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農業体験もう8周年耕作放棄農地激減効果       20017.11.17

山村の零細農業再生の構想を描けるか…

1117ウィークリー.JPG 日本の農政は「農地面積拡大」による経営合理化を唱える主張一辺倒の農業理論だ。経済競争に強い農業・平地農業・大型農業機械利用派の農業論だ。

 農地面積拡大がむつかしい山村地域には右とは趣の異なる農業理論がある。「農ある生活」の中に人間生活のうるおいを求める農業論だ。日本の農政にはこの考えは希薄だ。

 小型高性能農業機械を利用したい・少量多種類の農産物を生産したい・森林や河川の自然環境を保全したい派の人々の農業論だ。

 特にこの派の人々は「都市と山村の交流」を大事にする意識が強い。人口希薄の山村は「都市との交流」でしか発展できないという考え方を地域政策論として定着させてきた。

 足助北部の豊田市新盛町が「トヨタ労組の農業体験」交流を受け入れたのは、この先進的な地域政策論によると思われる。 今年「8周年」を迎えた「トヨタ労組農業体験」受け入れは、元足助町助役の小澤庄一、現新盛里山耕流塾会長の鈴木邦夫2氏らが豊田市と交渉を重ね、周到に準備してきた。

 2008年、トヨタ労組農業体験活動への地元農家の協力組織として「新盛里山耕流塾」が設立された。

 2010年、トヨタ労組農業体験活動がスタートした。農業体験は田植え、稲刈りから最終の収穫祭まで全8工程だ。

 2011年、豊田市の都市・山村宿交流施設「すげの里」がオープンした。これでトヨタ労組農業体験関連の全舞台が整った。 続篇を書きたい。トヨタ労組農業体験は、耕作放棄地激減の大成果を上げ〝離陸〟したが、山村農業再生の目的地に無事〝着陸〟できるだろうか。

八木哲也氏比例復活3線 山村「人口増」研究進むか     20017.10.27

過疎対策は政治課題合併後も人口減少!

 10月22日、総選挙投票日だ。台風21号が接近中である。早起きして投票所に行く。

 東京都知事の小池百合子氏が「希望の党」という右派政治結社的な新党を設立して以来、当地の最大野党「民進党」(民主党の後継政党)は大混乱中である。 小池氏は「希望の党」の「総選挙」方針として、大意で次の2点を公表した。

 ①民進党内の保守派を選別して希望の党に吸収合併する。リベラル派は選別排除する。 ②選挙後の政権構想としては(支持率低下の)安倍晋三総理には退陣していただく。 そして総選挙直前の時期に、民進党保守派の候補者に対し、小池氏の新党は「希望の党」公認を出した。公認基準は小池氏らが民進党側と協議して決め、候補者らはその基準の書面にサインし、「希望の党公認」を得た。

 一方、希望の党から選別排除された民進党リベラル派の候補者は、新党「立憲民主党」を設立し、同党候補として総選挙に出馬した。民主党設立以来の民進党幹部の現職議員らは、将来の旧民主党派の大同団結にむけて無所属で出馬した。

 総選挙は終わった。私ごとも書いておく。小選挙区では「国の大もとは農にあり」という農本主義思想の良き理解者である自民党・八木哲也氏に投票した。哲ちゃんが70歳であることを初めて知る。残る政治人生を山村過疎克服の研究に使ってほしいと願っている。

 比例区では「民主政治の大もとはリベラル派の健在にあり」と思い、新党「立憲民主党」に投票した。社会民主主義政党である旧民主党の大同団結を願う。 選挙結果は野党大分裂と自民善戦により「自公で3分の2」が続き、「立憲が野党で第1党」になった。

 分裂の裏側を初めて見た。分裂を仕組んだ人がいた。小池百合子氏はプロの政局人間であり、右派ポピュリスト(人気取り主義者)だと思った。希望の党の政治目標は二つとも失敗に終わった。そう評価される総選挙結果だったと私は思う。ご購読はコチラ.pdf

自民党『りぶる』女性月刊誌豊田市山間の農村舞台を特集  20017.09.08

八木衆院議員ら4氏が現地視察

 自民党本部(東京)の女性雑誌『りぶる』9月号が、豊田市山間地域の「農村舞台」を文化欄特集スペースのスペシャル・トピックスで、詳しく紹介した。

 この農村舞台というのは、昔から村芝居が演じられた村々の歌舞伎座のことだ。八木哲也衆院議員らの近年調査では、豊田市内山村部の神社境内等で84棟もの農村舞台(明治〜昭和創建)を確認。

 今年7月23日、文化立国調査会事務局長代理の八木哲也衆院議員は『りぶる』からの特集取材で、豊田市松平地区・六所神社、同石野地区・岩倉神社、同足助地区・諏訪神社の3つの農村舞台を視察した。

 この農村舞台調査には上野みちこ参院議員、平将明衆院議員、青山周平衆院議員も参加し、それぞれ各農村舞台の感想、今後の活用についての提案も語っておられる。「日本遺産」認定の議論できっと役に立つ。

 今年の「7月23日」という日は、足助地区の農村舞台「寶榮座」の(市民運営)協議会が事業スタートした歴史的な日。農村舞台寶榮座協議会の青木信行会長らは記念公演にハラプロ歌舞伎の名作『姥捨』を初めて自らの主催で上演、大入満員を実現した。

 自民党女性誌『りぶる』の3地区農村舞台訪問視察も足助地区・諏訪神社の「寶榮座」調査を最優先にした。

 『りぶる』調査団の八木哲也衆院議員ら4氏は、太田稔彦市長、青木信行会長らと寶榮座の客席から歌舞伎公演を見ておられた。

 八木哲也議員がいつか問題提起されるだろう「日本遺産」認定の話は『姥捨』から始まるのでは。あれはすごい歴史的舞台だった。役者の力量、舞台装置の水準、周辺風景が3拍子そろっていた。ご購読はコチラ.pdf

初上陸!橋の下世界音楽祭5年  2017.01.13

豊田市能楽堂満席 新春独演会

能楽堂.jpg 1月8日夕4時〜8時、豊田市駅前・参合館ビル8階の「豊田市能楽堂」舞台で、矢作川育ちのロックバンド「タートルアイランド」が、初の新春独演会を開いた。 豊田市能楽堂は定員460席。開会前にほぼ満席になり、やがて立ちみの観客もちらほら。大入満員の新春独演会。

 タートル(海亀)アイランド(島)という楽団名は「海亀たちが背中にのせて運んできた海砂で、島ができ、陸地が形成された」という神話由来という。

 このロックバンドは永山愛樹代表(41)=豊田市曙町・プロのミュージシャン=ら11人編成。周辺にほかの音楽家グループや多業種の仲間がすごく多い。

 これまで5年連続で豊田大橋下の河川広場で「橋の下世界音楽祭」を開き、国内各地とアジア諸国から多数の楽団と一回(2〜3日)1万人ほどの大観衆を集めてきた。

 大勢の職人仲間らで大舞台・小舞台・飲食売店群や太陽光発電所まで手づくり、自給自作の〝芸術村〟で世界音楽祭を開催してきた。野外宿泊のテント村もできた。今年も5月下旬、ここ豊田大橋一帯の野外広場で「第6回橋の下世界音楽祭」を開く計画が決まっている。

 最近ではタートルアイランドの和訳語『亀島楽隊』が普通に使われる。1月8日の「亀島楽隊」の能楽堂新春独演会は、野外ライブ育ちの亀島隊が矢作川から市街地に初上陸し、文化の殿堂入りした感が深い。

