盲目の歌姫 若渚さん 『豊田市民の誓いのうた』作曲者 2021.01.08
豊田市出身で盲目の歌姫として活躍する若渚さん(20・本名上田若渚、写真右は母親の真由美さん)。明るく前向きな性格と透き通った歌声で、小学5年生の時から全国へ講演やコンサートに出かけている。平成30年には「豊田市民の誓いのうた」の作曲も手がけた。
先天性の視覚障がいを持つ若渚さんは、カラオケ好きな祖父母の影響もあって3歳で歌うことが大好きになった。演歌『さざんかの宿』などを歌詞の意味もわからず歌っていたそうだ。
3歳から岡崎市の盲学校へ。園で朝の支度が出来ないときは頭が思考停止してしまい、ロッカーに頭を入れたこともある。そんな行動を保育士がユーモアを交えながら連絡帳に書いて母親の真由美さんに知らせてくれたという。
家庭の食事では床にビニールシートを敷いた。油でつるんとすべってしまうウインナーの飛ぶ距離を見て、「今日は最高記録だね」と笑いながらフォークや箸の持ち方を練習してきたそうだ。
真由美さんは「目をつむってご飯を食べたことがありますか?すごく難しいんですよ。3歳でがんばっている娘を怒れませんでした」と優しく話す。 若渚さんは好奇心旺盛でおてんばな少女でもあった。買い物に出かけて車中で一人になったとき、真由美さんの化粧ポーチから唇に塗るグロスを出して自分のほっぺたにぐるぐる塗り、戻ってきた真由美さんに「ママ、かわいい?」と得意気に見せたことも。真由美さんは怒る気も失せて笑ってしまったそうだ。
若渚さんが最初に音階にふれたのも遊びを通して。「水の入ったグラスを箸で叩いたときだったね」と母娘は顔を見合わせた。
5歳のときに強く惹かれた歌手は故・本田美奈子さん。その透き通る歌声を聴いて歌手を目指し始めた。小学校入学前にはピアノも始め、音階を楽しんでいた。
若渚さんのいまの目標は、観客を心身ともに輝かせる笑いのとれる歌手。公演のトークでも日常の出来事を面白おかしく紹介している。コロナ禍では新しい曲と詩も作った。「多くの人に目の前にある幸せや命の大切さに気づいてほしい。歌を通してそのメッセージを伝えていきたい」とも話してくれた。
うえだ・わかな 平成12年3月生まれ、豊田市在住。名古屋盲学校在学。2015〜17年、24時間テレビ(中京テレビ)の「つなぐ交響楽団」のリーダー兼ボーカルを務める。2017年ニューヨークブロードウェイで公演。
バルーンアーティスト 福岡正展さん 風船大道芸10周年 2020.12.04
色とりどりの風船を使い、子どもから大人まで幸せな気分にさせてくれるバルーンアート。そのおもしろさに魅せられて、バルーンアーティストになった男性がいる。豊田市貝津町の福岡正展さん(愛称ダンディふくちゃん)だ。
ふくちゃんは、Balloon Studio夢輝代表として全国各地のイベントで風船を用いて大道芸を披露している人。県内では刈谷ハイウェイオアシスや東山動植物園、鞍ヶ池公園などでショーを行ってきた。お客さんは何をしたら喜んでくれるだろう、どうしたら楽しんでくれるだろうと、日々、自分のパフォーマンスを振り返っているそうだ。
ふくちゃんは、豊田市立保見中学・県立猿投農林高校卒。東京でバンド活動をしながら音楽業界でも働いてきた人だ。1つのイベントを創り上げるのに音響や舞台演出などいろんな業種の人が関わり、多くの人が動くのを見てきた。創る側と観る側が一体となったときが最高に盛り上がるという。その一方で厳しい世界だということも実感した。
豊田に戻ってからはコーヒー店で9年間働き、独立しようと考えていた矢先にバルーンアートに出会った。自分もやってみようと、取扱説明書を見ながら細長い風船でキリンづくりに挑戦してみた。30分以上かかったが完成したとき「おれにも出来た!これってすごい!」と、それまで生きてきたなかで一番心に響いたそうだ。あの感動はいまでも忘れられないという。
バルーンアーティストとなって今年の春に10周年を迎えたふくちゃん。これまで年間300本以上出演してきたが、コロナ禍でいまは出演が激減。出来ることに力を注ごうと、ウェディング用のバルーンギフトを作ったり、小原交流館で作品を展示したりしている。
ふくちゃんは「これまでの人生でいろんな選択をしてきました。後悔しないように動いてきたのでやってきたことは失敗じゃないんです。楽しいことばかりじゃないけど、楽しいことに変換していくのは自分次第。合い言葉は、〝ラブリーハッピー、エンジョイしましょう!〟です」と話してくれた。いま小原交流館にクリスマス用の風船フォトスポット作品を展示中だ。
ふくおか・まさのり 19××年2月19日生まれ、豊田市貝津町在住。豊田市立保見中学・県立猿投農林高校緑地土木科卒。平戸橋町の劇団「笑劇派」と一緒に出演したこともある。手品やダンスにも力を注ぐ。
アーティスト 紫乃〜murasakino〜 アートを通して人を癒していきたい 2020.11.06
絵画、生花、建築、、陶芸、写真などを通して自分を表現し、人を癒していきたいと作家活動している豊田市出身のアーティスト紫乃さん(岐阜県在住)。アクリル絵の具で木材や布などに描く色鮮やかな作品が印象的だ。
紫乃さんは、豊田市立高橋中学、県立豊田西高卒。大阪の関西外国語大学短期大学部を卒業した後、ニュージーランドやポルトガル、イギリス、ベトナムなどを一人旅した人。いろんな生き方があると知り、自分にしかできないことは何かと模索しはじめたときに陶芸と出会った。ホテルオークラ神戸に勤めていたときだ。
ホテル退職後は豊田に戻り、瀬戸市の県立窯業高等技術専門校で1年間陶芸を学んだ。瀬戸の窯元へ入社し、作陶を続けるなか、今度は自分で家をつくりたいという思いが募ってきた。
2004年には岐阜県の建築事業所で働きながら、田んぼが見渡せる小高い土地に小さなログハウスを建てた。
2014年には2級建築士の免許を取得するとともに、独自の絵画やオブジェの制作をスタート。紫乃さんをアーティストとして開花させてくれたのは、建築事業主の知り合いの名古屋のデザイナーだった。3年ほど前から描きためてきたアクリル画の小作品100枚ほどを見せると、作品集を作ろうと提案されたという。
デザイナーの知り合いの飲食店オーナーから壁に飾る絵を描くチャンスをもらい、アーティストとしてデビュー。当時の紫乃さんは「自信がなくて何もできない人間だと思っていた」そうだが、作品は好評で、季節毎に差し替えて3年半展示したという。2017年にはアジア人初のノーベル文学賞詩人タゴールの詩集やエッセイ集の装画にも採用された。
紫乃さんの作品にテーマは無い。「観る人に一旦思考を停止してもらい、感覚を研ぎ澄まして観てもらいたいですね」「いろんな人との出会いで今があり、これまでのさまざまな経験が今いかされていると思います」と話してくれた。
豊田市民芸の森でいま、紫乃さんの作品が展示されている。問合せは民芸の森(☎0565・46・0001)へ。
紫乃(しの)〜murasakino〜:豊田市出身、昭和49年7月生まれ。豊田市立高橋中学卒、県立豊田西高卒、関西外国語大学短期大学部卒。2級建築士有資格者。岐阜県在住。
とよた市民後見人 鳥巣美恵子さん 家庭裁判所認定豊田市民第1号 2020.10.02
認知症や知的障がいなどにより判断能力が不十分な人の人生に寄り添って、施設入所手続きをしたり、話相手になったりして支援する「市民後見人」。豊田市今町の鳥巣美恵子さん(59)が、市内で第1番目の「とよた市民後見人」として家庭裁判所から認定を受けた。
鳥巣さんは結婚後、専業主婦として夫や4人の子どものことを一番に考えて家庭を支えてきた人。夫が定年退職し、子どもも独立して、自身が60歳を目前にどのように過ごしていこうか、一人の女性として何ができるだろうかと考えた。
そんな時、広報とよたに掲載された講座募集記事に目が止まり、2018年、市成年後見支援センターが初めて開催した「市民後見人養成講座」を受講。
講師は弁護士や医師、社会福祉士、司法書士らで、年間を通して後見活動で必要な対人支援、民法、生活保護などの知識を習得したり、福祉施設などで実習を行ったりしてきた。
鳥巣さんが講座の中で印象に残ったのは「市民後見人は専門的な知識や技術がなくても大丈夫。被後見人に寄り添ったサポートができればいい」との言葉。専業主婦の自分でも関われるのではないかと思ったそう。「自分自身、家族のためにと思って言ってきたこと、やってきたことが、本当は本人はどう思っていたんだろうと考える時があります。家族でも分かりづらいのに、ましてや他人であれば理解するのがさらに難しい。でも、認知症や知的障がいを持っている人の考えや思いを知るのが一番だと考えて、その人らしく生きることをサポートできたらいいなと思います」と謙虚に話してくれた。
鳥巣さんの被後見人は既に決まっていて、軽度な認知症がある70歳代の女性。一年間は後見支援センター職員と一緒に一ヶ月に2回会い、その後、センター職員や専門家からのアドバイスやサポートを受けながら被後見人に寄り添っていくという。
鳥巣さんの人柄について、市成年後見支援センター主査で社会福祉士の中田寿枝さんは「笑顔と温かい雰囲気が魅力的です。福祉からの主観が入ると本人の意思を優先せずにサービスを提供しがちになってしまいます。鳥巣さんから気づかされることもありますよ」と髙く評価していた。
とりす・みえこ 昭和36年1月生まれ、豊田市立豊南中学出身。豊田市今町在住。3男・1女の母親で、幼稚園や小・中学校、高校PTA役員・委員を務めてきた。豊田市福祉大学福祉入門コース3期生。
有職家 一ノ瀨將之さん 皇室行事の着付け担う 2020.09.04
令和の皇位継承で行われた「即位礼正殿の儀」と「大嘗祭」で宮内庁の人たちに装束を着せた有職家が豊田市にいる。永覚新町の一ノ瀨將之さん(37)だ。
有職家とは公家や武家の行事、儀式、官職等に関して造詣が深い人。一ノ瀨さんは特に装束の着装を専門とする有職家だ。装束の着付け「衣紋」には高倉流と山科流がある。その歴史は古く鎌倉時代から現代にまで受け継がれている。一ノ瀨さんは高倉流だ。
日本の古式ゆかしい装束や文化に興味をもったのは中学時代。
本格的に学び出したのは大学生の時だ。当時名古屋にあった高倉流の道場へ入門を願い出た。大学卒業後に銀行員になってからも東京の家元へ月一度通い、直接教えを受けてきたという。
伝統儀式ではじめて装束着装に携わったのは2013年。伊勢神宮で20年に一度行われる式年遷宮の時だった。装束そのものはフリーサイズでつくってあり、普段から触っているので感触はつかんでいるが、着せる神職方の体型はその場でないとわからない。装束は2人一組となって20分〜30分で着せていく。昨年の大嘗祭では宮内庁の人たち50人ほどに装束を着せたという。
天皇陛下をはじめとする皇族方に装束の衣紋を奉仕するのは両流派の家元や高弟たちだ。天皇陛下と皇太子殿下の装束は、それぞれ専用の色と文様がある。天皇陛下は黄櫨染という赤みがかった黄褐色の袍(上衣)を着装する。文様は桐竹鳳凰紋だ。皇太子殿下は黄丹色(あざやかな赤みがかった橙色)の袍を着装する。文様は鴛鴦だ。
一ノ瀨さんは「十二単をはじめとする宮廷装束は、平安時代に誕生してから今日まで千年受け継がれている世界で唯一の服飾文化です。現在では皇室行事などで用いられており、宮廷装束とともにそれを着付ける衣紋の伝統と技術も後世に伝えていかなくてはならない大切な文化と考えています。この日本の文化を普及する機会があれば豊田市でも教室を開設したいと思っています」と話してくれた
いちのせ・まさゆき 昭和58年1月生まれ、豊田市永覚新町在住。豊田市立末野原中学卒、私立杜若高校卒、名城大学経営学部卒。高倉流直門。有職文化研究所会員。日本風俗史学会会員。2児の父親。
トコネットワーク代表 西塔隆さん トコ積み木を考案した元豊田市職員 2020.08.07
豊田市産の間伐材でつくった「トコ積み木」のおもしろさを、全国各地で広めている元豊田市職員がいる。豊田市泉町の西塔隆さん(69)だ。
トコ積み木は横から見るとカタカナの「ト」と「コ」の形をしているのが特徴。西塔さんが森林課職員だった15年前、全国で展開されている「青少年のための科学の祭典」にかかわっていた理科の教員と一緒に考案したものだ。2007年には東京学芸大学で開かれた科学の祭典に初めて出展。大人が夢中になっていろいろなものをつくっている風景があったという。その横では子どもたちが大人の作品を真似したり、アレンジを加えたりしていて、積み木が魅力的なものだと実感したそうだ。
科学の祭典への出展をきっかけに、岐阜県多治見市や豊橋市などでトコ積み木で遊んでもらう機会が増え、子どもの才能や感性に驚かされたという。
西塔さんは5年前から鉄道模型にもハマっている。興味をもったのはドイツの玩具製造・販売会社「メルクリン」を知ったのがきっかけ。リサイクルショップで鉄道模型を1セット買い、さらにインターネットオークションでも買い求めた。持っている線路をつなげると80mにもなり、次第に「子どもたちと一緒にあそびたい」と思うようになった。子どもの感性は大人では計り知れない自由さを持っているのは実証済みだ。
縁合って今週末8日・9日には、豊田市渡刈町の市環境学習施設エコットが開催する催し「鉄道はエコなのりもの!?」で講師を務める。開催時間は両日共10時〜12時。
この催しでは、乗り物にはどんなものがあるか、乗り物のエネルギー源の種類、二酸化炭素の排出量などを伝える。蒸気機関車、ディーゼル機関車、電気機関車の模型も並び、違いについても紹介する。列車を走らせるとなりではトコ積み木で恐竜をつくったり、建物を建てたりしておもしろくする構想だ。
西塔さんは「子どもたちの新しい感性を引き出したいですね。自分の好きなことを自分流でやれば大丈夫。お父さんやお母さんもぜひどうぞ」と微笑んでいた。催しは各日定員10人。対象は小学生以上(小学生は保護者同伴)。問合せはエコット(☎0565・26・8058)へ。
さいとう・たかし 昭和26年7月生まれ、豊田市泉町在住。豊田市立豊南中学出身。愛知工業大学卒後に豊田市役所入職。猿投支所在籍中に名鉄三河線・旧東広瀬駅廃線路に3輪のレールバイクを走らせた
豊田煙火花火師 鶴飼葉月さん 「花火は平和の象徴」と横浜からIターン就職 2020.05.01
豊田市石野地区の山中町にある㈲豊田煙火に、花火師を目指して関東地方から就職した女性がいる。入社3年目の鶴飼葉月さん(24)だ。
鶴飼さんは神奈川県横浜市出身で、首都大学東京都市教養学科理工系化学コース(現東京都市大学理工学部化学科)卒。花火師になろうと思ったのは、日本画家の山下清が花火を題材にしてつくった詩がきっかけ。みんながみんなキレイな花火ばっかりつくっていたら戦争なんかにはならない(原文とは相違)|という内容が心に響き、花火は火薬の一番良い使い道だと思ったそうだ。
全国に花火業者は数あるが、鶴飼さんの就職時には花火師の求人は4社ほどしかなかったという。横浜から豊田への就職を遠いと感じることもなく、「豊田煙火では好きなようにやらせてもらってます」と微笑む。豊田に来て、松平や小原で手筒花火が打ち上げられることや、愛知県内の大学で火を使ったパフォーマンス「ファイヤートーチ」 があることを知り、愛知は花火が盛んだと思ったそうだ。
今年は豊田おいでんまつりの花火大会にも自作の花火を打ち上げようと挑戦。東京オリンピックの関係で9月に行われる予定だったため、打ち上げ時間の夜空が十分暗いことを想定して、小花のような花火「千輪」で演出しようと考えてきた。メインとなる花火が開花した後に時間差で無数の小花が咲き乱れるような花火で「千輪菊」が代表的。鶴飼さんは中心を青や紅、紫、黄、緑などで華やかに彩り、花びらを銀色や白色にしようと構想を練ってきたという。
ところがコロナの影響でオリンピックもおいでんまつりも中止に。豊田都心の秋の夜空を花火で彩れなかったことに肩を落とすが、「花火は平和の象徴です。火薬を戦争に使わなくていいんですから」「花火の音や光を好まない高齢者もいると聞きますが、見た人に喜んでもらえる花火をつくっていきたい」と話してくれた。
豊田煙火では春は製造がメインで、夏は製造を止めて打ち上げ現場の準備等に追われる。秋には祭りに使う号砲(昼玉)の打ち上げと製造。11月上旬に愛工大や県立大学などの学園祭でフィナーレを飾って1年が暮れていくという。
つるがい・はづき 平成7年8月生まれ、豊田市御船町在住。豊田煙火は令和元年度、職場づくり環境推進に尽力している事業者が選ばれる「イキイキ大賞」を受賞。今年2月には東京の20歳代の女性も入社。
(一社)いま・ここ 小黒泰之さん 4人の子育てパパで整体師で社会福祉士 2020.06.05
豊田市東山町の子育て世代でつくる一般社団法人「いま・ここ」が、市営東山住宅の中央集会所で子どもたちの居場所づくりなどに取り組んでいる。同法人の代表を務めているのが整体師で社会福祉士の小黒泰之さん(47)だ。
小黒さんは兵庫県出身。大学卒業後一般企業に勤めたものの、高校時代から思い描いていた福祉関係の仕事に就きたいと入社5年で退職し、名古屋の専門学校へ入学した。その後、豊田市福祉事業団に就職が決まったのを機に豊田市に来た。いまから20年前のことだ。
子どもの居場所づくりへの関心は、妻の敦子さんたちが15年以上前に豊田で立ち上げた「プレーパーク」がきっかけ。幼少の子どもを抱える親たちが子どもの〝やりたい〟という気持ちを尊重する自然の中での遊び場だ。ただ豊田のプレーパークは、親が子どもを遊び場に連れて行かなくてはならない。子どもの足で歩いて行ける範囲内にその様な場所がつくれないかと考えてきた。
構想が具体的に進み出したのは小黒さんが小学校のPTA会長を務めたのが大きかったという。自治区長らと顔を合わせる機会が増えて関係性が深まっていった。自治区の理解を得て平成30年に、集会所を使って子どもの居場所「いま・ここ」を開設。市の地域子どもの居場所づくり事業として、毎月第2・4月曜に開いている。
さらに高齢者まで幅を広げて食事が提供できるよう、昨年10月から毎月1回「東山ぐぅぐぅ食堂」をスタートした。地域の人たちに無料または安価で食事や温かな団らんを提供する「子ども食堂」の一つだ。東山ぐぅぐぅ食堂には毎月70人ほどが集うという。
小黒さんは「コロナの影響でいまは活動を休止したり、食事の提供方法を変えたりしていますが、やってきたことは100%よかったと思います。リピーターも増え、開催日を楽しみにしている子もたくさんいます」と微笑んだ。参加する高齢者のなかには子どもに宿題を教える人や、「何かお手伝いすることありますか」と声をかけてくれる人もいるという。
活動を続けていくなかで見えてきたものも多くあり、今後は学習支援にも力を入れていきたいそうだ。
おぐろ・やすゆき 昭和48年2月生まれ、兵庫県出身。三重大学人文学部社会科学科卒。豊田市東山町で妻と子ども4人と暮らす。豊田市福祉事業団の障がい者就労・生活支援センターの元職員。
イラストレーター なかむらひろこさん 下山支所だよりに10年間民話を紹介 2020.05.01
豊田市下山地区の民話などを温かい絵と文字で表現しているイラストレーター中村広子さん(67・羽布町)。平成22年度からは支所だより最終頁の子どもたちに語り継ぎたい「しもやまの民話」コーナーで連載を続けてきた。もう10年になる。
