カウンター
rogo.png


過去の記事・連載はこちらから

s

HOME > 掲載記事 > リレーエッセー

 毎週金曜日発行。月極め¥1200{送料込み・税別)申込はLinkIcon 印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

加藤志津香さん.jpg森さん.jpg田中裕子.jpg硲.jpg杉浦エッセイ写真.jpg佐藤とし弘さん.jpg
加藤志津香   森  當  田中裕子   硲 伸夫   杉浦弘高   佐藤鋹弘
後藤正さん.jpg大家・顔写真.jpg佐藤一道さん.jpg奥村岳宏さん.jpg浦野正二さん.jpg鈴木章さん.jpg
後藤 正   大家千絵   佐藤一道   奥村岳弘   浦野正二   鈴木 章

リレーエッセー執筆者略歴 コチラ

記事がたたまれています。それぞれの見出しをクリックして下さい。↓

師は弟子をほめぬのが修行   後藤 正          (2012.12.21)

後藤正さん.jpgインドへ行ってきた。ガンガ(ガンジス河)沿いのシャカの生誕から入滅までの遺跡を廻ってきた。

 21年前にも行ったのだが、どこをどう廻ったのか記憶が飛んでしまってわからなくなっていた。灼熱の太陽と土ぼこりのインドは少しも変わっていなかった。当時の記憶がよみがえり懐かしかった。

 21年前、行きの飛行機のなかで私は気分が悪くなり、トイレで吐いていた。

 すると先生(ヨーガの会の主宰者)が「これを飲みなさい」と丸薬を一粒くれた。飲むと不思議にも気分が良くなり、私が礼を言うと「私についていらっしゃい。あなたを引き上げてあげます」と妙なことを言う。私は深く考えずに「お願いします」と頭を下げた。

 それからは先生の雑用係として常に側にいた。先生は私をこき使った。

 たとえば、ある山頂の聖地に着いた時「あれを出しなさい」と言う。事前に聞かされていないので「あれとは?…」と聞き返すと「持ってきてないのですか」と声を荒げる。私は急いで山を下りながら頭を巡らした。バスに戻ると、先生のかばんから経典を取りだして山を駆け上がった。

 頂上に着くと先生はすでに「ヨーガスートラ(経典)」を祭壇で暗唱していた。

 一番大変だったのは朝、先生を起こすことだった。ホテルでの夕食後、先生の部屋にみんなで集まって酒を呑んでは歓談をする。夜も更けて散会の段になると

「明日の朝3時に起こしてください」と先生が言う。起こすまでに1~2時間しかないのが常だった。

 翌朝目覚ましの音で跳ね起き、先生の部屋をノックすると「どうぞ」と声が返ってくる。先生はすでに起きてヨーガを行じていた。

 毎日起こしに行ったが寝ていたことはなかった。先生が私を試しているのはわかってきた。ただ私は連日の睡眠不足で昼でも夢うつつの状態だった。

 14日目の最後の夜、私は「床でもいいですからここで寝させてください。必ず起こします」と先生に挑んだ。「では私のベッドで寝なさい」私は先生が寝ないか観察するつもりでいた。

 先生が呼ぶ声がすると気づいた時には遅かった。私は不覚にも寝てしまっていたのだ。その時「この人は化け物か」と思った。

 現代医学の常識からは考えられないが…

ページトップへ

クレイマー対策が人の善意を拒む過敏社会  後藤 正     (2012.10.05)

後藤正さん.jpg家を新築したので、ついでに冷蔵庫も新しく買うことにした。知人に、10年以上たった冷蔵庫は省エネになっていないので、消費電力がとても高くて、かえって損だと教えられたのだ。


早速、大手量販店で購入して家に運んでもらうことにした。搬入の日、20代と思しき若い運搬作業員が二人トラックでやってきた。

 玄関は狭いのでリビングから搬入してもらおうと案内すると、若い二人が突然荷を下ろして「運べません」と言う。  

 家の裏の一段高い所に新築したので、リビングの床が地面から1㍍ほどの高さになっている。二人では持ち上げられないと言う。引っ越しが終わったあとで古い家を壊して段差を埋める予定にしていた。

 「新築のサッシに傷をつければ補償問題が発生する恐れがあります。後日4人で来ます」とも言う。私は予定が狂うので慌てた。

 重さを聞くと100㎏超だとか。それならなんとかなりそうだ。「手伝うから」と私が言うと、そばで仕事をしていた左官屋とカーテン屋が「手伝ってもいいよ」と声をかけてくれた。

 男5人なら造作もない。しかも重いものを持ち上げることには慣れている職人ばかりだ。5秒で終わるだろう。

 ところが二人は「お断りします」と迷惑顔だ。部外者に手伝ってもらうわけにはいかないのだと言う。

 担当の作業者以外が業務に従事して事故が起きた場合、労務上の補償制度に入っていないので、後日トラブルになる恐れがあるというのがその理由だ。
「たとえ家が傷つこうと怪我をしようと、あんたらを訴えたりはしないから運んでよ」と私が苛立ちを抑えて言うと「そう言いながら訴えたケースがあります」と反論する。

 私は段々腹が立ってきて「誰がそんなせこい真似をするもんか」「客のおれがいいと言ってるんだから運べ」と強く言った。

 すると二人はものも言わずにどこかへ消えてしまった。しばらくすると戻ってきて…

ページトップへ

秘事法門の子でいいと覚悟してみるが…  後藤 正      (2012.07.20)

後藤正さん.jpg 私を産んだ人が逝った。享年88だった。普通はこうした人を母と呼ぶが、私とは母子の名乗りをせずに逝ってしまったので、そう呼ぶことにためらいを覚える。

 この1年半ほど入退院を繰り返していたので、見舞いには何度も行った。私が行くと必ず体を起こしてベッドの縁に腰を掛け、きちんと応対する気丈ぶりを示した。

 私が何度も見舞いに行ったのは、ひょっとしたら母子の名乗りができるかもしれないという期待があっただけではない。実父が誰なのか明かしてくれるかもしれないという期待もあった。だが、それらは叶えられなかった。墓場まで持っていってしまったのだ。

 現実的にも、高齢で耳が極端に遠く、とても会話ができる状態ではなかった。一方的にしゃべるのを、私があごで相槌を打ちながら聞いているだけだった。死期の近い老女と額を突き合わせて、本人には苦痛の話を引き出す非情さも、私にはなかった。

 私は未婚の母の子として生まれたらしい。戸籍には父と母の名がちゃんとあるが、父母の名字が違っているし、また父親欄の名前とは別に実父がいると祖父から聞いていた。

 幼いころには2度養子に入った。入った先の養父が自死し、養母もほどなくして病死したので、養母の実家に預けられた。身近な手掛かりはここで消えた。

 出生がわからないことは若い私を悩ませた。実父のことは何も情報がなく、名前すら知らない。あれこれ思いめぐらせては苦悶した。

 あるとき母の父、つまり祖父に聞いたことがある。すると「お前は知らなくていい」と言う。「なぜだ」と問うと「あれが可哀想だ」と言う。私は絶句した。孫より娘のことを心配しているのだ。私の苦悶はどうなるのだと思った。

 そのとき私は、世間では孫は可愛いと言うが、娘を通しているからそう思うのであって、本当は娘ほどではないのだと悟った。

 祖父の言葉がトラウマになってか、以後、私は出生のことを聞けなくなった。

 私が手をこまねいているうちに身内はどんどん死んでしまい、一番真相を知っている当事者もとうとう死んでしまった。戸籍からは追えず、手がかりはまったく無くなった。 いま立ち止まって静かに思う。私はもう60半ばである。子があり孫がある身だ。すっぱりと諦めよう。私自身は「秘事法門」の子でいいではないか。私の前の道はわからなかったが、私のあとに道はつづく。

 本箱の棚に生んでくれた人の遺影を飾った。毎日眼にする位置だ。静かに手を合わせて供養しようと思うが、ときどき恨みがましい言葉がでそうになる。これも修行かと自戒する

荒廃の原因は遷都造営だった  後藤 正           (2012.04.20)

後藤正さん.jpg 平成10年、奈良で平城京遷都1300年祭が開催され、復元した大極殿が公開された。朱に彩られた宮殿の太い柱、碧い甍は、匂いたつ天平文化を現代に蘇らせ、人々を大いに魅了した。
 ところが先日、雅な王朝文化の陰に隠れた別の歴史があることを知った。それは現代にまで残る負の遺産を我々に突き付けている。
 私が所属する歴史の会である方が発表されたものだが、私には衝撃的な話だった。発表は「国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所」が一般向けに発行しているカラー冊子を基に、ご自身が調べたものを加えてなされた。
 古代王朝は、なにか不浄なことがあると遷都を繰り返した。藤原京から平城京へ、長岡京などを経て平安京(京都)へと、短い間に都を何度も移した。
 都を移すことは人が移動するだけではない。新しい地に新しい建物を建設することを意味する。
 宮殿を建設するには日本の場合は木を使う。それも樹齢1000年クラスの巨木を何本も必要とする。木の伐り出しは、筏に組んで川に流す水上輸送に便利な所で行う。奈良の場合は近くの琵琶湖南部の田上山山系が候補地になった。瀬田川から淀川となり大阪湾に注ぐ水系が使える。桧、杉、樫などの巨木を途中陸路も利用して新都に運んだ。
 奈良の都は仏教文化の最盛期だった。大仏で有名な東大寺、興福寺、唐招提寺など南都七大寺が次々に巨大寺院を建立した。さらに熱心な仏教信者の聖武天皇は、甲賀郡紫香楽村に離宮を造営した。
 こうなると山が荒廃しないわけがない。天平宝宇4年(761)には、早くも大洪水が発生した。度重なる土砂崩れは川を下り、大阪湾を埋め始めた。 戦国時代にはあちこちに小島ができるまでに堆積していた。それで織田信長と真宗本願寺派が戦った石山合戦では、船で小島を攻める陣取り合戦をしていた。本願寺跡は今の大阪城なのだが現在、辺りに海の面影はまるでない。堆積で陸地になってしまったのだ。
 山に沃土がなくなると桧、杉は生えないが、痩地に強い松が自然に成育してきた。
朝廷に替わって山を荒廃させたのは民衆だった。松は燃やすと火力が強い。狸の置物で有名な陶器の信楽焼きの生産が始まると松が盛んに伐られた。加えて薪採りで山はさらに荒れた。
 風化しやすい花崗岩の山はもろく、失った土の再生は難しい。江戸幕府は、木根の掘り取り禁止や苗木植え付け令をたびたび発令したが効果は少なかった。
 田上山では今、山を棚田に削り、松とヒメヤシャブシを交互に植えている。100年で1㌢の表層沃土ができるという。今後日本人が原発の是非を判断する上で示唆的な話だ。

言葉のすり替えでは解決しない 後藤 正           (2012.01.27)

後藤正さん.jpg  太平洋戦争中の日本軍には「退却」という言葉がなかった。天皇(神)の軍隊が敵に背を向けることはありえないとの考えからだ。
 それでも戦場では退却しなければならない場合がある。特に敗色濃厚となった戦争末期には、現場指揮官の将校は迷ったようだ。
 退くことが許されないなら前へ進むしかない。ほとんどの将校が「突撃!」と苦渋の号令を下した。この結果多くの兵隊が死んでいった。今からみれば犬死にだが、これを玉が砕ける、すなわち「玉砕」と美しい言葉で表した。
 知人に軍隊歴8年の元陸軍軍曹がいた。白骨街道で有名なインパール作戦の生き残りだった。その軍曹が興味深い話をしてくれた。 敵に追い詰められて進退極まった時、若い指揮官に「少尉殿、敵に向かって『転進』と命令してください」と進言したという。「転進」とはUターンのことだ。行動内容は退却と変わらないのだが言葉が違う。軍曹はこうして部下たちを救ったという。
 この話は日本人の精神構造、とりわけ言葉と行動の関係を知るうえで非常に示唆的だ。昨年の福島原発事故をめぐる日本人の反応をみると、精神構造が日本軍とあまり変わっていないことに驚く。
 政府は事故収束に向けた工程表ステップ2の「冷温停止」を年内までに達成すると明言し、年末には目標を達成できたとして事故の収束宣言を出した。
 これには誰もが驚いた。今はなんとか水で冷やしているからいいようにみえるが、原発内で放射性物質の崩壊熱が何千度にも高まる危険性は依然去ってはいない。しかもこの先何万年も冷やし続けなければならない。どこが冷温停止だと猛烈な批判が起きて当然だ。
 ところが政府は「冷温停止」とは言っていない、「冷温停止状態」になったのだと言う。よくわからないが、安定した冷温停止ではないにせよ、それに近い状態になったから目標は達成したという意味らしい。  
 私は日本人の言霊信仰を見る思いだった。言霊信仰では言葉には霊力があるから、口から言葉を発すると現実が言葉どおりになると信じる。受験生に「すべる」という言葉を使ってはいけないというのも、言葉に出して現実に不合格になったら責任を問われると思うからだ。
 言霊信仰が困るのは、現実の問題を言葉の言い回しにすり替えることで、解決したと信じ込んでしまうことだ。現実(本質)を直視していないので、真に必要な手立てを打たなくなる。解決済みと判断してしまうので、それ以上は考えなくなる。
 これは恐ろしいことだ。原発事故は今後気の遠くなるほどの時間がかかる。言葉の問題ではないはずだ。

安易な「改革」を信じるな   杉浦弘髙          (2012.12.07)

杉浦エッセイ写真.jpg政治のリーダーであるべき政治家が実はリーダーでは無くなり、いつの間にかマスメディアと大衆がリーダーとなってしまった。そして大衆迎合政治が産まれた。

 「改革の誤解」については先回述べた。改革と言う言葉を付ければ全てがうまくいくかの様に、金科玉条の如く政治家・マスコミ・経済界そして大衆社会が「○○改革」を安直に使っているが、大きな偽善である。流血と命を賭した戦争に依って明治の改革、維新が成されたのは周知の事である。改革とは生易しいものではないのだ。

 イギリスでは改革の核心を突いた、こんな格言がある。「4つの改革のうち改善は最大で1つ、又はゼロ。改悪が1つ、残りの2つは絵に描いた餅である」。改革を口にする人間を信ず
るなと言っている。

 1つでも改善すれば良い、だからこそ大切。という理屈は理解するが、改革を軽々に叫ぶ人は思慮のない受け狙いが多い。

 トヨタ自動車のカイゼンと言う日本語とその中身が世界語となり工業製品を生産する為のバイブルとなっている。

 大量生産品の生産性向上は、合理性と論理だけでその機能を発揮できたが、それを人間関係で成り立つ社会の改善にそのまま持ち込んだ時、その機能は破綻するであろう。

 イギリスで言う成功した改革は、人間にとって最も大切な「情」と言う要素が加わった時に始めて、改善となった。

 小泉政権と民主党の改革がことごとく改悪、又は機能不全となったのは、「情」に適っているかどうか、と言う要素を組み込まなかった事にあると思う。

 一方で大衆迎合政治によって日本の統治体制の弱体化をもたらした大きな要因は、細川政権が小沢氏等と手を組んで強引に中選挙区制から小選挙区に変えてしまった事にある。

 例えば現行の小選挙区には東京都大田区や世田谷区のような、区議選の選挙区よりも小さい所がある。国会議員の選挙区が区議よりも小さいという馬鹿な話は有名である。

 小さな選挙区で過半数を獲得する為に大衆受けする事だけを言えば良いという風潮が…

ページトップへ

改革もマニフェストも麻薬だったか  杉浦弘髙        (2012.09.21)

杉浦エッセイ写真.jpg90年代初頭に根強い誤解が始まり、政治の軽薄化と混迷が始まった。政治改革、行財政改革と言う「改革」が世直しの特効薬の如く妄信され始めた。同じく「マニフェスト」も妄信され始めた。しかし改革もマニフェストも特効薬どころか麻薬であったか。

 最近民主党が原因で流行ってきたのが「決断主義」である。決められない政治から決める政治へと言う麻薬である。しかし政治とは慎重な議論が命であり、忍耐力の要る長い議論のプロセスに挑むのが政治である。専制的に政治家に博打を打たれては取り返しがつかない。

 小泉劇場の改革と言う言葉と共に、国民が決断政治に惹きつけられ、政治が芝居に引き込まれた。次は民主党のマニフェストに望みを託して日本が壊れ始めている、にも拘らずに、今また懲りずに、決断を売りにする坂本龍馬気取りの維新の会を贔屓にするマスコミと知識人種と大衆が熱狂し、英雄扱いである。AKB48に熱狂する〝こども大人〟の悲しい姿と重なる。政治が娯楽となった。

 ハイデガーが『存在と時間』の中で、人間を本来的な人間と非本来的な人間の2種類に分類している。更に彼は人間の道徳的な退廃は自らの死を認識する事ができない事に起因する、とも言っている。

 現在の日本の民主主義に関しても全く同じ整理が出来る。本来的民主主義とは国民的民主主義の事であり、ここで言う国民とは国家の歴史的物語を持ち、国家の伝統を陰に陽に背負って生きる人々の事である。

 一方、非本来的民主主義とはハイデガーの言う非本来的な人間、あるいはオルテガの言う大衆人と呼ぶ人々が大きな力を持ってしまう民主主義のことを言い、大衆民主主義、いわゆるポピュリズムである。民主党を始めとするマニフェスト信奉者達や、橋下大阪市長の一連のハシズムに繋がる系譜である。

 民主主義は「民主の主義」であるから民の質が問われねばならない。今の日本の大衆化された世の中では、拝金・利便性主義、大量生産大量消費社会に加えて、平和と言う共同幻想を抱く。死と向き合う事をしない平和ボケとなった大衆によって、民主主義が必然的に非本来的民主主義に流れた。

 このような大衆民主主義の中にあって、国家の歴史物語や伝統を背負わない人々は、それ故に物事を長期的に考えない。目先の私利私欲しか目に入らなくなるのである。その延長に出てきたのがハシズムである。 この事と今の日本の道徳的退廃はつながっている。更に瓦礫処理拒否でも明らかな様に、震災での絆が偽物であった事と同根なのである。非本来的人間と言う大衆が、本来的政治家を抹殺し、国を滅ぼすのを怖れるのである。

ページトップへ

ページトップへ

グリーン経済は成功するか?  杉浦弘髙           (2012.07.06)

杉浦エッセイ写真.jpg2012年6月20日~22日の3日間、世界190ヶ国の代表がリオデジャネイロ(ブラジル)に集結し、「国連持続可能な開発会議(リオ+20)」が開催された。1992年同会議設立から20周年を迎える事から、ブラジル政府がリオ+20と命名したのである。

 前回会議は、今日に至る地球環境の保護や持続可能な社会の考え方に、大きな影響を与えた。しかし2002年のCOP6での2010年までの目標達成が不可能となり、2010年名古屋でのCOP10で、短期で2020年、長期で2050年までの新目標が修正決議された。然しながらここに至ってその目標は悉く実現不可能となり、今回会議となったのである。

 持続可能な未来を築くと誓った前回のリオ会議から20年経った今、世界事情は前進どころかさらに悪化している。その原因は何か。それは今回のリオ+20での中国の温家宝首相の演説に集約されている。首相は、中国を「大きな途上国」と位置付け、「先進国は持続不可能な生産・消費モデルを放棄し、途上国の発展を助けるべきだ」と語って、環境問題では先進国が特別な責任を果たすべきだ、との考えを改めて強調した。

