続・僕の風景  人と絵と放浪と
文・絵 宇野マサシ
恵那山系
(宮口町から)
( F 6号 )
織部と志野(加藤正義) / '04年5月28日号掲載
 多治見市市の倉は、陶工の町というより村落という言葉がふさわしいように思われた。この陶工の村落には、加藤幸兵衛窯という名門窯があり、現在の当主は加藤卓男氏だ。加藤正義さんの両親も幸兵衛窯の陶工で、正義さんも中学卒業と同時に幸兵衛窯に入り、鈴木通雄氏の下で助手として働いた。加藤卓男氏の話では絵が上手であった、という。又、鈴木通雄の子息、鈴木蔵さんの話では、北大路魯山人が好きで、魯山人に出した賀状の字を見て魯山人から鎌倉に来ないかと誘いがあったという事である。この時の加藤正義さんの喜び、嬉しさは想像をしてみても胸が躍る。正義さんは魯山人の窯に入った。 

 僕の手元に正義さんが描いた星岡窯で窯出しをする魯山人を描いた絵がある。犬などが走っていてリアルだ。この絵一枚から見ても、正義さんが受けた魯山人からの影響はとても大きい。 
 魯山人のところに出入りしていた人で菊岡久利という詩人がいる。この人の喪儀委員長は川端康成で、鎌倉の名士(めいし)だった。魯山人にも遠慮なく意見を言ったらしい。その菊岡久利が加藤正義の才能に目をつけた。 
 星岡窯を出た後、正義さんは玉川学園大学の技術指導者となる。そして自分の窯を持つ。正義さんはその窯を玉川窯と名付けた。此の頃の正義さんの師は菊岡久利である。
 
 菊岡久利が愛した陶芸家に矢野景川(やのけいせん)が居る。この文人陶芸家の影響の深さを、正義さんの作品を見ると驚くほど発見するが、とすると、正義さんは景川のもとにも足を運んでいたのかもしれない。正義さんの志野焼きの深い味わいは、まさしく景川そのものだ。正義さんの陶の本質はそのあたりにある。
 
 織部と志野、日本の陶器の美意識を代表するこの2つの焼きものは、日本が生み出した発明の中でも冠(かん)たるものだ。21世紀、日本はこの美意識を武器にして世界の文化の潮流に臨(のぞ)めばいい。だが、この日本が生み出した文化を深め磨くのは至難なことも又確かだ。 
 加藤正義さんが見つめようとしたものは、この桃山文化の日本の精粋(せいずい)を謙虚に学び、受け止め、それを魯山人の言う日常生活の中に生かす工夫を凝(こ)らす、ことだった。この問題の持つ意味は深い。 
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