 その能楽隊の初舞台から代表の永山さん自身が満席の聴衆にむけ挨拶していた。「これはこれまでの私たちのライブスタイルに私たちが反逆したものです。この誤魔化しのきかない能楽堂でどこまでやれるか、自分を見つめてみたい」と。

 ロック演奏の門外漢の私にも彼らのウデの良さはわかっていた。もう1点。私らは広場を草刈り管理し、彼らに使ってもらっている。使う前よりきれいなゴミゼロの公園にして返してくれた。マナーが上等だった!ご購読はコチラ.pdf

子供は第一次産業で育った    2016.11.25 

人口過疎対策は山村農業の再生から

 今79歳の私が青年の頃、わが家の11人家族は今の豊田市東梅坪町の住民だった。父は古いトヨタマンで、祖父は荷車時代の運送業をしていた。

 祖母、母、子供7人が兼業農家の主な労働力だった。稲作の田植えをし、麦刈りをした記憶がある。牛、豚、山羊、鶏、各種野鳥を飼育し、養蚕も手広くしていた。農繁期にはトヨタマンの父も田んぼに出ていた。

 トヨタマン時代の父は土曜日の夜、ガス灯のカンテラを私ら子供に持たせ、ウナギなどの川魚の漁に出かけた。定年後は矢作川のアユ漁に凝っていた。 祖父は挙母・宮口の鉱山〜国鉄の岡崎駅間のプロの荷馬車曳きだったが、祖父は田んぼや川には出なかったと思う。酒を好んだ。

 トヨタマンの父は稲や野菜を自分で作り、牛、馬、豚、鶏、蚕も自分で飼った。第一次産業の中で育った世代であり、野生の生命への愛着を私らの世代に語ったのである。 さて、豊田市の山村では人口の過疎化が止まらなくなった。子供は昔から山村・平地を問わず、第一産業(主として農業)の中で育ってきたと思う。

 現状は第二次(工業)第三次(商業)に人は集まっているが、子供を育てるのは第一次産業(農業)の特技機能だろう。山村農業の崩壊を止めなければならないのである。

 本号2面にトヨタ労組と新盛里山耕流塾の共同事業で、足助北部・菅田和集落の耕作放棄地が激減したドキュメントを特集した。 次号1面のリレーエッセーに、鈴木章市議が市福祉政策面から山村人口減少対策を提案される。

 豊田市新盛町の小澤庄一元足助町助役が本紙連載の『小澤庄一日記』にて、足助山村の傾斜のきつい小農地用に「高性能・小型農業機械」の開発をすでに提案しておられる。

 以上のほか「あすけ聞き書き隊」事務局の髙木伸泰さん=豊田市則定町=が、去る10月14日の当紙リレーエッセーに、足助地区の「若者の意識変化と地域の活気」で、子育て世代の足助へのUターンの潮流が始まった、と報告しておられた。ご購読はコチラ.pdf

10月31日 都心東岸 豊田東高校1年生240人  2016.11.04

地域環境研究実習美しい風景を創る

1東高.jpg 豊田市御立町の愛知県立豊田東高校(今井清校長、生徒714人)は、矢作川左岸の隣地にある。

 その左岸延長1・5㎞区間は、NPO矢作川森林塾(硲伸夫理事長、会員約50人)が連続10年余も、密生竹林の伐採、樹木の枝打ち、草刈り、各種土木工事などを毎週土曜早朝2時間続け、優良整備地を創った。風景づくりと生物多様性の実現を重点に整備された。

 高校側は、そのNPO整備地を1年生全員240人の「環境づくり実習地」に指定した。今年10月31日午後、全員240人が現地を訪れ、整備地で整備のお手伝い、清掃、調査・研究などをやり、隣接小河川(加茂川)の魚道整備も観察した。

 高校生が8班に分かれて実習活動をした。NPO、豊田市矢作川研究所、国交省豊橋河川事務所、愛知学泉大学、市民団体も8班に分かれ、高校生のグループを指導していた。

 東高1年生の7割は女生徒。東高の「環境保全実習」授業は今後も永く続くと思われた。矢作川が華やいでいた。

 矢作川の都心西岸側では10月29日(土)、トヨタの「全寮ボランティア」117人が、川岸の「密生竹林」を手ノコギリで一本一本切り取る作業に挑戦していた。平均年齢22歳という青年ボランティアらは数千本伐採したのでは…。ご購読はコチラ.pdf

※本紙見出しが「豊田高校1年生240人」となっておりましたが、正しくは「豊田東高校1年生240人」です。

矢作川都市林と市街緑地を結ぶ  2016.10.28

1集合写真.jpg NPO矢作川森林塾(硲伸夫理事長・会員約40人)という河川ボランティア団体の10年(2005〜2014)の活動で、豊田市街地東岸(豊田スタジアム側)1・5㎞区間の水辺を覆っていた〝密生竹林〟が伐採され、矢作川の風景が明るくなった。堤防や公園から川の流れが見えるようになった。

 10年間に伐採した竹は推定10万本。NPO会員の平成27年度1年間の活動状況は、45日間・延べ1085人だった。

 10年間の活動で10万本の密生竹林の伐採を終了した現在、竹林伐採跡の竹の子刈り、雑草刈りのメンテナンスが続く。10万本の竹林伐採時も、メンテナンスは同時並行で続いていた。 密生竹林伐採時からNPO会員は驚きの日々だった。河川敷には起伏が多い。その高台部分では樹齢百年を超すようなエノキの巨木が洪水被害をまぬがれ、密生竹林の上部へ梢だけを伸ばし、気息奄々生きのびていた。横枝・下枝はすべて枯れ落ち、梢がつくるわずかな栄養だけで、巨木は生きのびてきた。

 10年間の密生竹林伐採の初期の頃のエノキの巨木は、すでに樹勢を回復。周辺では実生えの多種多生な小木群が急成長し、巨木を囲んで生物多様性の世界を形成している。エノキの巨木が現在の「矢作川都市林」に風格を添えている。

 以上は矢作川左(東)岸の話だが、右岸の豊田都心側の久澄橋下流域では、トヨタ社会貢献推進部(トヨタボランティアセンター)が超大型の密生竹林伐採活動を始めた。ここでも密生竹林の中からエノキの巨木が何本も姿を現している。

 12月29日11時〜14時には、トヨタの男女寮生80人が久澄橋下流に集まる。トヨタの密生竹林伐採ボランティアは今年が第4回目。次号で速報予定だ。

 豊田市街地の東西両岸で「矢作川都市林」と市街緑地をむすび、市街地の「生物多様」をどう実現するかという豊田市の都市計画上の課題が、矢作川のボランティア活動から提起されているのだ。ご購読はコチラ.pdf

豊田は「渡り蝶」の中継地 2016.10.21

アサギマダラが豊田の自然守る

 日本全国で「渡り鳥」の存在は広く知られている。ツバメが代表例だ。海洋を超え遠距離の渡りをする。

 これに対し「渡り蝶」の移動は海洋を超えても近距離である。秋は国内の北の繁殖地(東北地方など)から国内の南の繁殖地(沖縄地方など)へ「南下コース」の渡りをする。

 春は逆に国内の南の繁殖地から国内の北の繁殖地へ「北上コース」の渡りをする。

 このように「国内渡り」をする蝶は、日本ではアサギマダラ1種だけだという。春の北上コースの渡りはまだ未解明な分野がある。

 いま進行中の「秋の南下コース」の渡りには、豊田市のほぼ全域がコース内に入っていると思う。毎年10月初旬(10月10日頃)にアサギマダラの飛来が始まり、同中旬頃までが最盛期だと思われる。

