本ものは風土で育まれる
(平成19年6月1日号掲載)
 1960年代マイカーブームの到来で、香嵐渓に多くの観光客が来訪する。まとまって2百人規模の昼食の提供がとりざたされだした。
 当時のPTA仲間の魚屋、酒屋、料理屋、ラムネ屋、薬屋の同年代5人の参画で、独立峰飯盛山の裏手の平場に、一の谷(民芸料亭)がはじまった。全5棟、大型の一棟を除いては全て廃宅農家の移築で草葺き、巴川の川風と相まって優しく固有の景観が現出した。
 春の山菜、夏秋のヤナ鮎、秋冬の猪、きじ鍋などで、界隈の模範格の料理配膳が確立した。料理の什器は瀬戸の民芸の大家『本業釜』の水野半次郎氏の用の美の作でまとめた。魚屋の魚九でさばきに磨きをかけていた若手の桜井啓三料理長を起用し、極み料理が功を奏し大繁盛となった。
 一の谷にまつわる逸話は数多い。草葺きの古建築の移築の美に人々が魅せられたのはもとよりだが、先の半次郎氏の援助も相当な肝入れであった。江戸後期の足助の豪商の手による唯一の幻の「眞弓焼」にも似て、手ざわりよく優しい彼の陶器は、地域では所蔵家も多く、なかんずく元町役の大河原静臣宅、竹村の岩月寿さん茶室の収蔵庫でみることが出来る。
 半次郎氏は洞の名刹宝泉寺とわが香積寺(曹洞宗)との縁もあって、四季の飯盛山の移ろい、町なみなどの大のファンであった。晩年もベンツの愛車で房子婦人(湯布院の中谷健太郎氏のワイフの姉)と共に足助入り
し、とくに伊勢神トンネル手前の美伊(うまい)屋の手打ちそばは、お気に入りであった。いまも半次郎氏家と足助のつながりは深く、中馬館きっての享保ビナは氏の所蔵品である。
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