続・僕の風景  人と絵と放浪と
文・絵 宇野マサシ
「少女」
( F 10号 )

明治初年
(宮島大八と小川芋銭)
/ '05年2月11日号掲載
 日本の国の思想の流れがどんなであるかについて僕はつまびらかには知らない。が、明治という時代、それ以後、国の在り方、歴史が画然と変化し、区別されたということは明白に分る。 
 絵画でいえば、西洋的合理主義に基づいた遠近法がとり入れられ、西洋的リアリズム(写実主義)が決定的影響をもたらした。日本人の視覚が変わった 
 変わったのは視覚だけではなく、最も大切な言語に変化がおきた。"書"(しょ)という芸術にとって、その根幹を揺すったものは実は言語の変化だった。
 中国の文学である漢詩、それを日本化した和歌や短歌、そして仮名文字といった言語に囲まれていた日常生活が、様々な西洋の言語文化が入ることによって質の変化がおきた。例えば「論理」という言葉を広辞苑でひくと、論理学、明治初年、西周(にしあまね)の訳語、と書かれている。西周(にしあまね)という人は西洋哲学を日本に紹介し論理という言葉を作り出した。僕達が現在普通に使って会話するこの言葉1つが持つ歴史はまだ139年間でしかない。
 
 明治という時代が現代に持つ意味は大きい。それはプラスの面でもマイナスの面でも嫌応なく現在の日本を規定している。
 明治初年の生まれで小川芋銭(おがわ うせん)という画家がいる。もう1人その前年、慶応3年の生まれで宮島大八(号:詠士)という書家がいる。僕はこの2人の先達に興味がある。
 宮島大八は勝海舟にすすめられて中国の文化を学ぶために10代で単身中国に渡り、清の大学者 張廉卿(ちょうれんけい)の内弟子となって文学、歴史、そして書を修める。日本に帰国して29才で東京帝国大学の教師になり中国語と漢学を教えた。明治時代に中国を最も深く理解していたのは宮島大八だった。ヨーロッパ、アメリカという西洋の文化、文物を取り入れるのに必死だったこの時代の日本の中で、宮島大八はひたすら中国の文化を学んだ。
 小川芋銭は外国に留学するということはなかった。日本の国内で学べる入りたての西洋画(油絵)や、そして従来の水墨画を自分のものにしてひたすら日本の伝承や民話を描いた。その象徴として河童(かっぱ)を実在のものとして表現した。もちろん日本の大本としての漢学に造詣深かった。宮島と小川という2人が最も良質の明治の日本を見据えていた、そのどちらも自らの良質さを日本の根である漢学に求め、西洋の方向に求めなかったということが、僕にはけじめのついた、けじめを身内にしっかりと維持した日本の思想家の姿と写る。2人の思想は現代の日本を撃(う)つ。
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