 先進国側は、途上国を含む全ての国が環境保全と経済成長を両立させる「グリーン経済」を目指すべきだと主張しているが、温首相は演説でこれに反対の立場を明確にした。しかし先進国は中国を非難できない。彼らの本音を中国が言ったに過ぎないからである。

 それは環境保全という視点だけではその解決は難しいからであり、公害の主犯であった経済成長を再度舞台に引っ張り上げ、環境保全と経済成長を両立させるという「グリーン経済」なる新目標を掲げたのである。
 限度を知らない過剰な経済活動が公害を生んだ。環境を破壊し続けたにも係わらず、環境保全を口実に金儲けの産業振興に猛進した。それは経済的豊かさと便利さを求め続ける贅沢病に病んだ結果である事は、我々は内心、全て承知の上である。グリーン経済なる言葉で環境保全を唱えるが、その実は経済優先のブラック経済から抜け出せないでいるのだ。

 ちなみにリオ+20への出席の要請を再三、ルセフ大統領が各国首脳へ出したが、米国大統領は自らの選挙で多忙である。欧州連合は金融危機で環境どころではない。我国は国会での増税の正念場で、前回に続き首相は不参加。まことに低調な会議であった。

 実の所は人類の滅亡に係る重大事にもかかわらず、環境の悪化には関心が無いのかも知れない。フクシマ、東北の被災もこのような人類の愚行と無関係とは思えない。贅沢病に冒された我々日本人の悲しい人害=新しい公害かも知れない。

ページトップへ

橋本市長を誕生させた民衆政治を問う  杉浦弘髙       (2012.04.06)

杉浦エッセイ写真.jpg 大阪・橋本徹市長の公約「維新版・船中八策」の元は、坂本龍馬作とされる「船中八策」である。慶応3年(1867)、龍馬が長崎より京都へむかう船中で、明治維新にむけての八つの政策を後藤象二郎に語ったと言われる。
 司馬遼太郎の『竜馬が行く』では、一介の土佐郷士が幕末の風雲児として描かれた。「船中八策」は土佐勤王党の仲間からも「人物なれども書物を読まぬ」と揶揄された龍馬の着想とは思えない。横井小楠の思想を軸として勝海舟、福井藩主松平春嶽、幕府の大久保一翁、小楠門下の三岡八郎らが論議していた政策をまとめたものだろう。
 それらは小楠が幕府に提出した「国是七条」を基本としている。機を見るに敏で要領が良く、根回し上手、商売上手で行動力抜群の龍馬が、勝海舟らの手足となって働いていたのであろう。
 橋本市長の「船中八策」は、日本再生の為のグレートリセットと称して、次の8点をあげた。
 ①首相公選制を含む統治機構の作り直し。
 ②財政行政の改革。
 ③公務員制度の改革。
 ④教育改革。
 ⑤社会保障制度見直し。
 ⑥経済政策・雇用政策・税制の改革。
 ⑦外交・防衛の見直し。
 ⑧憲法改正手の制度化。
 民主主義を奉じ、平成の構造改革運動を信じてきた人々は、橋本市長に拍手喝采しなければならない。
 過去にも記したが、民主主義と言うものは古代ギリシャの頃から論理的・必然的に独裁政治(デスポティズム)である。マルクスのドイツ社会民主党、レーニンのロシア社会民主労働党の先例があり、北朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国という。「主義としての民主主義」を奉じることの結果として、独裁者(デスポット)を仰ぎ見る事となる。
 デモクラシーは日本では民主主義と訳された。デーモス(民衆)によるクラシー(政治)、つまり民衆政治である。民衆と言う多数者が多数決で物事を決める。すなわち、真っ当な政治が行われるかどうかは、多数派が真っ当かどうかに懸かっているのである。
 しかし、そんな議論はタブーとなった今の日本では「民意・民衆は無条件で正しい」とされる。
 橋本市長はまさに日本の民主主義=民衆政治の権化だ。ドイツのヒトラーは1933年授権法と言う全権委任法で独裁者になった。彼が勝手に全権を奪った訳では無い。国民投票で国民が全権を与えたのである。
 国民投票が無条件で正しい選択かどうかは保証の限りではない。議論(能力のある候補者選考)なき、議会(政策チェック機能)なき首相公選制が、ヒトラーのようなトンチキな指導者をもたらした事を歴史の教訓とすべきである。

大衆迎合社会の危険な兆候 杉浦弘髙             (2012.01.13)

杉浦エッセイ写真.jpg昨年2011年の漢字が「絆」と発表された。今の日本人にはその意識が希薄になっている事は多くの人が感じていると思う。
 しかし3・11の震災以降、日本人はあの大震災を自分の事として悲しみ、被災地に対して励ましの心や物資を寄せた。「まだ日本人も捨てたもんじゃないな」と思う反面、日々の生活の中で、地域における身近な人々との絆が繋がっているかどうかと考えると、果して被災地に対する心が本物なのであろうかと不安でもあるのだ。
 小生の周りには自分を犠牲にして地域や人の為に活動している多くの人々がいる。しかし自治区、PTA、老人会、消防団等々の地域活動への参加率は低下している。世話役の役員になるのが嫌でやめてしまうという例も見られる。自己中心的な社会となっている事も又、今の日本人の憂うべき現実であろう。
 石原東京都知事が「震災は天罰」と言う言葉を発したとしてマスコミと国民から集中砲火を浴びて、流石の石原知事も謝罪をする破目になった。知事のコメントを読んでみると、その真意は予想どうり、被災地に向けた言葉ではない。今の日本人に対する戒めの言葉であった。マスコミが発言の一部分だけを取り上げ、国民が騒ぎ立てたのである。大衆迎合化した社会の弊害の象徴であった。
 「自然を大切に」とか「自然との共生」とか「地球に優しく」とか言う。一見正しそうな言葉を乱発し、それを免罪符にして、エコとか環境対策と称して、結果として自然・環境に良くない事をしている。人間と自然との本来あるべき関係を人間の都合の良い様に勝手に勘違いして、認識してきた結果でもある。
 「民主主議は大衆迎合主義へと変貌を遂げ、その後、共産社会主義・国粋主義・ファシズムとなる」とかつて私は述べたが、今、民意と改革と言う名の下にそれが現実となってきた。
 「政治に必要なのは独裁だ」と言って自己陶酔し、自分の言い分が通らないから効率の良い独裁、という誘惑に負けて勝手な理屈を並べて大阪府知事を投げ出し、新大阪市長が誕生したのである。確かに手早く世直しをするには独裁が便利だと小生も思うが、あまりに短絡的で危うい。
 さらに怖いのは、彼なら世直しができると、国民が思い始めている点である。この現象は2年前の政権交代の時に似ているが、さらに悪化しているのでは…。
 ヒットラーを産んだナチ党と言う地方政党がドイツのみならず、世界を震撼させた狂気については周知の事である。大阪・名古屋の危険な兆候を日本国民は感じていないのであろう。
 「人心の乱れと天変地異」が同時進行で人類を襲っていると感じる。

師は弟子をほめぬのが修行   後藤 正          (2012.12.21)

後藤正さん.jpgインドへ行ってきた。ガンガ(ガンジス河)沿いのシャカの生誕から入滅までの遺跡を廻ってきた。

 21年前にも行ったのだが、どこをどう廻ったのか記憶が飛んでしまってわからなくなっていた。灼熱の太陽と土ぼこりのインドは少しも変わっていなかった。当時の記憶がよみがえり懐かしかった。

 21年前、行きの飛行機のなかで私は気分が悪くなり、トイレで吐いていた。

 すると先生(ヨーガの会の主宰者)が「これを飲みなさい」と丸薬を一粒くれた。飲むと不思議にも気分が良くなり、私が礼を言うと「私についていらっしゃい。あなたを引き上げてあげます」と妙なことを言う。私は深く考えずに「お願いします」と頭を下げた。

 それからは先生の雑用係として常に側にいた。先生は私をこき使った。

 たとえば、ある山頂の聖地に着いた時「あれを出しなさい」と言う。事前に聞かされていないので「あれとは?…」と聞き返すと「持ってきてないのですか」と声を荒げる。私は急いで山を下りながら頭を巡らした。バスに戻ると、先生のかばんから経典を取りだして山を駆け上がった。

 頂上に着くと先生はすでに「ヨーガスートラ(経典)」を祭壇で暗唱していた。

 一番大変だったのは朝、先生を起こすことだった。ホテルでの夕食後、先生の部屋にみんなで集まって酒を呑んでは歓談をする。夜も更けて散会の段になると

「明日の朝3時に起こしてください」と先生が言う。起こすまでに1~2時間しかないのが常だった。

 翌朝目覚ましの音で跳ね起き、先生の部屋をノックすると「どうぞ」と声が返ってくる。先生はすでに起きてヨーガを行じていた。

 毎日起こしに行ったが寝ていたことはなかった。先生が私を試しているのはわかってきた。ただ私は連日の睡眠不足で昼でも夢うつつの状態だった。

 14日目の最後の夜、私は「床でもいいですからここで寝させてください。必ず起こします」と先生に挑んだ。「では私のベッドで寝なさい」私は先生が寝ないか観察するつもりでいた。

 先生が呼ぶ声がすると気づいた時には遅かった。私は不覚にも寝てしまっていたのだ。その時「この人は化け物か」と思った。

 現代医学の常識からは考えられないが…

末野原中学『forever』大合唱   佐藤鋹弘          (2012.12.14)

佐藤とし弘さん.jpg「♪兎追いしかの山…」。友と『ふるさと』を唄い、友情に心震える自身に愛着を感じた体験は、誰にもあるでしょう。歌は悲しみの時も、喜びの時も、応援歌にも癒しにも、また歓喜の歌にもなる不思議な力を持っています。

 今から18年前、阪神大震災直後の憔悴しきった体育館の避難所に、フルートを携え慰問した2人の少女。彼女らが奏でるふるさとの旋律に涙する被災者の姿をテレビは捉えていました。

 今や兎も小ブナも体感の外ではありますが、故郷への郷愁と父母への思いは、幼少の回想と重なり、人々の最も純粋な心にやさしい光を投げかけています。日本人のこころを感じるこの歌は、第2の国歌の感もします。

 11月22日。誰が仕組んだわけでもない奇跡的な巡り合わせが起きました。750名の末野原中学校生による『forever』の大合唱。「♪この森と大地が緑に溢れる時、生きる力と喜びを与えてくれる…」。

 この日私たちNPOは、内モンゴルで砂漠化防止に孤軍奮闘するオイスカの冨樫青年と共に、当校を訪れていました。今も1分間にサッカー場一面分が砂漠化していく。少雨、炎暑、極寒と最悪の環境の中で使命感に燃える彼の生き様に、学術的な考察を加えた講演は、中学生の心に大きく響きました。そのお礼にと唄われたこの曲。体育館を揺るがす大合唱は、涙なくして聞けませんでした。

 震災復興支援ソング『花は咲く』も感動のつぼみです。「♪花は花は花は咲く、いつかは生まれる君に…」。
犠牲となった友の無念と活躍を偲びつつ、悲しみの中から立ち直る姿を唄ったこの歌は、沈んだ日本人の心に、ゆっくりでいいから立ち上がろうと呼びかけています。被災地宮城で開催された世界的なフィギア大会でのオリンピック金メダリストと子供たちの華麗な舞は氷上に咲いた鎮魂詩でした。

 「♪ナンバーワンにならなくてもいい…」。おなじみの『世界にひとつだけの花』。人気グループが唄うこの歌は、一段と社会性を帯びている。本質的には、ナンバーワンもオンリーワンも共に重要だ。あえてオンリーワンを呼びかける中に、歌を通じて人々がやさしくなり、回りへの思いやりの心を啓発させるところに、この歌の意義がある。

 最後は我が人生最大の感動メロディ…

安易な「改革」を信じるな   杉浦弘髙          (2012.12.07)

杉浦エッセイ写真.jpg政治のリーダーであるべき政治家が実はリーダーでは無くなり、いつの間にかマスメディアと大衆がリーダーとなってしまった。そして大衆迎合政治が産まれた。

 「改革の誤解」については先回述べた。改革と言う言葉を付ければ全てがうまくいくかの様に、金科玉条の如く政治家・マスコミ・経済界そして大衆社会が「○○改革」を安直に使っているが、大きな偽善である。流血と命を賭した戦争に依って明治の改革、維新が成されたのは周知の事である。改革とは生易しいものではないのだ。

 イギリスでは改革の核心を突いた、こんな格言がある。「4つの改革のうち改善は最大で1つ、又はゼロ。改悪が1つ、残りの2つは絵に描いた餅である」。改革を口にする人間を信ず
るなと言っている。

 1つでも改善すれば良い、だからこそ大切。という理屈は理解するが、改革を軽々に叫ぶ人は思慮のない受け狙いが多い。

 トヨタ自動車のカイゼンと言う日本語とその中身が世界語となり工業製品を生産する為のバイブルとなっている。

 大量生産品の生産性向上は、合理性と論理だけでその機能を発揮できたが、それを人間関係で成り立つ社会の改善にそのまま持ち込んだ時、その機能は破綻するであろう。

 イギリスで言う成功した改革は、人間にとって最も大切な「情」と言う要素が加わった時に始めて、改善となった。

 小泉政権と民主党の改革がことごとく改悪、又は機能不全となったのは、「情」に適っているかどうか、と言う要素を組み込まなかった事にあると思う。

 一方で大衆迎合政治によって日本の統治体制の弱体化をもたらした大きな要因は、細川政権が小沢氏等と手を組んで強引に中選挙区制から小選挙区に変えてしまった事にある。

 例えば現行の小選挙区には東京都大田区や世田谷区のような、区議選の選挙区よりも小さい所がある。国会議員の選挙区が区議よりも小さいという馬鹿な話は有名である。

 小さな選挙区で過半数を獲得する為に大衆受けする事だけを言えば良いという風潮が…

わが人生は ばんえい競馬 のごとく   硲 伸夫          (2012.11.30)

硲.jpg体重のリバウンド対策で一念発起、ダイエットに取り組むことにした。私の長い人生での一大チャレンジである。ウォーキングは手っ取り早いが、ただ黙々と歩くだけではつまらない。 思いついた一石二鳥は、私が理事長をしている矢作川森林塾の、いつも遅れ勝ちの河畔の草刈りだ。都合のつく日は毎朝、一人で活動フィールドの久澄橋の下へ出かけ草刈りをすることにした。毎週土曜日の定例活動日に加えて毎日となると、大変な仕事だ。一カ月もしないうちに、右足のふくらはぎが張れて歩けなくなった。

 近くの整形外科に行ったところ、「これは肉離れだ。いったい何をやったのだ」と言われ、数日間の安静を言い渡された。医者は孫の運動会か何かで、年甲斐もなく張り切ったのだろうと思ったに違いない。

 居間で寝転がってテレビを見ていたら、ばんえい競馬「中高年の星ゴールデンバージ」のラストランというニュースをやっていた。ばんえい競馬は「輓曳競馬」と書く。北海道産の大型の輓馬が重さ約1トンの鉄そりを曳いて200mコースを走る。高さ1・7mの盛土の障害二カ所を乗り越えて速さを競うのである。 

 ゴールデンバージは人で言えば60歳を超える高齢の輓馬だろう。一つ目の障害は無事乗り越えたが、二つ目は自分の持てる力をすべて振り絞って、最下位でゴールした。観客は盛大な拍手で彼の健闘を称えていた。

 この時、ゴールデンバージの奮闘を自分の人生に重ね合わせている自分に気付いた。私の人生を振り返ると、一つ目の障害はサラリーマン時代であり、精いっぱいの努力と家族の理解で、無事に乗り越えることができた。

 そして多分─人生最後の挑戦となるであろう第二番目の目標はNPO法人矢作川森林塾活動でのチャレンジである。私にとって単なるボランティアではない。「環境モデル都市豊田市」にふさわしい、市民主導の、市民が憩える、自然豊かな「河畔の都市林」造りへの挑戦である。 2005年に矢作川漁協の一特別委員会として発足以来、素晴らしい仲間達との努力があり、「河畔の都市林」の形がみえてきた。この間、NPO化による一般市民の参画、国土交通省とのアダプト(協働管理協定)の締結、そして市内企業の支援で運営面も充実しつつある。

 さらに活動フィールド近くの豊田東高校が、学校としての参画を模索してくれている。河畔の都市林を造るという事業は五十年、百年のロングスパンの活動だ。末永く持続していくための後継者の発掘も大きな課題である。市民と行政の「感動の共有」のモデル活動となることを願っている。

死・父の自己決定について   田中裕子          (2012.11.23)

田中裕子.jpg終活なるものを意識しつつ過ごす中、最近続いて二つの文章に出会い、深まる秋と共に、学問にも知識にも遠い分野での私考を深めている。

 その一つ。最期の「命」に対する考え方は、どれだけの「命」を見送ってきたかが大きな影響を与える旨の文章だった。

 延命治療や先端医療などの自己決定の責任も伝えていた。

 もう一つは「いのち」よりたいせつなものがあると伝える短文。人として目指すべきもの、守るべきものがそれだとあった。

 父と母の命日を迎えた10月末。二人の命の最期に私のそれを重ねない訳にはいかない。

 進行性リウマチの悪化で不自由な何年間を病床に過ごした母の命の重さを思う。その重さの量りは命の尊厳などとの観点ではなく、独断と無知の私的感覚。

 つい先日私は不注意で左手人差し指を切り、2針の縫合をした。それまで自由に動き使えていた私の指が動かない。そのために体全体で不自由、不満を感じる。それまで考えも感じもしなかったわが身の重さ。それがどっと圧し掛かってきて疎ましい。疎ましさの中で命が渦を巻く。そこに何年も孤独の中で耐えてきた母の命の重さが甦る。

 65歳の高齢者枠に入った私。それでも脚立にヒョイと載れる。自由自在に曲がり捻り折れる体がある。自身で支えられる命は軽い軽い。が、その私が最期に向かう日々はどうだろう。母のように全面介護にある命の重さに耐えて愚痴も言わず、感謝と平穏の中で死への道を辿れるだろか。それが母の自己決定だったと今なら解かる。

 その14年後父は87歳の誕生日に脳梗塞で倒れ入院。
心筋梗塞再発のリスクを理解した上でリハビリを受ける決定をした父。結果、再発。以後は嚥下力が悪くなり、最終段階の嚥下対応食は、介護する私の方がゲッとなるような色・匂い。それでも父の口に無理矢理押し込んだ。が、その食事はその時の一度だけ。

 父は私に「明日から食べん」と言い、以後点滴と、水を少し飲むだけで2日後、黄泉へと旅立った。

 その日は隣の部屋の92歳のおじいさんが胃ろうの選択をして手術を受ける日だった。

 常々、父は死の自己決定についての意思を私たち家族に伝えていた。死へと向かう命の重さの処置について鮮明な意思を持っていた。その意思は命より大切なものだったと思う。
 だから父のリスクを負ってのリハビリにも食べない選択にも私たち家族に戸惑いも迷いもなかった。   これまでたくさんの命を見送ったが、父母の遺したエンディングメッセージは、私の終活の深いテーマだ。

花田清輝の一筋縄でない面白さ 森  當          (2012.11.16)

森さん.jpg「たとえば風呂に入るときには、左の足から入り、出るときには右の足から出なければならない」と書きだされた花田清輝の小説『伊勢氏家訓』を思い出したのは回「走らぬ頭」で書いた花本出身の評論家本多秋五先生の『物語戦後文学史』の中の「手のうち見せぬ批評家・花田清輝」という文章からだった。

