豊田生活40年の初老の日々に    (2014.12.12)

 私ごとで恐縮です。

 すでに今年も過ぎ去ったけれど11月は、私に複雑な感慨の湧く月。

 それはもう40年余も前のこと。枕ことばに昔むかしがつく話だ。

 私は釜戸の灰までも引き継ぐ、大げさに言えば運命の人。また昔風に言えば「跡取り」娘の一人っ子だ。

  父は私にそのことを強要も求めもしないふりをして私を育てた。が、進学や進路のことを決める決定的なことは全て「県内で」だった。この「しばり」に私が気づくのは、ずい分遅かったが…。

 矛盾するけれど、同時に父は「つくもの(伴侶)がついたらどこへ行っても良い」などとも言っていた。そう言いながら父は私の結婚相手には県内の公務員ばかりを探して来た。今は少し笑える。

 私は当時、父、母、私の3人家族の生活を息が詰まりそうだと感じていた。

 反対に父は9人兄弟姉妹の長男。大家族が嫌だったらしく、早くに親から独立していた。そのま逆で、私は大家族の家庭が羨ましかったものだ。

 両隣りの家庭は10人、12人の大家族だった。夕食などのおり、お茶碗とお箸を持参で一緒に食べさせてもらいに行ったりした。私の少食を案じた父がそうしたのだ。 これはとても楽しみだった。大勢の家族の茶碗や箸の音は胃にも腹にも快くて、私はたくさん食べた。 昔話はこのくらいで、私の11月の感慨の話にもどそう。

 そう、昔むかし、私はその故郷も父母も家も捨てて、愛知のこの地に来たのだった…もっと読む.pdf

自分の命の最後までしたいこと    (2014.09.12)

長い夏休みが終わり、孫二人を学校に送り出して昼食作りから解放された。 ほっとしたとたん、早や9月も2週目。年を重ねるごとに比例して、一日一日の過ぎる速度が加速する。その速いこと。早いこと。それが不思議に思える。 そして気がつけば朝夕の涼しさは初秋の到来だ。

 これと言って決まりごとがたくさんある訳でもなく、社会活動も狭くなり、自宅で夫と過ごすことが多くなったこの頃。なのに一日一日の過ぎる速さ。早いこと早いこと。あくびをする暇もない。 この速度のままで年を重ね続けると、一体どうなるのかと不思議と共に不安にもなる。

 まだまだ若くて青かった頃、私は子育てや社会活動、両親の介護に時間を追われて忙しかった。例え一瞬の昼寝でもしたかった。新聞を読みたかった。早く年寄りになりたかった。

 その時の目線で捉えていたのは、おばあちゃんが柔らかい陽射しを浴びて縁側でウトウトする姿だった。その遠くに自分を重ねてもいた。


が、その年代事情は迎えてみないと分からないものである。とっくに縁側でウトウトする歳になっているというのに、たっぷりと陽ざしの入る私室もあるのに、まだそこで昼寝をしたことがない。 たまに思い切って横にな
って目をつむってみるが、その閉じた目の先で…もっと読む.pdf

故郷徳島で連休を過ごして     (2014.06.27)

連休の終盤を故郷・徳島県・神山町の家で過ごした。

 四方を囲む山々は柔らかい緑。その風が全身を通り抜ける。近くを流れる鮎喰川も清らかなせせらぎで変わらず待っていてくれる。この地で過ごす10日余りの日々は非日常的で、しばらくの間、夫と私を浦島太郎、浦島太郎子にしてくれる。

 ありがたいことに留守中の庭の手入れや除草をしてくれる義兄がいたり、私たちが帰宅する日には、家の戸を開け掃除をしてくれる従妹がいてくれる。

 夫も私もまず門を開けて庭に足を入れた瞬間、義兄に感謝。玄関を開けて家に入り従妹に感謝する。長い車での移動の体には、何よりの温かい助けと、感謝の気持ちでいっぱいになる。

 その後、2日間くらいは、生活の立ち上げにかかる。冷蔵庫をビールやお茶、食品でいっぱいにし、布団や座布団を干す。荷物の整理をしたら、さぁ、この家での暮らしに根を下ろせた。

 その後は友人や従弟、従妹が集い、毎日が宴三昧。時には総勢13名の大宴会ともなる。楽しい愉快。夫も私も豊田での暮らしをすっかり忘れる日々。

 神山の家での時間はたっぷりとゆっくり流れる。これと言って義務づけられた事もなく軽い。風の吹くままに過ごす贅沢。命の洗濯とはこういうことかと実感したりする。

 が、そんな中で今年は思いがけないことを考えてしまった。この田舎の家には春・夏・時には秋と、年に2回から3回来ては、同じような過ごし方をしている。が、それが何年続けられるだろうか、などと、余計な
想いが湧いてきた。

