続・僕の風景  人と絵と放浪と
文・絵 宇野マサシ
平井の家並
見えざるもの (新宿)
/ '04年10月1日号掲載
 僕がアルバイトをしていた1968年頃の新宿の街は、駅前東口にヒッピィーと呼称された若者が集まり占領し、ヒッピィーまがいの少年、少女までが家に帰らずに明け方まで踊り歌っていた。酩酊していたのは都会であり、又都市という社会であり、学生達も又1960年安保闘争からのイデオロギーの錯綜に酩酊していた。 
 若者たちが酩酊し易(やす)い社会というのは健康なのだろうか、不健康なのだろうか?ただ、そうした状態の中から状況劇場や天井桟敷といった野外劇は生まれてきたし、新しい価値観を見出そうとする人達が新宿の街をうろつき回っていたことも事実だ。三越の裏通りにあった「風月堂(ふうげつどう)」にゆくと、そんな人たちに出会った。今の新宿の風景に比べ確かに街は熱かった。 
 僕はそんな町の片隅で、地方から上京したての好奇心を抱きながら、油絵の基礎を学ぶのに精一杯で、アルバイトの店のカウンターの中から酩酊する人々を見ていたが、自分が酩酊する余裕も仕方も分からなかった。
 
 25年経って、1回りしたように僕は又新宿、大久保に住んだ。「風月堂」も無く、「ピット、イン」も僕のアルバイトしていた数軒の店も後片もなくなり、歌舞伎町の真中にある「王城」も建物だけを残してカラオケ屋に変わっていた。
 僕の毎日の作業は、自転車に乗り絵のモチーフ(主題)を見付けて描くことだが、25年ぶりに帰ったで、僕の目はやはりなつかしい風景を探して歩いているのだった。
 目の中の記憶は、現実と記憶を峻別(しゅんべつ)しようとして働き、記憶を呼び戻す。僕の絵の制作はそこから始まる。
 
 絵を描くということ、目の前の何かを写しとろうとする意志とは一体何だろう? 自分の内部に向かって何を探れというのか。色彩、形、そして言葉。
 以前読んだ稲垣足穂(いながきたるほ)の本の中に、「見えざるもの、あらわにぞ見ゆる。見ゆるものの内にこそ。しかして、見ゆるものの内には、見えざるものの跡のほかには何ものもあらじ。」という文があった。
 この一文は僕に何かを示唆し心の中に深く収蔵(しま)わせた。
 新宿の街の風景は、25年前の記憶と現実の狭間で揺れて、僕の目に届いた。
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