 この中には小説についての批評は書かれていないのだが、花田清輝の小説には一筋縄ではない面白さがあって、こんど読みかえした。

 さて、その小説『伊勢氏家訓』の続きである。

 「これは男性の場合だけであって、女性のばあいは、反対に右の足から入り、左の足から出なければならないのだ。うっかり左右の足をとりちがえたり、浴槽のふちに手をかけて、両足をかけたまま、はずみをつけて湯のなかにとびこんだりすると『尾籠のいたり』ということになった」とある。

 尾籠とは無礼の意である。この武家の礼儀作法は、鎌倉時代に始まり、室町時代にいたって完成をみたという。伊勢流もその流派のひとつだが、徳川幕府によって、礼儀作法の規範とされた小笠原流は伊勢流より武家的であった。男性が左の足から風呂に入るのは、まんいち敵に襲われた時に利き足を外に残しておくことで、相手を倒すためであったという。 

 さて、この小説の主人公、伊勢流の家元、伊勢貞親は色好みとして有名であったが、田舎から出てきた物覚えが悪く、すべてに不器用な大館の今という娘を、彼が一人前の女官に育てあげてゆくさまが、この小説の前半の山である。

 晩酌の膳に貞親は彼女をよんで、膳から一間ばかり離れたところに敷かれた一枚のむしろに座るようにいい貞親は稽古を始めるのだが、「つまるところ、そなたの稽古は、からだではなく、着物と足袋と畳が稽古しているのだからむしろの上で、着物もぬぎ、足袋もぬいで、生まれたままのからだで、けいこしてみてはどうか」と切り出した。

 これは貞親の常套手段だ。ほとんどの女性はここで脱落してしまうが、大館の今は、さらりと着物をぬいだ。暗闇の座敷で生まれたままので立ったり、座ったり、歩きまわったりする練習を続けた。貞親は隣りの部屋から晩酌をやりながら、暗闇の中で彼女の動きをみているのだが、本当はどこをみているのかわからないと作者は皮肉を言う。
 やがて彼女はときの将軍足利義政の側室となったが、事件にかかわり、島流しにされ、非業の死をとげた。

 「侍は家と命と女を忘れよ」というのが伊勢流の家元、貞親の結論だったが、その貞親自身も京都を焼け野原にした「応仁の乱」をまじかにした動乱の時代の中で、都を追われて地方へ落ちていったのである。


おせっかいな大人が地域にいた頃 加藤志津香         (2012.11.09)

加藤志津香さん.jpg童謡「焚き火」は垣根の曲り角で落ち葉焚きをしている様子が歌われているが、そんな情景が浮かばない世代が多くなっているのではないだろうか。

 今のみよし市内なら、落ち葉は青いゴミ袋に詰めて可燃ごみにするのが普通。ましてや「路上で焚き火」することなど考えられない。でも、知る人ぞ知る「焚き火で焼いたサツマイモ」は煙の香りがして、本物のおいしさがあるのだ。

 秋になると、畑のイベントで焼き芋を作ったという新聞記事を目にするが、記事になるのは「珍しい」ということなのだろう。

 先月、私もアグリスクールの芋ほり収穫祭の目玉として、焚き火で焼き芋を楽しんだ。広い畑の一角とはいえ周りに住宅が立ち並ぶ地区なので、消防署に焚き火の届出をし、もしものときに備えバケツやタライにたっぷり水を汲み置いた。

 当日は近隣のお宅の洗濯物がベランダに出される前に熾き火(炎が出ずに燃えている状態)にしてしまおうと、積み上げた剪定くずに早朝から火をつけた。幸い強い風も吹かず、おあつらえ向きの熾き火ができた。

 十日程前に掘っておいたサツマイモは、塩をふって濡らした新聞紙で包み、それをアルミホイルでもうひとまき。下ごしらえした芋を七十本ほど熾き火に入れて待つこと約1時間。みんなが畑に残っている芋を全部掘りあげるころには、ホクホクの焼き芋ができあがっていた。#1

 七~八年前「焚き火で芋が焼きたいんだけど、おばさんちの田んぼ貸して下さい。」と、近所の高校生らが訪ねて来たことがあった。実はサツマイモの下ごしらえは、そのとき彼らに教えてもらった方法だ。

 彼らはインターネットで調べたと言っていたが、下ごしらえした芋とゴミ袋一杯ほどの落ち葉を持ってやってきた。田んぼの真ん中に煙がのぼり、その周りは若い男子なんて、ちょっと珍しい風景ではないか。

 犬を散歩させていた近所のじいさまが足を止めて「まだぼうぼう燃えとるのに芋を入れちゃあ黒焦げになっちまうぞん。」軽トラで通りかかった野良帰りのおじさんも「ほだほだ、芋は熾き火を作ってから入れないかんだわ。」ギャラリーが増えていた。


そういえば、「焚き火で焼き芋」もめったに見かけなくなったが、おせっかいな大人も世間に少なくなったようにように思う。 うかつによその子に声をかけようものなら不審者呼ばわりされる昨今だが、おせっかいな大人に囲まれて地域で育った子どもらは、とても幸せだと思うのだ。

 りっぱな社会人になったあのときの焼き芋の少年を目にして、ちょっと疎ましかった他人様のおせっかいも「ありがたいものだな」と思えるこの頃なのだ。

ページトップへ

マニフェストとは何かを考える 鈴木 章           (2012.11.02)

鈴木章さん.jpg数字の裏付けのない公約を掲げて政権交代を果たした民主党のおかげで『マニフェスト』という言葉の重みが色あせてきていると思われる昨今ですが、国政選挙に限らず、地方選挙においても『有権者との約束』という意味ではマニフェストは大切な役割をしています。

 では、国政選挙と地方議会選挙でのマニフェストの違いは何でしょうか。それは、数字の裏付けを元に政策を約束することのできる『予算編成権』を持った国政選挙と、予算権限が首長側にあることにより、数字の裏付けを示すことができない地方議会選挙との違いです。

 このことにより、どうしても地方議会選挙でのマニフェストは『注目を集める』ことが少なくなってしまいます。

 そこで、早稲田大学マニフェスト研究所では、これまで注目を集めることが少なかった地方自治体の首長
・議会・議員の活動実績を募集・表彰し、受賞者氏名を発表することで、地方政治で地道な活動を積む人々に名誉を与え、更なる政策提言の意欲の向上につながることを期待して『マニフェスト大賞』を実施し、それが本年で7回目の開催となりました。

 今年は、8月31日に応募が締め切られた結果、全国から総計1376団体1889件という過去最高の応募がありました。

 私の所属する豊田市議会自民クラブ議員団では、日頃の活動を豊田市民だけでなく、広く世の中に知っていただくため、団の活動指針である『未来ビジョン』をマニフェスト大賞に応募することにしました。

 10月1日に発表があり、地方議会部門において『マニフェスト大賞優秀賞』を受賞することができました。グランプリは11月2日に東京で行われる授賞式で発表されることになっています。


審査員講評では、次のような評価をいただきました。市民意見を踏まえてマニフェスト「豊田市市議会自民クラブ議員団未来ビジョン」を作成・発表し、毎年度「予算への要望書」を提出し、継続的議会質問を起動力にし、具体的成果を「未来ビジョンチェックシート」で確認・評価している。それをもとに次年度の作戦を練るかたちで、マニフェスト・サイクルを強く意識しながら、逐年、政策を実現しつつある。強い持続力を内包する取り組みとして注目される──とのご評価でした。

 地方分権の時代が叫ばれる中、地方議会の役割はさらに大きなものとなり、市議会と市民の対話は益々重要になると思われます。『有権者との約束』としてのマニフェストの確立だけでなく、地域住民と市議会を繋げる情報発信としてのマニフェストの役割も求められています。

ページトップへ

茶髪青年が突然当社来訪して 浦野正二            (2012.10.26)

浦野正二さん.jpg今年も清酒の仕込みがはじまった。1864年の創業から毎年切れることなく仕込みを続けて148年目である。清酒の需要は大幅に落ち込んでいるが、日本独特の文化ともいえる清酒を絶やしてはならない。家業のプライドをもって清酒の仕込みを続けている。

 筆者は微生物工学の技術者であるが、老いては麒麟も駑馬に劣るの諺を自認し、現在は学卒の若い技術者を杜氏にして、清酒愛好家の期待に応えるべく旨い酒つくりに邁進している。

 さて私は日本文化を保持したい。日本語の乱れが目についてならない。毎朝6時からNHKの番組をみているのだが、代表的日本語を語るべきアナウンサーの言葉の乱れは誠に情けない。特に女性アナウンサーの対話になると甚だ乱暴に聞こえる。合槌に「ウン」とか「フン」を平気で使う。

 小生の幼いころ、両親は当然ながら兄、姉など年上の人に「ウン」と返事を使用するものなら、「誰に返事をしているのだ」と叱られたものだ。ましてや「フン」となると鼻であしらったことになり、以降相手にされなかったものだ。

 「厚顔無恥」なる言葉があるが、人はだれしもプライドを大切にしなくてはならない。相手のプライドを尊重する躾がおろそかにされていないだろうか。恥の概念が忘れられていると思う。「厚顔無智」となるといかようにもならない。「無智」は知恵も知識もないことで軽蔑されてもいたしかたない。

 「衣食足りて礼節を知る」との言葉は中国の「菅子」と記憶するが、「米蔵実ちて即ち礼節を知り、衣食足りて即ち栄辱(栄誉と恥辱)を知る」とのことである。衣食が足りすぎるのも考えものであるし、天衣無縫に生きるのもいかがなものか。

 民放放送になると幻滅を感じて見ていられない。よくも斯様な馬鹿げた番組が作れるものだと呆れてしまう。プロデューサーの資質を疑うのである。

 過日茶髪の青年が突然来訪し、杜氏としゃべっていた。紹介されても相手にしなかった。有名な「ウドちゃん」だといわれてもぜんぜん知らない。致し方なく酒の講釈をしたのだが、しゃべってみると格好とは違う人柄を感じ、後日丁重な書簡をもらった。先入観で判断する危険さを反省したものだった。天邪鬼といわれても致し方なく、老人の駄馬に劣るを実感した次第ではある。

 幼い頃から人前に出る時はスキを見せるなと教えられた。言葉と容姿はその人間を現すとも言われた。大好きなバスケットや、野球のアメリカ選手が刺青をいれていたりする。寝起きのままのような頭髪、視界を妨げるように下げた髪型、O脚なのに内股で歩くハイヒール女性…。現代の男女の神経が理解できない。

ページトップへ

「コップの中の嵐」と「頭の中の大嵐」 佐藤一道       (2012.10.19)

佐藤一道さん.jpg「コップの中の嵐」という表現がある。この言葉は、当事者にとってはおおごとでも、第三者から見ればつまらない争いという意味である。

 私の師匠の師匠は洗練された言葉遣いをする人だった。「コップの中の嵐」を「頭の中の大嵐」と言い換えた。ドイツ語で頭(Kopf)という単語の発音がコップに近いからである。そのうえ外から見ていたら何ともないが、当事者にとってはおおごとである様子をうまく表現している。

 どんな時に私の頭は大嵐になるのだろう。

 求める内容は人によって違っているが、人はいつも何かを求めている。富を求める人もいれば地位を求める人もいる。容姿であったり能力かもしれない。他と比較して優位に立ちたいと思う人。また逆に非難や嘲笑を回避できず劣等感にさいなまれたとき、慰めを求める人もいる。健康や幸福、安らぎや平和も人にとって求める対象であろう。

 しかし、求めれば必ず叶えられるというものではない。個人の能力、社会の制約、自然の摂理によって叶えられないことがある。そもそも求めてはならないことを求めるから叶わないということもある。求めて得られないとき、得たものに満足できないとき、得たものを失うとき「頭の中は大嵐」になるようだ。

 起こさなくてもよい嵐を自ら起こし自ら苦しむことはつまらないと思う。その理屈は分かっているのだが、それでも沸々と不足感が湧いてくる自分に対して不安、焦燥を感じている。そのような私はどうしたら嵐をやり過ごして、本当の安らいを見出すことができるのだろう。

 帰家穏坐(きかおんざ)という禅語がある。自分の家に帰って穏やかに座っているという意味である。

 大嵐の時こそ帰家穏坐すべきなのに「落ち着いて座っている場合じゃない」と動き廻って更に混乱していくのが常である。そうかと言って、まったく帰家穏坐を経験することがないわけではない。為すべき仕事を為し終えた時や心を痛めていた心配がなくなった時など、心底くつろいだことがある。

 しかし、禅語が表わす帰家穏坐はどうもそのような中途半端な話でない。足りないものが満たされたから安らぎ、意に適ったから安らぐでは本当の安らぎとは言い難い。私が見出したい安らいは求めて得られるものではなく、結果としてそうなっているような安らぎであるのかもしれない。

 自分にとって好ましいものを追い、好ましくないものから逃げるのではなく、今、私が出会っている事態にほかでもないこの私が真っすぐ出会い「頭の中の大嵐」を自ら鎮め鎮めしていること自体が安らぎの実物なのだと思う。

ページトップへ

子供の早期教育について考えた  大家千絵          (2012.10.12)

大家・顔写真.jpgこの夏は子どもの「早期教育」について考えさせらされた。

 今月2歳になった息子は、なんでもかんでもやりたがる自己主張のカタマリだ。一日のサイクルが出来ていて、午前中に外へ連れ出さないものなら、ご近所から「今日はご機嫌ななめね」と声がかかるほど泣き叫ぶ。そんな理由で、この夏も毎日の外遊びは続いた。

 日焼け止めと虫除けを塗り、帽子と水筒を持てば、機嫌はころっとよくなる。 猛暑日でも公園に行くと息子の友達が大抵いた。いつも一緒になる親子が1組、週1~2回一緒になる親子が3~4組。みんな1歳~2に歳なりたての男の子とママだ。お寺の森や水辺で子どもを遊ばせ、お母さん達はつかの間のおしゃべりタイム。最近の話題はもっぱら「幼稚園選び」と「幼児教室」「習い事」だ。

 私が住む地域が特別に教育熱心なのか、お母さん達の子どもにかける熱意はすごい。1歳半をすぎた頃から、スイミングと体操は当たり前。それに英語や知育系の幼児教室に通っている。気づけば習い事をしていないのはうちだけだ。

 これに加えて、この夏は満2歳の春入学に向けての教室の話題で持ち切りだった。「幼稚園は満3歳から」と思っていたが、そうではないらいしい。慣らし幼稚園の感覚で週に数回、子どもだけで通わせる。大抵2歳の春からなにかしらの「教室」に通いはじめるので、公園に2歳、3歳児の姿はほとんどない。

 バス通園が多いので通える幼稚園はかなりあり、それぞれに未就園児クラスがある。この他にも野外遊びや英語、音感教育、「脳力」開発などの分野に特化した幼児教室もあって、選択肢はありすぎる。条件、費用、設備を吟味し、体験会や入園説明会をハシゴする。願書提出がこの秋だ。

 ママ達の話を聞き、自分でも調べてみた。気になる教室があった。体験入学にも申し込んだ。子どもの自立にもなるし、息子の喜びそうな内容だ。合うようなら行かせたいとおもう。が、問題はお金だ。うちは一人っ子ではない。私のお腹に次の子がいる。将来の備えもいる。悩んだ。

 「子どもの可能性を伸ばしてあげたい」というママ達の前向きなパワーに触れ、お友達が元気に習い事にいくのをみると心が揺れた
 でもそんなモヤモヤはママ友の一言でさっぱり消えた。「夏を何とか乗り切ったね。一緒に遊んでくれてありがとう。1人だったらきっと習い事、もう一つ増やして子ども送り込んでたよー」と。「わかるー!」と笑ってしまった。

 「子どものため」はもちろん本当。でも習い事や早期教育の本音は、頑張るママ達の貴重な息抜きなのだ。うちはうち、でいこうと思う。

ページトップへ

クレイマー対策が人の善意を拒む過敏社会  後藤 正     (2012.10.05)

後藤正さん.jpg家を新築したので、ついでに冷蔵庫も新しく買うことにした。知人に、10年以上たった冷蔵庫は省エネになっていないので、消費電力がとても高くて、かえって損だと教えられたのだ。


早速、大手量販店で購入して家に運んでもらうことにした。搬入の日、20代と思しき若い運搬作業員が二人トラックでやってきた。

 玄関は狭いのでリビングから搬入してもらおうと案内すると、若い二人が突然荷を下ろして「運べません」と言う。  

 家の裏の一段高い所に新築したので、リビングの床が地面から1㍍ほどの高さになっている。二人では持ち上げられないと言う。引っ越しが終わったあとで古い家を壊して段差を埋める予定にしていた。

 「新築のサッシに傷をつければ補償問題が発生する恐れがあります。後日4人で来ます」とも言う。私は予定が狂うので慌てた。

 重さを聞くと100㎏超だとか。それならなんとかなりそうだ。「手伝うから」と私が言うと、そばで仕事をしていた左官屋とカーテン屋が「手伝ってもいいよ」と声をかけてくれた。

 男5人なら造作もない。しかも重いものを持ち上げることには慣れている職人ばかりだ。5秒で終わるだろう。

 ところが二人は「お断りします」と迷惑顔だ。部外者に手伝ってもらうわけにはいかないのだと言う。

 担当の作業者以外が業務に従事して事故が起きた場合、労務上の補償制度に入っていないので、後日トラブルになる恐れがあるというのがその理由だ。
「たとえ家が傷つこうと怪我をしようと、あんたらを訴えたりはしないから運んでよ」と私が苛立ちを抑えて言うと「そう言いながら訴えたケースがあります」と反論する。

 私は段々腹が立ってきて「誰がそんなせこい真似をするもんか」「客のおれがいいと言ってるんだから運べ」と強く言った。

 すると二人はものも言わずにどこかへ消えてしまった。しばらくすると戻ってきて…

ページトップへ

尖閣対立の中で中国の内モンゴルへ  佐藤鋹弘        (2012.09.28)

佐藤とし弘さん.jpg人は2人で対立し、3人以上で派閥を構成する。無論一方で協調しようとする理性的機能も持ち合わせているが、本質的には人は争う様に神様は創り上げた様である。世界中が一つになり、争い事が無くなる時があるとするならば、他の惑星からの攻撃が迫り、危機的状況に入った時だろう。それまでは、残念ながら永遠の課題に終止符はない。

 今、我が国の外交が揺らいでいる。日本の配慮外交は相手の心を動かすどころか、逆に弱腰と捉えられ、相手に付け入るスキを与えてしまっている状況は淋しい限りだ。かの国には「愛国無罪」という理解不能な言語が存在する。愛国とは救国の英雄や憂国の詩人が登場し、母国の進展に寄与貢献することと考えていた。しかし、彼らの愛国は相手国への非難、中傷に終始する。そこには当然事態の好転などあり得ない。教育が及ぼす影響の恐ろしさを感じた。

 先月末、私は5回目となる中国は内モンゴルの砂漠地帯に赴いた。反日運動の高まる中、「なぜ今更中国なの」という友人の言葉を背に旅立った。定時に飛ばない飛行機、延々と上がらない遮断機。忍耐力が向上する反面、この国に対する好感度は益々降下して行く。それでもなぜ黄砂の故里内モンゴルなのか自問は続く。

