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バレエ人生50年邁進記 ドンキホーテと呼ばれて(改題しました)

豊田バレエ学校校長 諏訪 等

番外篇

黒い塊…中国編

 名古屋で唯一の国際バレエ&モダンダンスコンクールが3年に一度開催されています。このコンクールに参加するために来名した北京学校の生徒が、リハーサル施設を探していました。

 鍛冶屋百合子さんから連絡を頂いて、すぐに豊田バレエ学校を提供いたしました。鍛冶屋さんのお父上はお仕事の関係でよく中国に行かれていました。そういうこともあり、中国チームのために何とか力になろうとしておられたのかも知れません。

 私はその時の練習風景を拝見しませんでしたが、参加者は全員入賞しました。鍛冶屋百合子さんも後に上海バレエスクールに入学されたそうです。現在はアメリカンバレエシアターのソリストとして活躍されています。2011年の東京公演では、「ドン・キホーテ役で踊りました。

 さて私も何度か北京や上海を訪問したことがあります。その北京での話。ある時夕食を食べに行く途中の街角で、突然目の前を疾風の如く黒い塊が駆け抜けていきました。それはものすごい数の自転車でした。噂に聞いていた自転車通勤のラッシュアワーだったのです。その光景に思わず息を呑みましたが、地元では慣れたモノで、道の脇では屋台がずらりと並んで普通に営業していました。どれも美味しそうに見えましたが、生ものは危険なのです。私たちはちゃんとしたレストランに入りました。その店のウエイターは器用に長い急須のようなものでお茶を注いでくれました。見事な腕前でした。庶民レベルの伝統技術が磨かれ、受け継がれていることに感心させられました。

ヤバイ店…ロンドン編

 霧の都ロンドンの夜、友人と飲みにに出掛けました。何かショーをやっているところがないかと探していると、ある飲み屋の前で呼び込みが近づいてきました。まだ時間が早いので、ここで一杯やってからショーを見ればいい、ということにしてその店に入りました。

 テーブル席に付くと、頼みもしない品物がどんどん出てきました。これはヤバイ店だ、と思い友人を促して退散することにしました。ウエイターに「いくらだ」と聞くと、ナイフを持った大男が出てきて、上着をつかんで私を睨みつけました。トイレに行って窓から逃げようと思いましたが、窓は小さすぎて抜けられませんでした。仕方なく戻ると現金とトラベラーチェックを全て取られました。店を出た後ポリスに事情を話しましたが、呼び出された相手はとぼけるそぶり。結局トラベラーチェックだけは返して貰えましたが、現金は戻って来ませんでした。怖いロンドンの夜でした。まかり間違えればナイフで刺されていたかも知れなかったのです。

バレエを勉強する皆さんへ

自分との戦い

4.jpg ロシアのワガノワメソードを継承し、チャイコフスキーの名称使用許可を得た豊田バレエ学校を開校したのが1995年、高校の卒業資格が得られるバレエ専門学校として18年が経ちました。 

 長年バレエを指導してきましたが、最近は指導の難しさを感じるようになりました。私が年をとったせいなのか、あるいはそういう時代になってしまったのか。

 今の子供は全体的に精神がひ弱な感じがします。少し壁にぶつかると、キレて怒鳴り散らしたり、すぐにバレエ学校への不満感を抱く子もいます。子供の言うことを真に受け、他の学校へ転校させてしまう親御さんもいます。他の教室に通っても同じことを繰り返すことになるでしょう。

 こちらはバレエに関しては専門家です。安直に結論を出す前にまず相談して頂きたいと思います。先生は平等に指導をしますが、生徒達には個人差があり、上達のスピードもそれぞれ違うのです。またどの子もが同時に良い役を貰えるわけでもないのです。

 本来、習い事は厳しい指導を受けるものです。昔は内弟子になって、先生と生活を共にしながら、身の回りの世話をしたりする修行をしたものです。そうして厳しい修行を乗り越えたものがバレエ団に入団し、主役を踊る道を歩むことが出来たのです。今はそこまでとは言いませんが、結局自分の精神との戦いであることには変わりはありません。

 最近も幾人かの生徒が私達に相談することもなしにプロのバレエ団の入団テストを受けました。精神的にも肉体的にも未熟な生徒が、いきなりプロの道に進むのは大変なリスクを負います。仮に合格しても付いていけず、大好きなバレエを諦めてしまう羽目に陥る例を沢山見てきました。もう少し我慢して…もっと読む.pdf

35年ぶりのローマに感激

野外コンクール

フォロロマーノ.jpg 2009年夏、ローマで開かれたバレエコンクールに生徒を連れて参加しました。東京バレエ団イタリア公演以来35年振りのイタリアです。懐かしい、映画「ローマの休日」で有名なトレビの泉やフォロロマーノなど、少しも変わっていませんでした。

 コンクール会場は野外で、昼間は暑くてステージに立つことが出来ません。審査は夕暮れ時から行われます。雨が降ると中断しますが、雨はすぐに止みます。毎回ゲストの方々のレッスンも受けることが出来ます。それに合わせてスケジュールが組んであるのです。レッスンが終わると舞台練習が出来ます。決められた順番にリハーサルを行い、夜7時頃から11時頃まで審査が続きます。参加者のレベルはかなり高いです。

 夕食はめいめいが好きなように済ませます。私たちはホテルの近くのイタリアレストランを利用しました。主にサラダとピッツアなどでしたが、時々ステーキも食べました。色々なトッピングが楽しめるデザートのアイスクリームはよく食べました。

 観光は私が35年前に訪ねた思い出の名所を再び巡りました。眼に入るモノすべてが懐かしく胸がいっぱいになりました。現地には三越百貨店もあり、そこでお土産を買いました。日本人スタッフが沢山揃っているので、日本語で買い物が出来ました。

 コンクールの結果はセミファイナルまでで、上位には入れませんでした。でも皆で「次回は頑張るぞ!」と言って会場を後にしました。最後の夜は審査委員との懇親会がありました。私はVIP待遇でしたので、どこでもフリーパスでした。ずっと通訳を同行して、色々な有名な方と親交を深めました。審査委員長はホセ・カレーニョさんでした。

 夜も深まり、懇親会も終わる頃、オレクシーの姿を見つけて声をかけると、手招きで…もっと読む.pdf

イギリス冒険旅行

一人でロンドンに

エジンブランの教会.jpg 1984年、スコットランドのアバディン・インターナショナル・ユースフェスティバルに雑賀先生と生徒らを連れて参加し、5回公演を行いました。

 私は公演後にロイヤルバレエアカデミー教師のJ・ケルガード女史を訪ねようと考えていました。ところが現地での連絡の行き違いでフェスティバルの劇場が変更になるなど、日程に大幅な狂いが生じました。

 なんとか公演そのものは無事に行うことが出来たのですが、その後の観光などの自由時間が大幅に削られてしまいました。

 それでも私はケルガード女史に会いたかったので、一行と別れて一人でロンドンに向かいました。やっとのことで探し当てたバレエ学校でしたが、折悪く夏休み中で閉まっていました。先生もいませんでした。

 目的を果たせず沈んだ心でロンドンの街をさ迷っていると、ロイヤルオペラ劇場にたどり着きました。中には入れませんでしたが、ちょうど劇場の裏口が開いていて、大道具等の点検中でした。せっかくなので私はちょっと中を覗いてみました。素晴らしい! さすがにヨーロッパで由緒ある劇場だけあって、豪華な装飾に眼を見張りました。

 それからバレエの専門書店を見つけ、なれない英語とジェスチャーを駆使して…もっと読む.pdf

突然舞台に呼ばれ文化大臣賞

オペラバレエフェス

バレエ2.jpg 2007年4月25日から5月6日までの12日間にわたり、ウズベキスタンの首都タシケントで、初のオペラ・バレエフェスティバルが開催されました。8カ国のオペラ歌手とダンサーが互いにダンスの技を競い合い、それぞれの国を代表して踊ったのです。

 わが日本からは工藤彩奈さんが「眠れる森の美女」で参加、相手役は2006年「シンデレラ」で王子を踊ったセルゲイ・ナイクシン氏がつとめました。スペイン組は、同じく2006年のウーファ国際バレエフェスティバルに参加したラウラとオスカル両氏が「ドン・キホーテ」全幕を踊りました。

 オペラ・バレエフェスティバルは第一回ということで、予算が充分に手当出来ず、PR不足気味の中で開催されました。それでも各国から選り抜きのダンサーが集ったとあって、いずれもハイレベルの見事な踊りが披露されました。前述の二組は元より、ウクライナ、カザフスタン、ロシアなどのチームも当代一流のダンサーを揃えてきたのです。

 5月2日の「眠れる森の美女」発表の前の4月30日、現地の日本大使館公邸で大使ご夫妻が歓迎パーティを開いて下さいました。和やかな会話と美味しい料理のもてなしを受け、良い意味で緊張感をほぐして頂きました。大使婦人には公演当日にも、自ら握られたおにぎりや日本食等の差し入れまでして頂きました。

