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里山の今昔と明日

小澤庄一日記

4面・小澤さん写真.jpgおざわ・しょういち、昭和12年生まれ。豊田市新盛町引地18。猿投農林高校卒、足助町企画課長、教育長、助役、観光協会長、三州足助公社社長。国交省観光カリスマ。観光足助を築いた1人。平成19年公職退任。野生獣解体精肉の「株式会社山恵」代表就任

足助町制100年記念で塩尻へ中馬パレード   62   2015.09.25

足助中馬パレード050.jpg 今から25年前の1990年(平成2)年、東加茂郡足助町は町制百周年記念事業で百年草館を開館、外にむけては長野県塩尻までの塩の道(飯田街道)の隊商「中馬」再現の人馬パレードを展開した。写真は足助の塩問屋付近を出発する「平成の中馬」隊。

 足助町役場は9月25〜29日、5百万円を投じ馬3頭を出した。

 中馬隊長は時の大河原静臣助役、副隊長は安藤賢治産業課長、馬方は観光協会の鈴木藤晴、鈴木秋生。役場若手10人や公募で総勢30人の中馬隊が編成された。2万5千円の実費負担で華やかに面白く実施された。

 馬は松平郷の天野藤雄氏飼育の3頭。初日は足助旧市街出発、伊勢神峠の旧道越え、稲武役場まで人馬パレードした。

 2日目以降は稲武〜塩尻の全長170㎞・19市町村コース。交通危険な国道、通過道路はトラック輸送でスルー。各市町村役場周辺1㎞は人馬パレードで各役場を表敬訪問。意外性と塩の道の歴史回顧で大喝采を浴びた。

 塩の道〝北限〟の塩尻では、塩問屋復活イベントがあり、市長らが往時の古装で塩の道〝南限〟の足助の客人を歓待した。

 話は別だが、来る11月15日(日)、豊田市内の足助〜伊勢神峠〜稲武地区で、塩の道ミニコースの人馬パレードがある。豊田市のミライのフツー・チャレンジコンテスト14位入賞(賞金60万円)事業である。ご購読はコチラ.pdf

R153明川町の大岩山弘法復活記   61   2015.04.03

小澤日記.jpg 足助地区新盛の金毘羅さんも、旭地区牛地の駒寺も、塩の道・飯田街道(R153)の中馬の繁栄と共にあった山村の歴史遺産だったと言える。それがごく近年に歴史の彼方に埋もれてしまったことは前号に書いた。

 今回は、同じ飯田街道筋の当地で、江戸中期の石仏群が復活した事例を書きたい。

 豊田市明川町大岩62─2の山中でごく最近に、第二次世界大戦前まで祀られていたらしい石仏群「大岩山弘法」が復活した。弘法大師の命日(旧暦3月21日)にちなんで現在、毎月21日(新暦)に例祭の御祈祷があり、家内安全・商売繁盛・大病平癒祈願の信者らが毎月2百人ほど集う。毎年5月9日(旧暦3月21日)の初弘法は数百人のお参りで大繁昌だ。

 現地はR153明川信号から県道小渡線へ左折、数分で案内が出ている。

 5年程前までは竹藪の中に石仏群が散乱、人が近づけない荒廃林だったが、地元の実業家の河合喜親さんが荒廃林約8㌶を買収・整備し、自身の健康祈願で「大岩山弘法」を新たに開山した。

 祭神は大岩山弘法、大岩大明神、馬頭観音、三弘法等々の17体。1748年建立の銘も見られ、当地は江戸中期からの信仰地だったと見られるが、この第二次世界大戦から今日まで地元でも忘れられてきた。

 河合喜親さん=豊田市明川町曲りくご、㈱紅葉建設会長=が自身の大病平癒祈願で、新たに信仰地を開山、その環境整備を思い立った。信仰地の自費整備はまだ進行途上である。
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駒寺の繁栄と廃墟ミライのフツー考   60   2015.03.20

 わが足助地区新盛に昭和前期まで、中馬の馬方衆でにぎわった金毘羅さんがあった。30年程前まで住職が居た。

 やがて村との縁も断たれ、立派な石垣、20数段の石段上の庫裡、お堂も竹林に覆われ、手洗鉢と石仏のみが残った。八十八カ所めぐりの石仏もあったが、首がとんだり埋もれたりし、面影はない。

 大石垣の下には清水が湧き出て、旭地区池島の「おしゃまが池」に通じる岩穴があった。学校帰りに岩穴に分け入り、おばけごっこをした。

 その地より嫁いできた姉さんから「放っておいてはおとましい」と耳打ちされ、手入れしたことがあった。風景はみんなのものであるが、信仰の場や村の歴史を今に残すのは難しい。

もう一つ。足助地区新盛の金毘羅さんと同じく、旭地区牛地の「駒寺」も飯田街道の中馬で栄えた寺だったと思う。40数年前、界隈で正月には寺社めぐりがあった。駒寺参詣の記憶が今もある。

 立派な山門と本堂があった。山門が倒れ、本堂も傾いていた。いまは廃墟と化しているだろう。

 牛地の駒寺は中馬街道の脇道の矢作川沿いで栄えた寺院だったのだろう。地元の旭地区にも、隣りの足助地区にも、駒寺の「繁栄と廃墟」の歴史を知る人は多いと思う。

 豊田市梅坪育ちで小生と同年(昭和12年生まれ)の新見幾男氏(現矢作新報会長)も駒寺の巨体が崩壊する姿を見ている。多分、小生らの人生80年の前半の初期の頃まで旧東加茂郡旭村牛地の駒寺は繁栄し、後半初期の頃に崩壊したと思う。ごく近年のことだ。

 当市役所の「ミライのフツー」論は、未来を先取りし、いまに立派な地域をつくろうというスローガンだろう。このミライのフツー論で、山村ですでに滅亡してしまった史跡的価値をわれわれは復活できないか…。滅亡を未然に防げないか…。

 復活実例がある。豊田市明日川町(伊勢神峠付近)で近年、地元の実業家が1748年銘の弘法石仏群を多数掘り出して祀り、毎月21日の祭日が大繁昌中だ。大昔に滅びた弘法さんの復活祭を次号で御紹介したい。ご購読はコチラ.pdf

新盛もジビエコンテストに参加     59   2015.02.13

小澤日記.jpg 愛知県農業振興課主催の「ジビエ営業マン1年研修」に、わが「小澤たんぼの会」の竹尾博史クン(元トヨタ生協支店長)が参加してきた。ジビエとはフランス語で、人が狩りで捕獲した野生鳥獣のことである。

 そのジビエ料理のコンテストが昨秋11月8・9両日、道の駅「どんぐりの里いなぶ」であって、竹尾君らはジビエグルメグランプリの企画実行部隊の裏方として活躍した。

 コンテスト参加は18団体で、足助新盛の喫茶ガンガの珍江嬢も〝すげかの猪しゆ〟を出店した。新盛地区の地場産品育成施設「扶桑館」からは、同館活性化委員会代表の鈴木光明氏も出店の助っ人として友情出演した。

 2日間の売り上げは7万円で賞にはもれた。しかし、良い経験と想いを同じくする出逢いがあり、参加者らは大いに満足した。その楽しそうな雰囲気は出店者の珍江嬢や助っ人隊長=写真下=の笑顔を見てもらえばわかる。「村は楽しくなければ生きられない」のだ。

 グランプリ賞は日進阿蔵の「お好みクレープ風」がとった。辛口評クセの小生はこう思った。

 「猪も食えるなあ」ではよろしくない。猪というジビエは山の恵み、山神さまの贈りものなのである。猪ジビエの特異性は香風味だ。食いなれた牛豚とはまったく違う。いま・ここ・これの地域特性、つまりスモール・スロー・シンプル特性がなければならない。野生の味はそうなのだ。

 前述の新盛「扶桑館」利用の山草展もしりすぼみだが「続ける」という。村の衆の参加意識が出てきたと思う。ご購読はコチラ.pdf

「住んでよし」が観光の原点      58   2015.01.09

小澤日記・石徹白川・中居神社付近・写真.jpg 猿投農林高校の同輩で豊田森林組合専務理事の林富蔵氏の誘いで、岐阜県郡上市の石徹白へドライブした。

 目的は石徹白大杉(国指定)見物と白山中居神社参拝(信仰名所)だったが、石徹白にIターンして住みついた平野夫妻に逢い、3年間の軌跡を見聞きしておきたかった。

 Iターンの平野夫妻は東大・慶大出の2人の若者で、石徹白の中心地で古民家を改築し、2反(20アール)の農地を求めた。地域にとけ込んだ暮らしに満足げであった。

 翌日(11月3日)の文化祭準備におおわらわだった。小学校単位で全戸参加という。

 聞けばその祭りは170戸総参加で、村の宿も食堂もすべて休んでいた。ちょいと見には、地域文化の創造を村民が確かめ合うかに見えた。人寄せのためのイベントはごめんと思う。

 観光の原点である「住んで良し」が「訪れて良し」につながり、山里観光がつくられるかどうかである。

 石徹大杉(樹齢1800年)を見るには石段419段を登らなければならなかった。往復60分を要するという。小生の足腰難で断念。

 全国三大信仰の対象であるという中居神社には参拝した。折り良く午後からの祭礼準備中の禰宜と、ねんごろに話すことができた。

 その上に駐車場のどまんなかの接待所にて、大杉ゆきをやめたおかげで、御師集落の代表者格の伊織家の妙齢な姉さんと会えた。雨天のため来訪者は少なく、小生は姉さんととくと話し込んだ。これが旅の喜びである。ご購読はコチラ.pdf

俺んちの山神の怒りが怖い      57   2014.12.05

小澤日記125.jpg 足助の肉屋「井筒亀」の店頭に皮付きの猪が横たわっていた。猪との最初の出会いだった。

 役場の忘年会で初めてその味を知ったが、猪なべなどはまだまだ滅多に口にできる時代ではなかった。

 その後の昭和30年代後半になり、香嵐渓の紅葉客が観光バスで足助を訪れるようになり、山里の味どころ「一の谷」がオープンした。

 猪なべは自然薯、落鮎と並んで観光足助の味の定番になった。

 やがて茸、鮎は人工栽培・人工飼育が始まり、山里の味も大量生産、大量消費の時代になった。没個性化が進み、売り上げも下降しだした。 

 足助の自然薯の味も、黒ぼく石ころ土壌の大多賀産と、花崗岩風化土壌の三ッ足産では、明確な〝舌味差〟があったが、そういう野生の味は今では猪にやられ、簡単には味わえない。畑栽培の〝自然薯〟が主流となり、味の没個性化が進んだ。

 足助・久木のハンター塚田寿氏は、目をかがやかせて初冬の猪肉の味の地域差を説く。旧賀茂村の植林山の〝一斉青〟の森でなく、旧阿摺村や旧盛岡村のドングリ山の猪肉の味を絶賛する。

 さて、別の話である。今年もわが新盛小学校区では、50頭余の猪が檻で捕獲されたが、村の衆の雑解体で、いいとこ食いであった。大方は土の中に埋設処分された。

 せっかくの山からの贈りものだ。あますところなく、ありがたくいただかないと大罰が当たると思う。

 わが背戸山には山の神=写真=が鎮座し、美しい水を贈ってくれる。俺んちの山の神の怒りを怖れている。ご購読はコチラ.pdf

延長36㎞160億円「広域農道」余話 56   2014.11.28

小澤さん.jpg 凜として雄大な御岳山。足助地域からもその姿を眺望できるところはいっぱいある。大噴火に祈りを捧げるため、上八木の中郷に行った。

 御岳まで直線距離で70㎞程か。高感度のトランシーバーなら交信可能だろう。悪天候で噴煙は見えなかったが、雪の独立峰が美しかった。

 この地にわが東加茂郡選出の故松井治之県議=旧足助町川面=の大仕事で完成した「広域営農団地農道」(広域農道)が通っている。旧下山村神殿から旧旭町余平まで延長36㎞の二車線完全整備の新街道が山中にできた。遠い嶺々を望む大景観が見える。

 この広域農道建設には1984年から18年の歳月と160億円もの巨費を要した。愛知県豊田農地開発事務所所管の、農水省建設事業だった。既存農地も少々つぶれたが、大部分は産地開発事業だった。巨額な山地買収費が地元に落ちた。

 広域農道は沿線に営農団地を造成することが目的だった。少々の水耕温室や小径木加工施設はできたが、農作物収穫施設などの営農団地は計画だおれに終わった。林道網の整備や小集落の交通利便は向上したが、山村交通の中心にはならなかった。

 私たちが広域農道を訪れた日も、一台の車にも出合わなかった。休日のオートバイツーリング道になっていることに当の農水省もおったまげているらしい。

 こういう農水省側の広域農道事情を見こしてか、当時の東加茂郡足助町では、建設省の「ホープ計画」で10㌶余の用地を町で買収し、「緑農住宅」団地構想を樹立して〝対等豊田合併〟の重要な政策の柱にした。

 しかし緑農住宅構想は、知る限りその後は話題にものぼらずに、現在に至っている。悲しき広域農道余話である。ご購読はコチラ.pdf

『日本風景街道』中馬街道よ甦れ! 55   2014.11.14

塩の道.jpg 国交省が全国展開する『日本風景街道』再生事業のうち、飯田街道=中馬街道(R153)の豊田市域分を「新しさからなつかしさ塩の道」と銘うって、7年前の平成19年、豊田地区の推進協議会ができていた。当時足助観光協会長だった小生が会長を受けた。

 活動には若干空白があったが、今年10月足助交流館で推進協議会の総会が開催され、規約変更して新体制がスタートした。豊田市建設部建設企画課内に推進協事務局が正式に設置された。そして新会長に豊田市建設部長の磯谷裕司氏、副会長に足助観光協会長の鱸雅守氏を選出した。

 日本風景街道の豊田地区推進協議会は、国交省名古屋国道事務所・愛知県豊田加茂建設事務所・豊田市建設部の所管である。目的はR153の風景再生、飯田街道・塩の道時代からの古き良き伝統を道路行政の中に採り入れ、地域の発展につなげていこうという趣旨。

 現在、挙母・猿投・石野・足助・旭・稲武の観光協会、商工会などの官民26団体が『日本風景街道』豊田地区推進協議会の会員登録している。

 さて、飯田街道=中馬街道の江戸・明治期の宿場町だった足助地区や稲武地区では、三州足助〜信州塩尻間の〝塩の道〟への関心が高い。特に塩の道の最大の難所だった 〝伊勢神峠超え〟が近年はブームである。