 オイスカ内モンゴルセンターの冨樫青年の正に命をかけた砂漠化防止活動は10年にならんとしている。昨夏、東日本の小さなボランティア活動で心に残った被災者の言葉「今、私達のこのくじけそうな気持ちを支えてもらっているのは、作業協力もさることながら、いつも私達を見守り、激励してくださる皆様の心です。」また、前林中生徒の少年の主張にあった東日本へ「お帰りなさい」、作業後、豊田へ「行ってらっしゃい」の途切れることのない友情の先にある人々の淀みのない心。それと同様のことが、私達団員と冨樫さんとの関係を保っている。

 砂漠化防止には植林がポイントではあるが、彼は国の禁牧政策で生活の糧を奪われた現地住民の生活基盤の確立も負っている。エミュー(ダチョウ)の飼育や滋養漢方の「オニク」生産の為に農事法人の立ち上げや生産技術の向上、商品化、販売、PRとすべて彼の双肩に係っている。現地の人々の信頼も厚く、正に彼は神様の様な存在だ。思わず辺境のこの地に日本人がいることに誇りを感じ、感謝の心が熱くなる。

 こんな時こそ民間外交。今、私が政治や外交を嘆き、批判しても事は何も始まらない。現地住民との交歓会の中で受けた超一級の歓待ともてなしの世界には、尖閣に見る雑念も醜い争い事もなく、人が本来持つ、共に生きようとする純粋な心と母なる地球に寄せる愛があった。

ページトップへ

改革もマニフェストも麻薬だったか  杉浦弘髙        (2012.09.21)

杉浦エッセイ写真.jpg90年代初頭に根強い誤解が始まり、政治の軽薄化と混迷が始まった。政治改革、行財政改革と言う「改革」が世直しの特効薬の如く妄信され始めた。同じく「マニフェスト」も妄信され始めた。しかし改革もマニフェストも特効薬どころか麻薬であったか。

 最近民主党が原因で流行ってきたのが「決断主義」である。決められない政治から決める政治へと言う麻薬である。しかし政治とは慎重な議論が命であり、忍耐力の要る長い議論のプロセスに挑むのが政治である。専制的に政治家に博打を打たれては取り返しがつかない。

 小泉劇場の改革と言う言葉と共に、国民が決断政治に惹きつけられ、政治が芝居に引き込まれた。次は民主党のマニフェストに望みを託して日本が壊れ始めている、にも拘らずに、今また懲りずに、決断を売りにする坂本龍馬気取りの維新の会を贔屓にするマスコミと知識人種と大衆が熱狂し、英雄扱いである。AKB48に熱狂する〝こども大人〟の悲しい姿と重なる。政治が娯楽となった。

 ハイデガーが『存在と時間』の中で、人間を本来的な人間と非本来的な人間の2種類に分類している。更に彼は人間の道徳的な退廃は自らの死を認識する事ができない事に起因する、とも言っている。

 現在の日本の民主主義に関しても全く同じ整理が出来る。本来的民主主義とは国民的民主主義の事であり、ここで言う国民とは国家の歴史的物語を持ち、国家の伝統を陰に陽に背負って生きる人々の事である。

 一方、非本来的民主主義とはハイデガーの言う非本来的な人間、あるいはオルテガの言う大衆人と呼ぶ人々が大きな力を持ってしまう民主主義のことを言い、大衆民主主義、いわゆるポピュリズムである。民主党を始めとするマニフェスト信奉者達や、橋下大阪市長の一連のハシズムに繋がる系譜である。

 民主主義は「民主の主義」であるから民の質が問われねばならない。今の日本の大衆化された世の中では、拝金・利便性主義、大量生産大量消費社会に加えて、平和と言う共同幻想を抱く。死と向き合う事をしない平和ボケとなった大衆によって、民主主義が必然的に非本来的民主主義に流れた。

 このような大衆民主主義の中にあって、国家の歴史物語や伝統を背負わない人々は、それ故に物事を長期的に考えない。目先の私利私欲しか目に入らなくなるのである。その延長に出てきたのがハシズムである。 この事と今の日本の道徳的退廃はつながっている。更に瓦礫処理拒否でも明らかな様に、震災での絆が偽物であった事と同根なのである。非本来的人間と言う大衆が、本来的政治家を抹殺し、国を滅ぼすのを怖れるのである。

ページトップへ

水辺に「都市林」を整備したい  硲 伸夫         (2012.09.14)

硲.jpg今年7月20日、国土交通省豊橋河川事務所から、矢作川自然環境保護活動に対して、私が理事長をしているNPO法人矢作川森林塾に感謝状が贈られた。


矢作川森林塾は矢作川漁協内の森林塾(2005年4月設立)を母体としてスタートし、2010年4月にNPO化した。

 このNPO法人に対する私の想いは、都心部でも豊かな自然が味わえる「水辺の都市林」をつくることだった。活動前の水辺には荒廃した竹藪が密生しており、川に近寄れなかった。堤防からも川の流れが見えず、「環境モデル都市豊田」と言うには恥ずかしい状態であった。この荒廃した竹林の竹を一本づつ切り、実生の樹木の林に変えてきた。「水辺の都市林」の原形がすでに見えてきた。

 サラリーマンを卒業するまでは、自然保護に関してほとんど縁がなかった私が、このような活動を志すなんて言うことは、誰もが無謀な大風呂敷だと思ったに違いない。自分にとっては人生最後の夢だと思って、黙々と自分の夢にチャレンジしてきた。

 この活動は、矢作川漁協の当時組合長や漁協役員、組合員の強力なバックアップで始まった。そして、2010年4月のNPO法人化、同年10月には国土交通省とアダプト(協働管理協定)を結び、官民協同の活動が始まった。

 この間、多くの人たちの智恵と努力に支えられ、私の夢も着々と前進してきたように思う。特に嬉しかったのは役所の取り組み姿勢である。国土交通省とのアダプト活動は、私が考えていた役所に対するイメージを一新させた。何よりも官と民が一緒に考え、一緒に活動しようというスタンスが素晴らしい。それまでの官に対する私のイメージは、役所と言うものは上から目線で市民に向かい合う所、であった。事業は業者に丸投げし、けっして自分の手を汚さない所であった。

 このような先入観が一変されたのだ。今後ますます、行政と市民の絆が強くなり、一緒に考え、一緒に汗を流し、成果の喜びを分かち合える活動ができることを心から願っている。

 NPO法人矢作川森林塾の究極の夢は「環境モデル都市豊田」にふさわしい、豊かな自然に市民誰もが触れ合える、都心部の矢作川にすることである。メンバーは夫々、自分の価値観を持って活動に参加しているはずである。私はリーダーとして、夫々のメンバーの価値観を尊重しつつ、かつ究極の夢に向かってチャレンジして行く体制を構築したいと思っている。

 NPO法人矢作川森林塾の精神は「来るもの拒まず、去る者追わず」である。これからも官・民・学を問わず、あらゆる分野から多くの仲間の水平目線での参画をお待ちしている。

ページトップへ

私の終活は始まったばかり  田中裕子            (2012.09.07)

田中裕子.jpg 私の故郷、徳島県・神山町は豊田市から距離にして約300km。その所要時間は途中のSAで2回の休憩をゆっくり取っても6時間余。明石・鳴門大橋の開通や伊勢湾岸道路と新名神がつながったおかげだ。


が、それも期間限定。年末年始、5月の連休、8月のお盆休みなどは道路の大渋滞があり例外となる。

 夫が退職し時間に余裕のある今は、春と秋のお墓参りは混雑を避けた日程を組めるが、お盆のお墓参りは時期を外せず、渋滞の仲間入りの帰郷となる。今年はその大渋滞に4回巻き込まれてなんと13時間をかけての帰郷となり、これは大記録の更新となった。

 そのお盆の13日、家族全員でお墓に手を合わせる私の心は複雑だった。

 一人っ子の私は生まれた場所で家や墓を守るのが当然と思い、思われて育った。けれど私は父への反発から海を渡り豊田に住んでしまった。それ以後私はこんなお墓参りの帰郷を41年間、ずっとしてきた。

 いつまで続けられるのだろう。弱気で振り返る故郷はとてつもなく遠い。

 その複雑な心中は深い。供養と共にご先祖に私たちの近況報告をした折り、私は不覚にも次代に続く子や孫のことを誇らしげに伝えた。が、それは先祖の墓や家守りを子や孫に遠回しで強要している行為と気づきショックを受けた。

 私の続けて来たこのお墓参り帰郷を子や孫に負わせられない。その深い思いを引きずっての帰宅。

 婚活から就活、そして今は終活があるらしいことに思いが至る。その活動の大きな一つがお墓のことだった。つい最近、樹林葬の募集に応募が殺到したと聞いた。その動機の大半は「子供にお墓のことで迷惑をかけたくない」だった。そうそう私の終末活動はこれだ。

 その視点を父に重ねると父の見事な終活が視えた。 田中家の正確な歴史は慶長末からの記録が残っていて、元禄14年1月に亡くなった先祖からの墓が山中の古屋敷にある。その11代目の当主が分家をして、私の田中家は始まり、15代目を私たち夫婦が継いだ。隆盛を極めた11代目の墓は、頭に傘をつけた大名墓で珍しいもの。お墓の数もかなりあった。

 父は兄弟姉妹の反対を押し切ってそれを整理し、累代墓にした。これは私たちのお墓掃除やお供物準備の負担を軽くするためと想像できる。また墓地を車で行ける便利な場所に移した。これも遠路を帰郷する私たちの負担を考慮したと認識できる。父の終活に感謝。おかげで楽にお墓参りができている。

 が、それにも限りがあり、限りが近いことも視える。 私の終活は始まったばかり。今年のお盆のお参りを無事終えた安堵の中で脳内クラクラ。秋が遠い今夏。

ページトップへ

全集で「ボケへの恐怖」を読む  森  當          (2012.08.31)

森さん.jpg「私の頭はもともと走らぬ頭であった。それが年取って、このごろは輪に輪をかけて走らなくなった」


この「走らぬ頭」と題された文章は、「本多秋五全集」の第一六巻に載っている。一九八六年、先生七八歳のころのものだ。文章はさらにつづく。

「どこかのデパートで、ガラスで風を遮った小部屋のなかで、抹茶を碾く臼が静かに回っていた。自分の頭はあんな速度で回っているらしい。書くのも遅いが、読むのも遅い。おまけに読んでもすぐ忘れてしまう。これでは走らぬはずだ。そのくせ、私の書斎には「まごまごしていると間に合わぬぞ」というスローガンを書いた紙切れがぶら下がっている。何に対して「間に合わぬ」のか? 私自身の臨終である」

 日本の著名な文芸評論家本多秋五先生は豊田市花本町の人で、先の全集の中にも「ふる里猿投」という文章が載っていて「ふる里は、三河の平野部が終わって山間部へ移る、その境目のところにある。」と書かれている。

 「本多秋五全集」は全一六巻別巻一の豪華な箱入りの本で、一九九四年から刊行がはじまり、予約して購入し硝子戸つき書棚の上段に並べた。しかし、なかなか手にとって読めなかった。ベッドの中で夜中に読むというわけにはいかない重さであり、装丁であった。

 ただ、雨が降って農作業が出来ないときに机の上において読みだすとなかなか止められない力のある文章だった。『小説の首脳は人情なり、世態風俗はこれに次ぐ』全集の中にあった言葉で、印象に残って書き出し、テーブルのガラス板の下に敷いていつも見ていた。

 私事だが、昨年の暮れに二回目の帯状疱疹に見舞われた。幸い発見が早くて痛みだけはとれたが、しびれが断続的にやって来てなかなか消えない。顔面から脳細胞にとりついたのだろうかとまいっていた時、はじめの本多先生の文章が思い出された。全集には「志賀さんの呆け話」や「ボケへの恐怖」もあった。

「「頭が駄目になったら」という、その駄目の線はどの辺に引かれるのだろう。もう自分の頭はそこへきているのではあるまいかと思ったら、ぞっとして顔色が青くなるのがわかった」

 しかし、と本多先生は書かれている。「予定や計画がものをいう世界は、紙一重の浅い世界である。その背後には見透しのきかない奥深い世界がある。結局、本当のところは神のみぞ知ろしめす、という平凡な結論に落ちつくらしい。」

 私は先日豊田市立図書館に出かけて「本多兄弟文庫」に入り、お二人の年譜を見た。本多静雄・一九九九年五月六日没・一〇一歳。本多秋五・二〇〇一年一月一五日没・九三歳。思わず息をとめていた。

ページトップへ

ヒルガオの花のメッセージ    加藤志津香         (2012.08.24)

加藤志津香さん.jpg「自分の人生に影響を与え、いちばん記憶に残っているできごとは何か?」を年代別に当てるクイズ番組を見ていた。もう二十年以上も前のことだが、どの年代も就職や結婚、子どもが生まれたことなどが多かった。


今なら震災と答える人も多いかもしれないが、「ある年代以上にしか答えられないことは何か?」の問いに、そのときの私は全く想像がつかなくて、正解を聞いたときの情けないような気持ちが、今でも思い出される。

 そのこたえは「戦争」。子どものときに祖父母や両親から聞かされてはいた。伯父は十七歳のとき通信士として出征し、船とともに海に沈んだそうだ。お骨など帰ってこない。私の知っている温厚な祖父は、知らせを聞いて「神も仏もあるもんか!」と神棚を叩き壊したと聞いていた。学校でも教わって知っていたつもりでも、自分の中では他人事でしかなかったということがわかった瞬間だった。

 ご縁があって、この7月に先の津波被災地を訪ねた。なんどもなんどもテレビの画面で見たところだ。他人事にはしたくなかった。その地は、災害から一年半たった今でもガレキが堆く積み上げられていて、そばで見るとヒルガオが巻き上がって花を咲かせているのが寂しくも感じられた。

 川の両岸の斜面に植林されている杉の木が、ずっと奥のほうへ茶色のマーカーで等高線を引いたように枯れている。その線まで海が押し寄せ、塩害で枯れてしまったのだという。

 同行した二十余名は、その地に実際に立ってしばらくは、どんなことばを発すればいいのかわからなくなったかのような、静かすぎる光景だった。まるで空襲のあとのようと表現された高齢のかたもあったそうだ。

 翌日は「少しでもお手伝いできることがあれば。」とのこちらの願いに応えていただき、ビニールハウスの中で、津波が置いていった石を拾い出す作業に参加させていただいた。こちらは孫がいるような年恰好のおばさんの群れ。その気力体力ではかえって足手まといになるのではとも思ったが、よくぞ受け入れて下さったと感謝している。ハウスではそろそろ小松菜の種が蒔かれているはず。作付できる農地が元のように増えていくことを祈っている。

 作業の帰り道、またガレキの山の近くを通った。初日は寂しく見えたヒルガオの花が、過去の津波の被害をしたたかに乗り越えてきたご先祖様からの「大丈夫、今回だってまた乗り越えられるから。」というメッセージのようにも思えた。 「あのな、空襲のあとはなあ、二日たっても三日たっても地面が熱いねん。」東北の土産話をしていたら、父が思い出したように話し始めた。

ページトップへ

政治家も国民もみっともないことはしない  浦野正二     (2012.08.10)

浦野正二さん.jpg世界史上類を見ない、また決して消すことの出来ない残虐行為であった──。核爆弾が広島、長崎に投下され、67年経過した。被爆者の多くが死没した。被爆体験者は高齢化し、記憶の風化が進む。その事実をどのように継承していけば良いのか、模索が続く。

 昨年の東電福島原発の事故により、核利用の恐ろしさを日本国民は改めて認識させられた。核平和利用の名の下で米国の助言に従い、資源のない日本がその利便性に安易に乗り、原発利用に進んだ。安全性を無視し、核の持つ危険性を楽観視した結果、東電事故が起きた。国、電力会社の責任は重大である。告発されて当然ではないだろうか。原発は国策事業であるからだ。

 数日前、知人が陸前高田市へ復興のボランティアに出かけた。1年数ヶ月経過しているのに瓦礫の処理が進んでいない現状に唖然としたという。日本国民は福島の災害に対して「絆」を合い言葉に、頑張れ福島!と叫んだ。しかし政府、官僚、地方自治体は「絆」の効果を一向に発揮してくれなかった。言葉の飾りにしてしまった感がある。

 瓦礫処理の予算がない自治体もあるようだが、全国から拠出された義捐金を復興資金に転用してもいいのではないか。義捐金の用途、中間報告が公表されないのはなぜか。

 また瓦礫の広域処理について、地方自治体の受け入れに反対する人々がいるやに聞く。放射能の怖さで反対しているそうだ。自分だけ安泰に生き続けたいのかもしれないが、反対する人たちの地域が放射能汚染された地域だとしたら、何処に逃げるつもりだろうか。今の「絆」の意味を考えさせられてしまった。

 原発反対のデモを官邸にかけたという方々がおられたが、この方々はなぜ…原発を国策とした時点で反対運動を展開しなかったのか理解できない。核燃料棒を今後どのようにして処分するつもりなのか。代替エネルギーをいずこに求めるのか、単なる原発反対の運動で良いのか。

 それよりか、1年以上も帰宅できない福島原発災害地域への復興支援運動を促進するデモをかけたとしたら、それは素晴らしい「絆」である。

 政治家や官僚は国民に奉仕する立場にあるとよく建前を聞くが、実態は「奉仕」ではなく「統治」していると自認しているやに感じる。塩野七生氏の文章を読んでいたら、彼女は「東京の下町に育ち、幼いころからみっとも無いことはするな」と教え込まれたと書いていた。久方ぶりに聞く懐かしい言葉であった。

 政治家も官僚も一般市民もだれもがみっともないことはしない、との自制の観念をもてば「絆」でむすばれた素晴らしい社会が成り立つと思うのである。

ページトップへ

修行僧は自給自足して坐禅修行    佐藤一道        (2012.08.03)

佐藤一道さん.jpg稲の緑が美しい。平勝寺門前にある田一枚を私は管理している。田植えからおよそ二ヶ月が経った。稲丈が60㎝ほどになり、株の中では穂をつける準備をしていることだろう。


私が農業に関心を持ったのは僧侶になってからである。

 私が入門した禅寺は自給自足して坐禅修行する寺だった。三十数名の雲水(修行僧)が常にいた。寺の機能を維持するため、雲水にはそれぞれ役割が当てられる。それを禅宗では配役といった。

 私に当てられた配役は園頭であった。園頭とは、雲水が安心して修行できるよう食糧を確保する役である。寺には七反の田があり、それを耕すのが役割であった。私は二十七歳から十年間、園頭を勤めた。

 最初は何も分からず失敗ばかりだった。

 農家の方に種籾を分けてもらい、塩水選、消毒、芽出しと進め、その間に畑苗代の準備をした。畑苗代に種籾をまき、苗が20㎝ほどに成長するまで水管理と温度管理に気をつかった。つぎに田に水を引くための水路の掃除と畦の補強作業をした。畦塗りと代かきを済ませた田んぼは、いつまで眺めていても飽きないほど美しく思えた。ここまでの作業は三人の園頭でおこなうことができた。しかし、苗取りと田植えは雲水三十人の手を借りなければならない。私たち園頭は、田植えが順調に進むよう走り廻った。段取りが悪いとすぐ罵声が飛んだ。

 このように田植えを済ませ、秋の収穫期を迎えた。思ったより収量が少なかった。私は責任を感じていた。

 そのとき修行道場の責任者であり私の師匠でもある老師がつぎのように言った。「心配するな。ご飯が炊けなかったらお粥にすればよい。耐えられない者は自然に寺から去るだろう」