 日本代表の公演終了後、突然「スワ、舞台へ」と促されました。驚いて舞台に上った私に…もっと読む.pdf

スペイン国王ご訪問の日と重なって…

公演中止の危機

バレエ.jpg 3年に一度開催してきたサンクトペテルブルグ市エルミタージュ劇場での公演は、2011年2月25日に5回を迎えました。

 周到に準備を重ねて来ましたが、いざ渡航してみると目一杯のスケジュールが待っていました。20日に現地着、翌日にエカテリーナ宮殿観光が出来たものの、22日はペトホフスタジオで基本レッスンとリハーサル、23日は同スタジオでワガノワ名誉講師のマンスール先生の指導を受けた後、ワガノワバレエアカデミーの見学会。丁重なもてなしを受け、見事なパフォーマンスを見せて頂きました。生徒たちは驚きと感激でみな食い入るように見入っていました。その余韻の醒めやらぬうちに、エルミタージュ劇場に移動してのリハーサル。そして夜には川端総領事邸で歓迎パーティを開いて頂きました。翌24日はマリインスキー劇場で行われていた「シンデレラ」の全3幕公演を参加者全員で観賞しました。

 めまぐるしいスケジュールをなんとか順調にこなしながら、公演の当日を迎えました。ところが思いもよらぬアクシデントが発生したのです。

 折も折、スペイン国王ファン・カルロス一世がロシアをご訪問中で、エルミタージュ劇場が国王をお迎えする会場になっているとのこと。国賓ですので厳重な警備体制が敷かれます。また劇場スタッフも総力を上げて対応しなければなりません。同日の公演は中止の危機に瀕していました…もっと読む.pdf

サンクトペテルブルグ一人旅

芸術の街を堪能

7バレエ.jpg 2010年9月、翌年に行う予定の豊田バレエ学校&豊田シティバレエ団ロシア公演の会場予約のため、サンクトペテルブルグ市のエルミタージュ美術館劇場を訪問しました。豊田バレエ学校専任教師採用の面接も兼ねていました。

 現地へは名古屋〜韓国のルートで向かいました。到着後すぐに日本総領事をお訪ねし、「日本の春」(毎年開かれている露日友好協会主催の日本文化フェスティバル)に参加させて頂けないかと相談しました。またエルミタージュ館長のピョトロフスキー氏への推薦状を書いて頂くようにお願いしました。

 そしてバレエ公演のリハーサル会場をユリ・ペトホフバレエ団に決め、ワガノワバレエアカデミー教師のイニケーフ・マンスール氏に基本レッスンをお願いしました。またもう一つの目的だった豊田バレエ学校の新任の教師も決まり、翌4月から赴任して頂けることになりました。

 順調に予定をこなした私は、マリインスキー劇場で「眠れる森の美女」全幕を見ることが出来ました。会場には、東京バレエ団で共演したユリー・ソロヴィョフ氏の生誕70周年記念のパネル展示や記念本が販売されていました。公演に駆けつけた当時のトップスターの一人コルパコーワ女史の姿を目にすることも出来ました。またエルミタージュ美術館劇場では「ジゼル」「白鳥の湖」の公演も行なわれており、これも堪能することが出来ました。本当に充実した旅となりました。

 滞在中はよい天気で…もっと読む.pdf

なぜ能が良くてバレエは駄目?

文化協会財団化に協力

野外劇 中央三宅佑佳.jpg 私が豊田でバレエ教室を開設し1年がたった頃、豊田市の文化振興課の課長に、「豊田市で文化活動をするのならば、文化協会に加入したほうがいいよ」と言われ、エトワールバレエシアターとして登録しました。

 当時文化協会の会員は6000名ほどでした。ちょうど協会を財団法人化すべく市内の文化10団体が集結して、寄付集めなどの運動を展開していました。

 皆の努力が実って大企業ばかりでなく中小企業にも広く協賛して頂けることになりました。その結果沢山の基金が集まり、昭和52年に財団法人化に踏み切ることが出来ました。平成11年に文化振興財団と名称変更し、今日では公益法人として活動しています。

 それ以来文化振興財団からはイベント後援、事業PR、チケットの取り扱いなどの支援を頂いています。でも本当はもう少しバレエそのものへの支援をして頂けると有り難いのです。

 平成10年、豊田市駅前に参合館という、図書館、能楽堂、コンサートホールなどの豪華な複合施設が建築されました。ある時その能楽堂で、市内の小中学生に能の鑑賞会が行われたことがあります。教育委員会推薦のイベントでしたが、生徒たちのほとんどが眠気を催していました。

 どんな物が見たいのか、事前に生徒アンケートでも行えばいいものを、一方的に能の鑑賞会を開くと決めた結果がこれです。参合館
の利用実績作りだったのではないかと、つい穿った見方をしてしまいます。

 一方、私は市内の小中学生にバレエ鑑賞の場を与えて頂けないかと、何度も相談し、お願いしました。でも市の対応は糠に釘! 能が可能なら、バレエ鑑賞会も開けるではないか、と迫りましたが、未だもって結論を出して貰えません…もっと読む.pdf

ジャズダンスがブームに

専門外の講師に

ジャズダンス.jpg 1980年代に入ると、若者の好む曲にのって体を動かすジャズダンスがブームになりました。そのブームに火をつけたのが、ダンサーのミハイル・バルシニコフ氏でした。彼の踊りを見た若者や中年女性の間で大人気になりました。彼に憧れる人々が、各地のダンススタジオに押し寄せました。レッグウォーマーや華やかなレオタードなどのダンスグッズが、一般の人に買い求められました。

 ちょうどその頃「ホワイトナイツ」や「愛と喝采の日々」「ジゼル」などの映画が上演されたことがブームに拍車をかけたのです。

 私は各支部教室や文化教室のバレエクラスを指導する中で、新しい物を積極的に取り入れていこうと考えていました。そこへ文化教室のオーナーから「今東京ではジャズダンスが大人気だから、うちの文化教室にも取り入れて欲しい」と強く要望されました。

 ジャズダンスは専門外だった私は、元日劇ダンサーの鈴木馨先生に「ぜひ豊田でジャズダンスを教えて下さい」とお願いしました。すると先生は「今凄いブームで、インストラクターが足らない。諏訪さんがうちに通って直接身に付けたらどうか」と言われました。エー! と思いましたが、結局自分の教室の稽古が終わった後で、豊橋市の鈴木先生のスタジオに通うことになりました。

 そして1982年9月、鈴木馨先生のスタジオ生と合同で、豊田市で初のジャズダンス公演が実現しました。その後1985年に中部ジャズダンス協会を発足させました。発足記念に「第一回名古屋ジャズダンス公演」を開催し…続きは本紙をご覧下さい

東京公演を紀宮様がご観覧

オリジナル全幕作品

すわさん.jpg 豊田シティバレエ団は、県下初の法人バレエ団として2005年に登録しました。創作活動も積極的に展開し、1999年から全幕物の作品を7本作りました。

 「くるみ割り人形」(1998年)、 「白鳥の湖(1999年)、「ジゼル」(2001年)、「ドン・キホーテ」(2003年、「眠れる森の美女」(2005年)、「シンデレラ」(2006年)、「乙姫伝説」(2008年)

 「眠れる森の美女」はイゴリ・ゼレンスキー氏を招いての公演で、三宅佑佳さんと工藤彩奈さんのWキャストでした。「ジゼル」「白鳥の湖」は草刈民代さんとハビブリナさん、ミヤスニコフ氏、「ドンキ・ホーテ」は三宅佑佳さん、クズネッオフ氏、嘉山裕子さんの、そうそうたるキャストが揃いました。

 いずれもデザインは、豊田シティバレエ団で制作し、保管しています。地方でこれだけの経費をかけてオリジナル美術を制作してどうするの? と言われます。

 本当は毎年50回くらいの公演があればいいのです。定期公演だけでは回数が少なすぎて、スポンサーを見つけることが難しいのです。これでは宝の持ち腐れ!

