続・僕の風景  人と絵と放浪と
文・絵 宇野マサシ
陽のある風景
( F 3号 )
出生 (母と僕と) / '04年6月11日号掲載
 僕は母から生まれた。あたりまえの事だ。だが、あたりまえの事が僕にとっては重い。 
 母は静岡県藤枝市で生まれ、1才で養子に出された。くわしく書くと、小畑菊蔵(きくぞう)、り恵の長女として生まれ、り恵の父飯塚鎌太郎の養女となり1才で平岡しなの養女となった。生まれてすぐに、2度養女に出された、ということだ。
 母の出生を知ったのは僕が40歳を過ぎてから、ふとしたキッカケで知った。別段それが、どうこうということではない。あるがままのことだ。ただ母はそれから人の愛情を沢山受けずに育ったのではないか、と僕は思う。事情もあったには違いないが、あちこちの家を廻され、3度遊廊に売られた。孤児のようにして育った。母は自分が孤児であるという自覚は持てなかったと思う。母の哀しさはそこだった。
 ただ、あるがままに生きることを受け入れた。 

 人間の生は淋しいものだ、と言ったのは稲垣足穂だ。人が生きてゆくのは淋しい。それが基調で、その上に色々な彩(いろど)りがある。色取られた後の諦観(たいかん)、母の死はそんな色をしていた。温徳院釈尼諦観(たいかん) たい、という名前だった母に与えられた戒名は偶然かもしれないが、そうなっている。

 母は、僕を生む直前まで久岡町の炭鉱で働いていた、と言った。それは一寸無理かもしれないが、僕が生まれた頃、両親は炭鉱で働いていたのは事実だ。戦争直後の皆んな貧しい時代だった。酒で身代を無くした祖父のお陰で、僕の家には土地が無かった。人の家の土地と家を借りていた。農村で土地を持たないということは、首が無いに等しい。父も母も炭鉱で働き、炭鉱が閉山すると、父は土方に、母も土地改良の肉体労働や、やがて身入りの良い病院の付き添い婦になった。祖父は30代から、村の歩(ある)きさ =歩きさん、村の小使いのような役= をしていた。 
 
 小学生から中学生、高校生と、僕はいつも母が、病院から帰ってくるのを待っていた。1週間の時もあれば、2カ月、3カ月と帰ってこない時もあった。 
 夜中にタクシーで帰ってくる時、母の両腕には見舞客が持って来た患者の、土産物が沢山下げられていた。母の顔と沢山の土産が、長く待ったその夜の家を賑(にぎ)やかにした。
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