 70歳まで後、3年。まあ、3年くらいは大丈夫と想定できる。が、その先を考えると暗くなる。これ以上若くはなれない。今以上に体が動く様にもならない。これが現実と知らされた。

 田舎暮らしの良いことばかりを、ここまで書いたのだが、便利か不便の視点だけで思考すると…もっと読む.pdf

わが家経営の劇場に旅役者の一座         (2014.04.11)

あれっ、何するんだったけ、キッチンに入って考える。そうだ、炊飯器のスイッチを入れる事だった。

 まだまだある。テレビで見慣れている人の名前が出てこない。本の名前を忘れる。簡単なことを失敗する。
数えていたら限がない、その自分にがっかり、憂鬱だ。
この種のミスが相次いで、認知症の初期かと案じたり、加齢だと開き直ったりしている今日この頃。

 そんなブルーな日々に2月21日の「やはぎウィークリー」を読んだ。

 新見少年が小学校に行かなかったことや、山や川で遊んだ話に和んだ。韓国人少年Aと新見少年が、川の流れと音を共有しながら寡黙に釣りをする文章は、一枚の絵画を鑑賞している気がした。

 昔のことを書こうと思う。
その昔、私の家は林業・農業・劇場と織物工場の経営をしていて、毎日、毎日人でいっぱいだった。林・農で働く人は朝早くから、劇場で仕事をする人は午後から、織物工場は父が豊田自動織機1・2号機にスイッチを入れると始業。

 とにかく毎日毎日、私の周りは人で一杯だった。

 私は一人っ子で、父母との3人家族だったが、その観はない。来る人は皆家族同様だったし、両親もそのように対していた。

 そして私も新見少年同様、理由は異にするが、小学校は入学式と卒業式に行っただけ。午後、先生が来て勉強を教えてくれた。また私は山河で遊ばなかったが、本ばかり読んでいた。

 さて話を戻すと、いろんな大人の中で私はたくさんの事を学んだ。林業担当の人の中に韓国人が居て、私より3歳下の女の子の父親だった。母は夕食後、彼が帰宅する折りには、私のおもちゃや本、お人形・洋服などを渡していた。深々とお辞儀をする彼の姿を見て、喜んでいることが理解できた。私は、彼の、その背を通して、彼の子どもと繋がっている感覚を持っていた。私の少女Aの存在。名前も顔も知らない。

 また、劇場には旅役者の一行が度々来た。その少女Bは、名子役。拍手喝采の人気者だった。役者さんは楽屋で寝泊まりするのが慣習だったが、何故か…もっと読む.pdf

般若心経の写経体験から            (2014.01.24)

お屠蘇・お節・お雑煮で新しい年を祝い、孫たちへのお年玉祝い、故郷の親戚友人に電話での新年の初挨拶、近所の神社に初詣。

 年賀状を受け取って今年の最初の1日が終了。

 その後も、七草粥・鏡開き、松飾りはずしと続いて年明けの諸行事が一段落した。残るは年賀状のお年玉くじ。切手シートしか当た
ったことも無いのに毎年ドキドキで新聞掲載の番号とにらめっこ。あーあ、やっぱり今年も同じような年明けだ…。がっかりと同時にほっとしたフクザツな瞬間。

 そして届いてから箱の中で熟成した年賀状をゆっくりと読み返す。そのほとんどはパソコン作り。パソコン文字にすっかり慣れている私たちには抵抗感なく読み易い。絵や文字もいろいろ工夫されていて面白い。

 印刷屋さん発注の年賀状は激減した現状。いずれにしてもその中に少し手書きが入っているとたくさん嬉しい私。

 さて、来年から、私も…と思わない訳でもない。

 今年の私の年賀状。受け取った方はびっくりされたと思う。宛名は黒墨、自身の住所は朱印。新年の挨拶の文字は朱墨、添え書きは薄墨で書いた。その作業を思うと自身も笑える。作業は約百余枚。家族の失笑も得た。

 が、1日以降に、この時代錯誤のような年賀状に意外な反応。それは電話、メール、はがきで届いた。その反応は漢字で表した添え書きにあった。8文字~10文字を、宛先の方に合わして書き並べた。私の新しい年への覚悟も重ねて。
  視・聴・受・伝
  考・深・楽・笑
の8文字を基本にして、ゴルフや旅の友には、遊・空などを加えたり、闘病中の友には「癒」、受験生には「開」などを入れた。一人ひとり違う年賀状を書いたのだった。