 2001年11月6日、東京ゆうぽーと簡易保険ホール(五反田)で、初の「ジゼル」全幕公演を行いました。ウズベキスタン国立ボリショイ劇場との合同公演でした。これには皇族の紀宮様のご臨席を賜りました。このため打ち合わせもいつもに増して念入りに行いました。玄関からエレベーター、控え室や会場までのお越しになる時間を細かく計算しました。お出迎えの際には「御着」と言うものだとも教わりました。

 会場では紀宮様の横の席に控え、ご質問にお答えしたり、ご説明をいたしました。大変な緊張感でした。座ったとたんに目の前が真っ白に…もっと読む.pdf

経済不安の韓国バレエ界の実情

ロシア・ワガノワバレエ学校を訪問

 2011年、豊田バレエ学校の公演日程を確認するため、ロシア・サンクトペテルブルグ市のエルミタージュ美術館劇場を訪問しました。

 劇場長のオルロワ女史とお会いして会場の予約をすると、女史に「日本の書などの展示も一緒に行ってはどうですか」と提案されました。私は早速日本総領事館に向かい、総領事の川端さんに良き指導をお願いしました。

 今回の訪問の目的は会場手配のほか、ミハイロフスキー劇場のバレエ芸術監督であるファルフ・ルジマートフ氏に会うことでした。ルジマートフ氏に豊田バレエ学校への訪問をお願いし、公演のリハーサルも見学させてもらいました。新しい「白鳥の湖」を見学しながらダンサーの方々と話ができ、とても有意義な時間を過ごせました。

 その後は、豊田バレエ学校で取り入れている「ワガノワメソッド」の本家・ワガノワバレエアカデミーを見学しました。校舎内にある博物館もきれいに整備され、アパートや教室など今後はかなりの拡張工事を行うとのこと。歴史あるバレエ学校の偉大さを感じました。教室では生徒達の稽古風景も見学させていただきました。なかでも9年生のヴィクトリア・クラスノクッカヤさんは、感性豊かな将来性あるバレリーナでした。

 様々な人と出会ったロシア訪問でしたが、一番驚いたのは韓国でバレエ教師を務めていたラビリーご夫妻から、韓国のバレエ情勢を聞いたことです。

 ラビリー氏によると韓国では経済情勢がかなり悪くなっており、教師を引き受けたときに決めたギャラも半額くらいに下がってしまったとのこと。生活もままならない状況になり…もっと読む.pdf

日本バレエ界の抱える課題

欧州のダンサーは38歳で年金生活

バレエ.jpg「バレエは敷居が高く、金持ちのお嬢さん芸」というのが日本でのバレエのイメージです。
 ヨーロッパでは国家が舞台芸術に力を入れており、国立のバレエ学校が設置されています。生徒は卒業と同時に劇場付のダンサーとして就職し、20年間勤続すると年金生活となります。日本ではバレエ団に入っても給料は出ないし、年金生活など遠い夢の話。それが日本バレエ界の現状です。

 バレエ文化を広く発展させるにはまず、バレエ学校が必要です。しかし、日本では学校の通学とバレエを両立しなければいけません。バレエが浸透しない一つの理由です。

 大都市集中型のバレエ文化にも問題があります。地方では劇場や公演の数が少なく、活躍できる機会も少ないので、手塩にかけて育てた生徒も有名になれば東京や海外へ行ってしまう。
地方独特の特長を活かして公演を行う、一流バレエ団の地方公演では現地の優秀なダンサーを使う、などして日本全体でバレエを盛り上げていかなければいけないと感じています。いずれにせよ、地方にもバレエ団やバレエ専門学校を作らなくては始まりません。

 海外の国際コンクールに参加するにも、多額の渡航費・宿泊費が必要です。全国バレエコンクールの上位者を協会が審査して、日本代表として参加させるような大会参加補助金も、多くのダンサーが必要としているでしょう。

 そして最後がバレエ指導者の課題です。私は免許制度を作り、技術・知識が備わった人が教師になる事が望ましいと考えています。いまは教師の免許もなく、指導者の定義があいまいです。バレエ教室を開設・継続するための試験をクリア出来ない指導者は…続きは本紙をご覧下さい

日本人ダンサーはプライドを持って

イタリアのバレエコンクールに参加

2面諏訪.jpg 2009年、久しぶりにイタリア・ローマを訪問しました。東京バレエ団公演以来でしたが、トレビの泉やホロロマーノ、35年ぶりの景色はあまり変わっておらず、懐かしい気持ちになりました。映画「ローマの休日」で知っている人も多いと思いますが、実際に行って見ると想像よりもスケールが大きいです。

 今回はローマで開かれているバレエコンクールに生徒を連れて参加しました。このコンクールは、まだ一部の関係者にしか知られていませんが、日本から海外に留学して参加する生徒が多く見受けられます。

 ステージは野外にあり、床はリノリューム(ゴム)製なので、昼間は暑くて立つことができません。夕暮れ時から審査は行われま
す。雨が降り出すと審査は中断され、雨がやむとすぐに再開を繰り返します。忙しいコンクールですが、レベルはかなり高いです。

 このコンクールでは、参加者はゲスト教師からレッスンを受けられます。それに合わせてスケジュールが組んであり、レッスンが終わると舞台練習の時間も取られています。決められた順番にリハーサルと審査を行い、終わるころには夜11時を過ぎます。

 夜はそれぞれ好きなレストランで夕食。私たちはホテルの近くのレストランでサラダやピッツァ、ステーキ、デザートにアイスクリームを食べました。いろいろな食材をトッピングして楽しみました。

 観光では、私が35年前に行った思い出の名所巡りをし、見るものすべてが懐かしく思えました。三越百貨店に行きお土産を買いました。日本人スタッフが沢山いましたので日本語で買い物が出来ました。

コンクールは残念ながら上位入賞を逃しましたが…もっと読む.pdf

カザフ国際大会の審査員務める

旧ソ連行の飛行機は乗継ぎに10時間待ち

諏訪さん.jpg ウズベキスタンの一件ではその後、相手から謝罪が届きました。まだ公演は再開されていませんが、交流は継続して行っています。

 旧ソ連に行くにはいつも乗り継ぎが大変です。特に冬場は、空港ロビーで10時間待ちはよくあること。カザフスタンの首都・アスタナへ行くときも、アルマータから国内線に乗り継ぐルートしかありません。

 アスタナのバレエ団長トルスンベック氏とは、バルナのコンクールで知り合いました。彼はコンクールの合間、いつも海で泳いでいました。ラトビアのリタベーリスも一緒に泳いでいましたが、私は泳げないので荷物の監視役。こうしているうちにトルスンベック氏から「カザフスタンへ一度来ないか」と言われ、お互いの国に誘い合う仲になりました。

 この国の大統領は、アルマータからアスタナに首都を移す命令をして、10年間で完成させました。この都市設計を担当したのは、日本の黒川紀章氏です。

 2009年、トルスンベック氏に招待されて、第2回アスタナ国際バレエコンクールの審査委員を務めました。中国、イタリア、ロシア、日本、ブルガリア各国から審査委員は集まりましたが、日本人のダンサーはだれも参加しませんでした。まだ若いコンクールなので、PRも行き届いていません。ほとんどの参加者は旧ソ連、それもカザフスタンのダンサーが参加者の80%を占めました。コンクール会場はピラミッド型の劇場で、中はとても大きく感じました。

 審査がない時や時間のある時は、スタッフが名所案内をしてくれました。大統領の博物館やシンボルタワー(チパチャプス)、ショッピング街も案内してもらいました。

 文化大臣主宰のディナーでは、フォアグラやキャビアなど高級食材のほかに、クメース(馬乳)やベシュバルマック(うどんと肉)といった郷土料理が、食べきれないほど振る舞われました。
 2010年、韓国にカザフの大統領が訪問すると聞きもっと読む.pdf

バレエ指導のため人体解剖学を学ぶ

名古屋鍼灸学校入学・2年勉強

バレエ26.jpg東京バレエ団では、英国王立ロイヤルバレエアカデミーのJ・ケルガード女史を招いて、毎年バレエ講習会が開かれていました。

 その時にケルガード女史に「諏訪はバレエ教師か振付師、どちらになりたいのですか」と聞かれ、思わず両方です、と答えてしまいました。ケルガード女史は、まず人体の仕組みや筋肉の作用を勉強しなさい、と言いました。手足の長さは皆違うので、一人ひとりに合った動作を指導することが肝心とのことでした。

 しかし、それらをどこで学べばいいのか。骨の仕組みや筋肉の仕組み、動作は人体の解剖学を勉強すればいいと思い、名古屋鍼灸学校にトライしました。

 もう学校を卒業して30年以上が経っており、入学試験はほとんどできませんでした。特に人体構造や内臓の説明は1行も書けませんでした。筆記テストが終わると午後からは面接。名前を呼ばれて部屋に入ると、4名の面接官がいました。

 私は面接官にバレエ教師として作品作りのために、人体の構造を勉強したいのです、と言いました。すると面接官は「髪の毛を切ることが出来るかね。規律正しく、清潔でなければいけない」と言いました。

 私は舞台の配役で髪を染めていました。すぐに切りますと返事し、そして「必ず髪を切りますね」との念押しに、はいと答え面接を終えました。

 しかし、入学数日前になっても学校から何の連絡もありません。不安でした。入学申込金の締め切り前日に、補欠合格の速達が届きました。補欠でも何でも受かったのですから! 急いで入学金と授業料を振り込みました。

 入学後は2年間、毎日名古屋の金山へ通いました。約束はバレエの指導には間に合わせること。鍼灸学校が終わると、急いで教室に間に合うように帰りました。テストの成績が悪いとレポート提出や廊下の掃除もやりました。

