山村野菜の産地を形成する
(平成18年9月1日号掲載)
 その昔、足助の三大地場作目は漆・養蚕・木炭であった。私が役場入りした後の頃から、それは山村野菜に代わった。ピークはS30年後半〜40年前半で、足助町の一般会計に近い2〜3億円を枇杷島市場に出荷をする、全日本的な「村おこし事業」であった。この出荷帰りの早朝、赤池の塚本食堂で朝飯を食い、奴豆腐や一切鯖でコップ酒呑んだ記憶は生々しい。
 さて、この農林省指定産地「東加茂山村野菜」を確立した仕掛け人は、東加茂地方事務所経済課長杉山静金氏だった。保見村の出で15年来同一職責であった松平の中根係長を番頭として一世を風靡した。
 氏の着眼は阿摺村北小田の洞畑に育つ、きめ細やかな真っ白な美濃早生夏大根にあった。名市場の動向から、いかに売るかを農協の幹部に説き、適地適産の技を農業改良普及の技師に伝え、一元化した推進体制を組織化した。この卓越した度量の人は、男ぞ惚れ込む美男の大先輩であった。
 甘藍、いんげん、四つ葉きうりの一大産地が盛岡村を軸に形成された。課長の乗るメグロ500ccの単車の響きは大島林院長の車と共に憧れの音であった。想いは秋の収穫決起大会あとの、三嶋屋での足助芸者総上げの反省宴におよぶ…。
 売り上げは今換算で略そ40億円。それが数年を経ずしてマイクロバスでのトヨタ通勤化。朝日新聞は足助を「都市近郊通勤山村」と命名した。いま農林地離れは経済の必然とされるが、せめて自分の食いものは身土不二で自給したいという、足助屋敷の理念も遠ざかってしまった。山里に住む豊かさを問い直す望郷の初秋である。
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