 来年11月には、豊田市の市町村合併10周年記念イベントとして、足助の市民団体が実際に馬の背に塩をのせ、塩の道再現の一大デモンストレーションをやるという。

 これより25年も前の平成2年、足助町制百周年記念で、役場が足助から塩尻まで中馬パレードをやった。当時役場職員の自分が思い出の記を書こう。ご購読はコチラ.pdf
画・江戸・明治期の塩の道人馬交通絵図。日本風景街道「新しさからなつかしさ塩の道・中馬街道」のパンフより。

わが長屋門前の「良宵祈」由来記  54   2014.11.07

小澤さん.jpg 海の「ミルクの王者」と言われるカキ(牡蠣)は、滋味豊かな河川水が流れつく沿海域で育つ。河川流域に健全な森がなければならない。

 「森は海の恋人である」と唱ったのは沿海域でカキを育てる人々だった。詩人の心で森・川・海を見つめてきた人々である。

 里山の住人であるわれらも同じことを思う。背戸山からの流水で自給米をつくる。山草を刈り入れ、化成肥料を少々。農薬は除草剤のみ使った。 わが屋下の田で今年も家族3人分5百㎏余を穫り入れた。手植え、手刈り、ハザ架け=写真=天日乾燥、籾貯蔵の、極力古典的稲作に挑んでいる。

 筆者の写真右手先の木板碑「良宵祈」は昔、長屋門に通じる坂道に立てた。晩秋の良き宵に祈りの黙礼をしたくなる風情が坂道からの眺めにはある。

 足助祭りの若者らは「よーよ、よーよ」と言い町をねり歩いた。そこから「良き宵の祈り」を発想して「良宵祈」と書いた。

 さて今年はTPPのあおりからか、秋田や新潟のブランド米もずいぶん安い。わが町のミネアサヒの業者買いも1俵当たり裸値で8千円とか。

 とにかく労力を惜しまず、俺んちの伝来の田づくりを続けているが〝限界米作り集落〟に突入している。米作りだけではない。自給野菜も年金暮らしだからできる。しかしスーパー買いの誘惑に負けそうだ。

 LED照明、化学肥料循環の温室水耕栽培の野菜が、すでに出回っているらしい。われわれが趣味と健康管理でつくっている大地の野菜とは、味と安全性でどう違うのだろうか…。

 イノシシのおこぼれの勝栗をほおばりながら、晩秋の日々、そんなことも考えている。酒少々をいただきながら。ご購読はコチラ.pdf

豊田厚生病院にて私的な生活日記  53   2014.10.24

おざわ.jpg 今春に50日程、豊田市浄水町の豊田厚生病院5階の食堂でご厄介になった。一日の治療時間は短く、土日曜日は自宅に帰っていたので、入院生活というより一日三食病院の食堂で世話になった感じだった。下腹部に放射線を照射してもらった。

 病棟の南には患者、職員用の広大なパーキングがあった。香嵐渓の駐車場とは比較にならない。豊田新線の列車がひっきりなしに走っていた。豊田の活力集積の前線基地。

 名鉄駅周辺には20階もの高層ビル群、少し離れてトヨタホーム風の戸建住宅がびっしり。新しい市街地は緑地空間に乏しかった。降雨も一気に流出する旧構造で、ミライのフツーを先取りしたような公共開発の跡は見えなかった。

 三好や梅坪との境界、三好刑務所周辺あたりを早朝散歩するも、カワズの鳴き声がきこえない。ヘビもいない。大小の水路は川岸をニセアカシアの繁茂でふさがれ、暗くてドブ川化していた。

 農道は市民の散歩道の設計にはなっているようだったが、市民が道々野の花を見たり、木々の実をつまんだりするにはほど遠い様子だった。休耕田でキジの雄に出逢えたのが嬉しかった。

 土曜日に自宅に戻り、放置段々畑の草刈りをした。春の芽ものはもう終わっていたが、セリ、ミツバ、山ウドがとれた。遅出の竹の子もとった。

 神越の舎ちゃが釣ったアメノ魚を焼き、煮込みを食す。二級酒が腹に滲みた。ふと思ったことを書いておく。都市と山村の共生とは都市整備の中に山里の恵みを取り入れることを含むと思うが、そうなっていなかった。古い都市構造だった。ご購読はコチラ.pdf

神越マス釣場の若き後継者たち  52   2014.10.10

里山写真.jpg 足助の最高峰寧比曽岳(1120m)と出来山に源流を発する御内川と田の士里川が合流し、巴川水系の神越川となる。

 その合流点の平坦な地を巧みに利用し1969(昭和44)年、神越渓谷マス釣り場が開設された。当時の村の若手や親分肌の豊さんらの努力で、公的資金も導入された。個性的村おこしの代表格だ。半世紀近く過ぎた。

 当時乱立した同種施設が消えてゆく中、ここ神越渓谷では世代交代がうまくいった。宮條君雄組合長のもとに小木曽誠くんら6人の若手後継者がUターンし、いまの有限会社神越(渓流マス釣り場)の企画・運営を仕切っている。

 近年まで東加茂郡有林事務所というのがあった。明治・大正期植栽の郡有林の益金で旧足助病院・足助高校が建った。その郡有林を管理していた誠くんが退職し、神越マス釣り場にとび込んできた。

 若きリーダーの彼に聞いた事があった。「先細り感のあるマス釣り場になぜ入って来たか」。答えは「面白そうだから」の一言。親父らの後継になるためという大義名分は口にしなかった。やる気だなあと思った。

 神越渓谷の景気のピークは20年前の年収1億5千万円。それが10年前、年収5千万円に下落。後継の若手らの今年の目標は年収8千万円。

 マスは購入魚でなく、神越川の水で飼ったうまい魚をめざす。池も改良した。大きな慰安会ばかりでなく、家族客に炭火焼きを教えたりする。対話重視。客のマナーが良くなった。

 神越川の美観整備や手仕事館づくりも進んだ。客が客を呼ぶようになってきた。神越の次世代はミライを適格に判断したのだろう。ご購読はコチラ.pdf

学校は農繁休み田植え追憶の記  51   2014.10.03

小澤日記.jpg 子供のころのことだ。麦秋が終わると学校は農繁休みである。地域は田植え一色になった。子供も田植えの苗はこびなどを手伝うのだが、みんな遊びが忙しかった。面桶(木製の弁当箱)いっぱいにアワダチイチゴやグミを取ったりした。今は田ぐろを歩く子供を見ない。

 田植えは親戚や近所が集まって〝巡繰り結い〟で行った。10時の休憩には、ぼたもち、かしわ餅が出た。田小屋でふろ敷包みをひろげて食べたものである。

 今ではサークルKで求めた菓子パンなどを出すのが普通であるが、当時は家庭の手づくりものばかりだった。包装材も竹皮包みや、ささの葉包み、ほう葉焼きなどだった。ビニール製品が出まわる前の普通の姿だった。いまで言うところの〝里山資本主義〟の消費世界がごく普通にあった。いまの高齢者世代が家庭でも田畑でも日常に経験してきたことだ。

 近年に三州足助屋敷がスタートした直後の頃、工業デザイナーの秋岡芳夫師が言っていた。使うほどに美しさと愛着が増し、永もちするロクロ作りの日常雑器が普通に使われていた。

 最近、写真の雑器を蔵から持ち出して使う。アートの気分をあじわっている。

 この雑器は家庭内で使ったものだが、前述の田植えの田小屋では何を使っていたのであろうか。プラスチック製品のボトルはもちろんなかった。稲刈りの田んぼにおいても、茶わんを持参し茶を喫していたのだろう。記憶が遠のいているが野で使う茶器があった。ご購読はコチラ.pdf

里山に野生の旬の味を求む  50   2014.09.26

小澤-ギボウシ.jpg 21世紀の初め、足助町「百年草」館で、全国まちづくり交流会の第1回目が開催された。今年はヨロン島であった。

 その足助での初開催以来の友の市川さんは、北海道北見市役所子育て部長である。本年もサロマ山地の行者ニンニクを恵送してくれた。

 キムチ漬けを熱々のメシに混ぜて食べる。チビリチビリの冷酒によく合う。

 行者ニンニクは山形西川から苗を取りよせ、背戸の裏山に植栽するも、3年で消えた。大鉢に植えたのは細々生きてはいるが、わが風土で生きながらえるのは難しいか。

 いま小生が春の山のものでいつも食するのは竹の子だ。朝ぼりなれば湯がさず、味噌汁に薄切りでしのばせる。

 昔なら節句のころに、日当たりの良い孟宗藪で、丹念に足踏みしてまだ地表に出ていない竹の子をさがし掘ったものだが、最近は猪に先にやられてしまう。

 それでも4月初旬〜6月中旬頃は竹の子づくしになる。好む味は太った破竹、次は養老竹。皮をむかずに焚きびに放り込み〝焼き竹の子〟にする。小澤流の野生の味の絶品。

 小生が最近良しとするは、ギボウシの若葉のヌルヌル感だ。芽かきがうまければ4月から6月下旬までOK。写真のタマノカンザシは花も良いが、大葉系で若葉がたっぷりとれる。

 里山の山菜は苦味、香味、甘みが自然体である。フキノ薹が一番だ。硬くなったフキや山ウドの茎はさっと湯どうしし、焼き味噌で味つけする。

 山里では野菜を栽培しなくても、裏山を歩けば旬の味に当たる。その「当たりまえ」に77歳が挑戦中だ。ご購読はコチラ.pdf

総通勤時代直前の足助の手仕事記録  49   2014.09.12

 わが神様の在所の正信氏は、昭和40年代まで、竹ヒゴの簾をあんでいた。祖母の在所の「空」(屋号)では、清美氏が竹ヒゴから転向し、ビニールのヒゴで簾をあんだ。

 さらに転じて毛皮用にヌートリアの大規模飼育をはじめた。またまた転じてオート三輪を買い、佐久間ダムの土木工事現場へ出稼ぎした。さらに自然薯栽培や、子取り繁殖から肉用まで一貫の養豚経営もした。 大方の農家は山の木の伐採や、木材搬出などで生計を立てた。近所の羽根の文次殿は下山村・梨野の拡大造林の担い手となり、小屋がけして泊まり込みで炭を焼き、家族と子供らを養った。

 新戸の産市さんは持藪が大きかったので、海苔竹を出荷し、土壁のこまい竹もつくった。峯ヶ田の安さんは家中で竹かごをつくった。手先が器用な人だった。

 そのあと美濃早生大根や甘藍、いんげんなどの山村夏野菜づくりが盛んになった。村の公会堂に野菜出荷の木箱が山と積まれ、名古屋市場へトラック便が出るようになった。

 昭和40年代に入ると、トヨタ自動車にブルーカラー労働を供給する都市近郊山村になり、あれよあれよと言う間に女手まで総マイクロバス通勤する村に変貌した。

 従来の慎ましい生活をしておれば、働き手の多い家ほどお金がたまった。古い草ぶき民家が次々木造の新築家屋に変わっていった。 この山村の佇まいの変化は足助が先頭を切ったと思う。いまもなお新しい変化が続いている。後とり息子が都市に出たままになり、一人暮らしや二人暮らしの高齢世帯がごく普通になった。足助の人口減少は、そんな事情によるものだ。

 さて一時期であるにせよ、足助は大都市一時間通勤圏の豊かで平和な〝半農ぐらし〟の夢を熱く追った。実現の緒が見えているのだが、住民の高齢化と農林業の荒廃に行く手を阻まれている現状。

 実現には地元の内発力が要る。時間もかかる。総通勤時代の直前の手仕事時代を記録しておくことにした。半農ぐらしとは結局、そこへ半分戻るということなのだ。ご購読はコチラ.pdf

R153の花壇コンクリート化  48   2014.08.22

小澤日記r153.jpg 6月の第3日曜日は豊田市の環境美化の日だ。昔は川掃除中心だったが、今では集落道の空き缶ひろいや草刈りも、田畑所有者の個人の仕事から集落行事になってきた。村まつりと並び集落民が顔を合わせる日となった。

 日面のサツキがきれいだねとか、ナツツバキや大ぼたのアザミもなかなかのもんだなあとか、話がはずむのだ。

 今年は秋口に草刈りをさぼったせいか、猪にやられたせいなのか、下蔵連のササユリがさびしい。休耕田の手入れが良いのか、植生がクローバー一色に変わった。国道敷地の斜面のススキやクズを刈り続けた効果で、大ボタの植生が軟らかな草に変わりもした。

 もの申せば国道153の美観が劣っている。歩道脇に草が生え、そこに落葉がふきだまる。通過交通に気づかいながら、それを片づけるのも環境美化の日の仕事だ。

 国道153の花壇にサツキやサザンカの植栽があったが、管理が届かず最近は一面コンクリートが張られた。官民協議で甦らせる方法はないか。

 村々の川は美しくなったが、ウナギは釣れない。ムツバヨもイシャンコもいない。その昔、わが友の一郎君は子守をしながら、毎夕の食の足しにアカモトを10匹程も釣っていた。水田の除草剤も農薬使用も改善されているのに、川に魚が戻って来ない。魚の研究者は何をしているのだろうか。今の川の元凶はやはり家庭洗剤なのか…。 今年は蛇も少ない。カラスもトンビも少ないようだ。里山の自然回復の度合いは、そこに棲む生物を見ればわかる。ご購読はコチラ.pdf

樹齢5百年、細田のあみだ杉を見よ  47   2014.08.08

小澤だ-木.jpg その昔の子どもの頃のことだ。今の新盛自治区内の永野の山の峠で、鳥モチを使って野鳥の赤ウソをつかまえていた。鳥モチは足助の街の海老屋で求めた。

 永野の峠からはるか南にかすんで、依佐美(刈谷)の無線電信鉄塔が見えた。父々山の山道からは、北方の御岳山や恵那山(舟ふせ山)が見えた。近くには猿投山、駒山、伊能神社があった。

 そんな古い記憶を辿って最近山歩きをした。しかし杉、桧の50年木がうっそうと茂り、わが村からは遠見ができなくなっていた。

 伊勢神峠の伊勢神宮遥拝所(現在も健在)から、三河湾に浮かぶ船の白帆が見えたというウソのような話も、そんなに昔のことではなかった。

 南・北アルプス登山に出かけたいが、大自然を見るわくわく感と体力が衰えた。今は小学校までの農道歩きで、ササユリの開花調べをするのが小生の遠出体験である。

 今年5月、軽トラックで「村の景観さがし」をした。久木の樹木植栽地、間伐のゆき届いた下八桑の林、豊岡辻の大ボタの草刈美、日本ミツバチの通う菅田和の畑地管理、北小田・堂の前のオープンガーデン、夫婦で続ける北小田の広大なサツキ園管理、杉本のエビネ開花…。そして樹齢約5百年の細田の「あみだ杉」=写真=を見た。 朗報!