 くじけず通えたのは、同じ年代の人がかなりいて…続きは本紙をご覧下さい

名古屋ヤングバレエフェスティバル

東京バレエ団の宮下さんと共に

バレエ.jpg地方でバレエ指導や発表会をしてきました。田舎では何かしないと忘れられてしまう、何か役に立つことをしなくては、という気持ちが強く、様々なバレエ関連のイベントをしてきました。

 1985年11月、名古屋で公演を行った。プログラムは第一部が「バレエコンサート」で、第二部が「オーロラの結婚」でした。振り付け指導を井上かほる女史が担当し、舞台監督は八木清市氏、照明は高沢立生氏といった業界トップの方々に依頼しました。

 出演者は、岩越千晴・長谷川和子・上田忠男・長瀬信夫・西脇信男・森川 耕・鳥居ゆき子・石塚千花・加藤智子・蕨野和美と、名古屋地区ではかなりのレベルの高いダンサーの方々にお願いしました。

 東京バレエ団名古屋公演では、ジョルジュ・ドンの「ボレ」公演後、彼を招いて名古屋クラウンホテルでパーティを行いました。次から範囲を広げて、東京でも行いたいという気持を話し「バレエ振付家を育てるパフォーマンス」と題して公演も行事にしました。

 また、当時では珍しいもう一つの試みが、1988年に名古屋で開催した「ヤングバレエフェスティバル」。将来性ある若者ダンサーが一堂に会してのガラコンサートです。

 この企画は唯一度となりましたが、ヤングバレエフェスティバルは名古屋市で開催。京都の宮下和夫さんと共同で、大阪と名古屋で公演しようと考えたものです。

 宮下さんは東京バレエ団で伴奏をしていました。気さくな方だと感じて話しかけると、バレエに対してはだれにも負けない強い信念を持っておられると感じました。それから企画は2人で、となりました。

 東京では日常茶飯事のように毎回行っているが、フェスティバルを地方に持ってくることはなかなか難しい…もっと読む.pdf

韓国国立バレエ団の林会長のこと

林聖男氏は韓国バレエ育ての親

バレエ1.jpg審査は漢陽大学で行いました。韓国国立バレエ団からは林聖男会長が、日本からは藤田彰彦、松本道子女史が参加し、基本練習の教師を私が務めました。

 作品はプーシキンの抒情的作品「バフチサライの泉」全幕を藤田先生が選びました。将軍のヌラリ役に韓国のヨンゴル氏とスンチョングン氏、日本の佐々木大の3名がトリプルキャストで出演しました。練習には韓国に出向き、藤田先生と松本先生が主に指導し、助手の生徒も何名か参加して振り付けに当たりました。

 公演は1993年、韓国国立劇場で計3回行い、大成功となりました。その後ヨンゴル氏はパリオペラ座のソリストとなり、今は韓国国立劇場のバレエマスターとして働いています。私は宦官役で出演し好評を得ました。

 ある日、水源という町の東陽大学日本語主任教師キム氏から、1日だけ日本語学校の講師をしてもらえないかと尋ねられました。私で務まりますかと尋ねると、日本人でしょう、と言われ引き受けました。授業のテーマは自由なのでお任せします、と言われました。

 私は色々と話しました。例えば橋(端)や雨(飴)といった言葉について説明しました。授業が終わり夜には、カラオケに行き下手な歌を歌い、楽しいひと時を過ごしました。翌日は民俗村へ見学に行きました。大変広い施設で1日過ごしました。カムサハムミダ(ありがとう)。

 林会長は偉大な韓国バレエの育ての父です。何か気分転換をしたいときや、心の重圧が重なると突然日本にやってきました。私の所にもたびたび訪問されましたし、もちろん私が韓国へ行けば必ず1回はお会いしました。

 林会長は日本が好きでした。東京よりも、福岡や大阪に行くのが…もっと読む.pdf

日韓初のバレエ交流から

豊田バレエ団に韓国から留学生

豊田バレエ.jpg 私が最初に韓国を訪問した年は、ソウルオリンピックが終わった翌年の1989年でした。中京大学の留学生に何度かお会いしているうちに、一度ソウルに来てはどうでしょう、と誘われたのでした。

 何度かソウルへ行き友人も沢山出来ました。特にバレエ関係での友人です。紹介者のソンさんには大変お世話になり、バレエで相互間交流してはどうかと言われ、漢陽大学のバレエ教授チョウ・スンミ女史を紹介されました。

 日本とのバレエ交流の話をしました。わかっていただいたようで賛成していただき相互間で交流公演が行われました。最初は、私たちが韓国を訪問し、合同公演を行いました。韓国バレエ協会のメンバーにも会ったりしてチョウ教授には、大変親切にしていただきました。

 その当時の韓国バレエ協会の会長は林聖男氏でした。林会長は、日本でバレエを学んだ方でした。韓国を訪問するたびにいつも、韓国バレエ協会と一度合同公演を行ったら、と提案されました。

 また相互交流のために、チョウ教授の推薦で生徒1名を豊田シティバレエ団で受け入れることになりました。まだ韓国との交流が盛んでなく、ビザ取得も難しく、なかなかビザがいただけませんでした。韓国の学生を受け入れるのは大変でした。私は、留学生を受け入れることがどれほど大変かは知らなかったのです。許可したのが大きな間違いで…もっと読む.pdf

バルナ国際バレエコンクール

リタ・べーリスと共にVIPで参加

2面諏訪自伝.jpgバルト3国一つ、ラトビアの首都リガには、ミハイル・バルシニコフ出身のバレエ学校とバレエ団があります。3回訪問し、フェスティバルに2回参加しました。2005年には三宅佑佳が参加し、2006年は工藤彩奈と法村圭緒で「ダイアナとアクティオン」を踊りました。
 私たちを招待したのは、名バレリーナのリタ・ベーリス女史。彼女を知ったのはウズベキスタンのオペラ・バレエフェスティバルでした。
 彼女は私に「面白い作品があるので、是非豊田バレエ学校の生徒に振付けしてみたい」と言い、「モーツアル・ティアーナ」全一幕を振付けていただきました。
 二度目にお会いしたのは、バルナ国際バレエコンクールでした。このコンクールで上位入賞すれば世界のバレエ界が認める、権威あるコンクールです。私もリタもVIPで参加しました。会場には、世界のダンサーや教師が招かれていました。
 コンクールは3年に一回開催され、ビデオ審査がないために期間も長期となります。参加曲もソロの場合、4曲とコテンポラリ1曲が必要となります。長期にわたる開催期間で、ダンサーはスタミナと精神力のぎりぎりまで戦います。その厳しい戦いに勝ちえたダンサーが、世界一のトロフィーを手にするのです。
 会場は野外で、雨が降ると休演し、深夜まで長引くこともあります。しかし条件はみな同じ。体力とスタミナ、精神力が大切です。世界で最も古い国際バレエコンクール、それがバルナなのです!
 ゲスト審査委員は、出場者のためにバレエセミナーを開きケアにも寄与しています。予選に失敗しても参加者は受講することが出来ます。
 ラトビアには資源があまりなく、唯一あるのが運河の…もっと読む.pdf

国際フェスティバルの交流から

ビックズルー・ラフマック

諏訪さん21.jpg 旧ソ連との交流が盛んになり、2005年から、ラトビアの首都リガでのバルト3国国際ダンスフェスティバルや、カザン国際舞踊学校フェスティバルなどに参加しました。遠い夢の国日本からの客は珍しく、皆から大変な歓迎を受けました。いずれも1〜2度参加しましたが、次第に経済危機が起こり縮小や中止となりました。
 フェスティバルに参加すると、世界のバレエ教師が生徒に付き添ってきます。私は色々な国の教師と交流を持ちました。
 日本にはバレエ学校がないと話すと、「プライベートスクールがたくさんありますね」と言われたり、「優秀なダンサーは、学校がなくてどうやって勉強をしているのか」と質問されたりしました。私は真剣に、日本に一流のバレエダンサーや教師が来た時に勉強会で学びます、と答えました。
 優秀なロシア人バレエ教師のボンダレンコ氏や、モスクワバレエ学校長らと夜遅くまで話しました。ボンダレンコ氏はセミナーで、参加者の教師に対してどう指導するのが良いかや、良いダンサーを育てる指導法にも触れました。
 その中で注目した意見がありました。その意見は、いつもモスクワが指導権を取って、首都でない都市のバレエ学校は村八分的な扱いだ、というものでした。様々な国の教師が組合を作って役員を持ち回りにしてはどうかとか、徴兵制度が芸術の妨げになっているのでは、と意見を出しました。中には38歳からの年金を、45歳からに引き上げてはという意見も出ていました。
 フェスティバルの最初に式典がありました。参加国と教師を紹介する場面があり、挨拶をと言われ戸惑いました。急な事なので、言葉を持ち合わせていません。すると通訳に「挨拶の最後に、ビックズルー・ラフマックと言いなさい」と言われたので、手にペンで書きました。「ビックズルー・ラフマック」挨拶の最後にそう言いました。
 すると…続きは本紙をご覧下さい

