続・僕の風景  人と絵と放浪と
文・絵 宇野マサシ
「常磐線の見える風景」
( F15号 )

書と言葉
/ '05年2月4日号掲載
 書(しょ)と絵画との結びつきは、日本の洋画史の中で真剣に考えられなければならない問題だ、と僕は思う。墨の芸術、書は、ルオーにもフォンタナにもミロにも影響を与えている。そして日本の浮世絵はゴッホ、ゴーギャンに影響を与え、東洋的な文化が近代西洋に及ぼしたものは決して少なくない。にもかかわらず、明治以後日本の美術はひたすら西洋的なものばかりを見続けた。西洋的リアリズム、写実に驚嘆した精神はそのまま西洋の模倣という道を辿(たど)った。それは油絵、日本画を問わない。ヨーロッパで目まぐるしく移り変わった、そしてアメリカに敷衍(ふえん)した美術の流れを追いかけ続けた結果、日本の美術は何か、模倣美術のようなものになった。精神的けじめがつかなくなってしまった。美術だけに限らず、おしなべてけじめのつかない文化風潮の中に現在の日本は置かれている、と僕は思う。 
 けじめがつかない、というのは一体どういうことか。自己の主体的価値観を持ちえない、ということが1つ。行く先の方向が定まらない、ということがもう1つ。そうしたことは自己を喪失することに結がってゆく。自己の喪失感という疾病(しっぺい)が現代の日本の病状である、そうではないと誰が言えるか。僕自身を含めて。
 
 文化ということになれば、その主たるものは言語、言葉というものが人間の生み出した人間自身の為の最大の道具ということになる。この人間の発明物はあまりに人間そのものに密着しているので、まるで空気を吸うように当たり前に使っているが、文化を規定する最初、そして最終の規範だ。
 書という芸術、文化はその言葉の上に乗って生み出された中国を源流とした文化圏の産物だ。東洋(*西洋と対比して)の人間の智慧(ちえ)の固まりといっていい。日本の文化の流れの大本に横たわるものとして書は存在する。いわば故郷のようなものだ。それは言葉と密着して機能する。書という芸術にとって大切なことは言葉という道具があって後その存在が出現した、そこのけじめこそ見間違ってはならない、と僕は思う。そこのけじめさえつけておけば、日本人にとってこれほど利(り)しやすい芸術、文化的産物は他に無い。 
 それ程便利で有利な産物を手にしながら、それを最大限に日本人は活用しているかというと、話は別になる。明治(*時代)以後、鎖国を解いた日本に西洋の文化、思想は洪水のように流れこみ、大本の文化を古い着物のように洗った。古い着物は中国、朝鮮という母なる国で、その源流をないがしろにした時、書という芸術も又衰退の運命から免れえなかった。
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