 豊田市旭地区は地元グループによる観察・保護活動が盛んだが、今夏はこれとは別に研究者(豊田市森林課・北岡明彦さん)によるアサギマダラ生態講演会があり盛況だった。

 北岡さんはアサギマダラを増やす具体策を語った。旭地区からも参加していた。旭の事業が前進するだろう。

 豊田市の足助東南地域の萩野自治区は、地域が所有管理している「歌舞伎座」の再生策として、美しい自然風景を守る中で、地域文化の核を創る方針を語っていた。

 これまでの山村振興対策と言えば、公共事業による施設誘致や道路整備が中心だったが、今回初めて足助地区や旭地区で、地域文化の確立や、自然・風景・生物保護が地方創生の課題に位置づけられそうである。

 特にアサギマダラという「渡り蝶」の保護策、つまり野生生物の生命保護が山村振興の課題になっていることを知り驚いた。新鮮な驚きだった。 これまでの山村地域は、森でも水田でも畑でも、野生の生命をおろそかにしてきた。

 渡り蝶のアサギマダラは他所から飛んで来る生物で、自生ではない。しかし豊田の自然が健全でなければ渡り蝶は豊田に来ない。山村の地方創生課題に送られた使者であるような存在でないか…。ご購読はコチラ.pdf

足助太鼓も彼岸花の会も20周年 2016.09.30

 最近の豊田市の市民行事では、子どもの参加が多くなってきた。それが市民活動の一つのステータスになっているかのようである。

 新しい例では目的意識的に後継者育成をめざし、それに成功している子ども参加の事例もあった。

 多くの場合、子ども参加で地域活動が実際に活発になっているし、子どもらに多様な生活体験をさせておきたいという希望が親にはある。市民行事に子どもの参加がふえている理由であろう。

 去る9月17日足助交流館で、三州足助太鼓20周年公演があった。第Ⅰ部は大人太鼓(17人)公演、第Ⅱ部は子ども太鼓(21人)公演、第Ⅲ部は大人・小人の合奏公演だった。

 三州足助太鼓とは大人の楽団名だが、彼らは翔という名称の小人楽団を一人前に育て、舞台演奏をさせた。特に大人・小人の合奏公演が素晴らしく、会場は大拍手を贈った。後継が育っているという安心感があったのだ。

 豊田市街地の逢妻女川彼岸花育成会も今年20周年を迎えた。彼岸花の花の数はおよそ150万本。雨の多い日が続いたが、9月25日の花見会当日は曇天の絶好の花見日和で、赤い花々が近年で一番美しく咲いた。

 特設の花見席では、地元の小清水・朝日小の子ら10人程で抹茶を野点してくれた。花見会場が華やいだ。会場のテントは逢妻中生らが設営してくれた。

 150万本の彼岸花の会の人々は高齢者が多いのだが、近年の小中生の登場で花見会が明るく輝いてきた。

 同じ9月25日、豊田足助地区の新盛町で、トヨタ労組主催(地元農業団体・新盛里山耕流塾協力)の第7年目稲刈り体験。労組員家族約百人が参加する恒例の農業体験行事だったが、参加者の約3割が子どもだった。

 去る9月10日矢作川豊田大橋下(東岸)にて「矢作川感謝祭」という環境系の市民行事があり約600人が参加したが、やはり子どもらが3割はいた。

 昔々は大人と小人の遊び場は別々だったと思うが、今は一緒のことが多い。評価は難しいが、子ども参加で行事が活発化した。ご購読はコチラ.pdf

源美しい村づくりコンテスト考 2016.09.16

 あるドイツ人農婦の思い出の記を書いている。短文で書けるのだが、20年も前のことで記憶喪失がある。

 私たちは豊田市役所から「ヨーロッパ市民農園事情」調査に出かけたのだが、途中下車してドイツの小さな山村の一軒で「美しい村づくりコンテスト」を見聞したのである。

 その家の中も庭も畑も生垣も良く手入れされていたのだが、庭で遊ぶ子供の数が多いのに驚いた。かれこれ10人位いたか。何匹もの乗用馬が小屋につながれ、無数の羊が放し飼いにされていた。おバアさま風の一人の農婦が、人の子も家畜も一緒に世話していた。

 ジイさまは近くにいたらしい。子供の父母は家にいなかった。サラリーマンだという。

 家々、畜舎、庭、畑、それに周辺の林も良く手入れされていた。バアさまが「山村は美しくなければ生きていけないからねえ」という。

 子供の少ない家は村の未来への貢献が小さい。家畜が少ない家は村の観光計画に寄与が少ない。「美しい村づくりコンテスト」の基準に、子供や家畜の数の目標が書いてあるらしい。バアさまは「庭の美しさも、子供や家畜の数も〝美しい村〟の大事な要素です」と言っていた。

 日本の豊田市足助東部のことを書こう。

 その東部の萩野自治区(青木信行区長)には、明治30年創建の「宝栄座」という超一級の歌舞伎座が現存している。最近は歌舞伎の舞台も立つのである。

 しかし、この宝栄座は萩野自治区(7自治会・250戸)の中では一番小さい現在の怒田沢自治会が昔々に独自に建設、現在まで維持・管理してきた大型施設でまだ堅牢だ。

 日本の森林業全盛時代の明治〜昭和、怒田沢は大集落だったが、今は12戸の小集落。

 怒田沢自治会は萩野自治区に対し「宝栄座」の移管を申し出たという。受ける自治区側も前向き姿勢らしい。

 自治区側が「萩野のまちづくり方針」「宝栄座の再生策」をどう出せるかの2点が、今後の課題だと思う。ご購読はコチラ.pdf

源氏蛍の幼虫の餌の川蜷を飼う 2016.06.03

コンクリート壁の樋田川を完全管理

 豊田市御船町北部の込行集落に、樋田川という不思議な川がある。魅惑的人格の不思議な人々も住んでいる。樋田川のほとりの集落のまんなかに、彼岸系と見られる一本桜がある。込行の目印だ。

 樋田川は自然河川ではない。コンクリート直壁2面張りの農業用水路。川幅も直壁の高さも1mほどだ。市役所の河川合帳にはのっていたが、源氏ボタルの大発生が始まるまで、そんな河川名は知られていなかった。

 さて、2009(平成21)年6月1日、込行の一本桜の周辺で源氏ボタルの大発生が確認された。それから今日まで大発生が続き、今年は空前の大発生だった。

 今年の矢作川は「空前」が多い。矢作の天然アユ遡上1千万尾は観測史上空前。橋の下世界音楽祭の観客数1万人も空前。密生竹林伐採のトヨタボランティア参加者数も空前の規模になりそうだ。

 5月28日(土)夕の樋田川ホタル愛護会主催の第2回ホタル祭り参加者は約5百人。第1回目の2倍位か。

 樋田川ホタル愛護会の会員数は現在、込行集落、釣りクラブのババザル(地元の魚名)会、一般法人を合わせ20名。会長=澤田武(69)=豊田信用金庫OB。事務局長=澤田史朗(69)=トヨタ自動車OB。

 会長の責任ある仕事は、樋田川の流量と農業用水の取水量の水利調整。日常的にはホタルの幼虫のエサであるカワニナという巻貝に定期的にエサ(野菜クズ)を与え、巻貝を繁殖すること。巻貝の繁殖保護がそのままホタルの繁殖保護になることがわかってきた。