 私はその言葉を支えとした。数年たつうちに私はこの言葉を自分の都合のよいように利用しはじめていた。農作業に慣れ、収穫も増えてきたので少しくらい虫がついても病気になっても気にしなくなった。「ご飯の量が少ないと文句を言う奴は去ればいいのだ」と。

 そのように自己弁護する私の心を見抜いた師匠は今まで見たことのないほど恐ろしい顔をして私を叱った。「無道心の者め! お前は百姓をやりに来たのか、修行に来たのか」と。

 易きについた私は道心を失っていた。農作業をどれほど効率よくやろうが、修行が進むわけではない。私の心に貼り付いている自己弁護を、農作業を通して剥がす営みが修行ではなかったのか。収量の多寡によって一喜一憂する世界ではない。であればこそ一層自己に厳しくあらねばならない。言い訳、誤魔化しの効かない世界を生きるのが雲水の真骨頂なのだから。

ページトップへ

豊田は発電可能性資源の宝庫     鈴木 章        (2012.07.27)

鈴木章さん.jpg福島原子力発電所の事故で大量の放射能が放出される深刻な事態が発生して以来、日本国内の「反原発・脱原発」の流れは、エネルギー供給に多大な影響を及ぼしています。


今夏の節電目標は、大飯原発の再稼働で若干緩和されましたが、最も高い関西電力管内で10%以上、私たちの住む中部電力管内でも4%以上となっており、企業・家庭を巻き込んで節電対策が迫られています。

 今後も原発の再稼働や新増設が困難な状況となれば、国内のエネルギー供給体制は「慢性的な不足」を余儀なくされることが予想されます。また、頼りとなる「枯渇性エネルギー」による発電は、そのほとんどが海外からの輸入に依存しており、化石燃料の高騰・枯渇の可能性を孕んでおり、将来に向けて早急な見直しが迫られています。

 そこで国は、7月1日より電力の固定価格買い取り制度をスタートさせ再生可能エネルギーの普及に努めています。この試みは個人や企業だけでなく、行政単位である自治体にも、エネルギー需要を再生可能エネルギーで全てまかなえる地域を「エネルギー永続地帯」と定義づけて広がりを見せています。

 「エネルギー永続地帯」2011年版試算結果によると、地域の暮らしに必要なエネルギーを、太陽光や風力、地熱、ダムを造らない小水力発電などの再生可能エネルギーで100%まかなえる自治体は全国に60市町村あることが公表されています。

 豊田市は「環境モデル都市」選定され、ハイブリット・シティをコンセプトに様々な取組をしていますが、さらに昨年12月には「次世代エネルギー・モビリティー創造特区」に指定されました。

 ここには「創エネ・畜エネ・省エネ」の視点がありますが、918平方キロにも及ぶ広大な豊田市域を活用しての再生可能エネルギーによる「創エネ」に取組むべきだと思います。

 特に、中山間地には、1広大な山林、2豊富な水資源、3稲武地区に代表される風力など、再生可能エネルギーを活用できる素地は無限に存在しています。 広大な山林を活用したメガソーラーとしての太陽光発電や間伐材を利用してのバイオマス発電、また、水系別包蔵水力調査によれば、矢作川水系の包蔵水力は全国で26位の1169GWh(ギガワット時)を誇り、未開発の包蔵水力も466GWh開発可能だと報告されています。

 まさに「可能性の宝庫」ともいえる地域であり、日本の製造業を支える豊田市が自前の電力をも備えることができれば「環境モデル都市」のみならず「持続可能な循環型都市」として、日本をリードできると確信しています。

ページトップへ

秘事法門の子でいいと覚悟してみるが…  後藤 正      (2012.07.20)

後藤正さん.jpg 私を産んだ人が逝った。享年88だった。普通はこうした人を母と呼ぶが、私とは母子の名乗りをせずに逝ってしまったので、そう呼ぶことにためらいを覚える。

 この1年半ほど入退院を繰り返していたので、見舞いには何度も行った。私が行くと必ず体を起こしてベッドの縁に腰を掛け、きちんと応対する気丈ぶりを示した。

 私が何度も見舞いに行ったのは、ひょっとしたら母子の名乗りができるかもしれないという期待があっただけではない。実父が誰なのか明かしてくれるかもしれないという期待もあった。だが、それらは叶えられなかった。墓場まで持っていってしまったのだ。

 現実的にも、高齢で耳が極端に遠く、とても会話ができる状態ではなかった。一方的にしゃべるのを、私があごで相槌を打ちながら聞いているだけだった。死期の近い老女と額を突き合わせて、本人には苦痛の話を引き出す非情さも、私にはなかった。

 私は未婚の母の子として生まれたらしい。戸籍には父と母の名がちゃんとあるが、父母の名字が違っているし、また父親欄の名前とは別に実父がいると祖父から聞いていた。

 幼いころには2度養子に入った。入った先の養父が自死し、養母もほどなくして病死したので、養母の実家に預けられた。身近な手掛かりはここで消えた。

 出生がわからないことは若い私を悩ませた。実父のことは何も情報がなく、名前すら知らない。あれこれ思いめぐらせては苦悶した。

 あるとき母の父、つまり祖父に聞いたことがある。すると「お前は知らなくていい」と言う。「なぜだ」と問うと「あれが可哀想だ」と言う。私は絶句した。孫より娘のことを心配しているのだ。私の苦悶はどうなるのだと思った。

 そのとき私は、世間では孫は可愛いと言うが、娘を通しているからそう思うのであって、本当は娘ほどではないのだと悟った。

 祖父の言葉がトラウマになってか、以後、私は出生のことを聞けなくなった。

 私が手をこまねいているうちに身内はどんどん死んでしまい、一番真相を知っている当事者もとうとう死んでしまった。戸籍からは追えず、手がかりはまったく無くなった。 いま立ち止まって静かに思う。私はもう60半ばである。子があり孫がある身だ。すっぱりと諦めよう。私自身は「秘事法門」の子でいいではないか。私の前の道はわからなかったが、私のあとに道はつづく。

 本箱の棚に生んでくれた人の遺影を飾った。毎日眼にする位置だ。静かに手を合わせて供養しようと思うが、ときどき恨みがましい言葉がでそうになる。これも修行かと自戒する

ページトップへ

オイスカが震災地海岸林再生へ   佐藤鋹弘         (2012.07.13)

佐藤とし弘さん.jpg貴方は好きな食べ物から先に食べますか? それとも嫌いな食べ物から先に食べますか?


過日、友人が語った人生信条「苦難福門」にわずかな感動を覚えた。好きな食べ物から先に食べるのと同様に、人は安易なこと、楽なことを先に求めます。しかし、あえて苦難な道に挑戦すれば、そこには必ず幸福が待っている。厳密には壁を乗り越えた満足感と充実感の先に、喜びという福門が待っているのです。

 人生には苦難が避けられないこともしばしばあります。健康から見離された時、事故、災害に遭遇した時、また経済的、精神的困窮…。そうした苦難に直面した時、その局面打開のための自信の裏付けとしても、あえて逆境に挑んで行く。その姿勢は理想論ではあるが、私達に課せられた現実的命題でしょう。

 私は40年近く前から、国際NGOのオイスカ運動に関わっている。今でこそあちこちで「グローバル」という言語が飛び交いますが、オイスカは50年に亘り、物と心の調和のとれた世界を念じ、開発途上国の、とりわけ農村地域の産業開発や人づくりに取り組んできた。グローバルな規模での環境保全のための「子供の森計画」(植林)が実動している。また本年からは、壊滅した東日本の「海岸林」再生のための膨大なプログラムを手がけます。

 フィリピンのネグロス島に、この20年間で150名の中学生を送り込み(豊田東名ライオンズ)、マングローブの植栽を通して国際協調の実を上げた。この事業を支えているのは、電気も水もなく、その上、危険という付録までついた未開の地で、理想に挑んだオイスカの人々の苦難をいとわぬ勇気と献身であります。

 また中国北部(内モンゴル)の月のクレーターにも似た荒涼の地を見て、砂漠化防止に人生をかけるオイスカの日本人青年もいる。彼は教師という安住の職にありながら、その知識を力として苦難な道を選びました、その知識を力として苦難な道を選びました。 こうして尊敬と感謝の福門は彼らの頭上にありますが、恩恵という福門は私達にあります。今日も若緑色のユニホームに身を包み、子ども達の安全な通学をサポートする献身的姿が身近にあります。苦難に多少の大小はありますが、そのかけられる情熱は、その尊さにおいて同質同量です。

 小生のエッセイに政治批判は似合いませんが、昨今の政治には怒りを越え、愚かさを感じます。政治は民の福門のためだけにあり、保身と権力のための離合集散ゲームが政治ではないはずです。

 今、無能な政治の輩を嘆く前に、『選挙民の水準以上の政治家は生まれない』のですから、今こそ我々の良識が試されている、と考えるべきだと思います。

ページトップへ

グリーン経済は成功するか?  杉浦弘髙           (2012.07.06)

杉浦エッセイ写真.jpg2012年6月20日~22日の3日間、世界190ヶ国の代表がリオデジャネイロ(ブラジル)に集結し、「国連持続可能な開発会議(リオ+20)」が開催された。1992年同会議設立から20周年を迎える事から、ブラジル政府がリオ+20と命名したのである。

 前回会議は、今日に至る地球環境の保護や持続可能な社会の考え方に、大きな影響を与えた。しかし2002年のCOP6での2010年までの目標達成が不可能となり、2010年名古屋でのCOP10で、短期で2020年、長期で2050年までの新目標が修正決議された。然しながらここに至ってその目標は悉く実現不可能となり、今回会議となったのである。

 持続可能な未来を築くと誓った前回のリオ会議から20年経った今、世界事情は前進どころかさらに悪化している。その原因は何か。それは今回のリオ+20での中国の温家宝首相の演説に集約されている。首相は、中国を「大きな途上国」と位置付け、「先進国は持続不可能な生産・消費モデルを放棄し、途上国の発展を助けるべきだ」と語って、環境問題では先進国が特別な責任を果たすべきだ、との考えを改めて強調した。

 先進国側は、途上国を含む全ての国が環境保全と経済成長を両立させる「グリーン経済」を目指すべきだと主張しているが、温首相は演説でこれに反対の立場を明確にした。しかし先進国は中国を非難できない。彼らの本音を中国が言ったに過ぎないからである。

 それは環境保全という視点だけではその解決は難しいからであり、公害の主犯であった経済成長を再度舞台に引っ張り上げ、環境保全と経済成長を両立させるという「グリーン経済」なる新目標を掲げたのである。
 限度を知らない過剰な経済活動が公害を生んだ。環境を破壊し続けたにも係わらず、環境保全を口実に金儲けの産業振興に猛進した。それは経済的豊かさと便利さを求め続ける贅沢病に病んだ結果である事は、我々は内心、全て承知の上である。グリーン経済なる言葉で環境保全を唱えるが、その実は経済優先のブラック経済から抜け出せないでいるのだ。

 ちなみにリオ+20への出席の要請を再三、ルセフ大統領が各国首脳へ出したが、米国大統領は自らの選挙で多忙である。欧州連合は金融危機で環境どころではない。我国は国会での増税の正念場で、前回に続き首相は不参加。まことに低調な会議であった。

 実の所は人類の滅亡に係る重大事にもかかわらず、環境の悪化には関心が無いのかも知れない。フクシマ、東北の被災もこのような人類の愚行と無関係とは思えない。贅沢病に冒された我々日本人の悲しい人害=新しい公害かも知れない。

ページトップへ

自然の生態系修復を見守る   硲 伸夫           (2012.06.29)

硲伸夫さん.jpg力学第二の法則にエントロピー(乱雑さ)と言う指標がある。エントロピーとは科学的には「熱現象に特有な非可逆性を数量的に表現するために導入された量である」と定義され、その値は常に増大する。即ち、この世の全てのものは拡散し、乱雑さを増し続けるというのである。


例えば、透明な水面にインクを垂らすと、インクの分子は拡散して水全体が均一なインクの色になるが、逆に、インクが元に戻って水が透明になることは決してない。「覆水盆に返らず」である。この現象は世の中の全ての事象について言えると考えられている。

 原発の放射能汚染処置として、水洗による除染が行われているが、汚染された水は最終的に海に均一に拡散して、海全体が放射能に汚染されることになる。今回の原発事故の海洋汚染の程度では、極々微量であり、無視される程度のものである。

 しかし、現在問題になっている大気のCO2汚染問題にしても、一昔前には、問題視されるものではなかったことをよく頭に叩き込んでおくべきだと思う。
 話は変わるが、平成23年10月から、豊田スタジアム下の矢作川で、水災対策のための河川掘削工事が国土交通省によって行われた。これに伴って、セセラギとカブトムシの住む林を、NPO法人矢作川森林塾と国土交通省とのアダプト事業(協働管理協定事業)で作ることになり、この3月に工事は終了した。

 今後は自然豊かな「子どもが川と親しめる場」に仕上げて行く仕事に着手することになる。

 生物の世界においても、熱力学第二法則によると、個々の生物は限りなく拡散し、自然の生態系は乱雑になってしまうはずであるが、「弱肉強食」や「突然変異」といった、自然の収束の摂理が働き、それぞれの地域に合った生態系ピラミッドが形成され、美しい水の森が出来上がってくるのである。しかし、ここに有害外来生物が侵入して来ると、しばしば、これらの生物が異常繁殖し、その結果、確実にその地域の生物多様性は破壊されることになる。 近年の矢作川では、カワヒバリ貝やオオカナダ藻の異常繁殖がある。また、世界的な視野で見るとモノカルチャー(単一栽培)の弊害問題もその一つである。 これから進めようとする「子どもが川と親しめる場」は、現時点では、セセラギも河畔林も形ができた段階であり、とても自然豊かとはいえない。

 ここ数年間は、有害外来生物とタケノコの駆除以外は、極力、人間の手を加えないで、どの様な草が生え、魚や鳥やムシを呼ぶことができるようになるか、ゼロからの自然の生態系修復過程を自分自身の目で見守って行きたいと思っている。

ページトップへ

アラフォーと同じ揺れの感覚   田中裕子           (2012.06.22)

田中裕子さん.jpgこの原稿が掲載される予定は6月22日。その1か月前の5月22日は私の誕生日だった。その日をいつもと違う様子の中で迎えた。
 前日は約千年ぶりに日本中で観察できる状態の金環日食。朝から観察用のめがね族が空に向かって大興奮。それを誕生日の前祝いと捉え、私も空を見上げ歓声もあげた。
 そして迎えた翌日は誕生日。その日は世界一の高さを誇る電波塔スカイツリーの開場日だった。これまた日本中が大騒ぎ。テレビなどでその様子が熱気と共に伝えられ、2日続きで日本中に嬉しい興奮の風が吹き抜けた。その中で私はめでたく65歳の誕生日を迎えたのだった。
 それは祭りの後の寂しさに似ている。たこ焼きや綿菓子の匂いが微かに残る神社の境内に一人残されたような、拠りどころの無いあやふやな寂しさだ。
 そう私は誕生日を跨いだ瞬間、社会的な分別により、括弧高齢者括弧閉じる、と言う群の中に突入し「高齢者」の母数の一人となった。
 少子高齢化社会と言われて久しい今、私たち世代の高齢化がそれにいっそうの拍車をかけて、見方によっては若い世代の負担を重くする存在らしい。
 国民年金請求手続きをし介護保険料支払い義務の通知も受け取った私は、その感を強くする。
 最近、アラフォー(Around40)現象で特に女性は40代前後に心身が複雑に揺れるとの認識がファッションのように取沙汰されている。まさしく私はそうだった。子育てや社会活動に邁進中で、何の悩みもない状態で迎えた30代後半。やがて迎える次の年代を見据えて私は心が大揺れしたのを思い出す。全く嫌なアラフォーだった。それが市民権を得ていない頃なので、誰に話しても少し早めの更年期と片付けられた。
 その揺れは40代の入り口を跨いだとたんピタリと止まった。揺れている間に様々な覚悟をしたのが嘘のように晴れやかで充実したその後だった。が今、それと同じ揺れの感覚がある。
 既に更年期も還暦も普通に越えてきた私が65歳の誕生日前後にこんなに心が揺れるのは、母が逝った年齢を自身が迎えた感慨の深みで溺れているからだ。
 が、その揺れの先には、生き生きと充実した次代を行くたくさんの先輩が目の前にいる。そんな朝、私の揺れを止めた短歌に出会う。人間(ひと)という うれしいものに生まれきて百四歳の今日も歌詠む
 目から鱗の涙。65歳からの感性を磨けば、思考や記憶や計算力が衰えても私は豊かに生きていける。
 リウマチの悪化でほとんど寝たきりの状態の中、充分とは言えない私と家族だけの介護で逝った母に懺悔の65歳。新しい始まりだ。

津波で父・妻・子を失った農民の物語  森 當        (2012.06.15)

森さん.jpg今年度の「日本農民文学賞」に、昭和23年生まれの宇梶紀夫氏の小説「赤いトマト」が選ばれた。小説の舞台は宮城県東松島市大曲浜の田園地帯で、日本農業と「東日本大震災」を真正面にすえた作品だった。主人公の家はこの地で三ヘクタールの施設園芸を経営している専業農家である。
 主人公は大学を卒業して地元の会社に就職するが、会社の方針で東京に移り、職場で恋人ができ結婚する。しかし、東京の生活は思わしくなく、妻も職場を辞めたいと言いだし、二年ばかりで故郷に帰る。
 ここでトマト栽培の名人の父に負けないトマトを作ろうと悪戦苦闘をはじめる。新しいハウスが完成し、故郷に帰ってから生まれた男の子が三歳を迎えようとしていた。「三・一一」の大地震もそのあとの大津波の描写も、テレビや新聞と違って抑えた筆で迫力があった。
 塩害を受けた土地には「赤いトマト」は実らない。「三・一一大震災」で父親、妻、子供を亡くした主人公は「赤いトマト」を作ろうと苦闘をはじめるのだが…。
 今年の四月に「農民文学会」の総会が開かれ、文学賞贈呈式と祝賀会が行われ、今年は自分も出席し
た。昨年の総会にはいろいろな事情が重なって出席できなかった。私の欠席は会にとってどうということはないのだが、自分自身の中ではなかなか大きな空白となり、それが心のしこりとして残った。ドキュメントの原稿も予定の年内に完成せず、短編のいくつかも途中で放り出したままで、思い出して原稿に向かうと余計に混乱した。
 そんなことがストレスになったのか、右顔面の頬のあたりが腫れて痛みが走った。かかりつけの先生に診てもらい、特効薬を服用してやっと痛みだけは取れた。ところが年が明けて早々に、「農民文学賞」の選者であり、作家でもある南雲さんが亡くなっていることが分かった。自分が小説らしきものを書き出してから最も指導を受け世話になった人であった。 昨年の総会に出ていたら、と未練がましく思ったが、南雲さんも総会に欠席していることを今年の総会の後で聞いた。自分が総会出席を決めたのは本当に期日間際のことであった。妻だけにそれを言ったが、呆れて何も言わなかった。
 総会には今年九十三歳の伊藤先生の元気な姿があった。鹿児島の杉山さん、淡路島の北原さん、千葉の木村さん、長野の飯島さん、塚本さん、佐藤さん。もちろん欠席の人もあったが初顔の若い人もあった。
 今年の二次会には七人が顔をそろえた。南雲さんが元気なら先導はこの人の役割だった。それをだれもが口にしたが、詮無いことであった。さて、これで今年は頑張るとしよう。

人の親子の「絆」は大丈夫?     加藤志津香       (2012.06.08)