中村さんは岡崎市生まれ。母親に絵本の読み聞かせをしてもらったり、近所の高齢者から地域の昔の話を聞かせてもらったりするのが好きな女の子だったという。絵本に携わる仕事がしたいと思ったのは高校時代からだ。28歳の時には友人の協力もあって、絵・中村廣子/文・山室静で『私の北欧神話 バルドルの死』を自費出版(出版社は私家版)し、各社に売り込みに走った経験もあるそうだ。
下山に引っ越してきたのは23年前。ご主人の「山里でのんびり暮らしたい」という言葉がきっかけだった。中村さんは下山の自然や歴史を学ぶ講座に参加し、講師だった元教員の宇野泰雄さん(昭和3年生まれ・小松野町)と出会った。民話について解説してくれたり、民話の伝わる場所に案内してくれたりと、親切で温かい宇野さんへの尊敬や感謝の気持ちが強まっていったという。宇野さんたち下山村教育委員会が発行した『下山の伝説と民謡』を手にした時には、絵を添えるなどして多くの人に民話を伝えたいと思ったそうだ。
宇野さんは前述の下山支所だよりで、中村さんと一緒に民話について解説文を連載してきた人。『下山村史』など数多くの図書の編纂に携わってきた有識者でもある。
岡崎に住んでいた頃はなるべく時間を効率よく使っていた中村さんだが、下山に来てから時間の感じ方が変わったという。
「下山で大好きな樹を長い時間ずうっと描いていたことに自分自身がとても驚きました」「絵のタッチや柔らかさは、私が持っているという事でなく、下山がそう表現させてくれるんです。いろんな人を地域の仲間として受け入れて笑い合おうとする、おおらかな下山の人たちが本当に素晴らしいと感じています。民話の仕事を続けてこられたのも、下山の方々が地元を愛し、話してくださること、案内してくださることで私の前進の力になりました」と微笑んでいた。民話の他に下山の食も紹介したいそうだ。
なかむら・ひろこ 昭和27年10月生まれ。豊田市羽布町に夫とネコと住む。豊田市の農村舞台アートプロジェクト実行委員会発行の地図の原画制作も手がける。好きな画家は童話画家の故・初山滋氏。
豊田市保健支援課職員 西田悠一郎さん 全国男性保健師のつどい実行委員長 2020.04.03
心身の病気をもつ人の生活に寄り添い、地域とつながるサポートの仕組みを考えている、豊田市職員で保健師の西田悠一郎さん(30・日南町)。入庁8年目の今年度からは、保健部保健支援課に配属された。
西田さんは、足助町立足助小学校・足助中学校卒。勉強よりも野遊びや川遊びが大好きな子ども時代を過ごした。キャンプやスキーへ連れて行ってくれた親戚には医師や薬剤師もおり、そうしたカッコイイ憧れの大人に接して育ったからか、漠然と将来は医療関係の仕事に就きたいと思っていたそうだ。父親も阪神淡路大震災や名古屋の洪水災害で、レスキュー活動に奔走する人だったという。
私立杜若高校へ進学後は精神科の看護師になろうと考えていたが、看護大学4年のとき、豊田市障がい福祉課の実習で保健師と一緒に在宅訪問したのをきっかけに進路希望を変更。病院のベッドではできない会話が自宅のリビングではできると知り、保健師として、その人らしい生き方に寄り添っていきたいと思ったそうだ。
市役所に入った当初は自分がやってあげたい気持ちが強く、空回りも多かったと振り返る。介護認定調査員として年に60回ほど家庭を訪問したこともある。初対面の人の家に上がって話すのだ。質問の項目や基準は変わらないが、これから支援・介護を受けようとする人や、家族の立場も考えながら話を聞かなくてはならない。相手によって言葉を変えたり、接し方を変えたりしなくてはならないケースもある。なかには、認知症を認めたくない人とそれを認めてもらいたい家族、話を聞いてもらって安堵する人もいるという。1年に2回は、調査員の対応についてアンケート調査も実施。結果は調査員本人へ伝えられるので、モチベーションアップにもつながっているそうだ。
西田さんは「こころに病気を持つ人の生きづらさは薬だけでは治りません。地域とつながり、地域の中にその人の役割があってこそ、こころの安定があるのだと思います。行政の立場だけでなく、一人ひとりに寄り添った新しいケアの仕組みを考えたいと思います」と話してくれた。秋には保健師の仲間と一緒に、野遊びを取り入れた健康と保健イベントを行う予定だ。
にしだ・ゆういちろう 平成元年9月生まれ、足助町立足助中学卒。私立杜若高校卒、名古屋市立大学看護学部看護学科卒。保健師、看護師、介護認定調査員。全国男性保健師の集い2020@愛知実行委員長。
ペン画家 柄澤照文さん 豊田足助の町並み描き続けて35年 2020.03.06
足助の春まつりや秋まつり、香嵐渓のもみじ祭りのポスターなどを描いている、ペン画家の柄澤照文さん(71・岡崎市)が、昭和30年頃の足助の町並みの屏風画を描こうと構想を練っている。木材産業が盛んで、まちが活気に満ちて賑わっていた時代だ。
独特の温かさと細やかなタッチのペン画は柄澤さんの独学。ほっこりとして心が和む作品が多い。背景や人々の服装などは町史や市史を読み込んだり、そこに住む人から聞き取った話を出来る限り正確に丁寧に表現しようとしている。
柄澤さんが絵を描こうと足助へ初めて訪れたのは35年ほど前。塩の道に興味を持ち、岡崎〜足助〜飯田を軽トラックで約40日間かけてスケッチ旅行をしたときだ。店先や道端で絵を描きながら、さらに足助の歴史を知ろうと思ったときに、三州足助屋敷の当時館長だった鈴木茂夫さんに出会った。
これが縁となり翌年から足助での滞在スケッチが始まった。足助屋敷で働く炭焼き職人や下駄屋さんらと寝食を共にしながら、話に耳を傾けて絵を描いた。さらに香嵐渓、小学校の屋上から見えるまちの景色、町並み、路地裏などを描いた。スケッチしていると足助の人たちから「どっから来たの」「お茶でも飲みにおいでん」などと声をかけられたそうだ。柄澤さんは「手先じゃなくって喉が疲れるほどでしたよ」と笑う。
さらに縁が繋がってマンリン書店の深見寿美子さん・冨紗子さん姉妹と出会い、建物や町並みを描いたイラストマップを作成。屏風画も2作品描いた。江戸時代後期の町並みを背景に山車を描いた秋まつりと、弓の名手の足助次郎重範公を題材とした春まつりだ。
柄澤さんは「絵と文でまちの様子を記録として描き留めるのは大切だと思います。商店や家を一軒一軒描き、それをつなげて面にしたら、自分の住む町への愛着が深まるのではないでしょうか。それが人の役に立つならありがたいですね」と話す。
いま描こうとしている昭和30年頃の足助の屏風画には、足助川や巴川の姿も。当時あった店や町並みの様子などを出来る限り忠実に描こうと努めている。屏風画を描く柄澤さんの姿は4月1日から三州足助屋敷で見られる。
からさわ・てるふみ 昭和24年1月生まれ、岡崎市在住。30年以上前から一年の半分ほどを足助で過ごし、ペン画を描く。2004年『塩の道旅日記』出版(樹林舎)。岡崎市の屏風画も4作品手がける。
㈱上原農園代表 山田良一さん 愛知農業賞の「担い手育成部門」で表彰 2020.02.07
愛知県の農業振興功労者として豊田市猿投地区上原町の専業農家・山田良一さん(68)が、愛知農業賞(あいちアグリアウォード)の「担い手育成部門」で表彰された。主催は公益財団法人愛知県農業振興基金で、平成18年度から個人や団体を対象に表彰している。
山田家は江戸時代からつづく農家。戦後になって畑作もやるようになった。先代まではタバコもつくっていたそうだが今は主にスイカと白菜を2・2ヘクタールの畑でつくっている。気温差がある土地柄なので野菜に甘味が増すという。
しかし10年ほど前には後継者不足と生産量の落ち込みに悩まされた。そこで山田さんは農業に興味を持っている若者をリタイアしそうな農家に連れて行き、技術や知識を習得・継承させるようにした。その結果、品質を維持しつつ生産量も右肩上がりになったという。
山田さん自身も若者を受け入れて技術指導や経営安定に向けて支援してきた。新規就農した6人はいずれも経営拡大につながっているそうだ。山田さんは「止むに止まれずやってきたことが、良い方向に転がってきただけです」と謙虚に話す。
スイカ苗の定植は2月下旬から4月中旬まで。1回あたり3000本を4回に分けて植える。寒い時期は外気に当てないよう温かい環境で育て、その後も生長に合わせて手間暇かけてつくっていく。消費者から求めらる美味しさや形に対して最善を尽くすと意欲的だ。一夏で1箱2個入りのスイカ(一玉7〜8㎏ほど)7000箱を名古屋を中心に出荷するという。
白菜については2・4〜2・5㎏が売れ筋。今年は暖冬で大きくなり過ぎて困ったそうだが、技術と経験でカバーしてきたという。
山田さんは「野菜は工業製品ではないので均一にするのは難しいですが、技術力でカバーしています」と胸を張る。ベースは年間の作業スケジュール。肥料を入れる時期や方法などを調整していくそうだ。病気に対する対策は県やJAの指導員に聞き、野菜作りについては同業者と情報交換したり、先進地域を視察に訪れたりもする。
いま法人では40歳代と23歳の若者、アルバイト数名が働いている。4月には20歳の若者が就農を予定している。
やまだ・りょういち 昭和26年5月生まれ。豊田市立猿投台中学、県立豊田西高校卒。JAあいち豊田猿投の元白菜部会長・元西瓜部会長。上原棒の手保存会顧問。上原町に妻と三女の家族と住む。
豊田森林組合職員 山田政和さん 自然大好き木の伝道師 2020.01.10
豊田市産の木で家具や遊具などをつくり、都市の市民へ木材の新しい使い方を楽しく愉快に提案している山田政和さん(42・猿投地区本徳町)。豊田森林組合総務課の職員だ。ワールドカップ時には巨大ラグビーボールを作って来豊者に寄せ書きを楽しませた。
山田さんは豊田市立四郷小、井郷中学校卒。子どもの頃からとにかく元気で自然が大好き。地元の神社は格好の遊び場で、切り倒されていた丸太の上に乗ったり、山中を探検したりしてあそんだという。
杜若高校時代に好きだった教科は美術、体育、数学、理科。数学はクイズを解くような感覚がおもしろく、平面図は立体的にイメージ出来たという。また植物や生き物の生態にも興味があった。温泉宿と看板屋の2つのバイトを掛け持ちし、学校では学べない多くのことを学んだそうだ。
卒業後は小原村森林組合に就職。木の伐採から製材、建築まで行う特色ある職場だった。一時は組合から離れたものの、2
004年には広瀬町の組合に入り、翌年、愛知万博開催にあわせて鞍ケ池サービスエリアの車止めを木で製作。これが本格的な木工の始まりだった。
2010年に組合の足助本所へ異動してから木材加工一筋となった山田さん。名古屋大学農学部が2009年に発足した「都市の木質化プロジェクト」にも2011年から携わり、国産材を都市で有効利用し、森林の整備や林業の活性化につながる取り組みに力を入れ始めた。市の方針もあり、さらに木を使った取り組みが進むなか、一昨年秋にリニューアルしたとよた子育て総合支援センター「あいあい」の木育空間にも携わった。木のおままごとセットや遊具が目を惹く。
昨年は都市の木質化プロジェクトで「全国植樹祭」の会場になった尾張旭市の森林公園の入場ゲートなども製作。このほか、名古屋や豊田市で開催されたあいちトリエンナーレでも、木を扱う芸術家の展示に関わった。
多方面で様々なものを手がけ、「趣味は木工です」と微笑む山田さん。心に迷いが生じたときには、豊田市初代森林課長の故・原田裕保さんが最期に残した「相手の立場に立っていろいろ考えなさい」という言葉を思い出すという。
やまだ・まさかず 1977年10月生まれ。妻、5歳と2歳の子どもと豊田市本徳町に住む。木材の利用方法について、2016年に韓国の大学で先生と意見交換し、翌年にはフィンランド環境省と意見交換した。
いしかわ製茶 石川龍樹さん 家族でつくった有機抹茶をウィーンでPR 2019.12.06
豊田市内で有機抹茶を生産している「いしかわ製茶」の石川龍樹さん(40・豊栄町)が、国の有機農産物の輸出拡大を目的とした事業で10月30日から6日間、オーストリア・ウィーンとアラブ首長国連邦アブダビを訪問し、商談とプロモーション活動を行ってきた。ウィーンでは日本とオーストリア国交150周年を記念して開催された「第27回国際平和美術展」のお茶ブースでも、着物を着て抹茶をPRしてきた。
いしかわ製茶は、豊田市南部の上郷地区豊栄町と中山間地の下山地区和合町で有機栽培茶を製造・加工・販売している家族経営の茶園。出荷の大部分を占める標高650mの下山地区で生産する茶葉は、昭和53年に山林を開拓して茶木を植付けした時から41年間、農薬を一切使ってないという。害虫が寒さに弱いためだ。
経営者である父親の哲雄さんは、てん茶(抹茶の原料)で日本初となる有機認証を取得した有機栽培の第一人者。龍樹さんも平成29年度に豊田市で開催された関西茶品評会のてん茶部門で最高位の農林水産大臣賞を受賞している。
龍樹さんは今回の海外プロモーションについて報告するため、先月27日に太田稔彦市長を訪問。ウィーンの観光名所「シェーンブルン宮殿オランジェリー」の一角で抹茶をたてて来場者に振る舞ったことや、抹茶の鮮やかな色や旨味が好評だったことを話した。抹茶の濃さに不慣れな現地の人には、お湯で薄めて提供したという。オーストリアの試飲会では、同国の国旗を模した特注の茶筅を使用。甘い飲み物が好きなアラブ人にはグリーンティーを提供した。茶道具も含めて日本の文化や伝統工芸を海外に伝えていきたいと意欲的だ。龍樹さんは海外でプロモーション活動をするだけでなく、ホテルやカフェ、食料品店へもまわり、自作のお茶の商談に努めたという。
龍樹さんが国の事業として海外に有機抹茶をPRできるのは昨年度から来年度にかけての3年間。昨年はパリやベルリンなどを訪問したそうだ。昨年の年間輸出量は200㎏で、今年は既に300㎏になっているという。龍樹さんは「海外へどんどん輸出していきたい。年明けにはスイスを訪問する予定です」と目を輝かせた。
いしかわ・たつき 1979年生まれ、豊田市出身。豊田やみよし市などのプロ農家集団「夢農人とよた」会長。とよたSDGsパートナー登録者の一人として、持続可能な開発目標の達成や実現を目指す
ラグベア 首藤隆暢さん 豊田のラグビーの底辺を広げたい 2019.11.01
ラグビー日本代表のジャージを着たクマの着ぐるみ「ラグベア」姿になって様々なイベント会場に現れ、一市民の立場でラグビーワールドカップをPRしてきた首藤隆暢さん(豊田市清水町・57)。「子どもたちにラグビーに興味を持ってほしい」 「ラグビーボールに触って楽しんでもらいたい」との想いで活動を始めたそうだ。
首藤さんは同級生のお兄さんやテレビの学園ドラマの影響でラグビーを始め、高校、大学時代を打ち込んだラガーマン。卒業してからはラグビーから離れていたが、豊田スタジアムがワールドカップの会場に決まり、「豊田のラグビーのために役立ちたい」と恩返しの想いが膨らんだ。
昨年のクリスマス前、孫へのプレゼントを探していた時に大きなクマのぬいぐるみを見つけ、「これなら子どもたちも親しみ、ラグビーに興味を持ってくれるのでは…」と即購入。自分で頭部の中身を抜いてかぶれるように改造し、胴体はよく似た素材のもふもふのルームウェアと日本代表ジャージを購入した。「ラグベア」の名は、3月に開催された「WE LOVE とよたフェスタ」で5候補の中から投票で決定。市民が名付け親となった。
首藤さんが扮するラグベアのイベント参加回数は、すでに50回を超えている。夏はおそろしく暑かったが、多くの子どもが「クマさんがいる!」と走り寄ってきて、ラグビーボールにも触れて楽しんでくれる。そんな様子を毎回みて、ラグベアでのPR活動は大成功だと実感しているそうだ。
首藤さんは、相手を思いやり称えあうラグビーの「ノーサイド」「One for all,All for one」の精神と、ボランティア精神は似ているという。その精神を子どもたちにも伝えていきたいそうだ。 「今後も様々なイベントにラグベアとして参加させて貰い、ラグビーの底辺が広がるようにPR活動を続けていきますよ」と楽しそうに話してくれた。
ラグベアに関する問合せは首藤さん(☎090・1755・0223)へ。
しゅどうたかのぶ 1962年3月生まれ。57歳。会社員。福岡県直方市出身。豊田工業高校、中京大学体育学部卒。ラグビーW杯公式ボランティア「TEAM NO-SIDE」でも(ラグベアを脱いで)活躍した
チェロ愛奏家 岩城雅邦さん 豊田にもっと文化を! 音楽活動40年以上 2019.10.04
音楽を通して地域貢献を目指す「一般社団法人ピアチェーレNEXT」代表理事でチェロ愛奏家の岩城雅邦さん(70・栄町)が、プロを目指す若手チェリストを応援しようと、今月13日、豊田市コンサートホールでチェロ・コンクールを開催する。予選は10時半から始まり、本選は14時からだ。
今回初開催となる同コンクールには、愛知・岐阜・三重・静岡の東海4県にゆかりのある若手チェリスト16人が出場。最年少は愛知県出身の高校生だ。審査員は愛知県立芸術大学名誉教授の天野武子さん、ドイツ国立ケルン音楽大学副学長のクラウス・カンギーサさんら5人が務める。
岩城さんは幼いときから音楽が好きで、6歳からピアノを習い、中学・高校時代にはオーケストラ部に所属して木管楽器ファゴットを奏でてきた。
チェロとの出会いは大阪市立大学時代。チェロを基礎から学び、同大学交響楽団で演奏してきた。チェロを手にしたことによって自分が何よりも音楽が好
きだと改めて実感したという。また、幼いときに出会ったピアノ講師の影響も大きかったと振り返る。ピアノを楽しみたい自分の気持ちをそのまま受け入れてくれ、楽器を演奏する楽しさを教えてくれた人だと話す。
就職先を選ぶにあたっても、ポイントに「オーケストラがあること」をあげていたほど音楽好きな岩城さん。トヨタ自動車工業㈱に入社後、同社にオーケストラがないことを知り愕然としたそうだが、室内合奏団の存在を聞きつけ安堵して入団したという。
当時、豊田市付近にはアマチュアオーケストラがなかったので、「三河にもオーケストラを!」との強い想いで、1973年岡崎フィルハーモニー管弦楽団設立に参画。東京転勤を経て、1994年に豊田でもセンチュリー室内管弦楽団設立に参画し、翌年にはとよたクラシック音楽同好会を設立した。
20年前から「チェロを楽しむ会」を主宰している岩城さんはチェロの魅力について、「楽器の王様だと思います。音域が広いので、力強い音も柔らかい音色も出せます」と楽しそうに話してくれた。13日に開催されるチェロ・コンクールは入場無料。問合せは岩城さん(☎090・3569・4914)へ。
いわき・まさくに 昭和23年10月生まれ、京都市出身。豊田市栄町在住。市民サークル「チェロを楽しむ会」主宰。阪神・淡路大震災復興支援「1000人のチェロ・コンサート」出演。2013年豊田文化功労賞受賞。
手作りのウール作家 須賀いづみさん 女性作家を集めワークショップ 2019.09.06
豊田市曙町の須賀いづみさん(50)は、世界でたった1つしか無い手づくりのウール素材ニットが人気のウール作家だ。 須賀さんは、ニュージーランドの牧場から直接輸入した原毛を一人で糸に紡ぎ、染色して製品に編み立てている。綿などでは紡績から一貫して手掛ける作家がいるが、ウールでは殆ど例がなく、非常に貴重な存在だ。染色に使う藍も自宅の庭で育てている。
