| 続・僕の風景 ー 人と絵と放浪と ー | ||||||||||||||||||||||
| 文・絵 宇野マサシ | ||||||||||||||||||||||
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「西新井風景」
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(F3号)
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田部直枝と佐藤哲三
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| / '08年10月10日号掲載 | ||||||||||||||||||||||
| 田部直枝にとって白根民衆文庫と機関紙「民衆文庫」はそれまでの人生の一つの実りであったが、もちろん万事順調にいったというわけではなかった。同僚で仲間の佐藤清三郎は終戦前に逝(ゆ)き、白根民衆文庫の店をして重要メンバーであった長谷川杉郎(白根民衆文庫は杉郎の店「はせや」におかれていた)の養子、毅(つよし)が一九四七(昭和二十二)年に病死をした。八号までのうちに佐藤清三郎、長谷川毅の追悼特集を出さざるをえなかったことを田部は嘆いた。 一方白根民衆文庫が開く講座や学習会、講演会は活発で世界史、日本史、日本資本主義発達史、日本労働運動史、婦人問題、身分制度問題、天皇制について、インフレーションなどの学習会を講師を招いて開催し、性科学講座は青年層を中心に人気が高かった。性科学講座の講師は新潟医大の教授、助教授がつとめた。 講座と並んでレコードコンサート、映写会、絵画教室、文学研究会が開かれ、中でも絵画は「絵を描く話の会」と名付けられた。後年、田部が画廊をはじめるにあたって当初「絵を見る話の会」(後に「画廊たべ」と改称)とした元になった名前である。 この「絵を描く話の会」は田部直枝の人生に決定的な邂逅をもたらす。佐藤哲三(てつぞう)との出会いである。 昭和十六年、春近い雪降る新潟市で行きずりに出会った佐藤哲三は、同じ日、 小島一弥の家、梁山泊に掛けられていた哲三の作品「柿ヲ持ツ女」を見打たれて以来、田部にとっていつか会いたい画家になっていた。その思いは哲三の友人である銀行の同僚、小林茂、大山敬三から哲三の人柄や作品、ユーモアに富んだエピソード、子供達に絵を教える教育方法などを聞かされるうちに一層膨(ふく)らんだ。 佐藤哲三は一九一〇(明治四十三)年生まれ。小学校時代より特別絵の才能を発揮し、一九二七(昭和二)年第一回大調和美術展に出品するが落選。その結果に納得できずに上京し居合わせた梅原龍三郎に出会う。そして梅原の指導をうけた。その結果、佐藤は国画会に出品、華々しい活躍をする。梅原龍三郎が期待する国画会のホープとなった。梅原の一番弟子、池邊(いけべ)貞喜(さだよし)から僕はそのことを聞いた。 そんな佐藤が新潟の若者達の間でどんな存在だったか、僕は憶測をして静かに胸を弾(はず)ませる。 |
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