 わが新盛小学校の児童数が増えてきたという。それも本来の姿のUターン増による、という区長談があった。個性ある里山持続の啓蒙勉強会「裏山しい実学」の発揚を願う。細田の「あみだ杉」は元気だ。ご購読はコチラ.pdf

ササユリ再興へT君の計画は…  46   2014.07.25

小澤だササユリ.jpg 奥山から里山へ下山する際、オオバコの植生がみつかれば、もう里は近いと言われる。里道は放っておけばオオバコに覆われるのである。

 里山の山田では、水道や日照に気づかって、田ぐろは2〜3m幅で草刈りをする。

 昔は刈り草を丁寧に集めて結束し、肥料にした。今のように下草が少し伸びたらすぐに草刈機を使うのではなく、鎌苅りで年に3回(田植前・夏・稲刈り前)、ボタ草や畦畔草を刈った。

 そのせいで草種も今とは違った。キキョウ、ナデシコ、オミナエシなど定番種が田ぐろにやたらにあった。草刈機時代の今では、よほど心して草刈りをしているところにしか残っていない。

 隣りのT君の話をしておかなければならない。

 口やかまし屋のバアさまにせきたてられ、T君は広大な傾斜地(ボタ)の草を刈った。野の花に気づかいし、丁寧に。

 そのおかげで数年前まで、当地は界わいにないほどササユリの開花が見られた。農道を歩くのが楽しみだった。

 それが昨年当たりから、ササユリの数が少なくなっていた。よし来年は再興するぞとT君のかけ声があったので、楽しみしている。

 いまの農山村は幾ばくかであるにせよ、里山を守ろうとする引き算の経済ぬきの年金族で支えられている。せせらぎの水音が聞かれる稲作は急速に減っている。

 お金至上主義経済のもとでの里山論も結構だが、里山は米づくりと密接なかかわりの中で成り立ってきた。都市住民によるセカンドハウスづくりではなく、山村住民が米づくりにかかわり、ここに住まなければならないと想うのである。ご購読はコチラ.pdf

百年草館に百種の山野草の栽培基地  45   2014.07.18

小澤だ.jpg たくましい生命力のある草・人のことを「雑草」などと称する。そこから足助の老人福祉センターに「百年草」の施設名を付けた。東加茂郡足助町時代のことである。

 しかし百年草なる草は日本にはない。韓国にはあると教えられた。そうであるなら、足助に自生する百の山野草の栽培基地を百年草館の敷地につくろう。その事業を足助山草会(水野修一郎代表)が始め、今も健やかに続いているから面白い。小生も企画運営に携わった。

 当時の小生は山野草に熱々だった。自宅の裏庭でも栽培した。夏の管理の甘さで頓挫したが、生き残った強壮な山野草を裏山へ移した。

 その山植え移行から20年。わが背戸の裏山で生きのびた山野草がある。分類して書いておく。
 ⑴食用類はヤマウド、ギボウシ、イワタバコ、モミジガサ=写真=。清水の湧く場にワサビが繁殖したが、猪にやられた。
 ⑵芳香類では中国系ギボウシ、シライトソウ、ササユリ、ヤマシャクヤク、カンアオイ等。
 ⑶非自生類ではナンバンギセル、セッコク、バイモ、フクジュソウ、ハンショウズル、ヤブレガサ、タツナミソウ等。イチゲ、シモツケソウ、カタクリは弱い。
 ⑷その他の自生種はフキ、エビネ等々多種類。 一般論だがキキョウ、ナデシコ、オミナエシは、地域が草刈機をひんぱんに使うようになってから、壊滅してしまった。

 里山の山野草の多くは山あいの棚田と共に生きてきた。その栄枯は興味深い。変化は良しとするも、里山は革新より伝統の継続が馴染むと思う。ご購読はコチラ.pdf

若い日の原体験がいまに生きる  44   2014.07.11

小澤ー村芝居.jpg もう30年も前のことだ。なにを思ったか、当時の東加茂郡足助町新盛区(今の豊田市新盛町)の村まつりの日に、村芝居を有志でやった。何年間もつづいたと思う。

 演出は町立大蔵小学校長の鈴木博之さん。幕末の高野長英のくだりをやった。演出の先生が言われた。「お前は暗記がまるで駄目だ」から、悪盗賊の親分役で「馬鹿野郎」を3回怒鳴ればよいと。

 ついでだが最近の記憶力はひどい。昼めしのおかずのことを夕めしの時に忘れる。これも近年のことだが、新盛の上八桑は阿弥陀堂を新築改装し、月1回お祠りする。

 長い数珠を繰り、ひたすら南無阿弥陀仏を念ずる。般若心経も読むのだが、たまたま当番の下蔵連の2人若姉妹が、大鷲院の和尚をしのぐ経読みをするのにびっくりした。今は亡き祖母の脇で毎朝、小学生の頃から般若心経をあげたという。

 私ごとだが24歳の頃、南米大陸ブラジルで流浪の旅をした。生活の必然でポルトガル語に親しんだ。それが今でもふと口に出る。若い時の生活体験は身になるものだ。

 さてここ5年来、わが家下に続く水田は休耕地ばかりだ。遠い昔に本地から妙齢な女性が当地に嫁入りしてきた。その姉さんは今でも山田の畦やボタ(田の面積より広い)の草刈りをきれいにする。

 今は稲を作らないのにどうして草刈りかと問うた。隣りのばあさまから「水道はみんなのもの」と教えられてきたという。 若い日々の原体験がいまに生きているのだ。山里の「ボランティア」の起源が見える。ご購読はコチラ.pdf

怖くてユーモラスな話を聴いて  43   2014.06.20

 この地に生きのび喜寿をむかえた。もう過去形で語る話だが、怖いことがいくつもあった。

 わが家の石垣に棲む大ヘビの青大将君。音もなく天井の梁を伝わり、家ネズミを飲みこむ。腹いっぱいになると床に落ち、とぐろを巻いていた。

 大ヘビは玄関の鴨居に巣がけしたツバクロを執拗にねらった。巣の中の卵を飲んでしまう。ツバクロが居間の天井に巣変えしてもあきらめずにやって来る。卵の味をしめた大ヘビの執念はすさまじかった。

 人が割り竹で大ヘビをはさみ、遠くの山に捨てて来るのだが、数日で戻ってきて再び巣を襲う。こんな経験は里山くらしの誰もが持っている。

 家々はツバクロの来訪を心待ちし、安全な巣づくりにどの家も工夫をこらしたものだ。そして夏の終わりに、子育てを無事に終えたツバクロたちが電線に並ぶ姿に、村人は安堵した。南国への旅立ちが始まるのである。

 異変が起きている。この界隈では一昨年の万屋玄関でのツバクロの巣づくりが最後だった。聞いてみるに新盛地区でツバクロが巣がけするのは現在、5軒だけだという。新盛地区では人の幼児人口は増える傾向だというが、野鳥たちの悲運は続いているのである。

 怖さの追憶ではもう一つ、村の土葬のことを書いておきたい。
て、それは村人にとっては人魂だった。

 焼き場がどの集落にもあった。村の衆に付いて深夜に、死体を焼く火づくろいに出たことがあった。怖さはともかく、野鳥のツグミを焼く時の香ばしい臭いがしたのを憶えている。

 その時に父から聞いた話だったと思う。深夜の山越えの峠道で蓑装束の赤鬼面の男がおどり出たとのこと。暗い森からタヌキの腹鼓がひびく夜に、白装束の女に出会ったという。怖くてユーモラスな話を聴いて育った。ご購読はコチラ.pdf

鈴木茂夫先生と馬頭観音のこと  42   2014.06.06

小澤だ.jpg故鈴木茂夫先生は東加茂郡足助町時代に、足助のいくつかの小学校で万年教頭だった。足助の町並みの〝重伝建指定〟の基礎を作った人だ。三州足助屋敷ができたのも師のおかげと言える。地方史の大御所だった。

 この鈴木茂夫先生は、町立椿立小学校での教員歴が永かった。校区の平勝寺観音(重文指定)の霊が師についていて離さないのではと想うほどだった。

 戦後間もない頃、椿立小の教員宿舎は村の青年のたまり舎となっていた。綾渡の鉱一さん、室口の又一郎さん、山ヶ谷の敏夫さんらが三々五々集い、咄に花を咲かせていたと伝え聴く。国指定の綾渡の夜念仏おどりが今に続くのも、こんな土壌があったからではないか。

 小生が綾渡の田んぼの区画を大きくする土地改良事業を町役場で担当していた頃、寧比曽岳から伊勢神峠へ続く計画の愛知県東海自然歩道の路線踏査をした。茂夫先生監修の『東加茂の石仏』も当時出た。文庫本『ユーモラスな道祖神』から、道祖神は硬い神ではなく面白い石仏との話を知った。鈴木先生の話が深い理解へのさそいになった。

 当時、松本周辺の「道祖神ドライブ」も企てた。村から災いを追い出し、村中安全の福を引き入れるという石仏は必ず村境に鎮座していた。年一度の道祖神まつりがあるのも知った。石仏の姿は仲むつまじい男女双体で、時には抱き合い、頬ずりしたり乳房をまさぐり、股間に手を入れたりする姿もあったと記憶する。

 わが新盛小学校区の細田で一体の石仏=写真上=を見た。馬頭は欠け落ちていたが、これは男女双体の馬頭観音であろう。特記ものだと思った。

 別の話だが、近年明川郵便局玄関脇に、阿摺郵便局長・故河合昂氏が石仏を贈った。足助唯一の道祖神であることを知り、うれしかった。ご購読はコチラ.pdf

足助のまちづくりの「青春」を思う  41   2014.05.02

 1962(昭和37年)、足助町職員在職のまま15カ月、ブラジルへ農業実習にいかせてもらった。当時の加藤庄三郎25代町長(昭和30〜37)から許しをいただいた。

 帰国後のことである。愛知県の金井農林部長から声がかかり、水野勇明26代町長(昭和38〜45)の下で、国有林開放による三ツ足栗園の造成に取り組んだ。

 その頃に農業基本法が制定され、足助町内の四ツ松や綾渡、渡合の水田区画整備事業に取り組んだ。観光交流事業では神越のマス釣り場づくりもした。

 次いで足助街並み保存や農業構造改善が進み、1978(昭和53)年、太田績27代町長(昭和46〜53)の配下で三州足助屋敷建設が認可された。

 続く小出甲子夫28代町長(昭和47〜平成7)時代に、1980年足助屋敷、1985年飯盛座、1990年百年草がオープンした。

 そのころ足助は国交省のホープ計画を受け入れた。香嵐渓の草ぶき民家群づくりで培った木造伝統工法が認知され、足助の大工集団「足助木匠会」が一世を風靡した。

 町営の木造住宅施工販売会社フォルクスを設立した。桑田和、近岡、渡合、大蔵の住宅団地造成や三州足助屋敷の職員住宅で延べ100戸余を建築。若手人口の増を目論んだ。職員も地域も理想をもってよく働いた。一つの青春があったと思う。

 このポリシーが地域の個性と地域経済を育てた。それはスモール・イズ・ビューティフル、換言すれば「木綿と素肌の町づくり」だった。この理念は1996年の第3次町総合計画「足助ロマン」に受けつがれた。萩野小、御蔵小、冷田小の木造校舎新築で学校統合を促進し、平成合併で足助は豊田市になった。

 その後、街並みの重要伝統的建造物群保存地区指定、下水道建設等々へ市の大型投資が進んだ。 小生はソフト面が気になる。支所職員が短期配転されるが、個性ある地域ができるのか。町営で政策的にスタートした参洲樓が閉店と聞く。ポリシーの修正は当然だが、閉店はいかがなものか。公営事業はたえず改善、発展させなければ…。ご購読はコチラ.pdf

家族労働の回復で自給農は成立 40   2014.04.25

小澤表.pdf何回も繰り返すことになるが、わが足助の美しい山里風景は自給農が作った「稲作風景」そのものである。家族労働が作った風景とも言える。

 水田の耕作面積は1軒で3反か4反である。今の若い人たちむけに農地面積の単位を言えば〈1反=10アール=1000㎡=3百坪〉である。

 いまその小さな棚田が耕作されなくなり、耕作放棄地が目立ってきた。自給農の崩壊が始まっているのだと思う。山里人口が高齢化し、家族労働の習慣もこわれた。農繁期には父母を中心に祖父母も子供も田に出て、農作業をしたものだったのに…。

 学校は子供の農業労働を奨励し、小中学校が〝農休み〟という特別休暇を出していた。 山里の自給農の崩壊とともに、山里の風景もくずれていくと思う。どうすればいいのか。戸惑いながらこう思っている。

 近隣で「1軒1反」の田植えをし、おいしく安全な自家用米づくりを自慢し合うような、新しい里山文化を育てられないか。今はパン食、外食が多い。1軒1反でおよそ4百㎏の米を生産すればこと足りる。

 右表はJA試算の農業経営収支だ。1反で1年に約3万2千円の損失(赤字)が出る計算だが、これは農作業のすべてを外部へ委託した時の話だ。

 近隣共同で小型高性能の農業機械を導入し、家族労働も回復して、農薬出費も減らせば支出は激減する。家庭菜園づくりの気分で、1年分のおいしく安全な米が生産できるのである。 昔から自給農は家族労働で成り立ってきた。すでに崩壊してしまった家族単位の労働を甦らせたいものである。小生はJA試算をそのように読んだ。ご購読はコチラ.pdf

自給農に高性能小型農業機械を 39   2014.04.18

小澤さん田植え.jpg 里山の稲作農業の〝基礎体力〟は自給農にある。水田面積は1戸3反(30a)か4反位だが、それがいま耕作されていない。里山の自給農業が崩壊をはじめたと思う。