加藤志津香さん.jpg緑がまぶしい季節。梅雨入り前は生き物があふれ出てくる一年中で一番活気のある季節だ。子育て中の生き物に出会うことも多い。先日は、草刈り中に足元からキジが飛び出してびっくり! 刈り払い機が間近に迫るまで、じっと息を潜めてガマンしていたようだ。 よく見るとほんの少しくぼんだ巣には十三個の卵があったが後の祭り。周りの草を刈ってしまったので巣は丸見えになってしまった。キジは畑のスイカやトウモロコシを食べにやってくる招かれざるお客でもあるが、ここは人の情けと巣の周りに刈り草をつくねておくと、三十分もしないうちに、さっき飛び出していった母鳥が帰ってきた。卵の上に彼女が座ると、ぴくとも動かないばかりかみごとな保護色で、すっかり風景に溶け込んでしまった。
 ここ莇生(アザブ)という地名の由来には、その昔「敵に追われた武者に、農民が刈り草を被せてかくまったことから、草冠に助ける、そして生かすと書く。」という説がある。その名のご利益と、キジのお母さんの感心するばかりのガマン強さのおかげで、きっと孵化までこぎつけてくれると思う。
 ただ、もうすぐ莇生町のウォーキング大会があり、二百人以上が巣のすぐ近くをぞろぞろ歩く予定なのだ。その前にヒヨコになって引っ越していってくれることを期待している。
 それにしても、野生の生き物の子育てを見ていると、教えられることが多い。キジはヒナのときから自分で餌をついばむことができるので、親はヒナの口に餌を運んだりはしないが、虫を見つけては優しい声でヒナを呼び寄せ、大きな葉っぱはちぎってやったり、自分の食べることは後回しに、かいがいしく世話をする。さぞかし親子の絆も強いのだろうなと思っていると、その子離れは実にあっさり、きっぱりとしている。
 キジだけでなく、地球の生き物にはみんな「種を守る」、つまり「次の代へつなぐ」ということが一番大事なこととしてDNAに刷り込まれていると教わった記憶があるが、豊か過ぎる暮らしが続くと、それは狂ってしまうのだろうか。
 大人になるということはガマンを覚えるということではないだろうか。子どもにガマンを教えようとすると、大人もガマンをしてみせなければならない。 若い議員さんが「絆」という字は「情に絆される」などとも読み、束縛されるという意味なのだと話されるのを聞き、絆だってガマン無しにはできないのだと再確認したところだ。
 ヒトの親子の絆は大丈夫だろうか? 世間の絆は何を対価に築いてきたのか? 築いていくのか?  「おカネ」なんて言わんでね。

R153「 伊勢神トンネル改良」実現!  鈴木 章      (2012.06.01)

鈴木章さん.jpg平成24年度に入って間もない4月6日、国土交通省中部地方整備局から足助・稲武地区の人々と豊田市にとって待ちに待った朗報が飛び込んできました。『伊勢神トンネル改良』の事業化が遂に実現したのです。
 自動車の大型化が進んだ今日においても、現行トンネルは車道幅員が狭く、歩道も設置されていないことから、改良工事の必要性が強く要望されてきました。
 国道153号線の歴史は、古くは戦国時代に武田信玄が信濃と三河を結ぶ軍事上の必要性から整備し、以降発展した街道だといわれています。古の時代に街道を往来した中馬や善光寺参りの善男善女にとって『大いなる難所』言われてきたのが、標高80mの足助宿から武節宿(稲武)の間に立ちはだかる標高800mの伊勢神峠越えでした。
 江戸時代末期から明治時代には物資を運ぶ必要性の大きさから旧隧道(トンネル)が計画され、馬車通行のために明治30年に標高705m地点に延長308m、幅員3・15mで建造されました。
 旧隧道の看板には伊勢神ではなく『伊世賀美』と記され、伊世(この世は)、賀(よろこぶべし)、美(うつくしくあれ)と言う意味の当て字で名称がつけられるほど、当時の人々にとってこの隧道に賭けた期待の大きさがうかがえます。
 日本に現存する石造隧道で総石積みの物は、この伊世賀美隧道と静岡県の天城隧道の二つであり、国の登録有形文化財に指定されています。
 二代目の現伊勢神トンネルは、昭和35年5月に標高640m地点に延長1245メートル、幅員6・5メートルで開通しました。
 開通時は有料道路でしたが、過疎対策として愛知県が建設費を肩代わりすることで昭和46年に無料開放されました。時代は移り変わり、現在の伊勢神トンネルも、旧式であることからその役割を終えようとしていました。
 『伊勢神トンネル改良事業化』の実現は、足助・稲武間の往来の改善だけでなく、国道153号線の産業道路としての役割を大きく向上させ、豊田市と内陸部を結ぶ『大動脈の実現』となることは間違いないと思います。 さらには、中馬街道としての歴史的な象徴として『伊勢神峠・伊世賀美隧道・伊勢神トンネル・新トンネル』の4路線は、ひとつの峠を同方向に貫き、すべてが現役で活用されることになれば、私の知る限り日本では『過去に類の無い歴史遺産』となります。
 新トンネルの完成までには多くの歳月がかかることが予想されますが、豊田市は伊勢神隧道の『交通・産業・文化遺産・観光』分野の可能性を生かすべく、今から行動をスタートしなければなりません。

単なる「反原発」 の思想に疑問  浦野正二          (2012.05.25)

浦野正二さん.jpg福島原発事故から一年二ヶ月も経過しているのに、復興が遅々としている。復興の大きな妨げとなっている原因の瓦礫の処理を政府は全国の地方自治体に依頼しているが、或る地方では瓦礫処理の受け入れに市民団体が反対運動を展開していることに驚いている。
 まさか政府が高レベルの放射能の瓦礫まで地方に依存するわけはないし、東北地方の復興のために全国民が可能な限りの協力をするのが絆であろうと思う。セシウムの危険度がどの程度であるのか数字が乱舞しているが、実際のところ解らないのが実情なのではないだろうか。
 たしかにチェルノブイリ(旧ソ連時代のウクライナ)での原発事故の状況は、大いに参考にされているはずではあるが、元来世界で初めて核爆発の洗礼を受けたのは日本である。人体への影響のデータ集めは、広島も長崎も日本人学者で行われながら、公表が認められなかったという歴史がある。
 戦後広島では市内の丘(比治山)で、ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)が米国政府機関として、長期にわたる人体への影響を観察したが、その観察結果の発表も治療も行われた事実はない。当時の日本の膨大なデータが米国には蓄積されていた筈である。
 米国による被爆の随一の治療は、ノーマン・カズンズ氏を始めとする民間人有識者が原爆乙女25人を自費で引き取り、米国でケロイドの治療をしたことだけである。考えてみると、福島原発付近では立ち入り禁止区域とか、警戒地域とか、指定されているが、広島、長崎はこのような指定も無く復興してきたのである。
 もちろんベクレルとか、シーベルトなんか、全く知らなかった。一年たって焼け跡の樹木から春に芽が出たのを見て被爆者である私らは喜んだ記憶がある。なんとささやかな喜びであったことか。
 人間が核の平和利用の名のもとに利便性を優先し、危険性を軽視したツケが現状であると思い、現代の思想家と言われた「吉本隆明の遺言」を自分流に解釈した。
 吉本氏は「反原発は人間を猿にする。人間が猿から分かれて発達し、今日まで行ってきた営みを否定する行為である」と言った。共感を覚えた 核制圧の研究のため、今後も英知を結集すべきである。東電の原発制圧のため、決死で自衛隊ヘリが水を散布し、それが霧散していったむなしい映像が、脳裏に強烈にのこっている。
 単なる「反原発」ではいけない。核利用の禁断の園に踏み入った以上、核被害を制圧する研究を大事にしたい。吉本氏の主張通り、人間は〝核〟と付き合わざるを得ないのである。

足助八幡宮隣りに重範祀る    奥村岳宏           (2012.05.18)

奥村岳宏さん.jpg足助は古くから、名古屋から信州まで塩を運ぶ「塩の道」の宿場町として栄えました。現在は香嵐渓に代表されるように、観光の町として全国に名を馳せています。
 足助という地名の元々の由来は不明ですが、平安末期の文献には 「足助庄」という記述が残っているそうです。宿場町でしたから、読んで字の如く「足を助ける町」だったのかもしれませんね。
 その頃、美濃地方を地盤とする豪族の浦野氏一族が足助庄に居を構え、足助氏を名乗り始めました。この足助氏が鎌倉時代末期の南北朝時代まで、豪族としてこの地を治めたと言われます。
 もともと浦野氏は鎌倉幕府や朝廷とも繋がりが深く、街道の要所を治めていたこともあって、当時の足助氏はかなり栄華を誇ったようです。足助氏の初代重長の娘は鎌倉二代将軍頼家の室となり、三代将軍実朝を鶴岡八幡宮で暗殺した公暁はその息子です。
 弓の名手だった足助氏七代目・次郎重範の時、元弘の乱が起きます。楠木正成などと南朝・後醍醐天皇(一二八八〜一三三九)側に味方した重範は、笠置山二千五百兵の総大将として北朝側の大軍相手に奮戦しますが敗れ、敗軍の将として京都六条河原で斬首されます。太平記にこのあたりの記述があります。
 次郎重範の死後、北朝側の足助氏への詮索は峻烈を極め、一族はバラバラになりながら主に伊那谷を抜けて信州へ、そして全国へ逃げました。
 厳しい逃避行だったと思います。現在、足助地区に「足助」を名乗る者がいないのは、こういう理由によるものです。
 足助という苗字は長野県諏訪周辺、及び千葉県などの関東や、和歌山などに残っていて、亡くなった私の父たちはその方々に連絡を取り、足助に招いてシンポジウムなどをやっていたようでした。 「朝敵」「賊軍の将」として、長年大っぴらに語るのさえはばかられてきた足助次郎重範ですが、明治二十四年に明治天皇から正四位(現在は従三位)を贈られて名誉を回復し、真弓山の麓に足助神社が創建され、祀られました。現在は足助八幡宮の隣りにあります。
 足助次郎重範公は江戸時代の鈴木正三と並び、足助人の誇りでもあります。
 こうした足助の歴史や民話は、僕らの時代は小・中学校通じて学校で学びました。ですので、僕らと同年輩以上の足助人は郷土の歴史に詳しいです。
 僕を含め、足助人は足助が大好きという人が多いですが、それも子供の頃からの刷り込みが影響しているのかもしれません。
 郷土の歴史を学ぶことは、とても大切なことだと今になって感じています。

「縁を生きる」ということ   佐藤一道           (2012.05.11)

佐藤一道さん.jpg 僧侶として、多くの人の死に出合ってきた。遺族から寺へ連絡が入ると、亡くなった人の生涯を思い返して戒名をつけ、どんな深夜でも施主家へ出かけて枕経を読んだ。
 葬儀を中心として諸々の法要を営む。一連の法要が済み、二、七日法要以降の法要は、死者を縁にして生者が救われるように私は勤めてきた。
 ある一周忌の席上で、喪主が涙ながら「家内のセーターを脱ぐことができない」と言った。最愛の伴侶を亡くし、一年経っても喪主のこころは事実を受け入れることができずにいた。私は自分の力のなさを知った。
 また次のようなことがあった。喪主夫婦はともに教職に就き、子どもたちの面倒を祖母に任せきっていた。祖母は家事一切を引き受けて、孫たちを甲斐甲斐しく世話してきた。喪主夫婦が子育てを放棄していたのではない。
 教職に就かれている方々の実状を私は薄々聞いていた。毎日、夜遅くまで教科の組み立て、父兄への連絡、関係省庁への報告、行事の準備などで時間がかかってしまう。おのずと祖母に頼らざるを得なかった。
 そんな或る日、「交通事故に気をつけて行くんだよ」と送ってくれた祖母が、夜、帰ってみると自室で倒れていた。脳溢血である。意識の戻らぬまま他界された。
 「お母さんに感謝の言葉を伝えることもできなかった。全部、お母さんに任せてきたので、何をやったらよいのかも分かりません。」と喪主夫人は言った。
 私たちは思わぬときに不意を衝かれてこの世の真の姿を知らされることがある。
 人間を含めて一切のものは、つながり合い、支え合って今、ここに存在する。しかし、自分勝手な自我意識は自分に都合のよい縁だけに注目し、それが現実だと思い込んでいる。何の前ぶれもなく、そういう思い込みが崩される。
 死ぬ縁が整ったとき、どんなに私が辛く思おうと、また受け入れられないと愚図ろうと私は私の死を受け入れざるを得ない。縁とは私の都合を越えた事実の総体である。そうだからこそ生きるとは幸不幸にかかわらず今ここに真っすぐ出合い、縁を生きることでしかない。 三年ほど認知症を患ったのちに亡くなった方の忌明け法要を勤めた。ご家族の苦労を私は見ていた。法要が済み、私は喪主に挨拶するよう促した。喪主は参列者に向かい静かにこう言った。
 「おふくろから最後のプレゼントをもらいました。この三年間、家内には苦労をかけましたが、私にとっては掛け替えのない三年間でした」と。
 縁を生きた人の姿を私は目の当たりにした。

子育て環境は自分たちで守る  大家千絵           (2012.04.27)

大家・顔写真.jpgこの春、1歳半になった息子がおっぱいを卒業した。あっけないほどあっさりとした卒乳に、ほっとしたような、寂しいような複雑な気持ちだ。
 もっと料理を勉強しとくんだったなあと思う。はじめての子育ては気づかされることの連続だが、卒乳もその一つになった。おっぱいが大好きだった息子が乳離れできたのは、「規則正しい生活」のおかげだった。
 朝7時起床・朝食、10時のおやつを食べ外遊びへ、昼ご飯を食べ昼寝、3時のおやつを食べ、もう一度外遊びか室内遊び、6時入浴、7時夕食、8時半就寝。
 この程度でおっぱいを忘れられるのかと、半信半疑だったが、助産師さんのアドバイスを信じてやってみると、10日目であっさりと卒乳した。息子は、おっぱいよりおやつや外遊びの方が楽しいらしい。わたしの家事が一段落するのを見計らっておやつをせがみ、自分の外出着と私のリュックを引きずってくる。
 そして、この日課にして息子にも私にも友達ができた。息子と同じ年齢の男の子とそのママだ。「家で1日、子どもと2人きりだと手にあまっちゃう」が、私たちに共通で、お昼寝の後にもう一度公園か、近くの子育てサロンに行く。
 子ども同士仲良くやっているので、「今日は〇〇公園にいます」と毎朝連絡を取りあっている。最近は公園の遊具に飽きて、お寺の裏山が子どもたちのお気に入り。山道を探検したり、ドングリや葉っぱ、石ころを集めたりする。お寺の森は貴重なあそび場だ。
 一緒に遊ばせているママ友は、大阪出身の若くて話し好きなママ。子どもがいなければそんなに親しくならなかったと思う。まじめな私と違って、情報通で遊びを楽しむことがとても上手だ。子連れランチやお寺の縁日、幼稚園の園庭開放、子どものお話会へと、誘われるまま出歩くようになって、私の世界を広げてくれた。
 もう一つ子育てしていて有り難いのは、子育てサロンだ。子どもが手を離れたお母さんたちが運営するNPOで、アパートの一室が子ども専用の遊び場になっている。常にスタッフさんが見守ってくれ、雰囲気がいい。週3日10時~16時開いていて、料金は一回3百円。月1千円払えばなんどでも利用出来るというのも嬉しい。 そんなある日サロンに新しいオモチャが加わって、運営の話になった。名古屋市から補助金は貰っているのだが、それでも運営は赤字という。やっぱり大変なのね…という空気が流れる中、「わたし公園で新しいママさんナンパしてきますよ!」と大阪出身の元気ママのひと言。そうなのだ。赤字なら利用者を増やせば良い。子育て環境は自分たちで守らなければ!

荒廃の原因は遷都造営だった  後藤 正           (2012.04.20)

後藤正さん.jpg 平成10年、奈良で平城京遷都1300年祭が開催され、復元した大極殿が公開された。朱に彩られた宮殿の太い柱、碧い甍は、匂いたつ天平文化を現代に蘇らせ、人々を大いに魅了した。
 ところが先日、雅な王朝文化の陰に隠れた別の歴史があることを知った。それは現代にまで残る負の遺産を我々に突き付けている。
 私が所属する歴史の会である方が発表されたものだが、私には衝撃的な話だった。発表は「国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所」が一般向けに発行しているカラー冊子を基に、ご自身が調べたものを加えてなされた。
 古代王朝は、なにか不浄なことがあると遷都を繰り返した。藤原京から平城京へ、長岡京などを経て平安京(京都)へと、短い間に都を何度も移した。
 都を移すことは人が移動するだけではない。新しい地に新しい建物を建設することを意味する。
 宮殿を建設するには日本の場合は木を使う。それも樹齢1000年クラスの巨木を何本も必要とする。木の伐り出しは、筏に組んで川に流す水上輸送に便利な所で行う。奈良の場合は近くの琵琶湖南部の田上山山系が候補地になった。瀬田川から淀川となり大阪湾に注ぐ水系が使える。桧、杉、樫などの巨木を途中陸路も利用して新都に運んだ。
 奈良の都は仏教文化の最盛期だった。大仏で有名な東大寺、興福寺、唐招提寺など南都七大寺が次々に巨大寺院を建立した。さらに熱心な仏教信者の聖武天皇は、甲賀郡紫香楽村に離宮を造営した。
 こうなると山が荒廃しないわけがない。天平宝宇4年(761)には、早くも大洪水が発生した。度重なる土砂崩れは川を下り、大阪湾を埋め始めた。 戦国時代にはあちこちに小島ができるまでに堆積していた。それで織田信長と真宗本願寺派が戦った石山合戦では、船で小島を攻める陣取り合戦をしていた。本願寺跡は今の大阪城なのだが現在、辺りに海の面影はまるでない。堆積で陸地になってしまったのだ。
 山に沃土がなくなると桧、杉は生えないが、痩地に強い松が自然に成育してきた。
朝廷に替わって山を荒廃させたのは民衆だった。松は燃やすと火力が強い。狸の置物で有名な陶器の信楽焼きの生産が始まると松が盛んに伐られた。加えて薪採りで山はさらに荒れた。
 風化しやすい花崗岩の山はもろく、失った土の再生は難しい。江戸幕府は、木根の掘り取り禁止や苗木植え付け令をたびたび発令したが効果は少なかった。
 田上山では今、山を棚田に削り、松とヒメヤシャブシを交互に植えている。100年で1㌢の表層沃土ができるという。今後日本人が原発の是非を判断する上で示唆的な話だ。

災害復興もチームプレーで   佐藤鋹弘           (2012.04.13)

