| 風土が培ったDNA遺産 | ||||||||||||
| (平成18年8月4日号掲載) | ||||||||||||
| ディスカバージャパンの走りの75年、今も人気のある日テレ「遠くへ行きたい」で、中馬街道の取材をお手伝いした。近年はやっつけ取材が多いが、当時の劇団四季のディレクターは、三嶋屋4泊で取材をした。 記憶に生々しいのは、旅をする日下武史の笠置山守備軍の総大将(太平記)の下り”三河国の住人、足助次郎重範かたじけなくも後醍醐天皇のたのみよって一の木戸を固めたり”の語りであった。強弓の効なく落城し、天皇は隠岐流し、重範は京の六条河原で露と消えた。6百余年前の古の足助の歴史的人物だ。 南朝勢の楠正成も無礼講の倒幕の会合に馳せ参じた仲間であったことから、追われの身。南朝の末期に血筋の正李一族は重範を頼って足助入りをし、隣の野口で姓を野口と改め隠棲したと伝えられる。 ときあたかも03年野口雨情の孫の不二子さんの来訪を受けるところとなる。こんな契機からか野口区長の小出勝氏は、わが黍生城のしやくしやく姫まつりに併せて、電車の旧鉄道敷に雨情の代表作の「七つの子」の歌碑を建立、この年豊田文化センターで24人の野口集落民総出の雨情コンサートを成功させた。雨情は香嵐渓命名の昭和のはじめ請われて足助入りをし、足助音頭(南風吹けばチョイナ)の作詞をした。 この時三嶋屋で、雨情が扇に詠んだ「春風に恥ずかしそうによびかける、お前は春の鶯さん」を拝借し、香積寺山門脇に足助観光協会創立50年碑(04年)を除幕した。おもうに観光による村おこしは一朝一夕のイベントではなく、風土が培ったDNA歴史遺産の上に成立するものでなくてなんであろうか。 |
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