続・僕の風景  人と絵と放浪と
文・絵 宇野マサシ
「歌舞伎町の夕暮れ」
(サムホールSM)

書道界
(無私について)
/ '05年3月4日号掲載
 今年(2004年)、時代は目まぐるしい。イラク戦争の一区切りは、アメリカのいかがわしい政治目的を顕(あら)わにして隠しようがなく、行ってしまった重大な行為責任を歴史の眼は哀しげに見ている。
 北朝鮮という来年60年になるという国家の命運も急に慌ただしい。その中で、先月の「朝まで生テレビ」の天皇制の議論が興味深かった。ことは雅子様の疲労と世継ぎ問題で、女帝による天皇制の維持の賛否とこれからの天皇制のあり様を各々が語って問題の本質が浮かび上がって見えた。終わりに近く、漫画家の小林よしのりが一息に話した見解が印象的だった。司会者が、「ところで小林さんは天皇制に賛成ですか、反対ですか、」と聞くと、小林は言った。 
「わしは賛成です」
 何故なら、と小林は伊勢神宮の神事の様子を語り、伊勢神宮では毎日、火を起こすことから始めて米を炊き祈りを捧げる無私の神事を行っている。伊勢神宮の神事と天皇家の神事は無私という精神で共通する。そのことによって日本という国の精神のバランスは保たれている、故に賛成なのだ、そこに集った論者達はその時一瞬シンとした。
 ある意味、それは正鵠(せいこう)を射ていた。
 無私、という言葉が僕につきささってきた。無私、という存在として天皇家が規定されるとすると、この観念に対する概念は何だろう?
 僕は長く、日本の差別のおおもとは天皇という特別な存在に由来すると考えてきたし、その考えが今変わることはない。だが、無私という存在が現にこの国の形としてあるとしたら…。
 
 書道という日本の良き文化、伝統におもいめぐらす時、風土を潤わせ恵みをもたらすこの人間の智慧(ちえ)の集積はどこかで、無私というものと結がってこないか。いや、きっと結がっている。
 それにしても現代の書道界という妙なヒエラルヒーを持つ集団のいかがわしさは鼻持ちならない。16才でその世界に身を投じ、現在まで見聞きする書道界はまるで宮島大八や小川芋銭が手にした書というものとは別世界なのだ。一体何が違うのだろう。それは無私という精神によって違う、のだと思う。
 僕には体験がある。それもまだ一昨年のことだ。書道界の偉い人からある展覧会に僕の作品と一緒に作品を並べたくないからと、いうなら不出品を要請される、ということがあった。僕の絵と、その偉い書道家とは別の世界で生きているから理不尽なことで僕は抵抗した。だが、現在の書道界というものがその時僕には垣間見えた。
目次
TOP