 今後は田んぼで使う農薬対策が大事。樋田川のホタル育成は田んぼとの共生をめざす。 事務局長の大きな仕事は、ホタル発生数の調査・記録。広報紙の作成や交流館などへの配布も大変である。

 樋田川のカワニナ・ホタル育成は、水田の稲作と共生しなければならない。樋田川の土手はホタルの幼虫がサナギになる場所だから特に大事である。

 今年、樋田川ホタル愛護会として、幼虫がコンクリート壁を登りやすくするため、川の花飾りを兼ね花苗を入れた竹づつをコンクリート壁に立てた。ご購読はコチラ.pdf

魚の繁殖と子供の安全が課題 2016.05.13

もっと川に魚を危険予防対策を

 私たちの子供時代や青年時代に比べると、ウナギやシラハエなどの「雑魚」と呼ばれる魚種が明確に減った。原因は一般的に言われる河川環境の悪化(水質汚濁中心)ではないだろう。水質汚濁は下水処理施設の普及でおおむね解決した。しかし雑魚は回復していないと思う。

 私は猿投山の南西部に水源を持つ愛知県管理の支流「篭川」を念頭に、これを書いている。私たちの青年期後半から、今の豊田加茂建設事務所が篭川の大改修をした。改修前の篭川は深い渕と浅い速瀬が連続的にある、まさに雑魚の宝庫だった。

 深渕は川が急カーブする位置の堤防に接近してあった。その河床の深掘れは堤防を下部から決壊させる原因と判断され、すべて埋め立てられたのだが、実はその深掘れ=深渕こそがウナギ等々の大型雑魚、シラハエなどの一般雑魚類の絶好の棲みかだった。

 当時の愛知県豊田加茂建設事務所は深渕をまず土砂で埋め、二度と深掘れが起きないように、埋め立て土砂の上にコンクリート護床工を張ったと思う。

 私は深渕を土砂で埋める現場を見た。太いウナギが何本も跳ねあがって逃げまわるのを見た。ブルドーザーを運転する作業が「無残!」と言っていた。

 当時すでに、河床の深掘れに対する堤防保全対策と、魚類の生息場所確保の両立は、土木技術上は可能だった。深渕と堤防の間に護岸壁の根を深く打ち込めばそれで良かった。

 そこまでは同建設事務所の技術者らと話ができたのだが、結局、当時の標準工法が採用され、篭川の雑魚は激減した。しかし、深渕埋め立ての上に打設したコンクリート護床工をはがし、篭川の河川環境を回復する時代は、意外に早く来るだろうと思っている。

 次は矢作川上流地域の子供安全対策について書きたい。1999年、中部電力と矢作川漁協の歴史的妥協で矢作川の小渡・笹戸地区の〝水のない川〟に流れが回復し、今日のアユ釣りのメッカが誕生した。同地域の川に残る〝ガリ漁の針〟対策を、子供の安全面から考えたいのである。ご購読はコチラ.pdf

政党が戦わぬ豊田市長選の保守選対 2016.02.12

 近年の豊田市長は前にも述べた通り、4人連続で市役所幹部出身である。
 5代市長西山 孝
 6代市長加藤正一
 7代市長鈴木公平
 8代市長太田稔彦
 右の4人の市長選を支えてきたのは、今の名称で言えば市議会の自民クラブ、市民フォーラム(民主系)の2議員団でつくる与党連合である。公明市議団も閣外協力的に市長選を支えてきた。

 7代鈴木公平市長の時に「21世紀の会」という現職保守市長の後援組織がスタートし、市議会自・民2与党もその傘下に入った。

 さて、今回市長選のことである。21世紀の会擁立の保守現職の太田稔彦(61)と共産系新人の無所属同士の対戦になった。前回は無投票選挙で現職も知名度が低い。共産系も強そうでない。前々回49%の投票率が30%台に落ちる危機感があった。

 保革対戦効果に期待できる相手ではない。保守連合選対の中心は自民系地域と民主系連合労組だ。その保守選対で独自に「投票率50%・得票率80%」の目標を設定。出陣式や決起大会、31日〜月6日市内24中学校区の全個人演説会場への有権者動員計画を綿密に立てた。得票目標も実数で「13万票」と明確に決めた。渡辺事務長、杉浦本部長、三江事務局長体制の与党選対は「13万票」をずばり実現した。

 今回市長選の特徴は、戦略目標的な論点(保守政権維持)があって、小目標的な争点(個々の政策)はない選挙と位置づけ、個々の政策論戦には応じず、それは市議会での論戦で対応することにした。個人演説会場では地域ごとの課題や市財政問題などの大目標、論点の説明があった。

 7日夜の開票結果を見ると、保守連合選対側の予想が当たっていた。対戦相手の共産系無所属の田中勝美氏は、前々回選挙の同派の実績から9284票(約32%)も得票を減らした。それが市全体の投票率が50%を割った大きな理由になっていた。7日開票日夜、大村義則市議が共産系候補の不振の理由を分析すると述べていた。ご購読はコチラ.pdf

政党ぬき豊田市長選のジレンマ 2016.02.05

地民党の理想がかすみゆく危機

 近年の豊田市長は次の通り、4人連続で市役所幹部出身である。
 5代市長西山 孝
 6代市長加藤正一
 7代市長鈴木公平
 8代市長太田稔彦
 今の豊田市長選は政党の候補者推薦を一切受け付けない。いつからそうなったのか、よくわからないが、市長選からの政党排除は徐々に進んだと思う。

 民主系は、市長選は政治的に無色の市官僚から候補者を出すのがベターと考えた。候補選考過程から「政党排除」をしたい意向を持っていたと思う。

 これに対し自民党豊田市支部や市議会自民クラブ議員団は反対の立場であり、自民党で独自の市長候補を立てる方針も示した。官僚候補に反対だった。

 4年前の豊田市長選は無投票で現市長が当選した。そのほんの直前の時期に、自民クラは独自候補を立てようとした。名前も出た。

 民主・トヨタ労組系が猛反発し、民主党の中村晋県議を対抗馬に立てる意思を示した。自民に内乱もあり、自民は市長選を断念した経過があった。

 現在の「政党ぬきの豊田市長選」は、民主・トヨタ労組系が自民勢力を抑え込む過程で生まれた、豊田政界の今日的な姿だ。地域政党である自民には新しい政党文化を求める衝動がたえずある。

 21世紀の会が出した官僚市長の下で「保守系安定政権」ができ、地域に活力が生まれたという評価があるが、自民系にはそういう形式論に賛成しない勢力がある。

 民主系と分かれて自民クラブ議員団が独立した時、自民党を「地民党」の愛称で呼ぶ試案が出た。大地の政党、土のにおいのある市会議員を求め、そういう精神的バックボーン、地域政党の文化を創造しようとしたのである。

 政党排除した今の豊田市長選で保守安定政権の形は整うかも知れないが、地域政党の文化が弱まるかも知れない。地民党の理想主義がかすんでゆく危機もある。ジレンマである。

 豊田市長選は豊田市政の華であろう。政党競争は地域の活力の源泉でもあろう。21世紀の会の政党排除は永遠ではあり得ない。ご購読はコチラ.pdf

川の風景論は河川環境の中心課題 2016.01.08

都市の川の風景・村の川の風景

 川の風景を見つめれば、その川が年々改良の手を加えられて使いやすくなっているのか、昔々のままの姿で長年放置されて人も近づけない情況にあるのか、すぐにわかる。

 県管理河川でも市管理河川でも後者が圧倒的に多い。コンクリートブロック直壁護岸が、人の近づけない構造のまま古びてしまっている例が多いのである。

 豊田市高岡地区の逢妻男川で例外を見た。名鉄若林駅から下流一帯に河畔林が続き、それが大きく成長していた。その樹林のすぐ横の水辺を女性らが何人も歩いていた。去る12月の暖かな日だった。

