続・僕の風景  人と絵と放浪と
文・絵 宇野マサシ
「残雪の町」
( F 20号 )
宮島大八、二(書道界)
/ '05年2月25日号掲載
 明宮島大八が張廉卿(ちょうれんけい)の元から持ち帰ったものを、日本の書道の流れの中に置いて考えてみたい、と僕はずっと思っていた。何故なら、現在に直接続く明治からの書道の流れの中で、宮島大八の功績が途切れ、異端に見えるからだ。その不思議さは一体何だろう。
 幾つかの話が残っている。明治の書道界を風靡した比田井天来(ひだいてんらい)は、自分が年長にもかかわらず、中国に単身留学し碩学である張廉卿から直接書法を学んだ宮島大八に教えを乞(こ)うたが、宮島は断った。宮島自身、張廉卿からはこう学ぶべきという教えられ方はしていないから、教え、教えられるということ自体が矛盾であった。が、このことは多くのことを示唆する。
 宮島が張廉卿から学んだものは、人に頼らずに自分で学問を究める方法であって、学問の本質とはそういうものである、ということこそ辛苦を舐(な)めた年間で骨の髄から師に教えられ受け取ったことだった。いくら年長で先輩の比田井天来に乞われても、それは教えようがなかった。そうした本質的な中国での宮島の学問の成果、書法が日本に植えつけられるのに、慌ただしい明治時代の日本は土壌(どじょう)を用意できなかったのだ、と僕は思う。明治という時代は沢山のものを持ち込み受け入れたが、沢山のものを落とし失った時代でもあった。もし宮島大八が命懸(いのちが)けで張廉卿から学んだものをしっかり受け止めることができたら、日本の精神風土は少し変わっていたかもしれない。そのことは書道界において言える。明治以後、書道界は日下部鳴鶴、 比田井天来を中心にして広がった。

 宮島大八に直接教えを受けた書道家、という人が最近までいて、何千人という弟子、孫弟子を擁(よう)し大派閥(はばつ)を成していた。その先生は弟子にきっと何万枚もの手本を書いただろうが、宮島大八は一枚の手本といったものを書いたことがないから不思議だ。その先生の弟子が宮島大八の書を見ると、
 「この人も上條先生の弟子ね。よく似ているわ。」
 と言う。泉下(せんか)の宮島大八がどんな顔をするのか、と一寸想像してみたくなる。宮島大八の書法、教えは、今そんな風にして伝わっている。これは正しくは、伝えられているとはいえない、と僕は思う。
 
 宮島大八は張廉卿から「張猛龍碑」を徹底して学べ、と教えられたという。この石碑が宮島大八の手本、師だ。
目次
TOP