続・僕の風景  人と絵と放浪と
文・絵 宇野マサシ
「朝焼けの荒川」
( F 20号 )
宮島大八(脱亜論)
/ '05年2月18日号掲載
 明治の知識人の必須として書(しょ)という芸術がある。というより、明治以前の日本は中国の文化、伝統である知識人のバロメーターとしての書を自国のものとして文化の根に持っていた。その根の延長に明治という時代がある。宮島大八も小川芋銭も正統に自国の文化の根を体現し深める道を迷うことなく究めようとしたが、それがかえって異端になったところに明治という時代の屈折がある。 
 この屈折の事情を河上民雄氏(普段僕は河上民雄先生と呼び、そう思っているが、この連載の中では氏と書く)に幾度か質問すると、明治時代の思想の流れの中に勝海舟と福沢諭吉との対立があり、福沢の脱亜入欧論が世論を舞い上げていったことを指摘(してき)された。脱亜入欧論というのは中国、李氏朝鮮という古くからの親しい国を古きもの、遅れた国家、民族として捨て、西洋を新しい日本が学ぶべき手本としなければならない、という考えだ。屈折はここに始まった。屈折は今でも屈折のままだ。 
 鎖国を解いた日本が撓(たわ)められた矢が放たれるように世界に向かった時、西洋を目指し、自らの母胎の中国、朝鮮、アジアを古着のように取り扱った思想の流れは幸福なことではなかった。日本の国の形が歪(いびつ)になった。 

 宮島大八という典型的な明治人を書の流れの中に置いてみると面白い。
 21才、明治20年に中国に留学した宮島は、清(しん)の学者張廉卿(裕●(ゆうしょう))に教えを乞う。張廉卿に憧れたのは、その詩文と書体が若い宮島を魅了したからだが、宮島が生まれ育った環境が出羽(山形県)上杉藩の祐筆の家柄であり、父親の宮島栗香は幕末の日本の中でも特に優れた漢詩の書ける人だった。宮島栗香と勝海舟は気が合い、親頼しあった関係だった。勝海舟は宮島栗香の漢学の素養を高く評価していて、中国との国交の責任者に栗香はなった。その子息大八は栗香が目を細める程の英才で、いち早くその才質を見抜いた勝海舟は、大八の中国留学を強く奨(すす)めた。横浜から中国に旅立つ21才の大八を勝海舟は見送りにきた。
 明治という時代の曙(あけぼの)の風景を具体的に想像する時、大八が旅立つこの時の情景が僕には浮かんでくる。ここまでの日本は僕には明るい。
 英才を持った若者、宮島大八が目指した中国は、唐の都に繋(つな)がっている気が僕にはする。  

●→金ヘンにリ

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