須賀さんがウール作家となったのは約20年前にニュージーランドを訪れた際、空港から見えた草原と羊に感銘を受けたから。現地滞在中にウールの紡ぎ方や編み方を習ったという。大学時代に染色学を専攻していたので染色も出来たことから、帰国後、本格的にウール作家の道を歩み始めたそうだ。
駆け出しの頃は何を作っても面白かったが、ビジネスとして取組むうちにいろいろと悩むようになり、作品に対する信頼性を重視するようになったという。「売ったらおしまいというのではなく、製作者の魂=作品というイメージで、買った人に末永く愛用してもらえるものづくりを特に心掛けるようになりました」と話していた。
ものづくりに対するこうした姿勢が支持され、最近はファンが増えている。6月には滋賀県の木製アクセサリー作家・山田浩久さんとのコラボレーションで、広島市の福屋百貨店の企画展に作品を出展。今秋以降も、9月11日〜17日に東京の丸善本店で、10月30日〜11月5日に三越星ヶ丘店で、11月7日〜12日に丸善名古屋本店で展示会に出展するなど、市外での作品展示が増えているそうだ。
須賀さんは昨年からは地域貢献にも取組んでいる。7月には昨年に続き豊田市司町のスタジオハルガ(豊中建設)で夏休みの子ども向けの藍染め体験ワークショップを開催。この時は子どもが飽きないように、染まるのに時間のかかるウールを使わず、綿やシルクを使ったという。
10月3日〜7日には豊田市大林町の花遊庭で、豊田市とみよし市の女性作家4人のワークショップも開催する。これも昨年から続けており、4回目の今回は須賀さんのほか、刺しゅう、ガラス細工、生け花&ドライフラワーの作家が参加する予定だ。
すが・いづみ 1968年10月29日生まれ。愛媛県川之江市(現四国中央市)出身。92年に京都女子大学被服学部染色化学科を卒業。96年にニュージーランドを訪れた。2000年に結婚して豊田市へ。
ボラ連「傾聴講座」講師 服部亮二さん 老若男女それぞれの悩みに寄り添う 2019.08.02
他者の悩みに寄り添って話を聞いていこうと、豊田市花園町の服部亮二さん(71)が5年前から、ボランティア連絡協議会主催の「傾聴講座」の講師を務めている。
服部さんは豊田市が主催した傾聴ボランティア養成講座の修了生で、高齢者の不安や孤独感の解消、見守りを目的に、傾聴者としての活動も続けている。
服部さんが傾聴の重要さを知ったのは、㈱東芝の社員時代。同じ課内の新入社員が「会社を辞めたい」と言ったとき、その気持ちに寄り添えず、命を絶たせてしまったという悲しい経験をもつ。当時は、入社間もない若者が会社を辞めることに対して、上司の理解が得られず、叱咤する時代だったと振り返る。その後、職場で傾聴業務を任せられ、さらに傾聴者の育成や指導を10年余り務めてきたという。
服部さんがいま講師を務めているボラ連協の「傾聴講座」は、対象者を高齢者に限定することなく、老若男女それぞれの悩みに寄り添うもの。7月に福祉センターで開かれた第6回目の講座には39人が参加した。
話を聞いてもらいたい人のなかには、職場やご近所さんとの人間関係に悩む人、自分の功績やこれまでの人生について話したい人などさまざま。近年多いのは、認知症患者やその家族からの悩みだという。
傾聴は、話し手と聞き手の会話の割合が7対3くらいがいいそう。聞く側が話し手になったり、アドバイスしたりしてはいけない。「なるほど」などのあいづちや、うなずきが大切で、相手の話を受け入れることが重要だという。服部さんは「初めて会う人とは世間話から始めることが多いですね。聞くことによって自分自身が勉強させてもらってます」「仲間の中には余命宣告を受けた人に寄り添って話を聞いた人もいます」と感慨深げだ。ときには、話し手の苦しかった過去の人生話にのめり込んでしまうことも。そんなときは傾聴者同士でおしゃべりして、服部さん自身もガス抜きしているそうだ。
服部さんが代表を務めるボランティア団体「じっくり傾聴チーム」が月に一回、福祉センター会議室で「傾聴カフェ」を開いている。開催日の問合せはボラ連協(☎31・1294)へ。
はっとり・りょうじ 1947年12月生まれ、豊田市花園町在住。妻・息子と3人暮らし。豊田市ボランティア連絡協議会会計。「笑いと健康」講座も開催。東芝を早期退職したのち、社会保険労務士としても活動。
スポーツインストラクター 隅誠一郎さん ドッジボールやランニング指導 2019.07.05
地元の子どもたちに、ふれあいを大切にしながらスポーツの楽しさを伝えたい──
そんな想いで、豊田市上郷地区の柳川瀬公園体育館で「かみごうスポーツクラブ」の専属インストラクターをしている隅誠一郎さん(配津町・51)。「親子コーディネーショントレーニング教室」「ドッジボール教室」等で子どもたちにスポーツの楽しさを伝えている。
隅さんは豊田市のスポーツ推進委員を6年間務めた際に、コーディネーショントレーニングの講習を受講。ドッジボールの審判資格も取得した。しかし、ドッジボールの審判依頼はナゴヤドームなど地区外ばかりだったという。
「地元の子どもたちを指導できないか」と、かみごうスポーツクラブに話を持ちかけて教室をスタート。現在は、親子のコミュニケーションを大切にしたコーディネーショントレーニングや、集中力・反射神経が身に付き全身運動でもあるドッジボールを、ふれあいを大切にしながら指導している。ひとりひとりに丁寧に声をかけている姿が印象的で、親や子どもたちからの信頼も厚い。
隅さんは宮崎県都城市出身。高校時代まで野球部で活躍し、甲子園予選大会でホームランも打った。トヨタ自動車に就職後も草野球チームでピッチャー兼監督として活躍したが、肩を痛めてからは後輩に託し、以前から取り組んでいたマラソンを本格的に始めた。月間400〜500kmは走り込み、出場した大会の半分以上は優勝している実力派のランナーだ。ランナーズマイスターの中級資格を取得して、ランニング指導もしている。
隅さんは「子どもたちの成長が見られるのはとても楽しいです。教室の卒業生の中学・高校での活躍はうれしいですし、小学生たちへの励みになっています。今後はランニングの要素も取り入れ、足が速くなるような指導にも取り組んでいきたいです」と、指導者としての熱い想いを話してくれた。
各スポーツ教室の問合せは、NPO法人かみごうスポーツクラブ(☎21・2070)へ。
すみ・せいいちろう 昭和42年11月22日生まれ。宮崎県都城市出身。トヨタ自動車上郷工場勤務。趣味は走ること。会社の駅伝大会に30年連続出場。かみごうRA(ランニングアカデミー)所属。
豊田小原和紙工芸会長 山内章平さん (株)美術生活を設立 2019.06.07
豊田市小原地区を拠点に和紙工芸を根幹から見つめ直し、さらに発展させようと、豊田小原和紙工芸会会長の山内章平さん(33・名古屋市)が邁進している。現在の会員は19名だ。
章平さんの祖父は小原和紙を工芸美術として高め、礎を築いてきた作家の山内一生さん(89・西萩平町出身)だ。亡くなった母親の知子さんも同じ工芸作家だった。
章平さんは山内家の直系として、幼少より小原和紙工芸の継承者として見られてきた。しかし、本人は「自分の体質や得意とするものがわからず、10代の頃は将来について悩んだ時期もありました。やって初めてわかることが多いと思います」と冷静だ。
章平さんは名古屋育ちで、小原には週末に訪れる程度だったという。高校卒業後は京都造形芸術大学へ進み染織を学んだ。ライフワークで何をやっていこうか模索したときに、「水」をテーマに芸術の発信をしてきたいと思い、表現するジャンルに和紙工芸を選んだ。大学時代に小原の工房で、たくさんの水を使って和紙を制作したり、原料のコウゾの繊維が、水の中を泳いでいるかのように感じたりしたのが心を動かしたという。
大学を卒業して3年後の20
13年には小原和紙工芸会の会員となり、同年には豊田市文化振興財団の特別表彰で文化新人賞を受賞した。
2015年には、株式会社「美術生活」を設立。小原地区西萩平町の一生さん個人のアトリエを本社とし、名古屋市千種区のマンションに事務所を構えた。一生さんの数々の功績と、レガシーをしっかり引き継ぎつつ、新しい事業も展開していこうという考えだ。
近年は地球温暖化の影響か、和紙の原料となる植物のコウゾやトロロアオイが昔のように育たなくなっている。章平さんはこの現状を危惧しながらも、「日本の自然環境があってこそ、生み出されてきた和紙工芸です。小原でも原料をつくっていく予定です」と意欲的だ。さらに、「これからは小原のアトリエで完成品を見てもらうだけでなく、原料となる植物がどのように育ち、和紙がどのようにつくられていくのか、一貫した工程をリアルに見て感じてもらえる場所にしていきたい」と話してくれた。
やまうち・しょうへい 1985年生まれ、名古屋市千種区在住。京都造形芸術大学美術学部染織コース卒業。2010年に第42回日展初入選。2013年に豊田市文化振興財団の特別表彰で文化新人賞受賞。
豊田市猟友会副会長 今中健夫さん 学校給食協会に勤める週末ハンター 2019.05.10
狩猟に興味を持ってもらい、仲間を増やしていこうと、今月下旬ごろにNPO法人「愛猟」の設立を目指し取り組んでいる猟師たちがいる。その中心人物の1人が豊田市猟友会副会長の今中健夫さん(43・高岡町)だ。
今中さんは公益財団法人豊田市学校給食協会の南部調理場に勤めている週末ハンター。狩猟に興味を持ったのは高校卒業後に就職した建設会社の上司と一緒に狩猟に行ったのがきっかけで、20歳で猟銃所得許可を得た。
今中さんが「一生忘れられない体験」と話すのは、27歳のときのイノシシ猟だ。猟友会の仲間と一緒に山中を歩くなか、ベテラン猟師から「あそこからイノシシが出てくる。5mくらいに接近したら引き金を引くだけでいいから」と言われた。まさかそんな簡単に仕留められるはずはないと半信半疑で指示された場所で待ち構えていると、猟犬の鳴き声がし、本当にイノシシが歩いてきた。頭を目がけて引き金を引いた。「ボンッ」「バタン」。一撃で仕留めた。目の前に60〜70㎏のイノシシが横たわっていたという。
初めてシカを仕留めた時も、ベテラン猟師の指導があってこそできたと強調する。知識と経験の深さを実感したそうだ。
今中さんは「ぼくは週末にしか山に行けないので、まだまだ努力と勉強が必要です」と話す。山のいたるところに目を配って歩くと、イノシシの風呂場「ヌタ場」や、木の幹に体をこすりつけた痕跡を見つけることがあるそう。そうしたことに気づける好奇心が大切だという。
今中さんは狩猟指導員、狩猟安全指導委員、射撃指導員でもあり、一昨年は富山県で開催された「第12回安全狩猟中部ブロック射撃大会」の44歳以下の部の優勝にも輝いた実力者だ。「猟師のなかには狩猟文化を楽しむ人も多いですが、野生鳥獣害駆除をするのも猟師です。様々な意見もありますが、狩猟文化や猟師について知ってもらい、理解してほしい」と話す。
今中さんらが設立を目指すNPO法人「愛猟」は、愛知県全体で狩猟者を増やしていこうというのが大きな目的。理事長は新城市のベテラン猟師の鈴木康弘さん(66)。今中さんは副理事長を務める予定だ。事務所は足助地区北小田町の山里カフェMui。カフェを経営する清水潤子さんも猟師だ。
いまなか・たけお 1976年3月生まれ、豊田市高岡町在住。豊田市立逢妻中学、県立豊田工業高校電子機械科卒。公益財団法人豊田市学校給食協会の南部調理場に勤務。豊田市内で有害鳥獣駆除活動を実施。
トヨタケ工業新入社員 遠藤颯さん 大好きな自転車に乗って稲武の山をPR 2019.04.05
豊田市稲武地区の桑原町にあるトヨタケ工業㈱に今月1日、神奈川県川崎市出身の遠藤颯さん(23)が入社した。
トヨタケ工業は自動車用のシートカバーをつくっている会社。社長の横田幸史朗さん(43)は稲武の少子高齢化が深刻であることから、働きやすさや山間部の魅力を伝えることで地区外から若い人材を呼び込もうと考えている。また、新規定住者の受け入れを支援する任意団体「OPEN INABU実行委員会」も立ち上げ、地元の資産である山をいかして、「遊ぶ」をコンセプトにマウンテンバイクで山を走れるよう地元の人の協力を得て一緒に整備したり、マウンテンバイクツアーを開催したりしてきた。
横田社長はさらに、働き方革命「INABU BASE PROJECT」を3年前にスタート。これは平日の週3日は事業所で働き、土日曜は同地区で山登りやマウンテンバイク等の山岳ツアーガイド業をして、残りの平日2日は休むという就労スタイルを認めていこうというものだ。違う職場での経験を製品開発の企画業務などに生かしてもらおうという狙いがある。
新入社員の遠藤さんは、東洋大学総合情報学部在学中に「INABU BASE PROJECT」を知った。IT企業への就職も考えていたが、自転車部に所属しツーリングの楽しさを実感していたこともあり、人生を考え直して同プロジェクトに参加。インターンシップでトヨタケ工業を訪れた。横田社長が掲げる地方創生や働き方革命に魅力を感じ、自転車好きというバックグラウンドが同じことにも心が躍った。企業として地域に密着していかなくてはならないという考えにも共感できる部分が多く、入社を決めた。
トヨタケ工業では昨年から遠藤さんのような若者が3名入社している。横田社長は「地域の宝となる若者なので大切に育てていきたい」と言う。
遠藤さんは稲武の魅力を「緑が豊かで景色がいい」「人と人が密接に関わっているのを感じます。人が優しいですね」と話してくれた。また「引っ越してきて日が浅いので地元の人に受け入れてもらえるか心配。自治区の仕組みなどもこれから少しずつ覚えていかないと…」とはにかんだ。
えんどう・はやて 1996年4月生まれ、豊田市黒田町在住。趣味は自転車でのツーリング、読書。自動車は持っていないが、マウンテンバイク、ロードバイク、シクロクロスバイクの3台を持っている。
みよし商工会青年部 渡邉貴志さん 子どもたちに大工の仕事を伝えたい 2019.02.01
みよし商工会青年部の渡邉貴志さんが昨年11月、広島市で開催された商工会青年部全国大会の主張発表大会で最優秀賞を受賞した。愛知県勢の全国優勝は初めてだ。
この大会は全国の商工会青年部の代表が、「青年部活動を通じた地域貢献や自社経営」をテーマに10分間で発表し内容を競うもので、県大会、ブロック大会を勝ち上がった7名が全国大会に出場した。
渡邉さんが県大会に出場したのは、商工会に加入して5年目の新人だったことと、リフォーム職人という仕事柄もあり人前で話すのが苦手な自分を変えたかったことからだという。
渡邉さんは「日本の伝統建築を伝えたいという思いで独立したが、経営ノウハウも無く売上も低迷し、もう駄目かもしれないという気持ちになった」という。そんなとき友人に誘われて商工会青年部に加入し、みよし産業フェスタ内で青年部主催の子どもの大工体験に真剣に取り組んだところ、見ていた人たちから次々と仕事の依頼が入るようになった。青年部のお陰で救われたと感じたそうだ。
主張大会ではこの体験をまとめてスピーチに。持ち時間丁度に終わるように努力した他、出来るだけ自分の言葉で話すようにし、お客さんとのやり取りもありのまま表現したという。
一番緊張したのは本番ではなく、県大会前の最初の練習の時だった。「人前で話した経験が無かったので、胃が痛くなり食事ものどを通らなかった」という。県大会、ブロック大会と進むうちに話すことに馴れて来たそうだ。
大会出場にあたっては、みよし商工会が一丸となって支援した。渡邉さんがスピーチ原稿を練る時は文章の得意なメンバーが助言してくれ、話し方や身振り、手振りについても話すのが上手な会員が助言してくれた。「各自がそれぞれの得意分野で支えてくれて大変ありがたかったです。優勝できたのは商工会の皆さんのお陰です」と感謝している。
全国大会で優勝したことで、渡邉さんには仕事だけではなく、講演の依頼等も来ているという。「今の仕事が好きなので続けていくと共に、小中学生に向けて大工仕事について講演したい」とも話してくれた。
わたなべ・たかし 1974年12月13日 名古屋市生まれ。小学4年生で旧三好町に転居。建築関係専門学校を卒業後、豊田市の建築会社に就職。4年前に独立しリフォーム職人WILL志を創業。
駅伝チーム監督 松本幸人さん 退職後も子どもたちに陸上を指導 2019.01.10
県内54市町村の頂点を決める愛知万博メモリアル「市町村対抗駅伝競走大会」が去る12月1日にモリコロパークで開催され、豊田市が2年連続で優勝を果たした。チームを初の2連覇に導いた監督が松本幸人さん(75・宮町)だ。
この市町村駅伝は万博開催を記念して2006年に始まり、小学生・中学生・ジュニア・一般・40歳以上の選手がチームとなって全9区間(28・7㎞)を襷でつなぐ。
松本さんは第1回大会からコーチとして携わり、監督になって8年目。豊田市を3度も優勝に導いてきた。「駅伝は総合的な力です。それぞれが励まし合い、支え合う家族のようなもの。全ての人との絆が2連覇に繋がりました」と熱く話す。
出身は渥美半島の田原市。地元の県立成章高校陸上部時代に800m走で全国2位の記録を残し、愛知県の高校記録保持者でもある。その後はトヨタ自動車に入社。800m走と1500m走の実業団選手として10年を過ごし、全国3位の成績も残した。
現役時代からトヨタ工業学園の指導員として、生徒たちに自動車作りの技術を教えるとともに陸上も指導した。30年間で松本さんが送り出した卒業生は1万人。「生徒たちとは今でも交流があります。人と接する仕事ができてよかった」と嬉しそうだ。
退職後は孫への想いから始めた陸上クラブ「GG RANNING CLUB」で小・中学生の陸上の指導を続け、もう13年になる。「GG」は「じいちゃん」の意味。子どもたちからは「じいちゃん!」と呼ばれ慕われている。
「陸上は辛い競技ですが、走る楽しさや、仲間と走る喜びを感じられる場所になれば」と松本さん。子どもたちへの愛情は深い。「GG」のメンバーや自身のお孫さんも市町村駅伝の選手に選抜されており、「やっていて良かった。幸せです。平凡ですが健康でこのまま続けていきたいな」と微笑んだ。
今後の目標は、どのチームも成し得ていない市町村駅伝3連覇。優しい眼差しの奥に強い気持ちと熱い想いを感じた。
まつもと・ゆきと 昭和18年生まれ。田原市出身。愛知県市町村対抗駅伝競走大会豊田市監督。元トヨタ自動車実業団事務局長。趣味はバドミントンで、週3回ほど楽しみ、指導もしている
コスプレイヤー 佐藤あゆみさん 誰とでも仲良くなれるのが魅力 2018.12.07
アニメやゲームのキャラクターに扮装し、歌やダンス、寸劇などを行うコスプレパフォーマンス。佐藤あゆみさんはmistという芸名で市内外のイベントを盛り上げている。
佐藤さんがコスプレを始めたのは高校生の時。コミックマーケットで同人誌を販売していた時に、キャラクターの扮装をした人たちが人気だったのを見たからだという。その後自身も扮装して販売するようになり、次第にコスプレの魅力にはまっていったとのことだ。
佐藤さんがコスプレイヤーとしての活動を本格化したのは2012年から。友人に誘われて名古屋で美容関係のイベントに参加したのがきっかけだった。翌年にはベトナムで開催されたコスプレのショーに出演し、現地のテレビでも取り上げられたという。