 このような事態になったのは、昨秋、お寺での写経の体験から。私の家は代々真言宗で、般若心経を唱える。その一文字一文字を写しながら、その一文字一文字を唯一理解していない自分に、はたと気づいた。  以後、般若心経の本を秋の夜長に読みふけった。その先に今年の年賀状書きがあったのだ。

 他からの影響を直ぐに受ける私は漢字の魅力に填まった。その結果が漢字並べの年賀状となった次第。  しかしながら、般若心経とは不思議な読み物だった。
訳の分からないまま読み進んでいく。1回、2回、3回と。もちろん一文字、一節の説明も添えてあり、最初は大半説明文を読んでいたが、そんなことは不要と認識。その教えは「空」と知ったから。その中で軽くなっていく自身に気づく。ご先祖様の力か般若心経の力か定かではないが、   空とは楽なりと修行中? 本年もよろしく。もっと読む.pdf

安倍総理発言におぶけたー  (2013.11.01)

 NHK朝の連続ドラマ「あまちゃん」が終わり、その人気は、あまロス現象さえ出しているらしい。

 そのドラマの中でよく耳にした、驚いた時に飛び出す方言「ジェジェジェ」も同様の人気。「ジェ」は驚き度で数が増えるとのこと。

 では私の「ジェ」その1。
 10月2・3日。伊勢神宮の式年遷御の模様がテレビでも新聞でも報道された。私はその仰々しさにあきれつつも、いやいや神様のお引越しなのだからと性根を入れ替えて、その厳かな伝統行事をずっとじっと見据えていた。その脳裏に浮かんだのが私の曽祖父のお伊勢参りのこと。

 徳島県の半端でない田舎、当時は上山村(現・神山町)。お伊勢参りには4か月余の日数がかかったらしい。曽祖父は親戚や村人の阿波踊りでの盛大な見送りを受け、お籠の行列で旅立った。

 その彼は大正10年、87歳で大往生。お伊勢参りは明治13か14年頃に行ったと推測。同行したのは村の優秀な若者たちだった。

 その曽祖父がお伊勢参りに出ている間に、祖父は命じられていた母屋普請を完成させた。以後、その家は縁起が良いとの理由で受け継がれ、私は古びて使い勝手が悪い、その家で育った。

 「ジェジェ」その2
 8月31日の朝日新聞beに故郷の知人大南信也さんが大きく掲載されていた。彼はNPO法人グリーンバレーを立ち上げ、独特の哲学を持ち、個性ある村おこしを推進している。現在は理事長。安倍内閣の有識者会議のメンバーでもある。

 2年前には愛知県の村おこし講師を務め、私も足助での講演に同行した。面白い興味湧く、そして飾らない素朴な神山の風が吹いてくるような内容だった。豊田市制60周年行事の一環で、神山町の人形浄瑠璃・寄井座招聘のお世話をさせて頂いたおり、関係者の方々に神山町視察を提案した。大南ワールドが推進する独特の村おこしを体感して頂きたかったからだ。

 それが間違っていなかったことが記事を読んで確信できた。が、私ごときの提案を快く受けてくださった、八木哲也国会議員はじめ関係者の皆様方には、その「先見の明」に敬意を表すると共に、改めて心からお礼を申し上げます。

 「ジェジェジェ」その3。
東京オリンピック開催決定に大きな効力を発揮した「チーム日本」のプレゼン。

 安倍総理はその中で堂々と「汚染水のコントロールはできています」と言った。それが喉にひっかかって痛い。その痛みも消えぬ間に出てくる出てくる汚染水の問題。以後、政府は少しトーンダウンしたが「汚染水問題は解決にある」が前提。大雨や基本的なミスで汚染水が漏れる現状なのに。

 故郷神山では驚いたとき「おぶけたー」と言う。もっと読む.pdf

ミスチルの歌が心に響く日々    (2013.08.02)

 「探してたものは、こんなシンプルなものだったんだ」とミスチルが歌うこの歌詞が最近私の心に何度も浮かび響き染みて納得する。夏真っ盛りの今。

 65歳で逝った母の年齢を1歳過ぎた今、まだ若いつもり、まだ何かできるつもり、まだ走れるまだ飛べる、まだ視覚・聴覚・味覚もそれほど衰えていないつもり、そのつもりだけが心の奥に溜まって息苦しい。

 年齢を受け入れる覚悟が足りない。そう戒めつつ過ごす日々に、この歌詞は妙に染み入る。残酷に染みる。その私は社会で分類されると高齢者。これからの生き方の軸を変えなければ、つもり地獄で欝に罹りそう。先人の生きる知恵に学ばねば…。そう父だ。    

