| 直感的でシンプルな感性の人々 | ||||||||||||
| (平成19年7月6日号掲載) | ||||||||||||
| 重症の「町なみ病」に冒されていた1970年代の前半、日本の町なみ保存運動の火つけ人、朝日本社の木原編集委員の子分格の名古屋支社の石川忠臣氏は、有松の服部孫兵衛宅客間で昼寝をむさぼる遊軍記者だった。 彼が明治村学芸員松波女史(名大建築学)と共に足助に来た。彼女は中学の校庭で黒瓦・白壁の町なみを俯瞰し「このまま止まっていれば一級の文化遺産」とつぶやいた。 30年経過のいまどんな変化があるにせよ、目ざした“重伝建”保存もせず、中馬の面影を色濃く残すそれとして生活臭のある住人を含めて、特色ある街地を形成している。いまや中馬のおひなさん、夏のたんころりんの町として10年来、かつて旅人が行き交い、馬が嘶(いなな)いた時代のにぎやかさをとりもどした。 而うしてうら若き彼女らのおかげか、ハード面では栗一木の「栗の木茶屋」、桧や櫟(くぬぎ)を使った「桧・川見茶屋」も草葺き農家然で新築された。かつて足助の技と味を求めた人の石碑も、彼女の筆で一角にそっと佇む。 彼女の紹介になる十日町出身の稍大柄の色白の美女からも、足助屋敷の開館の染色、三河木綿の手ばた織りに、協力を賜った。いまはの釈迦堂近くの町家に工房を構え、正倉院の復元織りを手がける日本一流の工芸家だ。大口キミヨさんという。 こうした手仕事をこよなく愛した当時の若手工芸家に報ゆる術はなんであろうか。直感的でシンプルな感性と優しさの、原点を忘れずに持続させることにあると心に刻む。町なみも香嵐渓も豊田市の町づくりの核の位置づけで投資が進む。かけ言葉の行政と住民の共働作業。先人に恥じない保存的開発を切望する。 |
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