ユルゲン・シュナイダー氏のこと

デトロイトからニューヨーク訪問

2面諏訪自伝20回.jpg ウインザシティバレエ団は、日本の方々には申し訳ない、と言わんばかりの態度でした。日本側の照明チーフ藤井さんは「仕方ない。ユニオンが強いので何ともならない」と言いました。
 翌日劇場に入ると、劇場のスタッフはにこにこして私たちを親切に迎えました。すると藤井さんが照明道具操作もOKになったと言いました。実は、その夜スタッフの何人かと一緒に飲み会をしたようです。そこでお互いに意志疎通が図られたのでした。万歳!
 一方、ユルゲン・シュナイダー氏は、私たちの公演を見ていろいろアドバイスしてくれました。この公演に参加していた久保鉱一君のことが気になったようです。しばらくして、ユルゲン氏からニューヨークに来ないかと言われ、私は通訳の武井さんとデトロイトからニューヨークに行きました。彼はいくつかのアパートを持っていたので、そこに宿泊しました。
 夜遅くになって、ユルゲン氏が散歩に行こうと言いだしたのでついて行きました。薄暗い店に入り、壁かと思って触ったら、それは黒人でした。驚いて声を立てると、静かにと言われ、怖くなりました。
 なぜ夜遅くにハーレムへ行ったかは今だに謎ですが、武井さんいわく、マリファナの調達に行ったとのことです。いつもボクサーの様なボディーガードがついていました。そのボディーガードに渡すことになっていたようです。なかなか行けない所や珍しい所にも案内していただきました。
 のちに久保君のお父さんから「息子の鉱一を海外に出したい」と相談がありました。私はユルゲン氏に連絡して、団員と一緒に練習できるように掛けあうと、1ヶ月間の許可がいただけました。
 ちょうどそのころミハイル・バルシニコフ氏は、組織とうまくいっていないようでした。何時の日かユルゲン氏から連絡があり…もっと読む.pdf

豊田バレエ使節がデトロイト訪問

ユルゲン氏との歴史的な出会い

2-諏訪自伝19回.jpgバレエ国際交流の際、何回もデトロイトに訪問しましたが、毎回入国検査で質問されました。バレエ国際文化交流と書くのに私には抵抗がありました。入国目的を観光と書いたから入国検査に時間がかかったようでした。
 車の街デトロイトに観光で訪れる方は非常に少なく、説明を何度もしてやっと入国しました。バレエ芸術の交流よりトヨタ自動車関連の見学と書いたほうがすぐに入国できたかも知れないと思います。
 車で約2時間くらい走ると、町なみの中に大きなビルが目に入ります。宿泊先ダウンタウンのウエスティンホテルでした。丸い大きなビルで、ビルの中にはスケート場や郵便局、映画館、そして大きなショッピングセンターも付随してあり、そこだけで何でも買える複合施設です。日本食もありました。
 メリーグローブ大学を訪ねて、ダンス部長とバレエの担当者に会いました。豊田とデトロイトは姉妹都市と言う事もあって、わりあいすんなり決まりました。交流内容は、最初は豊田のバレエ使節団がデトロイト市を訪問してバレエ交流を図るということになりました。受け入れ人数はスタッフ込みで50名前後と決め、2年ごとに相互で交流することにしました。
 何度目かの打ち合わせを経て訪問したときでした。メリーグローブ大学でバレエ講習会が行われている事を聞き早速訪ねました。講師は映画「ホワイトナイト」「ジゼル」などにバレエマスター役で出演した、アメリカンバレエシアターのユルゲン・シュナイダー氏でした。
 私は日本からバレエダンサーを連れて来るので、是非見てほしいと言いました。彼は、たぶん自分はデトロイトにいるから見せてもらうと言ってくれました。
 デトロイトでの交流公演も回を重ねるごとに…もっと読む.pdf

ユネスコ世界遺産サマルカンドで

名通訳ウミードと共に旅をして

2-諏訪自伝18回.jpgシリン亡きあとの通訳は、豊田バレエ学校に2年間(2005〜2007年)勤めたウミードでした。彼と会ったのは、2004年のタシケントホテルのロビーでした。
 大変まじめで時間にも正確、そして日本語は完ぺき。なまりもなく自然な日本語を話せるのに、日本には一度も来た事がないとのことでした。どうしてそんなに日本語が達者なのか聞きました。大学で学びましたと。日本に来た事がないのにこんなにうまい日本語は珍しい。ウミードは頭もよく、いつも私の考えに助言をしました。言われてみるとなるほどと思われる内容の発言をしました。
 ウミードは2005年に「眠れる森の美女」全幕公演のゲスト、イーゴリ・ゼレンスキー氏の通訳をしました。彼は、今まで何度か日本に来たが、こんなになまりのない日本語と英語が話せる通訳はいなかったと言いました。すごい人が豊田バレエ学校の専属通訳として働いていることに、何か誇りに思いました。
 ある時、私の陶芸教室の師匠寺田康雄氏と3人で、サマルカンド〜ブハラ〜ヒワへの旅を試みました。旅に行くきっかけは、私がウズベキスタンで最も有名な陶芸家を紹介するから是非訪問しましょうと誘ったことで、話してから約2年が過ぎていました。
 万全の用意で、つまりウミードの通訳で、タシケント市役所にあらかじめ聞いておきました。さあ出発。大阪からタシケントまで直行便で約8時間。時差は4時間です。気候は名古屋とよく似ています。
 最初にユネスコ世界遺産のサマルカンド市に行き、広大な建物や作品、モスクと言われる寺院や神学校等を見学しました。寺田先生は、サマルカンドブルーに興味を持ち…もっと読む.pdf

今年は新入生ゼロの危機

豊田バレエ学校開設から17年目

諏訪17.jpg豊田バレエ学校の校舎は、平成7年4月の入学式にはとても完成しませんでした。仮の教室で、9月まで授業を行いました。
 教師はロシア・ペテルブルグ市より派遣していただき、ピアニストと通訳、スタッフをそろえました。教師はロシアの方なので、ビザの申請から許可が下りるまでに当時は6ケ月くらいかかりました。それでもロシア教師が良い!
 仮の教室での授業が5ヶ月続き、やっと9月に校舎が完成し、完成披露の宴を開きました。現在の2スタジオは、4スタジオまで増築することが出来ます。
 豊田バレエ学校は今年で築17年目に入り、1月には外壁の塗りかえ工事が完了しました。新たな気持ちで再出発です。
 しかし、新入生は一人も入学しませんでした。心機一転巻き返しどころではありません。24年度の入学生は0人。何とかしなくては。
 創立以来、豊田バレエ学校では各種専門学校の認可を得ようと何度も申請をしましたが、昭和初期の定款や法律を変えなければならないとのこと。開かれた道はありませんが、何とかしないと。1日も早く認可を得て、生徒には学割が適用されるようにしていきたいのです。
 創立以来、豊田バレエ学校では多くの外国人教師にお世話になりました。1995年〜1998年=オリガ・ゴリーシナ女史。1998年〜1999年=マルカリヤンツ・コジャメキナ夫妻(ムソルグスキー劇場)。
 これ以降も今日まで毎年、豊田バレエ学校では…続きは本紙をご覧下さい

豊田バレエ学校が完成

4億5千万借入契約書にサイン

名称未設定 1.jpg 豊田バレエ学校と付属のマンションが完成すると、この町で一番高いビルとなります。お金の工面をどうするかで、1回目の審査はあきらめました。
 1年後再申請し資金繰りが可能となり、どうするかの決断に迫られました。作るか否か。640坪(2112㎡)の面積に高さ38mのビルを建てるのですから、資金繰りは4億5千万円の借入でした。いよいよ契約の日です。サインしました。地域の方々は、よく決断したねと言われました。
 1995年1月、阪神淡路大震災が起こりました。心配しながらテレビを見ました。基礎工事が変更になりました。完成がかなり遅れる見通しとなりました。開校日は事前に知らせてありましたので、仮設のスタジオで約6ヶ月間授業を行いました。
 校舎完成時には披露の宴を行いました。地域の方々やバレエ関係者などでスタジオは狭く感じました。特にお願いして、古巣である東京バレエ団の佐々木忠次氏を招きました。ありがたいスピーチをいただき、披露パーティを無事終えました。
 さあいよいよ新校舎での授業が始まり、高校卒業の資格も取得できる。県立刈谷東高等学校の通信制課程とバレエ学習の弊修と言う形を考えました。刈谷東高の授業は月2回、日曜日に面接に行きレポートを期限内に提出し、前期と後期のテストに合格すると上のクラスに進級できる仕組みです。今は通信制も3年で卒業できるようになりましたので、全日制の友達と同年に卒業を迎えられます。
 バレエを主にやらなければ夢はかなえられません。バレエの授業を全体の70%以上行えるようにカリキュラムを考えました。後の30%は、高校卒業のための勉強です。「自学自習」を基本に、自分に厳しく明るく健康な生活を送る。
 日本には、国立のバレエ専門学校はない。舞台芸術の学校もなければ日本舞踊の学校もない。豊田バレエ学校創立に関して、色々な方々の助言がありました。「やめよ! 個人がするものではない」…続きは本紙をご覧下さい

