続・僕の風景  人と絵と放浪と
文・絵 宇野マサシ
豊田の道(デッサン)
1975年

母の忘れもの
/ '04年6月25日号掲載
 母が自分の両親のことを認識したのは何時だろう?僕がそのことを認識したのは、母が70才を過ぎてから、僕が40才を過ぎてからだ。僕は母が32才の時の子供だ。 

 小畑菊蔵、り恵という母の両親、僕の祖父、祖母にあたる人の名前を母の戸籍で確認した時、頭が一瞬空白になった。祖母(母方の)の名前はたしか梶田(かじた)しな、のはずだった。 
 つまり戸籍の上では、母は小畑菊蔵、り恵の長女として生まれ、すぐり恵の父飯塚鎌(かま)太郎の養女となる。1才をすぎてすぐ平岡しなの養女としてもらわれる。この平岡しなが、僕の知る梶田しな、祖母だ。
 母の生い立ちが、この辺りで見失われた、と想像がつく。平岡しなにもらわれた母が梶田しなの手許に戻される前に転々と人の家を渡り歩いたのはこの時期だ。京都の遊廊で「おまめ」をし、新京極あたりを屋台で誰かに手を引かれながら歩いていた。そして大阪の尼ヶ崎にもらわれていった。母の記憶は尼ヶ崎の町にくわしかった。
 小学生の時に、名古屋にいた平岡しなに呼び戻される。平岡しなは、梶田しなになる環境を築いていた。がまだ囲われ者だった。平岡しなが主人となる人に気を使ったことは容易に想像がつく。母は女中見習いのように扱われた。あまり不満を言わない人だったが、母は小学校でのことを、友達と遊べなかったのが辛かった、と言った。母は時間を見つけて公園で1人で遊んだ。
 
 母が見失ったものは一体何だったろうか?母の忘れものは一体な何だったろうか。
 母の運命は、その当時の日本ではよく見られた風景かもしれない。社会の底辺ではあちこちにあった風景かもしれない。だが僕にとっては、一人の運命にもてあそばれた淋しい少女の環境、それが自分の心理を形づくる原風景として心の奥底にあることを、今の年にして気付くのだ。僕の原風景は、母の見た風景なのだ。
 
 僕にはもう一つ気になることがある。父、宇野幸一(こういち)が生前、僕が30才になった時、「今、言っておきたいことがあるから、ここに座れ!」と言った。何事かと父の前に座
ると、「お前は俺の子供ではない。俺は若い時睾丸(こうがん)炎になって子供を作ることが出来なくなった」と言った。
 この時も又、僕は自分が父に何を言われているのか、頭の中が空白になった。では、僕は一体誰の子供だろう?
 母はその時、台所にいて何かを洗っていた。
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