 それより上流の竹村駅付近では近自然改修が進行中で、川の中に大人の釣人たちがいた。下水道整備や工場排水浄化の効果で、水質は矢作川本川並みになっていた。

 もう一つ驚いたのは、逢妻男川左岸沿いに大きなビオトープ公園ができていたことだ。支川の初音川の洪水をいったんビオトープに導入し、少しずつ逢妻男川に流すのだそうだ。

 ビオトープの土地台帳地目は「調整池」で、管理者は市河川課だった。河川課長がビオトープは市河川課と矢作川研究所の共同作品だという。地元の「愛護会」がビオトープ管理に参加していた。

 その関係者やらマラソンランナー、釣人らでビオトープ付近はにぎわっていた。逢妻男川で初めて、大人の男女が活動する「川の風景」にめぐり合った。 逢妻男川は西三河の中小河川だが、長い河畔林、大型のビオトープ(洪水調整池)、近自然改修、住民の愛護会活動で成果を上げている。豊田市高岡地域の逢妻男川は別格の存在だと思った。

 ほかの中小諸河川の「川の風景」は概して貧しい。その「川の風景」の貧しさを矢作川研究所が研究しなければならない思い、あちこち歩いた。その時に「初音川ビオトープ」に遭遇したのである。

 初音川ビオトープという名の洪水調整池は、すぐ西方の逢妻女川にも伝染し、事態を改善していくに違いない。「川の風景」は河川環境の中心課題である。矢作川研究所は眠っていてはいけない。ご購読はコチラ.pdf

経済成長期は桜並木に悲運 さくら「青春日記」35歳の頃③ 2015.10.16

ヨソ者・ワカ者バカ者の心意気

 自分は昭和30年前後の最盛期の平戸橋の桜並木を見ている。60年も前の高校生の頃だった。その記憶を今も大事にしている。

 平戸駅で電車を降り、花見客でにぎわう平戸橋駅前通りの桜のトンネルをくぐり抜け、枝下用水堤防の桜並木の下を通り、前田公園の方へ歩いたと思う。

 さらに先の越戸発電所奥地の桜並木の方へ行かなかった。これははっきりした記憶だが、花見の大雑踏の中で自分一人孤独だった。18歳の記憶だ。

 平戸橋の桜並木の歴史にふれておきたい。18歳の頃に自分が見たのは樹齢30年ほどの元気な桜だったと思う。平戸橋勘八峡保勝協会が昭和初期に植えたものだろう。

 勘八峡保勝協会は戦時中に自然消滅したと言われる。戦後に本多静雄さんや地元の有識者らが新しく観光協会を設立し、戦前からの桜並木を再興した。高校生の自分が見たのはこの桜並木だったのだ。

 それから時間が経過し昭和48年、当時35歳の自分は平戸橋の桜並木(延長2㎞余、推定4百本)に再会した。

 まだ経済高度成長が続き、市民は働くのに忙しく、矢作川や伝統文化、桜並木の運命などへの関心を失っていた。そういう悲運の「空白の10年間」の最後の頃に、平戸橋の桜並木に再会したのである。

 すでに道路幅が狭い平戸橋駅前通りの並木は崩壊状態で、再生困難と思われた。続く枝下用水堤防と発電所奥地には戦前から古木が多くあり、古木の手入れと若木の補植で回復可能と思われた。

 当時の東加茂郡足助町の街づくりはワカ者とヨソ者の発想を大事にしていた。特定課題に無我夢中になるバカ者人材を大事にした。その影響を受けた。

 悲運の「空白の10年間」に活動したわが桜グループ(約10人)も、当時35歳の自分が最年長で、ヨソ者や無我夢中タイプが多かったと思う。桜並木の歴史を調査し、補植や草刈りをし、花見で酒をよく呑んだ。

 猿投の「桜並木」記録は、いま読むと桜グループの「青春日記」だったと思う。空白の10年が終わり、昭和末期から地元グループの桜並木愛護の大活躍が始まっている。ご購読はコチラ.pdf

自民リベラル崩壊・安保法が成立 2015.09.25

 9月19日未明参院本会議で、自民・公明の与党提案の「安全保障関連法案」が賛成148、反対90、退席2、欠席1で成立した。

 2与党のほか、次世代、元気、改革の中間3党が賛成。民主、維新、共産、社民、生活5野党が反対した。

 憲法9条は国際紛争を解決する手段としての自衛隊の武力行使を禁じているが、与党は解釈改憲で米軍と自衛隊の共同作戦を認める安保法を成立させた。

 世論調査では国民の圧倒的多数が与党の安保法に不賛成で、国会周辺で10万・全国で百万人の「戦争法案反対」の大規模デモが続き、非政治都市の豊田の市街地でも3回の反対パレードがあった。

 1960年当時の昔の安保反対闘争が全学連や労組の動員デモであったのに対し、今回の戦争法案反対デモはネット情報で集まる個人の自主デモだ。

 安保法成立後も大規模デモが続き、「安保法違憲訴訟」や「デモに行こう!参院選挙にも行こう!」という方向へ発展しそうな様相だ。国民運動の質が高度に政治化・民主化されてきた。新聞にも前大戦を煽った報道への反省がある。

 国民運動の考えはこうであろう。日本は安保法の「軍事外交」により中国との軍拡競争に陥ってはならない。日本は憲法9条による「平和外交」を構想しなければならない。

 1960年安保反対闘争当時、全学連や労組などの左派は反米路線一点張り。平和憲法擁護派の自民党リベラル派(宏池会)も米軍頼み一辺倒の安保路線だった。自民リベラル派も民主も今日に至るまで「憲法9条外交」を構築できなかった。 その「安保政策不在」の間隙をぬい自民軍事外交派=普通の国派=の安倍晋三首相が登場、今回集団的自衛権を法制化したのである。

 安倍政権の試金石は沖縄問題の解決であろう。沖縄(琉球)は江戸・明治期、日本の植民地だった。そして今は中国国境の最前線地域。沖縄辺野古へ日本の新軍事基地建設は単純な内政問題ではない。外交問題の要素をはらむ。沖縄の自己決定権を無視しては解決できないだろう。ご購読はコチラ.pdf

父帰る・伯父はシベリア抑留  2015.09.11

 当時の挙母町(今の豊田市)大字梅坪のぼくの家は8割自作2割小作地で、兼業農家だった。父は戦前からトヨタ社員、祖父は挙母・岡崎間の荷馬車曳きだった。子どもが7人いた。

 父は広島県呉軍港に徴用されたが敗戦直後無事帰った。爆弾を背負い海岸の穴に潜んでいて、米軍戦車の下で特攻自爆する役だったという。敗戦のすぐあとに原爆被災地経由で梅坪に帰ってきた。

 父は海軍の特攻要員だったことをぼくらに長く話さなかった。ぼくの質問に「米軍の戦車の下にもぐってハゼル役」と答えただけで多くを語らなかった。屈辱の思いがあったのだろう。

 母の一族は瀬戸物生産で好況の瀬戸市に移住していたようだ。母の父母、兄、弟が瀬戸にいた。 その一人の母の弟のことをぼくらは「満州の伯父さん」と呼んでいた。日本陸軍の関東軍将校だった。軍服や軍靴、軍刀などをぼくの母の家の倉庫あてに送ってきた。その隣りの一室がぼくの勉強部屋だったので、倉庫はぼくが管理した。倉庫は大きな蚕室の2階の一角にあり、窓のない暗い部屋だった。ヘビが棲んでいた。