豊田バレエ学校設計段階に

バレエ学校にアパート併設

2-自伝15回写真.jpg
 日本には国立のバレエ学校もなければ、給料の出るバレエ団もない。ヨーロッパには国立のバレエ学校があり、高校まで勉強でき
て、卒業と同時に座付のバレエ団に入団し、20年間劇場で働けば、年金生活となる(38歳で)。日本にはそういう環境がまったく整っていない。うらやましい限りだった!
 いつかきっとバレエ専門学校を開校したいとの思いが強くなりました。舞台芸術の貧困な日本! どうしてできないのか? いろいろと海外、ロシア国内を旅するたびに、つくづくそう思う気持ちが高まってきました。バレエで生活できないものか、バレエで食べてゆけないものか、日本国は舞台芸術に遅れている!
 以前述べたように、色々なバレエ学校を見学して、やっぱりワガノワ・メソードに決めました。私が、バレエを習い始めた頃、コルパコーワ、ラブロフスキー、ソロビョフ、プリセツカヤ、フォンティン、ワシーリエフ、ベスメルトノワ、バルシニコフなどのスターがたくさんいました。
 どうしたらあのように踊れるのか? 感心するのみでした。やっぱりバレエ専門学校がないからきちっとした授業が受けられない。バレエの歴史も理論もキャラクテルも古典舞踊も自分で調べて勉強するしかない。専門誌も少なく大変古いものでした。絶対にバレエ学校を作ろう。
 日本の建築屋さんにいろいろたずねました。バレエスタジオは、作ったことがないと言う。床が肝心、明るくて、広くて、アダジオにも差し支えない天井の高さが必要、と説明し、建築屋さんは頭を抱えました。
 設計段階で、お手洗いと更衣室にこだわり…もっと読む.pdf

ベラルーシ公演の思い出(2)

芸術監督エリザレフ氏から招待

2面バレエ.jpg 日本でのランチはそんなに高くないので、安心して飲んでいました。料理は、ロブスターやステーキ、サーモン、イクラ、キャビア等の品がずらっと並びました。豪華な食事です。しかもランチタイムに。
 ウイスキーは、流通が悪い上に黒ラベルは超高級品であるとのこと。1本いくらかは知りません。そして、会計になり大変な額で請求されました。1本7万円。現地の人が3ケ月はゆうに暮らせる額でした。驚きました。皆さんは気持ちよく帰りました。
 あくる日、待ち合わせの時間になっても誰も来ません。連絡を取ってみると、普段食べたことのない料理で皆お腹を壊して寝ているとのこと。怒るにも怒れません!
 その日の夜、エリザレフ氏に夕食に誘われてちょっと迷いました。昨日の昼食の様な事にはならないかと心配したからです。又高級なレストランで特別メニューを注文されたら困ってしまう。エリザレフは、昨日は大変お金を使わせてしまったようだねと言いました。私は、日本のランチかと思っていましたので少しびっくりしましたと話しました。
 今日は心配ないよ、好きな物を召し上がってくださいとエリザレフは言いました。食事の最初はウオッカで乾杯し、話は日本のバレエの状況についての話や、ミンスクの経済の話などでした。
 夜も次第に更けて、深夜12時頃になりました。するとどこからともなく金髪の女性が沢山でてきて…続きは本紙をご覧下さい

ベラルーシ公演の思い出(1)

大統領宮殿の大劇場で踊る

2面自伝13回.jpg ロシア・ペテルブルグ市から汽車で、ベラルーシ・ミンスク市へよく出かけました。寝台車に夜じゅう乗って朝5時ころ、ミンスク駅着です。寝台車はいつも4人分買いました。
 私と通訳の2人しか乗らないのに、なぜ4人分買うのか? 寝ているうちにお金や貴金属等を盗まれ、朝にはなにもなくなっているよと言われ、なるほどと思いました。汽車代はそんなに高いものではないので、文句も言わずに広くスペースを取って寝ました。
 朝ミンスクに着くと必ず、芸術監督のエリザレフ氏が駅に迎えに来ていました。エリザレフさんが迎えに出られるのではなく、助手に頼んで劇場でお会いしましょうと言うと、エリザレフ氏は諏訪さんは私の大切なお客様だから駅で迎えたいと言いました。感謝感謝! 「滞在中、車は自由に使えます。劇場も自由に出入りできるように関係者に言ってあります」とエリザレフ氏は言うのでした。
 ベラルーシ・ボリショイ劇場で日本人バレリーナが初出演し、「ドン・キホーテ」「ジゼル」の全幕公演が計画されました。しかし劇場の修復が間に合わず、急遽、大統領宮殿大劇場で公演が行われました。「ドン・キホーテ」全幕を三宅佑佳がイリヤ・クズミチョフと踊り、「ジゼル」は他の男性と踊りました。
 公演は順調に運び、会場からの大変な拍手に感動しました。その時日本大使が鑑賞していました。大使が楽屋に見えて、おほめの言葉をいただきました。大使は公演が大変気に入り大使と食事をすることになり、いろんな楽しいお話を聞くことが出来ました。特にベラルーシと日本経済との関係の話、そしてバレエの話でした。
 ベラルーシ公演の際、私は関係者をランチに誘いました。6名、割合高そうなレストランに連れて行き…もっと読む.pdf

エルミタージュ美術館で公演できて

この劇場にいつでも来て下さい

2-自伝12写真.jpg豊田バレエ学校創設にあたり、フランスのバレエ学校、イタリアローマのバレエ学校、ベルミーバレエ学校、ドイツのバレエ学校、ウズベキスタンバレエ学校などを訪問し、ワガノワ・メソードに決めました。
 その話が旧ロシアのバレエ界に広がり、評判になりました。民間人がバレエ学校を作った! 
 マカーロフ氏に何かバレエ学校に名称を付けたいけれど、と私は相談していました。トヨタ記念とか佐吉記念とか、豊田にかかわる名称を考えていました。
 1997年のある日、ペテルブルグのマカーロフ氏のオフィスに行きました。諏訪さんはまだ名称を考えているのかと聞かれ、はいと答えました。すると、「チャイコフスキー記念」の名称の許可がもらえるから、ペテルブルグ市芸術家同盟の事務所に行きなさいと言われ、認めの用紙をもらいました。そして「この名称を踏み台にしてバレエ学校を大きくしてください」と言われました。びっくり!びっくり!
 その後、マールイ劇場のボヤルチコフにお願いして、専従の教師を招きました。生徒は3年で卒業するので、修学旅行として3年に一度ペテルブルグでバレエ研修や鑑賞、観光を考えました。何か一つ抜けている気がして、チャイコフスキー名称をいただいて何か、どこかで成果を発表する場所を考えてくださいと言いました。
 現地通訳のシリン氏は、朝ふと目が覚めると、友達のことを思い出したそうです。友達は大学時代の親友で、彼はいまエルミタージュ美術館の劇場長であることに気付きました。私は早速訪問して、チャイコフスキー名称のいきさつを話しました。すると私はかまわんが、ピョトロフスキー館長にお願いしないと何ともならないと言われ…もっと読む.pdf

豊田にバレエ専門校を作るのだ

各国バレエ学校訪問の旅続けて

2面自伝写真.jpgモスクワ、ペテルブルグへは、1975年初めて行きました。妻のすすめで、新婚旅行としてツアーで行きました。妻は2回目、私は初めてのロシア旅行となりました。
 「冬の芸術祭」に参加して楽しい旅をしました。当時はソ連崩壊前で、外国人専用のホテルに泊まりました。モスクワではインツーリストホテルに、レニングラードではモスクワホテルに泊まりました。
 見る物みんな大きくて素晴らしい彫刻が施されていて、日本とはスケールが違う。バレエもサーカスも名所も見学しました。
 そして、私は次第に日本にバレエ専門学校がない、何とかしてバレエ学校を作りたい、と感じるようになり、1993年頃から本格的に「バレエ専門学校を作るのだ」と強く思うようになりました。頻繁にロシアへ行くことになりました。
 その頃のマリインスキー劇場は憧れの劇場で、内容もモスクワより好きでした。ワガノワバレエ学校の当時の校長はナジーロフ氏で、レッスンの見学をよくしました。又レニングラードクラシックバレエ団の団長、マカーロフ氏にもよく会いました。ボヤルチコフ氏率いる、マールイ劇場にもよく訪問しました。
 妻の最初の旅から通訳に付いたビタリー・シリン氏にお願いして…続きは本紙をご覧下さい