 父は67歳で心筋梗塞と直腸癌に罹り、心ならずも豊田市に移り私たちとの暮らしを始めた。

 その日から、父は徳島・神山での自分をきっぱりと捨てていたと思う。

 故郷の誰もが父の豊田生活は長くない、直ぐに戻るに違いないと確信していた。私にもその不安はあった。が、父は位牌と肩掛けバッグ一つで豊田に来て、私たち家族と平凡に平和に過ごし終えた。潔さに脱帽だ。

 今、その凄さが分かる。慶長元年から残る家の歴史も、戦前から始めた豊田自動織機1号・2号機を取り入れた織物工場の経営、戦後の劇場経営など田舎では先端を行く事業を展開した過去、留学や戦争体験、その全てを自身の内の奥に詰めて87歳で逝くまで過去は語らず、だった。

 また美食でおしゃれな父を知り尽くしている私は、食事や衣服に気を遣った。が、父は、その全部を否定した。「私は舌が良いとき、贅沢三昧を食し、良いものを見、上等の物を着た。この歳になって何が欲しいものか」と。私はそれに苛立った。そして「あれが食べたい、こんな洋服が着た
い」などと言う可愛いおばあになるぞなどと思ったりした。

 が、今、その思いの裏にもミスチルの歌が届く。

 最近のテレビドラマで、主人公が戦後結核に罹り、その闘病費用に時価で一億円を要したとの場面があった。私は昭和25年に結核を患い、父が当時では天文学的数字の医療費でストレプトマイシンやパスを買ったと母方の祖母に聞いたことがあった。

 父も母もそんなことを私に直接言うことは一度もなかった。シンプル過ぎる。でもかっこいい。

 その父が豊田で新しい自分を生き始めたのは、今の私とほぼ同じ歳。

 まだ走れるつもり未練や、過去の美化、過大評価、捨てよう。人間関係には丁寧を心しよう。

 抱え込むものや求めるものの重さで転ばぬうちに。そう探していたものはこんなシンプルなものだった。もっと読む.pdf

大家・顔写真.jpg大家千絵
おおや・ちえ 元本紙記者。文化面や足助地区の記事を担当した。演劇、絵画、焼き物、音楽などが、まったくの素人だが好き。1977年生まれ。名古屋市在住。

最後は自分の感覚に従いたい         (2015.07.10)

 安倍総理大臣がこの夏成立させたいという安全保障の関連法案。テレビ、新聞の連日の報道に、ふだんは子どもの世話を言い訳にろくに新聞も読まないわたしも、せっせと新聞をめくっている。

 おおざっぱではずかしいが、考え方の1つに次のようなものがあると思う。

 日本は日米同盟によってアメリカに守ってもらっている状態だ。このままの状態ではアメリカに見捨てられる。日本もより積極的に国際社会に協力しなくてはいけない。そうでなければ自分たちの国を守れない。実際に近くにいつミサイルが飛んでくるかわからない国もある。

 もう1つは戦後の平和憲法、特に9条を尊重・重視する見方だ。専守防衛以外では武力行使は行わない。この考え方に沿って日本は政治・経済・文化あらゆる面で国際社会で独自の立場を築いてきた。自衛隊も武力行使は行わないことを前提に、PKOなどの国際貢献活動に参加し、信頼を得てきた。その積み重ねを「解釈」や「例外」の一言で崩していいのか。

 そして、集団的自衛権を認めるにしろ、認めないにしろ、まず「憲法改正」の国民投票をするべきだ、という考え方だ。先日憲法学者が公式の場で、集団的自衛権は「違憲」との見解を述べたことで、この考えに勢いがでてきた気がする。

 なぜ国のありかたそのものに関わる問題を、こんな短期間に国会の採決だけで決めてしまうのか。高度な政治的判断というものがきっとあるのだと思う。けれどそれを100%信頼していいのか。他に方法はないのか。一度変えてしまうとどんなこともそれに慣れてそれが当たり前になる。選択は慎重にしてほしい。

  集団的自衛権について、考える。そしていつもまとまらない。けれど、どんな理由を並べられても、他国に出向いていっての積極的な武力行使はNO! という気持ちが有る。個人的な、ただの我がままだが、イヤなものはイヤなのだ。自分ならともかく、息子たちが…もっと読む.pdf

パパ会とはうれしい副産物          (2015.01.23)

 昨年末、近所の親子10組でクリスマス・パーティーを開いた。子どもたちは4歳を中心にその兄弟とお母さんたち。総勢何人だったか覚えていないが、みな子どもが赤ちゃんのころからのつきあいなので、気心がしれている。幼稚園はそれぞれでも、降園後や長期休暇など何かと集まって遊ぶことの多い仲間だ