 満州の伯父、つまり母の弟が瀬戸の自宅に戻り、梅坪のぼくらの家に姿を見せたのはいつだったのか。小学2年生が終戦の年だったが、それに続くぼくの中学時代、伯父はソ連軍の捕虜としてシベリアに抑留されていた。

 高校生時代、ぼくは反戦平和の左派青年になっていた。小学生の頃に戦争を知った影響があったのかも知れないと思っている。

 シベリア抑留生活が終わって瀬戸に帰った頃に、伯父は梅坪の蚕室の二階のぼく部屋に一人で上がってきた。母はぼくが共産主義者になっていくのを怖れ、ソ連での恐怖のシベリア捕虜体験をぼくに話すように、自分の弟にたのんだのだと思った。

 「ソ連の共産主義は理想の国なんかではない。スターリンが支配する独裁国家だ。自分が体験した事実だから間違いない」と言った。

 ぼくは母の弟である伯父を愛していた。その後の大学自治会、職員労組、漁協時代をほぼ無党派ですごした。シベリア抑留の伯父の影響だったと思う。ご購読はコチラ.pdf

挙母小通学路は米軍機コースに  2015.09.05

 昭和20(1945)年8月15日正午、当時小学校2年のぼくらは昭和天皇のラジオ放送で日本の敗戦を知った。

 その直前の頃に、梅坪集落から挙母小学校へ向かう通学路で、ぼくは米軍艦載機グラマンから機銃掃射された。

 その記憶のグラマン飛行コースはどこで、時期はいつだったのか。最近通学路を走りながら、それを特定しようと思ってきた。

 今年の終戦記念日の頃に現場を歩いた時、記憶が戻ってきた。グラマン戦闘機が迫ってきた時、ぼくは田んぼの中のニオのかげに逃げ込んだのだった。

 ニオというのは、稲の収穫のあとの藁を保存するために作る円錐状の藁の作品。晩秋から翌早春まで田んぼにあった。

 ぼくがグラマン戦闘機来襲から逃げ、通学路沿いのニオのかげに隠れたのは、小学1年生(終戦前年の昭和19年)の晩秋から小学2年生(終戦の年)の早春の頃まで、と推定できたのである。

 ぼくのすぐ下の弟は3歳若い。グラマン戦闘機が伊保原海軍飛行場(今の豊田市浄水町)の爆撃を終えて梅坪に飛来した時には、麦畑に逃げたという。晩春の記憶なのだろうが、弟もぼくもグラマンが子供らを執拗に撃ってきたという記憶が全くないのである

 犠牲者が出なかった。グラマンは急降下し、ぼくらの足もとを機銃掃射し、飛び去っていった。にやりと笑っていく飛行士もいた。通学路のその位置に石の地蔵さんが祀ってあったから、鮮明におぼえているのである。

 昭和20年8月15日の終戦で、ぼくらの戦争記憶はぷっつり消えた。挙母小学校の運動場は、戦時中の食料生産の場から武器弾薬の廃品置き場に変わった。ご購読はコチラ.pdf

小学2年生の戦争体験を語る  2015.08.28

 昭和20(1945)年8月15日朝、昭和天皇がラジオで終戦の言葉を述べるので、子供は矢作川から上がれという知らせがあった。

 当時の挙母町(今の豊田市)大字梅坪の街には菓子屋と酒屋と饅頭屋があった。正午に饅頭屋の土間の庭でラジオ放送を聞いた。

 ラジオの雑音がひどく、昭和天皇の言葉は何もわからなかった。上級生だったか大人だったかの説明で、戦争が終わったことは理解できた。空襲警報のサイレンで防空壕に逃げ込み、また三河地震で防空壕から逃げ出すようなことは、もうなくなったのだと思った。

 当時小学校2年生のぼくらはすぐに矢作川に戻り、また川で遊んだ。ものすごく暑い日だったと覚えている。 終戦直前の夜、米軍B29の夜間空襲で、西の名古屋市上空や南の岡崎市上空が赤く焼けていた記憶がある。 梅坪集落の隣地に伊保原海軍航空隊の基地(特攻隊の基地)があり、米軍艦載機グラマンが早朝に基地爆撃に来た。その帰りにグラマンは急降下してきて通学路のぼくらを機銃掃射した。その飛行士の大きな顔を覚えている。笑っていた。

 戦況がきびしくなった頃、伊保原海軍航空隊の兵士2人がぼくの梅坪の家に民泊していた。脱走兵が出ると枝下用水の橋に機銃をすえ、脱走兵の逃亡を防いでいると話していた。

 10年近くの歳月がすぎた。ぼくは反戦平和の高校の左派青年になっていた。日本陸軍の関東軍将校だった叔父(母の弟)がシベリア抑留から帰還し、「ソ連は良くない国だぞ」とだけ言った。

 母が自分の弟に反戦左派青年の〝共産化〟を防いでくれと頼んだのであろう。後日談を書こうと思う。ご購読はコチラ.pdf

「一国平和主義」と「集団的自衛権」の2大潮流  2015.08.21

 自民党内には、保守本流で一国平和主義派の旧宏池会系と、保守右派の清和会系の2大潮流があった。派閥対立に不熱心な旧宏池会系が敗退していった。

 今では安倍晋三総理が属する旧清和会系が自民政治家の多数派で、日本の自衛隊と米軍の共同作戦による集団的自衛権を主張している。集団的自衛権の行使は憲法9条の下でも可能だという解釈改憲論だ。

 旧宏池会幹部では、自民党元幹事長で日本遺族会事務局長の古賀誠氏(74)や、自民党元総裁の河野洋平氏(78)らが、今も憲法第9条を守る護憲派・ハト派だ。しかし彼らは情緒的な一国平和主義の域から出ようとせず、「一国平和主義」理論の国際化に全く不熱心だった。

 河野氏も古賀氏も戦災体験や遺族の戦没死などを体験した世代であろう。安倍総理らの戦争を知らない自民党の若い閣僚世代とは戦後の平和主義への評価が違うと思う。

 河野氏は私と同年齢である。古賀氏はもう4歳若い。私たちは銃をもって戦ったという意味での戦争体験者ではない。しかし「戦う日本」とか「積極的平和主義」とかいう言葉の軽薄さ、危険さや愚かさを理解できる。

 私の住む集落近くに日本海軍の航空隊基地があり、爆撃を終えた米軍のグラマン戦闘機が遊び半分のように急降下し、通学路の私ら子供に機銃掃射した。終戦直前のことだ。

 あれから70年過ぎ、当時8歳の小学2年生が78歳になった。いま戦後何回目かの安保論争が起きているのだが、日本の政治は憲法第9条の下での「平和主義」の理念の刷新や国際化をサボってきたと思う。

 安倍政権から積極的平和主義にもとづく「戦う日本」づくりをつきつけられ、「一国平和主義」の原点を国民が考え始めた。幸い日本のジャーナリズムには先の大戦への反省がある。世論も平和憲法を守る方向だ。

 安倍政権の右派路線が反面教師の役割を果たしている。日本の平和憲法をアジア諸国の平和憲法へ、国連の平和憲章へ発展させるのは日本国民の課題なのだが、進路確定に大議論が必要だ。ご購読はコチラ.pdf