以後は豊田市のふじおか紅葉まつりや藤まつりなどに出演する一方、世界コスプレサミットや東京ゲームショー、京都国際マンガ・アニメフェアなどの国内の有名なイベントや、マレーシアで開催されたコスプレイベントVAXなどに参加してきた。また東海市を拠点とするメディアエフエムでパーソナリティーを務め、2年前には「ずいほう流」というコスプレチームも立ち上げた。
更には、昨年名古屋市が立ち上げたコスプレホストタウンPR隊の一員にもなり、愛知県やJRグループなどが推進中の「愛知ディスティネーションキャンペーン」の企画に参加するなど、徐々に活動の幅を広げている。
佐藤さんはコスプレの楽しさについて、「初対面の人とも古くからの友人のように仲良くなれるのが魅力です。外国の人ともコスプレをしているというだけで親しくなれます」と話していた。苦労するのは着替え。時間がかかる上、イベント会場では着替える場所が十分に無いことも多いそうだ。
最近は出演に加え、イベントの企画やアドバイザーとしての依頼もあるそうだ。佐藤さんは、「ハード、ソフト面でのアドバイスもしながら、大好きなコスプレを通じてイベントを盛り上げたい。将来はコスプレイヤーの派遣や企画プロデュース専門の会社を立ち上げたい。大好きな豊田もコスプレでもっと盛り上げたい」と話してくれた。
さとう・あゆみ 12月18日生まれ。豊田市吉原町出身。豊田西高を卒業後、声優を目指して上京し、一時芸能活動を行う。6年前から本格的にコスプレイヤーとして活動を開始。趣味は旅行。
鳥居発条製作所相談役 鳥居鐐一さん 新たにみよし北部再開発めざす 2018.11.02
企業経営や公職の第一線から退いた現在も地域を良くしようと尽力を惜しまない、みよし市福谷町の鳥居鐐一さん。「NPO法人みよしの自然環境を守る会」の理事長や、少年野球チーム「三好東郷ボーイズ」の会長、名古屋刑務所篤志面接活動後援会の会長、福谷寺御持会の会長などの役職を兼任して活躍している。
鳥居さんは若干19歳でばね製造業の鳥居発条製作所を創業。以後、同社をみよし市屈指の優良企業に育て上げる傍ら、旧三好町の町会議員やみよし商工会会長も務め、地域に多大な貢献をしてきた。
そうした地域への思いは80歳近い今も変わらない。みよしの自然環境を守る会は子どもたちとその親に、農作業の体験や生き物の観察を通じて自然のすばらしさを知ってもらう会。この6年間で1千人を越える親子が参加したという。
名古屋刑務所篤志面接活動後援会は、教誨師を支援する組織。教誨師とは受刑者を改心させるための道徳教育を担う人で、後援会が交通費や食費などを提供している。
福谷寺は手狭なことから2020年の完成を目処に現在の駐車場へ移転する計画があり、鳥居さんは御持会会長として移転の建設委員長も務める。
鳥居さんが地域への尽力を惜しまないのは、恩返しのためだという。「会社がここまで成長できたのは、従業員や取引先の皆さんのお陰。町会議員として活動できたのは地域の皆さんに支持されたからです。こうした皆さんへの恩返しのため、引退した今も地域のための活動を続けているんです」と話す。
また最近も、子どもや孫たちに感謝されるような住み良いまちを残したいという思いから、名鉄豊田線三好ヶ丘駅周辺の再開発をめざす有志団体「黎明会」の結成に一役買った。「近くに老人ホームが出来れば親は子どもに家を譲って入居できます。飲食店やスポーツ施設が出来れば孫たちも遊びに来てくれるし一緒に食事も出来るので賑わいが生まれます」と言う。
今後は市や地権者に働きかけて、市が策定中の「第2次みよし市総合計画」に組み入れてもらうことを目指していくという。地域への貢献に対する夢はまだまだ尽きないようだ。
とりい・りょういち 1939年7月20日生まれ。旧三好村(現みよし市)出身。三好中学卒業後、ばね製造業に就職。19歳で鳥居発条製作所を創業した。旧三好町の町会議員や議長、みよし商工会会長を務めた。
愛知県立足助高校3年 衣畑有恭さん 様々なボランティア活動を続ける若者
2018.10.05
警備や消防に興味を持ち、豊田市内でさまざまなボランティア活動をしている18歳の少年がいる。愛知県立足助高校3年の衣畑有恭さんだ。
衣畑さんがボランティア活動に興味を持ち始めたのは中学1年から。母親の勧めでボランティア体験講座に参加し、そこで「NPO法人矢作川森林塾」を知った。初めて参加し、竹の伐採や草木を刈る作業を手伝ったとき、理事長の硲伸夫さんに「また絶対来てくれよ」と、声をかけられたのがうれしかったという。
毎週土曜の早朝に行われる活動には親に送迎を頼み参加。活動を通して大人でなくても出来ることがあると実感するとともに、草刈り機やチェーンソーの使い方を教えてもらうなど、初めての体験に喜びを感じたという。
ある日、作業中にケガをした男性がいた。大人たちが応急手当をするなか、自分自身は何もできなかったのが悔しかったという。「救護班をやってみたい」と申し出て、翌週から、包帯や絆創膏、シップなどを小さなカバンに詰めて参加するようになった。
中学時代にはこのほか、下山保健福祉センター「まどいの丘」でもボランティアとして参加。高齢者とのふれ合いを通して〝人の温もり〟を感じた。「参加することで、人のつながり、知識、経験がどんどん増えていくんです」と微笑む。
高校1年のときには下山地区の夏祭り「マイタウンおいでん」の実行委員会メンバーになった。そこで劇団「笑劇派」の座長・南平晃良さんと出会い、行動をともにすることが増えていった。心臓病のある南平さんが稽古中に体調を崩したのを目の当たりにしたとき、劇団の救護班としても、さらに力を入れていこうと決心した。
地元の下山地区では、交通安全を確保するため道路沿いの竹木の枝を落としたり、交通整理を行ったりすることも。「誰かのために役に立てる場をもっともらえたら、さらにうれしいですね」と意欲的だ。
きぬはた・うきょう 平成12年6月生まれ、豊田市花沢町在住。足助高校前生徒会長。下山地区「大沼ボランティアーズ」所属。各種団体の救護班として服装にもこだわる。ヘルメットは豊田市の消防隊員と同じ。
豊田市立若園中3年 酒井紗雪さん 辻製菓専門学校主催菓子検定2級合格者 2018.09.07
豊田市が野菜や果物など農産物の豊富なまちであることや、それらを作っている生産者の思いや考えを多くの人に知ってもらおうと、自身の通う学校やSNS(インターネット上でのサービス)で発信している女の子がいる。豊田市立若園中学3年の酒井紗雪さんだ。
酒井さんが〝食〟について発信をはじめたのは1年ほど前から。職場体験で市の総務課を訪問した際、食に関心の無い小中学生が多いことを知り、自分に何かできることはないかと考え、SNSなどで発信するようになった。また食育に関する市のボランティア団体「食育応援し隊(現在の食育人材バンク)」にも登録した。
取材は個人で行っており、これまでに農家7件、飲食店など5件の計12件を訪問。豊田市北部旭地区の米農家、猿投地区の梨・桃農家、同市南部高岡地区の茶農家などだ。取材で必ず聞くことは「どのような思いでつくっているのか」「大切にしているキーワード」の2つ。取材した内容は、スケッチブックにまとめている。生産者の似顔絵、つくっている野菜、その野菜の特徴、食べ方など、色鉛筆で丁寧に描かれた取材内容は、見る側も楽しくなってくる。
取材した、あるパティシエからは、材料になる卵やフルーツなどの生産者に感謝しながらお菓子を作っていると聞いた。酒井さんは「多くの人の手と思いがあって、私たちはケーキを食べることができることを知った」と話す。
また旭地区の農家が、豊田のブランド米「ミネアサヒ」を無農薬の合鴨農法でつくっていることも知った。合鴨が田んぼに放たれる瞬間を…
さかい・さゆき 平成15年12月生まれ、豊田市中根町在住。今年2月に開催された第1回「WE LOVEとよたフェスタ」で、豊田で活躍している個人・団体に贈られる「WE LOVEとよたアワード」に選ばれた。
中京大準硬式野球部監督 中野将さん 本業は豊田市福祉総合相談課副課長 2018.08.03
大学生に地域貢献の大切さを肌で感じてほしいと、子ども食堂へ学生を参加させている豊田市職員がいる。福祉部福祉総合相談課の副課長で、中京大学準硬式野球部の監督でもある中野将さん(44・丸山町)だ。
福井県出身の中野さんは、高校時代に甲子園に出場し、中京大在学中には準硬式野球部に所属し主将も務めた実力者。卒業後は豊田市役所に入り、市役所野球チームで12年間プレーを続けてきた。中京大の監督に就任したのは2005年10月だ。
準硬式野球とは、硬式球と軟式球の中間のような独自のボールを使用して行う野球競技。ボールの中身は硬式球とほぼ同じで、外側の表面が軟式球と同じ天然ゴムでできている。全国では約230大学が準硬式野球連盟に加盟しており、中京大は東海地区31大学のなかでトップの成績。今夏も8月下旬の全国大会に出場する。
中野さんは2000年から市役所の福祉関係の部署に勤務。現場では顔と顔を突き合わせてコミュニケーションをとるのがいかに大事かを痛感しているそうだ。直接会うことで通じることが多いという。
一方、監督としては、部員たちに「いろんなことに目配り、気配りができ、きちっとあいさつができることが大事。人の嫌がることを率先してやりなさい」と教えている。部員のなかには…
なかの・まさる1974(昭和49)年3月生まれ、福井県出身。福井工大福井高校時代は硬式野球部主将として甲子園に出場。中京大では準硬式野球部で主将も務めた。妻と高校生の娘さんと豊田市丸山町に住む
豊田プレミアムスイーツクラブ会長 砂原泰輔さん 豊田の食の総合フェアも構想 2018.07.06
豊田の菓子職人の高度な技術を改めて市民に知ってほしい。そんな想いで6年前に立ち上げられたのが豊田プレミアムスイーツクラブだ。今月16日の「とよた絶品スイーツフェア」開催で市民の感心を高めている。
クラブ創設の中心人物は初代会長を務めたお菓子処花月の砂原泰輔さん。今年4月から再び会長を務めることになった。
砂原さんがスイーツフェアの構想を抱いたのは20歳の時。当時の修業先の関係で、岐阜県中津川市の菓子祭の立ち上げを手伝ったのがきっかけだった。その時のイベント規模と地元職人の熱意に感動して「これを豊田でも開催できたら…」と思ったそうだ。
6年前に豊田菓子組合青年部会長に就任したのを機会に、若い人が案を出せば身軽に動ける組織にしたいと考えて青年部をスイーツクラブに改変。念願のスイーツフェア開催に漕ぎ着けた。同フェアは今年で6回目。発売後すぐにチケットが完売するほどの人気だ。砂原さんは、「ライバルであり同志でもある職人達が互いに切磋琢磨して1つのイベントを成功させることが、メンバーの技術や発想力を向上させ、業界の発展にも繋がる」と考えている。
今後の目標は、中津川の菓子祭のような大きな規模のイベントにしていくことだ。菓子だけではキャパシティー的に限界があるので、菓子以外の食べ物関係業界とも連携しての、豊田産の食に関係する総合的なフェアを構想している。
また、豊田独自の…
すなはら・たいすけ 1971年12月13日生まれ。豊田市竹生町出身。衣台高校を卒業後、岐阜市と長野市の和菓子屋で修行。96年にお菓子処花月に入社。2016年に社長に就任。趣味はバイクとお酒。
保育士 鈴木知江美さん 得意の替え歌で振り込め詐欺対策 2018.06.01
「自分の地域は自分たちで守ろう」と、豊田市足助地区の女性たちでつくる防犯活動団体「足助レディースパトロールセキュリティ隊=ALPS隊=」が15年ほど活動を続けている。
豊田市では自主防犯活動団体の登録制度を設けており、4月時点で約380団が登録。ALPS隊もその一つで、現在50〜60歳代の女性を中心とする16人が、中山間地域の施設や学校で寸劇や紙芝居などによる啓発を行ったり、各家庭を訪問して注意を呼びかけたりしている。
ALPS隊のメンバーの一人が保育士の鈴木知江美さん(58・新盛町)だ。警察官が高齢者などに防犯対策の講話を行うとき、前座として手遊びや歌を交えながら場を和ませる役割を担っている。「前座がやれるのは、ALPS隊のメンバーが私の得意分野を引き出してくれたお陰です」とうれしそうに話してくれた。今年1月には足助警察署長から感謝状をもらった。
替え歌が得意な鈴木さんは、警察署から依頼を受け、振り込め詐欺対策につながる替え歌もつくった。童謡『うさぎとかめ』…もしもしカメよカメさんよ♪のアレンジだ。 ◇ ◇
①もしもし母さんオレオレと
息子を名のって電話きた
振り込みませんよその時は
誰かに相談いたしましょう♪
②ATMに誘い出し
あなたのお金が戻ります
そーんな話に騙されない
お金は楽して戻りません♪…
すずき・ちえみ 1959(昭和34)年11月生まれ、知立市出身。県立豊田西高校、岡崎短期大学卒。幼稚園教諭・保育士資格有り。足助地区新盛町父々山在住。サロン「ぐるうみん」(☎77・0212)。
自然栽培農家 ジオジオ 島崎稔矢さん 畑のなかに生態系のバランスつくる
2018.05.11
薬を使わず、肥料もやらず、畑に生きる動植物に最適な環境を作り、実りを少し分けてもらう。そんなユニークな農業を実践している自然栽培農家『ジオジオ』代表の島崎稔矢さん(33・豊田市浄水町)。どこか親しみを覚える屋号は、土地や地理を意味する「ジオ」と、好きな絵本『ジオジオのパンやさん』(あかね書房)から名付けたそうだ。
島崎さんは大学で都市計画を学び、商業施設や街の景観作り、造園などの仕事をしてきた人。植物の入れ替え時期が来ると古い物は捨てていたが、その度に「使い捨てにしない植物とのつきあい方はできないか…」と感じていたという。
祖父母の畑が区画整理で道路に変わっていく様子を見て、「街の中に畑があってもいいのではないか…」と、残った畑を引き継いだ。昨年他界した祖父は長野県からの開拓移民。稔矢さんの一風変わった農業に最初は驚いたが、思うようにやったらいいと応援してくれたそうだ。
島崎さんの畑は、歩くと土がふかふかと柔らかい。梅や桃、栗、みかん等の果樹と野菜が、相互の相性を考慮しつつ少しずつ植えられ、草もたくさん生えている。農作物が草に負けてしまわないか、虫に食べられないかと心配になるが、多くの種類の動植物が、それぞれに引き寄せたり遠ざけ合ったりして生態系のバランスを保ち、野性味溢れる農作物が育つそうだ。
一方で、10年間更地だった土地を畑にしようと、試行錯誤を繰り返している。まずはわずかに生えている植物のこぼれ種から草を増やし、時間をかけて動植物が暮らせる環境を作っていく地道な作業だ。4年間かけて、少しずつ野菜が育つようになってきた。
島崎さんは「いろいろな考え方があって、選択できると良いと思います。環境作りから始まる農業があってもいいかなぁ」と話してくれた。
現在は定期契約販売のみ。その時に採れる旬の野菜、果実で作ったジャム、自家製パンなどを販売している。問い合わせは「ジオジオ」のホームページ、またはフェイスブックで。
しまざき・としや 豊田北高校卒。関西大学工学部都市環境工学科卒。同大学院工学研究科建築学分野都市環境デザイン専攻修士課程修了。神戸の造園会社で様々な場所での環境作りを学ぶ。
豊田のタレント 里園侑希さん 震災を機に地元豊田での活動へ 2018.04.06
日本の芸能界でダンス&ボーカルグループが全盛期だった18年ほど前、名古屋ドームや豊田スタジアムで浜崎あゆみのステージを盛り上げていた豊田市の女子高生ダンサーがいた。のちに豊田ご当地アイドル「Star☆T」初代リーダーになった里園侑希さん(33・平戸橋町)だ。
里園さんが芸能界に興味をもったのは小学6年のとき。当時、人気絶頂の4人組女性ユニット「SPEED」のメンバー島袋寛子さんを見て、「自分と同い年の子が歌って踊って脚光を浴びてる。カッコイイ!」 「自分もやりたい」と強く思ったそうだ。
中学時代から豊田市駅前にあったダンススクールに通い始めた里園さん。部活動(バスケ部)を終えると電車に飛び乗り、市駅前の老舗店「松丈」でメンチカツを食べて小腹を満たし、ジャージでレッスンを受けていたと笑う。おいでん祭りではダンスグループでオリジナルのダンスを踊るなどし、人前で踊る楽しさを全身で感じていたという。中学1年で身長が170㎝あった里園さんは目立つ存在でもあった。
ダンスに自信のあった里園さんは後悔したくないと、高校卒業後に上京。オーディション雑誌を見て応募したり、直接芸能事務所へ出向いたり…
さとぞの・ゆき 1984(昭和59)年10月生まれ。豊田市平戸橋町「ESTプロモーション」代表・タレント。豊田市立猿投台中学、県立豊田高校卒。手話と英会話に興味あり。身長177㎝。自称「豊田のスカイツリー」
いびがわマラソン優勝 酒井一さん 人とのつながりの中で走るのが大好き
2018.03.02
昨秋、岐阜県揖斐川町で開催された「いびがわマラソン」で優勝した、豊田市畝部東町の酒井一さん(24)。フルマラソン初出場での栄冠だった。
高低差のあるコースが人気のこの大会には4567人が参加。酒井さんは直前のケガで万全でない状態だったが、30キロ付近で先頭の二人を抜いてトップに立った。優勝タイムは目標より12分以上も早い2時間27分58秒。「走れるところまで走ろうという強い気持ちで走りました。ランナーズハイの状態のようでした」と振り返る。社会人になって実力以上の結果が出ているそうだ。
酒井さんが陸上を始めたのは小学生の時。祖父の松本幸人さんが始めた陸上クラブに参加したのがきっかけだ。松本さんは今年1月の愛知県市町村対抗駅伝で優勝した豊田市チームの監督を務めた人。酒井さんは「多くの人に慕われていることを尊敬しています」と話す。
愛知高校では初めて自分より強い人たちと練習し、伸び悩みも経験した。大学進学では、中学時代から意識していた箱根駅伝に出場したいとの思いで神奈川大学を選んだ。全国から集まった強豪選手の中で切磋琢磨しながら過ごしたが、2年生のときマネージャーへの転向を決断。高校の恩師や応援してくれている家族の顔が浮かんだそうだ。その時のことは今でも心に強く残っている。
マネージャーとしての二年間は、選手のスケジュールやお金の管理など様々なことを経験し、箱根駅伝でも選手のサポート役を務めた。いま実業団チームで活躍している仲間のことを話す酒井さんの顔は、とても嬉しそうだ。
2年間走ることから遠ざかっていた酒井さんだが、社会人になってまた走り始め、会社のマラソン部にも所属。中学時代の陸上仲間や社会人ランナーと一緒に、地元のグラウンドや矢作川の堤防など約15キロを週に4〜5日ほど走る。「人とのつながりの中で走ることが大好き」なのだそうだ。
いびがわマラソン優勝の招待選手として、10月に米国ユタ州で開催される大会に出場する。
さかい・はじめ 豊田市立上郷中学校、愛知高校、神奈川大学卒業。株式会社三五社員。昨秋の豊田マラソン10キロの部では2位の成績。 弟二人も陸上競技者。
食品素材メーカー社員 北原知恵さん あっと驚くような新素材を作りたい 2018.02.02
豊田市内の若者には県内の高校や大学などで学んだ後、県外に就職する人も少なくない。豊田市猿投地区花本町出身の北原知恵さん(25)もその一人で、いま茨城県の食品素材メーカーで働いている。
北原さんは名古屋工業大学卒業後、名古屋大学大学院へ進学。大学・大学院とも工学部で化学や生物を学び、タンパク質工学の研究をしてきた。きっかけは高校時代に食品添加物について詳しく調べたこと。その時に化学の力で食を支え、おいしさを追求する技術に衝撃を受けた。食品添加物はどちらかというと陰の存在だと思っていたが裾野が広く、また主役である食品以上に時代のニーズに合わせ進化していると感じた。
