続・僕の風景  人と絵と放浪と
文・絵 宇野マサシ
母86
( F 20号 )

竹内洋治 (二)
/ '04年4月30日号掲載
 竹内洋治さんといっても、豊田で識る人は少ない。それには理由(わけ)がある。町の中で彼は孤絶し孤立したからだが、ありていにいえば、その知的構想力と思索が壮大で深々としていた為だ。彼は外貌とちがい、その神経はとても繊細で詩人質の人であった。
 
 挙母小、崇化館中学、明和高校を出て東京大学文科一類に現役で入学する。大学院では丸山真男ゼミで学んだ。エリートコースを躓くことなく歩んだし、周りの東大生からみれば妬ましく羨ましい存在だった。それに見合う知識と論理を充分に貯えていた。
 中学3年生までに彼が読んだものは、太宰治、倉田百三、阿部次郎、芥川龍之介、志賀直哉、下村湖人、夏目漱石、石川啄木、伊藤整、トルストイ・ロマン・ロラン、ツルゲーネフ、ドストエフスキイ、デカルト、ニーチェ、イプセン、ゲーテなどで(友人、真木能之さんの覚書による)、桁違いの読書量だ。
 
 今僕は鼻筋の高い、冷たく光る眼を持ち、その奥には知に耐えようとしている風貌の竹内さんを思い出している。竹内さんが豊田に帰ったのは、師の丸山真男と修士論文の提出で意見が違ったのと、その学者の世界特有の排他的空気を嫌った為だが、そのことは大学の世界から放り出されることを意味する。彼は一人で思索する道を選んだ。そうなる外因として豊田の運動体、市政研、の存在があるが、そのことはゆっくり考えるとして、一人で思索し学問を究める覚悟がどれ程大変であったかは、此の時期浴びるように飲酒にのめり込んでいったことで想像が付く。周りからアル中、酒乞食のように思われた。竹内さん自身そうした非難をよく承知していた。彼は書いている。
 「私があの頃いかなる内的デカダンスにみまわれていたか、」「私がなぜあんなにまであびるように酒を飲んでいたか、分からない連中。」
 この言葉は自己弁護ではない。いくら酒を飲もうが酔えない程の葛藤(かっとう)に耐えていたのだ。そのことは此の時期が過ぎると全く飲酒を断ったことで分かる。彼は又強靱な意志を持っていた。 
 先日(2004年1月)はじめて夫人の澄子さんにお目にかかったら、「遺稿追悼文集を読んで腰が抜けるほどビックリしました。主人が酒を飲むなんて知りませんでした」と言われた。ビックリしたのは僕の方だ。遅い結婚だった竹内さんは、家庭を持っても研究一筋で、もう酒など必要なかった。長女、長男を見ながら思索の道を急がなければ、自分の知の体系、その極みは遠いことを知り尽くしていた、と僕は思う。   
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