| 足助屋敷の動態展示から今を問う | |||||||||||
| (平成19年5月11日号掲載) | |||||||||||
| 朝日新聞の空撮報道で開館した三州足助屋敷は本年で27年が経過する。この年中部の十大ニュースのトップにとりあげられた。 自分の暮らしに必要なものは自分でつくる。足助の3S施策(スモール、スロー、シンプル)が転じて保存的開発の町づくりのスローガンとなり、足助ならではの手仕事館構想が決まった。 調べるうちに三河森下紙を最後に足助の手仕事はことごとく消えるを知る。土から離れ機械生産万能時代だが、五体で生むモノこそ慈しみと愛の原点との考えで、13の手仕事の主業を配すことにし、確実な当時の技術を持つ人を発掘するもさて! これら多くの人に報酬を支払う経営企画に及ぶや、一時は生きた技師の動態展示に代え等身大の人形展示も模索した。 佐渡の相川金山方式を調べる中で、新鋭のTEM研究所の眞島俊一所長を知る。彼は民俗学の宮本常一の自称一番弟子を名乗り、日野の自宅に近いこともあって氏の葬儀をとりしきったことも生々しい追憶だ。 そんなこともあり彼はホームグラウンドの佐渡の地域おこしに傾注し、小木のたらい舟と北前船で繁栄した宿根木の重伝建の立ち上げに尽力した。足助屋敷の動態博物館の最後の追いこみのシニア連の技師の活用方法と民具展示では、飲み食いだけの無償派遣の部下数人の2ヶ月の援助を賜った。集大成である入館の栞は圧巻ものとなり、この年の秋には日入館者5千人を記録した。 危惧した文化事業の経済的自立の基も築くことが出来た。無鉄砲さと強がりを補完してくれた多くの先輩同志に感謝し、いまなお「よき隣人との出逢いの持続を願う」古希の夕である。 |
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