アジアと共に歩む平和外交を大事に  2015.07.24

 戦後日本の平和主義は、国際紛争を解決するための国家目的としての戦争を放棄し、憲法9条で戦力不保持を宣言した。

 この平和憲法は第二次世界大戦の戦勝国である米・欧・露・中が日本に押しつけたというよりは、ドイツと並んで大戦の主要侵略国であった日本が大戦への反省から不戦を誓い、戦後の平和外交構築を希求したものと考えた方が歴史の真実に近いと思う。

 日本の都市市民、特に沖縄島民の戦争被害は大きかった。ところが戦後の日本の政治家たちは、戦争の自国民被害を早く忘れてしまった。アジアの国際関係の中では、米国の軍事力で日本を守ってもらおうとした。最近は「戦う日本」をつくり、米軍の軍事力を補完しようとしている。

 中国対応一つを取ってみても、憲法9条の平和外交は日本の田中角栄首相・中国の周恩来総理時代までだった。2人は尖閣領土は「当面タナ上げ」としたが、この日本の平和外交の〝芽〟も日本・民主党の尖閣国有化宣言で終わった。

 戦後の日本政治の自民系派閥では、故岸信介元総理とその孫の安倍晋三現総理が明確な自主憲法制定派だ。故吉田茂元総理や故田中角栄元総理らは総じて憲法擁護派だった。

 その点で安倍現総理は異色の存在だ。まだ憲法9条改正原文は提示していないが、7月16日衆院本会議で、自衛隊法改正などの解釈改憲の諸法案を強行可決した。

 確かに集団体的自衛権は個別的自衛権の隣り合わせに存在するものであるが、そこが憲法改正の急所でもある。解釈改憲などの姑息な手段はよくない。憲法の品格に傷をつけたのである。

 日本は平和憲法をもってから70年近くも、中国、韓国、台湾、香港諸国などと平和善隣外交の原則を確認し合ったことがない。「戦う国」の未来は危うい。平和善隣外交が憲法9条の優先課題だろう。

 今回の安保法案の衆院強行可決で、内閣支持率が急落した。戦後の平和主義の原点を国民が再確認しようとしているかのようだ。日本は安保法案の廃案と、アジア各国との平和外交確立へ進まなければならないと思う。ご購読はコチラ.pdf

人馬パレード再現と地域のミライ  2015.06.12

 豊田市役所企画政策部所管事業の「ミライのフツー・チャレンジコンテスト」の第一段階が終了した。

 市民・企業からの応募は40件。その半数の20件が市民事業として採択された。市がら各事業に交付される支援金(補助金)の額も決定された。最高賞は百万円2本で、20件総額は千五百万円だった。

 この20事業の中で伊勢神峠を愛する会(朝倉和夫会長、会員約30人)主催の塩の道の「人馬パレード」再現計画は、目立つようで目立たない存在だった。その位置が「14位入賞・支援金60万円」の審査結果に表れたと思う。

 四半世紀前の平成2年(1990)、旧足助町役場が町制施行(明治23年)百周年を迎え、その記念事業で足助・塩尻間の全行程を昔の中馬装束で人馬を往来させた。

 その中馬再現の状況を足助のツカサカメラ写真館の宇井司郎さん(82)が撮影していた。塩俵をのせた中馬が塩尻に向けて足助市街地から出発する風景である。現足助副支所長で当時町職員の小池美代志さんが馬方として歩いている。

 今回の伊勢神峠を愛する会の「人馬パレード」計画は、小池現副支所長らが歩いたであろう足助〜塩尻コースを大幅に縮小する。今年10月8日、北上コース班の人馬は足助旧市街を、南下コース班は稲武旧市街地を歩き、自動車交通混雑のR153はトラック輸送。

 南・北コースとも伊勢神峠付近で再び人馬行進に移り、急峻な伊勢神古道の峠道を登りつめ、山頂付近の伊勢神宮遥拝所前に南北が集結する計画だ。 

  コースが大幅に縮小されたとは言え、人馬歩行コースは各5㎞はある。数百人の地元勢や観光客が同行する。大型のハード事業になる。ソフト事業中心のほかの提案とは違う。

 この人馬パレードの現代的意味は何なのか。主催者側は足助〜伊勢神峠〜稲武の観光スポット化=地域振興を予想する。塩の道の江戸明治と現代とミライをつなぐ、人の生活哲学、山岳信仰等々の核心が今は欠けている。伊勢神峠派の記者らが日々考えている事だ。ご購読はコチラ.pdf

ヨソ者・バカ者・若者を大事に  2015.05.29

 大正末期、時の足助町長深見林右衛門は地元青年有志らと共働し、今の足助・飯盛山の杉桧を伐採し、楓の成木を植え、香嵐渓の紅葉の礎を築いた。昭和5年、詩人の野口雨情らが登場して「香嵐渓」の銘名が成立し、足助の美しい景観づくりが進んだ。

 右は足助観光の「近代史」だが、これに続く「現代史」は足助観光の発展期で、町営の手仕事館「三州足助屋敷」、高齢者の保健・宿泊・レストラン施設「百年草」や、民営の観光施設「一の谷」などが続々誕生し、有名無名の人々の多様な活動があった。足助観光の「哲学」が誕生した。

 足助町元助役で前々足助観光協会長の小澤庄一、同前会長の縄手雅守の傑物2氏の活躍で、現在の「観光足助」は築かれた。小澤庄一著『あすけ草の根の人びと』(観光協会出版)に詳しい。著者の自伝的なエッセー集だ。 その中で小澤氏は様々な名言を紹介した。

 足助観光協会は「ヨソ者・バカ者・若者を大事にせよ」と。これは一般論的指摘かも知れないが、直接的には、福岡県遠賀川流域出身、立教大学観光学部卒、東京の財団法人日本観光協会から旧足助町がスカウトした縄手氏への、小澤氏側の讃歌ではなかったか。

 縄手氏は若き日々の昭和60年から、足助観光一筋に30年間生きた人。足助地内の中立に婿養子入りし、4人の子供を設けた。

 三州足助公社及び百年草の部長をつとめ、小澤観光協会長の後任会長に。今年5月総会で会長を退任にした。 縄手氏は香嵐渓のカタクリ自生地や中馬のひな祭りなどに巨大な功績を残した。小澤氏が退任を慰留したが、一途な生き方を変えなかった。ご購読はコチラ.pdf

野沢保先生とお別れの会 2015.05.15

1面・野沢さん写真.jpg 豊田市高町の市福祉村構成3団体の一つである社会福祉法人「無門福祉会」創設者の野沢保名誉理事長が今年3月27日、92歳で逝去された。家族葬が行われていたが、5月5日無門福祉会の「青い空」でお別れの会があり、無門学園の子供、父兄ら250人余が参列、全員が白い菊の花を献花しお別れした。

 3月28日の野沢保名誉理事長逝去に続き、4月22日には無門学園園長だった野沢恭子夫人が故人になった。5月5日に計画されていたお別れの会は、前理事長・前園長先生を偲ぶ会になった。

 今から30年程前、矢作新報創業の頃、世界的な地質学者の野沢保理学博士(東京帝大理学部卒、岡崎市出身)がまだ若き恭子夫人同伴で豊田市役所内の市政記者クラブに来られた。矢作新報社近くの市福祉村構想地内に、今の無門福祉会の心身障害者施設を開設する計画を熱く語られた。思い出すことができる。

 5月5日の「お別れ会」を主催した無門福祉会2代目理事長の三浦孝司県議は枝下用水土地改良区で事務局長をしていた。当時の県議は枝下用水土地改良区理事長の酒井鈴夫氏だった。