就職は地元も考えたが、専攻を活かせて且つ、多くの人を笑顔にできるような仕事がしたいと思い、現在の会社(本社は東京都内)に就職した。
茨城県の職場には70人以上がおり、北原さんと同じ分野の研究や開発をしている社員は20歳代が中心の10人だ。仕事でいろんな物を食べて評価する官能評価や、特定の味質(塩味など)の比較など、味を言葉で表現するのは難しいと…
きたはら・ちえ 1992(平成4)年8月生まれ、豊田市花本町出身。豊田市立猿投台中学、県立豊田北高校卒。名古屋工業大学卒業、名古屋大学大学院修了。茨城県在住。趣味は読書とドラマ鑑賞。
民家再生 𠮷谷真也さん 伝統民家を現代技術でリノベーション
2018.01.10
築50年を超える伝統工法の日本家屋「民家」に、現代の快適な住環境を取り入れた新しい暮らし方を提案したい──
そんな民家再生の思いをもった一級建築士事務所「風とガレ」が昨年10月、豊田市神池町にオープンした。代表の𠮷谷真也さん(40・志賀町)は、世界の建築を巡った学生時代の旅をきっかけに日本建築に興味を持ち、奈良県の民家再生建築事務所や愛知県の建築事務所で修行を積んできた人だ。「自分の生まれ育った所で何かしたい」との思いから、出身地の豊田で独立開業した。
10月〜11月に市内各地で行われた「とよたまちさとミライ塾」では、足助の町並を散策しながら格子や屋根瓦について解説する講座を開き、好評だった。
宿場町の風情を残す足助地区の他にも、猿投神社の周辺、高橋地区の守綱寺周辺、挙母祭りの山車を擁する樹木地区など、市内にはあちこちに旧い民家が残っている。「民家は地域の気候や特性に合わせて作りが違い、また一定のルールに沿って作られています。そのルールの中で少しずつ格子の色や太さ、屋根の高さが違うなどの個性があり、それがいつまでも見飽きない景観をつくり出すんです」と𠮷谷さん。豊田に残る街並の面白さを多くの人に楽しんでもらいたいそうだ。
「民家は外観に趣はあるけれど、中は暗くて寒いのでは?」という問いかけには…
よしたに・しんや 豊田西高校卒。関西大学工学部機械工学学科卒業。建築学科に編入学し卒業。奈良で日本の風土に根ざした家づくりを学び、愛知に戻り自然エネルギーを取り込む家づくりを学んだ。
珈琲お好み焼き「かわしん」 川上智さん 創業150年以上豊田都心の老舗
2017.12.01
創業150年以上という豊田市喜多町の老舗「かわしん」。創業者は藩の御用商人を務めていた川上新六。いまは珈琲やお好み焼きを提供する喫茶店だ。 豊田都心は江戸時代から明治時代まで挙母の城下町として栄えた。この頃「挙母九人衆」と呼ばれる商人がおり、このうちの一人が川上家だ。
「かわしん」四代目の有三さんが喫茶店を始め、お好み焼きをメニューに取り入れて30年になる。五代目が智さん(44)だ。
智さんは幼稚園に通っていた頃から家業を継ぐのが夢だった。父親の有三さん(69歳で永眠)には反抗をしたときもあったが尊敬もしていた。有三さんは豊田都心を中心に7、8店舗を経営しており、同業者からはあこがれの存在だったという。
智さんは辻調理師専門学校で調理師免許を取得してからは、愛知県内の洋食店、イタリアンレストラン、韓国料理店で修業を積んだ。スイミングのコーチとして働いたこともあった。
家業にもどったのは8年6ヶ月前の36歳の時。もどって約5ヶ月後に父親の有三さんが亡くなった。「もうちょっと早く戻ってこればよかった」「もうちょっとオヤジとしゃべっときゃよかった」と無念さが残る。
五代目店主となってからは、経費削減などから大改革…
かわかみ・さとし 1973(昭和48)年10月生まれ、豊田市元城町出身。豊田市立崇化館中学、県立豊田高校卒。辻調理師専門学校卒。元海上自衛隊員。豊田喫茶組合役員、豊田市食品衛生協会指導員。
川村クリーニング代表 川村道徳さん 昭和15年創業の店染抜き・和装も対応
2017.11.03
豊田市挙母地区の金谷町2丁目に、三代続く店「川村クリーニング」がある。いま代表を務めているのが川村道徳さん(41)だ。
同店は昭和15年に祖父が創業。母親が見よう見まねでクリーニングを手伝い、夜遅くまで仕事をしていた記憶が道徳さんには残っている。「母親を楽にしたい、その想いが強かったですね」と、幼いころの思い出を話してくれた。
川村さんは高校卒業後、東京の有名クリーニング店で3年間修業を積んだ。社長・職人・営業マンで計14人。修業に来ている人が常時6人もいる大きな店だったという。扱っていた衣類は芸能人の衣装や、ウエディングドレス、高級ブランドの洋服など。シワの有無や染み抜きに厳しいチェックが入る。丁寧な仕上げはもちろん、技術や手順、知識などを先輩職人にしっかり教えてもらったのがとてもよかったと振り返る。
川村さんが家業を継いだのは3年前。東京での修業経験を活かし、「自分のやりたいようにやらせてくれ」と父母に話した。店内を改装して作業場を広くし、染み抜き専用の機械を導入。ドライクリーニング用の洗濯機も新しく買い換えた。
川村さんは店を切り盛りしつつ、東京で開催されるクリーニング業界の展示会にも参加。そこで以前勤めていた店の社長に会い、ハイレベルなクリーニング技術や、和服を扱う組織「京洗会」への入会を勧められた。そこへ入会したことで、さらに繊維に関する知識や薬品の取り扱い、技術を学んだ。いまも情報交換会や勉強会に参加しているそうだ。
家業は道徳さんの代になってから新たな仕事が加わった。市内のホテルから宿泊者の衣類クリーニングの依頼が殺到している。トヨタ関係の宿泊者が多く、その日のうちに仕上げなくてはならないという。川村さんは「クリーニング店は衣替えシーズンが忙しいくらいなので、1年を通して仕事をいただけるのはとてもありがたいことです」と経営者の顔を覗かせた。また職人としても、「クリーニングに出す衣類はお客様にとって大切なもの。だからこそ丁寧に仕上げ、良い状態でお返ししたい」と話してくれた。
かわむら・みちのり 1976(昭和51)年3月生まれ、豊田市金谷町在住。豊田市立朝日丘中学・県立衣台高校卒。4人兄姉妹の次男。クリーニング師。一級京洗士。川村クリーニング(℡0565-32-1485)。
学生の店みくさ社員 内山賀登さん 子どもと関わる仕事に就きたくて
2017.10.06
「子どもと関わる仕事に就きたかったんです」と微笑むのは、今春、豊田市西町の㈲学生の店みくさの社員となった内山賀登さん(23)。名古屋市守山区から豊田市栄町へ移り住んだ。
内山さんは中部大学工学部情報工学科卒で、高校の教員免許を持つ。子どもと関わる仕事に就きたいと思い始めたのは中学3年のころから。恩師に恵まれたことが大きかったという。国語が苦手だったが、担任の男性教員(国語担当)から「おまえならできるよ」と言われ、勉強や進路に親身になってもらえたのがうれしかったと話す。その恩師は軽音楽部の顧問でもあり、ギターの弾けるカッコイイ憧れの存在だったという。
高校3年の時は、20歳代後半の女性が担任。自分の趣味も大切にする面白くて親しみやすい教員だったという。大学時代に教育実習で母校へ行ったおりにも、内山さんに気軽に声をかけてきてくれたそう。古巣の卓球部で後輩達に基礎を指導できたことも良い経験だったと振り返る。
内山さんは教員への道は残念ながら果たせなかったものの、学生の制服を取り扱う「学生の店みくさ」に就職した。働き始めて半年。10月は学生服の注文申し込みが殺到する繁忙期だ。小学児童や親に卒業式用のフォーマルウェアを見せたり、制服の特徴を説明したりと忙しい。安心して制服などを選んでもらえるよう客の話をしっかり聞くことや、わからないことは直ぐに上司に確認して、スムーズに対応できるよう努めているそうだ。制服を試着している子どもを見ると、微笑ましい気持ちになるともいい、「入社半年なので、お客様への対応についてはまだまだ学ぶことが多いですね」と意欲的でもある。
豊田市で1人暮らしを始めた内山さんは、…
うちやま・よしと 1994(平成6)年9月生まれ、名古屋市守山区出身。中部大学工学部情報工学科卒。高校教員免許有資格者。パソコン操作が得意で、サッカー好き。豊田市栄町在住。
naturalA代表 浅井紀好さん 専業農家の暮らしを守るシステムが必要 2017.09.01
豊田市下山地区神殿町で花・野菜苗や鉢花の生産・販売を手がけ、産直広場「naturalA(ナチュラルA)」を経営している浅井紀好さん(45・岡崎市)。花の生産は紀好さんが三代目で、いま1800坪のハウスと400坪の路地で、花苗を50〜60種、野菜苗を30種以上生産している。
浅井さんは下山中学出身。三重大学で農業管理を学んだり、国際農業者交流協会のメンバーとしてアメリカで農業を勉強したりしてきた人だ。同協会の愛知県内のOBは200人以上おり、いま浅井さんは豊田・みよし支部の会長を務めている。さらに今年度からJAあいち豊田青年部の会長でもある。
浅井さんはアメリカで学んだことの一つに、農産物の流通システムの違いをあげる。アメリカの農家は自分で値段を決めて販売するのに対し、日本は市場で価格が決まるため、再生産価格が保証されないことが多い。浅井さんはアメリカから帰国後の2003年、産直広場「naturalA」をオープン。地元の農産物を多くの人にPRしたい想いと、生産者が自分で価格を決めて販売できるようにしたかったからだ。
いまでは会員が60人となり、産直所が地域の活性化に結びついて高齢者の交流の場にもなっている。都市部からのお客さんにはワラビやタケノコなどの山菜が人気だという。花や野菜苗が豊富に揃っているのも同産直所の魅力だ。お客さんの「ここで買った苗でおいしい野菜が採れましたよ」の声は、浅井さん自身の喜びややりがいにもなっているそうだ。
専業農家の抱える大きな課題については、暮らしを守っていくシステムをつくり後継者へ引き継ぐことをあげる。課題解決の一つとして昔からその土地でつくられてきた伝統野菜に着目する提案も。その土地の環境に最も適した農作物を栽培する適地適作が大事だという。
浅井さんは20年以上に及ぶ経験と豊富な知識をいかし「これから農業をはじめたいと思っている人をトータル的にサポートしていきたい」「野菜の苗づくりにもさらに力を入れ、食べ物をつくる術を後世に伝えていきたい」と熱心に話してくれた。
あさい・のりよし 1971(昭和46)年11月生まれ、下山中学・安城農林高校卒。三重大学で2年間農場管理を学ぶ。岡崎市細川町在住。今春から21歳の息子さんも家業を手伝う。
コミュニティスペース「kabo.」犬飼詩織さん 豊田元城町の長屋からヒト・コト・モノ発信
2017.08.04
「とよたのまちなかに地域と若者がゆるくつながる場をつくりたい」と想いを抱き、コミュニティスペース「kabo.」のオープン(9月1日)に向けて動き続けている女性がいる。大林町の犬飼詩織さん(29)だ。
この場所は元城町2の7にある木造2階建ての長屋・岩瀬荘。築60年ほどの物件で、周りにはシャッターの下りている飲食店も並ぶ。
犬飼さんは大学時代、公共機関の登録団体「とよた学生プロジェクト」に所属。卒業後も得意なことや専門分野を活かし若い力で豊田市を盛り上げようと、まちなかの広場で「ストリート・パーティー」を開催したり、イベントに出店したりしてきた。これらの活動を通して都心部の人たちのあたたかさや魅力にふれ、「何かやりたいと思った人がやれる場所をつくりたい」「地域へ関わるきっかけとなれる場所をつくりたい」という気持ちが強まった。
一昨年の秋、北設楽郡東栄町の体験型ゲストハウスを訪れたことも「kabo.」をつくる大きなきっかけになった。そこでは訪問者と地元住民が一緒に食卓を囲んだり、星空を眺めたりしながら、ありのままの暮らしを体験し、それぞれの立場でその地域の良さや魅力に気づいていった。
犬飼さんは豊田のまちなかの〝ヒト・コト・モノ〟を発信できる拠点「kabo.」を立ち上げるため、務めていた職場を…
いぬかい・しおり 1988(昭和63)年4月生まれ、豊田市大林町在住。市立末野原中・県立豊野高校・名古屋学芸大学幼児保育専攻卒。元とよた市民活動センターの特別任用職員。
「孫の手」づくり15年以上 水野俊美さん 5000本余を病院や福祉施設へ贈る 2017.06.02
豊田市旭地区東萩平町の水野俊美さん(86)が、下半身が不自由にもかかわらず、15年以上にわたり自宅裏山の竹を使って孫の手と耳かきを作り続けている。出来上がったものは足助病院や地元の老人福祉施設などに寄贈しているそうだ。
水野さんは若い頃、竹や材木を扱う自営の運送業を営んでいた。竹は当時、傘の骨組みや提灯の材料などに使われ需要が多かったそうだ。物干し竿としても重宝がられ、トラックで各地の得意先を回っていたという。 下半身に異常を感じたのは運送業などを辞めてからの56歳のとき。剪定作業をしていて木から落ちたことが原因ではないかという。いつものように畑仕事を終え、翌朝目覚めたら両足に力が入らず立てなかったそうだ。隣りまちの足助病院でギラン・バレー症候群ではないかと診断された。筋肉を動かす運動神経が傷つき、両手や両足に力が入らなくなる病気だ。1年半以上、足助病院や市外の病院で入院していたが畑仕事ができるまでに回復した。
孫の手を作り始めたのは60歳代半ばのとき。通院していた足助病院の職員や患者さんに使ってもらおうと持参した。この時喜ばれたので、その後も病院へ持って行ったり、地元の民生委員や地域巡回で来た足助警察署員らにも渡したりし、地域の人や警察署内で配ってもらった。 80歳代になったとき、足助警察署から…
みずの・としみ 1930(昭和5)年12月生まれ。妻・息子・嫁と豊田市東萩平町に住み、日々畑仕事に勤しむ。孫の手をきっかけに県内の女子アイドルグループからサイン色紙をもらい大切に保管している。
脚本・演出家 石黒秀和さん 演劇がおもしろい。人がおもしろい。
2017.04.07
豊田市豊栄町出身の脚本・演出家の石黒秀和さん(47)が4月1日、「とよた演劇協会」を設立した。役者や劇作家、演出家などはもちろん、観る側も含め演劇に興味のある人ならだれでも入会OKだ。会費無料。
石黒さんが脚本に興味を持ったのは高校時代。倉本聰脚本のTVドラマ『北の国から』を見て感動し、〝人を感動させる仕事に就きたい〟と思ったそうだ。倉本氏が主宰するシナリオライターと俳優の養成機関「富良野塾」を目指し受験した。1度目は失敗したものの、2度目で合格。入塾定員15人のなか、当時600〜800人が受験したという。
同塾では共同生活をしながら主に農作業に従事。夜に講義を受け、雪に閉ざされる11月〜3月に芝居をつくった。2年間学び卒業後はカナダで1年間過ごした。脚本家として社会に出る自信がなく、社会勉強を積みたいと思ったからだ。
帰国後、豊田市民創作劇場の脚本と演出を担当した。作品は挫折しかけた人がもう一度生きていこうとする短編10本からなるオムニバス「ファイト」。公演で高い評価を受けたことにより、10年間市民創作劇場に関わった。
2003年と2006年には「市民野外劇」の脚本と演出も手がけた。役者とスタッフで約3000人という豊田市で最大級の文化イベントだ。これを機に文化事業に関して主体的に動ける人材育成の必要を感じ…
いしぐろ・ひでかず 1969(昭和44)年12月生まれ、豊田市豊栄町出身。愛知県立豊田南高校卒。「富良野塾」6期生。日本劇作家協会員。公益財団法人あすて職員。妻、子ども2人と岡崎市桑原町に住む。
文化講座「映画塾」講師 都築義高さん 映画を観てともに笑おう、ともに感動しよう
2017.03.03
豊田市視聴覚ライブラリーで毎月第2・4水曜の午後に、市民文化講座「映画塾」を開いている都築義高さん(78・宮口町)。会員88人に様々な映画を楽しんでもらっている。
これは老若男女が楽しめる文化を広めようと、市と共働で平成21年度から始めたもの。一緒に映画を観ながらハラハラドキドキしたり、泣いたり笑ったりすることで、参加者同士の交流に繋げてもらおうという狙いもある。当初は市民文化会館の会議室で開いていたが、24年度からは会員数を増やして今の施設で開催。すでに120回を超えている。
映画塾は3ヶ月・全6回が一講座。参加者は広報とよたで募り、キャンセル待ちがでるほどの人気だ。
講座で上映する映画は、すべて都築さんが自身のコレクションから選択。自宅には西部劇からファンタジー、ラブロマンス等々、数え切れないほどのビデオやDVDがある。著作権の関係で新作は扱えないが、さまざまなジャンルを上映している。講座最終回の6回目には明るく希望を持てる内容の作品を…
つづき・よしたか 1938(昭和13)年3月生まれ、名古屋市出身。豊田市宮口町在住。自宅には映画に関する資料や雑誌も多くある。栄中日文化センター・オペラ講座講師。男性合唱団「東海メールクワィアー」会長。妻は豊田市民合唱団相談役の都築和子さん。
ブルーベリーのこみち 伊藤匡哉さん 豊田市稲武の農園に常滑からIターン就職
2017.02.03
豊田市稲武地区の農園「ブルーベリーのこみち」で昨年4月から新卒社員として働いている男性がいる。常滑市出身で農業の専門学校を卒業した伊藤匡哉さん(21)だ。
幼少時代の遊び場が畑だったという伊藤さん。「祖母が畑仕事に励んでいる姿や、タヌキに野菜を食べられてしまって悔しがっている顔が浮かびますね。いまでも畑仕事をしてますが、腰や足が痛いと言っているので心配です」と家族を気遣う。
伊藤さんは専門学校で10種類以上のナシの栽培について学んできた。職場体験で「ブルーベリーのこみち」に来たときに、ブルーベリーの栽培に興味を持ち、新しい果樹へもチャレンジしたいと思ったそうだ。稲武町にある県農業総合試験場に勤めていた経験のある教員から、稲武の自然環境などについて教えてもらったことで、さらに興味がわいた。
「ブルーベリーのこみち」では38箇所の畑に50品種・約4000本のブルーベリーを育てており、耕作放棄地の解消に大きく貢献している。春は苗木の世話、6月下旬頃からは実の熟し加減を見て周り、8月は収穫作業に追われて大忙しだ。入社当初には農園代表の杉田雅子さんから栽培に関する本を手渡された。先輩社員からは木の剪定方法や実の摘み取り方などを教わっている。約1年間作業をしてきたことで、いまでは木を見て品種がわかるようになった…
いとう・まさや 1995(平成7)年10月生まれ、常滑市出身。豊田市稲武地区野入町在住。岡崎市の愛知県立農業大学校農学科(果樹専攻)卒。4人姉弟の末子。趣味は海釣り。
㈱eight代表取締役 鬼木利恵さん ママの立場から女性の働き方を考える
2017.01.06
〝ママの働く場をつくる〟をコンセプトに、子育てママがつくった会社「㈱eight」が豊田市竹生町にある。そこで代表を務めるのがキャリアコンサルタント(個人の能力や特性を踏まえて職業選択の相談・アドバイスをする専門職)有資格者で子育て中の鬼木利恵さん(39)だ。社名には女性の活躍が無限(∞)に広がっていくようにとの願いが込められている。