 クリスマスパーティーの場所は地域のコミュニティセンター。2間つづきの和室を借りた。食べものは宅配ピザと、子ども達が好きなキャラクターを描いたケーキを事前に注文し、サラダやスープ、副菜、飲みものはみんなで持ち寄った。

 パーティー当日のお昼前、サンタやトナカイに扮した子どもとお母さんたちが三々五々集まってきて、家にあったクリスマス飾りやモールを和室の壁に飾り付け。子ども達がすぐにこれに夢中になり、その間にお母さんたちで会場の準備。机をならべ、持ち寄った食べものを並べ、ケーキとピザを店に取りにいく。

 ちょうど昼ごろピザが到着してランチタイム。デザートのケーキがでてくると子どもたちのテンションは最高潮。キャーキャー大騒ぎしながら取り分けてもらい、黙々と食べていた。

 食後はお母さんたちによる絵本と紙芝居の読み聞かせとエプロンシアター(エプロンを使った人形劇)だ。みんな素人なのだが、子どもたちの反応が良く、お母さんたちの出来も上々。女の子と歌好きのママで流行のディズニー映画「アナと雪の女王」のテーマソングを大合唱してくれた。

 あとは机を片付け子ども達のフリータイム。男の子も女の子も一緒になっての大騒ぎだが、子どもたちなりに遊びを考え、ルールを決めて盛り上がっており、成長を感じた。最後にプレゼント交換して終了。子ども達が大喜びしたことが何よりの収穫で、音頭をとってくれたママ達に感謝だ。

 ちなみにこの日のパパ達は休養日である。年末はママ達の忘年会や送別会(働いているママがいるので休日になる)で、パパが子どもの面倒を見ることが多かった。そうなると考えることはパパもママも一緒である。わが家にパパ達が子連れで集合してご飯を食べながら…もっと読む.pdf

「叱らない子育て」の真意は…           (2014.10.31)

97年「酒鬼薔薇聖斗」と名乗る当時14歳の少年が、幼い子を次々と襲う事件があった。その犯人「少年A」の両親が事件の2年後に書いた手記を読んでいる。

 きっかけは、以前読んだ児童精神科医の文章で「少年A」について触れた部分が記憶にあった。こんな内容だった。

 少年Aには細かい注意や関心がはらえず宿題や提出物をすぐに忘れてしまうところがあった。成長とともに収まっていくものだから心配はないが、忘れ物や小さなミスを何度も注意したり指摘しすぎると、自己肯定感の低い子になりやすい。授業の準備を手伝ってやるなど、親は意識してフォローしてやればいい。

 そして「少年A」の審判を担当した元裁判官が、事件の要因を「未分化な性衝動(この少年の場合はその後解決した)によるサディズムと親のスパルタ教育」だとして、自己肯定感の低さが指摘されていた。

 だが手記を一読して、私は特にスパルタ教育だとは感じなかった。子ども思いの普通の母親と父親。少年は年の近い3兄弟の長男であり、繊細で神経質。その他のエピソードもうちの息子とよく似ていたので、同じ母親としては頷ける内容だった。

 そして少年の両親は逮捕当日まで我が子の犯行だとは想像もせず、逮捕されても信じられないでいると何度も書いていた。

 でもそんな少年が事件をおこした。読み返すと、事件後の少年の言葉や作文から伝わってくるのは、自己否定、自分は悪だという思い込みと寂しさ。少年の言葉と母親の手記にズレを感じた。

 少年は逮捕後2年が経った段階でも両親との面会を拒んでいる。「僕が毎日、弟をいじめたので母親に週2~3回は叩かれた。僕が悪いからですが、母は僕を好きではなかった。でも僕は必要以上に母を愛していた」「親といると神経がピリピリして気が引きしまった」「おばあちゃんの前では気楽になれた。背負われ、あたたかかった」と語ったそうだ。

 母親は、子どもを愛し子どものためを思っていたが…もっと読む.pdf

地域支える母親たちのつながり           (2014.08.01)

子どもが幼稚園にあがって、まわりのママさんたちがとても元気だ。上の子のつながりでできたママ友達なので、1人っ子の家庭では昼間ママの時間ができる。兄弟がいても1人幼稚園に通いだすとそのぶん楽になり、変化がでてきた。

 あるママは、これまで利用者として通っていた子育てルームのスタッフをはじめた。あわせて子育て全般について勉強している。アレルギーのこと、障害のある子、さまざまな性格、特徴のある子ども達との関わり方について、子育て中のママへの接し方などなど。だれに強制されたわけでもなく、自分で学んでいる。ママブログを作って子育て情報を発信しようと言い出したのもこのママだ。

