他所者・馬鹿者・若者に期待
(平成20年8月1日号掲載)
 中馬道の要諦であった足助の町なみの衰退は、明治38年の中央線の開通が決定打になった。中馬のいななきと人いきれにあふれていたあの頃よ再び、と町の再興を願った大正末の深見町長は青年有志と共働で、飯盛山の杉桧を伐って楓(かえで)の成木を移植した。
 昭和5年野口雨情、大阪毎日の本山社長を招き香嵐渓と銘名、美しい景観づくりが進んだ。
 当時の町なみを支える村々の生業は三河森下紙、加茂炭、養蚕であったが、昭和30年後半から、それがトヨタ一辺倒の雇われ通勤に変わり、農林地を相手にしなくなってしまった。
 こんな状況の下での地域おこしについて、民俗学の宮本常一は「一次産業の乏しい村の危機」を訴えていた。その発想から「自分の暮らしに必要なものは自らつくる」足助屋敷構想が生まれた。画一的志向、都市志向を良しとする町には、地域資源、風土から地域づくりを企画・実践するような人材に乏しかった。
 たまたま近江八幡の「全国町なみゼミ」で隣り合わせた日観協の縄手君(現足助観光協会事務局長)の招聘に成功。彼の人脈から日本的人材の訪れるところとなり、足助の町おこしに拍車がかかった。
 箱物経営の改善もさることながら、カタクリの増殖、中馬のおひなさん等のソフト面も活気づき、塩の道、中馬の町としての事業展開が盛んになった。地域おこしはまさしく人材であり、なかんづく他所(よそ)者・馬鹿者・若者が大事であると認識した。観光の多様化の中で、個性的な地域文化を醸成し豊田圏一級の顔づくりに励む、足助公社の人材は二十余名が他所者だ。 
(足助観光協会会長)
過去の 随想録 TOPへ