鬼木さんは大学院修了後、東京の㈱リクルートに就職し営業部門を担当。企業側が求めている人材と新卒の学生をつなぐ仕事を主に行ってきた。ご主人の転勤で三重県へ引っ越したが名古屋市で同社の仕事を継続。産休育休を経て職場復帰も果たした。「もっと仕事に打ち込みたい。期待に応えたい」とがんばったものの、幼子を抱える身では、自分の努力や熱意だけではどうにもならないことがあると痛感した。仕事と育児の両立について相談できる相手もいなかったという。
子育てしながらの仕事や引っ越しを経験し、どこへ行ってもやれる仕事、通用する資格が必要と思い、キャリアコンサルタントの資格を取得…
おにき・りえ 1977(昭和52)年12月生まれ、茨城県出身。筑波大学大学院環境科学研究科修了。国家資格キャリアコンサルタント有資格者。夫、小学4・1年生・0歳の3女児の母親。豊田市金谷町在住。
豊田市旭支所職員 弘中陽介さん わな狩猟免許有資格のIターン
2016.12.02
「自然の中の生きものが好きなんです」と話す豊田市旭支所職員の弘中陽介さん(38)。新潟県からのIターンで、市が新設した「中山間地域在住職員」に採用され、今年4月から市の職員になった1人だ。
弘中さんが自然界の動物に強く興味を持ち始めたのは、高校時代。日光国立公園のシカの個体数調査に関わってからだという。大学でも学びたいと新潟大学農学部に進んだ。大学・大学院で学んだ後に就いた職業は建設コンサルタントの環境分野。建設事業を行う前に現地で野生動植物の生息調査をしたり、事業後は自然環境にどのような影響が出たかを調査・研究したりしてきた。信濃川のアユやイワナなど、川魚の生息や魚道に関する調査も行ってきたそうだ。
野生動植物の生態などに深く関わってきたものの、仕事は報告書をまとめることに留まった。新潟県でもイノシシやシカが増え、地元住民が困っているのを知っていたが、仕事柄捕獲することができず、もどかしさを感じていたという。〝実際に地域に貢献したい〟との思いからわなの狩猟免許を取得した。
このようなとき豊田市で、中山間地域での課題解決に関わることのできる採用試験があることを知り、これまでの経験や狩猟免許をいかすことができると考え試験を受けた。申込者数は130人あった…
ひろなか・ようすけ 1978(昭和53)年8月生まれ、愛知県半田市出身。妻と子ども2人、家族4人で豊田市旭地区笹戸町に住む。県立半田東高校・新潟大学農学部卒、新潟大学大学院自然科学研究科修了。
ガールスカウトリーダー 守随純子さん 自ら考え行動できる女性を育てる
2016.10.07
「自ら考え行動できる女性」を育てるガールスカウト運動。豊田市で43年間スカウトの現役リーダーを続けているのが明和町の守随純子さん(72)だ。
豊田市にガールスカウトが発足したのは1971年。今年で45年目になる。現在、みよし市に1団、豊田市に6団あり、年長女児〜社会人の全150人ほどが活動している。
守随さんは大分県佐伯市出身。高校時代にガールスカウトのリーダー養成講習会を受講した。そのとき講師を務めていた女性の素晴らしい言動や笑顔に心惹かれ、「私もあんな女性になりたい」との思いで佐伯市に団を発足し、6年間リーダーとして活動した。
結婚を機に豊田市に移り住み、1973年に市内のガールスカウト団に入団。それ以降リーダーとして少女の育成に務めてきた。地域や子育てなど知らないことばかりだったが、ガールスカウトの中で教えてもらったという。
守随さんは47歳のときガールスカウト日本連盟のトレイナーになり、指導者の養成・育成に20年間関わってきた。少女や若い女性にとって「あんな女性になりたい」と思ってもらえるよう、自己の言動に責任を持ち笑顔を絶やさずにきたと…
しゅずい・じゅんこ 1944(昭和19)年8月生まれ、大分県佐伯市出身。公益社団法人ガールスカウト日本連盟教育活動委員、理事、副会長、一般社団法人ガールスカウト愛知県連盟前連盟長を歴任。
みよし市新中央図書館長 深谷幸広さん 利用者が一日くつろげる図書館にしたいう
2016.09.02
みよし市営の図書館学習交流プラザ「サンライブ」が7月、市役所西側にオープンした。図書館、生涯学習、交流の機能を併せ持つ3階建ての複合施設だ。図書館の館長は旧館から引き続き、深谷幸広さん(59・明知町)が務めている。
深谷さんは司書の有資格者。大学卒業後、昭和55年に旧西加茂郡三好町役場に入庁し、最初の配属先は旧図書館だった。長年勤務したのは市営の文化施設サンアートで、立ち上げ当初から13年間携わったそうだ。
新図書館の書棚の配置は、利用者が使いやすく遊び心があるような空間にしようと考えたという。サンライブには1階と2階に図書館がある。1階図書館では子どもの目線を大事にし、児童カウンターや児童室、おはなしの部屋を設置。低い書棚に絵本を並べることで子どもが手に取りやすいようにした。おはなしの部屋では週に1度、ボランティアが絵本の読み聞かせをしており、母親たちの交流の場としても利用してもらっているそうだ。
2階図書館には郷土資料や美術書、専門書を配置。旧図書館の閉架書庫に眠っていた書籍を並べることが可能になった。また市内の石川恒夫さんから寄贈された図書約5万冊(石川文庫)のうちから選定した雑誌や本も陳列することができた。
新図書館が完成して力を入れているのが、子どもを対象に考案した「読書ノート」だ。窓口の担当者が本の借り主に返却日を書いたしおりを渡すのだが、それをシール状にすることで…
ふかや・ゆきひろ 1957(昭和32)年4月生まれ、みよし市明知町出身。愛知学院大学文学部歴史学科卒。司書有資格者。1980(昭和55)年入庁。趣味は家庭菜園と釣り。実母・妻・娘の4人暮らし。
足助の元芸者 後藤久子さん 踊りや三味線の師匠として活躍
2016.08.05
かつて足助で芸者をつとめていた後藤久子さん(80・足助町)が、いま地元で日本舞踊を教える師匠として活躍している。足助の元芸者で健在なのは後藤さんだけなのだそうだ。
後藤さんが芸者になったのは18歳のとき。当時は岡崎市に住んでおり、中学時代に趣味で始めた三味線がきっかけで、卒業後、半田の置屋(芸者が住む寮)で芸者になる修業をはじめたという。三味線の腕を磨くとともに、お茶・お花・踊りなど女のたしなみをすべて習った。麻雀や花札も覚えたそうだ。家に仕送りをしなくてはならないという事情と、一流の世界の男性たちに見くびられてはなるまいと、女の戦場で常に自分を磨き上げてきたという。
半田の次は蒲郡の形原温泉でも芸者として働いた。お座敷にあげてもらうには、芸事に力を入れるだけでなく、料亭の女将さんや仲居さんとも仲良くしておかなければならなかった。
ふるさと足助の置屋にきたのは20歳のときだ。芸名は「加奈子」。それまでの修業のかいあって売れっ子の芸者となり、政治家や県知事のお座敷にあがることもしばしばあったという。当時足助には大小20カ所ほどの料亭があり、芸者は30人ほどいたそうだ。
後藤さんは28歳の時に独立し、置屋「加奈川寮」を創業。経営者として置屋を切り盛りしつつ、自身も芸者として…
ごとう・ひさこ 1935(昭和10)年11月生まれ、豊田市足助町出身。日本舞踊「千嘉会」の代表。老人ホーム慰問などの活動が認められ厚生労働大臣から表彰された。「香嵐渓音頭保存会」設立メンバー。
えきまえ活性化プロジェクト代表 芹川友紀さん カリヨンハウス一帯の使い方かんがえよう
2016.07.01
三好ヶ丘駅前のカリヨンハウス一帯をうまく利活用し、楽しい場所にしようと、えきまえ活性化プロジェクト「ekinoko(エキノコ)」が6月に立ち上がった。
これは市内でまちの活性化に取り組んでいる各種団体を結びつけ、それぞれをPRしていこうというもの。特色の違う団体を1つのイベントに参加させることによって、さらに賑わいを創出していこうという狙いだ。
その代表を務めるのが、芹川友紀さん(45・三好丘)だ。小物作りが得意な芹川さんは、カリヨンハウスがリニューアルした後の平成26年から、建物前のイベント広場で、手作り小物を販売する「ミニョンマルシェ」を不定期に開催。30組が登録している。このほか夏休みには、地元のあおばふれあいセンターで子どもを対象にしたものづくり講座を10年以上続けてきた。
カリヨンハウス前でマルシェを開催しながら、この一帯がうまく活用されていないのではないかと感じてきた芹川さん。駐車場が少ないことや、建物に併設されているアンテナショップの運営方法なども賑わいの少なさに関係していると推測。そんな時、豊田市や瀬戸市のまちづくりに関わっているママ友に背中を押され…
せりかわ・ゆき 1970年10月生まれ、瀬戸市出身。みよし市三好丘あおば在住。4姉妹の母親。三好ヶ丘クリニックの看護師。編み物やアクセサリーづくりなどが得意。
豊田市民合唱団相談役 都築和子さん 音楽は仲良く、元気に、向上心をもって
2016.06.03
豊田市民合唱団の3代目団長として25年間活躍してきた都築和子さん(77・宮口町)が昨年、「創立30周年の記念定期演奏会」終了を機に団長を引退した。いまは相談役として音楽活動を続けている。
同合唱団は1985年、市内でベートーベンの「第九」を歌っていたメンバーで結成された。現在の団員数は男女60人。平均年令は50歳代半ばで、子育てが一段落した女性や、定年退職した男性などさまざま。オーディションはなく初心者でも大歓迎だという。
都築さんは幼少の頃から、音楽好きの母親の影響を受け、ラジオから流れるクラシック音楽を聴いてきた。小学校高学年の頃、7歳年上の姉と一緒に名古屋へコンサートに出かけ、生の音楽に魅了された。高校時代には朝早く音楽室のピアノを弾くのが楽しみだったという。本格的に合唱を始めたのは大学時代だ。卒業と同時に友人と協力して「東海女声合唱団」を設立し、代表者になった。豊田市内でも豊田ひまわりコーラス(1963年設立)や、市少年少女合唱団(1977設立)の指導者として礎を築いてきた。
都築さんが市民合唱の団長として長年心がけてきたことの1つは、週に1度の練習(場所は陣中町の旧図書館)にくる団員に楽しんでもらうて…
つづき・かずこ 1939年3月、東京都生まれ。豊田市宮口町在住。豊田西高、愛知県立女子大(現県立大学)児童福祉学科卒業。ラジオラブィート「クラシックの森」パーソナリティも務め、今年で15年目。
「○七商店」料理長 伊豫田修之祥さん 食材つくる人の思いを語れるシェフに
2016.05.13
松坂屋豊田店とT-FACEをつなぐペデストリアンデッキに4月末、新しい飲食店「○七商店」がオープンした。営業時間は11時〜23時。火曜休み。
夜の部の料理長を務めるのが、イタリア・シチリア料理を得意とする伊豫田修之祥さん(27歳・前山町)。米国カリフォルニア州の日本食店や、豊田市高橋地区東山町のフレンチ店「レクラ・ド・リール」、東京のシチリア料理店、と国内外で料理を学んできた人だ。○七商店オープンの話は、イタリア滞在中の時、「レクラ・ド・リール」オーナーで大橋園芸(鴛鴨町)社長の大橋鋭誌さんから連絡を受けたという。
伊豫田さんは大橋園芸で、野菜づくりや田植えも教わったそう。野菜の生育や生産者の思いなどを知り、料理を食べる人に伝えていかなくてはならないと思ったそうだ。
東京のシチリア料理店で勤めていたときは、同店のシェフがシチリア島で3年間修業を積んできた体験話を聞いた。自らも本場で学びたいとシチリアへ渡り、家庭料理や屋台の料理なども含め、「料理はその国の文化だ」と痛感したという。
○七商店は地産地消をテーマに掲げ、豊田・みよし市の若手農家でつくる「夢農人とよた」の食材…
いよだ・しゅうのじょう 1988年8月生まれ、豊田市立豊南中学卒、名古屋国際高校普通科卒。米国カリフォルニア州の専門学校でコミュニケーション学科を専攻し卒業。英語圏のワインソムリエの有資格者。
三州しし森社中 竹尾博史さん サラリーマンから足助の生業職人へ
2016.03.04
山からの授かりものを大切に使いたいと、豊田市足助地区北部の新盛町でシカやイノシシの角や皮を使ってアクセサリーなどをつくっている男性がいる。三州しし森社中の竹尾博史さん(57・平芝町)だ。
竹尾さんはトヨタ生協に勤めていた元サラリーマン。定年後を考えたとき、「第2の人生では組織に所属するのでなく、自然のものを使って自分の思うことをしたい」「大量生産や効率第一みたいな資本主義的な考え方を持ち込みたくない」と思ったそうだ。
準備するなら早い方がいいと、51歳のとき豊田市・トヨタ自動車・NPOでつくる「豊森なりわい塾」に1期生として入塾した。農山村での実体験を通して、これからの生き方や働き方などを考える場だ。約2年間受講して腑に落ちたことは、田舎での生活を成り立たせるには、小さな稼ぎ方をいくつか持っていたらいいのではないかということ。また大きな刺激を受けたのが国の観光カリスマ小澤庄一さん(78・足助地区新盛町)との出会いだったという。小澤さんは旧足助町の助役として三州足助屋敷や福祉センター百年草などを立ち上げた人だ。今年1月足助にオープンした猪鹿工房㈱山恵の社長でもある。
竹尾さんは同塾を卒業したあと、塾生有志と一緒に小澤さんの土地を借りて…
たけお・ひろし 昭和33年5月生まれ。両親と妻、子ども3人の家族。イノシシの皮を使った太鼓づくりや、野生獣の骨を灰にして陶土と混ぜた食器づくりにも知人と挑戦中。木製のイスなどもつくっている。
シンガーソングライター 今野邦彦さん 昼はサラリーマン夜ミュージシャン
2016.02.05
豊田市陣中町に住み自動車製造の企業に勤めながら、名古屋市内のライブハウスを中心にシンガーソングライター&ハーモニカ奏者として活動している男性がいる。宮崎県出身の今野邦彦さん(33)だ。
今野さんがギターをはじめたのは高校時代。ボランティアで知的障がい者施設を経営する男性のギター演奏を聴いたのがきっかけだ。それまでの大人に対するイメージが大きく変わり、初めて大人がかっこよく見えたという。それからは、食事を忘れるくらいギターの練習に没頭したそうだ。
高校卒業後、豊田市内の企業に就職してからもギターを続け、19歳の時に豊田市駅構内で初めてストリート・ライブを行った。とても緊張したそうだが、足を止めてくれた人が思いのほか多かったのでうれしかったという。この初回ライブが縁で、あるカップルが使わなくなった電子レンジを今野さんの住んでいる寮まで持ってきてくれたこともいい思い出になっている。
1年間ほど豊田市でストリート・ライブを続けたあと、活動場所を名古屋駅前へ移動。平日就業後に電車に飛び乗り、終電間近まで演奏するというハードスケジュールを…
こんの・くにひこ 1982年5月生まれ、宮崎県日向市出身。フルート奏者の妻と2人暮らし。足助のかじやさんでもライブ経験あり。ドイツ生まれアメリカ育ちの音楽家・ジャクソン・ブラウン氏を尊敬。
山羊プロジェクト会長 鈴木光明さん ヤギで草刈り集落を美しく
2016.01.08
豊田市足助地区の北部で昨年、耕作放棄地の草をヤギに食べさせて山里を美しくしようという「山羊プロジェクト」が立ち上がった。自慢できる風景や集落の活性化につなげようという取り組みだ。
同プロジェクトの会長を務めるのは新盛自治会長の鈴木光明さん(63)だ。きっかけは地元の女性から「自分たちの手で新盛を盛り上げたい」と相談を受けたことや、知り合いから「長野県の売木村では耕作放棄地の草刈りにヤギを使っているぞ」と聞いたことだ。
売木村へ視察に行き、実際にヤギを使って美しい風景が保たれているのを目の当たりにした。清水秀樹村長にも話を聞き、斬新なアイデアや商品開発、発信方法などに心を揺さぶられたそうだ。自分たちも本気で集落を守っていく気にさせられたという。
山羊プロジェクトでは、ヤギの飼育場所も地元住民の協力を得て決まり、柵や飼育小屋づくりが始まりつつある。雌の子ヤギを2〜3頭飼おうという考えだ。美しくしたあとの土地の活用法も考えている。果樹を植えて新盛ならではの特産物をつくったり、果樹園にして木のオーナー制度を取り入れたりしたら…
すずき・みつあき 昭和27年12月生まれ、新盛町須ノ夫在住。足助町立北部中学卒。職業大工。新盛自治会長。新盛地域づくりグループ扶桑の郷活性化委員会代表。しんもり里山フェスタ「山野草展」主宰。
古橋財団3代目理事長・古橋家9代目当主古橋源六郎さん
祝・中馬街道人馬パレード 伊勢神宮遥拝所で記念講話 2015.12.04
ご紹介いただきました一般財団法人古橋会(古橋財団)の3代目理事長、古橋家9代目当主の古橋源六郎です。足助・稲武2ルートの人馬パレードがここ伊勢神宮遥拝所(伊勢神峠)で合流し、記念行事が開催されますこと、おめでとうございます。
さて昨年9月29日、安倍総理の通常国会所信表明演説で、古橋家6代目当主、私の曽祖父の古橋源六郎暉皃が地方創生の先覚者として紹介された。今から137年前の明治11年(1878)にここ伊勢神峠で、平野も沿海部もない稲武地域は森林活用で〝地方創生〟をするしかないと悟ったという。それを紹介した総理演説で、伊勢神峠は全国から注目された。その伊勢神峠で中馬街道人馬パレードが盛大に行われ誠に感慨深い。
中馬街道の「中馬」とは、馬の背で荷物を運んだ信州の馬稼ぎの同業組合のこと。賃馬や中継馬が語源という。信州の河川は急流であり水運にむかない。馬で山超えをしたのである。
稲武の古橋懐古館(博物館)の西海賢二館長(歴史・民俗学博士)によれば、中馬街道はお伊勢参りの伊勢街道でもあった。稲武でも江戸中期以降、伊勢信仰が盛んになった。古橋懐古館所の「伊勢参宮日記」でも明らかになっている。
当地方の伊勢信仰の高まりは、古橋家6代目当主の古橋源六郎暉皃が150年前の慶応3年(1867)に、ここ伊勢神峠に「伊勢神宮遥拝所」を造営したことでもわかる。遠路の伊勢に行かなくても伊勢神宮を遥拝できるようになったのある。この伊勢神宮遥拝所は地域の方々の尽力で現在も、立派に保存・管理されている。
西海館長の本『山村の生活と民具』によれば、稲武から伊勢神宮へ出かけた人々を伊勢神峠で迎える行事として「坂迎え」(酒迎え)があったという。『伊勢神峠遥拝坂迎覚帳』の記録がある。
稲武地域は生糸(マユのカイコから生産した絹糸)を毎年伊勢神宮に奉納する伝統行事が、明治15年から134年間も続いている。今年も11月6日、稲武地域13自治区代表や、市民団体「まゆっこクラブ」の人たちが奉納してきた。地方文化の継承の観点からも、稲武が注目される。
この中馬街道人馬パレードは同街道の要地だった足助・稲武で、その歴史遺産を再現・伝承しようとしたものだ。足助・稲武の両地域でつくるパレード実行委員会が、地元観光協会・商工会、豊田法人会、豊田加茂ライオンズクラブ、古橋財団の後援を得た。本年は市町村合併10周年の節目の年で、時宜を得た計画だった。
足助・稲武地域からの人馬パレード隊が伊勢神宮遥拝所前で無事合流できた。その記念事業(鎌田流棒の手演技奉納、記念講話、会食会)も進んでいる。
中馬街道人馬パレード及び記念事業が旧中馬街道沿いの山村地域の人々の一層の連携強化につながり、それがこの地域の「地方創生」への大きなインパクトになることを心から祈り、ご挨拶とします。 …
ふるはし・げんろくろう 932豊田市稲武生まれ 東京大学法学部卒業 大蔵省大臣官房調査係長 大蔵省主計局主計官
総務庁長官官房長 一般財団法人古橋会理事長 2002勲2等旭日重光章
古橋懐古館学芸担当員 張艶さん 古橋源六郎暉皃の人物像や功績を紹介 2015.11.06