 また別のママは地域の託児システムに、サポート会員(預かる側)として登録した。子どもを育ててみて必要性を感じたからだ。転勤族だが名古屋に家を建てて定住を決め、フルタイムで働きだしたママもいる。

 週に2度3度と幼稚園に通い、役員として父母会行事の準備や園行事のお手伝いをしているママもいる。

 少し意味あいは違うけれど、あるママが実家で野菜
がたくさん採れたからと、皆にお裾分けしてくれた。その野菜は無農薬栽培でとてもおいしく、普段スーパーのジャガイモは食べないという子どもが、そのジャガイモはよく食べたという。

 喜んだママは「大量購入はできないけど、機会があれば売って! 本気で買うから」と言い出した。野菜を配ったママも実家のおじいちゃん、おばあちゃんもびっくり! 人と人のつながりで、面白い方に話が転がっていく。それぞれ用事の合間にランチやヨガ、ウォーキングに行き、園から帰ってきた子ども達のために家を解放する。休日は家族ぐるみで花火やバーベキューだ。

 そのアクティブさには…もっと読む.pdf

初めてスマホユーザーになって           (2014.05.23)

 最近スマートフォンに買い替えた。私が携帯電話に求める機能は電話とメール、写真くらい。スマホには興味がなかった。

 きっかけは、息子が紅茶に携帯電話をポチャンとつけたことから。修理を申し込むと、事前のサポート制度に入っていなかったため、修理費がたかい。買い替えをすすめられた。

 気持ちが動いたのは、最近はじめたブログ(インターネット上の日記)の運営会議でのこと。同じ地域に住む9人のママで1つのブログを運営して、子育て情報を発信する。この日はメンバー間の連絡方法が議題だった。パソコンに専用の「掲示板」を作るか、「ライン」でと提案があり、手軽なラインに決まった。

 ラインというのは、パソコンやスマホ、タブレットで、24時間無料メール・無料電話ができるサービス。グループを作って同時に複数でやりとりできる。スマホを持っていなかったのは私含めて2人。パソコンでもラインはできると言われたが、間違いだった。メンバーと連絡がつかないのは困る。携帯の故障も重なり、スマホ購入を決めた。

 持ってみて、まず操作に慣れない。機能の一部しか使えず、宝のもちぐされだが、目的の「ライン」を設定。2つのグループに「招待」してもらった。  

 ひとつはママブログのグループ。もう一つは近所のママ友のグループだ。それぞれ性格が違うので、同じラインでも使いかたや受ける印象が…もっと読む.pdf

ママ同士の託児協力はじまる            (2014.02.28)

お正月あけ、長男の赤ちゃん返りが爆発した。週2回の「慣らし保育」に行きたくないとひと騒ぎ。朝布団からでない、ご飯を食べない、着替えない、靴をはかない、歩かない、迎えのバスに乗り込むまで、あの手この手で抵抗する。「行きたくない、がんばれない、おうちにいたいの」と必死の形相で訴えるのを、なだめすかしてバスの先生に預ける。そんな日が続いた。

 年末年始、おじいちゃん、おばあちゃん、親戚との楽しい時間から、いつもの生活へ。切り替えられないのと寒いのと。行きたくなくなる気持ちは十分にわかる。弟が生まれてちょうど一年。お兄ちゃんの爆発的な赤ちゃん返りは、母として嬉しいくらいだった。

弟が産まれてからの長男は、がまん、がまんだったと思う。表情が冴えなかったり、黙り込んだり、言葉につまる吃音(どもり)がでたり、長男らしくなかった。意識して「抱っこしよっか」と声をかけたり、公園に連れ出したり、そうこうしての年明けだったので、うれしかったのだ。

 嬉しかったのはもう一つ。長男の爆発をみた友達ママが「お兄ちゃんと2人だけの時間を作ってあげて」と、次男を預かってくれることになった。複数のママで面倒を見ること、場所は近所の子育てルームで、スタッフさんも協力してくれるからと、翌週には乳離れ前の次男をみんなで預かってくれた。

 効果はテキメンだった。2時間ほどだったが、母と2人の時間をもらった長男はニッコニコ。弟を迎えに行くと、事情を知らないママに「お兄ちゃん、今日はすっごく元気じゃない?」と言われたほどだった。

 その後も継続して次男を預ってもらっている…もっと読む.pdf

NHK放映・福井大学就職支援室  (2013.12.06)

NHKで学生の就職率が95・8%という福井大学就職支援室の取り組みを紹介していた。少子化で大学も学生の確保に懸命だ。就職率が高いというのは学生にとって大きな魅力だろうと思って見ていたが、その熱心な取り組みに引き込まれ、見入ってしまった。