佐藤とし弘さん.jpg野球の神様の演出は粋である。春のセンバツ32校の参加校の中から開会式の選手宣誓を東日本大震災で被災し、21世紀枠で選出された宮城の石巻工業高校を抽選で指名した。
 グランドはヘドロに埋まり、野球をやるなんて考えられない状況から立ち上がったこの一年。「あきらめない街」を合言葉に、逆境の中で部員全員の思いが凝縮された。「日本中に届けます、感動、勇気そして笑顔」の宣誓は、復興を願う全国民の心に深く染み入った。
 中でも「人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは苦しく辛いことです」のくだりは、喜びも楽しみも明日に見出すことのできない被災地の人々の不安と苦悩の日常を物語っていた。
 朝の来ない夜は無いとか、今が最悪、最低これ以上のどん底は無いと人はなぐさめの言葉を発しますが、こんな時どんな言語も被災者の心に届きません。人々の苦しみを少しでも分かち合うためそっと寄り添い、そして差しのべるさりげない行動──今回もグランド整備に近隣の野球仲間がかけつけました。破れたバッティンググローブを縫い合わせる祖母。全国から寄せられたバット、グローブ、ボール。中でも大阪の高校から寄せられた500球のメッセージ入りボールは使用せず友情の証としてベンチの中で選手の健闘を見つめています。
 そして今回のセンバツには、石巻工を始め3校が21世紀枠で念願の甲子園の土を踏みました。逆境、苦難を乗り越え野球に打ち込む努力校に数年前から贈られるこの21世紀枠は、高校野球関係者の快挙とも言えるでしょう。
 勝ち負けはスポーツの宿命です。勝敗を左右する最大の要素は日頃の努力、つまり練習量の積算に他ならないが、それ以外にも有能球児の獲得、地理的環境、保持する施設等、条件の違いは余りに大ではありますが、数々のハンディーを乗り越え、全身全霊をぶつけ合う高校球児の純粋な姿は、甲子園最大の魅力です。
 新聞の投書欄に見た痛烈な川柳、「重箱の隅をつついて取る歳費」。危機的状況の中で先に進まない政治の世界、一部利己的集団のせいで進まないガレキ処理。勝っても負けても母校のため、すべてを捧げるスポーツの世界は、この人達にどう映るのか…。
 隣県の茶産地島田市の英断と共にテレビに流れた住民の言葉が心を打つ。「被災地の方々にも私達の茶の消費に協力頂いている!」。しからば車の町の車はどうだろうか? 
 自然災害は拒否出来ない神様の贈り物。人の身勝手に警鐘を鳴らす特効薬。神様には私達に粋な演出を授ける余裕は今なさそうだ。だとするならば…。

橋本市長を誕生させた民衆政治を問う  杉浦弘髙       (2012.04.06)

杉浦エッセイ写真.jpg 大阪・橋本徹市長の公約「維新版・船中八策」の元は、坂本龍馬作とされる「船中八策」である。慶応3年(1867)、龍馬が長崎より京都へむかう船中で、明治維新にむけての八つの政策を後藤象二郎に語ったと言われる。
 司馬遼太郎の『竜馬が行く』では、一介の土佐郷士が幕末の風雲児として描かれた。「船中八策」は土佐勤王党の仲間からも「人物なれども書物を読まぬ」と揶揄された龍馬の着想とは思えない。横井小楠の思想を軸として勝海舟、福井藩主松平春嶽、幕府の大久保一翁、小楠門下の三岡八郎らが論議していた政策をまとめたものだろう。
 それらは小楠が幕府に提出した「国是七条」を基本としている。機を見るに敏で要領が良く、根回し上手、商売上手で行動力抜群の龍馬が、勝海舟らの手足となって働いていたのであろう。
 橋本市長の「船中八策」は、日本再生の為のグレートリセットと称して、次の8点をあげた。
 ①首相公選制を含む統治機構の作り直し。
 ②財政行政の改革。
 ③公務員制度の改革。
 ④教育改革。
 ⑤社会保障制度見直し。
 ⑥経済政策・雇用政策・税制の改革。
 ⑦外交・防衛の見直し。
 ⑧憲法改正手の制度化。
 民主主義を奉じ、平成の構造改革運動を信じてきた人々は、橋本市長に拍手喝采しなければならない。
 過去にも記したが、民主主義と言うものは古代ギリシャの頃から論理的・必然的に独裁政治(デスポティズム)である。マルクスのドイツ社会民主党、レーニンのロシア社会民主労働党の先例があり、北朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国という。「主義としての民主主義」を奉じることの結果として、独裁者(デスポット)を仰ぎ見る事となる。
 デモクラシーは日本では民主主義と訳された。デーモス(民衆)によるクラシー(政治)、つまり民衆政治である。民衆と言う多数者が多数決で物事を決める。すなわち、真っ当な政治が行われるかどうかは、多数派が真っ当かどうかに懸かっているのである。
 しかし、そんな議論はタブーとなった今の日本では「民意・民衆は無条件で正しい」とされる。
 橋本市長はまさに日本の民主主義=民衆政治の権化だ。ドイツのヒトラーは1933年授権法と言う全権委任法で独裁者になった。彼が勝手に全権を奪った訳では無い。国民投票で国民が全権を与えたのである。
 国民投票が無条件で正しい選択かどうかは保証の限りではない。議論(能力のある候補者選考)なき、議会(政策チェック機能)なき首相公選制が、ヒトラーのようなトンチキな指導者をもたらした事を歴史の教訓とすべきである。

定年で去る人の知恵を聴く  硲 伸夫            (2012.03.30)

硲伸夫さん.jpg縁あって2005年から、豊田中央研究所のOBらで設立した「科学技術支援NPO法人テクノプロス」の理事をしている。このNPOは、各分野の専門家約30名で構成され、子供から企業人に至るまでを対象に、科学技術の教育、支援活動を行っている。
 私は化学材料分野の担当として、中学校の課外理科授業や企業人向けの講習会の講師をすることがある。 いつも悩むことは、現役を引退してすでに10年余り、その間の科学技術の進歩の凄まじさへの対応である。現役の先生ならもっと、最新の知識を教えることができるのではないか、というジレンマが先行する。
 私に課せられた役割は一体何なのかと自問自答する。悩んだ末に得た答は、生徒達の知識に智恵を加えるのが私の役割だということだ。
 私達は学校で知識を詰め込み、試験で能力を評価されてきた。しかし、社会に出てからの化学材料との付き合いは、知識だけでなく智恵が伴わなければ役に立たない。この智恵は実務での失敗と成功の繰り返しで積み上げられるものであり、その伝承が我々OBの責任だと思っている。
 例えば、金属のイオン化傾向についても、学校では「金属は水溶液に溶けだすと陽イオンとなる。イオンになりやすさの順番がイオン化傾向である」という知識は教えるが、それでどうなのだ、という智恵までは教えない。
 私は中学校の僅か1時間弱の課外理科の授業で、生徒達にレモン電池の実験をさせて、「イオン化傾向とサビ」という講義をしている。亜鉛版と銅版を電極としてレモンに差し込み、オルゴールを鳴らすというものだ。
 亜鉛と銅のイオン化傾向の差で亜鉛が溶けてイオンとなり、亜鉛中の余剰の電子が銅に流れ、オルゴールが鳴る。イオンになった亜鉛は酸素と結合してサビになる。
 レモン電池からサビに行きつく知恵──。この現象は世の中では、車でも水道配管でも、異種金属と水が接触する使い方をすれば腐食不具合が起こる、ということだ。イオン化傾向という学校で習った知識も、社会に出て智恵に変えれば、製品の設計段階でサビを防ぐ技術となる。 この事は世の中の全てのことについて言える。私の現役時代、先輩から「今、トヨタは順風に乗っているが、大切なのはトヨタが瀕死の状態だった頃、会社が生き抜くために苦労した人達の話をよく聴いておくことだ。彼らはもうすぐトヨタを定年で去っていく。彼らの智恵が今のトヨタを支えている」ということを教えられた。
 文化は智恵の伝承である。次世代にそれを語り伝えるのは、私達OBの役割だと思っている。

「今のところは」変わらぬ日常  田中裕子          (2012.03.23)

田中裕子さん.jpgあの大震災から1年が過ぎた。その3月11日を迎えるにあたって新聞やテレビなどから特別番組や特集報道が続々と届いた。
 画面に映し出される被災地の多くは白い雪に覆われていた。雪は、家族や家や土地、畑や田んぼ、家畜やペットなど震災で失われた全てを包む白装束のようだ。その風景に心が凍る。
 遅々として進まないがれきの撤去や補償問題。私ごときが案じてもどうしょうもないが心は暗くなる。
 被災地に積まれたがれきの山や除染した土が青いビニール袋に入れられて山積みにされている写真や映像を見ると言葉を失う。
 その映像の向こうに、平凡な普通の生活、あたり前に肩を寄せ合って暮らしていた人々が重なる。
 「平和で幸せな家が消えたんです」と自身に言い聞かせるように話す女性は私と同世代と感じた。普通であたり前のあくびの出るような一日一日を誠実に優しく家族と共に積んで来たあの日までと思う。私はどんな言葉を選べば彼女の深い喪失感に添えるのだろう。ただ悔しい。
 ああ、ムンクは苦悩に歪んだ顔でこの状況をなんと叫ぶだろう。
 そのうえ世界中を震撼させた原発事故。その後に届く様々な事実や問題は、これもまた私ごときが案じる範囲内の事ではないが、不安だ。今後、あの水・あの土・あの風はどうなるのだろう。心配だ。複合汚染の恐怖が頭の隅に巣食う。
 ああ今、私の中にムンクが居る。
 が、私は顔を歪め心を痛めて叫ぶことさえできない無力で無知で小さな人間だ。
 ほんの少しの義援金や被災地の商品を買ったりしている私自身を嫌悪気味の今。
その私には変わらない日常があり、家族があり友人がいる。だが、それは「今のところは」の枕言葉つきと知らされた。そう、常(つね)は永遠では無いことを骨の髄まで知らされた大地震だった。
 その私の日常の事。年齢よりは少しは若いつもりでいた夫はドライアイが気になり眼科を受診、友人は肩の痛みで,私は骨密度測定のため整形外科を受診した。その私たち。それぞれが違う病院で問診だけの段階なのに、開口一番医師から聞いたのは「年ですからね」の同じ言葉だった。 私たちは充分に加齢の身と自覚しているのだが、はっきり宣言されると寂しいものである。その私は今後、加齢と共に少しずつ今の常を無くしていくだろう。歩くこと食べること、話すこと聞くこと、覚えていることなどが常でなくなる時は来る。
 私たちは老病死からも天災からも逃れられない宿命の中で生きる。一日一日を大切に生きていこうと思う。その決意を込めて私は叫ぶ「ああ、無常」と…。 

舞木の「山の神」の祠と狸たち  森 當           (2012.03.16)

森さん.jpg 二月下旬に山の神の祭りが行われた。祭りといっていいのかどうか分からないが、昔から続いている「山の講」の仲間が10人ばかり、山の神の小さな祠の前に集まって火を焚き、田畑の豊穣と作業の安全を祈願してお参りをするのである。その後、ささやかな酒のさかなでお神酒をいただき、一時間ばかりの世間話の交換でお開きとなった。
 今や八十路を迎えるわが世代には子供のころからの懐かしい行事であった。祭りは一年に二回、春は二月七日、秋は11月七日、どちらも旧暦で行われることになっていたが、今は新暦でその日に近い日曜日の朝である。この神は春には田に下って田の神となり、この祭りの日には田の仕事はやらないことになっていた。
 秋には山に帰られて、山の仕事を総覧主宰されるということで、山仕事をやると事故を起こすといわれていた。山の神は高さが80センチばかりの社に鎮座されている。私の集落ではこの山の神が五カ所、家々や田畑を見下ろすような小山の中腹に祀られている。
 昭和五一年発行の豊田市史には「近年では農業の減反とともに山の神信仰も薄れてきた」と記され、さらに「猿投山麓の山深いところには祀られていない山の神が多くあるといわれている」と書かれていた。
 それより前、昭和四三年豊田市合併前に刊行された猿投町史には猿投山麓で山の講に関係する160戸のうち130戸が山の神の祭りに参加しているという数字がのっているが、今はどうなのか。忘れられている神も多いかもしれない。
 史料をみるとこの御神体は「大山津見神」で、本社は四国愛媛県今治市の「大山祗神社」である。この神は、山に関する農、林業を始め漁業、鉱業にも御神徳があり、また酒作りの神でもあり、日本酒の祖神と言うことであった。
 さて、この大山津見神は日本の神話[古事記]の中で、天地の初めの時、この日本列島をつくられた夫婦神、イザナキノミコト、イザナミノミコトがお造りになった自然神の一人で、海、風、大地の神も兄弟神である。神話の世界ではあるが山の神の祭りが疎かになってしまって、その兄弟神の怒りが大きくなっているようで恐ろしい。
 ところで今年になって、狸がこの山に住み着いたらしく「山の神」の社の後ろに狸のため糞が山をなしていて驚いた。雪降りの後に行ってみると、小山のあちこちからこのサインポストめがけて足跡がついていた。綺麗に片付け、薬をまいてみたが、駄目であった。
 山の神を祀った小山は幹線道路の近くにあり、騒音も激しく排気ガスも多いと思うのだが、狸も今まで住んでいた里山が少なくなって、山の神のひざ元が安住の地になったのだろうか。

「食」から「楽」を手放せるか 加藤志津香          (2012.03.09)

加藤志津香さん.jpg例年寒の間に自家用の味噌を仕込むのだが、今年は少々出遅れ、寒が明けてから麹を買いに行ったら、店頭のショーケースに米麹がない。某テレビ番組で紹介されてから塩麹作りが大流行りなのだそうで、増産が追いつかず、塩麹用なら待ってとのこと。
 ホントにテレビの影響の大きさには驚く。「麹に注目していただけるのは嬉しいですが、来年はこんなことにはならないと思いますよ。」と、お店のほうは冷静な対応で、豆麹の割合を増やして味噌一樽分の麹をわけてもらった。
 味噌は比較的簡単に家庭で作れる発酵食品なので、毎年仕込むという人は意外に身の回りにいるのだが、買ったほうが安いというご意見もまた事実だ。
 国の進める食育は、食に対する理解と、環境づくり、中でも食を通しての健康作りに重きを置かれているように感じるが、それは「安い」や「手軽」とは反対の方向を向いているからむつかしい。
 先日参加した食農教育の集まりでは、来賓が高校生のお弁当事情について触れられていた。地産地消や自給率向上を考える立場で、県内の高校に通うご自分の息子さんに同級生の昼食を観察してくるように依頼してみたら、コンビニ弁当やパンなどの購入ものが半数近く。家から持ってきているお弁当の中身もチンするだけのおかずが並んでいるのが多かったという現実に、地産地消どころじゃないと驚かれたというお話。女性の睡眠時間は子供が高校生のときが一番短いという統計結果を見たことがあるが、巷にあふれる「お手軽食材」を求めるのは当然の流れになっているのかもしれない。
 売る側からは、「おいしくなければ売れないし、遠方から大量に仕入れるほうが、地元産より安いことも多く、割高な食材を使っていては商売を成り立たせるのは難しい。」との声があれば、なおのこと。経済性重視の今のままなら、食育推進には、三方一両損のような大岡越前守並みの計らいがが必要かも。 栄養バランスについては健康に直結するのでとっつきやすい。下宿生活をするわが息子は、当初学食の栄養表示を見て、パーフェクトなメニューの組み合わせ方がなかなか見つからないとぼやいていた。みよし市内の飲食店にも栄養成分表示のあるお店が五十店近くあるそうなので、機会があればごらんあれ。バランスを考えて次のメニューを考えてみると、家で作るほうが楽なことがわかる。
 高齢化社会がすぐにやってくる。自分だけ健康でも、みんなが健康でないと結局生きづらくなるだろう。「食」から「楽」を少しでも手放して、せめて夫の体脂肪も手放したいと初老の域を目前に思う。

繁昌する足助のイベント 鈴木 章              (2012.03.02)

鈴木章さん.jpg市役所と足助地区を往復する日々の議員活動の中で、私が「足助人」だと知ると多くの方からこんな声をいただきます。「足助はまちづくりにいろいろな試みをよく考えますね。」とか「足助のイベントはどうして成功して長続きするのですか?」などと尋ねられることがしばしばあります。
 足助に生まれ、足助観光に携わりながら生きてきた自分にとってはごく当たり前のことで、次のイベントに向けて予定を立て、新たなイベントをみんなで考えているうちに1年があっという間に過ぎてしまうのがまちづくりに携わる足助人の習性だと感じています。
 丁度このエッセーが発行される頃には開催期間中である『中馬のおひなさん』も終盤を迎え多くの観光客で賑わっているころだと思います。
 足助を代表するイベントの『中馬のおひなさん』も、平成11年に始まったときには、わずか15軒ほどが参加するだけの2週間の小さなイベントでした。
 初年度の入り込み客は3千人程度、成功か失敗かわからない試みでしたが、粘り強く続けたためにおひなさんを飾る軒数も徐々に伸び、観光客の入り込みも2年目は6千人、3年目には1万人に達し、最盛期には8万人が訪れるほどのイベントに成長しました。今年も139軒の協力を得ることができ盛大に開催されています。
 同じように恒例のイベントに成長した『たんころりん』『香嵐渓月見の宴』『足助八幡宮七草粥』も、成長途中の秋の『芸術さんぽ』も、小さな試みからスタートしたイベントばかりです。始まったころはまだ豊田市に合併される前で、予算もほとんどないところからの出発でした。
 今でも中馬のおひなさんの予算は、準備(ポスター・マップ・広報代含む)から約1か月の期間中すべての費用を計算しても193万円程度と非常に安く5万人以上をコンスタントに集客するイベントとしては〝費用対効果〟の高い取組だと感じています。
 なぜ足助のイベントには多くの人が集まるのか?2つの大きな要素が成功をもたらすカギを握っていると分析しています。 一つは、文化庁から『重要伝統的建造物群保存地区』に指定された足助の古い町並みが、イベントを行う『キャンパス』として守り続けられていること。もう一つは、私が名付けている『3G』即ち、「自前
(手弁当)」の「人力」で「地道」に活動することが足助人のDNAに脈々と伝承されていることが成功の秘訣だと思います。
 財政的に厳しい状況下にある豊田市ですが、補助金頼りでない旧来型の足助(田舎)のまちづくりこそが、見直されるべき手法だと感じるこの頃です。

蔵元の伝統行事「こしき上げ 」 浦野正二          (2012.02.24)

浦野正二さん.jpg清酒の仕込みが盛期で、大吟醸酒、純米吟醸酒のもろみが発酵しながら蔵中に芳香をあふれさせてきた。杜氏さんを始め職人は不眠不休で酒づくりをしてきたのだが、本年度の仕込みも2月18日で終了した。
 蔵元では仕込みを終了することを「こしき上げ」とか「こしき倒し」と呼ぶ。米を蒸すこしき(せいろ)を使うことが終わったということだ。
 杜氏さんをはじめ蔵人たちと酒つくりにたずさわった人々が一堂に会し、感謝と慰労の祝宴を行う蔵の行事がある。創業以来148回目の「こしき上げ」を開催する運びとなって嬉しい限りである。
 一般的に年度には、暦年度、国の会計年度、法人の会計年度などがあるが、酒屋には酒造年度というのがある。従来は新米の取れる10月から翌年の9月までを1酒造年度としたが、9月から新酒を仕込む蔵が出てくると、清酒になるまでに1酒造年度をまたがってしまう。統計上不便をきたすことが生じたために、現在は7月から翌年6月までが1酒造年度になった。
 したがって、昨年当社では全国の鑑評会で金賞を受賞したが、あれは平成22年度清酒鑑評会の受賞である。現在、造っている大吟醸酒、純米吟醸酒は平成24年に醸造しても、平成23年度産清酒となる。本年5月に開催されるであろう全国鑑評会は平成23年度生成清酒が出品の対象だ。
 過去では清酒は春先にできたものを火入(加熱殺菌)して土蔵でゆっくり熟成させた。土用が過ぎて10月になると味が乗ってうまみを増す。そのうまみを味わう呑み方、即ち舌ざわりを楽しむ呑み方が普通だった。しかし、酒といえばビールがはやり、焼酎がはやった。その影響からか、清酒でも新酒をのどごしでたのしむ人が増えてきた。土用を越した酒のうまみを楽しむ人は少なくなった。 これも生活環境のグローバル・スタンダード化の一端かもしれないが、あくまで酒は嗜好品であるからどのようなものを、どのようにして呑むかは人それぞれ自由である。ちびりちびりと味わう楽しさも古来からの清酒の飲み方だ。
 蔵元もすこしでも沢山売るために季節にあった「初しぼり」「袋こし」「春まち酒」などの、のどごしの良い新酒を発売している。  新酒、古酒の区別もあいまいになって、酒造年度まで変更しなくてはならない酒造業界の現状はやや情けないのである。
 昨今教育界は日本古来の文化である礼儀、作法を習得させるために柔道、剣道、相撲を体育の必修科目に受け入れた。こちらは無理矢理押し込んだ感もあるが、酒や日本料理の「うまみ」が日本古来の食文化として認識されていた時代が、私には懐かしいのである。