豊田市稲武町の古橋懐古館で17日から、古橋源六郎暉皃に関する特別展と、古橋家文書研究会の成果を発表する企画展が同時開催される=6面に関連記事=。この2つの展示を企画・運営するのが学芸担当員の中国人張艶さん(26・稲武町)だ。
張さんは日本について興味を持ち、20歳のときに東京家政学院大学人文学部日本文化学科に編入。同大学の教授で現在は古橋懐古館の館長も務める西海賢二氏に師事してきた。
在学中に夏休みを利用して古橋懐古館を3度訪れた。財団法人古橋会前理事長の故・古橋茂人さん(元稲武町長)と前館長の故・千嘉子さん夫婦には、稲橋八幡社の神事や夏祭りに連れていってもらうなど、とてもお世話になったそうだ。二人共とても親しみやすい人柄だったと振り返る。古橋家文書研究会の故・芳賀登先生たちが真面目に研究に取り組む姿や、学問の知識の幅が広いことに感心・感動。日本人の勤勉さも目の当たりにしたという。
古橋家文書を勉強するなかで張さんは、6代目当主古橋源六郎暉皃の存在を知った。幕末から明治期にかけ、林業・製茶・養蚕などの山村に適した産業振興に尽力し、植林については100年先の未来を見越した計画を立てるなど…
ちょう・えん 1989年11月1日生まれ。中国浙江省出身。中国内モンゴル出身の夫と稲武町に暮らす。張さんは一人娘。日本で夢に向かってがんばっている娘を中国の両親は応援してくれているという。
小原和紙工芸作家 故・加納俊治さん 日本近代工芸先駆者の藤井達吉に師事を 2015.10.02
豊田市小原地区下仁木町の和紙工芸作家で日展会員の加納俊治さんが9月19日早朝、人生の幕を閉じた。享年86歳。藤田保健衛生大学病院で放射線と抗がん剤の治療を受けていたが、その副作用の影響で誤嚥性肺炎のため帰らぬ人に。
加納俊治さんは東京外国語大在学の頃、小原村に戦時疎開で来ていた日本近代工芸の大家藤井達吉氏に出会った。加納さんら小原の有志たちは藤井氏に師事し、書画や工芸を学んだ。小原伝統の手すき和紙が今日の「小原工芸和紙」へ進んでいく礎が、この時期に創られた。「豊田市和紙のふるさと」館が小原に出来たのも、この時期に源があった。
加納家は妻の加納啓子さん(79)、娘の加納登茂美さん(56)、娘の夫の恒さん(63)のいずれも和紙工芸作家。俊治さんが藤井達吉氏に何を教わり、どのようにして作家の道を歩んで来たのかを聞いた。
◇ ◇
──俊治さんはいつ藤井達吉氏と出会われ、工芸作家の道を歩まれたのですか。
啓子さん お父さん(俊治さん)は大学生時代、栄養失調になったみたいです。そのため実家に戻ってきました。その後、終戦を迎え、頭の中がぽかーんとして、自分はどうあるべきかと迷ったみたいです。キリスト教を勉強したこともありました。
お父さんは人の噂で小原村の大野に偉い人(藤井達吉氏)が来たと聞きました。行った人は皆叱られて帰って来るというので、「ほいじゃ、ぼくが行って先生と対決してくる」と生意気に出かけて行ったそうです。
お父さんは家にあがったとたん、先生に叱られちゃった。先生はお父さんの入室の際の動作を真似て、「キミは猿だ。うちを訪問する姿勢が全くなってない。帰りなさい」と言われたそう。お父さんのためにみんなが叱られて、大変だったと聞いています。
お父さんが先生のところに行ったのは、父親の勧めがあったかもしれません…
かのう・としはる 昭和4年3月20日生まれ。農家の5人兄妹弟の長男。1958年日展初入選。1990年日本工芸美術展「内閣総理大臣賞」を和紙工芸分野で初めて受賞。写真は工房客間で撮影されたものを借用。
豊田市美術館新館長 村田眞宏さん 美術とともに自然豊かな庭園を楽しんで2015.09.04
開館から20年が経ち、昨年9月から約1年間、バリアフリー化を含む改修工事のため休館していた豊田市美術館(小坂本町)が、10月10日にリニューアル・オープンする。
館長を務めるのは、福島県立美術館学芸員や愛知県美術館館長などを歴任し、今年4月に新館長に就任した村田眞宏さん(61・知多市)だ。豊田市美術館は、現代芸術を中心に展示のクオリティが高く、良いコレクションが多数揃っている。全国的な評価が高く、村田さんも尊敬していたという。館長に就任してからは建物自体や、美しい庭園、茶室を含め、自然豊かで四季折々の景観が楽しめることにも気づき、同美術館をより好きになったそうだ。
豊田市美術館は、かつて挙母城や小学校があった高台に建つ。村田館長は「美術館を訪れた人には、庭園を散策したり、お茶室で一服したりして、美術はもちろん歴史や自然を楽しみながら一日ゆっくりくつろいでほしい」と話す。「建物や庭園などの魅力に加え、来場者により親切で親しみやすい美術館を目指し、市内の観光スポットとして市民が誇りに思えるような施設にしていきたい」と意欲的だ。また、展示はそのときどきの時代状況を意識し…
むらた・まさひろ 三重県津市出身、昭和29年8月27日生まれ。静岡県立美術館第三者評価委員会委員長。知多市の自宅から豊田市美術館まで電車・徒歩で通勤。趣味はバードウォッチング。
民芸の森倶楽部 森由紀夫さん 民芸の森に若者やデザイナーの感性を 2015.08.07
豊田市平戸橋町にある故・本多静雄氏(市名誉市民)の屋敷跡が来年春、「民芸の森」として一般公開される。民芸文化の普及や猿投古窯の研究などで地域に貢献してきた本多氏の偉業や、地域の歴史を後世に伝える施設だ。この敷地内にある森の環境保全や、豊田らしい民芸の育成に取り組もうと先月25日、市民有志でつくる「民芸の森倶楽部」が設立された。
同倶楽部の会長に就任した森由紀夫さん(60・越戸町)は、名古屋市で30年以上、建築・造園・木工の仕事に従事してきた人。公益財団法人名古屋市みどりの協会「雑木林研究会」に所属し、雑木林の保全・利活用への関心を高める活動も行ってきた。豊田市民芸館が平成25年から主催してきた「民芸の森」利活用ワークショップでは、森の再生プロジェクトに参加。枯木全てを撤去する話もあったそうだが、本多氏が「観桜会」を催していたこともあり、桜の枯木を数本残すことにしたそうだ。
今年5月末に開催された「民芸の森」プレイベントで、森さんは実行委員長を務めた。本多氏の陶器類などのコレクションを展示したり、茶会を開いたりしたほか、狂言舞台を使った和太鼓演奏や、地元陶芸作家らの作品展示即売なども行い、1000人以上の来場者があった。このプレイベントを通して森さんは、多くの人が「民芸の森」に関心を寄せていること、期待が大きいことを実感したという。
森さんは「平戸橋にはまだまだ発展性がある…
もり・ゆきお 昭和29年12月生まれ。豊田高専建築学科で学んだ後、大阪芸術大学環境計画学科に進む。豊田市元城町「木文化研究所」主宰。愛知万博「矢作川水源の森間伐材利用プロジェクト」担当者。
㈲ケンズ社長 久米田研志郎さん 鈴鹿8耐ロードレース3度目挑戦2015.07.03
豊田市神田町の久米田研志郎さん(53)=写真中央=が、今月23日から始まる「鈴鹿8時間耐久ロードレース」に出場する。今回で3度目の挑戦だ。
鈴鹿8耐は毎年夏に鈴鹿サーキットで開催される日本最大のオートバイレース。1台のマシン(1000㏄以下)を2〜3人のライダーが交代で乗り、8時間内により多く周回したチームが優勝となる。
久米田さんは幼い頃からエンジンで動くものに興味があったそう。母親の乗る50㏄のバイクにもとても関心があったという。
初めて鈴鹿8耐レースを観たのは25歳のとき。「これは観るもんじゃない。やるもんだ!この舞台で走りたい」と強い衝撃を受けたという。すぐにバイクを買い、出場資格の国際ライセンス取得を目指した。
バイクの運転技術は我流だ。サラリーマンとして働きながらバイクのメンテナンスも自分自身でやってきた。1998年に自動車・バイクの販売・修理会社「ガレージケンズ」を立ち上げたのもバイクに乗りたいがため。同年に「ケンズ・レーシングチーム」も設立した。しかし地方の4時間耐久レースや各大会に20年以上出場し続けても、ライセンス取得に手が届かず、「自分には無理だ」と諦めかけたこともあったという。
転機は50歳のとき。神戸市の仲間に頼まれて出場した4時間耐久レースで3位に入賞し、表彰台に上がったも…
くめだ・けんしろう 昭和37年3月生まれ、熊本県出身。鈴鹿8耐で使うバイクはスズキ「GSX-R1000」。日々の筋トレは欠かさない。最近は下半身強化のため、古典フラダンスを習い始めた。
洞牧寺住職 根本国弘さん 自然を活かして楽しく遊べるお寺に 2015.06.05
夕日が沈むなかで座禅を組む「参禅会」を開くなど、豊田市小原地区上仁木町にある順和山「洞牧寺」が楽しそうだ。
住職を務めるのは旧渥美郡出身の根本国弘さん(68)。2年ほど前まで兵庫県丹波市の寺で住職を務めていた人だ。8月には年に一度の大感謝祭も開き、地元の人たちが音楽や踊りを披露したり、僧侶による落語を行ったりするという。
根本さんは父親が住職であったことから、中学・高校時代の6年間、生まれ育った渥美半島で僧侶の修行を積んだ。しかし「坊主はいやだ」と思い、一般企業に就職。バブル景気のさなかだった29歳の時、豊田市高岡地区で自動車部品関連の会社を立ち上げ、約23年間経営者として働いてきた。
僧侶に転身したのは51歳の時だ。母親が亡くなったのをきっかけに、名古屋市で修行し直し、父親が住職を務めていた丹波市の寺へ入った。その父親も1年後に亡くなったそうだ。
丹波市での住職時代には、ニュースで山梨県の乗馬公園の馬が処分されることを聞き…
もと・くにひろ 昭和22年2月生まれ。寺には丹波市の寺の桜木を使った大きな祈願念珠がある。数珠にはそれぞれ健康・商売繁盛などの言葉が書かれており、毎朝、根本さんが祈祷する。
スポーツ推協会長 加藤恵美子さん 外に出て体を動かし楽しもう! 2015.05.01
豊田市スポーツ推進委員協議会が昨年、50周年を迎えた。
同団体は昭和36年、体育指導委員協議会として10人でスタート。平成23年に体育指導委員からスポーツ推進委員へと名称が変更された。スポーツ推進委員は教育委員会が委嘱する非常勤特別職。地域のニーズに合ったスポーツの振興に努め、新しいスポーツの紹介や、スポーツ行事の企画・運営、各種スポーツのルール説明・実技指導を行っている。平成26年度の会員数は男性123人、女性33人、計156人だ。
同団体の会長を務める加藤恵美子さん(66・志賀町)は、スポーツ推進委員32年目のベテラン。地元のバレーボール愛好会に所属していたのが縁で、地域からの推薦を受けスポーツ推進委員となった。会長職は今年で5年目になる。
長年活動を続けるなかで、最近気がかりなのは子どもたちの体力の低下。さまざまな環境の変化でスポーツ嫌いの子どもが増えていることも見逃せないという。
幼児期の子どもや親を対象に体を動かすことの楽しさを知ってもらおうと、平成24年度からコーディネーショントレーニング(COT)教室を開催。運動や身近な遊びを行いながらバランス感覚やリズム感覚、反射神経、状況判断などの運動神経能力を養うのが目的だ。日頃見られない活発な一面を見せてくれる子どももいるそうだ。親たちが地域の子どもたちのそれぞれの個性や魅力を知るきっかけにも…
かとう・えみこ 福岡県出身。昭和50年から豊田市在住。中・高校時代はソフトボール部に所属。西三河地区スポーツ推進連絡協議会会長・愛知県スポーツ推進連絡協議会副会長。
「anam」オーナー 稲熊なつみさん 途上国の生活考えた公平貿易を 2015.04.03
豊田市桜町出身の稲熊なつみさん(36)が、元城町2丁目2の2でフェアトレード(公平貿易)専門店「anam」を営んでいる。店にはバッグや雑貨、コーヒー、チョコレートなどさまざまな外国製品が並ぶ。
フェアトレードとは、途上国でつくられたものを生産者から直接適正な価格で購入し、先進国市場で販売する仕組みのこと。途上国の貧困問題の裏側にある搾取や、劣悪な労働環境、児童労働などを排し、生産者の自立や生活改善の支援につなげるのが大きな目的だ。
稲熊さんがフェアトレードに関心を持ったのは豊田市内の洋服店で勤めていた20歳代の頃。洋服はシーズンを過ぎると値段を下げて販売される。その販売方法を見て、生産者の利益や流通の仕組みなどに疑問を抱いたという。
32歳の時、タイの友人からフェアトレードによって地域経済が活性化した村があることを聞き、タイへ渡った。貧しい農村地域では女性たちが収入を得るために都市部へ出稼ぎに出ていたそうだ。そのような状況のなか、タイ政府は貧困層の収入源確保の政策として1村1品運動を推奨。もともと各農村にあった伝統工芸や技術、資源を活かしたものづくりだ。独創的なセンスのバッグや織物が公平貿易の対象になった村では、女性たちの出稼ぎがなくなり…
いなくま・なつみ 昭和53年8月生まれ。豊田市立崇化館中卒。岡崎市私立光ヶ丘女子高校国際コースに入学。1年後、オーストラリアの現地高校へ編入学し卒業。同志社女子大学短期大学部英米語学科卒。
看護師 礒部陽子さん ミャンマーのエイズ孤児に教育を 2015.03.06
「ミャンマーのエイズ孤児に教育を届けたい」と、2013年、NGO団体「Child Needs Home(チャイルド・ニーズ・ホーム)」を立ち上げた女性がいる。豊田市小坂町の看護師・礒部陽子さん(33)だ。
礒部さんは中学の頃から、発展途上国の都市で路上生活する子ども達(ストリートチルドレン)の社会問題に関心を持っていた。貧しく劣悪な環境のなかで生きている子ども達のために自分に出来ることは何かと考え看護師の道を選んだそうだ。
2009年〜2011年、礒部さん自身の意志で医療ボランティアとしてミャンマーを訪問。子ども達の置かれている家庭環境や、HIV感染者の増加など様々な問題や課題に直面した。貧しいがため十分な治療や医療が受けられない子ども達もたくさん目にしてきた。「産まれてきた子どもたちに安全・安心で幸せだと思える人生を送ってもらいたい」と強く感じたそうだ。
「Child Needs Home」の会員は国内で23人。愛知県のほか、東京都、兵庫県、和歌山県などにもいる。ミャンマーの現地スタッフは5人。日本語通訳者や牧師、支援を受けている男女だ。
現在支援している子どもは5〜14歳の12人。エイズで親を亡くした孤児や、祖父母と暮らすものの生活に困窮している子ども達…
いそべ・ようこ 1981年5月生まれ、神戸市出身。豊田市小坂町で夫と1歳の息子の3人家族。支援先の人たちとさらにコミュニケーションを深めようと、月2回ミャンマー語を習っている。
藤岡緑ヶ丘区長 小田朋江さん 自治区役員決めは子育て世代に配慮を 2015.02.06
豊田市内302自治区のなかで紅一点の女性区長がいる。藤岡南地区・藤岡緑ヶ丘自治区の小田朋江さん(40・西中山町)だ。
小田さんが区長を務めることになったのは、自治区で行われたくじ引きの結果によるもの。小田さん一家は平成23年に藤岡地区北部の北曽木町から南部の西中山町に転入。翌24年度に役員未経験者30人ほどが集まり、くじを引いた結果、25年度に副区長、26年度に区長を務めることになった。中日新聞の専売店を経営する夫では仕事柄無理があると考え、朋江さんが引き受けることに。同自治区では数年前にも女性が区長を務めていたことがあるという。
藤岡緑ヶ丘自治区は全155世帯。平均年齢は50歳ほどで現役世代が多い地域だ。働きながらでも区長職がこなせるよう負担が少なくなっているそうだ。自治区主催の祭りや行事、夜間の防犯パトロールはない。ゴミ出しのルールも守られており、住民から市へ対しての要望が区長にあがってくることはほとんどないという。
年2回行う環境美化活動は区長が住民を集め指示することはなく、決められた時間に各自が持ち場に出向き、終わったら解散となる。子ども会と自治区との連携はない。小田さんはこうした住民同士の希薄な関係は…
おだ・ともえ 昭和49年3月生まれ。中学3年、中学2年、小学6年の母親。藤岡南地区は6自治区からなり、平成26年度同地区区長会の監事、同地区コミュニティ会議の書記を務めている。
猟師めざす高校生 原田誉也さん 登校前に罠を見回るのが日課 2014.12.05
豊田市足助地区綾渡町の高校生・原田誉也さん(足助高2年)が地元の名人猟師に弟子入りし、本格的にイノシシの捕獲や解体の技術を学んでいる。狩猟免許の受験資格は20歳以上。それまでに技術と知識を習得する考えだ。
原田さん宅の田畑もイノシシの被害にあっている。祖父母らは腹を立てながらも「しょうがない…」と諦めているという。原田さんは「猟師が増えないことには被害は減らん。誰かがやらんといかんことだ」という一心で、高校1年の冬、足助地区の追分小学校区に住む80歳代の猟師に弟子入りした。
師匠は「足くくり罠」を自作し、捕獲したイノシシの解体から販売まで自ら行っている人。地元猟師の間で名人と言われている。
昨シーズンは約20日間、山の猟場で実習を受けた。罠に人間の臭いがつかないよう手を砂まみれにして仕掛けることや、イノシシの習性を利用した仕掛け方などを学んだ。また掛かったイノシシが暴れ回らないよう固定する方法や、良い肉質を保つための上手な絞め方も教わったという。
くくり罠に掛かったイノシシのなかには、足を引きちぎって逃げてしまうものも居る。箱罠(檻)の場合は…
はらだ・たかや 平成9年9月生まれ。趣味は魚釣り、ヘボ(クロスズメバチ)の飼育、オオスズメバチの捕獲。足助地区で毎年開催されるヘボコンテストでは巣箱から巣を取り出す作業で活躍している。
マラソン大会出場30回 光岡保夫さん70 北海道サロマ湖100㎞マラソン完走い 2014.11.07
豊田市本地町(本地本郷)の光岡保夫さんは地元の県立豊田西高を卒業し、市役所に入った。農家青年の普通の進路だった。 そして7年前の2005(平成17)年3月、猿投コミュニティセンターの所長を最後に市役所を定年退職し、光岡さんの農業・ボランティア・マラソンの第2の人生がスタートした。
──農業と言っても、家族の趣味の農業ですね?
光岡さん 少し違う。田畑が1町歩(1万㎡)あり、トラクター、コンバイン、田植え機なども一式もっている。その農業機械でぼくが田畑を耕作し、出荷もしている。大豆も3反作り、丸加醸造で味噌やタマリを作ってもらう。大豆の収量統計調査で農水大臣表彰をもらいましたよ。昔ならいっぱしの農家だが、今はもうからんなあ。
──ボランティア活動としては何を?
光岡さん 法務大臣委嘱の保護司(対象は非行少年等)、更正保護法人大徳塾補導員(仮出所で身寄りのない人)、市長委嘱の地域会議委員(わくわく事業等審査)の3種類の仕事をいただいていますね。
──豊田マラソン出場は何回目ですか?
光岡さん 市役所在職中の平成10年からだから、今年11月16日大会を含め連続16回目です。ほかの大会を合わせると、通算30回以上になるかな。
──光岡さんにとって、マラソンとは何ですか?
光岡さん うーん、自分の人生記録への挑戦かな…。自分の健康のための、愛する家族のための挑戦かな…。中学校時代はサッカー少年、高校時代は家事手伝いの百姓青年、今はマラソン人生だが、この間、病気をしなかった。体重・体型も変わっていない。これを維持するための挑戦かな…。
──思い出の大会は?
光岡さん 2006・6・25の北海道サロマ湖100㎞ウルトラマラソン完走!
──人は100㎞も走れるものなのか?
光岡さん 6月のオホーツクのコースは花々々、スタッフの声援の声々々。それで当時62歳のぼくが完走できたんですよ。
──誰が同行してくれた?