 全国的にみても大企業に就職するのは20%ほど。多くは中小企業に就職し活躍している現状で、福井大学は中小企業と学生のマッチングに力を入れていた。

 取り組みは、学生に就職支援室に来るよう呼びかける事からはじまる。就職支援室に出入りする学生に「内定まだの友達いない?苦戦してる友達はいない? 就職支援室に来るように言って!」と、友達づきあいを利用して呼びかける。

 就職支援の内容は、学生との面談を重ねて、学生と支援職員とが人間(信頼)関係を築くことに力をそそでいた。

 学生の希望を聞き取るだけでなく、学生の人柄、性格、適正から職種・職場のアドバイスもする。必要とあれば学生のアルバイト先にまで職員が出向き、人柄を見ることもあるという。
放送では大学職員がアルバイト先に顔を見せても、学生に抵抗感はないようで自然に受け入れていた。良い人間関係ができていないとそこまでできない。

 実際にエンジニア志望だった学生が、本人も自覚していなかった営業に適した一面を職員に見いだされ、最終的には営業職で内定をもらっていた。

 また就職活動がうまくいかず自信をなくし方向性を見失っていた学生には、安定経営、アットホームで離職率の少ない企業を紹介する、傍目にもそれぞれにマ
ッチした職場を紹介しているのがよくわかった。

 このほかエントリーシート(志望動機を記す履歴書)の作成にも職員が関わり、就職後の姿を想像させるように導く。年間200以上の企業を大学に招き、企業紹介の場をもつ。「現地・現物に触れて五感で感じる場」を学生に提供するためだという。

 至れり尽くせりで過保護すぎるのでは…もっと読む.pdf

私がゆったり構えていられるか   (2013.09.13)

わが家には3歳児と6ヶ月児の2人の息子がいる。

 3歳の息子は慎重で繊細な反面、主張ははっきりしていて頑固。好きなことはいつまでも繰り返し、お気に入りの服や靴、食べもの、遊びなどこれと決めたらテコでも譲らない。おまけに言い訳の口は達者ときているので、暑い日など1日相手をしているとついイラっとなる。

 特に気になっていたのは息子が毎日、毎日、あきもせず同じ遊びを繰り返すこと。仲のよい友達もいるのだが他の子とはあまり遊ばない。親としてはもう少しほかの遊びや友達にも興味を持ってほしいし、執着の強さや頑固さが「わがまま」と感じることもあって、もやもやしていた。

 整理がつかないまま、感じていることを近所の子育てルームのスタッフさんに相談してみると「それは(性格の)矯正か、尊重かってことよね」と言われて、ああ、そういうことか、と納得。もやもやの原因はまさにそこだった。

 さらに「でもこの集中力はすごいよ。集中して遊んでいる時は放っておいたほうがいいの。好きなだけやらせてあげてだいじょうぶだから」ともアドバイスされて、息子への接し方を考えるきっかけになった。

 矯正は性にあわないので、息子を尊重してみようと決めた。よっぽど危険なこと、人に迷惑をかけること以外は好きにさせてみることにした。

 ハサミで切り刻んだビニールテープや新聞を雨のようにふらせたり、あずきで料理のまねごとをして豆をぶちまけたり、おまけに積み木の箱をひっくりかえす。1日中これをエンドレスで繰り返す。

 結果として、息子には良かったと思う。目を三角にして(本当にこの表現がピッタリ)食ってかかることもなくなり、穏やかになった。やりたいだけやると、やりつくしたのか、ある時ぱたっとやらなくなって新しい遊びをはじめる。または自分で頃合いを見計らって…もっと読む.pdf

浦野正二さん.jpg浦野正二
うらの・しょうじ、浦野合資会社代表社員、1933年生まれ、豊田市四郷町下古屋。元豊田市教育委員長、現(福)愛知県同胞援護会評議員、豊田市市政功労者。

戦争を知らない世代が国政リード           (2013.12.20)

 世界で唯一の核爆弾の被災地広島・長崎は、核爆弾投下と放射能被害により、約二十万人という尊い人命を失った。その日本は核兵器を絶対認めないと宣言、非核三原則を唱えたはずなのに、日本は核の傘で守られているとの理由で、政府は核兵器を認める発言をしている。

 日本人は放射能の恐ろしさを身をもって体験した世界唯一の民族である。しかし東日本大震災による東電の事故について、今以て総括を政府も東電もしようとしない。無責任さには呆れてしまう。

 津波による水害だけではない。放射能の危険区域として三年余も災害前の土地に帰ることが出来無い人々がたくさんいる。悲惨な生活を余儀なくされているのを放置しているとしかいえない現状ではないか。