 小生の持論を繰り返して言えば、稲作は「1戸1反」やればいい。今はパン食やウドン食、外食が多い。1戸で500㎏のおいしい米の生産を目標にしてはどうか。

 顔見知りの近隣2〜3戸で1台の、高齢者でも使える小型・高性能の農業機械がほしい。スーパーカブを出したホンダが農業機械に進出するという話を聞く。豊田市農政課が「自給農振興」へ政策転換し、融資制度などを検討してほしい。

 わが家も自作田は約4反である。農地を小生に残してくれた先祖に申しわけない。せめて食いぶちだけはと挑戦するも、もやもやすることしきりだったが、2009年末に、知己の豊森1期生10人の「オザワタンボの会」が相互リハビリ効用ということでスタートし、田植え、稲刈り、ハザ架け、収穫などをする。わが家下の田の恒例の農作業になった。

 豊田市では山村地域を中心に「集落営農」が普及し始めた。昔の百姓仕事の結いというのは田植えなどの農繁期に労働を出し合う共同作業だが、少し色合いが違う。集落営農組合が大型農業機械を購入し、農作業を請け負う色彩が濃い。集落営農の組合員が非農家化していく可能性がある。 1戸1反でおいしい米作りをめざす自給農振興とは路線が違うが、両者共存が未来を開くか。ご購読はコチラ.pdf

里山の暮らしの循環がくずれた 38   2014.04.11

小澤日記1.jpg わが〝里山愛〟の師とする宇井淬先輩は、老人クラブの一杯会でこう小声でつぶやいた。

 「俺んちの井戸水で炊いた飯は電機炊飯だが、孫まで美味いというぞ」

 これは思い込みにあらず、確かなことだ、と大声で付け加えた。 自分のことを言えば、年金ぐらしのおかげで細々と、裏山から湧き出る清き水で7俵の米をつくることができる。めしを炊き中国語で「ズンムファンホツー」という。とってもうまいなあという意。

 2年前までわが家では、裏山由来の伏流水を生活水として使い、簡易水道の使用量はゼロだった。しかし裏山が荒れたせいか、大雨時に伏流水が少々濁るようになった。砂も若干混入する。それでわが家内に言われ、月額数千円支払いの仲間入りした。

 裏山からの伏流水は界隈屈指の湧出量があり、余水でワサビ栽培もできたが、イノシシめに通水パイプをこわされ、伏流水の管理が大へんになった。それも一因だった。

 当地では湧水のある場所に家が立地する。山水のかけ樋をつくる。清水の涌き口には水受け井戸=写真=をつくった。風呂水だけは溜め池や小川から桶で運んだ。つるべ式の井戸は皆無だった。

 水の豊富な家には池があり、流しの水で鯉を飼った。風呂水は使い捨てはせず、野菜畑の肥にした。石油、ガス、水道で里山の暮らしの循環は崩れた。薪ストーブだけではつまらんな。ご購読はコチラ.pdf

山野草は好きな地を選び孤高に 37   2014.04.04

エビネ.jpg 30年も前のことだ。今の豊田市御内町の御内蔵連で田の士里湿原の整備、香嵐渓ではカタクリ群落づくりをしていた。

 当時の足助高校の三津井宏先生から山野草の教えを賜った。ちょっと出ておいでんとお呼びがあり、香嵐渓の待月橋の脇のヒトリシズカ自生地に出むいた。そこで〝山野草病〟にかかったのだ。

 足助町営で当時新設した「百年草」館の敷地一帯の「山野草の基地」化をめざした。

 その頃、なだらかな三河準平原の山並みを大勢の山野草の達人らと歩いた。大発見があった。新盛のわが裏山にて、地エビネ数十株が見つかった。うち数株を目の届くところに移植し、繁殖の手入れをした。調子良好だったが、それも十数年で消えた。

 当時、足助の各地でクマガイ草やエビネの山植えが流行ったが、いずれも成功は長続きしていない。香嵐渓の飯盛山でのカタクリ自生地の「人工的拡大」を超えるような成功例は今日までない。

 当時の足助町内の例だが、上八木の宗源寺、明川の内藤一成、旧スケートセンター隣地の大山鉦治、川端の大山秀二さんらも、みんな同じ憂きめにあっている。

 杉本の神明神社のエビネも回復の兆しがない。上矢作町のフクジュ草も昔の勢いはないという。

 最近、わが家の近くの久木の松井修君宅で、クマガイ草、エビネの自生地はどうかと問う。さして殖えないが、数十株単位で元気とのこと。 思うに山野草は人と共生はすれども、人に見てもらうために生きるのではない。自分の好きな地を選び、そっと孤高に生きるものだ。それを承知しておきたいと思う。ご購読はコチラ.pdf

ブラジル農業実習そしてバイカル湖 36   2014.03.28

 東加茂郡足助町役場勤務50有余年、さらに時が流れ、もう喜寿である。役場時代初期をふり返って、ブラジル農業実習、海外旅行のことを書いておこうと思う。

 1961年から15カ月、南米ブラジル農業実習の旅をした。移民船ブラジル丸38日間の船旅だった。パナマ運河経由で、ブラジル・サントス港で下船。

 ブラジル奥地のボリビア国境近くの日系果樹農園400haで実習。そのあとパラグアイ、アルゼンチン、ウルグアイを1日1ドルで約6カ月ヒッチハイクした。

 帰路はケープタウン廻り、70日間の船旅で横浜に帰った。

 1971年、ソ連邦時代のロシア・バイカル湖に行った。憧れのシベリア鉄道で、アムール河畔のイルクーツク、ブラーツク経由でバイカル湖に出た。全8日間、ソ連の監視、案内付き。

 1992年、中国北京蘇州行き。ドアのない公衆トイレにまいった。

 1992年、ベトナムに行く。稲作規模はわが足助の村と同程度。

 1993年、オーストリア・ウィーンのマキタ電機ヨーロッパ支局長の松井君を訪問。チロルの民宿村で元気な薪割老人と会話。スーパーにてワインを大量買い。

 1994年、イタリア・ベネチアで足元のリュックを置き引きされる。見事な盗人。

 1998年、ボルネオ行き。オランウータン原生林伐採によるヤシ油栽培のための焼畑プランテーション農法を見た。

 1999年、タイ。空軍機滑走路想定の高速道路に、日本のコンビニ進出が盛んだった。農村は水牛耕からヤンマー耕へ転換中だった。

 2000年、中国南京。三州足助屋敷で定番の刀削麺職人の飯店にいく。大豆・米料理の奥の深さに感嘆した。

 2005年、ドイツのロマンチック街道を歩く。ローテンブルクの町並み美は一級品。

 はてさて、小生の海外旅行を許容した当時の職場、家族に大合掌する。再訪して肩をたたいてみたい友ばかりだった。言葉はなくても目と目で通じ合うを処世訓とする。わが足助の村を世界の視野で見ようとした。ご購読はコチラ.pdf

辛口「菅の里」考里山文化論を! 35   2014.03.21

すげのさと.jpg あくなき自然征服で豊かさを求める世の病魔。その救いは農的環境にある──『遠野物語』の作者、民俗学の柳田国男はそう説いた。

 歩く見る聞く。そこから草の根村おこしを考えた民俗学者の宮本常一はこう語った──他所者が楽しむ村の風土ではだめだ。まず自分の暮らしを見つめ地場の光を知れ。里山の持続的輪廻を体感せよ。

 さて、今の観光で外国人が日本に求めるものは、固有の暮らしに培われた当たり前の日本の業(なりわい)だった。

 鈴木公平前市長の置き土産で菅田和集落(現豊田市新盛町中洞)に作られた里山くらし体験館「すげ(菅)の里」も開設の大義名は里山の当たり前のなりわい(業)の保全にあった。

 開設から早や5年が経過した。「すげの里」周辺の休耕田は甦り、山林も美しく手入れされた。トヨタ労組の農耕隊や、市民団体の名古屋フォレスターズが活躍した。大きな成果があったのである。

 「すげの里」会館の運営は税金依存体質、自己啓発と自立革新に乏しい。ふと気づいてみれば、外見の良い隣りは何をする人ぞのイベントが多い。内発力ある地域行事が欲しいのである。

 多様な都市近郊交流、その中から明日をつかもうとしている矢作川源流域が持続しないわけがない。何か足りないものを早くつかもう。

 その仲間が見えてきた今、心ある者が「よしこれでゆくぞ!」の腹組ぐみをしたい。里山文化論をリーダーシップよろしく組み立て、突き進んでほしいと思う。

 西にしずむ寒月の美しい夜明けに。ご購読はコチラ.pdf

自給農業振興へ農政転換求める 34   2014.03.14

小澤さん日記・足助の民家.jpg 豊田市の山村(里山)の風景を支えてきた「自給農家」がすっかり衰え、数が減ってきた。深刻に受け止めている。農業政策の転換を求めたい。

 小生は豊田市新盛町自治区(足助)の一部である上八桑集落の住民だ。

 国道153沿いの上八桑は、今も昔も16戸である。人口は今40人。経済高度成長が始まった昭和35年頃は74人。ほぼ半減した。

 稲作面積は今80アール(8反)、昔は400アール(4町)、80%減である。

 後継者があるのは今5戸、昔は16戸のどこも後継者がいた。年金世帯は16戸中4戸。

 特筆すべきは、昔も今も上八桑に大地主はいなかった。自給自足農家中心で、炭焼き、中馬街道の運送、石工、山仕事で現金収入を得ていた。

 経済高度成長後はトヨタ自動車系への就労で、土地依存度がさらに希薄になった。加えて近年は、田植え機、耕耘機、脱穀調整機等に多額投資ができなくなり、スーパーで10㎏4千円の精米を買うのが普通になった。

 先祖伝来の農地を荒らすのは忍びないという気分はあるが、当主が喜寿を超え、地域は休耕地、耕作放棄地が多い。40年前の耕地整理で美田となった農地も用水路はこわれ、暗渠排水路は詰まっている。再興はむつかしいのでは。

 わが隣りの「日陰」(地名・屋号)は当地最大の300坪余の平らな高台の農地。山村民家の佇まいがあり、終戦直後には2夫婦、子供8人、計12人の大世帯だった。今は単身男性の一人住まいになった。近年の山村崩壊はきびしい。

 豊田市の農政が「自給農業振興」へカジを切らなければ、山村農業の崩壊は止まらないように思われる。ご購読はコチラ.pdf

足助病院入院記新ホスピタル考    33  2014.03.07

里山-足助病院.jpg 今年1月、七日正月に七草がゆを食べたまでは良かった。そのあとポーランド産ウオトカ(94度)をなめ、小腸をやられた。3日間食欲なし。

 女房にせかされ足助病院にいった。内科当直医のCT、MRI診断で即入院と決まり、点滴をしてもらった。ほぼ2日間入院した。

 幸い若手医師が小生を薬づけにすることもなく、1割負担・1万円余の支払いで快癒。食欲はすすむが、酒量は落ちた。

 新築の足助病院はコンピューター化が進み、初入院の小生はとまどったが、若いナースの教育は良く、快適な病院生活。

 入院中の顔見知りが多かったが、名前が思い出せない。旧知との出逢いに自分の頭脳の〝リハビリ効果〟を感じた。 病院内コンビニの横に、休憩室がゆったり設けられてはいたものの、どこもピカピカで落ち着かない。違和感をぬぐえなかった。

 その昔、足助・田町のホームラン(焼きそば屋)の片すみに、足入れ方式のこたつがあった。病院のパブリックスペースにも〝古くて新しい工夫〟がほしい。

 病院の庭には、整然とした芝空間がある。そこに「あの木何の木、気になる木」があり、その大木の枝下にベンチなど置いてあったらいい。庭に実のなる木々や、大根畑はどうだろう。

 早川院長の思いいっぱいの足助病院であってほしい。新式の豊田厚生病院とは異なる、信州佐久をしのぐ、山里の足助病院。病院行きはどこで乗っても「往復200円」のおいでんバスがあったらいいなあと思う。

巴川河畔の足助病院。東隣りに神社林、西隣りには河畔林の大木が茂る。神社林や河畔林と一体の都市計画的な緑の保全が「病院環境」の長期課題だ。

わが薪ストーブヨツール礼賛記    32  2014.02.21

小澤さん・ストーブ写真.jpgわが家の居間にあるノルウェー製のストーブ「ヨツール」のことは、前に書いた。補足である。 1983(昭和58)年、名古屋の日本暖炉で大枚40万円で求めた。以来30年間愛用しているのは、フォルクスワーゲン並みというマシーン度の高さによるが、小生はヨツールのデザインにもほれているのである。

 鋳鉄の側面=写真左=には、北欧の森で遊ぶトナカイたちや、木こり、馬の姿があしらってある。

 毎秋10月中頃から翌春5月の連休の頃まで、夜昼種火を切らさずに、なかなかの量の薪を焚く。

 わが家は築後140年余の木造家屋。床下や戸廻りから隙間風が入る。径15センチ、長さ40センチ位の薪を1日10本は灰にする。

 タール付着を少なくし、煙突火災を防ぐため、3年乾燥の薪を使う。くぬぎ、しいなどの雑木も使うが、火もち・火力で樫が最良。杉や桧の間伐材は利用しやすさの利点はあるが、火がボヤボヤ燃えるので好かない。

 昨冬裏山で、根本径70センチ程の樫を伐った。玉切りし割る。ヨツールで焚く3年先を見込み、薪小屋を満ぱいにした。

この樫の大木はメダカ池の直上の位置にそびえていた。それを伐採した直後の夏、メダカ池の水量が激減した。樫の保水力に驚嘆した次第だ。杉桧植林への一斉転換によって、樫などの常緑広葉樹の雑木林が減った。

 ヨツールの燃焼はシガータイプ、就寝時は残り燠に灰をかぶせる。翌朝寄せ木少々、3分で優しい音と共に着火する。

 ヨツールは薪を燃やすマシーン度が高い。デザイン性も上々、燗酒がうまい。ご来訪歓迎だ。ご購読はコチラ.pdf

安藤登美夫氏作写真・ヘボの交尾   31  2014.02.14

里山31.jpg こんな写真はわれわれには撮れない。ヘボという足助の地蜂の交尾風景。わが長屋門の隠居部屋に大写しでかざってある。足助・五反田のハチ博士(農学博士)安藤登美夫氏(61)の作品だ。あとで彼について書くことがある。

 さて、友人らから宅急便で長年届くのは、北海道サロマ湖の帆立貝、山形月山の行者にんにく、佐渡のおけさ柿、三重大台町の手もみ茶、岸和田のみず茄子、四国勝浦みかん、薩摩加世田のでこぽん、沖縄竹富島の車えび…。 礼状や小生の近況報告だけではしのびない。足助の香りぷんぷんの手づくりの品をお返しに贈りたいのだが、それが乏しく気おくれしてしまう。