光岡さん 遠征大会にはぼくより4歳若い家内が旅行を兼ね来てくれる。ぼくが家族を愛しているからね。…
みつおか・やすお。昭和19年5月24日生まれ。豊田市本地町1-29。愛知県立豊田西高卒、昭和38年4月豊田市職員、平成17年3月定年退職。現在、保護司、大徳塾補導員、豊田市逢妻地区地域会議委員。
NPO豊田LFC理事長 橋本史朗さん 女子にサッカーの魅力や楽しさ伝えたい 2014.10.03
豊田市を拠点に活動し、中学生から社会人までの43人が所属している女子サッカーチーム「豊田レディースフットボールクラブ」。同チームを運営するのはNPO法人豊田LFCだ。同法人の理事長でチーム監督も務めているのが、みよし市三好丘の橋本史朗さん(35)だ。
県内には女子サッカーチームが約30チームあるという。豊田レディースフットボールクラブは1987年に設立された30年近い歴史をもつチームで、日本サッカー協会に所属している。サッカーを通じて心身の健康の向上を図り、その魅力や楽しさを多くの人に紹介するのが目的だ。またチームワークや人々とのふれあいを大切にできる女性の育成も目指している。設立当初はなかなか人数が集まらなかったそうだが、日本代表チームの活躍もあって5年ほど前からは常に45人ほどを維持している。
現在のメンバー43人のうち、30人は豊田・岡崎・幸田・刈谷市の女子中学生だ。豊田市内の高橋中学や崇化館中学、上郷地区のグランドなどで週4回の練習を行っている。ホームグランドが無く、また週末は市外へ試合に出向くことも多いので、保護者の送迎が欠かせないという。
今夏は東海地区代表として、大阪府で開催された第19回全日本女子ユース(15歳以下)サッカー選手権大会に2度目の出場を…
はしもと・しろう 昭和54年3月30日生。石川県出身。中京大学健康教育学科卒。日本サッカー協会公認B級コーチ。大学生時代には豊田市役所のサッカー部に選手登録していた。
保育士 伊藤里恵さん 専門知識をエジプトの保育園でいかす 2014.09.05
豊田市立竹村こども園の保育士・伊藤里恵さん(28・長興寺)が、JICA(独立行政法人国際協力機構)の青年海外協力隊としてエジプトで2年間の活動を終え、6月に帰国した。市の休業制度を使い、エジプト政府とJICAとの間で締結された「遊びから学ぶ保育改善」プロジェクトに、幼児教育隊員として参加してきたそうだ。
エジプトの民間団体が運営している保育園では専門的な知識を持たない人が保育にあたっている場合が多いという。現地では保育に関するルールや子どもの成長に適したプログラムづくりなど、保育技術の向上や保育環境の改善に取り組んできた。 伊藤さんは2年間ずっと同一の園で保育改善に努めてきた。2〜4歳児が約60人おり、園長1人、保育士3人、保育士補助員2人の園だ。1園だけで活動したのは行政とも連携してモデル園をつくるためだった。
現地の保育園をみた伊藤さんは、保育のルールやスケジュールが無いことや、子どもが食事をしながら遊んでいても保育士はおしゃべりをするなどしてくつろいでいることに衝撃を受けたという。また、子どものトイレの付き添いや園内の掃除は保育士補助員の仕事とされており…
いとう・りえ 昭和61年生まれ。豊田市立朝日丘中学校出身。岡崎女子短期大学幼児教育学科卒。活動内容の講演会を来年、豊田市国際交流協会で開催予定。県内の高校で学生を対象とした講演会も計画中。
えんじょい♪代表 鳥居忠雄さん 楽しみながら認知症予防を 2014.8.01
認知症予防支援グループ「えんじょい♪」は、豊田市社会福祉協議会の認知症予防の養成講座の修了生12人が中心となり、2006年に立ち上げたボランティアだ。代表の鳥居忠雄さん(73・小坂町)は認知症の奥さんの介護を5年間行ってきた人。自身の経験も活かそうと同グループを立ち上げた。
コンセプトは「心もえんじょい、脳もえんじょい、みんなでやろまい脳力アップ!」。人のためでなく、自分のためという意識を持って、認知症についての正しい知識と予防法を楽しみながら広めようと活動を行っている。講話や脳活性化ゲーム、体操などの出前講座を、年間20回ほど、市内の交流館や老人福祉施設などで行っているそうだ。脳活性化ゲームは会員がつくったものが約60種類ある。完成や正解を求めるのでなく、記憶力や想像力を働かせ、考えるプロセスを重視しているものだ。紙コップを使ってタワーをつくるゲームは大ヒットだった…
とりい・ただお 静岡県浜松市出身。豊田市ボランティア連絡協議会や、市の「高齢者を考える会」にも所属。趣味は書道や篆刻、散歩。脳トレのためにしゃべりながら散歩することが良いと話す。
豊田市矢作川研究所 山本敏哉さん 河川氾濫原の自然再生思想を学びたい 2014.07.04
豊田市矢作川研究所の魚類担当の主任研究員・山本敏哉さん(43)が留学のため、6月末〜11月末の予定でオーストリアのウィーンへ旅立った。現地大学の陸水学研究所に客員研究員として籍を置き、ヨーロッパで進んでいる〝土木技術と生物学の融合〟の最新事例などを学んでくるそうだ。
今回の留学は業務でなく、豊田市役所の「自己啓発休業」制度を使っての私費留学。矢作川研究所の実力アップに直結する勉強をしてくるのだが、この間、給料は完全にストップするそう。おかしな話だ。
豊田市矢作川研究所が創設されたきっかけは、市が23年前にスイス・ドイツへ派遣した近自然工法視察団だった。山本さんが今回の留学を思い立ったのは「あの視察団派遣から20年以上経つので新しい事が起こっているはず。それを吸収してきたい」という思いからだ。また、「あの視察団は土木技術者中心だったので、生物研究者の視点でも学んできたい」という思いや、「同じ職場に15年も居ると考え方が固まってしまうので、違う場所に身を置いて新たな発想を持ちたい」という…
やまもと・としや 大阪府出身。京都大学農学部水産学科、同大学院卒業。現在は「アユの保全生態学的研究」や「生息環境の復元による稀少淡水魚類の再生」をテーマにしている。理学博士。
矢作川研究所長 早川 匡さん 市民が相談に来てくれる研究所に 2014.6.06
この4月に「豊田市矢作川研究所」の第6代所長に就任した早川匡さん(51)。市役所内では建設畑を渡り歩き、若いころには豊田都心の「児ノ口公園」を近自然化する大改修も担当した。高知の故・福留脩文氏が豊田市へ伝えた近自然工法の思想を受け継いでいる、数少ない現役職員の一人だ。
これまでは、同じ建設部の中で少し離れた場所から矢作川研究所を見てきた早川さん。「研究者が集まっていて、行政から少し離れている組織かな」という印象を持っていたそうだ。
所長に就任した今は、矢作川研究所の存在意義を揺るぎないものにするため、その専門性を市役所の施策に生かしたいと考えている。例えば、市が行う河川改修に研究所が関わることもできる。これからの河川改修は生態系に配慮した近自然河川工法(多自然川づくり)を基本としなければならないが、これは一般的な土木技術者には難しい技術。矢作川研究所がシンクタンク的に事業を提案し、工事の完了後、再び研究所が評価のための生物調査を行うのが理想だ。早川さんはそうした流れを市役所内につくっていきたいと言う。
一般市民が気軽に訪れるような開かれた研究所にすることも、新所長として掲げたテーマの一つ。研究員たちが多忙なのは承知の上だが、「夏休み中の子どもたちが、生き物について聞きに来てくれるような研究所にしていきたい」そうだ。そうした雰囲気づくりのため…
はやかわ・ただし 名古屋工業大学土木工学科卒業。豊田市の道路対策室→公園課→中央公園推進室→土木課→河川課→幹線道路推進課→河川課→矢作川研究所長。刈谷市出身、豊田市扶桑町在住。ページトップへ
㈱こいけやクリエイト 西村 新さん 読者の皆さんの人生を耕したい 2014.05.02
地域に根ざし、地に足の着いた農や食、暮らしや環境をテーマにした珍しいフリーペーパー『耕ライフ』を季刊発行している西村新さん(37)。トレードマークの〝つなぎ〟の作業着には「人と人をつなぎたい」という思いを込めているそうだ。
西村さんが経営する㈱こいけやクリエイトは、印刷物のデザインやホームページ制作などを行うデザイン事務所。そうした仕事を請け負う他に、自分から何か発信しようと始めたのが『耕ライフ』だ。読者の人生を耕したいという意味を込めて名付けた。創刊から2年。豊田市が進める「都市と農山村交流」の施策とも重なっており、時代が求めて生まれたフリーペーパーと言えるかも知れない。
一般的なフリーペーパーは広告だらけになりがちだが、『耕ライフ』は広告が増えたら記事も増やしていく考え。広告を載せることが企業ブランドのイメージアップになるよう考えているそうだ。
特徴はデザイン事務所らしい洗練された誌面と、優しく温もりのある写真や文だろう。記事の内容にもこだわり、読み物として楽しめるフリーペーパーを心掛けている。社員は西村さん夫妻を含めて4人。企画から取材、発行までを定期的にこなすことで、社員の実力アップにつながっているそうだ。また予想外の効果として、誌面のデザインが会社のPRとなって印刷物デザインの依頼も増えているという。価格勝負でなく、丁寧な仕事でお客さんの心を…
にしむら・しん 昭和51年生まれ。猿投台中学校出身。愛知県立芸術大学美術学部デザイン科卒。広告代理店に勤務後、平成23年に独立しデザイン事務所「㈱こいけやクリエイト」を設立。
合同大学祭副委員長 中野 圭さん リニモ沿線地域の魅力を大学生PR 2014.3.07
愛・地球博記念公園で2月16日に「リニモ沿線合同大学祭」が開かれた。このイベントは、東日本大震災の復興支援活動に参加した大学生が、人と人の繋がりの大切さを感じたことを契機に昨年から始めたもの。県の支援や地域の企業・病院・飲食店などの協賛を受けている。リニモ沿線地域の瀬戸・豊田・日進・長久手市を市内外へPRするとともに、地域のコミュニティづくりも目的に行ってきた。実行委員メンバーは愛知県立大学、愛知学院大学、椙山女学園大学など、沿線の13大学1専門学校に通う学生たち61人だ。
そのなかで、副委員長を務めたのが豊田市高岡地区吉原町の中野圭さんだ。中野さんは愛知県立大学の4年生。大学の先輩らの影響を受け、長久手市の市民祭りや福祉祭りなどで地域の人たちと関わってきた人だ。
今回の合同大学祭では開催に向け、企画から運営まで学生や団体、企業などとさまざまな意見を交わしてきた。ひとつのことを決めるにもいろいろな意見やアイデア、方法があることを知り、悩むことも多かったそうだ。また実行委員それぞれの仕事量を把握したり、モチベーションに気を配ったりすることも大切…
なかの・けい 愛知県立大学教育福祉学部教育発達学科4年。22歳。リニモ沿線合同大学祭の出展ブースの一つであったテディベアづくりにも挑戦。写真の腰辺りのぬいぐるみは軍手を利用したものだ。ページトップへ
人材育成会社融和塾長 松井直人さん ひとり一人の良さ見つけて生かす 2014.02.07
豊田市上郷地区の市立末野原中学校陸上競技部のOB・OGが、恩師であった松井直人さん(55・花園町)の「勇退を祝う会」を1日、丸山町のカバハウス内レストランで開いた。
これは、松井さんが昨年8月に市内小学校の教頭職を勇退し、人材育成会社「融和塾」=大林町=を設立したことを記念して行われたもの。会場にはOBやOGら約100人が集った。アテネと北京五輪の110mハードル競技に出場した内藤真人さん(33)もOBとして参加していた。
松井さんは平成3年〜14年の間、末野原中学に教員として在籍。当時、荒れていた同中学で「見つける・育てる・生かす」「活気・熱気・元気」を信念に持ちながら、教員・陸上部顧問として生徒指導にあたってきた。陸上部の顧問になったときには「末野原中学から日本一を出す」と公言…
まつい・なおと 昭和33年7月生まれ。豊田市稲武地区武節町出身。日本体育大学体育学部卒。座右の銘は「人生全力疾走!」。知立市の教員時代の教え子にはバルセロナ五輪400mリレー出場の選手もいる
豊田フィル管弦楽団長 谷上正明さん オーケストラを楽しむ裾野広げたい 2013.12.06
豊田市在住・在勤を中心につくる「豊田フィルハーモニー管弦楽団」。団長を15年以上に渡って務めているのは上郷地区鴛鴨町の谷上正明さん(48)だ。同楽団は、「豊田市にオーケストラをつくろう」と、1988年に豊田楽友協会設立とともにつくられたアマチュア演奏団体の一つ。谷上さんは協会設立当初からのメンバーで、当時、大学の吹奏楽部と市の吹奏楽団に所属し、トランペット奏者として活動していた。
谷上さんがトランペットを始めたのは小学4年生。先生から「学校で鼓笛隊をつくるから一緒にどうだ」と声をかけられたのがきっかけだったという。学校では楽器の数が少なく、皆で交代に使っていたので、「自分のトランペットが欲しい」と親にねだって買ってもらった。その後、中学・高校・大学でも吹奏楽部に所属し、演奏を楽しんできた。
楽団の設立当初の団員は40人ほど。10〜20歳代が多く活気があった。しかし練習に5人も集まらない寂しい時期もあり…
たにかみ・まさあき 豊田楽友協会副会長。県立岡崎高校の数学科教員。妻・長女(大学生)・長男(高校生)ともに楽器奏者。妻は豊田フィル管弦楽団員で、長女は豊田市ジュニアオーケストラの元メンバー
農業生産法人従業員 金川智子さん 旭で美味しいミネアサヒ米を作りたい 2013.11.01
都市部から中山間地の豊田市旭地区に移住し、地元農業経営者のもと農作業に励んでいる女性がいる。同地区小渡町の金川智子さん(39)だ。
金川さんが農業に興味を持ち始めたのは30代になってから。自動車関係の仕事を続けるなか、なんとなく農業をやってみたいと思っていたそうだ。そして昨年見つけたのが余平町の農業生産法人「559(有)」=大嶋茂希代表取締役=での短期アルバイト。農業経験はなかったものの、やってみたい思いと、タイミングは今しかないという直感から農業への第一歩を踏み出した。稲刈りなどを体験し、「田んぼで米を作るっていいな」と自然に思えたという。
当時、住んでいたのは旭地区から車で1時間ほどの猿投地区だが、行き帰りに目にした山間地の風景にも心を奪われ、旭がすっかり好きになっていた。
アルバイト期間の終了後も農業に携わりたいと考え、豊田市農ライフ創生センターが今年3月に開設した旭研修所の1期生となった。研修所で勉強するなか旭地区の催しで、アルバイトのときお世話になった大嶋茂希さんと再会。大嶋さんから従業員の募集話を聞きいてとびついた。
農業を続けていく上で感じたのは体力が要ること。働き始めたころは苗箱や肥料を運ぶだけでも体に響いたそうだ。また、仕事はその時々や季節によって変わるため、今日覚えたことが来年に…
かながわ・ともこ 豊田市旭地区小渡町。地元のイベントクラブに所属。10月はサツマイモ、ショウガ、ジネンジョなどの収穫・出荷に追われながら「農業日誌」をつけている
炭焼き職人 筒井敏夫さん 優れた技と知識で森の名手に選定 2013.10.04
豊田市足助地区山谷町の炭焼き職人筒井敏夫さん(85)が「森の名手・名人」に選定された。
森の名手・名人とは、森に関わる木こりや木地師、シイタケ生産などにおいて優れた技を持ち、他の模範となる達人が選ばれるもの。公益財団法人国土緑化推進機構が展開する「もりのくに・にっぽん運動」プロジェクトの一環だ。筒井さんは、自身がつくった炭焼き窯を持ち、良質の炭を量産できる。また、三州足助屋敷の炭焼きコーナーも担当し、炭焼き技術の伝承に貢献してきた人だ。
筒井さんは炭焼き職人の祖父と父親を持つ家庭で育った。小学3〜4年の頃、遊びながらつくった窯で初めて炭を焼いたとき、「こりゃ、おもしろい」と思ったそうだ。
当時、足助のまちは塩の道として栄え、炭問屋が5〜6軒あったという。学生の頃は家の手伝いで、15㎏ほどある炭を背負って片道1時間かけてまちの得意先に届けたり、個人宅へも売ったりしたそうだ。夜は父母が使うランプの灯りを頼りに自分の草履もつくった。
昭和18年、筒井さんは猿投農学校(現猿投農林高校)を卒業。一時は林業に携わったものの、炭の景気が良かったこともあり、炭焼き職人となった。
終戦後、父親が役場の要請で、炭や米などの配給を担当させられたのがきっかけとなり、自身も昭和24年から役場職員として、農業普及員を務めた。職員として働くなか、「生きもん(炭)相手の方がおれの性に合っている」と仕事を辞め、再び炭焼き職人へ…
つつい・としお 豊田市足助地区山谷町本洞。昭和3年2月生まれ。炭焼き窯は自身がつくった土窯とコンクリート窯の2つを持つ。炭焼きにかかる材木の伐採から運搬などすべてを1人でこなす。
お笑い劇団笑劇派 南平晃良さん 豊田市拠点に15年全国へ出張公演も 2013.09.06
豊田市を拠点に全国各地への出張公演で活躍しているお笑い劇団「笑劇派」が、この9月で15周年をむかえる。来週末15日に豊田市民文化会館小ホールで行われる15周年記念特別公演はチケット完売の人気だ。
座長の南平晃良さん(33)の口からは「地元のおかげ」「支えてくれた皆さんのおかげ」という言葉が絶えない。意外なことだが、市町村合併の後、旧町村地域の人たちからも多くの仕事をもらい支えられたという。それが転機にもなったそうだ。
10年間続けた「なんぺい・さやか」の夫婦漫才コンビを解消し、離婚したのも大きな転機だった。落ち込むことも少なくなかったが、ここでも多くの人が支えてくれたそうだ。
現在の劇団員は7人。年齢層が18歳〜48歳と幅広くなり、これまでと比べて演技にリアルさが出てきた。台本も書きやすいそうだ。団員たちの生活は、日中はほぼ毎日が稽古。仕事の片手間にやっている人はいない。アルバイトをするのも稽古の後だ。南平さんは「ようやく本物のプロの劇団になれた」と…
なんぺい・あきら 豊田市立青木小、猿投台中、県立猿投農林高校卒業。高校3年生の時に「笑劇派」を旗揚げ。座長として経営、台本、演出、出演とすべてこなす。今日9月6日が33歳の誕生日。
松平地区営農協議会長 中根 大さん 「集落営農」が中山間地域を救う 2013.08.02
豊田市の工業出荷額は日本一だが、農業生産も捨てたものではない。稲、野菜の大産地で、特に果樹は県内で有数の生産地です。しかし、その陰りは幾年も前から始まり、平坦部といえども耕作放棄地がめだつ。
全国の中山間地の農業は疲弊し、豊田市も耕作放棄地が増えている。その原因は、①住民の少子高齢化、②過疎化の進行、③鳥獣被害の増大などです。
中山間地域の棚田は山と同じでダムの役目をするが、山は手入れがされず、田んぼも荒れ、その役目を果たしていない。山や田んぼに降った雨はそこに留まることなく、一気に小川から濁流となり大川に入り、都市災害をもたらす。河川や海の環境も破壊する。中山間地の農業が昔々から日本の国土と環境を保全してきたのです。
そうした観点から政府は所得保障や中山間地直接払い制度などの農業施策を講じているが、これは高齢者には手続きが煩雑で抜本対策とは言い難い。
私は唯一この状況から脱する方法を地域で提言し、その推進のお手伝いをしています。
人が住むことが地域を守る大前提です。春には早苗が植えられ、秋には黄金の稲穂が垂れる。そうした状況にするには耕作放棄地を無くし、田畑を耕す事ですが、中山間地域の農業は経済としては成り立ちにくい。米価は30年前より低いのです。
私が提言している中山間地の農業は「集落を一つの家」と考える。集落単位で共同営農組織を立ち上げ、未耕作者やその予備軍の人は田畑を預けていただき「集落営農」をする…
なかね・だい、豊田市坂上町日面63。1944(昭和19)年10月8日生まれ、愛知県立猿投農林高校農業科卒、愛知産業大学短期大学卒。豊田市議会議員4期、2008年議長。現在、神職、豊田土地改良区代表監事、豊田市松平地区営農協議会長。
四郷警固祭り広報担当 野依真人さん この祭りを地域住民の誇りにしたい 2013.07.05
〝棒の手祭り〟とも呼ばれる豊田市井郷地区の「四郷八柱神社警固祭り」=今年は10月12・13日=。人口増加の井郷地区にあり、3流派5地域の棒の手組織もしっかり残っているため、県内で最も棒の手が盛んだ。近年は30〜40代の熟練剣士たちが運営の中心となるよう組織改革するなど、進化もしている。
また、棒の手以外の人が祭りに参加しやすいようにも改革を進めている。その象徴と言えるのが野依真人さん(39)だ。棒の手は一度も習ったことがないが、祭り組織の広報副委員長を務めている。
野依さんは地元の四郷町天道の人。大学進学も就職も東京だったが、30歳のとき中途採用で豊田市役所の職員となって戻ってきた。地元消防団やPTAで様々な行事に参加しているうちに、地元での活動が面白くなってきたそうだ。
祭りについては、同級生が棒の手をやっているので観に行っていたし、消防団で警備に携わってもいた。ただ、「棒の手の人たちがやっている祭り」という印象だけだったそうだ。
祭り組織から誘われたのはそんな時。組織側としては新しい発想を求めたのだろう。
棒の手をやれない自分が祭り組織に入ることには戸惑いもあったが…
のより・まさと 昭和49年3月生。大学進学で地元豊田を離れ、就職も東京の建設コンサル会社へ。30歳のとき中途採用で豊田市職員に。建設部幹線道路推進課の担当長。技術士(建設部門)。
紙漆工芸作家 安藤和久さん 地元産の原料を工芸に活かしたい 2013.06.07
紙漆工芸作家として国内外で活躍する安藤和久さん(72)。平成21年には(社)日本漆工協会「漆の美展」で文部科学大臣賞を受賞し、今年の豊田市文化振興財団表彰では最も芸術的と賞賛される「芸術選奨」に選ばれた。
安藤さんが工芸活動を始めたのは30代初めの頃。小原地区に住む両親と同居するため、名古屋市勤務の銀行員を辞めて工芸の道を歩み始めた。紙漉士だった父親の薦めで、瀬戸陶芸の重鎮であった故河本五郎氏より指導を受けた。工芸作家としての「ものの見方」「考え方」など多くを学んだそうだ。特に心に残っている言葉が「既成概念にとらわれるな」だ。また、人のマネをせず、下手でもいいから自分独自の物をつくりあげていくプロセスも学んだ。日々の努力を怠らず続けていくことの大切さも教えられたという。
安藤さんは「人はいい人に出会っていい人になる」と話す。
工芸活動の業績が認められ、数々の受賞につながったのは、多くの人に作品を見てもらったり、助けてもらったりしたからだと振り返る。
作品づくりは、紙漉きから成形、塗り、仕上げ、加飾まですべての工程を自身で行う。
一つの器をつくるのに和紙を10枚ほど貼り合わせ、下塗り、中塗り、上塗りと漆を10回以上も塗る。細心の注意を払うのは漆の…
あんどう・かずひさ 豊田西高校から関西大学経済学部へ。卒業後、7年間銀行員として勤務。日本画家の故片岡球子さんの富士山を題材とした絵が好きだと話す。豊田市小原大倉町で妻と二人暮らし。
松平郷の景観整備おいでん立ち上げ 鈴木辰吉さん 都市と農山村の交流組織づくりへ 2013.04.05
豊田市の産業部長を2年、総合企画部長を1年務め、この3月末で定年退職した鈴木辰吉さん(60)。産業畑を31年間も歩んだ人だ。心に残る仕事は「おいでんまつり」の立ち上げと、「松平郷園地」の整備だそう。
おいでんまつりの立ち上げに奔走したのは35歳のころ。「豊田市には全国各地の人が集まっているけれど、その子供たちにとっては豊田がふるさと。新たなふるさとのまつりを創ろう」という想いだった。あれから24年が経ち、今では「おいでん」という言葉は単なる方言でなく、市民権を得て豊田のいろいろな所で使われている。鈴木さんの密かな自慢だ。
松平郷園地の整備を担当したのは38歳のころ。親氏公没後600年祭の全国松平サミット開催にむけ、景観整備、散策道整備などを行う大事業だった。鈴木さんは昼夜を問わず地元の声を聞いてまわり、時代考証もして事業を進めた。シンボルの室町塀の色をめぐって市長と意見が合わなかったこともあるが、考えを曲げなかった。
後日、歴史作家の司馬遼太郎氏がこの室町塀をみて「映画のセットのようだ」と酷評する事件があった。200年後の人々に良い場所だと思われるように作った自信作だったが、鈴木さんは「もう少しやり方があったのかもしれない。時代考証だけでなく心に踏み込んで仕事をしよう」と考えるようになったそうだ。その一方で、地元の人たちが司馬氏の批判に猛抗議してくれたと聞き…
すずき・たつよし 豊田市役所で都市計画の仕事を10年、農政や観光などの産業部の仕事を31年(産業部長2年)務め、最後の1年は総合企画部長を務めた。旭地区押井町の自宅から通い続けた
HOMEへ