うまいものは手づかみで
(平成20年4月4日号掲載)
 メグロ360ccポンコツ単車をのりつけ、追分の盛岡農協の先輩の林営農指導員を訪ねる。薄暗い裸電球の宿直室で、酒宴たけなわであった。
 するめと一升瓶詰めの赤ワイン、裏の倉庫の木箱から持ち出されるこれこそ、柴田修一組合長自作の密ワインだ。なぜか氏は安城農試の技師から抜擢され、三好不良土開拓の先兵として、愛知用水前の村づくりで、ぶどう栽培を手がけた。その縁から市場出荷規格外で二次加工のワインづくりも得意としたのである。
 昭和30年前半から木炭に変わる換金作物は、抑制きうりなどの適地適産、産地形成になった。その技術確立や名古屋市場への出荷の夜談義、柴修門下生の夜な夜な講から、水稲電熱箱育苗、温屋の高冷シクラメン栽培もはじまった。
 この頃、三ツ足(みたち)国有林解放による栗団地構想が浮上し、時の永野勇明町長、林産業課長を筆頭に県庁通いが続く。開拓パイロット事業の全盛期で、裏谷開拓に敏腕をふるった時の県農地開拓課金井課長の下で60ha県営事業の採択を決定した。
 金井氏は昭和37年、1期生の派遣農業実習先のブラジル・サンパウロ州奥地のプ・プルデンテの400ha果樹農場も訪ねて頂いた。柴修プレゼントの8ミリ撮影機持参でタラップを降りたった、長身美男の金井氏の記憶は今も生々しい。
 柴修の教えは、美味いものは指先でふれ、感触の余韻で、手づかみで口にはこべであった。氏はこよなく酒を嗜み、深酒の早朝は夜明けに野良に立ち、則定では「夜明けの柴修」の別名もあった。昭和51年66歳亡、勲五等に輝く村おこしの大先輩であった。 
(足助観光協会会長)
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