 孟宗筍、原木椎茸、生の大型なめ茸、はざがけ天日干し米が精いっぱいである。ジジ工房のハム、バーバラハウスのパン、下駄萬の山牛蒡漬もあるが少し弱い。豊漁ならば巴川の鮎やあまごの天日干しといきたいが、友に問うも色よい返事がない。それが足助かな? 足助川の桜井啓三氏の鮎のうるか、神越の宮條豊さんの猪腹の臓もつ煮、ハチの王者クマバチも絶品だが、人に贈るほどに量がそろわない。

 ヘボ(地蜂)は野がけの巣を獲るのが伝統的なやり方だが、近年は人が巣箱を並べて半天然で人工飼育するのが流行だ。

 これなら人が食するヘボの幼虫をたやすく獲れるかも知れない。しかし前述のハチ博士は、巣箱飼育の流行はヘボバチの自然生態系を乱すというご意見らしい。小生は少数意見に真理ありと信じるので、ハチ博士の意見を傾聴したいと思う。ご購読はコチラ.pdf

日系二世嬢のエウザのこと      30  2014.02.07

里山.jpg ガラガラと戸間口を開け、「おはようござんす」の来意の挨拶をする。それが隣り組みでは「おーい、おるかい」が当たり前であった。ところがこの頃は在宅でも施錠され、ピンポンで開錠である。土間に入れてもらえず、戸口で用件を伝えることが多い。若い人の対応はたいがいそうだ。

 たまたまばあさんが出て来れば「今朝は寒かったのう。まめでおったかん」で話が始まり、こちらから居間に上がらせてもらう。縁側に柿や芋切りぼし、かち栗が干してある。三間八の出居の仏間が見えれば、つい手を合わせたくなり、ご先祖の話にもなる。

 いまは村を歩くも滅多に人に逢わない。特に若い人には逢えない。押し車に鎌や鍬、野菜をつんだばあさんに出会えば、開口一番「いいお天気だのう」といわれる。この地に住む実感が腹わたにしみわたるのである。

 立ち小便を良しとする小生のわきをそっと通り過ぎ、近所の軽度の認知症のばあさんが言う。「庄ちゃんや、おばさんのあんばいはどうだん」。もう何年も前に亡くなったのにいつまでも生かしておいていただけるのは嬉しくもあるのだが、やはりとまどう。

 はてさて、50年余も前の話だ。ブラジル農業実習が終わって小生の帰国の日、ブラジル・サントス港(移民の玄関口)で、わがパトロンの娘さん、日系二世嬢のエウザ(画家)がポルトガル語で会者定離のあいさつをした。「ボン・ビアジー」と言った。良い旅をどうぞ、との意だ。

 およそ70日余のケープタウン経由の船旅で横浜港入りし、500日余の南米流浪の農業実習は終わった。

 エウザはその後3度の来日歴がある。最後は一族供養の永平寺参りであった。いまも続く小生のクセだが、身近な人おくりには、ボン・ビアジーとポルトガル語で言い、合掌する。良き旅立ちを祈るのである。ご購読はコチラ.pdf

向井潤吉画伯の足助来訪のころ    29  2014.01.31

小澤さん画集.jpg 失われゆく日本の民家を描く向井潤吉画伯は、足助町が「三州足助屋敷」(昭和55年)を創ったころから、たびたび足助入りされた。

 当時あちこちの民家を案内するも、ひらめく画像が得られなかったのか、千点余を描いた日本民家画集に足助の民家は編じられなかった。

 ただ、足助屋敷の手仕事に魅せられてか、上ばき用の藁草履をしこたま求められた。想うに消えゆく建築美は工業都市の里山にはなかったのか。

 足助一の谷には、民間主導で5棟の草葺きの民家ができていた。その躍動美に魅せられ、町主導で昭和40年代から三州足助屋敷ができた。足助の個性の追求はこれぞとばかりに、香嵐渓に草葺き民家群をつくった。

 そのタイプは四間八で、土間が広い。その足助民家の典型として茶室「助庵」、オール栗の木づくりの「栗の木茶屋」、桧づくりの「桧茶屋」、雑木のくぬぎづくりの「川見茶屋」を足助屋敷の施設として建てた。

 集大成は足助伝統建築の足助屋敷だ。土蔵と母屋と百畳敷きの「楓門」がある。

 当時、150人余の足助の建築集団は、掛川城や信玄資料館の築造にも招かれたが、ふるさと創生事業の足助城建築を最後に勢いが消えた。腕っぷちの一人立ち大工が、プレカット工法の工務店の配下に入ったのだ。

 ちなみにわが豊田市新盛町上八桑集落17戸の建築年代と工法を記録する。明治期=草葺き・トタンかぶせ4戸、明治期=庇・縁付き4戸、戦後期=新建材・土間なし9戸。

 建築の画一・省力化が進んだ。風土の固有性が消えた。人間性豊かな手仕事の消滅を憂う2014年春に。
向井潤吉画伯の画集から「壮大なる長屋門」(茨城県)。三州足助屋敷の長屋門もこれと同じ構えである。ご購読はコチラ.pdf

酒は「量り売り」を通ひ徳利で買った 28  2014.01.24

里山とっくり.jpg昭和16年(1941)頃まで、足助には造酒屋が3軒あり、そのうち1軒を山與といった。範公という酒を出していた。

 当時、各家は通い徳利=写真=で1升とか5合とかの量り売りの酒をまとめ買いし、男たちは1日1合位のんでいたか。

 造酒屋が現存する地域でも、酒の直売店はほぼ消えた。酒もコンビニやスーパー販売が一番多い。通い徳利は用を失い、大小様々の徳利が豊田市民芸館に展示してある。

 酒は通い徳利での〝エコ販売〟の伝統を経て、近年に一般食品並みのパック販売の仲間に入った。量り売りは大吟醸などの販売に痕跡を残すのみになった。

 さて、個々の暮らしのエコ的・循環システムの古くて新しい展開は出来ないものか。バイオガス発生、有機肥料づくりはかなり進んでいるらしい。わが山村では、家庭浄化槽の排水を水田に導入する方式で稲作を考えたい。30年来使用の薪ストーブ暖を進化させ、めし炊きや煮・焼にも使いたい。小水力発電にも興味がある。 

 背戸山のカシの雑木林にはドングリの実を食べにイノシシどもが集まる。シシ牧場をつくり、シシ肉の干物を生産したい。休耕田で山羊を飼い、山羊の乳でチーズをつくる。ザクロ、アケビ、マタタビのどぶろくはどうか。今年こそ挑戦だ。

 その昔、足助・五反田集落の古民家に、土人形作家の松岡さんという女性が移住してきた。青銅製彫金鍋を求めにカトマンズへ行くと澄んだ目で言った。小生は喜寿にして果てなき夢を追い、朝の太陽を拝む日々。ご購読はコチラ.pdf

小生の酒肴考頑なに健やかに     27  2014.01.17

 秋の村まつりも、お正月の祝いも終わった。小生の「酒肴考」を書きたい。つまり酒を呑む時の肴の話を論じてみたいのである。秋まつり中心に書こうと思う。

 村の最大イベントはお宮(八幡宮)の秋まつりだ。新年の祝いは、にぎわいの艶やかさの点で、秋まつりに負けるのでは。

 秋まつりはわが八桑自治会長をはじめ、世話人の腕のみせ場だ。ありゃあどこの娘だやあ、と新参者のことを語る場でもある。

 去る秋のまつりの日、小学校で借りたテントの下に、村の衆が集まった。その昔は飾馬も引きまわされ、まつり囃子でにぎやかだった。

 最近は子供御輿と笛太鼓、それにカーバイト竹空砲でドンドンやり、朝から小型トラックで各組を廻るのが定着した。

 「扶桑の里を元気にする会」(自主組織)が五平餅、たい焼を出し、しるこ班もかつやくした。秋刀魚、猪肉の炭火焼きもふるまった。新しい試みがそれぞれ盛り上がっていた。以前は村の各組ごとに酒肴づくりをしたが、最近は飲食店からオードブルを取り寄せる。

 前は割り子弁当で蜂の煮しめ、雑茸の煮つけ、里芋のにっころがし、うんだら柿などを持ち寄ったが、それを懐かしみ、いま語るのは無理であろうか。今に残った酒の肴は、神前に供える塩鯖の炭火焼きだけである。

 今年のまつりは小生が栗を焼き、アケビの実にみそと柚の皮をつめて、丸焼きにした。それを携え秋まつりに出たのは面白かったと思う。

 村で獲れた秋の幸いっぱいの、手づくりの酒肴を提起するのだが、前日からの準備が要る。せっかくの年に一度の話し合いのチャンスを〝おさんどん〟で費やすのはまっぴらだとの悪評で、自治会長の〝手づくり酒肴〟案はお流れに。どこも似たりよったりか。

 神仏混交のなごりをとどめる五反田のまつりは、必ず「むかごめし」を炊き、まつりでふるまう。そうしたオンリーワンの伝習があちこちにあるような気がする。世の中は変化を必然とするも、頑なに健やかに残る何かが欲しいと思うのである。ご購読はコチラ.pdf

新盛小学校の奉安殿のこと      26  2014.01.10

里山写真.jpg 山頭火の名句に「落ち葉をふんで彼女に逢ったなどという」がある。
 誰れも歩かない香積寺の早朝の山道に真紅の落ち葉。誰れにも踏んでほしくないという情感にしたる。からだが官能美を感じ取る。

 そこここに立つ碑をたずねて歩いてみた。いずれも色っぽさには欠けるかもしれないのであるが、なぜか心に滲みいる名句の季語は秋が多い。

 石蕗は寂かな花 木も れ陽にときおり放つ  黄なる閃光     竹田水明
 夕けつく磧の石のはざ まには とろとろとし て紅葉あくたび    加藤今四郎

 昭和のはじめ足助の村おこしの先駆をきった深見林左衛門町長の偉業は広く知られている。それよりはるか前の江戸後期の足助の俳人であり、足助の加茂炭を広めた板倉塞馬のことは、その業績を知るほどに驚き、まいっている。

 飯田街道旧道(塩の道)の足助市街地入口に、塞馬は芭蕉の句碑を建てた。近在では見たこともない大きな碑だ。句碑は高台にあり、かつての中馬の道を見おろす位置に立つ。

 芭蕉は足助入りしていない。足助の中馬の道を知らずに、馬を曳く人と朝の雪景色を句に詠み込んだ。

 俳人板倉塞馬はこの俳句を巨石に刻み街道の高台に建立して、芭蕉句を「足助の唄」にしたのである。塞馬の偉大さである。

 塞馬自身は「雨ののち よい月夜かな 桜かな」の句を詠み、足助旧町の普光寺に句碑を残した。足助の〝こころ〟のDNAが芭蕉の句碑にも、塞馬の句碑にも残っている。ご購読はコチラ.pdf

芭蕉句を「足助の唄」にした人    25. 2014.01.01

足助句碑-小澤.jpg 山頭火の名句に「落ち葉をふんで彼女に逢ったなどという」がある。

 誰れも歩かない香積寺の早朝の山道に真紅の落ち葉。誰れにも踏んでほしくないという情感にしたる。からだが官能美を感じ取る。

 そこここに立つ碑をたずねて歩いてみた。いずれも色っぽさには欠けるかもしれないのであるが、なぜか心に滲みいる名句の季語は秋が多い。
 石蕗は寂かな花 木も れ陽にときおり放つ  黄なる閃光
       竹田水明
 夕けつく磧の石のはざ まには とろとろとし て紅葉あくたび
      加藤今四郎

 昭和のはじめ足助の村おこしの先駆をきった深見林左衛門町長の偉業は広く知られている。それよりはるか前の江戸後期の足助の俳人であり、足助の加茂炭を広めた板倉塞馬のことは、その業績を知るほどに驚き、まいっている。

 飯田街道旧道(塩の道)の足助市街地入口に、塞馬は芭蕉の句碑を建てた。近在では見たこともない大きな碑だ。句碑は高台にあり、かつての中馬の道を見おろす位置に立つ。

 芭蕉は足助入りしていない。足助の中馬の道を知らずに、馬を曳く人と朝の雪景色を句に詠み込んだ。

 俳人板倉塞馬はこの俳句を巨石に刻み街道の高台に建立して、芭蕉句を「足助の唄」にしたのである。塞馬の偉大さである。

 塞馬自身は「雨ののち よい月夜かな 桜かな」の句を詠み、足助旧町の普光寺に句碑を残した。足助の〝こころ〟のDNAが芭蕉の句碑にも、塞馬の句碑にも残っている。ご購読はコチラ.pdf

祖母つねの生家「空」という屋号   24  2013.12.13

屋号.jpg 顔はわかっているのに、地元の若い衆の名前が出てこない。ついつい屋号(家の呼び名)で呼んでしまう。洞、日向、日陰、森下、堂の前…。屋号は地名の「小字」に合致する例が多い。立地風土に由来している。 

 雅びな名もある。祖母つねの生家(今の新盛町栃ヶ洞、昔の菅田和)の屋号は「空」という。山を背負った高台に朝日がさす。空は高い。そんな山村民家のたたずまいから「空」は誕生したのか…。

 「大月」という地名がある。人里離れた洞を開墾した際、月光のさす孤高の地に付けたか。わが家の地名「引地」は、裏山を切り開き、石垣工法で屋敷田畑を造成した歴史に由来するか。地名を屋号代わりに使う。

 いまの豊田市新盛町の「新盛」は、明治24年の市町村制施行の折りに、八桑・永野・菅田和の旧3村合併で誕生した。わが先輩賢人らが力んで付けた村落名である。

 戦後いちはやく、飯田街道(R153)改修をもくろんだわが新盛人は、飯田街道でひときわ目立つ存在だった扶桑山前の独立峰・八幡宮(古木で覆われていた)を取り除き、久木・白坂峠間を直線コースにした。馬場や陣出、門前屋の地名が残っていて、往時の賑わいがしのばれた。ご購読はコチラ.pdf

長屋門の一室改造小生の隠居空間に   23  2013.12.06

小澤だ.jpg豊田市新盛町内のわが上八桑集落は16戸。うち土蔵が現存するのは8戸・9棟である。

 こんな事例もある。母屋は明治初期の見事な草葦屋根の景観だったが、廃屋になって30年過ぎ、竹藪の中に朽ち果てて消え、敷石を残すのみとなった。ところがその廃墟の中で本瓦伏せの土蔵だけは健在である。白壁に傷みはある。