被災の〝語り〟を津軽三味線に載せ 奥村岳弘         (2012.02.17)

奥村岳宏さん.jpg先日、津軽三味線奏者高橋竹山さんから手紙が届いた。信濃毎日新聞の社説コピーも同封されていた。
 竹山さんは、昨年二ケ月かけて東日本大震災被災地の岩手県沿岸南部を、中原中也研究の第一人者で詩人の佐々木幹郎さんと慰問に回った。各地の避難所・集会場で歌と演奏、そして詩の朗読ライブを開いた。同封されていた社説には、そのことが書かれていた。
 その折、お二人は大船渡市の六十代の主婦から、こんな話を聞いたそうだ。
 「あの日、津波の第1波が来た後、職場から山伝いに自宅へ急ぎました。途中、壊れた家やがれきの中から『助けて下さい』という声を幾度も聞きました。しかし、私にはどうすることもできませんでした。
『ごめんなさい。許して下さい』と泣きながら歩き続けました」。
 「ある所まで来たとき、潰れた家の下から懸命に歌う声が聴こえて来ました。かなりの高齢の男性とおぼしき声でした。その歌は、聞き覚えのある民謡『八戸小唄』でした」。
 佐々木さんはこう推察した。
 男性は必死の思いで助けを求めていたのだが、絶体絶命の状況にあって、自分自身を励ますために体に一番沁み込んだ歌を歌った。それが『八戸小唄』だったのではないか?
 東北は民謡の宝庫である。お二人は行く先々で、それを目の当たりにしたという。竹山さんが歌うと、どこの会場も大きな手拍子と一緒に歌声が起きる。その場の空気から、民謡のような土地に根ざした歌は、そこに生きる人々の心に灯をともすと強く感じたそうだ。
 自然の猛威の前に、人間はあまりに無力だ。しかし一方で、死に直面して歌うことができる。それをその男性は教えてくれた。それこそが歌の、民謡の持つ大きな力なのではないのか?
 それをきっかけにお二人は、数年がかりの大仕事になるが被災した人々から体験談を聴き取り、竹山さんの津軽三味線による『語り物』を作ろうと決めたそうだ。  「皆さんの物語を聞かせて欲しい。百年先の子どもたちに残しましょう」と呼びかけると、応えてくれる人が大勢いたそうだ。被災体験の記憶を記録する作業は、様々なところで行われているようだが、音に載せて伝えようとするのは、おそらく他にはないだろう。単に癒すだけではない、大きな使命を音楽は背負うことになる。
 「震災の記憶を受け継ぐことは、人間の尊厳について考えることでもあると思う」と手紙は結ばれてい
た。
 「語り物」を聴かせてもらいたいと思う。
 音楽の持つ力を信じたい。

枯淡に生きた先住を偲ぶ 佐藤一道              (2012.02.10)

佐藤一道さん.jpg 二月二日、上空の強い寒気の影響で平勝寺周辺は一面の銀世界である。とは言え、屋根の雪を下さなければならないほどの積雪はない。その点において当地は負担が少ない。
 十年間、私は山陰地方の修行道場にいた。そこは毎年2〜4mの積雪があった。お寺を守るため、雲水(修行僧)三十名は常に屋根の雪を下したり、本堂周辺の雪かきをした。作務太鼓が鳴ったら全員、スコップを持って外に飛び出して行った。
 作務とは禅宗の僧侶が日々おこなう掃除、薪割り、畑仕事などの労働のことである。作務を始めるときには太鼓が鳴る。それを作務太鼓と言った。
 今から千二百年ほど前、唐の時代に百丈懐海という禅僧がいた。
 百丈は作務を最も重要な修行と位置付けた。作務を通してはじめて人間性が磨かれるとした。弟子を教育するためにそうしたのではなく、自ら信じ自ら実践した教えであった。
 高齢になっても百丈は作務をやめなかった。日々に食する野菜を自ら作った。百丈の健康を心配し、弟子たちは百丈の農具を隠した。百丈は農具を探したが見つからず、その日は作務ができなかった。
 食事時間となり、弟子は百丈に食事を持って行った。食事が済んだ頃合を見はからって弟子が食器をさげに行って驚いた。手がつけられていなかった。
「体調がよくないのでしょうか」と弟子が尋ねた。百丈は「一日作さざれば一日食らわず」と答えた。
 私たち雲水は百丈懐海の末孫である。雪かき作務を雪作務と言って汗を流した。
 或る時期、私は釧路の修行道場にいたこともある。同じく作務太鼓が鳴り、雪作務と言われたので私はスコップを持って外へ出た。
 「一道! 何を持って出て来たのだ」と叱られた。
 釧路ではスコップは役に立たず、ツルハシでなければならなかった。境内地に厚く張った氷をツルハシでコツコツ砕くのが雪作務であった。
 最近、平勝寺の先住が残した「經嶺集」という歌集を読んだ。先住は明治三十四年生まれで、昭和十六年に平勝寺に入寺している。若いころから早川幾忠に師事して短歌を学んだ。
 先住と私は血縁がなく、子弟の関係もない。和歌の教養が私にはないが、同じ平勝寺の住職として共感できる歌がたくさんあった。
 その中の一首である。 「薪作務も雪作務もなき  わが寺の  行粥はわが腹に丁度よし」
 伴侶を亡くして二十五年、先住はひとりで寺を守った。坐禅と短歌を友とし枯淡な日常を送った。
 雪作務で汗を流すのもよい。また先住のように枯淡に生きるのも魅力的だと思えるようになった。

自分の生活スタイルを大事に 大家千絵            (2012.02.03)

大家・顔写真.jpg 2012年がはじまった。昨年は災害つづきで、特に原発の問題が重かった。本当の被害がわかってくるのはこれからだろうけど、これを機に脱原発の動きが報道されるようになった。
 4月から東電が企業向けの電気料金を上げる。原発事故によるマイナス分を火力発電で補った結果、燃料費の負担が増えたのだそうだ。家庭用の値上げもほぼ決まっている。原発の稼働数が減っていけば全国で電気料金が上がる。負担ではあるけれど、これは仕方ない。過剰なエネルギーは使わない。生活を見直すいい機会と思いたい。
 ただ日本全体で考えたとき、「産業の空洞化」「国力の低下」「貿易赤字」などといわれると、さびしさを感じてしまう。
 そんな時読んだのが「経済成長という麻薬」というインタビュー記事だ。「幸せを感じるのは経済が加速度的に成長しているときだけであり、豊かであっても成長が止まれば人の幸福感は止まる。経済の停滞期に入ったフランスでは成長戦略にかわる方法として、週35時間労働が提唱された。生活は十分豊かになったのだから、働く時間を10%減らし、所得も10%減らそうという案だが、賛同は得られていない」という。
 記事は続く。「これは人々が『もっともっと欲しい』という中毒症状に陥っているためである。人類に成長は欠かせないが、地球環境への負荷を考えれば無邪気に経済成長を求め続ける余裕はない。例えば知識や医療などの非物質的な分野で成長をめざすべきだ」というのだ。
 私たちは日本の高度成長期に生まれて、生活が豊かになっていくのが当たり前という感覚があったけれ
ど、それは歴史的に見て特異なことだと記事はいっていた。学生のころ奈良で出会ったお爺さんも似た話をしていた。「人は何に最も喜びを感じるか」という話で、答えは「自分の能力を知ることであり、人は何かが出来た、出来るようになったということに最も大きな喜びを感じるものだ」と。
 収入は増えるにこしたことはないし、物欲だって少しはある。ほどほどで満足して、他に喜びをみつけようというのに賛成だ。
 わたしの2012年の目標は、内面の成長と趣味や学ぶ時間の確保である。それに「こだわり」を大切にしたい。
 簡単にいうとイライラしない。最近はまっている落語でも聞いて笑っていよう。そして忙しさにかまけて誤摩化しがちになっていた子育てや生活スタイルへのこだわりを大切にしたい。
 年があけて、自分の考えを持って生活している友人に久しぶりに会った。とても格好よかった。同じ1年を過ごすなら、何か積みあげながらすごしたい。

言葉のすり替えでは解決しない 後藤 正           (2012.01.27)

後藤正さん.jpg  太平洋戦争中の日本軍には「退却」という言葉がなかった。天皇(神)の軍隊が敵に背を向けることはありえないとの考えからだ。
 それでも戦場では退却しなければならない場合がある。特に敗色濃厚となった戦争末期には、現場指揮官の将校は迷ったようだ。
 退くことが許されないなら前へ進むしかない。ほとんどの将校が「突撃!」と苦渋の号令を下した。この結果多くの兵隊が死んでいった。今からみれば犬死にだが、これを玉が砕ける、すなわち「玉砕」と美しい言葉で表した。
 知人に軍隊歴8年の元陸軍軍曹がいた。白骨街道で有名なインパール作戦の生き残りだった。その軍曹が興味深い話をしてくれた。 敵に追い詰められて進退極まった時、若い指揮官に「少尉殿、敵に向かって『転進』と命令してください」と進言したという。「転進」とはUターンのことだ。行動内容は退却と変わらないのだが言葉が違う。軍曹はこうして部下たちを救ったという。
 この話は日本人の精神構造、とりわけ言葉と行動の関係を知るうえで非常に示唆的だ。昨年の福島原発事故をめぐる日本人の反応をみると、精神構造が日本軍とあまり変わっていないことに驚く。
 政府は事故収束に向けた工程表ステップ2の「冷温停止」を年内までに達成すると明言し、年末には目標を達成できたとして事故の収束宣言を出した。
 これには誰もが驚いた。今はなんとか水で冷やしているからいいようにみえるが、原発内で放射性物質の崩壊熱が何千度にも高まる危険性は依然去ってはいない。しかもこの先何万年も冷やし続けなければならない。どこが冷温停止だと猛烈な批判が起きて当然だ。
 ところが政府は「冷温停止」とは言っていない、「冷温停止状態」になったのだと言う。よくわからないが、安定した冷温停止ではないにせよ、それに近い状態になったから目標は達成したという意味らしい。  
 私は日本人の言霊信仰を見る思いだった。言霊信仰では言葉には霊力があるから、口から言葉を発すると現実が言葉どおりになると信じる。受験生に「すべる」という言葉を使ってはいけないというのも、言葉に出して現実に不合格になったら責任を問われると思うからだ。
 言霊信仰が困るのは、現実の問題を言葉の言い回しにすり替えることで、解決したと信じ込んでしまうことだ。現実(本質)を直視していないので、真に必要な手立てを打たなくなる。解決済みと判断してしまうので、それ以上は考えなくなる。
 これは恐ろしいことだ。原発事故は今後気の遠くなるほどの時間がかかる。言葉の問題ではないはずだ。

日本人の一体感の感動を見る 佐藤鋹弘            (2012.01.20)

佐藤とし弘さん.jpg 「柔道」も「津波」も「駅伝」も、日本独特の文化、歴史から発祥した「国際的単語」です。そう言っていいと思います。
 期待と不安が交差する中で、小生が迎える新しい年は、いつも箱根駅伝の観賞から始まります。
 スポーツの中でこれ程シンプルな競技はないでしょう。人間の体力と精神力の限界に挑む各走者の自己能力への挑戦は、人々に大きな感動を呼び起こします。引き継がれる1本のタスキ(襷)に母校の命運がかかる駅伝には、大きなドラマがあります。
 4年間、常に区間の王者に君臨する者もあれば、いかなる実力者にも常にトラブル、ハプニングは待ち受けています。「練習はウソはつかない」、有能な指導者の下、この「2日間」の結果のための努力は「363日間」続きます。また一方で、当日出場できた10人の走者の周りには、共に厳しい練習に耐えた多くの仲間の存在もあります。走りたくても走れなかった友のためにも精一杯走る! つまり、走ることを通して学ぶこと、また走れなくて学んだ尊く熱いドラマは、まさに人生の縮図であり、そこに係わった若者の人生の大きな財産となることでしょう。
 それにつけても往復200km余に及ぶ沿道において、寒風のなか、途切れることのない観衆の声援が続きました。そして沿道の声援の風景がドラマに大きな役割を果たしていました。
 今回、最下位のチームは、勝者より30分以上遅れるという悲痛なものでした。テレビの放映は打ち切られましたが、現場のドラマは延々と続いていたのです。
 体調を崩し、今にも倒れんばかりの最終走者は、途切れることを許されないタスキと仲間の友情のため、死力を尽くしてゴールに辿り着きました。
 そして、そこには、誰一人立ち去ろうともせず、しかも勝者に送られた以上の温かい声援があったことを後刻知り、感涙は止まりませんでした。
 私は昨年3月11日の悪夢の大震災を思い出します。敗者、弱者に加担する人のやさしさと、1本の「襷」に集結される連帯感、そして被災地に寄せられた人々の温かい「絆」と、世界が称賛した非常時に於ける秩序、忍耐力、互譲心は日本人の心の現われであると思います。
 1人はみんなのために、全体は個のため─これは箱根駅伝と東日本震災に見た一体感の感動の表現であるとも言えます。ここに、昨秋の国王来日で体感した新鮮なブータン流幸福論を付加できるなら、わが国は経済立国を礎に世界一幸せな国となることでしょう。
 そして、私の甘い夢とさわやかな感動は、夏の甲子園へ続いていくのであり、早くも心がさわぎます。

大衆迎合社会の危険な兆候 杉浦弘髙             (2012.01.13)

杉浦エッセイ写真.jpg昨年2011年の漢字が「絆」と発表された。今の日本人にはその意識が希薄になっている事は多くの人が感じていると思う。
 しかし3・11の震災以降、日本人はあの大震災を自分の事として悲しみ、被災地に対して励ましの心や物資を寄せた。「まだ日本人も捨てたもんじゃないな」と思う反面、日々の生活の中で、地域における身近な人々との絆が繋がっているかどうかと考えると、果して被災地に対する心が本物なのであろうかと不安でもあるのだ。
 小生の周りには自分を犠牲にして地域や人の為に活動している多くの人々がいる。しかし自治区、PTA、老人会、消防団等々の地域活動への参加率は低下している。世話役の役員になるのが嫌でやめてしまうという例も見られる。自己中心的な社会となっている事も又、今の日本人の憂うべき現実であろう。
 石原東京都知事が「震災は天罰」と言う言葉を発したとしてマスコミと国民から集中砲火を浴びて、流石の石原知事も謝罪をする破目になった。知事のコメントを読んでみると、その真意は予想どうり、被災地に向けた言葉ではない。今の日本人に対する戒めの言葉であった。マスコミが発言の一部分だけを取り上げ、国民が騒ぎ立てたのである。大衆迎合化した社会の弊害の象徴であった。
 「自然を大切に」とか「自然との共生」とか「地球に優しく」とか言う。一見正しそうな言葉を乱発し、それを免罪符にして、エコとか環境対策と称して、結果として自然・環境に良くない事をしている。人間と自然との本来あるべき関係を人間の都合の良い様に勝手に勘違いして、認識してきた結果でもある。
 「民主主議は大衆迎合主義へと変貌を遂げ、その後、共産社会主義・国粋主義・ファシズムとなる」とかつて私は述べたが、今、民意と改革と言う名の下にそれが現実となってきた。
 「政治に必要なのは独裁だ」と言って自己陶酔し、自分の言い分が通らないから効率の良い独裁、という誘惑に負けて勝手な理屈を並べて大阪府知事を投げ出し、新大阪市長が誕生したのである。確かに手早く世直しをするには独裁が便利だと小生も思うが、あまりに短絡的で危うい。
 さらに怖いのは、彼なら世直しができると、国民が思い始めている点である。この現象は2年前の政権交代の時に似ているが、さらに悪化しているのでは…。
 ヒットラーを産んだナチ党と言う地方政党がドイツのみならず、世界を震撼させた狂気については周知の事である。大阪・名古屋の危険な兆候を日本国民は感じていないのであろう。
 「人心の乱れと天変地異」が同時進行で人類を襲っていると感じる。

矢作川にカブトムシ住む小路を 硲 伸夫           (2012.01.09)

硲伸夫さん.jpgトヨタ自動車在籍中に教わった「感動の共有」と「3C精神の発揮」がいつしか私の座右の銘になって行った。3CとはCreativity (創造)、Challenge(挑戦)、Courage(勇気)の三つの頭文字である。
 1980年代前後に、トヨタ自動車が全社を挙げて「感動ある職場づくり」にチャレンジしていた。その中で心に残る二つの言葉があった。
 その一つは、1991年の豊田章一郎社長の年頭のあいさつである。「お客様に満足していただき、さらに進んでお客様に感動していただくことが企業活動の原点であり、基本である。」という言葉があ
った。
 もう一つは、当時の楠兼敬副社長の「何事にも真剣な心が感動を生む。感動する心が創造を生む。そして感動は自ら闘いとるもので、人から与えられるものではない。人間味を欠いた職場に感動はない。人間として、悲しみ、喜び、涙することのできる集団が望ましい。」という言葉である。
 私はサラリーマン卒業後、多方面でのボランティア活動に現役意識で忙しく飛び回っている。その一つが、NPO法人矢作川森林塾の理事長としての活動である。豊田市中心部を流れる矢作川の高橋から久澄橋までの左岸約1kmに、鬱蒼とした竹藪が広がっていた。その竹を手で切り雑木林に変えて行く活動である。
 さらに、国土交通省の河川改修工事に伴って活動範囲を広げ、久澄橋から加茂川合流点までの間に、小魚の住み家になり子供達が遊べるせせらぎや、起伏の多い地形を生かしてカブトムシが住める景観の良い散策の小路も計画している。 このNPO活動は国土交通省豊橋河川事務所とアダプト協定(協同管理協定)を結んでおり、官民協同事業のモデルとして感動できる成果を望んでいる。
 別の分野になるが、科学技術支援NPO法人テクノプロスの理事としての活動がある。この活動は、豊田中央研究所OBを主体として、それぞれの専門分野の技術を後進に伝えようというものである。
 対象は小学生から一般社会人までだが、その中で企業人への講習を頼まれることが時々ある。
 私の担当は樹脂材料の利用や業務改善であるが、いわゆる学校で教えるような知識ではなく、私の経験を生かした材料への知恵を伝えたい。機会があれば別に述べたいと思っている。
 この他、異分野のボランティアを数件引き受けている。このように各方面から色々なお話をいただけるのは大変ありがたいことであり、お引き受けしたからには、仲間と感動を共有できるよう、真剣に取り組んで行きたいと思っている。