国立ボリショイ劇場で初公演

日本人が建てた国立劇場で踊る

諏訪さん.jpg ウズベキスタンと日本の国際バレエ交流のきっかけとなればと、ウズベキスタン側は考え、私たちを呼んでくれたのでしょう。私はぜひウズベキスタン国立ボリショイ劇場で踊りたいと答えました。それでは1999年に相互の交流公演をしましょうと決まり、私たち豊田シティバレエ団は「白鳥の湖」全幕と「ジゼル」全幕を公演しました。
 首都タシケントのナボイ国立ボリショイ劇場周辺は、黒塗りの車が多く駐車しました。各国の大使や財界人が公演を見に来られたのです。日本人によるバレエ公演をぜひ見たいと、日本人協会の方々も沢山観劇に訪れました。
 このナボイ名称タシケント国立ボリショイ劇場は、前回述べたように、第二次世界大戦直後にソ連圏のウズベキスタンに抑留された日本人捕虜の手で完成した劇場です。1966年4月26日、タシケントで大地震がありました。ほとんどの建物は崩壊し悲惨な体験を市民は味わいました。しかし国立ボリショイ劇場は何の破損もなく堂々とした姿で建っていました。日本人の建てた劇場は丈夫だと市民は思ったそうです。
 ウズベキスタンの首都はタシケントで、第二の都市はサマルカンドです。私は生徒を連れて何度もタシケントの街を訪れました。ある夏の事、バレエ学校の寮を出て一人朝早くに散歩に出かけ、道のわきでスイカ(ウォーターメロン)を売っているのを見かけました。大きくてうまそうなスイカを生徒にくわせようと思い、3つ買いました。
 朝食後、早速そのスイカが出ました。皆おいしそうに食べました。しかし、3〜4時間後、生徒の一人が腹痛を訴えました…もっと読む.pdf

「諏訪さん ここで踊れ」の招待

舞台芸術の国・ウズベキスタンへ

2面自伝写真.jpg 最近、海外へ出かけることが多くなりました。特に旧ソ連への訪問が多くなりました。それは私の考えているバレエ専門学校建設やバレエネットワークを広めようと考えたからです。
 1993年頃から頻繁にモスクワとサンクトペテルブルグを訪れました。その時出会ったバレエ教師に、ウズベキスタンに立派なバレエ団があるから一度案内します、と言われ、その場で訪問を決めました。
 1998年、ウズベキスタンの首都タシケントへ行きました。ナボイ国立ボリショイ劇場(日本名=ウズベキスタン国立ボリショイ劇場)は、日本人が捕虜として抑留されていた時代に建設された劇場で、当時の旧ソ連の3大劇場の一つとされていました。モスクワのボリショイ劇場、ベラルーシのボリショイ劇場、ウズベキスタンのボリショイ劇場。もう一つ、ボリショイ名称ではないのですが、マリインスキー劇場がありました。
 基本練習やリハーサル等を見学し、当時の劇場長のカリーエワ・ベルナーラ女史と、芸術監督のイブラギーム・ユスポフ氏に会いました。両名は、日本のバレエ界の現状をよく知らなかった。私は最初に、男性のダンサーを貸してください、と言いました。
 すると変な表情になりました。「そんなに多くの男性ダンサーを日本に招待するのはなぜですか?」と聞かれました。今でもイスラム圏では、金持ちの男性は4人まで妻として籍に入れることが出来ます。そんなイスラムの国では、私はホモやブルーか、と思われたかもしれません…続きは本紙をご覧下さい

豊田にはいつも外国人講師

豊田バレエ学校に英ケルガード女史

2面自伝写真.jpgエトワールバレエシアターでは、1976(昭和51)年、イギリスよりJ・ケルガード女史を迎え、バレエ講習会を行いました。生徒は英語が分かりませんが、通訳を通じて熱心に聞き入り、笑顔が伝わってきました。初めての外人講師によるバレエレッスンに心配と不安がありました。しかし、心配どころか生徒は楽しく積極的に反応していました。この講習会も約10年続きました。
 外人講師による授業には、デトロイトで知り合った有名なバレエマスターのユルゲン・シュナイダーや、ベルギー・フランダースバレエ団のロバート・デンバース、ゲンナジ・セリウッキー、二キータ・ドルグーシン、ニコライ・ボヤルチコフ、バレンティーノ・エリザレフの各氏らに来ていただきました。豊田バレエ学校創立以来35年間(2011年現在)、外国人教師が在籍しています。
 バレエ講習会も毎年春・夏・冬に開催しています。又体験入学や、長期滞在聴講生も受け入れています。毎年のデトロイトとのバレエ国際文化交流が10年余り続いたのも、豊田南ライオンズクラブ、メンバーの方々のおかげと感謝しています。大変お世話になりました。この公演をきっかけに、各国でバレエ公演をすることになります。
 デトロイトで交流した団体や個人では、ペ二ー・ゴッドボルド女史(ダンスデトロイト主宰者)、ジャニス・ブロード女史(ウインザ・シティバレエ団主宰者)、ルネッサンスライオンズクラブのウイリアム・ヤング氏、スミス氏、武井氏らがおられます。
 当時のデトロイト市長は、コールマン・ヤング氏からデニス・アーチャ氏に代わり、現在は知りません。バレエ交流公演は1988〜95年頃まで続きました。2年置きに相互交流公演を行いました。日本側は4回訪問し、デトロイト市側も3回ほど豊田市や名古屋市にて公演しました。
 日本側は親が旅行費を出して応援しますが…もっと読む.pdf

デトロイト公演が実現

豊田南ライオンズ今野会長の応援で

2面自伝写真.jpg1988年、豊田市の姉妹都市、米国デトロイト市にて初のバレエ交流公演を行いました。
 このころ、何かしないといけないと考えるようになりました。何をしたらよいのかさっぱり分からずに過ごしているうちに、姉妹都市はあるのかなあ、と思いました。デトロイト市と豊田市は姉妹関係を結んでいて、交換留学生派遣などで交流していました。
 偶然、交流団体の一つである豊田南ライオンズクラブのメンバーが、エトワールバレエシアターの生徒の親でした。いろいろと相談していると、それでは一度会長さんを紹介するからと言われ、お会いできました。当時の南ライオンズクラブ会長は、国際委員長でもあった今野寿泰氏でした。大変よい事なので交流が出来れば応援します、と言っていただきました。豊田南ライオンズクラブの方々には大変お世話にな
り、交流が始まりました。
 1987年、一度豊田の姉妹都市を見ておこうと、デトロイト市役所を訪問しました。バレエを通じ交流できる団体を紹介していただければと思ったからです。
 私の近所に住んでいる日本デンソーの松田氏の口利きで、通訳がわりとして現地デンソー社員が私をサポートしてくれました。初のデトロイト訪問にあたり、新しい情報をいろいろと聞くこともでました。
 現地ではメリグローブ大学のバレエグループ(生徒)と、その担当教師のヤコブ氏、モダンダンスの教師であるペニー・ゴットボルト女史に会い、豊田市とデトロイト市のバレエ国際交流を行う事に賛成していただけました。
 翌1988年、初の50人態勢の豊田シティバレエ団をデトロイト市に送りました。豊田市の文化団体は、デトロイト市でのバレエ公演をあまり信用していなかったように…もっと読む.pdf

千秋楽の舞台で胴上げされて

第4次海外公演②

2面諏訪自伝.jpg 盲目のプレーヤー・スティーブのライブを聞いて、いよいよ東京バレエ団海外公演も大詰めに入り冬。寒い白い季節、ヨーロッパ公演最終地モナコ、モンテカルロ劇場、グレスケリーの子供たちが鑑賞していました。5日間超満員、最後の公演後の舞台に大きな垂れ幕がかかりました。
 スタッフがひそかにバレエ団ダンサーのために、千秋楽「お疲れさまでした」の幕を下ろしたのです。皆は興奮して、舞台上で、北原先生を胴上げしていました。北原先生が「諏訪もだ」と言って、私も胴上げされました。父が亡くなっても公演に参加でき、感動と感謝、感無量でした。その日夜遅くまで、公演を振り返り話し合ったりして、長い1日を終えました。
 私たちのグループは、夕食を当番制にして買い物は昼間のうちに用意して劇場に入り、公演が終わるとホテルに帰り夕食作りをしました。スタッフと私たちは、
天ぷらを作って食べました。日本の味! しかしアクシデントも沢山ありました。自炊のため、ホテル中が食事臭くて、時々ホテルを停電にしたことも。
 スペイン公演では、最初はマドリッド、ナポリ、バレンシアで公演しました。本場のスペイン舞踊を何度も見ることが出来ました。特にマドリッド公演後、スペインの舞姫によるスペイン舞踊を東京バレエ団のために見せていただきました。タバコの煙がむんむんしているような薄暗いホール・タブラオ。背もたれの長い椅子に座り、サパテアードで気分は最高潮。素晴らしいスペイン舞踊を鑑賞しました。スペインの代表的な食べ物パエリヤも食べました。
 イタリアでは、ベローナで公演しました。ロミオとジュリエットの墓が…続きは本紙をご覧下さい