 わが家の土蔵2棟は一昨年に唐箕を出しに入ったきりで、利活用はふるわない。昔は来客用の蒲団、漆塗什器類、和服類を収納し、米麦の貯蔵にも使ったものだ。

 母の在所で土蔵の新改築が小生の青年期にあったが、母屋の新築に勝る栄耀普請とかで、並みの祝賀は御法度と聞いた。

 小生の知る土蔵建築の傑作は三州足助屋敷内の土蔵3棟だ。本物の土蔵を造ると力んだあまり、一山売っても左官代が出なかったと、棟梁がそっとつぶやくのを聞いた。

 左様に土蔵は金を喰い、土壁からの本漆喰仕上げは大変だ。それでも新盛小学校区内には3棟の白壁仕上げ、海鼠仕上げ、家紋入りがある。土蔵のある山村集落の風景は絵になるが、内部が余り利用されなくなった。

 長屋門は母屋前の長屋の中央に通用門を配した構造だ。両脇に住家、馬小屋、物置などを設けた。土蔵と並び山村集落の風景美を構成していたが、いま消えつつある。

 わが長屋門は一室を改造し、小生と友人らの交遊の場、酒場、資料部屋とした。この長屋門と同様に、土蔵も快適な遊びの空間に再生利用できないものかと夢みている。ご購読はコチラ.pdf

歴史を今に生かすは足助の得意技!    22     2013.11.29

 今から35年前の1978年、第1回全国町並みゼミが東加茂郡足助町で開かれ、民俗学者の宮本常一氏が「生きるに値し住む値する足助」づくりを熱く語った。足助中心街の背後にある里山の暮らしの中にこそ、中心街の町並み保全の原点がある、と宮本氏は説いた。

 今でこそ里山を結ぶ街道は川沿いに整備されるが、その昔は尾根道が大部分だった。尾根道は眺望が良い。土砂崩れや水害に強い。道普請が容易だった。今日の東海自然歩道ルート設定でも、昔ながらの尾根道を私達は踏査した。

 尾根筋には今も秋葉山、田峯、武節などと刻んだ石標が残る。武田信玄が足助攻めに使った山城や軍用道路の跡もある。明治の中頃まで、今では想像もつかぬところが、山の村の中心地であり、役場もあった。県勢百年事業で自給的山村集落の再興運動もあったが、それは結実しなかった。香嵐渓のどまん中に「三州足助屋敷」が誕生したのはその再興運動の流れだった。

 飯田街道、塩の道(国道153)の最大の難所は伊勢神峠だった。その昔々からの峠道(尾根道)には今も足助最大最古の観音仏が祠られる。赤いべべ着た木地屋の娘っ子も通った。武田軍の足助攻め軍用道路にもなった。今は東海自然歩道だ。

 明治30年に旧伊勢神トンネル=写真=、昭和35年に現伊勢神トンネルが掘られ、平成21年頃には新伊勢神トンネルが開通予想だ。峠には川や橋や史跡も多い。何やら交通・文化の博物館の様相である。地元に研究会もある。歴史を今に生かすはわが足助の得意技だ。まず行政に頼らず、地元で侃々諤々議論しよう。ご購読はコチラ.pdf
明治の旧伊勢神トンネル(伊世賀美隧道)、馬車用。石造りの優美な現役トンネルで文化財。

ローカル食を語る古老はもう少なく    21     2013.11.22

小澤庄一日記.jpg 去年はべったり生えたヒラタケ、ナメコが今秋は良くなかった。ほかの雑キノコもさっぱりで、市内上原町のキノコ博士、山田弘先生からもお誘いがない。足助山草展の会場で、三ツ足山に入った女性からも、そんな話を聞いた。

 昔々、隣りのばあさんが田植えの昼休み時に、「わしの生涯で一番旨かったもん」談義を語った。キクチアザミを入れてついた「おご餅」の話。

 ばあさんが母の在所の綾渡へお客にいったとき、そのおご餅を食べた。ヨモギ餅よりうんと旨かった。この話が広まって以来、わが地ではキクチアザミが減り、餅にいれるほどには摘めなくなった。おご餅を存分に食べた記憶はない。香りと舌ざわりは抜群だった。

 いまはカヤの実や蜂の王者クマンバチを練り込んだ五平餅が旨い。ツグミ五平も食べたい。

 ついでだが、このばあさんの作ったジャガイモのたまり煮、早ぼりの里芋のみそ汁が旨かった。半日も掘れば自然薯が袋いっぱいもとれた。それをだし汁でのばさず生だまりで食べる。薯を熾火の灰で焼いたのも日本酒と相性が良かった。 旬食の旨いもんは調理いらずというが、それをアジア流に手づかみで食すると食が進む。旬の味が〝コンビニ舌〟に侵されるは情けない。

 深秋の夜長に想うことが多い。ローカル食を語る古老が少なくなり、残念至極。当地は暖地であるだけに、発酵食たる漬物の話をたやしてはならないと思うのである。

 里山の食は、里山の農、里山の森からの贈り物だ。わが屋下の田と、裏山を大事にしている。

 柿食えば阿弥陀の 鐘の音さびし古屋敷ご購読はコチラ.pdf
雑キノコの正源寺とクマン蜂の幼虫の煮つけ。豊田市花本町青木15-1、小料理のかん八(☎45-3951)のカウンターにて。

道遠し・里山パーマカルチャー      20     2013.11.15

小澤庄一日記・写真.jpg母亡き後の数年来、裏山の畑にて、季節折々の野菜をつくる。土に預ければ難なくつくれると隣りの姉さんは云うも、なかなか難しい。

 足腰が弱くなると傾斜道の登り下りが小たいぎになる。目放しすると虫害にやられ、雑草まみれでさっぱりだ。

 昨年から1m幅・30㎝高の丸太の枠を組み、無耕起・腰掛け式を試みている。自家用の有機・無農薬・落葉マルチのミニ菜園だ。夏野菜なら5〜6本植える。葉ものを順播きすれば初冬まで収穫可。

 面白いのはニラだ。1㎡もあれば年中葉摘みできる。かぼちゃ、スイカは日除けに使えば毎日の成長を堪能できる。

 10年も前、足助・井ノ口町の松井鋭郎さんと共に、息子さんのマキタ西欧局長を訪ね、ウィーン入りした。ドナウ河を見おろす高台のクラインガルテン(市民農園)を見た。日本に比べ区画が広い。利用年限も永い。果樹の下で初夏の陽を浴び、太目のご婦人がくつろいでいた。西欧の市民農園は都市公園の位置づけだ。洗練された美があった。

 以来、わが里山に美を求め、コブシや山桜、果樹も植えた。が、最初は剪定、今は伐採も…。

 裏山からの山清水を飲み、わが屋下の田にも引いて稲作をしてきた。しかし、里山パーマカルチャー(持続可能な農的生活)は理屈先行で、手直ししたいことだらけ。

 ぐちゃぐちゃ景観であるが、屋下の田の稲のはざ架け=写真=だけは秋冷進む里山の絵姿になっているな、と一人ほくそ笑む。あせらずシコシコいく。はためほどに「晴耕雨酒」も楽でない。ご購読はコチラ.pdf
わが屋下の田で稲のはざ架けと韓国石仏

足助飯田街道のわが万屋を語る      19     2013.11.08

小澤だ挿入写真.jpg わが家(豊田市新盛町引地)から里道を3百メートルも進むと飯田街道(R153)に出る。その街道沿いに万屋(通称マンキサ)という何でも屋さんがあって、つい最近まで健在だった。

 創建は明治の初めとかで、庭の池には大きな鯉が泳いでいた。地域の人々の会話がとぎれることのない、趣きのあるお店だった。山奥から娘の頃にきて40数年も店番をした妙齢のおねいさんが3年前に閉店を決断した。

 「そりゃあねえ、ひところはそこいらの月給取りさんより景気が良かったが、嫌なことも沢山あったね。コップ酒の度が過ぎて声が高くなり、掘りごたつから腰を上げない。爺の家送りもたびたびだった。助平ばなしが聞きづらくて、客を放っておいて奥へ引っ込んでしまったことも…」

 こうした雑貨店のコップ酒客の物語は、今はむかし語りになった。買い廻り品を求める客足が地域の雑貨屋から最初に遠のき、雑貨屋に商品を供給していた山廻りの卸屋が減った。

 わが新盛小学校区には、久木の辻屋をはじめ、駄菓子屋、せんべい屋など8軒の雑貨屋があったが、近年に1店のみになった。煙草も調味料も足助の街へ買いにゆく。

 わが万屋の歴史を語っておこう。初代の万五郎さんから万屋鉄五郎さんに代変わりした大正期に、芝居小屋も経営し随分流行った。終盤は映画館になったが、戦後の村芝居前に閉館した。小生にもかすかな憶えがある。その後に万屋は木炭自動車の薪も売った。

 万屋史は飯田街道の雑貨屋の栄枯の歴史でもあった。経済の地域色が消えた。その再興はもうないのか、今から次代に続く宿題か。 ご購読はコチラ.pdf

豊田市千田町の丸真商店(通称カネセン)のコタツで。地元の人らがコップ酒をかわす。足助元町長の真野昭一さん(86)の何でも屋さん。カネセンは健在だがマンキサは消えた。

八桑城姫君墓所の祭礼によせて      18     2013.11.01

里山18.jpg 自分は旧足助町新盛の上八桑集落で1937年生まれた。近年にわが集落から8戸が減った。消えたものの代表は旧道であろう。国道改修で1963年、久木峠から新盛峠までがまっすぐな往還になり、古い小道は消えた。消えそうで消えないのは寺3、社3、堂7である。旧足助最大の馬頭観音も残った。 

 わが上八桑集落16戸で守っている氏神様の八幡宮は、元亀年間の信玄攻めで足助城が落城した際の、八桑城の姫君の墓所である。標高4百mにある。

 祭礼は毎年9月上旬だ。氏神様の財力は水田と山少々であり、各戸4千円拠出で神官を招き、40人余の老若男女が五穀豊穣と家内安全を祈願する。

 大太鼓は大人が打つが、子供が来ないのでさみしい祭礼だ。とりしきりは順送りの3戸衆でするが、地元の料理屋が消えたので、オードブルの仕出しで間に合わせる。

 今日はお祭りだからと気合いを入れ、神様と酒をくみかわすような元気な飲み手はなく、一升酒が残る始末だ。今も残る唯一のうまいものは塩鯖の炭火焼きだけである。

 その昔は重箱入りの雑茸の煮しめ、馬鈴薯の小芋煮、早掘り里芋の煮しめがあった。何もかもが消え失せた中で「しめ縄」だけが続いている。

 しめ縄は「左綯」であるが、それを地元でできる神社は少ない。わが社では器用人の鈴木久夫氏(元稲武中学校長)が「左綯」をする。若手が伝承しているので、手製の「しめ縄」で当分は社殿を飾ることができる。これも稲作文化の伝統の一つであろう。こうろぎの鳴き声にじんじんする初秋の候である。ご購読はコチラ.pdf

八桑城の姫君を祀る八幡宮。伝統の数々が失われたが、今も手製のしめ縄で社殿を飾る。しめ縄の左綯いが若い衆に伝承されている。

古くて新しい野良着とは?        17     2013.10.18

里山17.jpg わが扶桑館(新盛公民館)では春秋2回、地域づくりイベントが続いている。10年になる。

 09年春、名古屋大の高野雅夫准教授の率いる女性グループが「野良着ショー」に挑戦した。女子学生のデザインは斬新的ではあったが、1回切りで次が続かなかった。

 以来、気にしてきた。夏の汗は「身心浄化」の最たる生理と思う。さして汚れていなくても、小川の流水でじゃぶじゃぶ洗いする。それが可能な素材。そして機能性、個性的なデザイン性。野良着に頭が動きだした。 

 農機具会社の上下ツナギの胴足一体型とは異なるタイプ…。このごろひらめいた。上着は甚平型の紐結び、ズボンはももひき(たつき)型がよいのでは。

 近所の心ある女性に仕立ての話をした。手ぬいはおろか、ミシンぬいもしばらくしていないらしい。ももひきの型も忘れてしまったという。祭礼道具の専門店にも聴いた。消防団小屋内の古い道具入れなども物色してみた。

 素材は迷うことなく木綿。冬ならば厚手の刺し子でどうか。昔ながらの手ばた織が丈夫だが、今どき無理か。粋な布で仕上げたい。

 腰曲がりの猫背が増えた里山シニアの男たち。彼らの野良着スタイルは、甚平・ももひき型でほぼ固まった。 農的くらしに惹かれ、里山入りする若手女性にヒットするものでなければ…。ミレーの晩鐘に出て来る、あの夕日に感謝する姿の野良着がほしい。ご購読はコチラ.pdf

古くて新しい野良着の原型。

里山資源のA級グルメ育てよう      16     2013.10.11

里山写真.jpg猪は夜行性動物である。春〜秋の子育て期の夜、特に旺盛な食欲を示す。

 10数年前までの里山では、猪はササユリの球根、葛の根、筍を食う程度だったが、今では畑の馬鈴薯、菊芋、里芋、南瓜、西瓜が大好物である。乳熟期の稲穂も好物、なぜか彼らは稲田の中心部に入り、数日で山田を全滅させる。

 今や高圧電気を流す電気牧柵、金網柵が防御の主流だが、彼らの学習意欲は盛んで、一寸の間隙をねらっては侵入を繰り返す。銃猟、ワナ、オリ作戦が活発になり、豊田市内では年間3千頭も捕獲されるが、被害は一向に減少しない。

 その昔は猪と言えば山の料理の王者であり、わが足助の料理屋の一の谷、井筒亀の冬の味覚の定番であった。

 しかし今では、よほどの通でなければ猪を好んで食する人は少なくなった。猪の解体処理法の素人技が横行した結果、野生の獣肉独特の香ばしさが失われた。獣肉の血生臭さが一般通念になってしまった。

 我々が食するのは、狩猟期以外の春〜秋に檻で捕獲した猪の赤肉の一部だけで、大部分は埋立処分してしまう。解体法と保存が適切であれば、ほとんどすべて食することができるのに。

