神越川の宮條豊サ
(平成17年8月5日号掲載)
 足助東部の旧賀茂(がも)村の集落では、人名のあとにさんでなく、コウ・シュウ・サ・チャを付けて呼ぶところがある。各々順のランクづけで、その人の人望・品性が出ているようにおもう。
 田ノ士里(たのしり)の宮條豊サは長身で、背すじもビシッと決まり、界隈一の美男持男に加えて相応の山持ちだ。こよなく山を愛し林業一筋に生きた経済人であった。奔放さと優しさを兼ねそなえた村おこしの達人でもあった。
 昭和30年代後半、加茂郡域の山村の働き手は、全国の山村に先がけてトヨタ自動車のブルーカラー化し、山の暮らしと経済の変革がはじまった。同じくして山を求めるレジャー人口増に応え、栗狩・民宿・バンガローや郊外飲食施設が乱立する。
 ここ御内蔵連(みうちぞれ)でも霊峰段戸山系の清冷水の流れる神越川(かみこしがわ)を利用し、渓流マスつりに活路を求めた。郡・県有林の山仕事に携わっていた壮年七人衆はトヨタ行きを止め御内小学校周辺を位置選定し、豊サの全面支援とタムシバ群生の3ha余の山林提供を受け、養殖池・食堂・民宿施設の大規模投資で68年オープンとなる。以後40年県内の同種事業の廃業の中にあって、神越は若手に経営移譲され、健在だ。
 豊サの功績はこれにとどまらず、神越川沿いの県道全面改良と広域農道の開設にも抜群の政治力を駆使し、経営の持続を可能にした。今春には、閉校の御内小を鼎工房として保存的再生し木工芸の技術者集団を迎えて、三しか文化(いま・ここ・これ)の場となった。
 小生はこの経過を見守ってきて、豊サの猪の腹料理、クマバチの焙烙いため、持山から獲ってきた松茸焼きなどの、忘れがたき山の美味を教わった。
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