ヨーロッパ10カ国で75回公演

第4次海外公演

2-諏訪エッセイ.jpg 1973年8月22日〜74年1月1日。10ヶ国・41都市・75回公演、フランス/スペイン/ギリシャ/イタリア/西ドイツ/ノルウェー/デンマーク/モナコ他。東京バレエ団の第4次海外公演です。
 私は、この6ケ月間のヨーロッパ公演に行くかどうか迷いました。スタッフの方々の助言もあって行くことにしました。結果は、いってよかった、でした。
 どうして断ったか。ヨーロッパ公演が近づいた頃、父が亡くなりました。私は長男です。すぐ豊田に帰って家を継ぐことに決めていたからです。
 ヨーロッパ公演が発表され、私の名前がありました。行くことに決めました。こんどは、タラップを降りて帰りたい、などという思いはありませんでした。
 初日はフランスの田舎ビッシー市の、テアトル・ド・サンカルロ劇場。ヨーロッパ独特の斜めの舞台です。リハーサルでは回転がだんだん前へと移動しましたが、本番ではそんなに移動しませんでした。リハーサル中に北原先生に、そんなに心配しないでいい、いつもの諏訪で行け、と言われ勇気が出ました。よし初日だ、成功させようと心に言い聞かせました。
 6ケ月75回公演、この先どうなるのだろうと考えたら、えらいことを引き受けたと感じました…続きは本紙をご覧下さい

東南アジア4カ国海外公演

東京バレエ団

2面エッセイ写真.jpg 前回までに、私が東京バレエ団を退団してから、豊田バレエ教室が誕生するまでの、私の前史の概略を書きました。
 ここからは暫く東京バレエ団時代の「海外公演」を語り、最終着地の豊田のバレエへむけて、話を進めましょう。
 1972(昭和47)年10月31日〜11月13日、シンガポール、マレーシア、バンコク、香港4カ国公演。演目「くるみ割り人形」「コンサートプログラム・パキータ/リゼット/レ・シルフィード/海と真珠」他。羽田から一路、シンガポールへ旅立った。
 タラップを降りた瞬間、日本へ帰りたい、と精神的苦痛を感じました。シンガポール空港の地に足が着いた瞬間、異様な精神状態になりました。生温かい空気と記者団のカメラのフラッシュ、ああもう帰りたい、を抑えながら団員と一緒に入国手続きを終え、専用車でホテルに着きました。私は、英語も何も、外国語は話せません。部屋は一人部屋だったと思います。その日は何も食べずに寝てしまいました。
 朝目覚めると、いつもの日本の自分の部屋と勘違いして、照れくさそうにロビーに出てみました。先輩も皆んな観光に出かけたようでした。
 私は、ぶらっと町を歩いていました。地図を片手に、市内観光と意気込みました。おなかがすいてレストラン風の店に入り、サンプルの食べ物を指さして注文し、コーラも注文しました。
 又一人観光に出ていろいろな風景を写真に収めました。最初の舞台は、大きいと思いましたが、設備があまりよくありませんでした。楽屋で昼の観光のことを話すと、朝ロビーにいなかったので皆と出かけたと思われていたようでした。
 私が一人で町を歩いて、けっこう楽しく観光できましたよと言うと、おまえは宇宙人だから…続きは本紙をご覧下さい

豊田にバレエ教室誕生3

スタジオ建設

ドン・キホーテ写真.jpg東京バレエ団第4次海外公演終了後、前にも書いたように、私は昭和49年(1974年)1月に東京の生活を離れ、豊田市に帰りました。農家を継ぐわけにはいかず、母と相談して豊田でバレエ教室を始めることにしました。しかしどうやって始めたらよいのか、何から手をつけたらいいのか、それがわからず悩んだりしました。
 まず最初に、バレエスタジオの建設に着手し、完成までの期間にバレエ教室への入会に必要な書類等の作成を行いました。案内書も念入りに校正して、開校に備えました。
 豊田市周辺の方々にも知っていただきたく、新聞折り込みや情報誌への広告掲載もお願いしたりし、生徒募集に明け暮れました。
 スタジオ完成は昭和49年(1974年)7月末日と東京バレエ団在籍中に言っていました。100坪と言っていたスタジオは建て坪74坪の大スタジオ1室、そして付帯設備は事務室1、 男女更衣室各1室、洗面所トイレ各1室、応接室1室、さらにサウナまで完備しました。
 スタジオ内は6メートルのリフトも充分できる高さで、床のフローリングは足腰の保護のために、適度なクッションが出来るようにしました。
 豊田市で初のバレエ教室(豊田バレエ学園)です。はたして何人の生徒が集まるか心配でした。父の遺産で建てたバレエスタジオでしたが、生徒は思うようには集まりませんでした。豊田市は全くバレエは初めてです。基本から丁寧にゆっくりと説明しながら進めました。生徒数わずか8名でスタートであり、真剣に指導しました。豊田で初の発表会は、開校から2年後の昭和51年(1976年)4月でした。
 第1回定期公演には「くるみ割り人形」を選びました。東京バレエ団での同輩、永田幹文をゲストに迎え、スタッフも東京バレエ団スタッフの面々で行いました。あの頃の赤提灯での「一宿一飯の恩義」かも?…続きは本紙をご覧下さい

豊田にバレエ教室誕生2

東京バレエ団の頃

2面エッセイ写真.jpg 東京バレエ団の地方公演の間、私たちはスタジオで毎日基礎練習をしました。地方公演が終わりしばらくして、残留組は代表に、次回の地方公演から男性を連れていくようにお願いしました。
 私たちは、スタッフ(裏方)とキャスト(ダンサー)で地方公演に参加することになりました。劇場に入って基本レッスンが終わるまでは、キャストの扱いです。基本練習が終わるとそれぞれ分担の仕事をするのです。私は小道具担当になりました。
 先輩の小道具を確認し、公演が終わると楽屋に行ってその小道具をいただいて、所定の保管場所に返すのが仕事でした。公演が終わってからよくスタッフのお兄さん方に説教されたり、いろいろな仕事の話を言い聞かされたりしました。
 又一杯飲み屋に連れて行かれました。そこでまた叱られたり説教されたりでしたが、それが大変な勉強になりました。裏方で参加し、その裏方の仕事を少し覚えました。照明・音響・大道具方たちとの赤提灯での呑み会がよい勉強となりました。
 スタッフから一つお願いがあると言われ、私は又難問を言われるのかと緊張して聞いていました。もちろん赤提灯で、あまり飲めない酒を飲みながらです。
 その内容はこうでした。私たちは東京バレエ団が好きで、皆厳しい条件でも仲良くスタッフ同士で仕事をしているが、バレエ団の人たちはスタッフに挨拶もしない。劇場ですれちがっても何の挨拶もないのが淋しい。何とかならないかと言われたのでした…続きは本紙をご覧下さい

豊田にバレエ教室誕生

故郷豊田に帰る

2-諏訪エッセイ.jpg 私が豊田でバレエ教室を開いたのは、オイルショックの年、昭和49(1974)年8月でした。6ケ月に及ぶ東京バレエ団のヨーロッパ公演(第4次海外公演)を終え、故郷の豊田市に帰っていました。
 私は3人兄弟の長男として生まれました。実家は農業を営み、小作人から田畑をもらいうけ、私に農家を継いでもらおうと父は考えていました。
 ところが、私はバレエを習い始めました。母と父は、1ケ月もすればやめるだろうと思っていたようでした。しかし私は東京で本格的に踊りたいといい、親を困らせました。
 幸い、父に内緒で母が生活費を送ってくれました。ヨーロッパ公演の直前に父が亡くなり、海外公演はあきらめていましたが、事務局やスタッフの方々の勧めもあり、海外公演には参加することになりました。そのあと、足かけ6年間お世話になった東京バレエ団を退団し、豊田市に帰りバレエ教室を開設したのです。
 当時豊田市には本格的なバレエ公演を行える劇場はなく、500名程の収容スペースの豊田市文化芸術センターがありました。市内では、バレエスタジオを持ってバレエ指導に当たっている方はなく、私が豊田市のバレエの草分けとしてバレエ指導とバレエの啓発に努めました。
 月日がたつにつれ次第に支部教室を作るようになりました。豊田市を本部として、名古屋・岡崎・知立・瀬戸・松戸に教室を持ち、それに文化教室の講師も行い、毎日指導で大忙しの日々を過ごしました。
 発表公演は毎年各支部毎に行い、豊田市では洋舞の合同公演も毎年行いました。無我夢中でバレエバレエに明け暮れる毎日でした。
 教室を開いて2年後に、豊田で第一回の発表会を開きました。「動物の謝肉祭」とバレエコンサートでし
た。物珍しいせいかバレエ公演は満員の盛況でした。
 豊田市で、舞台に携わるスタッフがあまりいなくて、照明・大道具・小道具・舞台監督等は東京バレエ団のスタッフで行いました。なぜ東京のスタッフか?…続きは本紙をご覧下さい