 同土地改良区には障害児の子を持つ母親が居て、その縁で酒井県議や三浦事務局長は、当時の可知功市議や岩月寿市議らと共に西山孝市長の市福祉村構想を推進した。

 福祉村構想は実現し、無門学園もできたが、野沢保理事長や野沢恭子園長らの創業メンバーはほとんど故人になった。 当時一番若かった三浦孝司氏は今県議5期目で、無門福祉会2代目理事長として野沢保初代理事長の業績を継いでいる。初代理事のたびかさなる指名があったと聞いていた。

 三浦理事長はお別れの会の冒頭のあいさつで、その下りを割りと詳しく語った。一人の土木技術者が「福祉の三浦」になっていく彼の人生行路が理解でき、いい話だと思った。ご購読はコチラ.pdf

有力候補の敗北理由は?  2015.05.01

豊田市議選終盤の4月24日夕、市南部の竹村小学校区の龍興寺の本堂で、旧みんなの党の青山聡さん派の個人演説会を聴いた。聴衆約百人は皆んな老人クラブの会員だろう。

 主催者席も老人が多い。酒井鈴夫、岩月寿、三浦孝司3県議の旧選挙参謀級ばかりだ。4年前の〝新党風〟で初当選した青山派は地元化していた。

 事務長が「2600票まで読めた。もう少し積む」と。正確な読みだと思った。結果は少し足りなかったが、同世代の名参謀たちを尊敬できた。

 4月25日午後、維新の党愛知の重徳和彦代表と市議選候補の鈴木規安さん(美里)が市駅前で街頭演説していた。豊田の街・森・川・農地をどう変えるかを語らず、「身を切る改革」の話が中心だった。

 鈴木さんの当選に不安を感じたが、前回衆院選の維新比例票は2万6千あった。その1割とれば当確と思っていた。

 しかし鈴木さんは惨敗した。豊田市議選には維新の党の微風も吹かなかった。わずか4年間で新党への期待はしぼんだようだ。

 梅坪台地区の11自治区はすべて、前市議後継の宮本剛志さん(浄水町)を推薦した。その宮本派の大海の中で、自民党籍をもつ紅一点候補の中西藤代さん(上原町)は「梅坪を教育と福祉のモデル先進地に」と訴えた。

 市議選中盤すぎまで、中西さんの風評は上がった。しかし、中西派は訴えのリーフレットを配りっぱなしで、集票活動=票読みをしなかったのではないか。

 梅坪台には逢妻地区のような、宮本派と中西派の地域地盤の境界はなかった。中西派の風評は上がったが地盤はできなかった。それを作る作戦本部もない、妙な選挙だった。ご購読はコチラ.pdf

自民党豊田市支部長交代の謎    2015.03.20

 昨年8月3日午前、豊田市福祉センター大ホールで、自民党豊田市支部の2年に1回の定期大会があった。当時党幹事長の石破茂氏が記念講演をするというので、会場は超満員の千人余が集まった。

 石破幹事長は集団的自衛権の熱心な推進者だったが、まだ国民の理解は得られていないという認識を示し、自民党が政権党になったのは相手の民主党がひどすぎるからだったと述べていた。

 定期大会の主議題は八木哲也衆院議員を次回は小選挙区で当選させるための「党員倍増計画」だった。現党員2千2百人を4千人に倍増する計画が承認された。 

 もう一つの重要議題は、自民党豊田市支部長人事だった。まったく唐突に、南部自民の総帥である三浦孝司県議(議長)を豊田支部長からはずし、倉知県議と同格の「支部常任顧問」に祭り上げる内容の人事案だった。

 八木哲也氏は選挙組織である愛知11区総支部の支部長である。その11区総支部長が豊田市支部長を兼任する案が出て来たのである。
八木衆院議員に11区総支部長と豊田支部長の権限を集中する案だが、権限集中で八木氏は不評を買うことはあっても、得票が増えることはない。

 大会の壇上では「三浦県議は議長に就任で多忙であり、常任顧問になっていただく」という説明があった。白々しい説明だった。議長は名誉職的色彩が濃く閑職である。多忙なのは党団長や幹事長であろう。 

 当時は倉知県議が12選出馬の情勢であり、三浦議長が5選出馬決断直前の時期だった。

 私の想像である。こんな状況の中で絶対権力者の倉知県議が「三浦さんは議長になりお忙しい。私と同じ常任顧問でどうか…」とどこかでつぶやいたのであろう。それで取り巻きの人や事務局が八木氏への権限集中案を作ったのではないか。

 自民北部総帥の南部総帥へ対する「クーデター」も元をただせば絶対権力者の無邪気な思い付きだったのかも知れない。会場の記者席周りの南部の人々は、執行部の人事案に強く反発していた。三浦県議は豊田市支部長に復帰するだろう。ご購読はコチラ.pdf

高さ1m コンクリート壁を登る   2015.03.06

 ウナギの仔魚のことをぼくらはメソと呼んだ。川の中を泳ぐ姿はまったく見えなかったが、川底を這うように泳いでいたのだろう。

矢作川に篭川という支流がある。その右岸がぼくの産まれ在所の豊田市東梅坪町、左岸が花本町である。そこに右岸と左岸をつなぐコンクリート直壁の大きな砂防ダムがあった。高さ1mほどだった。

 体長5〜6㎝メソの大群のダム超え風景は、感動を通りこして奇妙であった。当時の砂防ダムには魚道がなかったから、小さな魚体を空中にさらけ出し、コンクリートの直壁をよじ登らなければならなかった。

 高さ1mのダムと言えば、人でもハシゴを架けなければ登れない。メソたちの群れは自分らの魚体を団子状に固めてコンクリートの壁面にはり付き、自分の魚体でハシゴを作っている風だった。ハシゴの最上段のメソから順にダム上流の川に落ち込んでいたのだろう。

 これはぼくが小学校2年生の頃、つまり日本敗戦の昭和20年頃から数年間の、初夏の記憶であると思う。

 ぼくの矢作川の川遊びの記憶は小学校2年生になってからだ。低学年の頃は学校に余り行かず、夏は川で、冬は山で一人で遊んでいた。昔でも不登校児の数は少なかった。山や川での遊びはいつでも一人だった。

 その頃の記憶は鮮明だが、中学校に入ると学校の勉強を始めたと思う。川や山での一人遊びの記憶がもうまったくないのである。

付け加えておきたいが、初夏にダム超えしたメソたちは、田の草取りの頃の盛夏には水田でウナギに成長していた。ヤスで突いて獲り食用にした。メソはニワトリの餌だった。ご購読はコチラ.pdf

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筆者 新見幾男

syatyo.jpg 1937年5月11日挙母町大字梅坪字高宮5番地(今の豊田市東梅坪町8-18)に生まれる。岐阜大学農学部卒。愛知県立園芸試験場(臨時職員)、豊田市役所、新三河タイムス社を経て、1984年矢作新報社創業。矢作川漁業協同組合理事、豊田市矢作川研究所前事務局長・現幹事。月刊矢作川誌(休刊中)同人。著書に「ヨーロッパ近自然紀行」(風媒社)、「環境漁協宣ー矢作川漁協100年史」(共著・風媒社)。2012年1月社長職を引退、現在会長兼記者として取材に専念。
 記事の得意分野は地方政治、地方行政、矢作川の河川環境。好きな小説家は井伏鱒二とミハイルショーロホフ。座右の銘・井上ひさし語録「難しいことをやさしく/やさしいことを深く/深いことを愉快に/愉快なことをまじめに書くこと」。アユ釣り、酒、犬、園芸が好き。

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