 新盛自治区約1000ヘクタールでは、昨年70頭を檻で捕獲した。わが鈴木昭次君が軽トラックに乗せて「また獲れたぜ」と言って来るが、引き取り手がない。埋設した。

 せっかく山の命をいただいた。山の神に申し訳ない。安全・安心の解体施設建設を進め、まずは里山民に「猪は美味」を滲透させる。豊田に里山資源のA級グルメを育てたい。ご購読はコチラ.pdf

オリで捕獲された猪の群れ。人は食さず埋立処分することが多い。バチ当たりでは…。

少食菜食のベジタリアンだが…      15     2013.10.04

里山.jpg 旧東加茂郡旭地区の東加塩集落に、水車利用の「田中」という屋号のうどん加工場があった。子供の私らが足助から小麦を背負って出かけた。半日も待ったであろうか、天日乾燥の乾麺と交換してもらい帰ったものだ。

 お盆になると乾麺を風呂敷に包み、伊熊(旭地区)の母の在所へ行った。山道歩き2時間。夕暮れに空腹で帰り、おひつの冷めしに生卵をぶっかけ、かき込んだ。  兄嫁とお爺いの分まで自分が食いこんでしまったかと気づかった子供ごころを、今になって追憶する。手廻しの蓄音機で「勝って来るぞと勇ましく」の軍歌を聞きながら眠気におそわれ、爺のワラ蒲団にもぐり込み眠ってしまったことまで思い出す。

 肩をゆすられ目をさますと、爺が「庄一や、鶏の毛を抜け」と言った。鉈で鶏の首をはね、肉のさばきかたまで爺に教わったように想う。山いも掘りやヘボ(蜂)追い、カラスヘビやシマヘビの蒲焼きも覚えた。

 明日は雨と見込むと、ウナギ釣りの捨針を仕掛けた。お薬師様の使いということで菅田和の細田川は禁漁だったが、岩裏のウロから大ウナギを引っぱり出した時の感触は忘れていない。足助の山田の川にウナギがいた。

 庭の棚仕立てのアケビの実が9月初め、いっせいに開いた。果肉のほのかな甘さと皮の苦味に、秋の山里の味をたしかめた。春は芽もの、夏はウ
リ、秋はいもや実もの。旬食に調理なし、素ぴん味をいただく。

 少食菜食のベジタリアンに変わる身ながら、段戸牛の5百gレアを食いたいなあと切に思う。ご購読はコチラ.pdf

写真・9月9日庭の棚仕立て栽培のアケビの実を収穫した。ほんのり甘く苦味のある里山の秋の味だ。

里山経済の原点パイが小さい事      14     2013.09.27

小澤日記足助屋敷.jpg 梅雨明けの昼さがり、三州足助屋敷内の体験交流施設「工人館」で、愛知大学地域政策学の岩崎正弥教授主催の鼎談が開かれ、小生も参加した。

 これは岩崎教授が中山間地事業の進展状況を聴き取り調査する会で、発言席の私たち3者を含め、10人程が語り合う小集会だった。ガット・ウルグアイラウンド関連の農水省多額補助等で足助屋敷内に併設された工人館事業も調査対象だった。
 発言者は次の3人だった。
 ①高橋寛二氏=長野県飯田市産業部長を辞し、和歌山県高野山町助役を6年勤めた人。
 ②黍嶋久好氏=故愛知県豊根村長・北設楽郡県議の秘蔵子として活躍してきた地元自治体職員。
 ③小澤庄一=社団法人地域問題研究所の清水ゼミが茶臼山(海抜1415m)の山上に愛知の高原都市建設構想を唱えていた。同ゼミ関係者として小生も出席した。

 この3者報告をまとめた岩崎教授の鼎談記録「いま町づくりを問う」は、別の機会に紹介したい。私は33年間持続している「三州足助屋敷」のねらいと現状を話した。

 足助屋敷は、単に伝統工芸や民芸を見せる場ではない。「古くて新しい里山ぐらしの提案づくりの場」である。

 開館からしばらく年間10万人の客入りで推移したが、今は6〜7万人。ちょっぴり弱くなったが、今年の縁日(豊田花火大会と同日)には5百人余の子供連れが訪れ、1トンもの梅干しを漬けた。 子供らの元気な顔に出会い、スモール・シンプル・スローの〝3S〟定着の兆しに安堵した。パイの小さな暮らしが里山経済の原点であるのだ。ご購読はコチラ.pdf

古くて新しい技で新有機農業を      13     2013.09.13

足助の棚田の稲作に硫安、石灰窒素などの金肥(化学肥料)を使うようになったのは、戦後の1950(昭和25年)以降のことである。

 この山田(棚田)に接した傾斜のある採草地で春秋2回、芝草刈りをした。芝草を束ねて田ぐろにおろし、堆肥化して有機肥料にした。どこの家でも仔取り和牛を飼い、牛糞堆肥も作っていた。

 そのころ水田の畦道の要所に〝アト〟という稲ワラづくりの構造物が設けてあった。アトを開ければ、上の田の水が下の田へ流れた。アトを閉めれば、上の田から下の田への水の流れは止まった。

 アトは稲ワラづくりだから、田植えが終わった後のアトには、たくさんのドジョウがもぐり込んでいた。そのアトで子供らはドジョウをつかまえ、煮て食べたものだ。

 有機肥料の話だが、普通は芝草を堆肥にしてから田に入れたが、時として芝草を押し切りで切って、生のまま田にすき込むこともあった。

 それが子供の素足に当たると痛かった。生々しい記憶だ。生芝は稲苗の初期の分けつ(枝分かれ)をおくらせた。肥料効果が後効きするので、稲熱病を多発させた。

 さらに虫害も多発させた。防除にホリドール、エンドリンなどの毒性農薬が散布され、ドジョウ、タニシ、蛙などが死滅していった。

 現在のようにJA稲作暦の画一安全肥料「ひとまき」を使えば1反10俵収穫も容易だが、金肥(化学肥料)以前の芝草堆肥の当時は、1反5〜6俵収穫だった。

 農業が有機肥料重視の方向へ再び動いている。参考のため1950年以前を思い出してみたい。

 山間地の棚田(昔は山田と言った)は畦畔も採草地も広かった。芝草は枯れるのを待って焼き払うのではなく、青草を堆肥化し肥料にした。人糞尿も稲作に巧みに活用した。

 現在は浄化槽技術と焼却の技の発達で、有機が暮らしから後退した。滋賀の朽木村の「朝日の森」には人糞尿を山に引き入れ、土壌浄化で〝森肥〟にする技術があった。効率・安直・経済至上主義でなく、里山保全の豊田方式で、古くて新しい技を生み出せんか。ご購読はコチラ.pdf

ギボウシは夏咲きの白花が絶品      12     2013.09.06

0906-p.jpg 足助町の職員時代に、「百年草」の会館建設から経営まで、5年ほどたずさわった。当時の足助山草研究会と共に、会館周囲の植生の環境づくりや、足助の山草の鉢植え栽培をすすめた。

 自宅でも山草の鉢栽培をしたが、水管理の失敗などで枯れることが多く、結局、裏山や棚田の適地をさがし、地植えに移した。何種類かがそこで生きた。

 その新しい風土に定着し、手をかけずに今も自生しているのは、次の通りである。

 一番はギボウシ(擬宝珠)の大葉系。大型白花で芳香の良いタマノカンザシ=写真=に魅せられている。

 次はイワタバコ、モミジガラシ、山ウドの食用種だ。今朝も朝歩きでひとつみ採った。5〜6日毎に収穫する。夏ワラビの草取りをし、硫安を少々撒いてきた。

 猪檻に餌を入れながら、黄レンゲショウマの花期の近きを知る。ツルフネソウ(赤系多い)、シュウカイドウ、ミソハギ(猪のダニ除り場の湿地に多い)もある。ワサビも調子良かったが、猪のサワガニ獲りで谷川が荒らされ、さっぱりだ。

 エビネは来春、新天地に移転させ〝嫌地〟を防ぐ要ありだ。竹林にカンアオイ、フタバアオイが細々と生きているが、猪が筍を食いに来て踏み荒らしている。屋下の水田のメダカ池で調子良いのはヒメスイレン。花期が永い。農道わきの草刈り場にササユリが100株以上あったが、猪害と人害(草刈り時期不適切)で消えた。成功例の香嵐渓のカタクリを含め、山草木の盛衰を見るのが自分には興味深い。ご購読はコチラ.pdf

子供の頃の木々の実を懐かしむ      11     2013.08.30

小澤日記.jpg裏山のスイカ畑にのぼった。猪避けの電気牧柵で囲んである。いまは通電していないが猪は来なかったようだ。電牧存在の学習効果からか、被害はなかった。

 しかし、スイカの熟玉はカラスにやられた。収穫は2玉のみ。有機肥料をたっぷりやっておいたので味は上々。未熟果の青玉に買物籠をかぶせてきた。電牧を設置しなかったカボチャ畑は全滅。

 ついでに畦畔の草刈り。蝮の2年子をつかまえ天日干しにしておいた。(のちに版画家の西田さんを伴って磯谷君来訪の際、ウナギとの交換の約束で手渡す。彼は緑化関係の知己だが川でウナギを釣る)帰りに夏ミョウガをとる。遅れのサンショウを潰して、そうめん汁で昼めしにする。

 裏山を歩いてみるも、ナツメ、グミ、ハランキョウ、黄イチゴは今はもう季節はずれだ。柿の木が杉に覆われ、ここしばらくはメジロも寄りついていない様子。

 今秋は菅田和(市施設「すげの里」のある集落)の山梨の古木の実成りはどうであろうか。この界隈一番のケンポナシは薪採りで切ってしまった。わが家の李や柚、枇杷の手入れもしたいが、先を考え断念。

 とにかく子供のころ腹の足しにした、家の周りの木々の実がな懐かしいのだ。あれこれ考えるも嫌になり、近くの青空市場にいく。よく熟れた猿投桃を求め、うす皮をむき皿に置く。したたる汁のうまきこと、旬食は生食に勝るものなし。

 夕、山すそでイワタバコ、夏ワラビ、青ユズ、夏ミョウガ=写真左から=を採り、来訪の女性に差し上げた。ご購読はコチラ.pdf

山草は誰がため咲くか問わない      10     2013.08.23

重伝建(重要伝統的建造物群)保存地区の足助の街並みを過ぎ、R153の最初の峠から右を見る。山並みが美しい。

  数年前、豊田森林組合の林富造常務理事の口利きで「名古屋シティ・フォレスター倶楽部」が現地入りし、地道なチェンソー活動をしてきた成果である。国道から見える山の入口に、チェンソーアートのタヌキ君が数体しつらえてある。休憩所の丸太小屋も作られた。

 そこに山清水を引き入れ、そうめん流しも行われる。楽しく面白い空間ができた。

 当初はマイカーでとびかう都市の遊びの人かと見られていたが、最近では仲間意識も進み、足助の人とヤー、オーの間柄になった。

 当地方の補助金体質の竹林整備とは体質が異なるようだ。「水源地の山が明るくなり、水源地と都市が仲間の絆で結ばれ、山が元気になれば…」。彼らはそういう考えの〝シニア山守り隊〟であろう。私の感想だ。

 自然と人との共生を体感し、人生意気に感じる。山草は誰がために咲くかを問わない。そういう生き方かも知れない。

 森づくりは一世が植え、二世が育て、三世が収穫する。百年の計だ。土の生理にさからわず、ゆっくり手を加える。

 名古屋の「フォレスター倶楽部」は昨年、員数30人、入山日数35日、行動300人工だったという。

 こうした都市側の人々の崇高な行いを、森に生きるわれわれ山村住民はどう受けとめればよいのか、考えてみたい。

 都市の経済至上主義的な画一文明。その汚染の中から、われわれシニア族はめざめようとしている。〝持続可能な生〟がまだ残されているこの地で、行動と理屈を深めたいと思っている。

 わが足助の新盛地区には、市の里山再生の拠点施設「すげの里」がある。その周辺の耕作放棄田に近年、青田がひろがった。周りの山の間伐も進み、森に太陽光が射し込むようになった。

 足助新盛の「すげの里」周辺の青田と明るい林は、山村の一つの希望であると思う。新盛地区とトヨタ労組が中山間地の希望への道を切り拓いたと言えるのだ。

KS君の草刈りそして美の発見       9     2013.08.09

IMG_7645.JPG豊田で稲の有機栽培80ヘクタールを営むはっぴー農産の黒野一郎君は、田植えを終えると単車で三河の里山めぐりをする人。「庄ちゃん、足助の棚田は整然と草刈りされ美しいよ」という。

 わが新盛の棚田も、休耕田はめだつが、その美しさの例外ではない。6月の一斉環境美化作業を前に、KS君は家から続く1ヘクタール(反)の水田の農道で草刈りに精を出す。ここは自分の景観だから気持ち良くしたいという。今年は隣人たちも触発され、三々五々参加する。

 水田の面積をしのぐボタ(傾斜がきつい)の小灌木やススキも刈られ、入梅を待ち焼き払った。ちゃんと理屈もつけ「地域は美しくなければ生き残れない」と言う。さっぱりしたスッピン頭の彼は「美の発見は歩くことから」ときた。

 ヨーロッパアルプスのチロルの民宿村を訪れたことがある。伸びの良い北欧美人に出逢った。その村の家々の美しい庭先で、私はふと思った。「個の庭はみんなの庭」。個の庭が民宿村の集合的な美を形成していた。豊田のオープンガーデンの美しさに自分の思いを重ねていた。

 里山景観はそこに住む人の想い、行動に敏感に反応する。稲作との関わりが途絶えつつある里山草地に、キキョウ、ナデシコ、オミナエシを見ることはなく、ササユリも消えた。アザミの畦畔ではいかにも情けない。

 ササユリを求め、わが裏山を歩いた。最近間伐の林間に、50年ぶりにササユリが一株よみがえっていた。気のおもむくままに、良きことをしたものだ。ササユリ一輪に感謝。ご購読はコチラ.pdf

阿弥陀堂を改築毎月14日お詣り      8     2013.08.02

小澤8.jpgわが足助地区の新盛集落は50戸、洞や小川でほどよく分かれ、六組構成である。大鷲院を筆頭に社、薬師、地蔵、阿弥陀が組ごとに配され、先祖から引き継がれ大事にされてきた。

 小生の3・4番組の阿弥陀堂も改築の合議が成立し、数年で百六十万円余が積み立てられ、昨秋平成の世の小堂の完工をみた。大工は地元の若手に依頼し、地ならしや修景に多大な労力を費やした。

