金は出すも口は出さない
(平成18年3月3日号掲載)
 人は美しい風物や良き人との出逢いに感動し、生き方を学ぶ。今もその連続であるが、私の役所ぐらしで出逢いの第一人者は、現存なら95歳、80歳で旅立ちした太田績さんだ。足助役場に16歳で奉職、47年から30年も万年助役に甘んじ、3代目町長(71年〜79年)を勤め79年退陣された。
 服装もかまわず腰手ぬぐい、風呂敷包みを抱え、足早やに町並みを抜け役場に入る。早い出勤時には風通しよろしくと窓を開け、赤蜂に刺され顔を腫らしたり、灰皿を片付けることもしばしば。町長室でコッペパンをかじる、昼食姿もなつかしい。
 ある時香積寺参道を歩く町長の後を付けた。ごみはもちろん、タバコの吸いがらもポケットに拾う。自然体だった。松井県議一期当選の頃、負け組の癒しでバイカル湖行きの先達として、許しも得ず旅をした。帰国後に呼ばれ、とどめの説諭と想いしや、観光係の内示を受けた。
 当時は机上の仕事は少なく、香嵐渓のゴミ処理、桜の古木切り、杉桧の枝打ちや、秋の有料駐車場対策にとり組んだ。8年来プールされた駐車料金を糧に「むかし家」や草葺き民家づくり、町並み保全事業が進み、金は出すも口を出さない太田績さんの親分肌の優しさを両手にうけた。53年に国の農村構造改善事業の7割補助が決まり、足助屋敷建設の議会採択となった。この補助残は駐車料金のプール資金の丸投げでまかない、経営も独立採算が前提だった。
 ゴーサインは嬉しかったが、走りながら方向を定める小生のこと、先輩や仲間に多くの助けを戴いた。25年持続した生きた民芸館「三州足助屋敷」は建築の美は増すも、内容の革新に頭を痛めることしきりだ。
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