続・僕の風景  人と絵と放浪と
文・絵 宇野マサシ
「汐入の店」
(F8号)

佐藤清三郎
/ '08年09月05日号掲載
 「タイホー」と同僚からあだ名で呼ばれていた佐藤清三郎は田部の六才年下、小島一弥の二才年下である。一九二六(大正十五)年に新潟貯蓄銀行に給仕として採用された。
 彼は読書家で社会科学系の本も多く読み梁山泊の集い、講座には欠かさず顔を出していたが、その風貌性格は、
 「密生した硬そうな頭髪、濃く太い眉、窪んだ悒鬱(ゆううつ)な光を湛えた眼、肉厚な鼻と左上方に黒子のある唇(くちびる)、蒼い冴えない顔の色。」
 そして、
 「絶えず脅かされてでもいるかのような、時として卑屈とも誤解されかねない。内向性であるが、素朴で腰を据えた性格 ー 」(大山敬三素描)
 大柄で肩幅が広く骨格が逞しいにもかかわらず、何となく巨木の空洞を連想させる。その彼は誰よりも絵を描く才能を持っていた。
 小島一弥は回想の中で、
 「私にいろいろ画のことを啓蒙してくれたのは彼(佐藤清三郎)であった。彼はミレーが好きだったらしい。」
 と書き、佐藤清三郎がよく話題にした名前は、レンブラント、クルーべー、ドラクロア、マネー、セザンヌなどであった、と記している。
 佐藤清三郎は梁山泊の集まりの後、自分の描いた絵を仲間に見てもらっていた。それは銀行への出勤途中に見かけた街の風景、情景や自画像、自宅にある鉄瓶、休日に出かけた郊外風景、夏の暑い陽射しや霙(みぞれ)の降る手のかじかむ冬の新潟市近郊の生活のスケッチだった。
 僕がはじめて佐藤清三郎の絵を田部直枝の自宅で見せられた時、直感的に思い浮かべたのはゴッホの素描である。
 絵の描き方というよりも何か本質にゴッホを感じた。という言い方はすぐに西洋の絵画を引き合いに出す日本人の悪い癖かもしれない。そういう癖は佐藤清三郎の絵を正確に見る障害になるかもしれない。彼が時間を惜しんで描いた風景、人物、静物、自画像は、その時代の新潟の空気を捉えていることによってただ対象を描く絵を越えて、清澄(せいちょう)な詩情を湛(たた)えている。清三郎が天性の画家の資質を備えていたのはそこである、と僕は思う。日本の原質を描きた
い、そういう絵画を目指す僕にとって佐藤清三郎の絵は羨(うらや)ましい絵であった。クレヨンで色彩された清三郎の新潟駅近くか何処かの屋台を描いた提灯(ちょうちん)の絵の赤が、僕に昔の豊田駅前の屋台風景を思い出させ、その美しさが未だに僕の目に焼きついている。
  
 小島一弥が梁山泊の部屋に清三郎の絵を掛け、佐藤哲三の「柿ヲ持ツ女」(国画会展出品作)を掛けていたその部屋の空気が、文化運動の基になっていった、と僕は思う。
目次
TOP