 核平和利用の名のもとに、安全神話を唱えて国民を騙し、放射能の恐ろしさを永くかくしてきた。ずさんな管理と経済性優先の企業論理で、電力を原発に依存させてきたた結果を考え直さなければならない。

 オーストリアはいちはやく原発を止め、自国の天然資源である森林を活用した電力政策をとりいれていると聞く。モンスーン域の日本は欧州のオーストリアに劣らない森林資源国だ。政府は人工林の間伐を唱えるだけでなく、その資源利用を早く具体化してほしい。

 特定秘密保護法が国民に十分な説明がなされないまま、国会で強行可決、成立してしまった。過去の戦中を知る人間にとって、言論封殺の時代を思い起こさせる事柄である。賢人は歴史に学べと説いたものだが、過去の苦い歴史を体験実感していない支配階層が、わが国の政治をリードしている現状は恐ろしい。政界から戦争体験者が消えてしまった。一人の原爆被災者としてそれを恐れる。

 テレビのニュースを見ると毎日誰かが頭を下げて謝っている姿が目につく。中には、食品の虚偽表示問題で消費者を騙している有名なホテルがある。昔のオーナーはプライドを持って経営をしたものだ。「みっともないことをするな」という言葉で常に謙虚に自戒していた。

 現代ではサラリーマン社長が利益追求に専念してのし上がってきたのか、企業倫理に欠けた姿が目につく。学校の教育現場では道徳を盛んに推奨している
が、大人が率先する姿を子供に見せなければ絵に描いた餅のようなものだ。

 日本語の「德」という字は、私の世代では心の字の上に横棒が一本あって、それが心を重く抑えていたのだと思う。自省自戒を求めた一本の棒であると考えているのであるが、現代の「徳」は横棒の重しが取れて軽くなった。横棒一本の重みを改めて考えてみたいものである。もっと読む.pdf

男女は権利義務で同等である    (2013.07.05)

 馬齢を重ねて八十年、私の人格形成の大部分は伯母の教育の影響を受けた。伯母は二言目には「男ならどうするのだ」と問いかけてきたものだ。私に伯母自身の期待する男性像を求めていたにちがいない。曰く「男なら腹からものを言え」「こせこせするな」「どっしりと構えよ」「姿勢を正せ」「字は大きく書け」などなどである。数多くの男としてのあるべき姿を私に求めたものだった。 

 「常々着の晴れ着無し」といって、平素家に居るときはどのような服装でも継ぎがあたってても汚れていなければよいが、ひとたび外に出るときは安物でないと
っておきの服装で外出せよと言われた。何時も晴れ着を着ていると、いざという時着るものがないという諺である。当時を思い出すと、夏に夜間外出するときは、パリパリの糊がついてごわごわで首筋が痛い浴衣と兵児帯をし、下駄をはかされたことは忘れられない。「世間へ出ておまえがみっともない格好ならば親代わりの私が笑われる」とも言われた。言動についても同様であった。

 現代の青年の姿を見ると、余りにも隔世の感があって、男性か女性か解らないことがあるし、男性青年が柳腰のなよなよした姿を見ると、未熟さ、幼さが目につくが、嘗ては男性は鰓(えら)の張った、尻の大きい姿を求められたものだった。

 伯母のひととなりを考えると、その源泉は伯母の祖父(私の祖祖父信岡武平治)の影響があったと考える。過日NHKの「つるべの家族に乾杯」で福山市神辺の儒者、菅茶山(頼山陽の師)の廉塾を紹介していたが、祖祖父はその廉塾で四書五経を学び、のち郷里で松林堂という寺子屋を開設した。そのことが実家の裏庭に現存する勝海舟の揮毫による崇徳碑で伺われ、地域の人々に生きる道を説いたと敬われているが、その血脈が受け継がれたと考えられる。

 日本人の先人は論語など漢学の教育を受けて日本独特の誇るべき文化を形成したと考えるが、現代の親は資本主義社会に過剰に反応した結果、人間本来の「理解する」「思いやりをもつ」「信念を持つ」「謙虚さを持つ」「配慮がある」「勇気がある」といった人間としての基本に立ち戻った思考をなくしてしまった。取り戻すためにはいかなることをなすべきか、ここらあたりでもう一度考えなくてはならない時期に立ち至ったのではないか。

 私流で言えば、男、女は権利、義務は同等であり、当然男女協調の精神はいささかたりともを否定するものではない。しかし私はこう思っている。日本人本来の男性のあるべき姿、日本の女性のあるべき姿を再考しなければならない。それを議論する必要性を考える時がきたのではないか。もっと読む.pdf

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