続・僕の風景  人と絵と放浪と
文・絵 宇野マサシ
宮口町風景
( 6号 )
母の生涯(父と母) / '04年7月2日号掲載
 僕は父が好きだった。素朴でやさしく、人にお世辞など決して言えない、その代わり言葉少なにズバリと本質的な事を言うので、周りが時々驚いた。そんな父が好ましかった。庶民の中にこうしたタイプの人が時々居て、僕はこうしたタイプの人が好きだ。
 父が僕をどれ程可愛がって、死ぬまで僕の人生を心配していたかは僕自身が痛いほど知っている。   
 高校を中退し、幾度も離婚を繰りかえし、人と衝突をして、波風の静かな日々の少ない生き方を、
 「早く絵を描くことなんか止めろ」 
 そんな言い方で戒めた。本当に優しい人物だった。
 そんな父の、お前は俺の子供ではない、という告白は、僕にはこたえた。今まで知らなかった人生の複雑さ、淵を覗くおもいがした。 
 なぜ、父はそんなことを言ったのだろう。
 
 今年の1月は母の3回忌をした。父が死んで20年になる。今、父と母は一つの墓の中に居る。生前の葛藤、愛憎も時間の彼方に消えている。もう2人ともゆっくり休んでいる。 
 母に、
 「僕は誰の子?」
 と聞いたが、遂に母は何も言わずに逝った。
 「立派な人の子供だ」
 それだけが母の残した言葉だ。それだけでいい。
 母はともかく僕をこの世の中に生み落としてくれた。生きて育ったのは僕1人だから、母のたった1人の血の結がった時間の継承者だ。そのことを重く受け止め胸にしまっておけば、母もきっと満足のはずだ。 
 
 母が豊田市宮口に住んだのは何年になるのだろう? 戦災で焼け出されて、名古屋から父の実家に来たのだから、昭和21年のはずで、僕の生まれる前の年だ。それから84才までいたとすると、53年間、ほぼ3分の2の人生を過ごしたことになる。後年、74才まで病院の付き添い婦として30年間働いていたから、本当に働きっぱなしの生涯だった。
 こうした母を僕は誇りにおもう。植物人間状態の患者に20年ついて、その間幾日家に帰って眠ったろうか。でも、そうした暮らしが、母には一番落ち着いたのかもしれない。
 そうして稼いだ金で小さな家を建て、74才から10年、自分だけの家で母は生活した。
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