続・僕の風景  人と絵と放浪と
文・絵 宇野マサシ
旧中川風景
( F12号 )
 都会の底の川
(新宿、赤坂、多摩川)
/ '04年9月10日号掲載
 僕が画家になろうとして上京したのは19才の秋で(1967年)、場所は新宿区東大久保、抜(ぬ)け弁天の下のあたりだ。そこに今でもある「新宿美術研究所」で上京した翌年(1968年)1月から石膏デッサンをはじめた。教えに来ていたのは山口武男(やまぐちたけお)と麻生三郎(あそうさぶろう)という武蔵野美術大学の2人の教授だった。井上長三郎(いのうえちょうざぶろう)という名前も看板には書かれていたが来てはいなかった。
 僕はその頃、玲子さんという5才年上の女性と結婚していて、彼女は上京するとすぐ、赤坂のキャバレー「ミカド」にホステスとして勤めた。彼女の基本日給は2千円で、指名料が上乗せされて収入になった。指名をとるのはホステスの腕次第で、何百人もいるホステスの上位の人たちは超高給取りだった。スカルノ大統領夫人になったデビィさんもこの近くの店でホステスとして大統領と出会ったはずだ。
 僕は昼間新宿美術研究所に通い、夜はコック、バーテン、映画のエキストラなどのアルバイトを転々とした。今でいうフリーター。勤め先は新宿界隈(かいわい)が多かった。 
 東京という都会の夜は、20才の僕にとって蠱惑(こわく)的な魅力にあふれていた。店帰りのホステスと連れの客で賑(にぎ)わうサパークラブ(今のスナックとは違う)の給仕(きゅうじ)の仕事は、華やかに見える人々の生活の裏側に性の臭いと生活の臭いとがない混(ま)ぜになって、どことない物悲しさを感じさせた。東京という大都会には物悲しさが貼りついていた。
 
 映画のエキストラにいったのも20才の頃で、住まいの近くのビルの窓に貼られた募集の紙を見て面接にいった。
 派遣されたのは、新宿から京王線に乗って多摩川にある日活や大映の撮影所、あるいは直接撮影現場のロケ地へ電車、バスに乗って、その日の仕事仲間2,3人といった。田宮二郎主演の喜劇「泥棒学校」、江波杏子の「女賭博師」、勝新太郎の「燃え尽きた地図」など、役柄は大学生の通行人、警官、土方など様々だった。エキストラはその日払いの気楽な仕事だった。それは異世界、芸能界に少し触れた気分に僕をさせた。
 
 エキストラも深夜サパークラブの給仕も、僕の目には、都会の底を流れる川の、華やかさと物悲しさの入り混じった、どこか共通の風景のように見えた。
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