 お堂の創建は明らかでないが、嘉永2(1850)年八桑若衆連の鐘銘記録がある。以降昭和10(1935)年改築、その50年後に自動車道新設で移転の記録がある。

 この地は山並みの入り込みがあり、標高300メートル前後で、湧水に恵まれる。稲作も可能で縄文期以来の快適な住みかであったようだ。

 人々は自然を巧みに取り入れ、神仏を崇めて生を全うしてきた。わが阿弥陀堂も毎月14日に、各戸めぐりで供物が供えられ、鐘の合図で人々が集まる。五メートル径のお数珠を操り、南無阿弥陀仏を唱える習わしだ。

 小生の子どもの頃は甘酒、だんご、餅、おはぎが配られ楽しみだったが、いまは袋入りのスナック菓子に変わった。

 何か今式にもう少し変わった趣向をこらしてはと思うのだが、何はともあれ伝統が抵抗なしに今日も続いているのが面白いと思う。

 ちなみに阿弥陀信仰には48手があるのだそうだが、それではとてもやりきれんからと、18番手の南無阿弥陀仏を唱えれば、それで願は叶うとされたと云う。ご購読はコチラ.pdf

NPO山里文化研究所への期待       7     2013.07.26

小澤庄一棚田.jpg 今年6月はじめ、美濃路の恵那市で「NPO山里文化研究所」の総会が開催され、出席した。

 故あって主宰の清藤奈津子嬢のインドネシア島めぐりが2年来続いたこともあって、活動はさして元気がなかった。しかし昨年は段戸開拓史の聞き書きに主力がそそがれ、『山を拓き、ここに暮らしをつくる』(代表竹内通王)が出版の運びとなった。

 聞き人は遠く徳島の上勝や島根の智頭からも女性が自費参加した。清藤さんの人脈の広さをあらためて知った。

 一方、設楽の地域づくりの仕掛け人、竹内通王さんは、肉牛5百頭飼いの大型自立農、名倉の食彩フェスタ、猪肉の産地化など多彩な活動をする。その傍ら農場内のログハウスで音楽会や写真展などをさりげなくこなす感性の人だ。

 今年は矢森協の丹羽健司氏の岩村居着きもあり、山里文化研究所が面白くなりそうだ。総会の主たる議論は、矢作川上流域の長野県根羽村をグラウンドとする「山里くらし塾」に集中した。自治体の境界を超えて、地域の活動実践者講が月1回ペースで開催される由。愛知、岐阜、長野の合同塾の個性化が追求される兆しだ。期待している。

 恵那市からの帰途、豊田市小渡町の市役所旭支所に支所長の天野正直君を訪ねた。彼は足助出身の里山地域づくりの専門家。あと一年の任期を嘆き、積み残しの仕上げをどう締めくくるかを話した。
 年金族の農的動きの活性化の方向ではなく、若者IU族の地域での光を見出す勉強会が急務の課題、先の山里くらし塾とのリンクありしやである。ご購読はコチラ.pdf

盛夏に「薪」の話ヨツールを愛用え     6     2013.07.19

 わが家に薪ストーブを導入したのは30年前、1983(昭和58)年だった。JA明川出身の沢田君の先駆けに一目惚れし、名古屋の日本暖炉より、大枚40万円で求めた。

 「火は心まで暖める」。うす明かりでめらめら燃える火を眺め、薪口を開けスルメをあぶる。人肌に温め二級酒を一人のむ。心やすらぐ夕刻だ。
 数あるストーブメーカーの中から、ノルウェー産のヨツールを選んだ。薪ストーブの名門で完成度が高い。マシーン度はフォルクスワーゲン車の域とか。いつかご紹介したいが、木こりやトナカイが森に遊ぶ姿があしらってある。そのデザインも好きである。

 径18、長さ60センチの薪が投入できる。燃え方はシガータイプ。就寝時に残り燠に灰をかぶせておけば、翌朝寄せ木少々、3分で優しい音と共に着火する。

 10月から5月まで薪を燃やし続ける。火を切らさない。3年乾燥の広葉木は熱効率が高い。煙突掃除の回数が減る。3月伐採、玉切材(長さ50センチ)を放置し、5月〜6月に斧と楔で割木づくり。3年ほど軒下に積んでおく。

 この作業は嘗ては出勤前の早朝、その日の気分づくりでしていた。年齢加算と共に大木割に難渋する。太い大木は割れ目を巧みにみつけても、すなおにバッカと割れてくれない。山中の現場での大木割の薪割機が欲しいと思う。

 この地球に優しいバイオ暖は今、わが新盛学区では設置数6台。薪ストーブは面白いのだが、化石燃料に比べると弱点も多い。物好きのすることかも…。

 暖の昔方式は、こたつの足暖だった。熱効率に富み、快適でもあった。地域の昔に学び、地域で調達可能な素材で里山暮らしの豊かさを求めるのであるが、高齢化社会には課題が多い。自分が後期高齢者になり気づく。

 山で広葉木を伐採、玉切りしても、それは重くて山から下ろせない。山村の少子高齢化は深刻な社会問題だが、おのれ個人の老化も自覚する。われら老人世代は社会と個人を割合い公平に深く記録できると思う。ご購読はコチラ.pdf

新盛小16人がアート田植え     5     2013.07.12

田植え.jpgJAあいち豊田と新盛里山耕流塾の共催で、今春「アート田植え」があって参画した。わが老人クラブ有志20人と新盛小生徒16人が、地元の水田12アールに稲の苗を手植えし、その稲が生長と共に水田に〝アート〟を描いていくという趣向。

 大人と子供が田植えという一つの仕事を通し、こもごもの話題を共通理解していく。久々に逢ったので喚声が上がり、楽しかった。会合より効果があると実感した。耕作放棄田対策でもあった。

 それにしても、昔の田植えの早乙女衆の手さばきが、今もなんと巧みだったことか。村の「田植結」を追憶した。

 私のおふくろなどは近所の田植えがぜんぶ終るまで、2週間は出っぱなしだった。田植えは近所が共同でした。自分の家の田植えの日は、夜明けと共に起き数人の結衆の10時と3時の腹足に、おはぎ、だんご、餅などをしつらえ、田植えに出かけたのである。

 親父は段々田の水配りと整地に追われた。農業用水の山水は今のような用排水分離ではない。田の畦道に藁でアトを入念に設え、そのアトを通して上の田の水を下の田へ流して再利用した。五反百姓は男も女も大人も子供も、やすまず働いた。結方式は田植えを分散し、水争いを防いでもいたのである。

 昔の農家は農業機械、化学肥料、除草剤等への出費は少なかった。現金収入もあった。赤字経営でなかった。三河湾から来る行商のおばさんが米と魚を交換してくれた。

 今の集落営農は、昔の田植えの「結」から後退しているように思われる。また書こう。ご購読はコチラ.pdf

異色土木技師木戸氏が語る      4    2013.06.28

 中京圏と三河山間地を結ぶ猿投グリーンロード。愛知万博で一部四車線化したせいか、無料化が遠のいた。

 足助のわが家より地下鉄藤ヶ丘駅まで40分の時間距離で有りがたいが、有料パーキングをいれると名古屋都心行きも夢の道にあらず、負担大だ。

 この終点の名古屋インター最小澤庄一日記.jpg寄りに、雑木林に覆われた広大な敷地の福祉の殿堂「太陽の杜」がある。知る人ぞ知る、日本的夢追い人、吉田一平現長久手市長の福祉の街造りの拠点施設だ。

 長年来の多彩な知己の小生は、生物多様性の日の前日、月1回開催の太陽塾の塾生として、足助より移築された古民家=写真=の会場を訪れた。

 夕刻の集まり易い時間でもあり、障子を外した古民家の三間八の会場は、50人近い聴き人でいっぱいだった。

 この地でお袋を送って以来の久々の来訪であり、周辺のビル乱立にびっくりした。

 話し手は元豊田市役所都市計画出身の土木技師、木戸規詞氏。バイオ・フィット論に感じいった。在職中に、豊田市街地の市営児ノ口公園を近自然工法の思想・技術で大改造し、豊田市初の近自然都市公園をつくった。

 わが足助の町並みや香嵐渓にも陣風を吹かせた。待月橋の下流移設、交流館ゾーンづくりも提言した異色の土木技術者。

 長久手市の「太陽の杜」の木造建築の中に、ひとかかえもある櫟の生木を導入した吉田一平市長と近自然工法の木戸氏とは、一脈通じるものが心にあり、今回の講になった。実践派の生きた環境論、産業調和論だった。

 若手女性群やレギュラー外の多様の人々が出逢った。文化も土木技術も画一化傾向だが、太陽塾には多様性がある。ご購読はコチラ.pdf

個の四季桜がみんなの桜に      3   2013.06.21   

小澤庄一日記.jpg わが「裏山しい」暮らしの原点は、約1万平方メートル=3千坪の屋敷裏の山林、そして長屋門にある。1875年建築の家の周囲に四季折々の山草、木々の花が咲く。

 足助町時代の施設「百年草」をつくる頃に裏山に植えたマンサク、コブシの木、カタクリ、イチゲ、フクジュ草の花はいつしか終わった。

 タツナミ草、ジュウニヒトエ、遅れのエビネに続き、韓国石仏の下にユウスゲ、ササユリが咲く。大葉系ギボウシは数年前まで鉢植えも手がけ、足助山草展には出したが、これは山地適応種で放ったらかしづくりに転換した。6月末から9月中旬まで咲く。芳香ある白花8月盆咲き種が好きだ。

 食べられる春の芽づくりに近年色気づいている。フキノトウに始まり、ギボウシ、モミジガラシ、山ウド、オランダガラシ、タラの芽を裏山で自然栽培する。

 小生は天ぷら調理を好まない。数分湯どうし、みそ、しょうゆ味を良とする。今日も山ウドの芽を味噌汁にしのばせた。

 山の幸は淡竹、養老竹に移った。藪かげで黄色にいろづく木いちごをたらふく食って梅雨が終わる。なす漬け、きうりの青じそもみで盛夏を越す。

 秋の実ものはぎんなん、かやに勝る味なし。冬はじねんじょを掘りたくも猪君に先にやられさっぱりだ。旬食に調理なし。生焼煮の順。

 花ならば個の庭づくり、オープンガーデンがすばらしい。丹誠こめた庭が多い。各家の「個の庭」が「みんなの庭」である。小原の四季桜は、「個の一本桜」が「みんなの四季桜」になっている。

 花は小原四季桜方式に学んだ。自然の山食は猪の生き方に学んだ。古きを新しきに変えるのが大事、また語りたい。ご購読はコチラ.pdf

成瀬塾の持続力に興味しんしん    2      2013.06.14

 梅雨入りも近い五月の末、わが長屋門の「薪ストーブ庵」に、矢作新報社の新見氏の来訪あり。前豊田市長の肝いりで開設された新盛町菅田和集落の里山整備拠点「トヨタ労組10アール水田」で今年の田植え祭があり、その帰途だという。

 長屋門はすぐ南の屋下の田から、心地良い風を受けていた。わが豊森なりわい塾一期生らが屋下田で去年、4年目の稲作をした。手植え、手刈り、天日稲架かけで。

 屋下の田に稲作の次の周期が来て、田に水が張られ蛙が鳴く。われわれの話もはずんだ。猪の食害から残った裏山の筍と、新野の種鶏卵場でいただいた有精卵で卵焼きを作り、焼酎杯歓談。里山に住む半農老人の週1「日記」を書けと言われ承諾した。

 稲の苗作りが、苗代作りからJAの箱苗一辺倒に変わったのは1960年代だったと思う。牛耕と手植えが耕運機と田植機へ変わっていったのも、同じ時期である。

 この間に足助の稲の作付面積は、記録的700ヘクタールから200ヘクタールへ激減した。耕作放棄田がめだつ。山間の田畑は杉桧の林に転換した。トヨタ就労、空家、高齢化世帯が多くなった。××集落の明日は予測しがたい。

 そうした中でも、若者が定住し、祭りが活況を呈する村もあるが、そうした目先の対策ではどうもこうもならないように思われる。

 1中学校区年500万円の市のわくわく補助事業に、わが中堅住民が応募していわく。環境美化対策事業が本年も大半である。この地に生きる青壮年、婦人連による地道な〝なりわい〟生産が大事であるのに。わが扶桑班の野菜づくり名人講座「成瀬塾」の持続力に私は興味津々である。ご購読はコチラ.pdf

念願の自給的土まみれ生活      1       2013.06.07

 矢作川流域の平坦地が「日本のデンマーク」と呼ばれ、稲作が盛んになったのは、枝下用水と明治用水が開通した以降の近年になってからだ。

 その昔は中山間地域が背戸の山の清水や山間の渓流を集めて農を営み、穀倉地を形成していた。雑木林や採草地が多く有機肥料が豊富にあった。水質も良かった。良質の米が獲れた。それは今も変わりなく、街道の青空市場では当地産のミネアサヒ米が売れ筋だ。

 標高320メートルの足助の土地(今の豊田市新盛町)に生まれ、この地で生を終えようとする半農老人は、小澤の家の長男坊であった。若き日や興農の志を抱き、猿投農林高校に往復3時間の自転車通学をした。

 先祖代々の家を中心に山すその畑10アール、水田50アール(25枚)、山林採草地2ヘクタールの規模。有畜農業を夢みるも故あって足助町役場に奉職、数年を経ずして、国際農友会ブラジル農業実習生になった。

 往路の船旅3カ月、現地滞在1年で復職。農業構造改善等々の地域振興担当で50年弱、役場でご厄介になった。いま70代も半ばを過ぎ、ワクワクドキドキ感が半減した。日の出と共に起床、午前は気ままに山や農地で土いじり、午後は××、早寝族である。

 念願の自給的土まみれ生活。耕地は野菜畑10アール、下草山野草混交林あり。水田は米300㎏収穫の有機無農薬、脱石油農と力んでいるが、夏冬変わらず水温19度の背戸の山清水では近代米づくりには勝てない。

 蛙は鳴くが、どじょう、たにし、渓流のイサンコは消えた。細々とムツバヨはいるが、焼き魚で食す気はない。数年前まで燕が長屋門で巣づくりをしていたが、爆発的に殖えたのは猪のみだ。裏山、谷川、農地で傍若無人にふるまう。里山は青年の頃の様相に乏しい。ご購読はコチラ.pdf